(一)先秦時代の書寫の材料 (二)紙の發明
(三)マホメット教國に於ける紙の傳播(上) (四)マホメット教國に於ける紙の傳播(下)
(五)オーストリーのライネル太公爵の古紙蒐集 (六)西本願寺所藏の古文書
(三)マホメット教國に於ける紙の傳播(上) (四)マホメット教國に於ける紙の傳播(下)
(五)オーストリーのライネル太公爵の古紙蒐集 (六)西本願寺所藏の古文書
一
紙の發明は世界の文化に多大の貢獻をした。人智の開發と文化の促進とに大關係ある印刷術が發明されても、紙の發明が之に伴はなかつたならば、其效用の大半を沒了したであらう。紙の需要は年一年と増加して行く。紙の消費高によつて幾分その國の文化の程度が推測される。現時代を指して「紙の時代」と稱する學者もあるが、
支那の古代では書寫の材料として、竹と木とを使用した。竹で作つたのが簡である。簡の長さは必しも一定はして居らぬが、經書などは多く二尺四寸位から八寸位までの簡を使用した。之に普通一行に八字から三十字位の文字を書いた(1)。木で作つたのを版とも牘ともいふ。普通三尺位の大さで、形が四角であるから方とも名づけた。この版には三十字から百字位までの文字を書く。百字以上となるとさきに述べた簡を幾個となく韋で編み連ねて用を辨じた。之を策といふ。策は册と同字で、許愼の『説文解字』には正しく

簡之所レ容一行字耳。牘乃方版。版廣二於簡一。可三以竝二容數行一。凡爲二書字一。有レ多有レ少。數行可レ盡者。書二之於方一。方所レ不レ容者。乃書二於策一(2)。
とあるのが即ち是である。先秦時代には、字數の僅なる事柄は簡に書き、法律の箇條などは版に書き、書籍は大抵策に書いた。今も一篇二篇というて書籍を數へるのはその名殘である。戰國時代から、帛も間々書寫の材料として使用さるることとなつたが、帛に書いた書籍は一卷二卷と數へた。兔も角も先秦時代では、書籍は大抵策に寫されたもので、重量容積多大にして不便極り、費用も嵩み、たとひ帛を使用しても、費用は一層であるから、中々一個人では書籍を所有する事が出來ぬ。清の阮元も、
古人簡策繁重。以二口耳一相傳者多。以レ目相傳者少(3)。
と申して居る。『書經』や『周禮』や其他の古書に、一般の數目を擧ぐる場合が多い。例せば三徳とか、三友とか、三樂とか、四教とか、四維とか、四載とか、五福とか、五行とか、五教とか、六言六蔽とか、六官とか、七政とか、七祀とか、八蠻とか、八元八

二
東漢の和帝の元興元年(西暦一〇五)に蔡倫といふ宦者が始めて紙を發明した。蔡倫は桂陽(湖北省桂陽州)の人で、尤も工藝思想に富み、尚方の令となつた。尚方とは少府の管下の、宮中の御用品を制作することを掌どる官省で、令はその長官である。蔡倫はここで寶劍其他の宮中御用の諸器を作つたが、皆精工堅緻にして、後世の法となすに足つたと傳へられて居る。『後漢書』に彼が紙を發明した事蹟を下の如く記してある。
自レ古書契多篇以二竹簡一。其用二
帛一者。謂レ之爲レ紙。
貴而簡重。竝不レ便二於人一。倫(蔡倫)乃造レ意用二樹膚麻頭及敝布魚網一以爲レ紙。元興元年奏二上之一。帝(和帝)善二其能一。自レ是莫レ不二從用一焉。故天下咸稱二蔡侯紙一(蔡倫のち龍亭侯に封ぜらる。故に蔡侯といふ(4))。
『後漢書』より遙か以前に、東漢時代に出來た『東觀漢記』にも、亦同一の記事がある(5)。范曄の『後漢書』の記事は、大體『東觀漢記』のそれを襲踏したものと見える。『東觀漢記』載する所の蔡倫の傳は、桓帝の元嘉年間(西暦一五一|一五三)即ち紙の發明時代を去る僅に四十餘年の後に編纂されたものであるから(6)、その記事は信憑して差支ない。紙といふ名稱は蔡倫以前も以後も同一ではあるが、實質は相違して、蔡倫以後は、紙といへば、專ら樹皮、麻頭、敝布、古網等を材料として製造した書寫の材料を意味することとなつた。

許愼の『説文解字』は東漢の和帝の永元十二年(西暦一〇〇)から安帝の建光元年(西暦一二一)にかけての作で(7)、即ち大體蔡倫の在世時代に作られたもので、殊に蔡倫と許愼とは若干知り合ひの間柄であらうと想像さるべき餘地さへある。その『説文解字』に紙の字を
按造レ紙
二於漂絮一。其初絲絮爲レ之。以レ※ [#「竹かんむり/沾」、72-1]荐 而成レ立。今用二竹質木皮一爲レ之。亦有二緻密竹簾一荐レ之是也(8)。
といふ。許愼の絮一※[#「竹かんむり/沾」、72-2]也といふ解説のうちには、製紙の原料と方法とが含まれて居る。
さて製紙の原料として絮を使用したのは何時代のことか、許愼の解説は勿論、段玉裁の注釋を見ても不明瞭である。『説文解字』に絮敝緜也といふ。蔡倫が製紙の原料として使用せし敝布を廣義に解釋すると、その中に絮をも包括し得べきやうに思はれる。併し清初の方以智などは之とは反對で、絮を擣き之を荐きて紙を製造したのは、西漢時代若くはその以前からのことである。蔡倫は絮に代へるに樹皮、麻頭、敝布、漁網等を以てしたのみであると主張して居る(9)。Hirth 氏の「支那に於ける紙の發明」といふ論文も此點に關しては、方以智と略同樣な考を持つて居るやうに見える(10)。Hoernle 氏(11)や Jacob 氏など(12)は、更に一歩を進めて、古代トルコ種族の使用した氈の製法は、紙のそれと同樣である。多分古代の支那人は北狄の氈の製法に傚ひ、毛に絮を代へて紙を製造したものであらうと考へて居るが、これは想像に過ぎて、頗る信用し難い。
Hoernle 氏や Jacob 氏の説はしばらく措き、『説文解字』は大體永元十二年即ち蔡倫が紙を製出した以前に編纂されたもので、許愼の紙の字の解説が其時の儘とすると、方以智等の説に可なりの根據が出來、從つて蔡倫はただ製紙の新原料を發見したのみで、製紙の方法を發明したものでなく、發明者としての蔡倫の聲價は幾分低落すべきこととなるが、たとひ蔡倫以前に絮を製紙の原料として、今日の樣な紙を作つたことを事實としても、植物纖維を製紙の原料に利用したのは蔡倫の功で、植物纖維を原料として使つた紙、例せば麻紙、穀紙、襤褸紙、Rag-Paper などが古今を通じて、尤も人文の發達に貢獻したのであるから蔡倫の功績はやはり廣大無邊といはねばならぬ。斯には兔角の議論を避け、しばらく『後漢書』の記事を素直に解釋して、蔡倫を製紙の發明者として置かう。
三
支那の製紙法がマホメット教國へ傳つたのは、唐の玄宗時代のことである。當時西域に石國といふのがあつた。今の Tashkend(元時代の
この時





Ab









高仙芝(中略)撃二大食一。深入七百餘里。至二恒羅斯城一。與二大食一相持五日。葛羅禄 部衆叛。與二大食一夾二攻唐軍一。仙芝大敗。士卒死亡略盡。所レ餘纔數千人。右威衞將軍李嗣業。勸二仙芝一宵遁。道路阻隘。拔汗那 部衆在レ前。人畜塞レ路。嗣業前驅奮二大梃一撃レ之。人馬倶斃。仙芝乃得レ過(13)。
この本文に恒羅斯城とあるのは、勿論怛羅斯城の誤である。怛羅斯城は怛羅斯川の畔で、大抵今の Aulieh-Ata に當る(14)。唐の杜佑の傳ふる所によると、この時高仙芝の軍はすべて七萬人を失つた(15)。尤もその多數は捕虜となつたものと見える。『經行記』の作者の杜環の如きも、この時捕虜となつた一人で、彼は約十年間大食國に拘留せられ、代宗の寶應元年(西暦七六二)に南海を經て、廣東に歸着いたし、その見聞に本づきて『經行記』を作つた(16)。『經行記』その物は今日已に佚亡したけれども、その幾分は杜佑の『通典』以下に引用されて今日に傳はり、唐代の西域研究に必要なる材料を供給して居る。怛羅斯城の戰のことは勿論マホメット教國の記録にも載せられて、よく支那の史料と一致して居る(17)。マホメット教國の材料では、この戰を

七月。高仙芝及二大食一。戰二于恒 (怛の誤)邏斯 城一敗績。
とあるのみで、『舊唐書』始め何れも月を記してない。天寶十載七月は西暦で七百五十一年の七月二十七日から八月二十五日に當る(19)。即ち東西の史料は年月に於て一致せしめ得べき望みがある。東西の史料が正しく會戰の月を傳へたものとすればマホメット教國の慣習で、戰場の捕虜となつた異教徒は皆奴隷にする。この時奴隷となつた支那兵士の中に、もと紙灑職工のものがあつたから、Ziy

四
マホメット教國の勃興以前は勿論、その初起時代でも、パミール以西の諸國では、書寫の材料として、普通にカヤツリ紙即ち Papyrus か殊に革紙即ち Parchment を使用した。『史記』の大宛傳及び『漢書』西域傳に安息國(Parthia)のことを記して、「畫レ革旁行爲二書記一」といひ、『梁書』諸夷傳に滑國即ち厭帶夷栗

マホメット教國の製紙法は支那のそれを傳へたものであるといふことは、可なり以前から知られて居つたが、その製紙法傳來の年代はやや不明瞭であつた。Casiri 氏は囘暦の三十年(西暦六五〇|六五一)を、Hammer-Purgstall 氏は囘暦の五十六年(西暦六七五|六七六)を製紙法傳來の年代に當てて居る(20)。其他西暦七百四年傳來説も普通であつた(21)。オーストリーの Karabacek 教授ははじめてマホメット教國の材料により Hirth 氏は支那の史料によつて之を助け、Ziy

Karabacek 教授の著書には Ta




薩末※[#「革+建」、76-4]市に就いては、特に紙を記載せねばならぬ。薩末※[#「革+建」、76-4]の紙はその美麗と便利と廉價の諸點で、遙に從來のカヤツリ紙及び革紙に優つたから、容易に後者を市場より驅逐した。この紙はただ薩末※[#「革+建」、76-5]及び支那に於てのみ産出される。『國及び路』の著者によると、紙は戰爭の捕虜によつて、支那から薩末※[#「革+建」、76-6]へ傳へられたもので、かく支那人を捕虜となし、その捕虜の中より經驗ある者を求めて、製紙業に從事せしめたのは S
lih の子なる Ziy
d 其人である。かくて紙の製造は次第に發達し、遂に薩末※[#「革+建」、76-8]の重要なる産物となつた。又之によつて世界の國々の人類に利益を與へた(23)。
一體支那紙は後くも囘暦三十年(西暦六五〇|六五一)の頃からマホメット教國へ輸入されて居る(24)。さきに製紙法傳來の年代に關する一説として紹介した Casiri 氏の説は實は、支那紙輸入の年代と見るべきものであらう。薩末※[#「革+建」、76-11]の製紙業が發達すると共に、マホメット教國への支那紙の輸入は次第に杜絶せられ、薩末※[#「革+建」、76-12]製の紙を以てその需要を充たすこととなり、薩末※[#「革+建」、76-13]は紙の産地として全マホメット教國に聞えた。西暦十世紀の初に出た Ibn Haukal なども薩末※[#「革+建」、76-14]の紙は世界無比と賞讚して居る(25)。

Abb



ヨーロッパ諸國も西暦十二三世紀の頃迄は西方アジアと同樣で、普通にカヤツリ紙や革紙を書寫の材料としたが(26)、マホメット教國に製紙業が隆興するに從ひ、その製紙はヨーロッパ諸國へ輸入された。フランス、イタリー等の南歐諸國は十二世紀の頃から、ドイツはやや後くれて何れもマホメット教徒から紙の製造を傳へたといふ(27)。ヨーロッパの中世紀に紙は普通にバンビク紙(Charta Bambycina)、若くはダマスク紙(Charta Damascus)と呼ばれて居る。Bambyce とは Euphrates 河(『唐書』の弗利剌河)の右岸にあつた一都會である。Damascus(元代の
五
オーストリーのウイーンに Rainer 太公といふ貴族があつて、古紙の蒐集で世間に聞えて居る。今より三十餘年前たしか西暦千八百七十七八年の交に、エジプトの Faiy

Rainer 太公の手許に蒐集された古紙のうちには、
併し一方ではマホメット教國の史家等は、




支那の新疆の探檢が行はれると共に、この地方から古文書が發掘された。英國の Stein 氏が天山南路で發掘した古文書は隨分あるが、その中に唐の代宗から徳宗時代にかけての古文書で、年代の明記されて居るものが都合七種ほどある。即ち代宗の大暦三年(西暦七六八)、徳宗の大暦十六年(實は建中二年、西暦七八一)、大暦十七年(實は建中三年、西暦七八二)、建中三年(西暦七八二)、建中七年(實は貞元二年、西暦七八六)、建中八年(實は貞元三年、西暦七八七)、貞元六年(西暦七九〇)の古文書である(32)。此等の古文書は何れも薩末※[#「革+建」、79-7]で製紙工場が創設された時代から、Rainer 太公所藏のマホメット教國産の尤も古き紙の時代にかけて、約四十年間に當つて居る。此等の古文書はその紙質調査の爲め、大抵 Wiesner 教授の手許に送られ、例の顯微鏡調査の結果、此等の古文書の紙には、幾分の敝布も混じて居るが、その大部分は桑、桂及びラミイ即ち China-grass 等の皮を原料として居ることが判明した。唐の中世に西域地方で使用されて居つた紙の主要成分が、桑其他の草木の皮であるとすると、薩末※[#「革+建」、79-11]で支那人の手によつて始めて製造されたマホメット教國の紙も亦同樣であつたであらうと想像すべき餘地が甚だ多い。マホメット教國の史家が薩末※[#「革+建」、79-13]の産紙は最初草木を原料としたと傳へて居るのは、此點から推しても、大體上信憑すべきやうに思はれる。
以上敍述した要點を約すると、西暦七百五十一年薩末※[#「革+建」、79-14]で製紙工場の創設された當時は、製紙の原料として草木を使用したといふ傳説は疑ふべき餘地がないが、同時に西暦七百九十一二年の交の薩末※[#「革+建」、79-15]産の紙を調査すると、純然たる
Wiesner 教授はマホメット教國の産紙と天山南路で發掘された支那紙とに對して綿密なる化學試驗、顯微鏡調査を行ひ、この二國の紙を比較して、大要次の如き斷案を下して居る。
唐時代の支那紙は幾分の敝布を混じて居るけれども、その主要なる原料は桑其他の雙子葉植物の皮である。支那人は製紙法をマホメット教國に傳へたが、薩末※ [#「革+建」、80-5]附近には第一の原料ともいふべき桑樹が缺乏して居るから、必要上次第に敝布の分量を増加し、それでも製紙の目的を達し得ることを經驗すると、最後には敝布||マホメット教國に豐富なるリンネン襤褸||のみで紙を製造することとなつた。紙は支那から傳つたが、その原料を變へて今日一般に使用さるる純粹の襤褸紙(Pure Rag-Paper)を産出するに至つたのは、マホメット教徒の功といはねばならぬ。
支那紙の原料の樹皮は、最初は石臼にて人力で擣き碎いたものであるが、これでは纖維組織を損すること多く、從つて出來上つた紙質も粗鬆 で、字を書くと※ [#「さんずい+念」、80-11]る恐がある。やや後世||西暦七八世紀頃||となると、化學作用で樹皮の纖維組織を餘り損ぜぬやうになつた。從つて紙質も一段改良された。併し敝布は依然石臼で擣き碎いた儘である。所がマホメット教國の産紙を調査するとその原料たる敝布から化學作用で、手際よく纖維を抽出した痕が歴々として認められる。マホメット教徒は原料取扱について、支那人よりも一層の改良進歩を遂げたといはねばならぬ。
原料の變更原料取扱の改良この二點を除くと、マホメット教徒の製紙の方法は||原料に糊を混加し、又は紙面に澱粉末を塗布して紙質を良好にする方法まで||大體支那人のそれと同一である。
以上の斷案が今日の學界に證典として公認されて居る。併し多少の疑惑を挾むべき餘地がないでもない。第一 Wiesner 教授の調査した支那紙の數は決して多くない。年代の確實なるものは僅か六七種に過ぎぬ筈である。然も此等は多く唐代のもので、何れも支那紙の原料の樹皮は、最初は石臼にて人力で擣き碎いたものであるが、これでは纖維組織を損すること多く、從つて出來上つた紙質も
原料の變更原料取扱の改良この二點を除くと、マホメット教徒の製紙の方法は||原料に糊を混加し、又は紙面に澱粉末を塗布して紙質を良好にする方法まで||大體支那人のそれと同一である。


第二に東漢時代から已に麻紙、穀紙、網紙の區別があつた。『東觀漢記』の一本に、
倫(蔡倫)典二尚方一作レ紙。用二故麻一名二麻紙一。木皮名二穀紙一。魚網名二網紙一。
と記してある。故麻といふと麻六
Stein 氏が天山南路の探檢に着手して以來、ヨーロッパ諸國の探檢者は陸續この方面に出掛けた。ドイツからは最初に Gr


わが國の西本願寺の大谷伯爵も亦去る明治三十五年以來この方面に探檢隊を派遣して居る。第一囘第二囘の探檢は已に終を告げ、今は第三囘探檢中である。第一囘第二囘の探檢の獲物のうちに、唐の玄宗の天寶五載(西暦七四六)の牒状がある。之は
第一が西晉の元康六年(西暦二九六)の古寫經である。松本文三郎博士が已に紹介された通り(33)この古寫經は西晉の竺法護譯の『諸佛要集經』である。寫經や書道の方面から觀ても隨分珍とすべきではあるが、支那紙研究の材料として一層貴重すべきである。元康六年は蔡倫が紙を發明した元興元年を距ること僅に百九十一年、即ちこの古寫經の用紙は支那で紙が發明されてから、後くも百九十二年目のものである。恐くは今日に傳はれる支那紙の最古のものであらう、古紙研究の屈竟の材料たるべきは申す迄もない。之に續くが李栢文書である。この文書は年號を缺いて居るけれども羽田學士の研究によると、東晉の咸和三年乃至五年(西暦三二八|三三〇)の間のものと認定される(34)。果して然りとすれば、之も亦古代の支那紙を研究するに見逃すべからざる材料である。
昨年清國へ出張されたわが京都文科大學教授諸君の調査によると、學部若くば個人の所藏に歸した敦煌の遺書中に、南北朝隋唐時代の古寫經が頗る多い。年號の備はつて居るものも少くない。何れも支那紙研究の材料に供すべきであるが、殊に唐の至徳二載(西暦七五七)の『十戒經』は
要するに最近數年間に古代の支那紙を研究すべき新材料が多數に蒐集された。此等の材料殊に西本願寺所藏の古文書||が Wiesner 教授と同樣の方法によつて、科學的に研究された曉に、始めて世界の製紙史上に於ける支那紙の位置が確定される譯である。吾が輩はかかる時期の一日も早く到來せんことを希望するのである。
參照
(1)清の李惇の『群經識小』(『皇清經解』卷七百二十二)。
(2)晉の杜預の『春秋左氏傳』序の註。
(3)清の劉寶楠の『論語正義』卷一所引。
(4)『後漢書』卷一百八、宦者列傳。
(5)『東觀漢記』卷二十(『武英殿聚珍版全書』所收)。
(6)『欽定四庫全書總目提要』卷五十。
(7)許愼の『説文解字』敍及びその子、許沖の「進『説文解字』上書」。
(8)『段注説文解字』第十三篇上。
(9)『通雅』卷之三十二。
(10)"Die Erfindung des Papiers in China" S. 7 (T'oung Pao, 1890).
(11)"Who was the Inventor of Rag-Paper?" p. 680 (J.R.A.S. 1903).
(12)"Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 522.
(13)『資治通鑑』卷二百十六。
(14)Le Strange; "The Lands of the Eastern Caliphate" p. 486.
(15)『通典』卷一百八十五。
(16)Hirth; "Nachworte zur Geschrift des Tonjukuk" S. 3.
(17)┌Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-Paper?" p. 668.
└Chavannes; "Documents sur les Tou-Kiue Occidentaux" p. 297.
(18)┌W

└『三正綜覽』九十七丁(但しヴェステンフェルド氏と一日の相違あり。しばらくヴ氏に從ふ。)
(19)┌『三正綜覽』九十七丁。
└Brumsen; "Japanese Chronological Tables" p. 57.
(20)Hammer-Purgstall; "Ausz


(21)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" p. 664.
(22)Hirth; "Die Erfindung des Papiers in China" S. 13.
(23)Chavannes; "Documents sur les Tou-Kiue Occidentaux" pp. 297, 298.
(24)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" p. 670.
(25)William Ouseley; "Ibn Haukal" p. 233.
(26)坪井博士『史學研究法』百十四|百二十一頁。
(27)Jacob; "Oriental Elements of Culture in the Occident" p. 524.
(28)Jacob; 同右書 p. 524.
(29)"Mitteilungen aus der Sammlung des Papyrus Erzherzog Rainer"
(30)Hoernle; "Who was the Inventor of Rag-paper?" (J.R.A.S. 1903).
(31)Hirth; "Die Erfindung des Papiersin China" S. 12 (T'oung Pao, 1890).
(32)Stein; "Ancient Khotan" Vol. I, pp. 523-533; Vol. II, p. cxv, cxvi.
(33)『中央亞細亞發掘の古寫經に就いて』(『藝文』第二年第一號)。
(34)大谷伯爵所藏新疆史料解説』(『東洋學報』第一卷第二號)。
(明治四十四年九・十月『藝文』第二年第九・一〇號所載)