丘の白雲
大空に漂う
白雲の一つあり。
童、丘にのぼり松の小かげに横たわりて、ひたすらこれをながめいたりしが、そのまま寝入りぬ。夢は楽しかりき。雲、童をのせて限りなき
蒼空をかなたこなたに漂う
意ののどけさ、童はしみじみうれしく思いぬ。童はいつしか地の上のことを忘れはてたり。めさめし時は秋の日西に傾きて丘の
紅葉火のごとくかがやき、松の
梢を吹くともなく吹く風の
調べは遠き島根に寄せては返す波の音にも似たり。その静けさ。童は再び
夢心地せり。童はいつしか雲のことを忘れはてたり。この後、童も
憂き事しげき世の人となりつ、さまざまのこと彼を悩ましける。そのおりおり
憶い起こして涙催すはかの丘の白雲、かの秋の日の丘なりき。
二人の旅客
雪深き
深山の
人気とだえし
路を
旅客一人ゆきぬ。
雪いよいよ深く、路ますます危うく、寒気
堪え難くなりてついに倒れぬ。その時、また一人の旅人来たりあわし、このさまを見て驚き、たすけ起こして薬などあたえしかば、先の
旅客、この恩いずれの時かむくゆべき、身を終わるまで忘れじといいて情け深き人の手を執りぬ。
後の旅人は
微笑みて何事もいわざりき。家に帰らば世の人々にも告げて、君が情け深き
挙動言い広め、
文にも書きとめて後の世の人にも君が名歌わさばやと先の
旅客言いたしぬ。情け深き人は
微笑みて何事もいわざりき。かくてこの
二人は連れだちて
途をいそぎぬ。路はいよいよ危うく雪はますます深し。一人つまずきぬ。一人あなやと叫びてその手を執りぬ。二人は底知れぬ谷に
墜ち
失せたり。
千秋万古、ついにこの二人がゆくえを知るものなく、まして一人の
旅客が情けの光をや。
土 美わしき
菫の種と、やさしき野菊の種と、この二つの一つを石多く水少なく風
勁く土焦げたる地にまき、その一つを春風ふき
霞たなびき
若水流れ鳥
啼き
蒼空のはて地に
垂るる野にまきぬ。一つは枯れて土となり、一つは若葉
萌え花咲きて、
百年たたぬ間に野は菫の野となりぬ。この
比喩を教えて国民の心の
寛からんことを祈りし
聖者おわしける。されどその民の土やせて石多く風
勁く水少なかりしかば、
聖者がまきしこの
言葉も
生育に由なく、花も咲かず実も結び得で枯れうせたり。しかしてその国は
荒野と変わりつ。
路傍の梅
少女あり、友が宅にて梅の実をたべしにあまりにうまかりしかば、そのたねを持ち帰り、わが
家の
垣根に埋めおきたり。
少女は旅人が立ち寄る小さき茶屋の娘なりき、年経てその家倒れ、家ありし
辺りは草深き野と変わりぬ。されど路傍なる梅の
老木のみはますます栄えて年々、花咲き、うまき実を結べば、道ゆく
旅客らはちぎりて食い、その
渇きし
喉をうるおしけり。されどたれありて、この梅をここにまきし
少女のこの世にありしや否やを知らず。
(明治三十一年四月作)