一 怪汽船と怪老人
どろぼう船
冷凍船
ピコル船長
「カナダのH・G汽船会社の所属船が、どうして、僕等のような東洋人を雇うのか、君は、知っているかい」
まるで、少女のように優しい声だ。僕は、何となく親しみを覚えて、
「それは、東洋人は、安い給金で雇えるからだろう」
「うん、それもある。だが、もっと他にも
「え! どろぼう船?」
「
「へえ。じゃ、僕等も、どろぼうの手下にされたのかい」
「まアそうだ。しかも、さんざ、コキ使ったあとで、密猟が終り、満船して本国へ帰る途中、臨時に雇った水夫や、君たちのようなボーイを海ン中へ放り込んでしまうに都合がいいからだよ。つまり、東洋人を人間扱いにしていないのだ」
「どうして、海ン中へ放り込むのさ」
「この船の船員は、みんなピコル船長の
僕はこれをきくと、おもわず、義憤の血の
「ひどいことをするなア。こんな船に、一刻も乗ってられやしない。途中で、脱船しなくちゃ······」
「そうだよ。僕は、毎日そのことを考えているのさ」
「だって君は、船長に
「いや、僕も東洋人だ。同じ東洋人のために、
陳君は、
それにしても、どうして、この怖ろしい密猟船を脱することが出来ようか。
脱船か奪船か
それは、日本の監視船や、警備艦の眼を、巧みに
虎丸は、アブオス島沖に仮泊すると、いよいよ最後の密猟を開始した。五
こうして、祖国の領海が、白人密猟者のために、さんざ荒されるのを傍観して、僕は、おもわず、腕を
「君、
「うむ。僕も、あせっているが、妙案がないので弱っている。僕は、最後の手段として、火薬庫に忍込んで、日本の領海を荒し廻るこの船を、一挙に爆破してやりたいくらいだ」
「なるほど······。だが、爆破したら、君も僕も、
「仕方がない。みすみす奴等に殺されるよりか······」
「爆弾勇士は、僕は、不賛成だ」
「え! どうして?」
「もっと、
「へえ、船を奪う?······。いったい、そんなことが出来るかい」
「出来るとも、見ていたまえ」
陳君は、確信ありげにいうが、彼とて、たかが船長
「どうして、この船を奪うのさ」
「なアに、わけはないよ。今から、君は運転士になればいいのさ。僕は、機関士。いいだろう。奴等の留守の間に、二人で、この巨船を動かして、一路横浜へ
「なるほど、海賊たちを、北洋に置去りして、そのまに横浜へ往くのか。こいつは妙案だ」
僕は、陳君の奇計に、おもわず手を
「僕も君も、素人だぜ。この巨船を運転することが出来やしないじゃないか」
陳君は、
「君は、むざむざ、太平洋の真ン中で、
「いや、そいつも真ッ平だ」
「じゃ、僕の計画どおりにしたまえ。君は、一等運転士、そして、僕は、機関士。いいかい。僕は、すぐに機関室へ降りて往って、
あッ! 機関が
僕は、一等運転士を押付けられて、さすがに不安だった。船には、僕等のほかに、当番水夫が四、五人残っているだけだった。それだけの人数で、この巨船を横浜まで回航できるだろうか。素人だけで、こんな汽船を動かせたら、それこそ
「よしッ! 死んでも、横浜まで往ってみせるぞ」
僕は、ハンドルを握った。コンパスや海図と
ボー。ボー。ボー······。
果して、汽笛の音を聞きつけると、
「おーい」「おーい」
と、船長はじめ、
「ざまア見ろ、みんな無人の孤島で餓死してしまえ」
僕は、愉快になって、ハンドルを力いっぱい回した。素人運転士の僕だが、白人を克服せんとする意気で、
船首は、南々西に向っている。速力は十四、五
「おーい」「待ってくれい」死物狂いの叫びだ。僕は、いよいよ愉快になって応酬してやった。
「やーい。
そのまに、
「はてな。もしかしたら、舵機も、スクリウも、僕のいう通りにならないのかしら」
そうおもうと、不安は、刻々にましてくる。このまま、針路を誤り、航行をつづけるならば、世界の果ての魔の海へまでも往ってしまうかもしれない。
が、そんな不安はまだ
「あッ!」僕は、おもわず
水葬にしろ
素人機関士の
「山路君。とうとうやっちゃったよ」
「えッ! 何をやった?」
「
「そいつは、困ったなア」
「僕が、機関の故障を発見できないくらいだから、君にだって解るはずはないし、もちろん、水夫たちにも解るまい。······山路君、仕方がないから、運を天に任して漂流しよう」
「まア、それよりほかに、手段もないじゃないか」
僕は、未練にもまだハンドルを握っている。それをみて、陳君は、
「とにかく、機関が停っては、君がここに突立って、コンパスと睨めっくらしていたって無駄さ。船長室へ往って、
二人は、
中甲板をおり立つと、どこにいたのか、五人の水夫が、不意に現われて、二人の前に
「
「やい小僧。てめえたちは、とんでもねえことをしてくれたな。さア、はやく機関を動かせ」
陳君は、落着払って、
「故障で動かないのだ。このうえは、潮流に乗って漂うまでさ」
「漂流?······よろしい。······で、小僧、てめえたちは、このピストルが怖くはねえのか。怖かったら、
「降伏?」
「そうだ。本船では、乃公が一番の強者だ。
「黙れ! 縮毛。船長は、この僕だ。おまえこそ、われわれ二人の部下じゃないか」陳君が、肩を
「ワハ······。小僧、大きく出たな。だが、いくら力んでも、どうにもならんさ。この船の宝物は、乃公のものだ。絶対に手を触れることはならぬ」
「うぬ!」陳君は、
「あッ!」ピストルは、甲板に落ちた。僕は、素早くそれを拾おうとしたが、同時に
「何を!」
「やるか」僕と、べつな水夫とは、野獣のように組打ちとなった。
「さア来い。小僧!」
「何を! 大僧!」
陳君と縮毛の大男も、その場で格闘をはじめた。他の水夫たちも、これを傍観しなかった。二組の格闘のうえに、折重なって、
が、二人は、
「太い小僧だ。銃殺にしろ。······いや、それよりか、一束にして、水葬にしてしまえ」
縮毛の大男は、怒号した。
水夫たちは、
僕も陳君も、観念して、もう抵抗はしなかった。白人海賊たちの手で、海ン中へ叩き込まれる代りに、こんどは、中国や安南の水夫たちのために、同じ水葬の憂目をみなければならないのか。
中甲板の乱闘
いよいよ、生きながら水葬にされるのだ。僕は、眼を
「で、何かい。冷凍室のラッコの分配は、どういうことになるンだ」
縮毛の大男は、
「船長の
「何に! てめえが船長だと?」
「むろんさ。ピコル親分に代って、きょうから乃公が船長様だ。つまり、この船で一番強い人間が、宝物を独占していいわけだ」
「よし、じゃ誰が一番強いか、腕ずくでいくか」
「やるか!」
縮毛の大男と、若い水夫とが、野獣のような
「う······」若い水夫は、低い唸きを立て、縮毛の大男の胸に打かっていくが、そのたびに、甲板に投げ飛ばされた。
「おのれ!」
「あッ!」
そのまま、鮮血に染って倒れるやつを、足をあげて、脇腹を
「よしッ! 兄弟の
「口ほどもねえ奴等だ。さア、われとおもわん者は、来い!」縮毛の大男は、仁王立ちになって、
「誰もいないか、自信のある奴がなければ
「いや、船長は、この乃公だ」と、力強く叫んだ。
「何に! どいつだ」
縮毛の大男が、振りかえった途端。
ズドン! と一発、銃声が起った。
「あッ!」胸を
ピストルを握った、
「これで、きれいさっぱりした。宝船の主人は、つまり、この
彼は、
「待ちたまえ」僕は、落着払って云った。
「何だ!」
「僕等は、冷凍室のラッコなど欲しかないよ、······何よりも、君の勇気に感心した。改めて君の部下になろう」
「············」
豹のような水夫は、
「ね、君! この船は、
豹のような水夫は、
怪老人の冷笑
麻縄を解かれて、やっと自由になった。僕も、
と、豹のような水夫は、何をおもったか、不意にまた、陳君の背後に、ピストルの銃口を向けた。
「あッ! あぶない」
僕は、おもわず絶叫したが、すでに遅かった。兇暴な水夫の放った一弾が、陳君の
「あッ!」
と一声、悲鳴をあげて、陳君は、よろよろとその場に倒れてしまった。
「
僕は、水夫を睨みつけながら、駈け寄って陳君を抱いた。
「しっかりしろ。傷は浅いぞ」
血に染った陳君は虫の息で、
「や、山路君。······く、
「しっかりしろ」
「おなじ、東洋人に、や、やられるとは、······く、口惜しい」
「陳君! か、
「た、たのむ······。もう、僕は、だ、駄目だ······」
陳君は、僕の手を、かたく握り締めたが、しだいにその力が失われ、ぐったりとなってしまった。
「しっかりしろ」
僕は、猛然と立ち上った。
「何故、罪の無い陳君を
豹のような水夫は、ピストルを、僕の
「陳の奴は、油断がならねえからやっつけたのだ。小僧、てめえだけは、たすけてやろう」
「いや、断じて妥協はせんぞ。陳君の讐を討ってやろう」
「ハハハハハ。
「黙れ! 日本男児の、鋼鉄のような胸を、
「ハハハハハ。慈悲をもって、たすけてやろうとおもったが、陳と一緒に、冥途へ往きていなら、一思いに眠らしてやるさ。観念しろ」
豹のような水夫は冷笑をうかべて、ピストルの引金に指をからませた。
と、このとき、
「ワハハハハハハ」
と、
おおそこには、いつのまに現われたのか、船室の降り口のところに、
「ワハハハハハハ。おまえたち、甲板のうえで、生命のやり取をしても無駄だろうぜ」
と、不気味に、冷たく笑った。
「てめえは、誰だ」
豹のような水夫は、恐怖におびえた眼で、怪老人を睨めつけながら云った。
「わしこそは、この船の主人じゃ。おまえたち、生命のやり取を、
「何を!」
水夫は、こんどは、亡霊のような怪老人に、ピストルを向けた。
「ワハハハハハ。若いの、そいつは無駄さ。おまえが、わしの胸を
「え! 何故だ」
「船底の、火薬庫が、あと三分で、爆発するだろ」
「えッ!」
「わしは、たった今、火薬庫に、導火線を投入れ、その先に火を
「えッ!」
豹のような水夫は、これをきくと、反射的に駈け出した。たぶん、
僕は、このまに
このさまをみた、豹のような水夫も、急いで、浮袋を身に着けると、僕にならって、海中へ身を躍らした。
亡霊の仕業か
北太平洋の
僕も、水夫も、巨浪に
が、二分
「
僕は、おもわず叫んだ。
「ど、どうした?」
水夫は、
「あの、怪老人に、一杯
「うむ」
「火薬庫が、一向に爆発しないじゃないか。あの怪老人、うまく僕等をだましたのだ」
「なるほど······」
水夫は、今になって、しきりに感心している。
「こうなれば、船に泳ぎついて、あの怪老人を退治てやらねばならん」
僕は、巨浪に
「だが、船は、潮流に乗って、あの速さで走っているぜ。とうてい追いつけまいよ」
「だが、
「それに、あの老人は、ひょっとすると、亡霊かもしれんぜ」
「どうして?」
「だって、本船には、最初からあんな老人が乗組んでなかったはずだ。······そ、それに、
「そんなことがあるものか。亡霊など出てたまるものか」
「いや。
「じゃ、亡霊が、何のために、僕等を、船から追出したのだ」
「亡霊だって、冷凍室のラッコが欲しいだろう」
「そんな、
「なるほど、そいつもそうだ」
水夫は、
僕も、水夫も、北太平洋の真ン中に、置去りにされてしまったのだ。しかも、
もうすでに夕暮だ。赤い太陽が、西の空に沈もうとしている。海は、黄金を
「ひでえことになったなア」
「ああ。ああ······」
そして、いつのまにか、僕との距離が遠ざかってしまった。
「おーい」
といっても返事がない。
「しっかりしろ」
振りかえって叫んだが、もはや、姿も見えなかった。虎丸は何処と、顔をあげてみたが、もうそれも僕の視野から消え失せてしまった。
僕は、
二
海の怪物
その夜半。真暗な洋上で、僕は、何物かに、頭をコツンと
「おや! 何だろう」
手探りに、
「畜生! 誰だ」
が、手に触れたものは、変に冷たい、大きな、妙に不気味な怪物だった。
「岩礁かな」
とおもったが、
「動物のような感じだぞ」
だが、動物にしては、これはまた、変に
「何でもいい。気力を失って、凍死しかかっている僕の頭を、コツンと叩いて意識をかえしてくれた怪物は、僕の生命の恩人だ。ありがとう」
僕は、心からそう感謝して、怪物の肌を撫で廻した。すると、それは海の怪物海馬か、海象か、鯨といった感じである。
「あッ! いけない。海馬や鯨だったら、こうしてはいられない。いまに
そこで、
「よしッ! 海馬でも、海象でも、何でもいい。そいつの背中を借りて、一息入れるとしようか」
僕は、またも、怪物に近づいた。そして、小山のような背中によじ登ろうと試みた。海馬や、海象なら、こうして僕に、いくたびか
「こいつア、海馬や、海象よりも、もっと大きな怪物かもしれんぞ」
僕は、いくたびか
「駆逐艦ぐらいあるぞ。鯨かな」
僕は、不安におもったが、ええままよとばかり、怪物の背中で
僕は、そんな
怪物の背中に横になっていると、夜風が肌を刺すようだ。しかし、浮袋につかまって、巨浪に
「眠って転げ落ちたら大変だ」
そうおもいながらも、うとうととなる。そこで僕は、怪物の背中で、
僕は、正体のわからぬ怪物の背中で、そのまま、深い眠りに落ちてしまった。
あッ! 氷山?
幾時間眠ったろう。ふと眼が
朝の太陽が、僕の背中をあたためてくれた。
「おお、こいつは、
僕は、怪物の背中に起き直って、
もう、凍死することはあるまい。だが、まだ怪物の背中に乗っかっているのだ。幸い、ゆうべは、怪物も、海中へ沈まずにいてくれたから、たすかったようなものの、
「それにしても、怪物は一体、何物だろう」
僕は、怪物の正体を突止めるために、背中を歩き廻った。なるほど、駆逐艦ほどもある大きさだ。歩きながら、よく見究めると、やっぱり鯨だった。大きな
僕は、ゆうべから、抹香鯨のお腹の上に眠っていたのだった。
「なアんだ。お腹の上にいたのか」
僕は、
「ああ、そうだ。こいつは、鯨の
それがわかると、少しつまらなくなった。けれど、鯨の屍骸なら、結局安全だ。竜宮へ連れて往ってくれないかわりに、こうして漂流しているうちに、やがて、捕鯨船に発見されるだろう。
「まずまず安心」
そこで、僕は、また、鯨のお腹の上で横になろうとして、ふと、左手はるかに
「おや!」
と叫んだ。そのおどろきも当然、はるか南東の洋上に、ふしぎな島が、うかんでいるではないか。しかも、その島は純白で、
「島かな。帆船かな。それとも氷山かな」
だが、氷山が、こんな暖かい風の吹く海洋まで流れてくるはずはない。では、貝殻の島かもしれない。貝殻や
ふしぎにおもって、なおもよく見入っていると、僕を乗せた鯨の屍骸は、どうしたことか、いつのまにか、急速力を出して、かの氷山を目指して進んでいるではないか。
「おや、いよいよ可笑しいぞ。鯨が生き返ったのかしら」いや、生きたのではない。鯨の屍骸は、狂おしく
「こいつは
さすがの僕も、今度こそは、
人造島の秘密
あくる朝、僕は、病室とおぼしい、明るい室の、寝台のうえで眼を醒した。僕の身体は、ぐるぐる巻に
「それにしても、ここは一体、何処だろう。氷山に、こんな立派な病室があるわけはないし······」
僕は、夢見心地で、寝台を降りて、ふらふらと室内を歩き廻った。
窓から、朝陽がいっぱいに差込んでいる。戸外からみると、おどろいた。やっぱり氷山、というよりか、氷の陸地である。
「北極から流れて来た氷山じゃないぞ。島の上に氷を張りつめたのかしら。いや、それなら家も、格納庫も、氷に
僕は、いよいよ不審におもっていると、不意に
「君の国籍は?」と妙なことを
「僕は、日本人です」
「うむ······それはいかん。日本人であることが不幸だった。せっかく
「え!」
「われわれは、外国の漂流者を救助する義務はないのだ。すぐに、島を退去したまえ」
その声は、氷よりも冷たく感じられた。
「どうして、僕を追払おうとするのです」
「われわれは、水難救済事業に携っているのではない。しかも、君が、日本の少年であることが不幸だった。君を、この島に滞在させるわけにはいかんのだ」
「······」
「その理由というのはつまり、この島は、人造島だからだ」
「えッ、人造島?」
「そうだ。これは、アメリカの兵器会社の技師が発明した人造島で、われわれ技術員は、その耐熱試験をやっているのだ。氷の島が温帯で、いや熱帯圏内に入っても、果して耐久力があるか否かを試験しているのだ。そこで、この島の秘密を、日本の少年に盗まれては、せっかくの、秘密特許の人造島も、無価値になるじゃないか」
「僕は、少年です。断じて人造島の秘密を盗むようなことはありません。日本へ帰るまで、この島に置いてください」
「いかん。君を救けたのは、君の労働力を必要としたからだ。つまり、君に、
青年技師は、卓上の
「この少年を、追放してくれたまえ」
青年技師は、冷酷無情にも、そう命じると、数名の男は、
「僕は、どんな労働でもやりますから、この島に置いて下さい」
「日本の少年なら、いいかげんに観念しろ。······さア諸君、面倒だから、この少年を麻袋に詰めて、海ン中へ叩き込んでくれたまえ」
「オーライ」作業服を着た男たちは、声とともに、寄ってたかって僕を
やがて、麻袋に詰められた僕は、一人の雑役夫に担がれて、氷の島の岸へ運ばれた。
僕の生命は、風前の
中国服の老人
雑役夫は、麻袋をいったん置くと、こんどは、その両端を二人で持って、高く差しあげた。「ワン」「ツー」「スリー」の号令とともに、一思いにドブンと、海中に投げ込まれようとした
「待て、待ちたまえ」と、
「その少年を、海へ叩き込むのは、いつでも出来るじゃろ。何しろ、この島じゃ、逃げも隠れも出来まいから、労働を強いてさんざ使ったあとで、海へ棄てても遅くはあるまい」と、云った。
「うん、それもそうだ」青年技師の声だ。
僕は、麻袋からつまみ出された。大理石のような硬い氷の上に立って、ひょいと見ると、皺枯れ声の主というのは、中国服を着て、
「とにかく、この少年を、わしの研究室で使うことを許してもらおう。なかなか
こう云って、僕の肩を、枯枝のような細い手でつかんで、よろよろと歩きだした。僕は、この老人を、信じてよいのか悪いのかわからなくなったが、とにかく、危い瀬戸際に、少しでも生命を延してくれたので、感謝してもいいとおもった。
研究室は、同じ白堊の建物で独立していた。その一室へ、僕を連込んだ老人は、
「それへ掛けたまえ」と、一脚の
「何を、お手伝したらいいですか」
「まア、仕事は、だんだんにはじまるよ。きょうは、ゆっくり体を休めたまえ」
なかなか親切だ。が、結局、僕をさんざん使ったあとで、海へ放り込もうというのだから、ピコル船長と五十歩、百歩だとおもった。
「君は、日本人だといったね」
「そうです」
「日本人は、科学の才能において、ドイツ人に劣らぬ。そこで、わしは、わしの研究室の助手として君を所望したのじゃ」
「あなたは、何を研究なさいますか」
「わしは、人造島を研究している」
「あなたは、この氷の島をつくられたのですか」
「そうじゃ」
「人造島というのは?」
「なるほど、少年には
「どうして、氷の島が、暖かい海でも溶けないのでしょうか」
「氷上に動力所があるだろう。あの動力所から、鉄管で絶えず凍結剤を送っているから、よしんば島の表面が溶けても、急凍する海水が、新陳代謝するから大丈夫。それに、この氷は、化学的に急凍したものだから、大理石のように硬いのじゃ」
「人造島が、自由自在に、どこにでもつくられるようになると、飛行機は、安心して飛べますね」
「そうだ。戦争になると、人造島を
「へえ、おどろいた。じゃ、人造島を発明した国は、戦争に絶対勝つというわけですね」
「人造島をつくったのは、わしだが、わしはまた、人造島に、ある種の人工霧を放射すると、忽ち溶けてしまうという、新しい兵器を発明したのだ。完成の一歩前だが、その研究をやっているのだよ」
老人は、
「あなたは、科学者ですね。博士ですね。そして、この島の主権者ですか」
「主権者?······。なるほど、この島の創造主だから、主権者であっていいわけだ。ところが、わしは、哀れな奴隷なのじゃ」
「えッ!」
作戦?
「日本の少年よ。われわれは、人造島の耐熱試験をするために、大平洋の真ン中へやって来たが、試験は大成功。そこで数日ののちに、この島を元の水に
「それじゃ、僕と同じ運命なのですか」
「そうじゃ、わしは、古ぼけた兵器製造機として、もう不要になったのじゃ。そこで、海へ棄てられてしまう。······わしは、たった一人で死にたくはないので、せめてもの道連れにとおもって、君の命乞いをしたのじゃ」
ああ、そうだったのか。僕は、それを知ると、この博士に怒りを感じた。
「僕は、あなたの道連れになるのは、お断りします」
僕は、断然拒絶した。老博士は、
「いや、ぜひこの老人と一緒に死んで
「············」
「わしと一緒に死んでくれるか、それとも、名もない雑役夫のために、海に叩き込まれるか。その
少し考えていた僕は、
「あんな雑役夫に殺されるよりか······」
「おお、やっぱり、わしとこの島に残されるか」
「はい」
「うむ。それでこそ、義も情もある日本人じゃ。君は、わしの唯一の味方じゃ······では、わしの本心を
「え! 本心ですって?」
「そうじゃ。わしは、いかにも古ぼけた兵器製造機じゃ。けれども、むざむざと、アメリカの兵器会社の奴等のために、海洋の真ン中に棄てられはしないぞ。君と協力して、彼等の暴力に抵抗するのじゃ」
「では、僕とともに、この島を
「脱出ではない。この島に住む
「でも、味方は、わずかに二人、敵は、それに十倍する人数、たいてい勝てますまい」
「ところが、わしは、科学者じゃ。科学の力は百人、千人の凡人の比ではない」
「作戦を
「わしの作戦はこうじゃ。まず、この人造島の心臓ともいうべき、動力所を襲うて、これを占拠するのじゃ。われわれは、動力所に
「でも、動力所を占拠して、人造島の心臓を抑えても、数台の飛行機が、彼等の手中にある以上、動力を停めて、人造島を溶かすと
「なアに、その前に、ちゃんと飛行機を焼いて、敵の足を奪っておくのさ」
「えッ! 飛行機を焼いたら、僕達も、結局、人造島と運命を
「冒険に心配は禁物じゃ。科学のともなわぬ冒険は、もう古い。わしの人造島は、自力をもって、時速十三海里の航海が出来る。つまり、この人造島は、大洋の浮島であるとともに、一種の
「よくわかりました。僕はやります」
「では、君は、夜半に格納庫を襲うてもらおう。わしは、同時刻に動力所を襲うて、
「爆弾がございますか」
「爆弾のような化学兵器が、手に入るくらいなら、こんな命がけの冒険はせんよ。爆弾があれば、宿舎に投げつけて、技術員も、雑役夫も、みんな一気にやっつけることが出来るじゃないか。われわれは、敵に監視されている、全くの無力者だ。そこで、非常手段をとらねばならぬ」
老博士は、僕の耳元へ、秘策を
格納庫夜襲
海洋の
夜半、約束の時刻に、老博士は、研究室の窓の下に
満天に星はきらめき、空気は水のように澄んでいる。その星の光が、水晶のような氷の肌に、
海は、はろばろと
格納庫の附近には、歩哨も、動哨もいはしない。だのに、誰か物かげに潜んでいるようで、不気味だった。僕は、
これで、準備はできたのだ。
「いいか」
僕は、自分自身にこう云って、石油を浸して
ボーッ! と、
「それッ!」とばかり、僕は、石油ポンプの
「ばんざーい」僕は、興奮して、おもわず万歳を連呼した。連呼しながら、僕は、
と、このとき、はるかに宿舎の方にあたって、
「わア」「わア」という、
僕は、格納庫に十分に火が廻り、三台の飛行機が、威勢よく燃えているのを見済して、動力所の方へ駈けつけた。
格納庫の巨大な建物が、火を吹いているので、その凄まじい大
殺到する敵
こちらは、動力所へ駈けつけた老博士である。博士は、低過蒸気機関の前で、
「おい、起きろ」と、怒鳴った。不意を喰って機関士は、むっくり顔をあげた。きっと、上役に、居眠りの醜態を見つけられたとおもったのだろう、眼をパチクリさせている。
老博士は、ステッキを、機関士の胸元へ
「これを見ろ、わしのつくった殺人ガス放射器じゃ。よいか、これが
機関士は、老博士のステッキを、恐ろしい兵器と信じて、恐怖のあまり、わくわく
「よいか、わしの味方の一人はいま、格納庫を襲うて、おまえたちの唯一の足である飛行機を焼こうとしている。そこで、わしは、この動力所を襲うて、人造島の心臓部を握るのだ。われわれは、兵器会社の技術員たちに、戦いを挑まねばならない。おまえは、わしの味方になるか、それとも反抗するか」
「味方になります」
「よろしい。では、おまえの任務に忠実であれ」
このとき、
「ほう、やったな。おい、窓の外を見ろ。わしの味方が、格納庫を焼いたぞ」
云われて、機関士は、窓から顔を出した。
「あッ、火事だ」機関士は、おどろいて、戸外へ飛び出そうとした。
「おい、これがわからぬか」
老博士は、ステッキを突付けた。
「
「············」
機関士は、神妙に
格納庫は、
と、忽ち、人々の叫喚が嵐のように起った。目茶苦茶に、発砲するものもあるらしい。大変な騒ぎとなった。その騒動の中を、巧みに抜けて、動力所へ駈けつけたのは日本少年、僕である。
「おお、
老博士は、うれしげに僕を迎えた。
「あなたも······」
「うむ、動力所も、首尾よく手に入れたよ」
「みんな、こちらへ押寄せて来ます」なるほど、火焔の明りでみると、人々は、悪鬼のような叫びをあげながら、動力所を目指して駈けてくる。
「なアに、大丈夫。敵の心臓をつかんでいるから、すでに味方の勝利じゃ」
老博士は、落着払っている。動力所へ押寄せた一隊は、
「博士をやっつけろ」
「おやじを殺せ」
「日本の少年を、渡せ」と、口々にわめき立てて、すでに、
島が溶けだす
このとき、老博士は、動力所の窓から、ぬっと首を出した。
「あぶない!」僕は、引止めたが、それには耳を
「射撃を
「わしは、すでに、この人造島の心臓部を握った。飛行機はみんな焼けてしまった。おまえたちは、自由を失ったのだ。よいか、わしに反抗するものがあったら、わしは、ここにいる味方の一人に命じて、動力
と、宣告を与えた。が、戸外に
格納庫は、まだ
「沈黙を守っているのは、無抵抗の意志と認める。飛行機は、あのとおり無惨な姿になってしまったから、いくら暴れても、この島を
戸外の人々は、なおも沈黙を守っている。
「それとも、われわれの手で、動力機関を破壊し、氷の島を溶かして、敵味方
「君たちは、わしのつくった人造島が完成すると、もう、この老ぼれには用は無いというので、わしを、この島に残し、島の動力器械を持去ってしまうのだろうが、それは、あまり酷薄無道だった。君たちは、みんな、そんな残酷な人間ではないだろう。わしを信じ、わしの科学の才能を認め、わしになお、研究を継続させたいものは、銃を捨てて、これへやって来たまえ」
すると、先頭の一人は、銃を投げ出した。
が、これは、こちらの油断だった。降服とみせかけて、動力所へ入って来た一隊の半数は、いきなり、老博士に殺到した。
「わア!」
「老ぼれを
たちまち、老博士は、人々のために組敷かれてしまった。あとの半数は、僕を目指して殺到した。
「日本の少年も、やっつけろ」
「わア!」僕は飛鳥の
「やッ!」とばかり、機関を叩きつけた。
「あッ!」殺到した悪鬼のような人々は、おもわず声を
「さア、これで
誰も、これに応えるものはなかった。
老博士を組敷いている人々も、その場を離れ、
老博士は、僕の
「よくやってくれた。君の勇気と果断に感謝する。そして、君と一緒に死ぬことを、わしは、
「済みませんでした。機関を破壊したりなんかして······」
「いや、この場合、君の果断の行為は、結局、われわれを救ってくれたのじゃ」
「でも、そのために、みんな
「が、動力所を、あいつ等の手に渡せば、君とわしが殺されるだけじゃないか······。おお、そういううちにも、島が溶けてくるだろう。死の直前に、人造島の溶けるさまを実際に見ておこうか」
老博士は、悠々と、戸口の方へ歩きだした。科学に殉ずる、老科学者の態度に、敵も味方も、今は驚嘆せぬものとてない。
運命の
やがて、窓から戸外を眺めていた一人が、甲高い声で叫んだ。
「あっ、大変だ。島が溶けだした」
「えッ!」予期していたことだが、これが余りに突然だったので、人々は色を失って、われ先にと、戸外へ飛出した。彼等は、氷上を右往左往した。なかには、動力所の屋根へよじ登ろうとする者、相抱いて泣いている者もある。いやはや、白人共の、
「氷が溶けるのは、当然ではないか。
「うむ、なるほど、凍結剤の効力が失われると、あれほど硬かった氷も、このとおりだ」
それは、自分の創案した人造島の、溶け失せるのを悲しむというよりか、化学の偉力のおそろしさを証し得たことを
そういううちにも、人造島は、刻々と溶けてゆく。海中に没している部分はもちろんのこと、表面も、周囲も、急速度に溶けつつある。
「
「ああ······」技術員も、雑役夫たちも、今は全く手の下しようもなく、悲鳴をあげていたが、やがて彼等は、ぞろぞろと、博士の方へやって来た。
彼等は、老博士を取巻いて、哀願した。
「博士。どうか、われわれを救ってください」
「われわれの
「おねがいします」果ては、彼等は、溶けゆく氷の上に
博士は、微笑をうかべたまま、
「生命が惜しかったら、わしの云うとおりになるか」
「なります」
「救けてください」
「では、あの白堊の建物へ帰りたまえ。あの建物は、島が溶けても、波に浮ぶだろう。あれは創世記の
「おお、方船!」
「われわれの船」そう叫んで、われ先に、
「おお、日本の少年。君も、あの方船に乗って難を避けたがいい」老博士は僕を促した。
「博士は?」
「わしは、この人造島と、運命を
「いけません、博士。僕と一緒に、あなたも、あの方船へ帰らなければなりません」
僕は、老博士の手を
「なるほど、君と
人造島は刻々に溶けてゆく。あと、一時間と
三 心臓と科学
どろぼう船が、亡霊のような怪老人の出現によって、いつのまにか、幽霊船となり、僕と
物語は、しばらく運命の
「そろそろ仕事をはじめるかな」怪老人は、そのまま船室へ姿を消したが、すぐに大きな
「どいつを、
と、
鞄の中から、いろんな怪しい道具を取出した。それは外科手術用の
「久しぶりで、肉を裂くのか。
と、またも呟いた。おお、怪老人は、メスを
怪老人は、大男の屍骸の胸をひろげ、左胸部のあたりに、ぐさりメスを突立て、肉を
「なかなか見事見事」それを片手に持って眺め廻したが、こんどは、
「ほう、これは、台無しだ」
二つの心臓を両手に持って、やや
怪老人は、大男の心臓を、陳君の左胸部へ移し植え、血管をつぎ合したり、
「もうこれでよし」と、自信ありげに、
「う······」と、
「おお、やっと生きかえったかな。わしの大手術の成功じゃ」怪老人は、陳君の屍骸の手を執って、
船長室のベッドに寝かされてから、やっと、陳君は、我にかえった。
「はてな、僕は生きていたのかしら」
ふしぎで堪らない。豹のような水夫に背後からピストルを
夢ではないかとおもったが、夢ではない証拠に、左胸部の
「
「いや、奇蹟ではない。科学の勝利じゃ」
と、応えるものがあった。顔をあげてみると、ベッドの
「あッ!」
「驚くことはいらぬ。わしは、亡霊ではない。このとおり、足もくっついているよ。ハ······」
「あなたは、
「わしは、元からこの船にいたよ。このどろぼう船の船医じゃ」
「山路君は?」
「わしに
「えッ! では、
「あれも、ボーイと一緒に、海へ飛込んだ。いまごろもう、
「では、もうこの船には?」
「そうじゃ、おまえと、わしと二人きりじゃ」
「僕は、ほんとうに生きているのですか」
「ハ······。疑うのも無理はない。心臓を射貫かれ、死んだはずのおまえが、そこに生きているのだからなア······」
「誰が、僕を
「生かしてもらって、不服かな」
「いいえ、感謝します」
「生かしてあげたのはわしだが、わしに感謝するより、科学の偉力そのものに感謝したがいい」
「あなたは、僕の胸を手術してくれたのですか」
「そうじゃ。おまえの、砕かれた心臓を、海へすて、あの大男の
「えッ! それじゃ、僕のこの心臓は、
「不満かな······。いや、不満とは云わさんぞ。犬の心臓と取替えたのではないからのう。ハ······」
「あなたは、死んだ人間を、勝手に生かすことが出来るのですね」
「そうじゃ。死んだ人間を生かすことが出来るが、生きた人間を殺しはせん。わしは、本国ドイツにいたころから、心臓移植の実験を、しばしば動物によって試みたものだが、人間を試みたのが、こんどが初めだったのさ」
「心臓移植は、あなたが初めて試みられたのですか」
「まず、そうじゃ。しかし、一九三三年に、ポロニーという学者が、一女性の腎臓を摘出して、新しい
「でも、
「おだてるなよ、わしは、奇蹟を信じない科学者だからのう。ハ······」
亡霊か悪魔か
怪老人は、妙技を
で、鬼気が身に迫るようだ。胸の
「どうして、屍体をすてないのですか」
老人は、にやり笑って、
「いや。まだすてるには惜しいよ」
「また、実験に使うためですか」
「そうかも知れん。ことによったら、おまえの肉体も、必要になるか知れんよ」
「えッ!」
「驚いてはいけない。わしは、大男の心臓を、おまえに移植したのは、おまえをこの世に
「あなたは、生きた人間を殺さぬと、
「そうじゃ、わしは、生きた人間を殺さぬ。そんな
「でも、僕をまた、殺すつもりでしょう」
「いや、誤解してはいけない。わしは、死んだおまえを、元通りに死なしてやるまでさ。けっして、死んだ人間を生かしたままにはせぬよ」
「············」陳君は、怪老人の不気味な一言に、ぞッと
「油断がならぬぞ」
「戦おうか」だが、仮にも、怪老人は、自分にとっては
真夜中ごろ、人の気配を感じてふと眼が
「誰だ!」低く、しかも力の
「何をするのです」怪老人は、不気味に笑って、
「わしはまた、人間の肉を裂きたくなったのさ」
「えッ! では、僕の心臓を、また抉り取ろうというのですか」
「いや、心臓が欲しいのではない。その二つの眼じゃ」
「えッ!」怪老人は、一歩一歩近づいてきて、
「おまえの、美しい、若々しい眼と、このわしの
「
「いや、遠慮せずともよい。中国民族の眼と、ドイツ民族の眼と入替えてみるのじゃ。おまえは、この、
「真ッ平です」船室をのがれようとすると、右手を伸して肩先をつかんだ。
「おまえは、また、わしを信じないのか。わしは、学術研究のために、おまえを試験台とするのだ。コマ切れにして、煮て食おうというのではないから、安心して、わしに料理されるがいい」
「試験台にされて
陳君は、怪老人の手を振り切って、船室を逃れ出た。いっさんに中甲板まで
「こら、遠慮するなよ、わしの、この碧い、宝石のような眼を、おまえに与えるというのじゃ、その東洋人の、汚らしい眼と、取替えて見よう」
陳君は、それには応えず、後甲板の方へ逃げた。
「こら、小僧、待たぬか」
怪老人は、あくまで
「小僧、どこに居る?······。わしの、自由になってくれ。科学のためじゃ。わしの学説を完成させる、最後の試験台だ。わしのために、犠牲になってくれ」怪老人は、後甲板の
「さあ、じいさん。僕を自由にできたらやって見給え。僕の心臓は、
「ハハハ。それだ、わしの求めていたことは」
「え!」
「つまり、わしは、心臓は、動物の生命の原動力であるかどうかを実験したのじゃ。小僧、おまえの小さな心臓の代りに、あの安南人の大きな心臓を移し替えてみると、わしの学説のとおり、おまえは、あの大きな安南人のように、勇敢に、力強くなったじゃないか。ハハハハハ。もうそれでよい。わしと妥協しよう」
「それじゃ、いまのは
「嘘ではないが、しばらく中止さ。ハハ······」
それから、二月は無事に過ぎた。
怪老人は、ふたたびメスを
幽霊船は、長い漂流をつづけているうち、次第に南海の方へ進んでいるようだ。北洋で見うけた、氷の砕片や、寒流特有の海の色は、いつか消えて、暖かい風が甲板を吹いていたが、このごろでは、むしろ、熱風が肌に感じられるようになり、
南海に流れてくるうちに、船底の冷凍室の
「困った。飲料水が腐りかけましたよ」
陳君は、不安の
「なアに、海水を
「海水なぞ、呑めやしないじゃありませんか」
「心配することはない。わしが、海水から塩分を取りのぞいて、
「なるほど、妙ですね」
「妙ではない、当然のことなのだ。わしの創案した防腐剤の偉力は、このとおりじゃ。何なら、おまえにも、防腐剤を注射してやろうか」
「え!」
「生きながら、
「冗談じゃありません。防腐剤は、死んでからねがいます」
「ところが、わしは、生きた人間に、それを試みたいのじゃ。小僧、おまえの肉体を、わしに貸してくれぬかな」
「僕は、お断りします」
「そうか、
怪老人は、不気味に笑った。
「生きた人間に、防腐剤を試みると、どうなりますか」
「死ぬまでさ。けれど、ほんとうに死んだのではないから、いつでも生き
「そ、そんな
「信じられないなら、ひとつ、試みようか」
「真ッ平です。無理にそれを試みようというなら、腕ずくで試みなさい」
「わしは、あくまでも、おまえを、わしの学説の実験にしようとおもっている。わしは、安南人の心臓を、おまえに移植しなかったら、あのとき限り、おまえは死んでいたのじゃ。それを、きょうまで生かしておいたのは、最後の実験、つまり、防腐剤注射によって、人の生命を、永遠に保たせることは出来るかを実証したかったからじゃ。おまえは、わしの愛するモルモットじゃ。今度こそ、わしの頼みをきいてもらおう」こう
「どうじゃ、わしの願いをきいてくれぬか」
「············」怪老人は、陳君を尊い科学の犠牲に供したいとねがうのだ。人命を勝手に科学実験に利用するのは罪悪だが、しかし、科学者の真剣さも買ってやらねばならない。
「もし、わしの実験が失敗して、おまえが、そのまま生き還ることがなかったら、わしも、責任を負うて、この甲板で、おまえのあとを追って死ぬ。わし一人が、おめおめと生き
「わかりました。僕が学問の犠牲に、よろこんで成りましょう」
「おお、よく理解してくれた。それでこそ、わしの見込んだ少年だった」
怪老人は、手を伸して、陳君の手を握り締めた。
四 幽霊船と幽霊船
物語は、再び運命の
人造島が、海洋の真ん中で、みごとに溶けて、
人々は、方船の屋根に
生残った数人のうちでは、僕は一番元気だった。若いせいもあるが、日本人の頑張りから、歯を
僕のほかに、数人の技術員が、まだ生残っているが、もう明日にも、方船から
「山路君······わしはもう駄目じゃ。極度の疲労で、はやく死にたい」老博士は、こう
「いけません。元気を出しなさい。僕がついていますよ」
「いや、わしのような老体を、かばっていては、君も死んでしまう。わしにかまわずに、君はあくまでも生きてくれ」
「いや、博士が死ねば、僕も死にます。人造島で約束したじゃありませんか。死ぬときは、一緒に······と」
「なるほど、その約束を忘れず、わしをかばってくれるのか、ありがたい。わしは、日本人の
「そんなことはありません。僕は、あなたの科学の才能を、もっと、世界人類のために働かしてもらいたいとねがうのです。そのために、懸命に、あなたをたすけているのです」
「ありがとう、ありがとう。わしは、きっと、生き抜いてみせる」
嵐に吹きつけられて、方船はほとんど浪に没することさえあった。
何よりも苦痛なのは、暴風雨に見舞われることだ。
ときには、晴れた、気持のよい
はじめ、
阿呆鳥を釣るには、小さな板のうえに、餌のついた釣針を乗せて、浪の上に流してやると、阿呆鳥は、それに
天気の
大きなうねりに乗り、うねりに沈んで、方船は、木の葉のように漂うているとき、一人が、海洋の
「おお、······島だ。島だ」この声は、人々に活気を与えた。なるほど、水平線の彼方に、一点の黒影がうかんでいる。
「無人島かしら」僕は、好奇の眼を見はった。
「
誰かが、力ない声で呟いた。
「パーム・パームリック圏内に迷い込んだのではあるまいかな」これは、博士だった。
「パーム・パームリックというのは、何ですか」
「南海の魔の海だ。珊瑚礁が群生して、おまけに潮流の渦巻く、おそろしい死の海ともいわれるところじゃ」
人々は、これをきくと、おもわず顔を見合った。
「あっ! 島が動く」誰かが、また叫んだ。
「えッ! 島が動く?」冗談じゃない。人造島ではあるまいし、島が動いてたまるものかとおもったが、なるほど、黒い影がたしかに動いて、だんだんこちらへ近づいてくるではないか。
「おお、船だ。島じゃない、黒船だ」
老博士は、さすがに、
方船と、黒船とは、次第にその距離を短縮しつつある。
「妙な船ですね」
「難破船かも知れない」
僕と、老博士は、
「幽霊船だ」誰かがまた、恐怖に
「幽霊船?」僕は、おもわず聞き返した。
「難破船の乗組員が、みんな死んで、その亡霊が船を動かしているということを、物語にきいたが、あの船は、それにちがいない」
「それは、船乗たちの迷信さ」
老博士は、一笑に附したが、
「博士、ひょっとすると、幽霊船かもしれませんよ」
「ハハハハハハハ。君までが、······」
そういううちにも、死の船、||幽霊船は、意識してか、だんだんと
おお、死の船? 恐怖の船?······
船と船とが、すれ違いになったとき、方船は黒船の
「あッ!」と一斉に叫んで、身を避けようとしたので、方船は一方に傾いて、危うく顛覆しそうだった。
僕は、恐怖と好奇の眼で、幽霊船の甲板を見上げた。それは僕がかつて恐ろしい目にあった
「うむ」と、老博士も好奇の眼を上げた。
「君たちはどうだ。幽霊船を探ってみないか」僕は、生残った技術員たちに呼びかけたが、彼等は、
「いや、真ッ平だ」
「あんな船に乗移ると、生命が奪われる」
と、口々に呟いて、
「なんだ、
僕は、虎丸の舷側に垂れ下っている、タラップの端をつかんで、足をかけ、猿のように甲板へ登って往った。老博士はと、
「あッ!」あまりの恐ろしさに、おもわず叫んだ。
「博士! あの生々しい屍骸をごらんなさい」
「なるほど、三ヶ月も経過して、生々しい屍骸が
「博士、あれに倒れているのは、
「なるほど、······
「あッ! 博士。僕の味方が、やっぱり倒れています。船長附のボーイ、
「おお、あの少年が、陳君というボーイかい。
僕はつかつかと
「待て、その屍骸に触れてはならぬぞ」不気味な声。
僕は、おどろいて振かえると、いつのまにか、僕の背後に、白衣の白髪の怪老人が立っていて、右の人差指を突付け、
「あッ、おまえは、亡霊だな」立ち上って、身構えた。
「ハハハハハ。亡霊を退治に来たというのかい。なるほど、それもよかろ。······だが、その少年の
「
「おまえの味方だが、また、わしの愛するモルモットじゃ。
「黙れ、亡霊!」
「いや、わしの実験の済むまでは、一指も触れてはならぬのじゃ。強いて、屍骸に近寄ろうというのならば、おまえも、屍骸にしてやろう」
「············」不気味なその一言に、ぎゃふんと参ってしまった。老博士は、二、三歩、怪老人の方へ進み寄り、
「実験といったね。何の実験かね」
「つまり、科学の実験なのじゃ」
「えッ! 科学」
「そうじゃ。亡霊が、死の船の甲板で、科学の実験をするとは、奇怪だとおもうだろう。わしは生きた人間を料理する科学者だが、みだりに生きた人間を取扱うと、陸では、法律上の罪人となるからのう」
「なるほど」
老博士は、更に二、三歩、前へ進んだ。怪老人は、ガラスのような眼で、相手を見て、
「そこで、わしは、実験室を、北洋のどろぼう船に選んだのじゃ。わしは、船医に化けて、この
「うむ。······しかし、少年は、屍骸となっているのではないか」
「待ちたまえ。心臓の入替を実験するだけではなく! そのあとで、もっと重大な実験をなしたのじゃ。人間の生命を永遠に保存することだった」
「えッ! 生命の保存?······それは、考えられぬことだ。空想に過ぎない」
老博士が叫ぶと、怪老人は、
「空想が実現した例は、むかしから無数にある。まして、わしの、生命保存の真理は、空想ではなく、三十年来の実験の結果、到達したものじゃ。わしは、一旦死んだ少年の、左胸部を抉って心臓を取替えて
「うむ。······事実とすれば、まさしく科学の
「どうじゃ、疑うなら、もう一度、少年の屍骸に息を吹込んで見ようか」
「どうか、やって下さい」僕はわれを忘れて叫んだ。
「よろしい。おまえたちの眼の前で、屍骸が、立ち上るだろう。さっそく実験してみよう」
屍骸が動く
「その辺に、ごろごろしている屍骸をみるがよい。三ヶ月の漂流で腐敗して、形は崩れているはずだのに、そのように生々しいのは、わしの創案した防腐剤のおかげじゃ、少年の身体の防腐剤を解消するために、ベツな注射を幾本か施すのじゃ」
「では、ほかの屍骸にも、その注射を施すと、みんなが生き
「いや、ほかの奴等は、死んだものに防腐剤を施したのだから、肉体のみを防腐したに止って生命は再び肉体に還っては来はせぬ。この少年は、生きたまま防腐剤を施したのじゃから、それを解消すると、この
「はやく、注射して下さい」
「よろしい」
怪老人は
「これでよろしい。見ていたまえ。屍骸が動き出すであろう」僕も、老博士も、非常な興味を覚えて陳君の屍骸に注目した。
五分、十分、十五分······と経つうちに、やがて、白蝋のような屍骸の顔に、血の色がさして来た。
「おお」老博士は、低く
「おお、陳君!」僕は、おもわず叫んで、屍骸に
「静かに、静かに」用意の
「おお、気がついたか。わしだよ」怪老人は、陳君の顔を
「ああ、先生!」
「おまえの友人が、見舞に来てくれているぞ」
「えッ!」陳君は、顔をあげて、僕を見た。
「おお、陳君! 僕だ、僕だ」
「おお、[#「おお、」は底本では「おお 」]山路君!」陳君は、余りの
「よく、無事でいてくれた」僕も、感激の涙を流して、陳君の手を固く握りしめた。
怪老人と老博士。これもまた、感激に身を
「あなたは世界最大の科学者です」これは老博士だ。
「ありがとう」白衣の怪老人は、少年のように、
「あなたを、亡霊とおもったのは、われわれの不明でした」
「いや、亡霊であるかもしれない。何故なら、この船は、足を失った死の船だからねえ」
「そうだ、死の船!」
「わしは、人間の心臓を取替えることが出来、死んだ人間を生き還らせることさえ出来るが、死んだ船を蘇生さすことは出来なかったよ。ハハハハハ」
なるほど、この
「博士、あなたは、人造島をつくった方です。人造島の心臓部の設計をしたぐらいですから、この黒船の故障を直せるでしょうね」
と、老博士にいうと、陳君は、それを引取って、
「そうだ。この船の心臓部の故障を直していただくと、僕は機関士、山路君に運転士、たちまち船を動かして、一路、日本の横浜へ直航が出来ますぜ」
怪老人も、
「なるほど。人間の心臓の手入れは、わしの得意とするところじゃが、船の心臓の手入れは、博士におねがいするとしよう」老博士は、とうとう、
「炭水はあるかね」
「あります。この三ヶ月、一塊の石炭も使わなかったので□」
「機械油は?」
「それも十分です」
「ではひとつ、心臓の手入れをしてみようか」老博士は、やっと腰をあげた。陳君は、僕に向って、
「君は、また運転士だぜ。すぐ用意をしたまえよ。博士の修理が出来たら、僕は、すぐに機関を動かしてみせる。そのまに、石炭を
魔の海! 魔の海!
果して、数時間ののち、幽霊船
僕は、運転室で、やたらに口笛を吹いた。
数ヶ月前、横浜
「魔の海! 恐ろしい魔の海だ」僕は、それを知ると、急いで船首を急回転させようと焦った。
が、魔の海の潮流に逆うことは不可能だった。船は、急湍に乗り、ぐんぐん魔海に進んでいる。コンパスは狂いつづけ、
そこへ、老博士や、怪老人や、船に収容した生残りの技術員たちが
「どうしたのだ」
「運転士! どうしたんだ」
人々は、口々に叫んでいる。僕は、悲痛な声をしぼって、
「船が、おそろしい潮流に乗ったのです。魔海の底に
「えッ!」人々はおどろいて前方へ視線を投げた。
おお急湍のような潮流の落つくところは、まさしく魔の海。そこは海洋の
生残りの技術員たちは、口々に叫んで、
「大渦巻だ!」
「
と、狂おしく叫び、右往左往している。さすがに、二人の科学者は、
「博士。あなたは、この船の船首を転回させる方法を考えているのですか」
怪老人の生理学者は、ようやく口を開いた。
「いや、わしも、手の下しようがなく、呆然としているよ。しかし、何という壮観だろう。あの大きな渦巻は······」
「まったく。太平洋の真ン中に、こんな
人々の
おお、そういううちにも、狂おしい潮流は、いよいよ急激に、
五 海洋の大渦巻
狂う人々
僕等を乗せた幽霊船は、不思議な大鳴門に吸い込まれ、大きく輪を描いて、ぐるぐる船首を
一海里平方もあろうという大渦巻だから、外側をぐるぐる廻っているあいだは、甲板にある僕等も、さほど
「おお」「おお」技術員たちは、甲板に
僕も、
急速度の回転のために、何だか頭が狂いそうだ。このまま気が遠くなって死んでしまうにちがいない。空も、海も、船も、人も、ぐるぐる狂い廻っているので、頭の中も、心臓も、血も、ぐるぐる狂い廻っているようだ。
「諸君、このままだと、われわれの
「
「それは、徒労さ。この
「幽霊船と運命を
「この魔の海を、どうして脱することが出来る?」
「さア、そいつは、僕の頭では考えられない。······あなたは、この幽霊船を脱することを、思案しているのではないのですか」
「ハハハハハ。心臓の入替なら、いつでも御用に応ずるが、宿命の大渦巻を脱れる工夫は、わしの手腕力量ではないね」「ほんとうに、絶望ですか」
「そうだね。三日間の生命といったが、あるいは、きょう明日にも、気が狂うかも知れない。見給え。あの
「おお、あいつ等は、もう気が狂いかけたのか」
僕は、暗然となった。僕等もまた、ほどなく、気が狂い、心臓が破裂して、幽霊船と、運命を
恐ろしい一夜が明けた。
幽霊船は、相変らず、大渦巻の中心を、
睡眠不足と、心理的な疲労のために、僕は、まだ正気なのかどうかを疑って、
二老人も、陳君も、ゆうべと同じ箇処で、宿命の死を待っている。
僕は、しかし正気だ。まだまだへこ
「どうして、僕等四人だけが、気が狂わないのだろうか」僕は、陳君に訊ねた。陳君の答えは、
「君は、日本人だろう。日本人は、鉄のような心臓を持っているからだ」
「では、二老人は?」
「二老人は、ドイツの科学者だ。ドイツ人の沈着、
「なるほど······君は?」
「僕は、中国人だ。東洋人は、概して西洋人よりも心臓が強健だ。けれど、日本人にはかなわぬよ。しかし、僕は、
「どうだろう。この船から、海中へ飛込んで見たらどうだろう」と、陳君は奇抜なことを云う。
「すると、どうなるかね」
「海へ飛込んで、海中深く潜りながら、大渦巻の圏外へ脱れるのさ。僕は、鉄の心臓の所有者だから、一気に脱れ出られるとおもうよ」「だが、この大渦巻は、表面だけではないのだぜ。きっと、海底まで、渦を巻いているよ。だから、海へ飛込んで見給え。
「なるほど。そうだ」先刻から、何事かじいっと考え込んでいた老博士は、僕等に向って、
「君たちは、それほど、生きたいのか。······では、この幽霊船を脱れる工夫をするがいい」
「それが出来ますか」
「君は、海へ飛込もうといったが、それは無茶だ。海よりか、大空へ脱れる方が、はるかに容易じゃないか。大空には、こんな渦巻がないだろう」
「ああそうだ。大空へ脱れよう。······でも、博士。翼もない僕等は、どうして大空へ脱れることが出来ますか」
「それを考えるのさ」老博士は、泰然として云った。
別離の悲しみ
僕は物凄く渦巻く海面を見ていて、悠々とひろがる大空を見上げなかったのだ。海上を脱れ出ることが不可能だとあきらめる代りに、大空は、僕を救おうとして、手を伸べて待っている。こう考えたとき、僕は、
老博士の指図にしたがって、一個の飛行機を建造しつつあるのだ。飛行機! 冗談いっちゃいけない。飛行機をつくる材料など、何一つない、北洋通いのどろぼう船ではないか。空想しただけでも、おかしいではないかと、笑うかも知れない。では、飛行機といわず、単に
幸い、二人の科学者が、協力してくれる。科学者は、不可能なことを可能ならしむるに妙を得た神人だ。殊に老博士は、人造島を創案した大科学者だ。彼は幽霊船中にある
「それを、麻布に塗りたまえ」
老博士の命令どおり、たんねんに麻布に塗った。
まもなく長さ数メートルの大きな蝋塗りの麻袋が出来上った。それに幾本かの
「これでよい。この原始的な飛翔機で、大空へうかび上るのだ」
老博士は、満足げに云った。
「でも、博士、この麻袋の中へ、
「
「ああ、そうだ圧搾空気をつくろう」
僕は、
陳君は、この日朝から
天佑か、
「おい、はやく、ハンモックへ乗りたまえ」
老博士は、僕等を促した。
「博士は?」僕は訊ねると、彼は
「この、不完全な風船に、われわれが乗れやしないじゃないか」
「でも、僕等だけ······」
「何を云うのか、おまえたちは、前途有為な少年じゃ。この魔の海を脱れなければならないが、われわれ老人は、もう任務が終ったので、この幽霊船と運命を
「そうだ。君たち少年だけで、大空へ脱れたまえ。わしと、博士とは、
「それはいけません。僕等は、あなた方を
「またそんなことを云う。この風船は、四人の人間を乗せることが出来ないのだ。君たち二人が乗っても、危険なくらいだ。が、この船で死ぬよりか、ましだとおもって乗りたまえ」
「でも」
「まだ
ふたたび、圧搾空気を、風船に填めた。
「さあ、一刻もはやく、ハンモックに乗りたまえ」
「············」僕等は、もう拒むことも出来ず、ハンモックに乗った。
「博士、では」
「先生! きっと迎えに参りますよ。それまで生きていてください」僕等が、涙ぐみながら、口々に叫んだとき、船橋の根元の柱に縛りつけてあった
「博士。さよなら」
「先生! 御壮健で······」あとは涙。甲板上の二老人も、両眼に涙を
「おお、元気な日本の少年よ。中国の少年よ。必ず祖国へ帰れよ」
「圧搾空気は
幸いに、風が強く、僕等をのせた怪しげな風船は、幽霊船の上空を離れて、大渦巻の圏外へ吹き飛ばされようとする。
「さようなら······」
「さよなら!」僕も、
風船の墜落
僕等を乗せた風船が、風に吹きつけられて、やっと、大渦巻の圏内を脱したとおもうころ、予期したとおり、いや案外にはやく麻袋の風船は、浮揚力を失って、大海原に墜落した。
「あッ!」僕も、陳君も、絶望の叫びをあげた。
が、ふしぎにも、僕等は、それなり海底へ沈まなかった。
「おや」「おや!」
横に倒れたまま、海に墜落した風船は、海底に沈まず、ふわりと浮んだままだ。
二人とも、水に
「風船が水に沈まないぜ」
「ほんとうだ。······麻袋に
「それにちがいない。試しに、あの風船に乗って見ようか」
「よかろ」二人は、ハンモックを離れて、畳のように海面に拡がった風船に
「天佑天佑」僕らは手を
「思慮の深い博士の考案だ。これくらいのことは当然だろう」
「まったくだ。こいつは、まるで革の船みたいだね」
二人は、風船の浮船の真中ごろに陣取って、横になった。
「お腹が空いて、ぺこぺこだ」僕がいうと、陳君は、
「
「そうだ」
「怪老人も、博士も、じつに偉大な科学者だ。あの魔の海で死なしたくはないね」
「まったくだよ。僕は、何とかして
「そうだな。何とか、この辺で、飛行機にでもめっからないかな。そうすると、飛行機の人に救助して貰うンだが······」
「そんな
「でも、運命って
「夢みたいな話さ」
「そうかなア」二人は疲労のためにうとうとした。
と、意外意外、それから数時間ののち、その日の夕方、僕等の漂流する上空はるかに、壮快な飛行機のプロペラの音がきこえはじめたではないか。「あッ! 飛行機だ」
「そら見ろ。とうとうやって来たではないか。万歳! 万歳」
僕は、
僕等を救助した飛行機は、祖国日本の大型海軍機だった。
遠洋における耐空試験をやっていて、奇妙な革船に乗って漂流する僕等を発見したわけだ。
やさしい海軍の飛行将校たちは、僕等を救助し、飛行機に乗っけてくれたばかりでなく、いろいろ珍しい携帯糧食を、
「小僧、そんなに
「だって、随分お
「だが、そんなに食べると、胃袋がびっくりするぜ」
「閣下」僕は、将校の一人に、こういうと、
「ハ······。閣下はありがたいな······」
と、笑われた。海軍大尉は、閣下じゃなかった。
「では、訂正します。大尉殿。僕等を救けて下すってありがたいが、ついでに、もう二人救けて下さい」
「もう二人?」
「そうです。いまもいったとおり、魔の海の大渦巻に捲き込まれた、幽霊船にいる、二人の科学者を、一刻もはやく救助して下さい。この大型の飛行機は、まだ二人ぐらい収容できましょう」
「おう、その二人か。むろん救助したいが、その渦巻く
「さア······夢中で脱れて来たので、方向は、わかりませんが、あまり遠くはないですよ」
「そうか、よし来た」元気一杯な操縦士の返事だ。
長距離飛行に耐ゆる、わが優秀な海軍機は、僕等を乗せて、割合に低空を飛んだ。東に、西に、南に、北に······。海洋の魔所······大鳴門の所在を探し廻ったが、なかなか発見できない。
「何だ、小僧。大渦巻なンか、この近海にありゃしないじゃないか」
「でも、たしかに僕等が、そこを
「夢でも見たんじゃないか」
「そんなことは、ありません」
「とにかく、もう少し探し廻ろう。暗くならないうちに探し当てなければ、救助が出来ないからなア」
なおも、低空をつづけているうちに、
「それ、閣下、
僕はまた、閣下といってしまった。
「ほいまた閣下かい。ハハハハ。おおなるほど、
「おお、これは壮観」
「こんなところに、こんな難所があるとはおもわなかった」将校も、操縦の下士も、あまりの物凄さに、
「はやく、博士たちを救って下さい」
「はやくしないと、死んでしまいます」
「よし来た」将校は、大きく
「小僧! 幽霊船が、いやしないじゃないか」
僕も、
「どうだ。小僧! やっぱり、おまえたちの夢だ」
「いいえ、たしかに、あの大渦巻に捲き込まれていたのです。僕等は、その幽霊船の甲板から、風船で脱れたのです。博士たちは、船に残っているンです。
「だって、幽霊船が、一向に見当らぬではないか。どうしたというンだ」
いくら、低空を旋回してみても、渦を巻く海上に、幽霊船の姿を見出すことが出来なかった。
「ああ、やっぱり、ほんとうの幽霊船だったかもしれないね」
とうとう、陳君は、こんなことを
「じゃ、君は、あの怪老人を、あの偉大な生理学者を、亡霊だったというのかい」僕は、聞返すと、
「だって、妙じゃないか。幽霊船が、やっぱり、ほんとうの幽霊船なら、あの
「じゃ、君だって、亡霊かい」
「どうして?」
「君は、あの船の甲板で、
「そ、そんなことがあるものか。僕は、いったんは殺されたが、あの白衣の老人の手術で、心臓を取替てもらって生き還ったのだ」
「じゃ、白衣の老人の腕前を信じることが出来るだろう。そしたら、あの人を亡霊というのはまちがっている。君が亡霊でないなら、あの科学者だって亡霊じゃないよ。もちろん、人造島をつくった博士だって、亡霊じゃない」
「うむ······。
「それなら、僕もそうおもうね。渦巻く海面から、
「大尉殿。もう一度、あの大渦巻の中心を探して下さい」僕は、あきらめ切れず、そう云うと将校は、
「いくら探しても無駄さ。あのとおり、八ツの眼で、下界を
「でも、あの科学者が、行方不明になったのが、ほんとに惜しいンですもの」
「われわれだって、惜しい人物を、魔の海で失って、残念におもうよ。何しろ、人造島をつくった博士や、心臓を入替たり、生命を永久保存することを発見した大科学者だからね」
「それに、僕等の恩人です」
「まったくだ。しかし、幽霊船の犠牲になって、あの大渦巻に吸込まれ、海底深く没してしまったのだから、あきらめるより外はあるまい」
「ひょっとすると、博士たちは、火薬を爆発さして沈んだのかも知れませんよ」
「うむ、そうかも知れん······君たちも、うんと勉強して、将来御国のために、人造島ぐらい、わけなくつくる大科学者になってくれることだね。世界人類のために、生命の保存法を、君たちこそ、ほんとうに発見してくれるンだね」
「僕は、きっと、人造島を発明します」
「僕も、心臓の入替なぞ、平気でやれる大科学者になって見せるよ」といった。将校は、
「うん。それでこそ、死んだ二人の科学者の、恩に報いられるのだ。しっかりやってくれ」
「はい」「はい」海軍機は、すでに、魔の海||大渦巻の上空を去って、
「大尉殿」僕は、訊ねた。
「何だ」
「この海軍機は、ドイツから輸入したのですか」
「いや、国産だよ」
「へえ、素晴しいなア。こんな優秀機が、もう日本でも出来るンですか」
「出来るとも。もっと素晴しいのが出来かかっているよ。これは、東京帝国大学の航空研究所で設計したものだ。太平洋なぞ、無着陸で往復できるよ」
「ほう、愉快だなア」
「小僧たちも、うんと勉強して、これに負けない飛行機をつくってくれよ」
「つくるとも。大丈夫」
「何だぜ。もう、どろぼう船になンか、乗るんじゃないぜ」
「あれは、
「よし。
「はい」
「中国も、日本と協力して、もっと強くならなくてはいかんなア。東洋平和のために、日本と協力して、進むンだなア」
「僕は、山路君の、忍耐と、勇気と、
「それだ。それは、大きな収穫だった。山路君と陳君との友情は、やがて、日本と中国との永遠の友情の
日本へ帰ってから、人々に、老博士の人造島のことや、白衣の老人の心臓入替の話や、さては、幽霊船のことや、魔の海の大渦巻のことを物語ったが、誰も、それを信じるものが無かった。「そんな