此の
日も
周三は、
畫架に
向ツて、
何やらボンヤリ
考込むでゐた。モデルに
使ツてゐる
彼の
所謂『
平民の
娘』は、
小一
時間も
前に
歸ツて
行ツたといふに、周三は
尚だ畫架の前を
動かずに考へてゐる。
何を考へてゐたかといふと、
甚だ
漠然としたことで、彼
自身にも
具體的に
説明することは
出來ない。
難然[#「難然」はママ]考へてゐることは
眞面目だ、
少し
大袈裟に
謂ツたら、彼の
運命の
消長に
關することである。
『平民の娘』お
房は、
單にモデルとして彼の
眼に
映ツてゐるのでは
無い。お房は彼の眼よりも
心に
能く映ツた。
お房が周三のモデルになつて、彼の
畫室のモデル
臺に立つやうになツてから、もう五
週間ばかりになる。
面も
[#「面も」はママ]製作は
遲々として一
向に
捗取らぬ。
辛面影と
ひなたが出來た
位のところである。
兀も周三は
近頃恐ろしい
藝術的頬悶に
[#「頬悶に」はママ]陥ツて、何うかすると、
折角築上げて來た藝術上の
信仰が
根底から
ぐらつくのであツた、此の
ぐらつきは、藝術家に
取りて、
最も恐るべき
現象で、
都ての
悦も
満足も
自負も
自信も、
悉く自分を
去ツて
了ツて、
代に
恐怖が來る。
其所で
臆病となる。そして
馬鹿に
えらいと
思ツてゐた自分が、馬鹿に
けちな
つまらない者になツて了ツて、何にも
爲る
氣が無くなツて了ふ
·········爲る氣が無いのでは無い、自分の
力では
手も
足も
出ないやうに思はれるのだ。でも
此様な
筈では無かツたがと、
躍起となツて、
行る
點まで
行ツて
見る、
我慢で行ツて見る。
仍且駄目だ。
頭で
調子が出て來ない。
揚句に
草臥れて了ツて、
悲観の
嘆息だ。此の
時位藝術家の
意久地の無いことはあるまい、
幾らギリ/\
齒を
噛むだと
謂ツて、また幾ら努力したと謂ツて、何のことはない、
破けたゴム
鞠を
地べたに
叩付けるやうなもので何の
張合もない。たゞ
心細くなツて、
莎薀してゐるばかりだ。周三には此の恐怖時代が來た。
自體周三が、此の
繪を
描き始めた時の
意氣込と謂ツたら、それは
すばらしい勢で、何でも
すツかり
在來の藝術を
放擲ツて、
新しい藝術に入るのだと
誇稱して、
其の
計畫も
抱負も
期待も
大したものであツた。で其の
準備からして
頗る
大仰で、モデルの
詮索にも何の
位苦心したか知れぬ。そうしてモデル
屋の
持ツて來るモデルもモデルも
片ツ
端から
刎付けて、
或る
手蔓を
得て
やツとこさ自分で
目付け出したモデルといふのが
即ちお房であツた。お房は
顔立なら
體格なら、
殆んど
理想的のモデルだ。一
體日本の
婦の足と
來たら、周三
等の
所謂大根で、
不恰好に
短いけれども、お房の足はすツと長い、
從ツて
背も
高かツたが、と謂ツて
不態な
大柄ではなかツた。足の
形でも
腰の
肉付でも、または
胴なら
乳なら胸なら肩なら、
總べて
何處でも
むツちりとして、
骨格でも
筋肉でも
姿勢でも
好く
整ツて
發育してゐた。
加之肌が
眞ツ
白で
滑々してゐる。そして一體に
ふくよかに
柔かに
出來てゐる、
而も形に
緊ツたところがあツたから、
誰が見ても
艶麗な
美しい
體であツた。
着物を
着てゐる
姿も
好かツたが、
裸になると一
段と
光を
増した。それから
顔だ。顔は體程周三の心を
動かさなかツたが、それでも
普通のモデルを見るやうなことは無かツた。第一
血色の
好いのと
理合の
濃なのとが、目に付いた。
次に
綺麗な
首筋、形の好い
鼻、
ふツくりした
頬、
丸味のある
顎、それから
生際の好いのと
頭髪に
艶のあるのと何うかすると
口元に
笑靨が出來るのに目が付いた。そして一目見ると
直に、
少し
あけツ放しの
點のある
代には、
こせつかぬ、
おツとりとした、
古風な
顔立であることを見て取ツた。
併し一
番に氣に
適ツたのは、
眉と眼で、眉は
單温順に
のんびりしてゐるといふだけのことであツたが、眼には一
種他を
魅する強い力があツた
·········とは謂へ他の胸を射すやうな
烈しい
光の
閃くのでも何でもない。
何方かと謂へば、
落着ついた
[#「落着ついた」はママ]、
始終 柔な
[#「始終 柔な」はママ]波の
漂ツてゐる
内氣らしい眼だ。何か見
詰めてでもゐると、
黒瞳が
凝如と
据ツて
とろけて了ひそうになツてゐる
·········然うかと思ふと、
伏目に物など見詰めてゐて、ふと
頭を擡げた時などに、
甚く
狼狽えたやうな、
鋭敏な
作用をすることがある
·········例へば何か
待焦れてゐて、つい
齒痒くなツて、ヂリ/″\してならぬと謂ツた風に
騒ぎ出す。其様な
場合には、
瞼の
はれぼツたい故か、
層波目が
屹度深く
刻み込まれて、長い
晴毛の
[#「晴毛の」はママ]下に
濕を
持つ。そして
裡に
燃えてゐる
熱が眼に現はれて來るのでは無いかと思はせる。一體
皆の長い、パツチリした眼で、
表情にも
富むでゐた。雖然
智識のある者と智識のない者とは眼で區別することが出來る。お房のは
確に智識の無い
側の眼で、
明かに
感情の
放縱なことを現はしてゐた。眼も
然うだが、顏にも姿にも
下町の
匂があツて、
語調にしろ
取廻にしろ身
ごなしにしろ表情にしろ、氣は利いてゐるが
下卑でゐる。姿にしても
其通だ、
奈何にもキチンと
締ツて、
福袢の
[#「福袢の」はママ]襟でも
帯でも、または
着物の
裾でも
ひツたり體に
くツついてゐるけれども、
些とだツて
氣品がない。別の
言でいふと、
奥床しい點が無いのだ。
加之顏にも
弛むだ點がある、何うしても平民の娘だ。これが周三に取ツて何となく
物足りぬやうに思はれて、何だか
紅い
匂の無い花を見るやうな心地がするのであツた。併し其様なことはモデルに
使ふに何んの
故障も
差支も無い。
周三は、此のモデルを
得て、製作熱を
倍加した。
屹度藝術界を驚かすやうな一
大傑作を描いて見せると謂ツて、
恰で熱にでも
罹ツたやうになツて製作に
取懸ツた。そして
寢床に入ツても、誰かと話してゐるうちにも、また
散歩してゐる時、色を此うして出さうとか、人物の表情は此うとか、
斷えず其の製作に
就いてのみ考えてゐた。時には出來
上ツた繪を幻のやうに
眼前に
泛べて見て、
獨で
にツこりすることもあツた。何しろ
腕一
杯のところを見せて、
少くとも日本の
洋畫界に一
生面を
開かうといふ
野心であツたから、其の用意、其の
苦心、實に
慘憺たるものであツた。而も其の
覗ツたところは、
彼自ら
神來の
響と信じてゐたので、描かぬ前の彼の元氣と内心の誇と
愉快と謂ツたら無かツた。彼の頭に描かれた作品は確に
立派なものであツたのだ。
ところが
去來取懸ツて見ると、
些とも
豫期した
調子が出て來ない。頭の中に描かれた作品と、
眼前に描出される作品とは
鉛と
鋼鉄ほどの
相違がある。周三は自分ながら自分の腕の
鈍なのに
呆返ツた。で取り
懸からもう熱が
冷める、
興が無くなる、
心から
嫌氣が
浸して了ツた。然うなると、幾ら努力したと謂ツて、

いたと謂ツて、何の
役にも立ちはしない。で、たゞ狼狽する、
要するに意氣
鎖沈だ
[#「鎖沈だ」はママ]。自分ながら自分の藝術の
貧しいのが他になる、
憐に
對してまた自分に對して
妄[#ルビの「なやみ」はママ]と
不平が起る。氣が
惓ンずる、
悶々する、何を聞いても見ても
味氣ない。謂はゞ
精神的監禁を
喰ツたやうなもので、
日光を
仰ぐことさへ出來なくなツて了ふ。此うなツては、幾ら
えらい藝術家も、
柳に
飛付かうとする
蛙にも
劣る
·········幾ら飛付かうとして
躍起になツたからと謂ツて取付くことが出來ない。それでも
思切ツて其の作を放擲ツて了うことが出來ぬから、
何時までも
根氣好く
無駄骨を
折ツてゐる、そして結局
情なくなるばかりだ。情なくなツても
執着が強いから、何うにかして
でツち上げやうと思ふ。それで周三は、
毎日畫架に向ツて歎息ばかりしてゐながら、
定期の時間だけ
丁と畫室に入ツて、バレツトにテレビン
油に
繪具を
捏返してゐた。お
蔭で繪は一日々々に繪になツて來る、繪に
成るに從ツて其れが平凡となる、時には殆んど調子さへ出て
居らぬ
劣惡な作のやうに思はれることもあツた。
畫題は『
自然の
心』と謂ツて、
ちらし髪の
素裸の
若い
婦が、
新緑の
雑木林に
圍はれた
泉の
傍に立ツて、自分の
影の
水面に映ツてゐるのを
瞶ツてゐるところだ。其の
着想が
既に
舊いロマンチツクの
芳を帶びてゐる、何も新しいといふほどの物でもない。加之
色なら
圖柄なら、ただ
暖く見せる側の繪といふことが
解るだけで、何處に
新機軸を出したといふ點が無い。周三の覗ツた
的はすツかり
外れた。外が外れたばかりでない、自分の
技能が自分の思ツてゐた
半分も出來て
居らぬことを
證據立てられた。此の場合に
於ける藝術家は、
敗殘困憊の
將軍である。
失望と
煩悶とが
ごツちやになツて
耐へず
胸頭に
押掛ける
·········其の
苦惱、其の
怨、誰に
訴へやうと思ツても訴へる
對手がない。
喧嘩は、
獨だ。
悪腕を
[#「悪腕を」はママ]」]すれば、
狂人だと謂はれる。
爲方がないから、ギリ/\齒噛をしながらも、
強い心でおツ
耐へてゐる。其れがまた
辛い。其の辛いのを耐へて、無理に製作を
續ける。
軈がて眼が
血走ツて來、心が
惑亂する。其の惑亂した心が繪に映るから何うしたツて思ふ
壺に
嵌ツて來ない。加之單に此の藝術上の煩悶ばかりではない。周三には、
他にも
種々の煩悶があつて、彼を惱ましている。これがまた彼の心を他へ
誘かして、
幾分其の製作を
妨げてゐる。
無論藝術家が製作に熱中してゐる場合に、些とした
ひつかゝり氣懸があつても他から
想像されぬ位の
打撃となる。
況して周三のは、些とした
ひつかゝりや
輕い意味のそれでは無い。彼に取ツては
熟慮深考せなければならぬ
大問題がある。
ひつかゝりの
一つは、現に彼の
眼前に裸体になつてモデル臺に立つているお房だ。お房は、幾らかの
賃銭で肉體の
全てを
示せてゐるやうな
賤しい
女だ。周三とても其れをすら職業は
神聖と謂ふほどの理想家ではなかつた。賤しい女であるといふことは知り
拔いてゐる
·········だから蔭では平民の娘と謂つてゐる。
雖然顏の
寄麗なのと
[#「寄麗なのと」はママ]、體格の
完全してゐるのと、
おつとりした姿と、
美しい
肌とに心を
魅せられて、賤しいといふ考を
忘れて了ふ。そしてモデルとして周三の氣に適つたお房は、肉體
美の最も完全なものとして周三の心の
空乏を
充すやうになつた。
所詮周三がお房を
懌ぶ意味が違つて、一
個の
物體が一
人の婦となり、
單純は、併し
價値ある製作の資
料が、意味の深い心の
糧となつて了つた。そして
冷靜な藝術的
鑑賞は、
熱烈な
生理的
憧憬となつて、
人形には
魂が入つた。何も不思議はないことだらう。周三だつて
人間である。
決して超凡の人では無い
·········としたら、
北側のスリガラスの
天井から
射込む柔かな光線
·········何方かと謂へばノンドリした
薄柔い
光で、若い女の裸體を見てゐて、それで何等の
衝動が無いといふことはあるまい。成程美術家には若い女を裸體にして
熟視するといふ
特權があるから、何も其の裸體が
珍らしいといふので無い。雖然お房は、周三が
是迄使つたモデルのうちで
優れて美しい
·········全て肉體美の
整つてゐる女である。それで
魔あつて誘かすやうに、其の柔な肉付に、
艶のある
頭髪に、
むつちりした
乳に、形の好い手足に心を
引き付けられた。そして其の肌の色==と謂つても、ホンノリ血の色が
透いて
處女の
生氣が
微動してゐるかと思はれる、また其の微動している生氣を柔にひツくるめて
生々しく
清な肌の色==花で謂つたら、
丁度淡紅色の
櫻草の花に
髣髴てゐる、其の朋の
[#「朋の」はママ]色が眼に付いてならぬ。加之女の匂
······しつこい油の匂と
ごツちやになツたやうな一種動物性の匂が、何かの
機に輕く鼻を
刺戟する。其にもまた心が動く。何しろ畫室は、
約束通りに出來てあるから、四
方密閉したやうになつてゐる。
暖爐を
焚く
頃ならば、其の熱で
嚇々とする、春になれば春の
暖氣で
蒸すやうに
むつとする。加之空氣も
沈靜なら光も
しんめりしてゐて、自分の
鼓動、自分の
呼吸さへ
微に
耳に響く
·········だから、眼前に
据ゑて置く
生暖い女の氣もヤンワリ周三の胸に通ふ。そして氣になる位
心悸が
亢進して、腕のあたりに
汗がジメ/\することもあツた。然うなると周三は
遉がに
内を
顧みて心に
慚づる、何だか藝術の神聖を
穢がすやうにも思はれ、またお房に藝術的
良心を
腐蝕させられるやうにも感ずる。同時に「
自我」といふものが少しづゝ
侵略されて
行くやうに思はれた。これは最初の
間で、
少時經つとまた
別に他の煩悶が起つた。
始め何の爲に悶々するのか解らなかツたが、軈がて其の
因がハツキリ頭に映ツて來る。周三は、お房の其の美しい肌が處女の
清淨を
保ツてゐるか何うかといふこと、
設また其の肌が清淨を保ツてゐるにしても、其の心は何者かに
汚されてゐはせぬかといふことが氣に
懸つて來たのであつた。そして此の氣懸が
際限も無く彼を惱す。で何うかすると
呆返つたやうに、
『何だつて其様なことを氣にする
·········清淨であつたツて無いたツて、何でもありやしない。モデルにするに些とも差支はありやしない!』と打消して見る。雖然駄目だ。
仍且氣に懸ツてならぬ。そして惱む。幾ら美術家でも、女の心まで裸體にして見る
權能がないから爲方が無い。
併し其の氣懸は、少時すると打消されて了ツた。打消されたのではない、忘れたのだ。
段々と
馴れて來るに從ツて、お房は周三に種々な話を
仕掛けるやうになツた。而ると其の
聲がまた、周三の心に淡い
靄をかけた。少し
甘ツたるいやうな點はあツたけれども、調子に響があツて、好く
徹ほる、そして
優しい聲であツた「
恰で小鳥が
囀ツてゐるやうだ。」と思ツて、周三は、お房の
饒舌ツてゐるのを聞いてゐると、
何時も
惚々として了ふ。處へもツて來て、一日々々に
嬌態を見せられるやうになツて行くのだから耐らぬ。周三がお房を
詮議する眼は一日々々に
寛くなツた。そして
放心其の事を忘れて了ツた。
而るとまた次の氣懸が起ツて來た。其は
假りにお房に手を
握る資格のあるものとして、果してお房が手を握らせて呉れるかどうかといふ氣懸だ。
無論臆病な氣懸である。雖然彼は
永い間此の氣懸に惱まされてゐた。で、何のことは無い、ガラス
越に花を見るやうな心地で、毎日お房を眼前に
据えて置きながら悶々してゐた。彼は此の齒痒いやうな惱のために何程惱まされたか知れぬ。併し案じるよりも
生むが易い。其の後お房は些とした
機會に
雑作なく手を握らせて呉れた。雖然、其の製作は
相変らず
捗取らぬ。そして少し
逆上せ氣味となツた彼は、今度は「手を握りたお房を何うする?」といふことに
就いて考へた。
固より一時の出來心や、
不圖した
氣紛では無かツたのであるから、さて是れが
容易に解決される問題で無い。第一
妻として
迎へ取るには餘りに身分の
懸隔がある。
家庭は斷じて此の
結婚を
峻拒する。
假に家庭の事情を打破ツて、結婚したとしてからが、お房が美術家の妻として、また
子爵家の
夫人として
品位を保ツて行かれるかどうかといふことが
疑問である。いや、恐らく其は不可能のことゝ謂はなければならぬ。と謂つて周三は、人權を
蹂躪して、お房を
日蔭者にして圍ツて置くだけの
勇氣も無かツた。これがまた
新しい煩悶となツて、彼を惱ませる。
「一體
俺はお房を何うする
積なんだ。」
解らない。何うしても解決が付かぬ。
處で周三が家庭に於ける立場である。
自體彼は
子爵勝見家に生まれたのでは無い。成程
父子爵は、彼の
父には違ないが、
母夫人は違ツた
間だ。彼は父子爵の
妄の
[#「妄の」はママ]]
腹に出來た子で、所謂
庶子である。別な
言でいふと
零れ
種だ。だから母夫人の腹に、腹の違ツた
兄か弟が出来てゐたならば勝見家に取ツて彼は
無用の
長物であツたのだ。また父子爵にしても彼を引上げて、子爵家の
繼嗣とする必要が無かツたのであツた。雖然子爵夫人に子の無いといふ一ツの
事件が、
偶々周三を子爵家の
相續人とすることにした。此の相續人になツた資格の
裏には、
種馬といふ
義務が
擔はせられてゐた。それで彼が甘三四と
[#「甘三四と」はママ]]なると、もう其の
候補者まで
作へて、結婚を
迫まられた。無論周三は、此の要求を峻拒した。そこで父と
衝突だ。父はもう
期限が來たからと謂ツて
嚴しく義務の實行を
督促する、周三は其様な義務を擔はせられた覺は無いと
頭を
振通す。一方で家の爲といふのを
楯にすれば、一方では個人
主義を
振廻す。軈がては親は子に對つて、
不孝なる
やくざ者と
罵る、子は親に對つて、無
慈悲な
驅だと
[#「驅だと」はママ]毒吐く。而も
争論は何時も要領を
得ずに
終つて、何時までも
底止なく同じことを
繰返されてゐるのであツた。そしてグヅグヅの間に一
年二年と
經過して
今日となツた。今日となツては、父子爵は
最早猶豫して居られぬと謂ツて、
猛烈な
勢で最後の
決心を
促してゐる。で是等の事情が
ごツちやになツて、彼の頭に
ひツかゝり、
絡ツて
激しい
腦神經衰弱を
惹起した。それで
唯氣が悶々して、何等の
踏切が付かぬ。そして斷えず何か不安に
襲はれて、自分でも苦しみ、他からは
凋むだ花のやうに見られてゐるのであツた。
丁ど此の日の
前夜も、周三は、父から結婚問題に就いて
嚴重な
談判を
吃ツたのであツた。
「さ、何うする?もう體に火が付いてゐるんだぞ。」
幾ら考へても、何時も
纒の付いた
例は無いが、それでも頭の
底の方に何か
名案が
潜むでゐるやうに思はれるので、何うにかして其の考へを引ツ張り出さうとする
·········雖然出ない。出さうでゐて、出ない。氣がジリ/\する。すると何か
傍から
小突くやうに、
「ほら、解ツてゐるじやないか。此うさ、それ、此う
|||」と神經
中樞を刺戟して、少しづつ考を
押出して呉れるやうに思はれる。
「しめたぞ!」と
大悦で、
ぐツと氣を
落着け、眼を
瞑り、
片手で
後頭部を押へて息を
凝らして考へて見る
·········頭の中が何か泡立ツてゐるやうにフス/\
鳴ツてゐるのが
微に
顳
に響く。
「は、はア、頭腦が惡いな。」と
今更のやうに氣が付くと、折角出掛かツた考が
烟のやうに
すうと消えて了ふ。
慌てゝ眼を
啓けて「や!」と
魂氣た顏をして、恰で手に持ツてゐた大事な
玉を
井戸の底へ
滑らし落したやうにポカンとなる。また
數分間前の状態に
復ツて、一
生懸命に名案を
搾り出さうとして見る。名案とは、父子爵の
頑固な頭から結婚問題を
徹回[#「徹回」はママ]させて、而も自分は無事に
當邸に居付いてゐることだ。
眞個難しい問題である。周三が
腦味噌の
壓搾するのも無理は無い。幾ら壓搾したと謂ツて、決して彼の期待するやうな
名案は出て來はしない。自體彼の頭腦の中には
腐ツたガスのやうな氣が
充滿になツてゐて、頭が
甚だ
不透明になツてゐる、彼は
能く其れを知ツてゐるから、何うかして其の全ての考を引ツ
括むでゐる
毒ガスさへ消えて了ツたならば、自ら立派な名案が出て來るやうに思ふ。
空は、ドンヨリ
曇ツて、
南風が
灰の
都を
吹き
廻り、そしてポカ/\する、
嫌に
其所らの
ざわつく日であツた、此様な日には、頭に
故障のない者すら氣が重い。況して少しでも
腦症のあるものは、
妙に氣が
倦むで、
耳が鳴る、眼が

む、頭腦が惡く
岑々して、
他の頭腦か自分の頭か解らぬやうに
知覺が
鈍る。周三も其の通りだ。何か考へてはゐるけれども、
其が
もや/\として、何うしてもハツキリと映ツて來ない。そして考へる事も考へる事も、
直に傍へ
外れて了ツて、
斷々になり、
紛糾かり、
揚句に何を考へる
筈だツたのか其すらも解らなくなツて了ふ。
凝如としていても
爲方が無いので、バレツトも
平筆も、臺の上に
放ツたらかしたまゝ、ふいと
起ツて
室の内を
歩廻ツて見る。それでも氣は變らない。眼に入るものといへば何時も眼に馴れたものばかりだ
·········北側のスリガラスの天井、
其所から
射込む弱い光線、
薄い
小豆色の
壁の色と同じやうな色の
絨
、今は
休息してゐる
煖爐、バツクの
巾、モデル臺、
石膏の
胸像、それから
佛蘭西の
象徴派の名畫が一
枚と、
伊太利のローマンス派の
古畫を
摸寫したのが三枚、それが
何れも
金縁の
額になつて南側の
壁間に
光彩を放つてゐる。何れも
大作だ。雖然何を見たからと謂つて、些とも
興が
乘らぬばかりか、其の名畫が眼に映つると、
寧ろ
忌々しいといふ氣が亢じて來る。室が
寂然してゐるので、
時計の時を
刻む
音が自分の
脈膊と
巧く
拍子を取つてハツキリ胸に通ふ。
ぐるり
一と廻して、さて自分の繪の前に立つた。眼を
半眼にして、
虚心平氣の積で熟視する。
「いや、
拙い!何といふ
劣惡なもんだえ。何んだツて此様な作を描き上げやうとして

いてゐるんだ
·········骨折損じやないか。俺は馬鹿だ、
確に頭が
痺れてゐる。何處に一ツ
好い
點がありやしない。此様な作に
執着があるやうじや、俺も
憫な人間だ
·········」と思ふ。そして、「あゝ。」と
萎頽したやうな
歎息する。見てゐるうちに、
倩々嫌になつて、一と思に
引ツ
裂いて了はうかとも思つて見る
·········氣が
燥ついて、
拳まで
握つた。
而ると頭が
輕くグラ/\として、氣に
茫ツとする。其所らが
急に
もや/\と
淡い
靄でも
かゝつたやうになツて畫架
諸共「自然の力」は、すーツと其の中へ
捲き込まれるかと思はれた
·········代つて眼に映ツたのが裸體になツたお房だ。そこでまた
棒立になつたまま
少時お房のことを考へる。
「お房か、ありや
天眞爛
だ。心は確に處女だ!
·········體だツて
·········」とまた頭に
閃く。と、激しく頭を振つて、「何だつて此様なことを考へる。」
ふざけた奴だと自分を
叱り付ける。
叱ツても駄目だ。此うなるとお房の方でも
剛情で、恰で
眼底へ
粘付いたやうになつて、何うかすると、
莞爾笑つて見せる。いや、
ひつこいことだ。
それでも其の影に映つてゐる間だけ、周三の頭から、
黴びて、
陰濕したガスが拔けて、そして其の底に
灰の氣に
籠められながら紅い花の
揺いでゐるのを見るやうな心地になつてゐた。胸には何か氣も心も
甘つたるくなるやうな
匂が通つて來る。而ると
鉛のやうに重く
欝結した頭が幾分輕く滑になつて、體中が
ぞく/\するやうに
擽ツたくなる
·········何か
引ツ
攫むで
もしやくしやにして見たい。
壓し付けられ、
沈みきツた
反動で、恰で鳥の
柔毛が風に飛ぶやうに氣が
浮々する。
喚出したくなる。

も此様な場合に、
誰かジヨンマーチでも
謠つて呉れる者があつたら、彼は獨で
舞踏をおツ始めたかも知れぬ。
眞ンの
少時ではあつたけれども、周三の頭は全ての壓迫から
脱れて、
暗澹たる空に薄ツすりと
日光が射したやうになつてゐた。眼にも心にも、たゞ紅い花が見えるだけだ。何しろ彼の心は
柔いでゐた。
「肉は決して
胃の
腑の要求ばかりじやない。」周三は
不圖此様なことを考へた。其を
きツかけに、彼はまた何時もの
思索家となつた。頭は直に曇つて来る。
丁ど
颶風でも來るやうな具合に、種々な考が種々の
象になつて、
ごた/\と一時に
どツと
押寄せて來る
·········周三は
面喰つて
嚇となつてしまふ。こりや
耐らぬと、くるり體をブン廻して、また室の中を歩き廻つて見る。そして氣を
押鎭めやうとするのであるが、何か後から
追立てゝ來るやうに思はれて、何うにも落着かぬ。
「こりや何うしたもんだ
·········何うも頭が
變てこりんだぞ。何を
びくついてゐるんだ。まア、落着け!
·········そして
篤と考へて見るんだ。」
そこで體を突ツ張つて、腕を
組み
足拍子を取つて、出來るだけ
えらさうに
寛々と歩いて見る。駄目だ。些とも
えらくなれない。何か
妄と氣に
懸ツて、不安は
槍襖を作ツて
襲ツて來る。現に自分が呼吸してゐる空氣の中にも
毒惡な
分子が
籠つてゐて、
次第に
内臓へ侵入するのでは無いかと思ふ。すると室の光線の弱いのも氣に懸つて來る。
寧そ室を
逃出さうかと思ツて、「一體俺は、何だつて、此様な
薄暗い、息の
塞るやうな室に閉ぢ籠つて、此様な眞似をしてゐるんだ。恰で
囚人だ!
·········痩せツこけた藝術に體を
縛られて、日の光も見ずにもぐ/\してゐるんだ。
充らんな、
無意義だ
·········もう何も
彼も放擲つて了はうかしら!
穴籠してゐると謂や、
蟹だつてもう少し氣の
利いた穴籠をしてゐるぜ。
天氣でも好くつて見ろ、蟹め、
泡を
噴きながら、
世界を
廣くして走り廻つてゐるからな。俺は何うだ、繪具とテレビン
油とに氣を腐らして、
年中齷齪してゐる
·········それも立派な作品でも出來ればだが、ま、
覺束ない。そりや
孑孑は
溝の中で
うよ/\してゐるのよ、だが、俺は人間だ。人間?
·········ふゝゝゝ。」と無意味に
笑ひ出して、「人間だから女に
取捕まつて、馬鹿にされても見たいんだ。何しろもう些と
のんきな人間にならう。」
彼は、畫室を出ることを定めて了つて、入口の
扉に手まで掛けたが、さて其の手を引つ込めて
躊躇つた。
「
待てよ。出るは
可いが、出たら
敵の中へ飛び込むやうなもんだぞ。これでも此處だけは、俺の城だ、世界だ。そして俺の大權の
下にある
·········だから女を裸に
引ん
剥いて置く權能もあるんだ。早い話が
阿父のやうな
壓制君主までも、此處だけは
治外法權として、何等の
侵略を
加へ得ない奴さ。
痛快だ。いや、出まい。蟹も穴籠をしてゐた方が安全だからな。」
周三は、畫室を出ると、また父に取捕まつて、
首根つこを押へ付けて置いて
極め付けられるのが
怖いのだ。で、
辛氣臭いのをおつ
耐[#ルビの「こち」はママ]へて、穴籠と定めて了ふ。
「
何方にしても、俺の體は縛られてゐるんだ
·········縛られてゐるばかりじやない。
窮窟に
押籠められてゐるんだ。何うしたら此の
繩が解けるんだ、誰か、俺を
此穴から引つ張り出して呉れるものが無いかな。」と思ふと、泣き出したいやうに
情なくなる。
何方を向いても壓迫だ。城に籠つてゐたら、他からの侵略は無いが、てもなく
兵粮攻と謂つたもので、自分で自分を
窘めなければならぬ。自體周三等の籠つてゐる城は、兵粮に
欠乏がちだ。兵粮は嫌でも他から仰がなければならぬのであるから、
大概の者は頭と腕だけが
膨大になつて、胃の腑が
萎縮する。從つて顏の色が
燻む。周三は
幸に、
頑冥な空氣を吸つて、
温順に
壓制君主の
干渉に
服從してゐたら、兵粮の心配は
微塵もない。雖然彼の城は其の根底が
ぐらついてゐる。で、もう穴籠に耐へなければ、他からの壓迫にも耐へぬ。
「恰で
包圍攻撃を喰つてゐるんだ!」と
嗟嘆して、此うしてゐては、
遂に
自滅を
免かれぬと思ふ。
「
尤も俺は此の
家の
寄生蟲だからな。」と自分を
貶しつけても見て、「此の家から謂つたら、俺は確に
謀叛人だが、俺から謂つたら、此の家の空氣は俺に適しない、何うも適しない!自體此の家の空氣には不思議な力があつて俺を壓追する
[#「壓追する」はママ]·········何か解らんけれども恐ろしい力で俺を壓迫する。いや、重たい、
首の骨が折れて了ひさうだ。ところで
是ればかりじやない、其處ら中に眼に見えぬ
針があつて、始終俺を
つついて、
燥つかせたり、
憤らせたり、悶々させたり、
欝がせたりする。成程外には俺を張出さうとする力もあるのよ。だが
裡から押出さうとする力も強い、これじや耐らん、
惱亂する。無理に耐へたら遂に
悶死だ!
·········でなけア
發狂だ。
而ると何といふことは無く其所らが怖ろしくなつて、
微な
惡寒が
身裡に
戰いで來る。
「や!」と
きよろ/\して、「氣が變になるんじやないか。
しつかりしろ、何でも
圧し
潰せ!此様なことで
へたばつて耐るか。こら。」
自分で自分を
喚付けて、妄と
地鞴踏む。頭が
嚇として眼が
眩むやうになつた。
其處で少時體を引緊め、石のやうに固くなつてゐて、軈て胸の鼓動の鎭まるのを待つて、「此様なこつちや
爲様が無い。
兎に
角俺の此の壓迫を脱けるとしやう。俺だつて一個の人間であつて見れば、何時まで
自己を
没却して、此様に苦しむでゐる、ことあ有りやしない。一つ
羽を伸して、此の
あやふやな
境遇を脱けて見やうじやないか。これでも藝能があるんだ、幾ら
社會が
せゝこましくなつてゐると謂つても、俺の生活する
領分くらゐ殘してあるだらう、然うよ、そして
世間を廣くして、
自曲の
[#「自曲の」はママ]空氣を吸ふことにしやう。
隷属は、決して
光榮ある
生存じやないからな。身分や家柄
·········其様なものは、俺といふ個人に取つて、何等の必要がある。第一體には
變へられん!」
良々意氣を揚げ
來つて、彼は
熟と考へ込む。是れ、久しい間、彼が頭の中に籠つた大問題である。
抑も周三が
生母の手を
離れて、父子爵の
手許へ迎へられたのは、彼が十四の春であつた。それから
日蔭に生まれた平民の子が急に
日向に出て
金箔を付けられたのが
嬉しくて、幾らか
虚榮心に眼を眩まされた形で、
虚々と日を
暮してゐた。何時の間にか
中學校も
卒業して了つた。此の間、彼の頭に殘るやうな出來事と謂へば、
誰[#「誰」はママ]生母に
亡くなられた位のことであつた。それすら
青春の血の
燃ゆる彼に取つては、些と輕い悲哀を感じた位のことで、決して
左程の打撃では無かつた。ところが
甘前後と
[#「甘前後と」はママ]いふ頃には、誰でも頭に
多少の
變動がある。周三の頭にも變動があつた。
周三は
或時偶然に、「人は何のために生まれたのだらう、そして何のために
活き、何うして死んで了ふのだらう。」といふことに就いて考へた。無論何の動機があつたといふのでは無い。
ひよつくら其様なことを考へたのだ。彼は平坦の路を歩いてゐて、不意に小石に
躓いたやうに
吃驚した。少し
きよろつき氣味で、「成程こりや考へて見なければならん問題だ。
俺等はたゞ生まれて來たのじやあるまいからな。然うさ、何か意味がなくつちやならん
譯だ。」と考へて見る。雖然解らない。解らないながらも、何うかすると解るやうにも思はれることもある、で根氣よく其の考を繰返して見る。其の間に解らぬは別問題として、考へることに趣味を持つやうになつた。何といふことは無く考へるのが面白い。此の考は、始め
ふはりと輕く頭に來た。恰で
空明透徹な大氣の中へ
淡い
水蒸氣が流れ出したやうな
有様であツた。それが日を經る、月を越すに從つて段々と重く
濃かになつて、頭の中を
攪亂し引つ括めやうとする。軈がて周三は、此の考に取ツ付いてゐるのが苦しくなつて來た。で何うかして忘れて了はうとする、追ツ
拂はうとする。雖然駄目だ、幾ら

いたからと謂つて、其の考は
蛭のやうに頭の底に
粘付いて了つた。そして
斷えず其の考に
小突かれるので
[#「小突かれるので」はママ]あるから、神經は次第にひ
弱となツて、
頬の肉は

ける、顏の色は
蒼白くなる、誰が見てもカラ元氣のない
不活發な青年となツて
[#「で何うかして忘れて了はうとする、追ツ拂はうとする。雖然駄目だ、幾ら
いたからと謂つて、其の考は蛭のやうに頭の底に粘付いて了つた。そして斷えず其の考に小突かれるので[#「小突かれるので」はママ]あるから、神經は次第にひ弱となツて、頬の肉は
ける、顏の色は蒼白くなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發な青年となツて」は底本では「は次第にひ弱となツて、頬の肉は
ける、顏の色は蒼白くなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發で何うかして忘れて了はうとする、追ツ拂はうとする。雖然駄目だ、幾ら
いたからと謂つて、其の考は蛭のやうに頭の底に粘付いて了つた。そして斷えず其の考に小突かれるので[#「小突かれるので」はママ]あるから、神經な青年となツて」]、體よりも心に
疾く年を
老らせて了ツた。其所で彼は家庭に於ける思索家となツて、何時も何か思索に
耽ツてゐる、そして何時とは無く實際を
疎ずるといふ
風が出來て來て、
都ての
規則を
無視する、何を爲すのも
億劫になる、嫌になる。そして斷えず「何を爲る?」ということに就いて頭を惱ましながら、實際何一つ
爲出來すことも無く、他から見ると唯ブラ/\と日を暮してゐた。從ツて
飯を
食ふ、寢る、起きる、
総べて生活が
自堕落となツて、朝寢通すやうなこともある、
此くして彼は立派な
怠者となツて、其の
居室までも
やりツぱなしに
亂雜にして置くやうになツた。相と謂つても周三は、女の匂を
嗅ぎ廻して
頭髪に
香水の匂をさせてゐるやうな浮ついた眞似をするのでもなければ、
麦酒ウイスキーの味を覺えて、紅い顏をして
街頭を
うろついて歩くやうな
不躰裁な眞似をするでも無い。たゞ勢の無い、蒼い顏をブラ下げて、何も
爲ずに室に燻ぶり込むでゐるだけであツた。
要するに彼は、
宇宙の本體を
探らうとしたり
人生の意義を
究めやうとして、種々な思想を
生噛にしてゐるうちに、何時かデカタン派の
影響を
受けて、そして其の空氣が弱い併しながら
ねばツこい力で、次第に其の頭に
浸潤して行くのであつた。
自體
國家とは動く人間に
依つて
組織されるのであるから、國家は
些も此の
種の
不生産的の人間を要しない。國家の要しないやうな人間は、何所の家庭にだツて餘り
歡迎される
筈が無い。そこで彼は、勝見の家に對しても、また父子爵に對しても
むほん人となツた。父子爵といふ人は、
維新の
どさくさ紛れに、何か
仕事をして、實際の力以上に
所謂國家に
功勞ある一
人となつた人である。
明治政府になツてからも、
久しくお
役人の
大頭に加へられてゐて、頭は古いが馬鹿でなかツたので、一度は
歐羅巴駐剳の
公使になツたこともある。それで
華族令が
發布されると直に華族に
列せられて、
勲章も大きなのを
幾個か持ツてゐるやうになる、馬車にも乘ツて歩けるやうになる、何處へ押出しても立派に「
御前」で通れるほどの身分となツて、腰は曲ツても頭は何時も空を向いてゐる人であツた。今では
閑職に就いてゐるが、それでも
大官は大官だ。
精力はある、
覇氣はある、酒は
飮ける、女には眼が無い、
平ツたく謂ツたら頑固な利かぬ氣の
爺さんで、別の言で謂つたら身分の高い
野蠻人である。其の
癖馬鹿に
體面と
血統を重んじて。そこで妾の腹に出來ても、自分の
種は種であるといふところから、周三を連れて來て
嗣子としたのであつた。從ツて目的がある。父は、周三を自分の
想通りに動く
木偶になツて
貰ひたかツた。して、
官吏または
軍人にして、身分の體面を
維持し、家の
基礎を動かさぬだけの人間に仕上げやうと期してゐたのであツた。
然るに周三は何時も此様なことを考へてゐた。「然うさ、
阿父の想は解かツてゐる、俺を家の
番人にしやうといふんだ
·········魂のある
道具にして置かうといふんだ。一體家の阿父なんぞは、
慈愛だとか、人權を重んずるとかいふ考があツて耐るものじやない、とすりや、俺が此の家の嗣子となツたといふのも、俺自身に子爵家の
嫡子となツて
のさばる資格があるのじやなくツて、事件が作ツた資格さ。俺に取ツちや
眞箇偶然に得られた資格で、阿父からいふと必要に迫まられて
與へた資格なんだ。此様な資格が俺に取ツて何程の價値がある
·········假りに子爵が平民よりは
えらいといふ特權があるとして見てからが、俺が子爵家の相續人となつたのに何の
有難味があるんだ。人として何所に
えらい點がある?俺は自己を發揮しなけりやならん、自己の存在を明にしなければならん
·········此様な家なんか、俺に取ツちや何でもありやしない。阿父は俺を生むで呉れた、併し其れが何も
負ふところはありやしない
·········俺は阿父に對して何等の義務も約束も持ツて生まれて來なかつた。要するに何等の意味も目的も無く生まれて來たのだ。」
周三は
奈何なる場合にも「自己」を忘れなかツた。そして何處までも自己の權利を
主張して、家または
家族に就いて少しも考へなかツた。無論家の
興廢などゝいふことは
頭で
眼中に置いてゐなかた
[#「置いてゐなかた」はママ]。勢、父子爵と衝突せざるを得ない。父の彼に對する期待は
甚だ不安となつた。雖然父子爵とても人の親であるから、子に對する慈愛が無いでは無い。で思切つて此の一
家内の
むほん人を家から
放逐するだけの
蠻勇も無かツた。雖然家は周三よりも大事である。結局周三を
壓伏して自分の考に
服從させやうとした。併し周三は、實に
厄介極まる
伜であツた。奈何なる
威壓を加へても
頑として動かなかツた。威壓を加へれば加へるほど
反抗の度を
昂めて來た。そして軈ては、藝術家が最も自己を發揮するに適するからといふ
理由で、
生涯を
繪畫研究に
委ねるからと切込まれた。勝見子爵は
がツかりした。恐らく子爵の生涯のうちに是程氣落のしないことはあるまい。
そこで
父子久しい
間反目の
形勢となツた。母夫人はまた、父子の間を
調停して、
冷ツこい家庭を
暖めやうとするだけ家庭主義の人では無かツた。何方かと謂へば、父子の反目に就いて些とも
頓着しなかツたといふ方が
適當だ。好く謂ツたら
嚴正な
中立態度[#ルビの「ちうりつないど」はママ]で、
敢て子爵の味方をするのでも無ければ、また周三に同情を寄せるでも無かツた。さればと謂つて、
審判官となツて、一家の爲に何れとも話を
纒めるといふことも無く、
のんきに
高處の見物と
出掛けた。
勿論母夫人は、華族でもなければ、藝術家でも無い。
加之自分の分としては
財産も幾分別になツて、生活の安全も
保證されてあるから、夫人に取ツては、何方が
勝ツても
敗けてもカラ平氣だ。そこで
要らざる
おせツかいをせぬ事として
澄まし返ツてゐた。
父は
憤ツてゐる、母夫人は
冷淡だ。周三は何處にも取ツて
付端が無いので、
眞個家庭を離れて了ツて、獨其の
室に立籠ツて頑張ツた。同時に彼は、子爵といふ
冠のある勝見家の
門内に
住まツて、華族といふ名に依ツて存在し、其の自由を
束縛されてゐることを甚だ窮窟にも思ひ、また
意久地なく無意味に思ふやうになツた。そして何時とは無く
病的に華族嫌となツて了ツた。此の反動として、彼は
獨斷で、父の
所思に頓着なくドシ/\繪畫の研究に
取懸つた。
此の根氣くらべは、遂に父子爵の
敗北となツた。一つは
多少慈愛に引かれた
結果[#ルビの「けつくつ」はママ]もあツたが、
更に其の
奥を探ツたら、周三を
遂ツて了ツては
血統斷絶の打撃となるから、出來ぬ我慢をして
左に
右周三の
意志を
尊重することにした。子爵は
諦めたのだ。また周三に對する考も
變ツた。
「伜は
阿呆だが、好い
孫を生ませる爲に家に置く。」
これが子爵の心の奥に
潜めた響であツた。要するに周三は、子爵の爲に、また勝見家の爲に
種馬の資格となツたのだ。好い
馬を生ませる爲に、種馬の
持主は誰にしても種馬を大事にする。此の意味で周三は、一家内から
相應に
手厚い
保護を受けることになツた。繪を研究する爲には、
邸内に、立派な
獨立の畫室も
建てゝ貰ツた。そして他から見ると、
言分の無い幸な
若様になツてゐた。雖然種馬は遂に種馬である。父は
飼主の權威として、彼を壓迫しても其の義務を果させやうとした。然るに周三は、何處までも厄介極まる伜となツて此の壓迫に反抗した。
「何うかして、此の
壓制の空氣を脱れたい。」
周三は
絶えず此の事に就いて考えてゐた。雖然周三とても
遉に世の中の
波の
荒いことを知つてゐた。で熱する頭を押へて、
愼重に
詮議する積で、
今日まで
躊躇してゐたのであつた。
併しながら今や
絶體絶命の場合となつて、何方とも身の振方を付けなければならぬ
破目に押付けられてゐる。で、
「
斷行さ。もう何も考へてゐることあ有りやしない。此の上
愚圖ついてゐたら、俺は
臆病者よ、加之お房のことを考へたつて
·········」と思はず
莞爾して、「然うよ、こりや一番お房に相談して見るんだな。」
其處で
燥つ心を押付けて、
沈思默想の
體となる。と謂ツても彼は、何時まで此の問題にのみ取つ付いて、
屈詫の
[#「屈詫の」はママ]多い頭腦を苦しめてゐる程の
正直者では無かツた。
空想は、彼の
病である。で此の場合にも彼は何時か、自分が飛出さうと思ふ社會に就いて考へた。社會の組織、社會の制度、社會の状態、社會の
缺陥==何故人間社會には、
法律の
條文と
巡査の
長劍が必要なのであらうか。何故世の中には
情死や
殺人や
強盗や
姦通や
自殺や
放火や
詐欺や
喧嘩や
脅迫や
謀殺の騒が斷えぬのであらうか、何故また
狂人や
行倒や
乞食や
貧乏人が出來るのであらうか。それからまた、
我々の住むでゐる、社會には、何故人間を
作へる學校と人間を
押籠めて置く監獄とが存在してゐるのであろう。また何が故に別
莊を
有つてゐる人と
養育院に入る人と。
俥に乘る人と
曳く人と
教會に行く人と
賭場に行く人とが出來るのであらうか
||際限も無く此様なことを考へ出して、何んとか解決を得やうと

いて見た。雖然解らなかった
[#「解らなかった」はママ]。
其の
間に
不圖また考が
外れた。今度は
砂漠に就いて考へた。
「時々キヤラバンが通るばかりで、さぞ
淋しいことだろう。だが其處にだツて人生があるんだ。」と思ふ。
「ところで俺は其の沙漠の中に
抛出されたやうなものなんだ。時々オーシスに
出會するやうなことも無いぢやないか、淋しい旅だ!何方を向いたツて、
支へて呉れるやうな者が
見當らない。たゞ沙漠の
砂の
※[#「檄」の「木」に代えて「火」、U+71E9、35-3]けてゐるやうに、頭が
熱ツてゐるばかりだ。そして何時
颶風が起ツて、此の體も魂も
埋められて
了うか知れないんだ。」
考へると、自分が
極めて
危險な立場にゐるやうに思はれる。
「そりや其の筈よ、俺は何等の目的も無く
妾の腹に
胚ツた子なんだからな。」
此様な具合に、頭の底に籠つてゐた考が、段々とハツキリ胸に閃いて來る。
「よし、俺は何うしても、自分のことは自分で始末を付けるとしやう。自分の頭に
たかツた蠅は、自分で逐ふさ。
躓いたツて、倒れたツて、人は何でも自分の力で、自分の行く道を
拓いて行ツた方が、一番安心だ。それがまた
生存の意義にも適してゐるといふもんだ。馬じやあるまいし、種を取る爲に保護を受けてゐて耐るものか。」
此の間、何うかすると、ゴト/\、ゴト/\と、輕い、併しながら
不愉快な響が耳に入ツて、惡く神經を小突く。氣が付いて見ると、其は風が
中窓や風拔の戸に
衝突ツて
鳴るのであツた。
「此の風では、
街頭の
砂ツ
埃は
大變なものだらうな。いや、
東京の空氣は
混濁してゐる。空氣が
濁ツてゐるばかりなら
可いが、其の空氣を吸ツて
活きてゐる人間は
皆濁ツてゐる
·········何しろ二百
萬からの人間が、
狭い
天地に、パンに
有付かうと思ツて
※々[#「目+干」、U+76F0、35-16]してゐるんだ。
皆血走ツてゐるか、
困憊きツた
連中ばかりで、
忍諸してゐたら
腮が
干上がらうといふもんだから、
各自に
油斷も何もありやしない。お互に生存の安全を得やうといふんで、
惡狡く、
すばしこく立廻ツて、そりや
惨忍なもんだ。少し間の
延びた顏をしてゐる者があツたら、
突倒す、
踏
す、
噛付く、
かツ拂ふ、
唸る、
喚く、慘
憺たる
惡戰だ。だから
汗と
垢とが
到處に
充滿になツてゐて、東京には
塵埃が多い。然ういふ俺も、其
毒惡な空氣の中へ飛込んで
奮闘しやうといふんだが、
武裝は
充分かな?」
去事となると、何だか氣
怯がする。何處かで、「心細い。」と
囁くやうな
聲もする。而ると、
黄塵濛々々として
[#「濛々々として」はママ]、日光さへ
黄ばむで見える
大都の空に、是が二百
萬の人間を活動させる
原動力かと思はれる
煤煙が毒々しく
眞ツ黒に噴出し、
すさまじい勢で
ぼやけた大氣の中を
縦横に
渦巻いてゐるのがハツキリ眼に映ツて來る。同時に風の音と共に、都會の複雑な音と響とが
ごツちやになツて、微に耳に響く。周三は、何と云ふ譯もなく此の音と響とを聞き分けて見やうと思ツて、
熟と耳を澄ましてゐると、其の遠い音と響とを
消圧して、近く、邸内の
馬車廻の
砂利に
軋む馬車の
轍の音がする。周三は耳を
聳てゝ、「ほ、
御前、何處へか
おなりとお出でなツたな。」
とニヤリとする。「先づ
しめたもんだ、
鰐の口の方でお逃げなすツたといふ奴よ。これで、俺様の天下さ。どれ、穴を出て、久しぶりで
喉に
痞えぬ飯を喰ふとしやうか。」
馬鹿に氣が
伸々として來る。そこで、
ぐいと落着拂ツて、平筆を洗ツて、片付けるものを片付けにかかる。片付けながら、彼は、ふと此んなことを考へた。「
那の壓制君主さへゐなかツたら、子爵家の
主人になツてゐられるのだ。」
氣が付くと、頭の底に籠ツてゐる考は、何時か固い決心となつてゐたのであツた。それから二時間ばかり經ツて、周三は
髭を
剃り、頭髪を
梳き、薄色のサツクコートで、彼としては
研上げた
男振りとなツて、
そゝくさ嚴しい勝見家の門を出て行ツた。無論お房の家へ出掛けたので。
* * * * *
二週間ばかりすると、周三の生活状態は、からり一變して了ツた。彼は勝見の家の壓制な空氣を脱て、お房の家に同居した。所詮
永い間の空想を實現させたので、無論父にも
義母にも無斷だ。彼は此の
突飛極まる行動に、勝見の一
家を
まごつかせて、
年來耐へに耐へた
小欝憤の幾分を
漏らしたのである。一
片の
宣言書==其は頭から
尻尾まで、
爆發した感情の
表彰で、
激越を
極め、所謂阿父の
横ツ
頬へ
叩き付けた意味のものであツた。先ず自己を尊重するといふ理由に依ツて、子爵といふ金箔を
塗ツて社會に立たうと思はぬといふのを
冒頭にして、彼の如き事情の下に生まれた子は、親の命令に服從する義務が無いと
喝破し、假に義務があるとしても思想を
異にしてゐるのであるから、壓制の
俘となツてゐることは出來ない。成程舊い
道徳の
繩では、親は子供の體を縛ツて家の番人にして置くことが出來るかも知れぬが、藝術の權威を
遵奉する自分の思想は其の繩を
ぶち斬る。例へば貴方の方には、自分をお
叩頭させたり
押籠めたり裸にしたり踏

したり、また場合に依ツたら
殺しもすることの出來る力があるかも知れぬが、たゞ一ツ、自分の頭に籠ツてゐる「
或物」だけは何うしても
剔出することは出來ない。としたら、
貴方が、
力を似て
[#「似て」はママ]自分を壓しやうといふことは、殆ど
無用の
惡
と云はんければならぬ。尤も眼を
剥いて見せたら子供は
怖がる、
拳を振廻したら
猫に逃げる、雖然魂のある
大人に向ツては何等の
利目が無い。自分は
王侯の
寵愛に依ツて馬車に乗ツてゐる
狆よりも、
寧自由に野を
のさばツて歩く
むく犬になりたい。自分は自分の力によツて自分の存立を保證する。自體自分には親が無い。また何等の目的を持ツて生まれなかツた。
徒らに出來た子は、何處までも徒らに出來た子になツてゐたからと謂ツて、誰からも
不足を聞く譯は無い筈だ。貴方の都合に依ツて、假に
與へられた目的、目的に
附隨する資格、其は
改めて
唯今返上する。
種馬として
名馬の
仲間に加はるのは甚だ光榮を感ずべきことかも知れぬ。併し自分は親の光を
取受ツて
[#「取受ツて」はママ]、自分を光らせやうとも思はなければ、また華族なる特別の
階級に立ツて自己を
沒却するのも嫌だ。自分はたゞの人として自己を發揮すれば
足りる。と云ふに
筆を止めて置いた。そして
散歩にでも出るやうに、ぶらりと勝見家の門を出て了ツた。畫室などは
そツくり其の
儘にして置いて、何一つ持出さなかツた。殆ど身一つで子爵家の空氣を脱れたといふ有様で、「自然の心」をすら放ツたらかして出て了ツた。此の意味からいふと、彼は子爵家から逃げたばかりで無い、其の生命とする藝術をすら見捨てたと謂はなければならぬ。何しろ周三は、其の
際氣が
せきゝてゐて、失敗の製作までも
回護ふだけ心に
餘裕がなかツた。雖然奈何なる道を行くにしても
盲者は
杖を持ツことを忘れない。また何様な
醉どれでも
財布の始末だけはするものだ。周三も其の通りであツた。幾ら空想に醉はされてゐたと謂ツて、彼は喰はなければ活きて居られぬといふことを知ツてゐた。また自分の藝能では、此の喰ツて行くといふことが甚だ不安であることも知ツてゐた。そこで幾ら自由の空氣を吸う爲に氣が
慌て燥ツてゐたとは謂へ、また奈何にお房の匂を慕ツて心が
混沌としてゐたからと謂へ、彼は此の生活の不安に對する用意だけは忘れなかツた。彼は勝見の家を出ると定めてから、二三日間といふものは殆ど是が爲に
奔走して暮した。そして父の信用に依ツて多少の金も
借入れる、また自分の持ツてゐた一切の
貴重品を
賣拂ツて、
節約してゐたら、お房
母子諸共一年間位は何うか支へて行かれるだけの用意をした。彼としては非常な
大骨折で、
僅か二三日の間に、
げツソリ頬の肉が

けたと思はれるばかり體も
疲れ心も
勞れた。
此の
疲勞が出たのか、周三は、お房の許へ
引越して來た
晩は實に好く眠ツた。
不圖眼が覺めた。其處らが
寂として
薄暗い。體が快く
懶く、そして頭が馬鹿に輕くなツてゐて、
近頃になく
爽快だ
·········恰で頭の中に籠ツてゐた腐ツたガスがスツカリ拔けて了ツたやうな心地である。氣が付いて見ると、何だか
寢心が違ふ、何時も
寢馴れた
寢臺に寐てゐるのでは無い。
「酒にでも醉ツぱらツて、此様な所に寐かされたのかな。」と思ツて見る。彼は
幻心で、尚だ邸に眠ツてゐるものと思ツてゐたのであツた。
足が
けツ倦いので、づいと伸ばして、寐
返を打つ、體の下がミシリと鳴ツて、新しい
木綿の
芬が微に鼻を
撲ツた。眼が
辛而覺めかかツて來た。
而ると
階下の方で、
「お房や、些と
先生をお起し申し上げたら
可いじやないか。だツて、もうお午だよ。」と甘ツたるいやうな、それでゐて
疳高い聲がする。お房の母親の聲だ。
「でも、
熟くお
眠ツてゐらツしやるんだもの、惡いわ。」と今度は
圓い柔な聲がする。基れはお房で。周三は何といふことは無く
熟と耳を澄ました。眼はパツチリ覺めて了つた。でも尚だ
床の中にもぐもぐしてゐると、
「だツてさ、お前、其様なにお
眠ツちや、
瞳が
溶けてお了ひなさるよ。
じようだんじやないわね。」
「溶けたツて、
此方の眼じアあるまいし、
餘計な
おせつかいだわ。」と輕く投出すやうに謂ツた。かと思ふと
海酸漿を鳴らす音がする。後はまた
寂然する。
「成程俺はもう自由の空氣を吸ツてゐるんだ。今日からは、俺は俺の天下だ、誰にも頭を押へられはせんぞ。自立、自立
·········一つ大に行らう。」
考へると、氣が伸々とする。何だか新しい
潮の滿ちて來るやうな、
旺んな、
爽快な感想が胸に
湧く。頭の上を見ると、
雨戸の
節穴や
乾破れた
隙間から日光が射込むで、其の白い光が明かに
障子に映ツてゐる。彼は確にお房の家の二階に寐てゐたことが解ツた。
「好い氣味だ、阿父め、遉に吃驚してゐるだらう。いや、果断さね。俺としちや確に大出來だ。ふゝゝゝ。」と笑出して、「阿父め、確に俺に是れだけ行る
度胸が無いものと
見くびツてゐたんだからな。
那の手紙を見て、何様顏をしてゐるか
·········おツと、其様なことは何うでも可いとして、これから小時
暗中の
飛躍と出掛けるんだ。誰にも
默ツて、此處に引込むでゐて、何か出來た時分に、ポカリ現はれて呉れる
·········屹度大向やンやと來る。そこで大手を振ツて阿父の
許へ出掛けて、俺の腕を見ろいさ。」
蒲団をば
刎ねて、
勢好く飛起きた。
寢衣を
着更へて、雨戸を
啓けると、
眞晝の日光がパツと射込むで、
眼映しくツて眼が啓けぬ。で子供が眼を覺ました時のやうに、眼を
ひツ擦ツてゐると、誰かギシ/\音をさせて、
狭い
楷梯を
登つて來る。
「お房かな。」と思ツて、
所故振向きもせずにゐる。果してお房だ。
お房は
上口のところへ顏を出すと直ぐに、「ま、先生、能くお寐ツてね。」と他を輕く見たやうな、
うはついた調子でいふ。
周三は輕い不快を感じて、些と
苦い顏をしたが、「
草臥れてゐたからさ。」
「ま、
弱蟲ね。先生、そんなにお
働きなすツて。」と馴々しい。
「いや、格別働いたといふのじやないが、その、頭を使ツたからさ。」
「頭を使ふと、體まで疲れるもんですかね。」とお房は馬鹿にしたやうな
薄笑で。
頭でお話にならぬので、周三は默ツて了ツた。
お房は、其には頓着なく楷梯を上りきると、先づ
がたびしする雨戸を三枚啓けて、次に手ばしこく蒲團を
畳んで押入へ押籠む
······夜の
温籠は、
二十日鼠のやうに動くお房の
煽[#ルビの「まほり」はママ]と、中窓から入ツて來る大氣とに
冷されて、其處らが
廓然となる。お房は、更に其處らを片付け始めた。周三は此の間、お房の
邪魔にならぬようにと氣を
遣ツて、
彼方此方と位置を移しながら、ポンとして突ツ立ツていた。が、不愉快だ。此處の空氣にも何だか自分を壓迫する
要素が籠ツてゐるやうに思ツた。
併しお房は氣が利いてゐる女だ。何時の間にか新しいタオルと
石鹸と
齒磨と
楊子とを取
揃へて突き出しながら、
「むゝ。」と
膨れ氣味の
坊ツちやまといふ
見で、
不承不精突出された
品を受取ツて、
楊子をふくみながら中窓の
閾に腰を掛ける。此の
指圖めいたことをされたのが、また氣に
觸ツて、甚だ自分の尊嚴を傷つけられたやうに思ふ。でも直に思ひ復へして、
「
教養の無い女だから爲方がないさ、我慢しろ。其も是も承知で
惚れたんじやないか。」と
怜悧に
諦めた。そして、「何だツて俺の感情は、
此う
鋭敏なんだ、恰で
蝟のやうさな。些とでも觸ツたらプリツとする
·········だから誰とも
融和することが出來ないのよ。何故もそツと
おツとりしない。」
風は
軟に吹いてゐた。
五月の空は少し濁ツて、眞ツ白な雲は、時々
宛然大きな鳥のやうに
悠に飛んで行く。日光は薄らいだり輝いたり、都ての
陰影は絶えず變化する。
待乳山の若葉は何うかすると眼映しいやうに
煌いて、其の
鮮麗な
淺緑の影が薄ツすりと此の室まで流れ込む。不圖カン/\
鰐口の鳴る音が耳に入る。古風な響だ。
「何だね、ありや?
·········」と周三はお房の方へ振向いた。
「あれ
·········」とお房は些と首を傾げ、箒を持つ手を止めて、
「鰐口の音ですわ。誰か
聖天樣へお
参詣してゐるんですよ。」
「お参詣すると何様な功徳があるんだね。」と
ちやかすやうに謂ふ。
「何様功徳があるか知らないけど、
衆がお参詣なさるんですの。」
「
衆ツて何様人さ。」
「ま、藝人が多いのね。そりや
素人だツて、隨分お参詣なさいますけども。」
「素人衆ツて、何だえ。」
「貴方のやうな方なんですもの。」と澄ましていふ。
「じや、
房ちやんもお参詣するのか。」
「え。つい
此間までお百度を踏むでゐたんですもの
·········少しお願があツたもんですから。」と首を縮めて莞爾する。
「お
願?
·········」と周三は眼を

ツて、「お願とア、何様なお願なんだえ。」
「そりや
秘密なんですとさ。」と輕く謂ツて、「聞きたきア、聖天様に伺ツてゐらツしやい。」
「何だえ、隱さなくツても可いじやないか。」と少し突
ツかかり氣味になツた。
「隱すツて譯じやないんですけれど
·········」と些と思はせぶりを行ツて、「ま、
止しませう。私にだつて、
御信心があるんですとさ。ね、解ツたでせう。」と
邪氣の無い
笑顔を見せる。
「解らんね、些とも
·········」と周三は苦りきつて、「謂ツたツて可いだらう。謂はれない?
·········」
「だツて
極が惡いんですもの
·········」と
嘘でない
證據といふやうに顏を
赧め、「
男の
方ツてものは、他の事を其様に
根堀り
葉堀りなさるもんじやないわ。」
「
生意氣謂ツてゐら
·········」と
投出すやうに謂ツて、「して、何かえ。其の、お百度の
御利益があツたのかえ。」
「は、有ツたから、貴方が私ツ
許へ來て下すツたんでせう。」と低い聲で、眞面目に謂ツて、クスリ/\笑い出した。
「何だ。」と周三は傍を向いて苦笑した。彼は確に
おひやられたのであツた。雖然何と思ツたのか格別腹も立てなかツた。
二
階と謂ツても、
眞ンの六
畳一と
室で、一
間の
押入は付いてゐるが、
床の
間もなければ
椽も無い。何のことはない
箱のやうな
室で、たゞ南の方だけが中窓になツてゐる。天井は思切ツて
煤けてゐて、而も低い。
壁は、古い
粘土色の紙を張りつめてあツたが、
處々破れて
壁土が
露出て、鼠の穴も出來ている。加之
柱も眞つ黒なら、畳も古い、「確に舊幕時代の遺物だ。」と思ツて周三は、
づらり室を見廻して、「
幕府時代の遺物の
裡に、幕府時代の遺民が舊い夢を見ながら、辛うじて外界の壓迫に耐へて活きてゐるんだ。ま、
敗殘の人さな。俺の
阿母も然うだツたが、
當家の
母娘だツて然うよ。昔は何うの此うのと蟲の好い熱を吹いてゐるうちに、文明の皮を被てゐる田舎者に
征服されて、體も心も腐らして了ふんだ。早い話が、此の家にしても然うじやないか、三軒の
棟割長屋を二軒まで田舎者に
占領されてゐる。そして都會は日に日に
膨脹する
·········膨脹とはガスが風船を膨らませる意味なんだから、
膨らむだけ
膨らむだら何時か破裂だ。何しろ米の出來る
郷にゐる
田舎者が、
米の出來ない東京へ來て
美味い
飯に
有付かうとするんだから
耐らん
·········だから東京には
塵芥が多い。要するに東京は人間の
掃溜よ。俺も掃溜の中にもぐ/\してゐる一人だ。田舎者の眞似じやないが、米の無い土地で米を
稼がうとするんだ。自體人間の生存税は
滅切高價になツて來た、
殊に
吾々藝術家は
激戰の
最中で
平和演説を
行ツてゐるやうなもんだから、
存立が
危い!
·········これからは誰が俺の
腑を
充して呉れるんだ。
豈夫パレツトを
看板にしてフリ賣もして歩けないじやないか!」
考へると
心細くなる。何處に取ツて
付端が無いやうにも思はれる。
「俺も愈々渦の中をまひ/\してゐる塵芥になツてアツたんだ
[#「アツたんだ」はママ]。」眼をそらして、づツと
街頭の方を見る。何も見えない、窓と
屋根ばかりだ。中には
活々と
青草の
生えている古い
頽れかけた屋根を見える。屋根は恰で
波濤のやうに高くなツたり低くなツたりして
際限も無く續いてゐた。日光の具合で、處々光ツて、そして
黯くなツてゐる。此の屋根の
波濤は、大きな東京の
蓋だ。
「蓋!大きいが、
脆い蓋だ!何うかすると、
ぶツ壊されたり、
燒けたりする。併し直に
繕はれて、町の形を損せぬ。ただ
瓦が新しくなツたり古くなツたりするだけだ。」
古來幾多の人間は、其の下で生まれ、そして死んだ。時が移る、人が變る、或者は
破壊した。併し或者は繕ツた。そして
永劫の或期間だけ蓋の形を保續して來た、要するに
集まツた人の力が
歳月と
闘ツて來たのだ。雖然戰ツた
痕跡は、都て埃の爲に消されて了ツた。
「埃の力は
偉大だ!」と周三は、
吻ツと
歎息して、少時埃に就いて考へた。
大なる都會を
埋め
盡さうとする埃!
·········其の埃は今日も東京の空に
漲ツて、
目路の
涯は
ぼやけて、ヂリ/″\
照り付ける
天日に
焦がされたやうになツてゐた。其の
鈍色を破ツて、處々に
煤煙が
上騰ツてゐる。
眞直に
衝騰る勢が、何か壓力に支へられて、横にも
靡かず、ムツクラ/\、恰で
沸騰でもするやうに、
濃黒になツてゐた。此の
烟と
埃とで、新しい東京は
年毎に
煤けて行く。そして人も
濁る。つい
眼前にも
湯屋の
煤突がノロ/\と黄色い煙を噴出してゐた。其處らは人を
蒸すやうな
温氣を籠めたガスに、
薄ツすり
ぼかされてゐた。其のガスの中から、斷えずカタ/\、コト/\と、車の音やら機械の音やら何やら何うしてゐても聞き
定めることの出來ぬ
鈍い響が
洩れて來る
·········都會の音==活動の響だ。時々
豆腐屋の
鈴の音、
汽笛の音、人の聲などがハツキリと聞える。また
待乳山で鰐口が鳴ツた。
周三は、吃驚したやうに頭を
擡げると、お房は何時の間にか
掃除を
濟まして
脇に來て突立ツてゐた。
「何を考へてゐらツしやるの。」
「何も考へてゐやしない。」と
無愛想に謂ツて、
墨々とお房の顏を見ると、
「あら、其様に見詰めちや嫌ですよ。何か、
くツついてゐて」と
平手でツルリと顏を
撫でる。
「何が、
くツついてゐるもんか。
白粉を拔り
こくツた顏に、紅い唇と黒い眼と
眉毛とが
くツついてゐるだけよ。」
「じや、
おばけ見たやうね。かあいさうに、これでも鼻がありまさアね。」
「誰も無いとあ謂やしない。確に眞ん中にある。而も好い鼻さ。」とふざける。
「え、何うせ然うなんですよ。
憎らしい!
·········」と眼に險を見せ、些と顎を
しやくツて、づいと顏を突出す。其の
拍子に、何か眼に入ツたのか、お房は急に
肝々して、
甚く
面喰ツた
髓となる
[#「髓となる」はママ]。
「何うしたんだ。」と周三も
怪訝な顏をする。
「あれ、
御覧なさいよ。誰か此方を見てゐますよ。」と囁くやうにいふ。
振向いて見ると、成程誰か、待乳山の
観望臺に立ツて
熟と此方を見下してゐた。
周三は眼色を變へて、
衝と
立起ツたかと思ふと、
突如ピツシヤリ障子を閉めきツた。
「まあ。」とお房は、其の
猛烈な勢に
呆れて、
瓢輕な顏をする。
「可かんな。
那處から此の室を見下されちや、恰で
高土間で
芝居見物といふ格だ。」と嫌な顏をする。
「可いじやありませんか。見られたツて、何でも無いんですもの。」
「いや、可かんよ。これじや來る奴にも見られるんだからな。俺は
當分隱れてゐなけアならん體なんだ。」
「解るもんですか。」
「いや。」と
剛情に頭を振ツて、「解らなくツても、見世物ではあるまいし、他から見られるといふのが面白くない。可かんよ、何とか工夫をしなけア
·········」と考込む。
「じや、障子を閉めきツて置いたら可いでせう。」
「ま、然うでもするんだが
·········然うすると、體に好くない。それでなくとも
·········」と室の隅から隅へ眼を配ツて、「空気の
流通が惡いんだからな。」
「其様な勝手なことを
有仰ツたツて可けないわ。そりや何うせお
邸にゐらツしやるやうなことは無いんですからね。」と何でも
づけ/\いふのがお房の癖である。
「むゝ。」と默ツて了ツて、「何しろ氣の
塞まる室だ。これじや畫室の裡に押込められてゐた方が氣が
利いてゐるかも知れん。」と思ふ。
間も無く
兩人が
階下に下りた。階下はまた非常に薄暗い。二階から下りて來ると、恰で穴の中へでも入ツたやうな心地がする。それでも六
畳と三畳と
二室あツて、
格子を啓けると直ぐに六畳になツてゐた。此處でお房の母は、近所の小娘や若い者を集めてお
師匠さんを爲てゐる。と謂ツて、自分でも出来るといふ程出來はしないと謂ツてゐる位だから、大した腕は無い、長唄の地に、
歌澤も少し
彈けて、先づモグリをしてゐるには
差支のない分のことだ。
隅の方には古いながらも
前桐の
箪笥も一本置いてあツて、其の上に
鏡臺だの針箱だのが
載せてある。何れも
性の知れたものだが、手入が可いので
見榮がする。正面には家に較べて立派な
神棚があツて、傍の方に小さな
佛壇もあツた。神棚には
福助が乗ツかゝツてゐて、箪笥の上には大きな
招猫と、色が
褪めて
凋んだやうになつて見える
造花の
花籠とが乗りかツてゐた。壁には
三味線も
三棹かゝツてゐる、其の下には
桐の
本箱も二つと並べてある。何しろ此の家の財産の
目星しい物といふ物が殘らず
さらけ出してあるのだが、其れが始末好く
取片付けられてゐるから、
其處がキチンと締ツて
清潔だ。そして此の
陰氣な
じめ/\した室にも、何處となく、
小意氣な
瀟洒した江戸的氣風が現はれてゐた。三畳の方は茶の間になツてゐて、此處には
長火鉢も
据ゑてあれば、小さな
ねずみいらずと
安物の
茶棚も並べてある。
柱には種々なお札がベタ/\
粘付けてあツた。次が
臺所で、
水瓶でも
手桶でも
金盥でも何でも好く使込むであツて、板の間にしろ
竈にしろ
釜にしろお
飯櫃にしろ、都て
拭つやが出てテラ/\光ツてゐた。雖然外は
汚ない。市井の
底に住む
人等の
脂と汗とが
浸潤してか、地は、
陰濕して
どす黒い
·········其の
どす黒い地
べたに、ぽツつり/\、白く
洒れた
貝殼が恰で
研出されたやうになツてゐる。
下水からは下水の水が
溢れてゐる、芥箱には芥が
充滿になつている。其處らには赤く
銹びたブリキの
鑵の
ひしやげたのやら
貧乏徳利の底の拔けたのやら、またはボール箱の破れた切ツ端やら、ガラスの
破片やら、是れと目に付くほどの物はないが、要するに
廢れて放擲られた都會の生活の
糟と
殘骸·········雨と風とに
腐蝕した
屑と切ツ
ぱしとが、
尚しも
淋しい
小汚ない
影となツて
散亂ツてゐる。臺所から十歩ばかりで井戸がある。井戸は
舊時代の
遺物と謂ツても可い車井戸で、流しの板も
半腐になツて、
水垢と
苔とで此方から見ると薄ツすり
青光を放ツてゐた。車も歳月の力と人の力とに
磨り
減らされて、繩が
辛而篏ツてゐる位だ。井戸の傍に
大株の
無花果がコンモリとしてゐる。馬鹿に好く葉が
繁ツてゐるので、其の
鮮麗な
緑色が、
寧ろ
暗然として
毒々しい。これが、此の
廢殘の
境に
のさばつて尤も人の目を
刺戟する
物象だ
·········何うしたのか、此の樹の
梢に
赤い
絲が
一筋絡むで、スーツと
大地に落ちかゝツて、フラ/\
軟い風に
揺いでゐた。
何故か此の有るか無きかの影が、ハツキリと眼に付いた。
「誰が、
彼處へ
彼様糸をかけたのだらう。」と周三は考へた。
途端に日はパツと
輝いて、無花果の葉は緑の
雫が
滴るかと思はれるばかり、鮮麗に
煌く。
何しろ幾百
年來、
腐敗したあらゆる
有機體の素を
吸込むで、土地は
しツけてゐる。ところへ
物を
蒸し、そして
發酵させるやうな日光が
照付けるのであるから、地は
むれて、
むツと息の
塞まるやうな
温氣と
惡臭とを
放散する。
「生活の
饐える
臭だ!」
其の時、周三の頭に、
幻の
如く映ツたのは、都會生活の
慘憺たる
状態だ。「何も驚くことはありやしない。此の臭を
嗅ぎ
馴れて
平氣になツて了はなけア、自分で自分の
存在を
保證[#ルビの「ほよう」はママ]することが出來ないんだ。」
雪隱の
傍には、
紫陽花の花が
痩せ
ひよろけて
淋しく
咲いてゐた。花の色はもう
褪せかゝツてゐた。
其れから少し離れて、
隣家で

ツて捨てた
鰯の頭が六ツ七ツ、尚だ
生々しくギラ/\光つてゐた。其に
銀蠅が
たかツて、何うかするとフイと飛んでは、また
たかツてゐた。
「
那も
造物者が作ツた一個の
生物だ
·········だから立派に存在している
·········とすりや俺だツて、何
卑下することあ有りやしない。然うよ、此うしてゐるのが
既う立派に存在の資格があるんだ。何の目的も無く生まれたからツて
·········何さ、
生むで
貰ツたからと謂ツて、其れが
必ずしも俺の
尊嚴に
泥を塗るといふ
譯ではあるまい。」と周三は、ふと頭の底から苦しい考を引ツ張り出した。
「早い話が、
何家の大事な
公達だツて、要するに、親の淫行の收穫よ。ふゝゝゝ」と
危く快げに笑出さうとして、「ま、安心だ
·········是だけア確に安心が出來やうといふもんだ。そりや生むのは親だらうが、生まれるのは自然だからな。自體親から必要を感じて生んで貰ツた人間が幾らあるんだ?
·········と氣が付かずに、
やきもき氣を
揉んでゐたのア馬鹿だ。成程此の事じや、其様に阿父を憎むことは出來ないて!
·········俺だつて親になるかも知れんのだからな。だが人間と云ふ
奴は、親になると、何うして
其處な勝手な
根性になるんだ。何等の目的も無く生むで置きながら、
伜が
やくざだと
大概仲違だ!其處が人間の
えらい點かも知れんが、俺は寧ろ犬ツころの
淡泊な方を取るな。
彼奴子供を育てたからつて決して
恩を賣りはしない。」
周三は、臺所に立ツて顏を洗ツてゐる間、種々な物を
観て、そして種々な事を考へた。彼の頭は自由の空氣に
呼吸するやうになツても、依然として
忙しく働いて、そして
針のやうに
鋭い。
周三は、此の朝、久しぶりで
下町の水で顏を洗つて、久しぶりで下町の臭を嗅いだ。そして眼に映ツた物は、都て不快な
衝動を
與へたに
抱はらず
[#「抱はらず」はママ]、
而も心には何んといふことは無く
爽快な氣が通ツて、例へば重い石か何んぞに
壓ツ
伏せられてゐた草の
芽が、
不圖石を除かれて、
伸々と春の光に
温められるやうな心地になツてゐた。で、腕の
血色を見ても、
濁が
除れて、若い血が
溌溂として
躍ツてゐるかと思はれる。
頭の中に籠ツてゐた夜の
温籠を、すツかり
清水で
冷まして了ツた、さて
長火鉢の前に
坐ると、恰で生まれ變ツたやうな心地だ。
お房の母は
愛想宜く、「窮屈な、嫌な
箇所でせう。」
と謂ひながら茶を
汲むで呉れる。
「
何有、僕は些と
此様な箇所が
性に
適つてゐるんでね。」
と
負惜みをいふと、
「ま、とんだ
御愛嬌ですこと
·········」と
若々しく笑ふ。
それしやの果てか、何しろ
ほツそりした意氣な
おふくろだ。薄い頭髪、然うとは見えぬやうに
きように
櫛卷にして、
兩方の
顳
に
即効紙を張ツてゐた。
白粉燒で
何方かといふと色は
淺黒い方だが、鼻でも口でも
尋常に
きりツと締ツてゐる。肉は薄い方だ、と謂ツて
尖ツた顏といふでは無い。
輪郭を取つたら三
角に近い方で、
割に
額が
廣く、加之
拔上ツて、小鼻まわりに些と目に付く位に
雀斑がある。それでも
爭はれぬ
證擔は
[#「證擔は」はママ]、眼と眉がお房に
そつくりで、若い時分はお房よりも
仇ツぽい女であツたらうと思はれる。幾度水に
潜ツたかと思はれる
銘仙の
袷に、新しい
毛襦子の
襟を
かけて、
しやツきりした
姿致で
長火鉢の傍に座ツてゐるところは、是れが娘をモデルに出す
人柄とは思はれぬ。年は四十五六、
繊細な手にすら
欺う
小皺が見えてゐた、
[#「見えてゐた、」はママ] お房は、チヤブ臺を
持出したり、
まめ/\しく
立働いて、お
膳の
支度をしてゐる。周三は
物珍らしげに
那れを見たり是れを見たりして、
きよろついてゐると、軈てお膳に向ふ
段取となる。見れば、自分の爲に新しい
茶碗と
角の
箸までが用意されてあツた。周三は一
種暖い
情趣を感じて、何といふ意味も無く
悦しかつた。併し
おかづは
手輕だ、
葡萄豆と
紫蘇卷と
燒海苔と
鹿菜と
蜊貝のお
汁·········品は多いが、一ツとして
胃の
腑の
充たすに
足りるやうな物はない。加之味も薄い。雖然周三は、其れにすら何等の不滿を感ぜず、
舌と胃の腑の
欲望を充すよりも、寧ろ胸に
饒かな
興趣の
湧くのを以つて滿足した。要するに彼は、
設し此時だけにもしろ、味が薄いが、
簡にして要を得た市民的生活が氣に適ツたのであつた。
「
何有、これで
可いさ、
澤山だ。何うにか
辛抱の出来んこともあるまい。人間は、肉は喰はなくつても活きてゐられる動物よ。」
此くて
飯が
濟むと、三人して、一ツきり雑談に時を移した。
雜談の間に周三は、何か
ひツかゝりを作へては、お房の
素性と
經歴とを探つた。そして
約想像して見ることが出來るまでに
手ぐり出した。
要するにお房は平凡な娘だ。周三が思つてゐたよりも
無邪氣で、また思ツたよりも淺い女らしい。たゞ些と輕い熱情のあるのが取得と謂えば取得だが、それとても
所謂鼻ツ
張が強いといふ意味に過ぎぬ。さればと謂ツて、ナンセンスといふ方では無い。相
鷹に
[#「相鷹に」はママ]苦勞もあれば、また女性の
免れぬ苦勞性の
點もある。
無垢か何うか、其れは假りに
疑問として置くとして、
左程濁つた女で無いのは確だ。一體見得坊で、少し片意地な點もあつて、加之に
負嫌。經歴といへば、母と一緒に生活の苦勞を
爲たゞけのことで。
雖然其の運命は悲慘な幕に
蔽われる。父は、お房が十二の年に世間からは
くたばツたと謂はれて首を
縊ツて死んだ。其の動機は事業の
失敗で、
奈何に
辛辣な
手腕も、一度
逆運に向ツては、それこそ
鉈の力を
苧売で
[#「苧売で」はママ]防ぐ
有様であつた。で

けば
躓き、躓いては

き、
揚句に首も廻らぬ
破目に押付けられて、
一夜頭拔けて大きな
血袋を
麻繩にブラ下げて、
脆くも
冷い體となツて了ツた。そして其の
屍體が地の底に
納まるか納まらぬに、お房の家は破産の
宣告を受けて一
家離散となツた。
父といふ人は、
強慾で、そして
我執の念の強い、
飽迄も物質
慾の
旺んな人物であツたらしい。始のほどは
高利の金を貸し付けて
暴利を
貪り、
作事を
構へて他を
陥れ、出ては
訴訟沙汰、
入ツては
俗事談判の
絶ゆる間も無き中に立ツて、
頑として、たゞ其の
懐中を
肥すことのみ
汲々としてゐた。因より
正當の腕を
探つて
儲けるのでは無い、惡い
智惠を
搾ツてフン
奪るのだ
·········だから他の
怨を
購ひもする。併し金は
溜まつた。お房の母は、また、其れが苦になツて、
機さへあれば其の
非行を数へ立てて、
所天を
罵倒した。雖然馬の耳に
念佛だ。一體父は、余り物事に
頓着せぬ、
おつとりした、大まかな質でありながら、金といふ一段になると、體中の神經がピリ/\響を立てて働くかと思はれるばかり、
遣口が
猛烈となる。從ツて
慘忍を極め辛辣を極めて、殆んど
何物も
眼中に置かず、
眞箇シヤイロツク的人物となツて了ふ。されば夫婦の間は、何時か
不和になツて、父は
虐待する、母は反抗する、一
家の
粉統は
事と共に
募るばかりであツた。併しお房は、父が
無類の
強慾にも似ぬ
華美奴であツたお
蔭に、
平常にも
友禪づくめで育ツてゐた。
然るに父の慾望は一年々々に
膨大となツて、其の後
不圖事業熱に取ツ付かれた。そして
怪しい
鑛山やら物にならぬ會社やら、さては株や米にまで手を出したが、何れも失敗で、折角の
集め
銭をパツ/\と
吐き出すやうな結果となつた。
才の無いのに加へて、運が後足で砂と來てゐる
·········何うして其の計畫の
當らう
筈が無い。
名譽よりも地位よりも妻よりも娘よりも、また自分の命よりも大事な財産は、何か事業を起す
度毎に幾らかづつ減つた。減る度に大きな
歎息だ。それでも事業熱は冷めなかつた。
設しや事業熱は
冷めても、失敗を取返へさう、損害を
償はうといふ
妄念が
熾で、頭は
熱る、
血眼になる。それでも
逆上氣味になツて、危い橋でも何んでも
妄と渡ツて見る
·········矢張失敗だ。

けば

くほど
痍を深くして、結局自滅だ。
「いやはや、も、阿父の亡くなツた時の
まごつき方と謂ツたらありませんでしたね。今考ても
ぞツとしますわ。」と謂ツて、
おふくろは、話の一段を付けた。そして些と娘の方を見て、「ですから私等も、
一とつ頃は
可成に暮してゐたものなんですが、此う
落魄ちや
糞ですね。」
周三は
垂頭き加減で、默ツて、
神妙に聞いてゐたが、
突如に、「だが、其の
贅澤を行ツてゐた時分と、今と、何方が氣樂だと思ひます。」と
ぶしつけに
訊ねる。
「然うですね
·········」と
おふくろは、些と
まごついた躰で、
輕く首を振る。そして不思議さうに周三の顏を
眠めた。
周三は
勢のないやうな
薄笑をして、右の肩を
むツくら聳やかし、「自分といふものゝ
沒却·········ま、其の何だ。
一口にいふと、すツかり我を無くしてゐても、大きな家に入ツて、
美味い物を喰ツて、
しやなら/\と暮らしてゐた方が
可いと思ふんですか。」
おふくろは、何の事だか
頓と解らないといふ風で、
「え、そりや
·········」と
あやふやなことを謂ツて、お房の顏を見る。
お房は、
所故とケロリとした顏をして、
酸漿を
鳴らしてゐた。
周三は、
燥つき氣味で、「じや、何うです。
狆ころになツて馬車に乗るのと、人間になツて
車力を
挽くのと何方が可いと思います。」
「ふゝゝゝ。」と
おふくろは、
擽ツたいやうに笑出して、「何だか、
謎を
かけられてゐるやうですね。」と事もなげにいふ。
「解らない?
·········然うですかね。」と周三は、解らぬことは無い筈だといふやうに
おふくろの顏を見る。
お房は傍から口を出して、「だけど、
阿母さん、そりや
阿父さんが生きてお
在だツたら、此様に
世帶の苦勞をしないでゐられるかも知れないけれども、其の
代また何様な苦勞かあるか知れたもんじやないのね。」
「そりや然うだとも!
·········世の苦勞があるから、
偶時にア亡くなツた人のことも思はないじやないけども
正直家作でも少しあツたら、此うしてゐた方が幾ら氣
樂だか知れやしない。」
「だけど、
貧乏も
嫌だわ。」とお房は、
臆病らしく
投出すやうにいふ。
「そりや嫌さ。
貧すれば
鈍するツていふからね。」
「
眞箇ね。」
「でも私ア、
池の
端にゐる時よか、いツそ此うしてゐた方が、まだ/\
のんきな位なもんだよ。」
「そりや阿母さんはもう、
御酒でも少し
きこしめしてゐらツしやりや、
太平樂さ。」
「馬鹿なことをお謂ひでないよ。お前は何かてえと、お
酒お酒ツてお謂ひだけれども、私が幾ら
飮むもんじやない。二
合も
飮けア
大概エ
醉ツて了ふんだかや、月に積ツたツて幾らがものでもありやしないよ。お前
·········其れも
毎晩飮むといふんじやなしさ。」
「フン、女の
癖に二合も
飮けりや
豪儀だゼ。」とお房は
冷に謂ツて、些と傍を向き、「だツて、
一月儉約して
御覧なさいな、チヤンと
反物が一
反購へますとさ。」
「でもお前、幾ら着物を作えたツて、苦勞は忘れられないよ。阿母さんのやうになツちや、是れツてえ樂しみがあるんじやなし、お酒でも飮まなけア
遣切れないやね。」
「阿母さん
酒を飮むのですか。」と周三は、呆きれたような顏で
横鎗だ。
「え、
眞んの少しばかしね。
何者、飮まなけア飮まないでも濟むんですけども、氣が
欝した時なんか一ツ
猪口戴くてえと、馬鹿に
好い氣持になツて了ふもんですから、つい戴く氣になツて了ふのですの。
貴方は?」
「
飮けません。」と
妙に
堅苦しくいふ。
「
飮らないの
·········」と
がツかりしたやうに謂ツて、「何方かツてえと、
飮らない方が可いんですよ。そりやもう其れが可いんですけれども」
·········と
氣怯がするのか、少し
とちり氣味で、私なんか、飮み
習ツて了ツたもんですから、些と
癈めるてえ譯には
参らないんですよ。酒の味が、もう
すツかり骨身に
沁渡ツて了ツたんですね。其がてえと、貴方、尚だ
所天がゐた
時分に、ほら、氣が
莎蘊することばかりなんでせう、所天はもうお金に目が眩むでゐるんですから、私が何と謂ツたツて我を
押張ツて、
沒義道な事を爲す、世間からは私までが
夜叉のやうに謂はれる、私がまた其れが死ぬよりも
辛らかツたんですけれども、
房がゐてゝ見りや、貴方、
豈夫に別れることも出來ないじやありませんか。私はもう何の因果で此様な人と
夫婦になツたんだらうと思いながら、種々義理の絡まツてゐることもあツたんですし、嫌でも
勤めるだけのことは勤めなければならない。さア、面白くないから
膨れもしますさ。ぬ
[#「ぬ」はママ]、家は
始終紛糾するツてツた譯なんでせう。
爲方がないから、
御酒で
蟲を耐へてゐたのが、何時か
眞んとの
のむべいになつて了ツたんですけれども、そりや誰だつて好んで
のむべいになる者アありやしませんよ。」
「嫌だよ、阿母さんは!
·········何んとか
巧く
理屈を何ける
[#「何ける」はママ]んだもの。」とお房は、
飜弄すやうにいふ。
「
嫌な子だよ、お前は何時でも
ちやかしてお了ひだけれども、眞箇なんだよ。」と
おふくろは
躍起となツて、「そりやお前には私の苦勞が解らないんだから
·········」
「ですから、
澤山お
飮んなさいましよ。」とまた
ちやかす。
おふくろは眼でもつて、些と
忌々しさうにして見せたが、それでも
慍りもしないで、「お前は眞ンとに
思遣が無いんだよ。」と
愚痴るやうにいふ。
お房は思切ツて
いけぞんざいな
語調で、「へツ、其様な人に思遣があツて耐るかえ。此の
上飮まれたんじや、無けなし
身上飮み
つぶしだア!」と言尻を引く。
周三は眼を
圓くした。そして
熟とお房の顏を見詰めた。
「
豈天[#「豈天」はママ]、お前
·········」と
おふくろは何處までも氣の好い
挨拶だ。
周三は
笑止に思ツた。で、幾らか
おふくろに同情した積で、「然うですかナ、酒を飮むと、實際氣が晴れるものでせうか。」と
合槌を打つ。
「そりや晴れますよ。ま、飮むでゐる
間ア、眞箇何も彼も忘れて了ひますね。」
「然うですかナ。じや僕も飮むかな。」
「些とお
飮りになツた方が可うございますよ。」
「ま、耐らない、
のむべゑが
兩人になられたんじや、私が
遣切れないよ。」とお房は
無遠慮に
かツ貶す。
「可いじやないか、
房ちやんも
のむべゑの仲間入するのさ。三人して朝から
へゞツてゐることにすりや、
好いぜ。」と周三は
ふざける。
「何が好いもんですか。
他に
狂人だツて謂はれてよ。」
「
管はんさ。
のんきで可いじやないか。」
「好いね、
のんきが可いね。」と
おふくろは、上づツた聲で、
無法に
悦しがり、「一日でも可いから何うかして其様なことにしたいもんだ
·········何と謂われても管はない、私は
のんきになりたいね。」
「生活に
疲れた
悲音だ!」と周三は
呟く。
「嫌なこツた!
のんきになりや世間の
笑草だわ。」
とお房は、
おふくろに
打付けるやうにいふ。それからまた
おふくろの
身上話が始まツて、其の前身は
藝者であツたことが解ツた。身上話が濟むと貧乏話と來る。
おふくろは
色消しに
包むで置くべきボロまで管はず
ぶちまけと、お房は
遉に顏を
赧めて注意を加へた。それで周三は、お房の家が見掛よりも、また自分の想像してゐたよりも苦しがりであることを知ツた。同時にまた
おふくろという人は、些とぐうだらな
點はあるが、氣の
さくい、
毒のない人といふことも解ツた。
「私が
意久地が無いからなんですよ。阿父が亡くなつたからツて、此様に
窮らなくツても可い譯なんですがね。」と
おふくろは、話の間に幾度か氣の引けるやうに謂ツた。
周三はまた、「
何點か俺の
生母に似た
點がある。」と思ツた。で何となく
懐慕しいやうにも思はれ、また其の
淋しい
末路が
哀になツて、
「俺の
生母のやうに
早死しても
憫然だが、また比の
[#「比の」はママ]おふくろのやうになツても氣の毒だ。」とムラムラと同情の念が湧いた。そこで「ま、可いさ、其様に
懊々しても爲方が無い。僕は何うかなりや決して放擲ツちや置かん。」と熱心に氣
やすめばかりでないところを謂ツて、「何うせ、
人生ツてものは淋しいものさ。不幸なことを謂や僕なんか
随分·········」と謂ひかゝツて、ふと口を
噤むでお房は氣の無い顏で外の方を
眺めてゐる。
周三は、針で
つゝかれたやうに不快を感じて、フイと氣が變る。顏が
苦りきツた。
途端にチヤキ/\
木鋏の音がする。
「おや、
花屋さんが來たやうだね。」と
おふくろも外を
覗くやうにする。
お房は
衝と立起ツて、
あたふた
[#「あたふた 」はママ]格子の方へ行くかと思ふと、と、振返ツて、「お花ばかりで可いの。」
「然うね、何か
挿花でも少しお取りな。」
お房は、
點首いたまま、土間を下りるか下りぬに、ガラリ格子戸を
啓け、顏だけ
突出して大きな聲で花屋を呼ぶ。
「ま、何てえ大きな聲をするんだろう。」と
おふくろは、些と眉をひそめ、「
柄は大きくツても、尚だカラ
赤子なんですから。」と周三の顏を見て薄笑をする。
周三は傍を向いて無言だ。彼の眼に映ツた
豊艶な花は少しづつ
滲染が出て來るやうに思はれるのであツた。
おふくろは
迂散らしい顏で、しげ/″\周三の顏を
瞶めてゐた。間も無くお房は銭の音を
ちやらつかせる。周三は何といふことは無く振向いて見た。而るとお房は、紅を吸上げさせた色の
褪めたやうに淡紅い
菖蒲の花と白の
杜若とを五六本手に持つて、花屋と何か謂ツてゲラ/\笑出す。周三は耐らず嫌な氣持がしたので、ぷいと立起ツて二階へ歸らうとする
·········と格子の外に
据ゑてある花屋の籠に、花といふ花が温い眞晝の日光を浴びて、凋むだやうになツて見えるのが
瞥と眼に映ツた。
それを見たまま、周三は
さツ/\と二階へ上ツて了ツた。
周三が
梯子を上りきる時分に、お房は花を
箪笥の上に置いて三
疊へ入ツた。
「何うしたの?」と
低聲にいふ。
おふくろは、默ツて輕く首を振ツて見せた。お房は、
くの字なりに
べツたり坐ツて、
「お天氣な人ね。」と
へいちやんだ。
「でも、何かお氣に
觸ツたのかも知れないよ。」
「フン、何も此方が惡いことを爲たんじやあるまいし、勝手に慍ツてゐるが可いわ。」
と投出すやうに謂ツて
湯呑を取上げ、冷めた
澁茶をグイと飮む。
途端に
稽古に來る
小娘が二三人
連立ツて格子を啓けて入ツて來た。
* * * * *
周三は、一ヶ
月ばかり
虚々と暮して了ツた。格別面白いといふ程の事は無かツたが、また何時まで頭に殘ツてゐる程の不快も感じなかツた。
芝居には二度行ツた。
寄席にも三
晩ばかり行ツた。併し何方にも何等の
興味を感ぜず、單に
一所に行ツたお房と
おふくろを悦ばせたといふに過ぎなかツた。それから
繻珍の
夏帶とお
召の
單衣と
綾絹の
蝙蝠傘とを
強請られて
購はせられたが、これは彼の
消極的經濟に取ツて、
預算以外の
大支出で、確に一
大打撃であツた。雖然お房の
意を
充す爲に
敢て此の
苦痛を
忍んだ。
然にお房は、彼の
財布には
底が無いものと思ツて、
追續々々預算以外の支出を要求して、米屋八百屋の借を
拂はせたり、
家賃の滯を
埋めさせたり、
纒ツて幾らといふ
烏金の
口まで拂はせた。それで周三の財布は一日々々に
萎縮した。
「
耐らんな、
此う取付けられちや!」と周三は、
其貧弱極まる
經濟の
前途に
向ツて、少からぬ
杞憂を
抱いた。彼は必しも金を
惜むといふのではないが、自分の腕に
依ツて自己の
存立を保證されるまで、其金に依ツて自己を
支へて行かなければならぬかと思むと、勢
きりつめ主義にもなるのであツた。
きりつめ主義を實行しやうとすると、お房の
頬が膨れる。そこで謂ふがままに支出した。實際大苦痛である。雖然其苦痛を
償ふだけの滿足もあツたのだから、何うにか此うにかおツ
怺へては經てゝ來た。滿足とはガラスを
透して見てゐた花を手に取ツて頬ずりしたことであツた。此の滿足に依ツて、燃えてゐた血は幾か
鎭靜になツたが、氣は
相變らず悶々する。何を悶々するのか自分にも能くは解らなかツたが、始終悶々する。
成程邸にゐた時分、頭の中に籠ツてゐたガラスはすツかり脱けて了ツた。併しお房の家には、彼の鋭敏な感情を
つツつく針があツて、斷えず彼を惱ますのであツた。そして自ら生命としてゐた藝術も忘れて了ツて、何時とはなく
味の薄い喰物にも馴れて行くのであツた==平民の娘は次第に彼の頭を
腐蝕させた。