文學博士那珂先生の卒去は實に突然の事で、吾輩は今猶夢の如く思ふ。左に少しく先生に就て知れる事實を紹介致さう。何分客舍匆卒の際であるから、年月や書名などには、多少の間違はあるかも知れぬ。是は豫め容赦を願つて置く。
先生は非常の勉強家で、其の記憶力は絶倫であつた。其の結果として博識であつたことは申す迄もない。先生の勉強は實に驚くべきもので、宴會などの後でも、家に歸れば必ず其儘机に
先生の漢學に於ける造詣は測るべからざるもので、古文にも精通して居らるるが、時文にも熟達して居られた。日本廣しと雖も、先生ほど古文時分を通じて精確に漢文を讀み得たものは、他に斷じてない。『元朝祕史』などは、大體の意味なら、少しく漢學の實力ある者には、誰でも解し得るけれど、先生ほど精確に讀み得た者は、他に多くあるまい。支那通として有名であつた故楢原陳政氏なども、是の點について大に先生に敬服して居られた。
世間には餘り知られて居らぬが、先生は國語にも中々精通して居られた。今より二十五年も以前に、先生が東京女子師範學校(今の女子高等師範學校)長をして居られた時に、國語文法の教授法のことについて議論せられたが、其の議論は當時に在つてたしかに一異彩を放つて居る。大槻文彦氏なども、常に先生の國文法に精通せらるることを推奬して居られたとか聞いたことがある。後年文部省より國語調査委員を命ぜられたのも、かかる理由からであらう。
外國語の中では尤も英語に通じて居られた。是れは慶應義塾で修業されたものだ。勿論漢文の力に比しては見劣りせられたけれど、諸種の參考書を讀むには十分であつた。晩年にはドイツ語をも學ばれた。昨年の夏、ドイツ語も追々進歩して、大抵の參考書を讀むに差支なくなつたと申越されたのを見ると、熱心なる先生の事故、餘程上達せられたものと見える。先生のドイツ語の學習を思ひ立たれたのは、例の『


年六十になんなんとして、然も『
先生の學界に於ける第一の功績は、東洋史の開拓と發達とである。東洋史といふ科目を成立させたのも先生で、東洋史の教科細目を規定したのも亦先生である。先生が東洋史の研究に興味をもたれたのは、隨分古い時代のことと想像される。たしか明治十年頃のことと記憶するが、先生はわが國の紀元、即ち『日本書紀』の記事を基礎とした紀元は疑ふべきものがある。日本の紀元は實際より六百年ばかりも延長して居ると思はれるといふことを論ぜられたが、之には支那史や朝鮮史の方面の材料をも隨分利用されてあつた。この論文は後に明治二十一二年の頃の『文』といふ雜誌に轉載せられた。之に對する贊否の議論は非常なもので、頗る當時の學界を賑はしたものである。
一體わが國の紀元に就ては、隨分古き頃から疑ひを挾む人があつた。吾輩の記憶する所では、藤井貞幹の『衝口發』などが其古きものの一である。此人は神武天皇の御即位紀元の歳は支那の東周の時代ではなく、西漢の末頃に當るべきものであるといふ、極めて大膽な議論を主張したものだ。之に對して本居宣長は、『鉗狂人』といふ書物を著して熱心に辯駁を試みたが、併し本居翁も日本の應神、仁徳天皇以前の年代は、實際よりも多少延長して居るらしいといふ疑ひはもつて居つたのである。其の後石原正明の『年々隨筆』のうちにも、可なり精細な考證があつて、矢張り日本の紀元の疑ふべきことを主張して居る。併し勿論那珂先生の論文の如き堂々たるものは一もない。『文』といふ雜誌に紀元論が喧しくなつてから、學者の之に關する議論も多く世に公にせられたが、其のうちで那珂先生の論文と星野博士の論文とは流石に他を壓して居つた。殊に那珂先生のは尤も立論精確のやうに見受けられた。先生はこの紀元の事を研究する時に、支那朝鮮の古史をも比較參考せられたが、やがて日韓清古代の交通のことを仔細に研究さるることとなつた。或はこの三國古代の交通史を研究さるる間に、日本の紀元の疑ふべきことを發見されたのかも知れぬ。其れは何れにしても、先生のこの方面に關する智識は實に確なものである。明治二十七年頃の『史學雜誌』に連載された「朝鮮古史考」、及び同じ雜誌に掲げられた高勾麗の好大王(廣開土王)の碑の考證などは、今日に迄學者の推奬する所だ。
有名な『支那通史』はたしか明治二十一年頃に出版されたものと記憶する。是れは支那の太古より宋末迄を漢文で五册に書いたもので、材料といひ、體裁といひ、又文章といひ、實に立派なものである。名は『支那通史』といふけれど、朝鮮半島、滿洲地方及び塞外地方の歴史をも遺憾なく記載してあるから、やがて先生によりて東洋史科の設立を唱道せらるるに至つた基礎は十分其間に認められるのである。殊に驚くべきは、この時代に於て、先生は早く西洋方面の材料を利用されたことで、唐代の蘇魯支(Zarathustra)教や、摩尼(Mani)教や、景教(Nestor)のこと、さては唐代に於ける囘教徒の貿易通商のことまで十分に記載されてある。吾人は平常から、日本人の手になつた支那歴史や東洋歴史は殆ど一部も讀んだことがない。但し先生の『支那通史』のみは絶えず左右に置き、今日まで參考に資して居る。
『支那通史』は盛に支那人間に喧傳せられ、
明治二十七八年頃と思ふ。『大日本教育會雜誌』に、先生の東洋史十囘講義の筆記が掲げられてあるが、簡にして要を得、流石に先生なればこそと思はるる點も尠くない。明治三十六年頃に出版された『那珂東洋史』は中學校の教科書を目的としてつくられたものだが、紙數多きに過ぐとかで餘り採用はされなんだが、勿論其の前後に群出した無責任な東洋史教科書の間に在つて異彩を放つて居る。吾輩は世の東洋史を學ばんとする人には、是非この書を一讀せんことを勸めるのである。其他先生の東洋史に關する論文は、大抵『史學雜誌』に載せられて居る。何れも皆金玉の文字であるが、煩を厭うて一々は紹介せぬ。
この外、先生には『東洋歴史地圖』の著がある。是れは明治二十七八年の頃、先生が第一高等學校の教授であつた時に製圖されたもので、蒙古時代と隋唐時代(主として法顯玄奘の印度へ行つた時代の地理を明かにしたもの)と二枚だけ出來上つたが、印刷の困難やら、書舖の辭退やらで、中々出版といふ運びに至らなんだ。蒙古時代の方だけは、明治三十二年頃に出版されたが、隋唐時代の方は、終に出版されなんだ樣に記憶して居る。
最近出版の『
『
先生に就て尤も敬服すべき點は、其の研究の態度の
清朝の學者のうちでは、顧炎武や錢大



この『考信録』に就いては世間に隨分反對論者が多い。吾輩も決して崔述の謳歌者ではない。現に其の一部の説に就いては先年史學會の講演で反駁の意見を發表した位である。併し虚心平氣にて論ずると、崔述は支那の學者に稀有な明晰なる頭腦をもつて居る。『考信録』は完全無缺とはいへぬけれど、之を馬繍の『繹史』や、李

一體崔述といふ人は實に轗軻不遇の人で、生前は貧苦の間に沈淪し、死後も餘り支那學者間には知られなかつたのである。那珂先生はかねて其の爲人と所説を慕はれて、明治三十三年に、今京都大學に居らるる狩野直喜君が支那へ留學せらるる時、特に『考信録』の購買を依頼し、狩野君の手より那珂先生の手を經て、『考信録』はわが學界に紹介せられたものである。那珂先生は尤も崔述を推奬して、『那珂東洋史』の内にも特に彼の爲に一頁以上の記事を費されて居る。崔述は其の死後百五十年、海外の日本で、先生の如き有力なる知己を得た以上は、以て瞑すべしである。
『考信録』の外に、清の洪鈞の『元史譯文證補』も亦那珂先生の手によつて我學界に紹介されたものである。洪鈞は外國公使として歐洲滯在中に、ラシッドウッヂン氏(Rashid ud Din)の『蒙古全史』(Jami ut Tewarikh)といふ書物を手に入れ、其他ハンメル(Hammer)、ウォルフ(Wolff)、ドオソン(D'Ohsson)、ホウォルス(Howorth)、ベレヂン(Berezin)などいふ英、獨、露其の他の學者の蒙古史に關する著書を參考し、東西の史料を比較してこの書を作つたので、元史を研究する者は是非一讀せねばならぬ良著である。この書はたしか明治三十一年の初めに、當時
また清の李桓の『耆獻類徴』といふ書物がある。是れは清朝の國初より道光年間に至る各人物の傳を輯録したもので、是種の著述としては尤も完備したものである。今日では帝國大學の圖書館や高等師範の圖書館に備へ附けられて、學者間に珍重されて居るが、是の書物もたしか先生の紹介の功多きに居ると思ふ。併しこの事は吾輩の記憶が十分でないから斷言は出來ぬ。
先生が帝國文科大學の講師を囑託されたのは、明治二十九年の秋で、三十六年まで繼續された。三十六年の文科大學の學制改革の時に、講師をやめられた。東京高等師範には、明治二十七八年の頃から今日まで十五年許りも勤續されて、學校内では教授生徒の間に中々勢力をもつて居られた。先生は後藤教授、三宅教授と共に、高師の三尊と稱せられて居つた。其ほかに早稻田大學、淨土宗大學にも出講されたから、可なり多忙であつた。學校から歸ると直に二階の書齋に立て籠りて、讀書三昧に一日を送られた。家計のことや、交際のことには無頓着の方で、約束した會合の席に、日限や時刻を間違へられたり、學校の授業に、時間や教室を間違へられたことは珍らしくない。吾輩も隨分輕卒家で、時間や教室を間違へること多く、廣き高師の廊下を彼處此處へ彷徨ふ時に、必ず那珂先生も教室不明の爲に困却されて居るに出會した。
かく家事世事には無頓着な先生は、學問上のこととなると非常に入念なもので、讀書なども極めて精細に注意せられ、事實の異同や、文字の相違まで、必ず他書と比較して一々書き入れをせられたものである。例せば『法顯傳』の如きも、ジャイルス氏(Giles)、ビール氏(Beal)、レッグ氏(Legge)などの諸譯を對照して、一々異同を書き誌されて居る。著書に對する注意も同樣で、印刷も一々自分親しく校正の勞をとり、一字一畫の微をも忽にせられぬ。『那珂東洋史』などは殆ど印刷上の間違はないというてよき位である。活版所に就いて聞いたなら、先生ほど校正に嚴密なる人は他に多くないといふ證言を提供することと思ふ。
讀書以外先生第一の嗜好は自轉車であつた。自らも轉輪博士と稱して居られた位である。自轉車に就いての失策や逸話も多いが斯にはいはぬ。次に圍碁を好まれた。高師教員中第一の腕前で、彼此田舍初段近くの伎倆あると聞いた。玉突も一時は熱心に練習された。吾輩の内地出發の際、旅行に必要故、追々寫眞の練習を始めたしと申されたが、是は實行されなんだ樣子である。先生は平常餘り交友を求められなんだ樣子である。高等師範の同僚は措き、其の以外では東京大學の白鳥君、京都大學の内藤君などとは終始交際されて居つた。矢野文學士(
先生は正直であると同時に短氣であつた。人の間違つたことでも自分に關係なき事は其の儘にするといふ、當世風のことは先生の氣質として到底出來なかつたことと見える。其で先生は他人と衝突組打などをした歴史を尤も多くもつて居らるる一人であつた。明治二十六年の頃、先生が華族女學校に奉職して居られた時に、幹事の北澤正誠といふ男を蹴り倒して、事が面倒となり、遂に辭職されたことは有名の談である。この事件に就いて、吾輩は曾て當時の目撃者また關係者であつた人から、委細の事實を聞いたが、那珂先生の方に十分同情すべき理由があるのである。
この北澤といふ男は、たしか信州の産で、曾て東京地學協會の幹事などをやつて居つた人である。其の節、平城天皇の御子、高岳親王即ち眞如法親王が佛蹟禮拜の爲渡天の際、羅越といふ處で御隱れとなつたが、其の羅越は

北澤以外の人とも隨分衝突されたが、現在の人に關係あるから態と斯にはいはぬ。其れで世間からは、那珂といふ人は我武者で、偏屈人で、常識を缺いて居るやうに誤解された。是の點は誠に先生の爲に惜むべきことである。其の實先生は極めて無邪氣の人で、上に向つて上手もせぬ代り、下に向つて高振りもせぬ。學問のことに就ては極めて弘量坦懷で、何如なる人にも質問することを恥とせられなんだ。是れは吾輩一人の言でなく、先生と親しく交際した人の一樣に同意する所と思ふ。
さるにても先生の如き摯實なる學者でありながら、其の生前に帝國大學の教授となることも出來ず、また帝國學士院の會員ともなること出來ずして永眠せられたのは、返す返すも先生の不幸といはねばならぬ。先生の不幸はいふに足らぬ。先生の如き摯實なる學者を、其の教授とすることも出來ず、また其の會員に加ふることも出來なんだのは、大學及び學士院にとりて、實に大不幸といはねばならぬ。
(明治四十一年三・四月『大阪朝日新聞』所載)