一兵卒と銃
南部修太郎
霧の
深い六
月の
夜だつた。
丁度N
原へ
出張演習の
途上のことで、
長い四
列縱隊を
作つた
我我のA
歩兵聯隊はC
街道を
北へ
北へと
行進してゐた。
風はなかつた。
空氣は
水のやうに
重く
沈んでゐた。
人家も、
燈灯も、
畑も、
森も、
川も、
丘も、そして
歩いてゐる
我我の
體も、
灰を
溶したやうな
夜霧の
海に
包まれてゐるのであつた。
頭上には
處處に
幽かな
星影が
感じられた。
「おい
小泉、
厭やに
蒸すぢやないか‥‥」と、
私の
右隣に
歩いてゐる、これも一
年志願兵の
河野が
囁いた。
「さうだ、
全く
蒸すね。
惡くすると、
明日は
雨だぜ‥‥」と、
私は
振り
向き
樣に
答へた。
河野の
眠さうな
眼が
闇の
中にチラリと
光つた。
「うむ‥‥」と、
河野は
頷いた。「
然し、
演習地の
雨は
閉口するな‥‥」と、
彼はまた
疲れたやうな
聲で
云つた。
「ほんとに
雨は
厭やだな‥‥」と、
私はシカシカする
眼で
空を
見上げた。
夜は
大分更けてゐた。「
遼陽城頭夜は
更けて‥‥」と、さつきまで
先登の一
大隊の
方で
聞えてゐた
軍歌の
聲ももう
途絶えてしまつた。
兵營から
既に十
里に
近い
行程と、
息詰るやうに
蒸し
蒸しする
夜の
空氣と、
眠たさと
空腹とに
壓されて、
兵士達は
疲れきつてゐた。
誰もが
體をぐらつかせながら、まるで
出來の
惡い
機械人形のやうな
足を
運んでゐたのだつた。
隊列も
可成り
亂れてゐた。
私の
左側にゐる
中根二
等卒はもう一
時間も
前から
半分口をダラリと
開けて、
眠つたまま
歩いてゐた。
平生からお
人好しで、
愚圖で、
低能な
彼は、もともと
だらしのない
男だつたが、
今は
全く
正體を
失つてゐた。
彼は
何度私の
肩に
倒れかゝつたか
知れなかつた。そしてまた
何度私は
道の
外へよろけ
出さうとする
彼を
抑へてやつたか
知れなかつた。
「おい、
寢ちやあ
危いぞ‥‥」と、
私は
度毎にハラハラして
彼の
脊中を
叩き
著けた。が、
瞬間にひよいと
氣が
附いて
足元を
堅めるだけで、また
直ぐにひよろつき
出すのであつた。
「みんな
眠つちやいかん‥‥」と、
時時我我の
分隊長の
高岡軍曹は
無理作りのドラ
聲を
張り
上げた
[#「上げた」は底本では「上けた」]。が、
中根ばかりではない、どの
兵士達ももうそれに
耳を
假すだけの
氣力はなかつた。そして、まるで
酒場の
醉ひどれのやうな
兵士の
集團は
濕つた
路上に
重い
靴を
引き
摺りながら、
革具をぎゆつぎゆつ
軋らせながら
劍鞘を
互にかち
合せながら、
折折寢言のやうな
唸り
聲を
立てながら、まだ五六
里先のN
原まで
歩かなければならなかつた。
「F
町はまだかな‥‥」とまた
河野が
振り
向いて、
思ひ
出したやうに
訊ねた。
「もう
直きだ。よつ
程前にE
橋を
渡つたからな‥‥」と、
私は
眠たさを
堪へながら
生返事をした。
「さうか、それでもまだ
先はなかなか
遠いなあ‥‥」と、
河野は
右手の
銃を
重さうにずり
上げながら
云つた。
「うん、それもさうだが、
何しろ
己はもう
眠くて
閉口だ。
此處らでゴロリとやつちまひたいな‥‥」
「
全くだ。
今一寢入させてくれりやあ
命も
要らないな‥‥」
「はは、かうなりやあ
人間もみじめだ‥‥」と、
私は
暗闇の
中で
我知らず
苦笑した。
河野も
私もそのまま
口を
噤んだ。そして、
時々よろけて
肩と
肩をぶつけ
合つたりしながら
歩いてゐた。
私はもう
氣になる
中根の
事なんかを
考へる
隙はなかつた。
自分自身まるで
地上を
歩いてゐるやうな
氣持はしなかつた。
重い
背嚢に
締め
著けられる
肩、
銃を
支へた
右手の
指、
足の
踵||その
處處にヅキヅキするやうな
痛みを
感じながら、それを
自分の
體の
痛みとはつきり
意識する
力さへもなかつた。そして、
||寢てはならん‥‥と、一
所懸命に
考へてはゐながら、
何時の
間にかトロリと
瞼が
落ちて、
首がガクリとなる。
足がくたくたと
折れ
曲るやうな
氣がする。はつと
氣が
附くと、
前の
兵士の
背嚢に
鼻先がくつついてゐたりした。
「
眠つては
危險だぞ。
左手の
川に
氣を
附けろ‥‥」と、
暫くすると
突然前の
方で
小隊長の
大島少尉の
呶鳴る
聲が
聞えた。
私はきよつとして
眼を
開いた。と、
左手の
方に
人家の
燈灯がぼんやり
光つてゐた
||F
町かな‥‥と
思ひながら
闇の
中を
見透すと、
街道に
沿うて
流れてゐる
狹い
小川の
水面がいぶし
銀のやうに
光つてゐた。
霧は
何時しか
薄らいで
來たのか、
遠くの
低い
丘陵や
樹木の
影が
鉛色の
空を
背にしてうつすりと
見えた。
「
志願兵殿、
何時でありますか‥‥」と、
背後から
兵士の
一人が
訊ねた。
「一
時十五
分前だ‥‥」と、
私は
覺束ない
星明りに
腕時計をすかして
見ながら
答へた。
が、さう
答へながらも
夜がそんなに
更けたかと
思ふと
同時に、
私の
眠たさは一さう
濃くなつた。そして、ふらふらしながら
歩き
續けてゐる
内に
現實的な
意識は
殆ど
消えて、
變にぼやけた
頭の
中に
祖母や
友達の
顏が
浮び
上つたり、三四
日前にK
館で
見た
活動寫眞の
場面が
走つたりした。
||夢かな‥‥と
思ふと、
木の
空洞を
叩くやうな
兵士達の
鈍い
靴音が
耳に
著いた。
||歩いてるんだな‥‥と
思ふと、
何時の
間にか
知らない
女の
笑ひ
顏が
眼の
前にはつきり
見えたりした。
仕舞には、そのどつちがほんとの
自分か
區別出來なくなつた。そして、
時時我知らずぐらぐらとひよろけ
出す
自分の
體をどうすることも
出來なかつた。
何分か
經つた。
突然一人の
兵士が
私の
體に
左から
倒れかかつた。
私ははつとして
眼を
開いた。その
瞬間私の
左の
頬は
何かに
厭やと
云ふ
程突き
上げられた。
「
痛い、
誰だつ‥‥」と、
私は
體を
踏み
應へながらその
兵士を
突き
飛ばした。と、
彼は
闇の
中をひよろけてまた
背後の
兵士に
突き
當つた、「
氣を
附けろい‥‥」と、その
兵士が
呶鳴つた。
彼はやつと
我に
返つて
歩き
出した。
「
中根だな、
相變らず
爲樣のない
奴だ‥‥」と、
私は
銃身で
突き
上げられた
左の
頬を
抑へながら、
忌々しさに
舌打ちした。
が、この
出來事は
私の
眠氣を
瞬間に
覺ましてしまつた。
闇の
中を
見透すと、
人家の
燈灯はもう
見えなくなつてゐた。F
町は
夢中で
通り
過ぎてしまつたのだつた。そして、
變化のない
街道は
相變らず
小川に
沿うて、
平な
田畑の
間をまつ
直ぐに
走つてゐた。
霧は
殆ど
霽れ
上つて、
空には
星影がキラキラと
見え
出した。ひんやりした
夜氣が
急に
體にぞくぞく
感じられて
來た。
「おい
河野‥‥」と、
私は
變な
心細さと
寂しさを
意識して、
右手を
振り
向いて
詞を
掛けたが、
河野は
答へなかつた。
首をダラリと
前に
下げて、
彼は
眠りながら
歩いてゐた。
||然し、みんなやつてるな‥‥と、
續いて
周圍を
見廻した
時、
私は
夜行軍の
可笑しさと
みじめさを
感じて
呟いた。四
列縱隊は五
列になり三
列になりして、
兵士達はまるで
夢遊病者のやうにそろそろ
歩いてゐるのだつた。
指揮刀の
鞘の
銀色を
闇の
中に
閃かしてゐる
小隊長の
大島少尉さへよろけながら
歩いてゐるのが、五六
歩先に
見えた。
が、
寢そけてしまつた
私の
頭の
中は
變に
重く、それに
寒さが
加はつて
來てゾクゾク
毛穴がそば
立つのが
堪らなく
不愉快だつた。
私は
首をすくめて
痛む
足を
引き
摺りながら
厭や
厭や
歩き
續けてゐた。
「さうだ、もう
月が
出る
時分だな‥‥」と、
暫くして
私は
遠く
東の
方の
地平線が
白んで
來たのに
氣がついて
呟いた。その
空の
明るみを
映す
田の
水や、
處處の
雜木林の
影が
蒼黒い
夜の
闇の
中に
浮き
上つて
見え
出した。
私はそれをぢつと
見詰めてゐる
内に、
何となく
感傷的な
氣分に
落ちて
來た。そして、そんな
時の
何時もの
癖で、Sの
歌なんかを
小聲で
歌ひ
出した。
何分かがさうして
過ぎた。
と、いきなり
左の
方でガチヤガチヤと
劍鞘の
鳴る
音がした。ゴソツと
靴の
地にこすれる
音がした。
同時に「ウウツ‥‥」と
唸る
人聲がした。
私がぎよツとして
振り
返る
隙もなかつた。
忽ち
夜の
暗闇の
中に
劇しい
水煙が
立つて、
一人の
兵士が
小川の
中にバチヤンと
落ち
込んでしまつた。
||とうとうやつたな‥‥と、
私は
思つた。そして、
總身に
身顫ひを
感じながら
立ち
留つた。
中根の
姿が
見えなかつた。
小川の
油のやうな
水面は
大きく
波立つて、
眞黒な
人影が
毆れた
蝙蝠傘のやうに
動いてゐた。
「
誰だ、
誰だ‥‥」と、
小隊の四五
人は
川岸に
立ち
止まつた。
「
中根だ‥‥」と、
私は
呶鳴つた。
混亂が
隊伍の
中に
起つた。
寢呆けて
反對に
駈け
出す
兵士もゐた。ポカンと
空を
見上げ
[#「見上げ」は底本では「見上け」]てゐる
兵士もゐた。
隊列の
後尾にゐた
分隊長の
高岡軍曹は
直ぐに
岸に
駈け
寄つた。
「
早く
上げてやれ‥‥」と、
彼は
呶鳴つた。
中根は
水の
中で二三
度よろけたが、
直ぐに
起上つた。
深さは
胸程あつた。
「おい
銃だよ、
誰か
銃を
取つてくれよ‥‥」と、
中根は一
所懸命に
右手で
銃を
頭の
上に
差し
上げながら
呶鳴つた。そして、
右手でバチヤバチヤ
水を
叩いた。
割に
流れのある
水はともすれば
彼を
横倒しにしさうになつた。
「
大丈夫だ、
水は
淺い‥‥」と、
高岡軍曹はまた
呶鳴つた。「おい
田中、
早く
銃を
取つてやれ‥‥」
「
軍曹殿、
軍曹殿、
早く
早く、
銃を
早く‥‥」と、
中根は
岸に
近寄らうとしてあせりながら
叫んだ。
銃はまだ
頭上にまつ
直ぐ
差し
上げられてゐた。
「
田中、
何を
愚圖々々しとるかつ‥‥」と、
軍曹は
躍氣になつて
足をどたどたさせた。
「はつ‥‥」と、
田中はあわてて
路上を
[#「路上を」は底本では「路上は」]腹這ひになつて
手を
延ばした。が、
手はなかなか
届かなかつた。
手先と
銃身とが
何度か
空間で
交錯し
合つた。
「
留つとつちやいかん。
用のない
者はずんずん
前進する‥‥」と、
騷ぎの
最中に
小隊長の
大島少尉ががみがみした
聲で
呶鳴つた。
岸邊に
丸くかたまつてゐた
兵士の
集團はあわてて
駈け
出した。
私もそれに
續いた。そして、
途切れに
小隊の
後を
追つて
漸くもとの
隊伍に
歸つた。
劇しい
息切れがした。
間もなく
小隊は
隊形を
復して
動き
出した。が、
兵士達の
姿にはもう
疲れの
色も
眠たさもなかつた。
彼等は
偶然の
出來事に
變てこに
興奮して、
笑つたり
呶鳴つたり、
飛び
上つたりしてはしやいでゐた。
大地に
當る
靴音は
生き
生きして
高く
夜の
空氣に
反響した。
「とうとう『
馬さん』やりやあがつた‥‥」と、
一人の
兵士がげらげら
笑ひ
出した。
「
選りに
選つて
奴が
落ちるなんてよつぽど
運が
惡いや‥‥」と、
一人はまたそれが
自分でなかつた
事を
祝福するやうに
云つた。
「また
髭にうんと
絞られるぜ‥‥」
「
可哀想になあ‥‥」
中根熊吉の「
馬さん」は二
年兵の二
等卒で、
中隊でもノロマとお
人好しとで
有名だつた。
教練の
度毎にヘマをやつて
小隊長や
分隊長に
小言を
云はれ
續けだつた。
戰友達にもすつかり
馬鹿にされてゐた。
鼻が
低くて
眼が
細くて、
何處か
間の
拔けた
感じのする
平べつたい
顏||その
顏が
長いので「
馬さん」と
言ふ
綽名がついた。が、
中根は
都會生れの
兵士達のやうにズルではなかつた。
決して
不眞面目ではなかつた。
彼は
實際まつ
正直に「
天子樣に
御奉公する」
積りで
軍務を
勉強してゐたのである。が、
彼の
生れつきはどうする
事も
出來なかつた。で、
彼はムキになればなるだけ
教練や
武術に
失敗し、
上官達に
叱りつけられ、
戰友達にはなぶり
物にされるのだつた。
||氣の
毒だな‥‥と、
思ふことが
私も
度々あつた。
「
然し、
僕もずゐ
分氣を
附けちやあゐたんだぜ‥‥」と、
私は
傍の
兵士を
顧みた。
「さうですか。でも、ありやあ
好い
眠氣覺しですよ‥‥」と、
彼は
冷淡に
答へた。
「ふふ、
眠氣覺しも
利き
過ぎらあ‥‥」
「はつはつはつ、
水の
中で一
生懸命に
銃を
差し
上げた
處は
好かつたね‥‥」
「とんだ五九
郎だ‥‥」と、
誰かが
呟いた。
劇しい
笑聲がわつと
起つた。
が、
暫くすると
中根の
話にも
倦きが
來た。そして、三十
分も
經たない
内にまた
兵士達の
歩調は
亂れて
來た。ゐ
眠りが
始まつた。みんなは
下弦の
月が
東の
空に
出て
來たのも
氣が
附かずに
醉ひどれのやうに
歩いてゐた。
N
原の
行手はまだ
遠かつた。
私が
濡れしよびれた
中根の
姿を
想像して
時時可笑しく
[#「可笑しく」は底本では「可笑じく」]なつたり、
氣の
毒になつたりした。が、
何時か
私も
襲つてくる
睡魔を
堪へきれなくなつてゐた。
N
原の
出張演習は二
週間程で
過ぎた。
我我[#「我我」は底本では「我日」]は
日日の
劇しい
演習に
疲れきつた。そして、六
月の
下旬にまたT
市の
居住地に
歸營した。
中根の
話はもうすつかり
忘れられてゐた。
中根自身も
相變らず
平ぺつたい
顏ににやにや
笑ひを
浮べながら
勤務してゐた。
歸營してから三
日目の
朝だつた。
中隊教練が
濟んで
一先づ
解散すると、
分隊長の
高岡軍曹は
我々を
銃器庫裏の
櫻の
樹蔭に
連れて
行つて、「
休めつ‥‥」と、
命令した。
私はまた
何かの
小言でも
聞くのかと
思つて、
軍曹の
鼻の
下にチヨツピリ
生えた
口髭を
眺めてゐた。
「
何でえ、
何でえ‥‥」と、
小聲でいぶかる
兵士もあつた。
高岡軍曹は
暫くみんなの
顏を
見てゐたが、やがて
何時ものやうに
胸を
張つて、
上官らしい
威嚴を
見せるやうに
一聲高く
咳をした。
「
今日貴樣達を
此處へ
集めたのは
外でもない。この
間N
原へ
行く
途中に
起つた
一つの
出來事に
對する
己の
所感を
話して
聞かせたいのだ。それは
其處にゐる
中根二
等卒のことだ。
貴樣達も
知つとる
通り
中根はあの
行軍の
途中過つて
川へ
落ちた‥‥」と、
軍曹はジロりと
中根を
見た。「クスつ‥‥」と、
誰かが
同時に
吹き
出した。
中根はあわてて
無格好な
不動の
姿勢をとつたが、その
顏には、それが
癖の
間の
拔けたニヤニヤ
笑ひを
浮べてゐた。
||またやられるな‥‥と
思つて、
私は
中根のうしろ
姿を
見た。
「
然るに、あの
川は
決して
淺くはなかつた。
流れも
思ひの
外早かつた。
次第に
依つては
命を
奪はれんとも
限らなかつた。その
危急の
際中根はどう
云ふ
事をしたか。さあ、みんな
聞け、
此處だ‥‥」と、
軍曹は
詞を
途切つてドタンと、
軍隊靴で
大地を
踏みつけた。「
中根はあの
時、
自分の
身の
危急を
忘れて
銃を
高く
差し
上げて『
銃を
取つてくれ‥‥』と、
己に
向つて
云つたのだ。
即ち
銃を
愛し
守る
立派な
精神を
示したのだ‥‥」と、
軍曹は
咳一
咳した。
「
抑も
銃は
歩兵の
命である。
軍人精神の
結晶である。
歩兵にとつて
銃程大事な
物はない。
場合に
依つてはその
體よりも
大事である。
譬へば
戰場に
於て
我々が
負傷する。
負傷は
直る、
然し、
精巧な
銃を
毀したならば、それは
直らない。
況してあの
時中根が
銃を
離して
顧みなかつたならば、
銃は
水中に
無くなつたかも
知れない。
即ち
歩兵の
命を
失つたことになる。
然るに、
中根は
身の
危急を
忘れて
銃を
離さず、
飽くまで
銃を
守らうとした。あの
行爲、あの
精神は
正に
軍人精神を
立派に
發揚したもので、
誠に
軍人の
鑑である。一
體中根は
平素は
決して
成績佳良の
方ではなかつた。
己も
度度嚴しい
小言を
云つた。が、
人間[#「人間」は底本では「人聞」]の
眞面目は
危急の
際に
初めて
分る。
己は
中根の
眞價を
見誤[#ルビの「みあやま」は底本では「みあや」]つてゐた。
實に
中根は
歩兵の
模範的精神を
己に
見せ
[#「せ」は底本では欠]てくれた。
實に‥‥」と、
感情的な
高岡軍曹は
躍氣となつて
中根を
賞讃した。そして、
興奮した
眼に
涙を
溜めてゐた。「
貴樣達はあの
時の
中根の
行爲を
笑つたかも
知れん。
然し、
中根は
正しく
軍人の、
歩兵の
本分を
守つたものだ。
豪い、
豪い‥‥」
かう
云ひ
續けて、
高岡軍曹はやがて
詞を
途切つたが、それでもまだ
賞め
足りなかつたのか、モシヤモシヤの
髭面をいきませて、
感に
餘つたやうに
中根二
等卒の
顏を
見詰めた。
分隊の
兵士達はすべての
事の
意外さに
呆氣に
取られて、
氣の
拔けたやうに
立つてゐた。が、
日頃いかつい
軍曹の
眼に
感激の
涙さへ
幽かに
染んでゐるのを
見てとると、それに
何とない
哀れつぽさを
感じて
次から
次へと
俯向いてしまつた。
が、
中根は
營庭に
輝く
眞晝の
太陽を
眩しさうに、
相變らず
平べつたい、
愚鈍な
顏を
軍曹の
方に
差し
向けながらにやにや
笑ひを
續けてゐた。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。