一
近衛騎兵のナルモヴの部屋で
「で、君はどうだったのだい、スーリン」と、主人公のナルモヴが
「やあ、相変わらず取られたのさ。僕はどうも運が悪いと
「だって君は、一度も赤札に賭けようとしなかったじゃないか。僕は君の強情にはおどろいてしまったよ」
「しかし君はヘルマンをどう思う」と、客の一人が若い工兵士官を指さしながら言った。「この先生は生まれてから、かつて一枚の骨牌札も手にしたこともなければ、一度も賭けをしたこともないのに、朝の五時までこうしてここに腰をかけて、われわれの勝負を眺めているのだからな」
「人の勝負を見ているのが僕には大いに愉快なのだ」と、ヘルマンは言った。「だが、僕は自分の生活に不必要な金を犠牲にすることが出来るような身分ではないからな」
「ヘルマンはドイツ人である。それだから彼は経済家である。······それでちゃんと分かっているじゃあないか」と、トムスキイが批評をくだした。「しかし、ここに僕の不可解な人物が一人ある。僕の祖母アンナ・フェドトヴナ伯爵夫人だがね」
「どうしてだ」と、他の客たちがたずねた。
「どうして僕の祖母がプント(賭け骨牌の一種)をしないかが僕には分からないのだ」と、トムスキイは言いつづけた。
「どうしてといって······。八十にもなったお婆さんがプントをしないのを、何も不思議がることはないじゃないか」と、ナルモヴが言った。
「君はなぜ不可解だか、その理由を知るまい」
「むろん、知らないね」
「よし。では聴きたまえ。今から五十年ほど前に、僕の祖母はパリへ行ったことがあるのだ。ところが、祖母は非常に評判となって、パリの人間はあの『ムスコビートのヴィーナス』のような祖母の流し眼の光栄に浴しようというので、争って、そのあとをつけ廻したそうだ。祖母の話によると、なんでもリチェリューとかいう男が祖母を口説きにかかったが、祖母に手きびしく撥ねつけられたので、彼はそれを悲観して、ピストルで頭を撃ち抜いて自殺してしまったそうだ。
そのころの貴婦人間にはファロー(賭け骨牌)をして遊ぶのが
さて、そのあくる日になって、祖母はゆうべの夫への懲らしめがうまく
これより前に、祖母は一人の非常に有名な男と知り合いになっていた。諸君はすでに、幾多の奇怪なる物語を伝えられる、サン・ジェルマン伯のことを聞いて知っているだろう。彼はみずから
祖母は右のサン・ジェルマン伯が巨額の金でも自由になることを知っていたので、まず彼にすがりつこうと決心して、自分の家へ来てくれるように手紙を出すと、この奇怪なる老人はすぐにたずねて来て、憂いに沈んでいる祖母に対面したのだ。
そこで、祖母は自分の夫の残酷無情を大いに憤激しながら彼に訴えて、ただ一つの道はあなたの
若い将校連はだんだんに興味を感じて来て、熱心に耳を傾けていた。トムスキイはパイプをくわえると、うまそうに一服吸ってから、またそのさきを語りつづけた。
「その晩、祖母は女王の遊び(骨牌戯の一種)をするためにヴェルサイユの宮殿へ行った。オルレアン公が
「実に
「作り話さ」と、ヘルマンが批評をくだした。
「たぶん骨牌に
トムスキイは
「僕はそうは考えないね」
「なんだ」と、ナルモヴが言った。「君は三枚ともまぐれ当たりに勝つ方法を知っているおばあさんが生きているのに、彼女からその秘密を引き出し得なかったのか」
「むろん、僕もいろいろに抜け目なくやっては見たのだがね」と、トムスキイは答えた。「なにしろ、祖母には四人の息子があって、そのうちの一人が僕の父だが、四人とも骨牌では
「もうそろそろ寝ようではないか。六時十五分過ぎだぜ」
実際すでに夜が明け始めていたので、若い連中はぐっとコップの酒を飲みほして、思い思いに帰って行った。
二
三人の侍女はA老伯爵夫人を彼女の衣裳部屋の姿見の前に坐らせてから、そのまわりに附き添っていた。第一の侍女は小さな
「お早うございます、おばあさま」と、一人の青年士官がこの部屋へはいって来た。
「
「どんなことです、ポール」
「ほかでもないのですが、おばあさまに僕の友達をご紹介した上で、この金曜日の舞踏会にその人を招待したいのですが······」
「舞踏会にお呼び申して、その席上でそのおかたを私に紹介したらいいでしょう。それはそうと、きのうおまえはBさんのお
「ええ、非常に愉快で、明けがたの五時頃まで踊り抜いてしまいました。そうそう、イエレツカヤさんが実に美しかったですよ」
「そうですかねえ。あの人はそんなに美しいのかねえ。あの人のおばあさまのダリア・ペトロヴナ公爵夫人のように美しいのかい。そういえば、公爵夫人も随分お年を召されたことだろうね」
「なにをおっしゃっているのです、おばあさま」と、トムスキイはなんの気もなしに大きい声で言った。「あの方はもう七年前に亡くなられたではありませんか」
若い婦人はにわかに顔をあげて、この若い士官に合図をしたので、彼は老伯爵夫人には彼女の友達の死を絶対に知らせていないことに気がついて、あわてて口をつぐんでしまった。しかしこの老伯爵夫人はそうした秘密を全然知らなかったので、若い士官がうっかりしゃべったことに耳を立てた。
「亡くなられた······」と、夫人は言った。「わたしはちっとも知らなかった。私たちは一緒に女官に任命されて、一緒に皇后さまの
それからこの伯爵夫人は、彼女の孫息子にむかって、自分の逸話をほとんど百回目で話して聞かせた。
「さあ、ポール」と、その物語が済んだときに夫人は言った。「わたしを起こしておくれ。それからリザンカ、わたしの
こう言ってから、伯爵夫人はお化粧を済ませるために、三人の侍女を連れて
「あなたが伯爵夫人にお引き合わせなさりたいというお方は、どなたです」と、リザヴェッタ・イヴァノヴナは小声で訊いた。
「ナルモヴだよ。知っているだろう」
「いいえ。そのかたは軍人······。それとも官吏······」
「軍人さ」
「工兵隊のかた······」
「いや、騎馬隊だよ。どういうわけで工兵隊かなどと聞くのだ」
若い婦人はほほえんだだけで、黙っていた。
「ポール」と、屏風のうしろから伯爵夫人が呼びかけた。「私に何か新しい小説を届けさせて下さいな。しかし、今どきの
「とおっしゃると、おばあさま······」
「主人公が父や母の首を
「
「ロシアの小説などがありますか。では、一冊届けさせて下さい、ポール。きっとですよ」
「ええ。では、さようなら。僕はいそぎますから······。さようなら、リザヴェッタ・イヴァノヴナ。え、おまえはどうしてナルモヴが工兵隊だろうなどと考えたのだ」
こう言い捨てて、トムスキイは祖母の部屋を出て行った。
リザヴェッタは取り残されて一人になると、刺繍の仕事をわきへ押しやって、窓から外を眺め始めた。それから二、三秒も過ぎると、むこう側の角の家のところへ一人の青年士官があらわれた。彼女は両の頬をさっと赤くして、ふたたび仕事を取りあげて、自分のあたまを刺繍台の上にかがめると、伯爵夫人は盛装して出て来た。
「馬車を命じておくれ、リザヴェッタ」と、夫人は言った。「私たちはドライヴして来ましょう」
リザヴェッタは刺繍の台から顔をあげて、仕事を片付け始めた。
「どうしたというのです。おまえは
「
一人の召使いがはいって来て、ポール・アクレサンドロヴィッチ公からのお使いだといって、二、三冊の書物を伯爵夫人に渡した。
「どうもありがとうと公爵にお伝え申しておくれ」と、夫人は言った。「リザヴェッタ······。リザヴェッタ······。どこへ行ったのだねえ」
「唯今、着物を着換えております」
「そんなに急がなくてもいいよ。おまえ、ここへ掛けて、初めの一冊をあけて、大きい声をして私に読んでお聞かせなさい」
若い婦人は書物を取りあげて二、三行読み始めた。
「もっと大きな声で······」と、夫人は言った。「どうしたというのです、リザヴェッタ······。おまえは声をなくしておしまいかえ。まあ、お待ちなさい。······あの足置き台をわたしにお貸しなさい。······そうして、もっと近くへおいで。······さあ、お始めなさい」
リザヴェッタはまた二ページほど読んだ。
「その本をお伏せなさい」と、夫人は言った。「なんというくだらない本だろう。ありがとうございますと言ってポール公に返しておしまいなさい。······そうそう、馬車はどうしました」
「もう支度が出来ております」と、リザヴェッタは
「どうしたというのです、まだ着物も着換えないで······。いつでも私はおまえのために待たされなければならないのですよ。ほんとに
リザヴェッタは自分の部屋へ急いでゆくと、それから二秒と経たないうちに夫人は力いっぱいにベルを鳴らし始めた。三人の侍女が一方の戸口から、また一人の従者がもう一方の戸口からあわてて飛び込んで来た。
「どうしたというのですね。わたしがベルを鳴らしているのが聞こえないのですか」と、夫人は
リザヴェッタは帽子と外套を着て戻って来た。
「やっと来たのかい。しかし、どうしてそんなに念入りにお化粧をしたのです。誰かに見せようとでもお思いなのかい。お天気はどうです。風がすこし出て来たようですね」
「いいえ、奥様。静かなお天気でございます」と、従者は答えた。
「おまえはでたらめばかりお言いだからね。窓をあけてごらんなさい。それ、ご覧。風が吹いて、たいへん寒いじゃないか。馬具を解いておしまいなさい。リザヴェッタ、もう出るのはやめにしましょう。······そんなにお
「わたしの一生はなんというのだろう」と、リザヴェッタは心のうちで思った。
実際、リザヴェッタ・イヴァノヴナは非常に不幸な女であった。ダンテは「未熟なるもののパンは
舞踏室へはいって来た客は、あたかも一定の儀式ででもあるかのように彼女に近づいて、みな丁寧に挨拶するが、さてそれが済むと、もう誰も彼女の方へは見向きもしなかった。彼女はまた自分の邸で宴会を催す場合にも、非常に厳格な礼儀を固守していた。そのくせ、彼女はもう人びとの顔などの見分けはつかなかった。
夫人のたくさんな召使いたちは主人の次の間や自分たちの部屋にいる間にだんだん肥って、年をとってゆく代りに、自分たちの
舞踏会に出ても、彼女はただ誰かに相手がない時だけ引っ張り出されて踊るぐらいなもので、貴婦人連も自分たちの衣裳の着くずれを直すために舞踏室から彼女を引っ張り出す時ででもなければ、彼女の腕に手をかけるようなことはなかった。したがって、彼女はよく自己を知り、自己の地位をもはっきりと自覚していたので、なんとかして自分を救ってくれるような男をさがしていたのであるが、そわそわと日を送っている青年たちはほとんど彼女を問題にしなかった。しかもリザヴェッタは世間の青年たちが追い廻している、
ある朝||それはこの物語の初めに述べた、かの士官たちの
そのうちに食事の知らせがあったので、彼女は立って刺繍の道具を片付けるときに、なんの気もなしにまたもや街のほうをながめると、青年士官はまだそこに立っていた。それは彼女にとってまったく意外であった。食後、彼女は気がかりになるので、またもやその窓へ行ってみたが、もうその士官の姿は見えなかった。||その後、彼女は、その青年士官のことを別に気にもとめていなかった。
それから二日を過ぎて、あたかも伯爵夫人と馬車に乗ろうとしたとき、彼女は再びその士官を見た。彼は毛皮の襟で顔を半分かくして、入り口のすぐ前に立っていたが、その黒い両眼は帽子の下で輝いていた。リザヴェッタはなんとも分からずにはっとして、馬車に乗ってもまだ身内がふるえていた。
散歩から帰ると、彼女は急いで例の窓ぎわへ行ってみると、青年士官はいつもの場所に立って、いつもの通りに彼女を見あげていた。彼女は思わず身を引いたが、次第に好奇心にかられて、彼女の心はかつて感じたことのない、ある感動に騒がされた。
このとき以来、かの青年士官が一定の時間に、窓の下にあらわれないという日は一日もなかった。彼と彼女のあいだには無言のうちに、ある親しみを感じて来た。いつもの場所で刺繍をしながら、彼女は彼の近づいて来るのをおのずからに感じるようになった。そうして顔を上げながら、彼女は一日ごとに彼を長く見つめるようになった。青年士官は彼女に歓迎されるようになったのである。彼女は青春の鋭い眼で、自分たちの眼と眼が合うたびに、男の蒼白い頬がにわかに
トムスキイが彼の祖母の伯爵夫人に、友達の一人を紹介してもいいかと訊いたとき、この若い娘のこころは
ヘルマンはロシアに帰化したドイツ人の子で、父のわずかな財産を相続していた。かれは独立自尊の必要を固く心に沁み込まされているので、父の遺産の収入には手も触れないで、自分自身の給料で自活していた。したがって彼に、贅沢などは絶対に許されなかったが、彼は控え目がちで、しかも野心家であったので、その友人たちのうちには
彼は強い感情家であるとともに、非常な空想家であったが、堅忍不抜な性質が彼を若い人間にありがちな堕落におちいらせなかった。それであるから、
三枚の骨牌の物語は、彼の空想に多大な
「もしも······」と、次の朝、彼はセント・ペテルスブルグの街を歩きながら考えた。「もしも老伯爵夫人が彼女の秘密を僕に洩らしてくれたら······。もしも彼女が三枚の必勝の切り札を僕に教えてくれたら······。僕は自分の将来を試さずにはおかないのだが······。僕はまず老伯爵夫人に紹介されて、彼女に可愛がられなければ||彼女の恋人にならなければならない······。しかしそれはなかなか手間がかかるぞ。なにしろ相手は八十七歳だから······。ひょっとすると一週間のうちに、いや二日も経たないうちに死んでしまうかもしれない。三枚の骨牌の秘密も彼女とともに、この世から永遠に消えてしまうのだ。いったいあの話はほんとうかしら······。いや、そんな馬鹿らしいことがあるものか。経済、節制、努力、これが僕の三枚の必勝の切り札だ。この切り札で僕は自分の財産を三倍にすることが出来るのだ······。いや、七倍にもふやして、安心と独立を得るのだ」
こんな瞑想にふけっていたので、彼はセント・ペテルスブルグの
ヘルマンは立ち停まった。
「どなたのお
「A伯爵夫人のお邸です」と、番人は答えた。
ヘルマンは飛び上がるほどにびっくりした。三枚の切り札の不思議な物語がふたたび彼の空想にあらわれて来た。彼はこの邸の前を往きつ戻りつしながら、その女主人公と彼女の奇怪なる秘密について考えた。
彼は遅くなって自分の質素な下宿へ帰ったが、長いあいだ眠ることが出来なかった。ようよう少しく眠りかけると、骨牌や賭博台や、小切手の束や、金貨の山の夢ばかり見た。彼は順じゅんに骨牌札に賭けると、果てしもなく勝ってゆくので、その金貨を掻きあつめ、紙幣をポケットに
しかも翌あさ遅く眼をさましたとき、彼は空想の富を失ったのにがっかりしながら街へ出ると、いつの間にか伯爵夫人の邸の前へ来た。ある
彼の運命はこの瞬間に決められてしまった。
三
リザヴェッタ・イヴァノヴナは彼女の帽子と外套をぬぐか脱がないうちに、伯爵夫人は彼女を呼んで、ふたたび馬車の支度をするように命じたので、馬車は玄関の前に
ドライヴしていても、彼女にはもう何も見えなかった。聞こえなかった。馬車で散歩に出たときには「今会ったかたはどなただ」とか、「この橋の名はなんというのだ」とか、「あの掲示板にはなんと書いてある」とか、絶えず
「おまえ、どうかしていますね」と、夫人は
リザヴェッタには夫人の言葉がよく聞こえなかった。
それにもかかわらず、この手紙は彼女に大いなる不安を感じさせて来た。実際、彼女は生まれてから若い男と人目を忍ぶようなことをした経験は一度もなかったので、彼の大胆には驚かされもした。そこで、彼女は不謹慎な行為をした自分を責めるとともに、このさきどうしていいか分からなくなって来た。とにかく、もう窓ぎわに坐るのをやめて、彼に対して無関心な態度をとり、自分とこのうえ親しくしようとする男の欲望を断たせるのがよいか。あるいはその手紙を彼に返すか、または冷淡なきっぱりした態度で彼に拒絶の返事を書くべきであるか。彼女はまったく決断に迷ったが、それについて相談するような女の友達も、忠告をあたえてくれるような人もなかった。リザヴェッタはついに彼に返事を書くことに決めた。
彼女は自分の小さな机の前に腰をかけると、ペンと紙を取って、その文句を考えはじめた。そうして、書いては破り、書いては破りしたが、結局彼女が書いた文句は、あまりに男の心をそそり過ぎるか、あるいは
||彼女はこう書いた。
「あなたのお手紙が高尚であるのと、あなたが
翌日、ヘルマンの姿があらわれるやいなや、刺繍の道具の前に坐っていたリザヴェッタは応接間へ行って、通風の窓をあけて、青年士官が感づいて拾いあげるに相違ないと思いながら、街の方へその手紙を投げた。
ヘルマンは飛んで行って、その手紙を拾い上げて、近所の菓子屋の店へ行った。密封した封筒を破ってみると、内には自分の手紙とリザヴェッタの返事がはいっていた。彼はこんなことだろうと予期していたので、家へ帰ると、さらにその計画について深く考えた。
それから三日の後、一人の晴れやかな眼をした娘が小間物屋から来たといって、リザヴェッタに一通の手紙をとどけに来た。リザヴェッタは何かの勘定の請求書ででもあるのかと、非常に不安な心持ちで開封すると、たちまちヘルマンの手蹟に気がついた。
「間違えているのではありませんか」と、彼女は言った。「この手紙は私へ来たものではありません」
「いえ、あなたへでございます」と、娘は抜け目のなさそうな微笑を浮かべながら答えた。「どうぞお読みなすって下さい」
リザヴェッタはその手紙をちらりと見ると、ヘルマンは会見を申し込んで来たのであった。
「まあ、そんなこと······」と、彼女はその厚かましい要求と、気違いのような態度にいよいよ驚かされた。「この手紙は私へのではありません」
そう言うと、彼女はそれを引き裂いてしまった。
「では、あなたへの手紙でないなら、なぜ引き裂いておしまいになったのでございます」と、娘は言った。「わたくしは頼まれたおかたに、そのお手紙をお返し申さなければなりません」
「もうこれから二度と再び手紙などを私のところへ持って来ないがようござんす。それから、あなたに使いを頼んだかたに、恥かしいとお思いなさいと言って下さい」と、リザヴェッタはその娘からやりこめられて、あわてながら言った。
しかしヘルマンは、そんなことで断念するような男ではなかった。毎日、彼は手を替え品をかえて、いろいろの手紙をリザヴェッタに送った。それからの手紙は、もうドイツ語の翻訳ではなかった。ヘルマンは感情の
リザヴェッタはもうそれらの手紙を彼にかえそうとは思わなくなったばかりか、だんだんにその手紙の文句に酔わされて、とうとう返事を書きはじめた。そうして、彼女の返事は少しずつ長く、かつ愛情がこもっていって、ついには窓から次のような手紙を彼に投げあたえるようにもなった。
「今夕は大使館邸で舞踏会があるはずでございます。伯爵夫人はそれにおいでなさるでしょう。そうして、わたしたちはたぶん二時までそこにおりましょう。今夜こそは二人ぎりでお会いのできる機会でございます。伯爵夫人がお出ましになると、たぶんほかの召使いはみな外出してしまって、お邸にはスイス人のほかには誰もいなくなると思います。そのスイス人はきまって自分の部屋へ下がって寝てしまいます。それですから、十一時半ごろにおいでください。階段をまっすぐに昇っていらっしゃい。もし控えの間で誰かにお
ヘルマンは指定された時刻の来るあいだ、虎のようにからだを
やっとのことで、伯爵夫人の馬車は玄関さきへ
ヘルマンは人のいない邸の近くを往きつ戻りつしていたが、とうとう街燈の下に立ちどまって時計を見ると、十一時を二十分過ぎていた。ちょうど十一時半になったときに、ヘルマンは邸の石段を昇って照り輝いている廊下を通ると、そこに番人は見えなかった。彼は急いで階段をあがって控え室のドアをあけると、一人の侍者がランプのそばで、古風な椅子に腰をかけながら眠っていたので、ヘルマンは
ヘルマンは伯爵夫人の寝室まで来た。古い偶像でいっぱいになっている
ヘルマンは
時はしずかに過ぎた。邸内は
午前一時が鳴った。それから二時を打ったころ、彼は馬車のわだちの音を遠く聞いたので、われにもあらで興奮を覚えた。やがて馬車はだんだんに近づいて停まった。馬車の踏み段をおろす音がきこえた。邸の中がにわかにざわめいて、召使いたちが上を下へと走り廻りながら呼びかわす声が入り乱れてきこえたが、そのうちにすべての部屋には明かりがとぼされた。三人の古風な寝室係の女中が寝室へはいって来ると、間もなく伯爵夫人があらわれて、死んだ者のようにヴォルテール時代の
ヘルマンは
伯爵夫人は姿見の前で着物をぬぎ始めた。それから、
ヘルマンは彼女のお化粧の好ましからぬ秘密を残らず見とどけた。夫人はようように夜の帽子をかぶって、
普通のすべての年寄りのように、夫人は眠られないので困っていた。着物を着替えてから、彼女は窓ぎわのヴォルテール時代の臂掛け椅子に腰をかけると、召使いを下がらせた。蝋燭を消してしまったので、寝室にはただ一つのランプだけがともっていた。夫人は真っ黄と見えるような顔をして、締まりのない
突然この死人のような顔に、なんとも言いようのない表情があらわれて、唇の
「びっくりなさらないで下さい。どうぞ、お驚きなさらないで下さい」と、彼は低いながらもしっかりした声で言った。「わたくしはあなたに危害を加える意志は少しもございません。ただ、あなたにお願いがあって参りました」
夫人は彼の言葉がまったく聞こえないかのように、黙って彼を見詰めていた。ヘルマンはこの女は
「あなたは、わたくしの一生の幸福を保証して下さることがお出来になるのです」と、ヘルマンは言いつづけた。「しかも、あなたには一銭のご損害をお掛け申さないのです。わたくしはあなたが勝負に勝つ切り札をご指定なさることがお出来になるということを、聞いて知っておるのです」
こう言って、ヘルマンは言葉を切った。夫人がようやく自分の希望を
「それは冗談です」と、彼女は答えた。「ほんの冗談に言ったまでのことです」
「いえ、冗談ではありません」と、ヘルマンは言い返した。「シャプリッツキイを覚えていらっしゃるでしょう。あなたはあの人に三枚の
夫人は明らかに不安になって来た。彼女の顔には
「あなたは三枚の必勝骨牌をご指定なされないのですね」と、ヘルマンはまた言った。
夫人は依然として黙っていたので、ヘルマンは更に言葉をつづけた。
「あなたは、誰にその秘密をお伝えなさるおつもりですか。あなたのお孫さんにですか。あの人たちは別にあなたに秘密を授けてもらわなくとも、有りあまるほどのお金持ちです。それだけに、あの人たちは金の価値を知りません。あなたの秘密は金使いの荒い人には、なんの益するところもありません。父の遺産を保管することの出来ないような人間は、たとい悪魔を手先に使ったにしても、結局はあわれな死に方をしなければならないのでしょう。わたくしはそんな人間ではございません。わたくしは金の
彼はひと息ついて、ふるえながらに相手の返事を待っていたが、夫人は依然として沈黙を守っているので、ヘルマンはその前にひざまずいた。
「あなたのお心が、いやしくも恋愛の感情を経験していられるならば······」と、彼は言った。「そうして、もしもその法悦をいまだに覚えていられるならば······。かりにもあなたがお産みになったお子さんの初めての声にほほえまれた事がおありでしたらば······。いやしくも人間としてのある感情が、あなたの胸のうちにお湧きになった事がおありでしたらば、わたくしは妻として、恋人として、母としての愛情におすがり申してお願い申します。どうぞ私のこの嘆願を
夫人は一言も答えなかった。ヘルマンは立ち上がった。
「老いぼれの鬼婆め」と、彼は歯ぎしりしながら叫んだ。「よし。
彼はポケットからピストルを
それを見ると、夫人は再びその顔に
「さあ、もうこんな子供じみたくだらないことはやめましょう」と、ヘルマンは彼女の手をとりながら言った。「もうお願い申すのもこれが最後です。どうぞわたくしにあなたの三枚の切り札の名を教えて下さい。それとも、お
夫人は返事をしなかった。ヘルマンは彼女が死んだのを知った。
四
リザヴェッタ・イヴァノヴナは夜会服を着たままで、自分の部屋に坐って、深い物思いに沈んでいた。
彼女が窓から初めて青年士官を見たときから三週間を過ぎなかった。||それにもかかわらず、彼女はすでに彼と文通し、男に夜の会見を許すようになった。彼女は男の手紙の終わりに書いてあったので、初めてその名を知ったぐらいで、まだその男と言葉を
「どなたからそんなことをお聞きになりました」と、ほほえみながら彼女は
「君の親しい人の友達からさ」と、トムスキイは答えた。「ある非常に有名な人からさ」
「では、その有名なかたというのは······」
「その人の名はヘルマンというのだ」
リザヴェッタは黙っていた。彼女の手足はまったく感覚がなくなった。
「そのヘルマンという男はね」と、トムスキイは言葉をつづけた。「ローマンチックの人物でね。ちょっと横顔がナポレオンに似ていて、たましいはメフィストフェレスだね。まあ、僕の信じているところだけでも、彼の良心には三つの罪悪がある······。おい、どうした。ひどく
「わたくし、少し頭痛がしますので······。そこで、そのヘルマンとかおっしゃるかたは、どんなことをなさいましたの。お話をして下さいませんか」
「ヘルマンはね、自分のあるお友達に非常な不平をいだいているのだ。彼はいつも、自分がそのお友達の地位であったら、もっと違ったことをすると言っているが······。僕はどうもヘルマン自身が君におぼしめしがあると思うのだ。少なくとも、彼はその友達が君のことを話すときには、眼の色を変えて耳を傾けているからね」
「では、どこでそのかたはわたくしをご覧なすったのでしょう」
「たぶん教会だろう。それとも観兵式かな。······さあ、どこで見そめたかは神様よりほかには知るまいな。ひょっとしたら君の部屋で、君がねむっている間かもしれないぞ。とにかく、あの男ときたら······」
ちょうどその時に、三人の婦人が彼のところへ近づいて来て、「お忘れになって。それとも、覚えていらしった······」と、フランス語で問いかけたので、この会話はリザヴェッタをさんざん
トムスキイが選んだ婦人はポーリン公爵令嬢その人であった。公爵令嬢はいくたびもトムスキイと踊っているうちに、彼とすっかり仲直りをして、踊りが済んだのちに彼は公爵令嬢を彼女の椅子に連れて行った。そうして自分の席へ戻ると、彼はもうヘルマンのことも、リザヴェッタのこともまったく忘れていた。リザヴェッタは中止された会話を再びつづけたく思ったが、マズルカもやがて終わって、そのうちに老伯爵夫人は帰ることになった。
トムスキイの言葉は、舞踏中によくあるならいの軽い無駄話に過ぎなかったが、この若い夢想家のリザヴェッタの心に深く沁み込んだ。トムスキイによってえがかれた半身像は、彼女自身の心のうちに描いていたものと一致していたのみならず、このいろいろのでたらめの話のお蔭で、彼女の崇拝者の顔に才能があらわれていることを知ると同時に、彼女の空想をうっとりとさせるような特長がさらに加わって来たのであった。彼女は今、
突然にドアがあいて、ヘルマンが現われたので、彼女ははっとした。
「どこにおいでなさいました」と、彼女はおどおどしながら声を忍ばせて訊いた。
「老伯爵夫人の寝室に······」と、ヘルマンは答えた。「わたしは今、伯爵夫人のところから来たばかりです。夫人は死んでいます」
「え。なんですって······」
「それですから、わたしは伯爵夫人の死の原因となるのを恐れているのです」と、ヘルマンは付け足した。
リザヴェッタは彼をながめていた。そうして、トムスキイの言葉が彼女の心の中でこう反響しているのに気がついた。「この男は少なくとも良心に三つの罪悪を持っているぞ!」
ヘルマンは彼女のそばの窓に腰をかけて、一部始終を物語った。
リザヴェッタは恐ろしさに
ヘルマンは沈黙のうちに彼女を見つめていると、彼の心もまたはげしい感動に打たれて来た。しかも、このあわれなる娘の涙も、悲哀のためにいっそう美しく見えてきた彼女の魅力も、彼のひややかなる心情を動かすことは出来なかった。彼は老伯爵夫人の死についても別に良心の
「あなたは
「わたしだって夫人の死を望んではいなかった」と、ヘルマンは答えた。「私のピストルには
二人は黙ってしまった。
夜は明けかかった。リザヴェッタが蝋燭の火を消すと、青白い光りが部屋へさし込んで来た。彼女は泣きはらした眼をふくと、ヘルマンのほうへ向いた。彼は腕組みをしながら、ひたいに
「どうしてあなたをお
「どうすればその秘密の階段へ行けるか、教えて下さい。······わたしは一人で行きます」
リザヴェッタは
彼は螺旋形の階段を降りて、ふたたび伯爵夫人の寝室へはいった。死んでいる老夫人は化石したように坐っていて、その顔には底知れない静けさがあらわれていた。ヘルマンは彼女の前に立ちどまって、あたかもこの恐ろしい事実を確かめようとするかのように、長い間じっと彼女を見つめていたが、やがて彼は
「たぶん······」と、彼は考えた。「六十年前にも今時分、縫い取りをした上着を着て、
その階段を降り切ると、ドアがあった。ヘルマンは例の鍵でそこをあけて、廻廊を通って街へ出た。
五
この不吉な夜から三日後の午前九時に、ヘルマンは||の尼寺に赴いた。そこで伯爵夫人の告別式が挙行されたのである。なんら後悔の情は起こさなかったが、「おまえがこの老夫人の
彼は宗教に対して信仰などをいだいていなかったのであるが、今や非常に迷信的になってきて、死んだ伯爵夫人が自分の生涯に不吉な影響をこうむらせるかもしれないと信じられたので、彼女のおゆるしを願うためにその葬式に列席しようと決心したのであった。
教会には人がいっぱいであった。ヘルマンはようように人垣を分けて行った。
誰も泣いているものはなかった。涙というものは一つの愛情である。しかるに、伯爵夫人はあまりにも年をとり過ぎていたので、彼女の死に心を打たれたものもなく、一族の人たちもとうから彼女を死んだ者扱いにしていたのである。
ある有名な僧侶が葬式の説教をはじめた。彼は単純で、しかも
「ついに死の女神は、信仰ふかき心をもってあの世の夫に一身を捧げていた彼女をお迎えなされました」と、彼は言った。
ヘルマンも柩のある所へ行こうと思った。彼は冷たい石の上にひざまずいて、しばらくそのままにしていたが、やがて伯爵夫人の死に顔と同じように
この出来事がすこしのあいだ、陰鬱な葬儀の
その日のヘルマンは
彼が眼をさました時は、もう夜になっていたので、月のひかりが部屋のなかへさし込んでいた。時計をみると三時を十五分過ぎていた。もうどうしても寝られないので、彼はベッドに腰をかけて、老伯爵夫人の葬式のことを考え出した。
あたかもそのとき何者かが往来からその部屋の窓を見ていたが、またすぐに通り過ぎた。ヘルマンは別に気にもとめずにいると、それからまた二、三分の後、控えの間のドアのあく音がきこえた。ヘルマンはその伝令下士がいつものように、夜遊びをして酔っ払って帰って来たものと思ったが、どうも聞き慣れない
||と思うと、真っ白な着物をきた女が部屋にはいって来た。ヘルマンは自分の老いたる乳母と勘違いをして、どうして真夜中に来たのであろうと驚いていると、その白い着物の女は部屋を横切って、彼の前に突っ立った。||ヘルマンはそれが伯爵夫人であることに気がついた。
「わたしは不本意ながらあなたの所へ来ました」と、彼女はしっかりした声で言った。「わたしはあなたの懇願を
こう言って、彼女は静かにうしろを向くと、足を引き摺るようにドアの方へ行って、たちまちに消えてしまった。ヘルマンは表のドアのあけたてする音を耳にしたかと思うと、やがてまた、何者かが窓から覗いているのを見た。
ヘルマンはしばらく我れに
六
精神界において二つの固定した
もし若い娘でも見れば、彼は「よう、なんて美しいんでしょう。まるでハートの三そっくりだ」と言うであろう。また、もし誰かが「いま何時でしょうか」と
彼の目の前には三の切り札が
モスクワには、有名なシェカリンスキイが
かれらは
彼は非常に上品な
その勝負はしばらく時間をついやした。テーブルの上には三十枚以上の切り札が置いてあった。シェカリンスキイは骨牌を一枚ずつ投げては少しく
「どうぞ私にも一枚くださいませんか」と、ヘルマンは勝負をしている一人の男らしい紳士のうしろから手を差し伸べて言った。
シェカリンスキイは微笑を浮かべると、承知しましたという合図に静かに
「張った」と、ヘルマンは自分の切り札の裏に
「おいくらですか」と、元締が眼を細くしてたずねた。「失礼ですが、わたくしにはよく見えませんので······」
「四万七千ルーブル」と、ヘルマンは答えた。
それを聞くと、部屋じゅうの人びとは一斉に振りむいて、ヘルマンを見つめた。
「こいつ、どうかしているぞ」と、ナルモヴは思った。
「ちょっと申し上げておきたいと存じますが······」と、シェカリンスキイが、例の微笑を浮かべながら言った。「あなたのお賭けなさる金額は多過ぎはいたしませんでしょうか。今までにここでは、一度に二百七十五ルーブルよりお張りになったかたはございませんが······」
「そうですか」と、ヘルマンは答えた。「では、あなたはわたくしの切り札をお受けなさるのですか、それともお受けなさらないのですか」
シェカリンスキイは同意のしるしに頭を下げた。
「ただわたくしはこういうことだけを申し上げたいと思うのですが······」と、彼は言った。「むろん、わたくしは自分のお友達のかたがたを十分信用してはおりますが、これは現金で賭けていただきたいのでございます。わたくし自身の立ち場から申しますと、実際あなたのお言葉だけで結構なのでございますが、賭け事の規定から申しましても、また、計算の便宜上から申しましても、お賭けになる金額をあなたの札の上に置いていただきたいものでございます」
ヘルマンはポケットから小切手を出して、シェカリンスキイに渡した。彼はそれをざっと調べてからヘルマンの切り札の上に置いた。
それから彼は骨牌を配りはじめた。右に九の札が出て、左には三の札が出た。
「僕が勝った」と、ヘルマンは自分の切り札を見せながら言った。
驚愕のつぶやきが賭博者たちのあいだから起こった。シェカリンスキイは眉をひそめたが、すぐにまた、その顔には微笑が浮かんできた。
「どうか清算させていただきたいと存じますが······」と、彼はヘルマンに言った。
「どちらでも······」と、ヘルマンは答えた。
シェカリンスキイはポケットからたくさんの小切手を引き出して即座に支払うと、ヘルマンは自分の勝った金を取り上げて、テーブルを退いた。ナルモヴがまだ茫然としている間に、彼はレモネードを一杯飲んで、家へ帰ってしまった。
翌日の晩、ヘルマンは再びシェカリンスキイの家へ出かけた。主人公はあたかも切り札を配っていたところであったので、ヘルマンはテーブルの方へ進んで行くと、勝負をしていた人たちは
ヘルマンは次の勝負まで待っていて、一枚の切り札を取ると、その上にゆうべ勝った金と、自分の持っていた四万七千ルーブルとを一緒に賭けた。
シェカリンスキイは骨牌を配りはじめた。右にジャックの一が出て、左に七の切り札が出た。
ヘルマンは七の切り札を見せた。
一斉に感嘆の声が湧きあがった。シェカリンスキイは明らかに不愉快な顔をしたが、九万四千ルーブルの金額をかぞえて、ヘルマンの手に渡した。ヘルマンは出来るだけ冷静な態度で、その金をポケットに入れると、すぐに家へ帰った。
次の日の晩もまた、ヘルマンは賭博台にあらわれた。人びとも彼の来るのを期待していたところであった。将軍や顧問官も実に非凡なヘルマンの賭けを見ようというので、自分たちのウイストの賭けをやめてしまった。青年士官らは長椅子を離れ、召使いたちまでがこの部屋へはいって来て、みなヘルマンのまわりに押し合っていた。勝負をしていたほかの連中も賭けをやめて、どうなることかと、もどかしそうに見物していた。
ヘルマンはテーブルの前に立って、相変わらず
シェカリンスキイの骨牌を配り始める手はふるえていた。右に女王が出た。左に一の札が出た。
「一が勝った」と、ヘルマンは自分の札を見せながら叫んだ。
「あなたの女王が負けでございます」と、シェカリンスキイは慇懃に言った。
ヘルマンははっとした。一の札だと思っていたのが、いつの間にかスペードの女王になっているではないか。
彼は自分の眼を信じることも、どうしてこんな間違いをしたかを理解することも出来なかった。
「老伯爵夫人だ」と、彼は恐ろしさのあまりに思わず叫んだ。
シェカリンスキイは自分の勝った金を掻き集めた。しばらくのあいだ、ヘルマンは身動き一つしなかったが、やがて彼がテーブルを離れると、部屋じゅうが騒然と沸き返った。
「実に見事な勝負だった」と、賭博者たちは称讃した。シェカリンスキイは新しく骨牌を切って、いつものように勝負を始めた。
ヘルマンは発狂した。そうして今でもなお、オブコフ病院の十七号病室に監禁されている。彼はほかの問いには返事をしないが、絶えず非常な早口で「三、七、一!」「三、七、一!」とささやいているのであった。
リザヴェッタ・イヴァノヴナは、老伯爵夫人の以前の執事の息子で前途有望の青年と結婚した。その男はどこかの県庁に奉職して、かなりの収入を得ているが、リザヴェッタはやはり貧しい女であることに甘んじている。
トムスキイは大尉級に昇進して、ポーリン公爵令嬢の夫となった。