雨が、さつと
降出した、
停車場へ
着いた
時で
||天象は
卯の
花くだしである。
敢て
字義に
拘泥する
次第ではないが、
雨は
其の
花を
亂したやうに、
夕暮に
白かつた。やゝ
大粒に
見えるのを、もし
掌にうけたら、
冷く、そして、ぼつと
暖に
消えたであらう。
空は
暗く、
風も
冷たかつたが、
温泉の
町の
但馬の
五月は、
爽であつた。
俥は
幌を
深くしたが、
雨を
灌いで、
鬱陶しくはない。
兩側が
高い
屋並に
成つたと
思ふと、
立迎ふる
山の
影が
濃い
緑を
籠めて、
輻とともに
動いて
行く。まだ
暮果てず
明いのに、
濡れつゝ、ちらちらと
灯れた
電燈は、
燕を
魚のやうに
流して、
靜な
谿川に
添つた。
流は
細い。
横に
二つ
三つ、
續いて
木造の
橋が
濡色に
光つた、
此が
旅行案内で
知つた
圓山川に
灌ぐのである。
此の
景色の
中を、しばらくして、
門の
柳を
潛り、
帳場の
入らつしやい
||を
横に
聞いて、
深い
中庭の
青葉を
潛つて、
別にはなれに
構へた
奧玄關に
俥が
着いた。
旅館の
名の
合羽屋もおもしろい。
へい、ようこそお
越しで。
挨拶とともに
番頭がズイと
掌で
押出して、
扨て
默つて
顏色を
窺つた、
盆の
上には、
湯札と、
手拭が
乘つて、
上に
請求書、むかし「かの」と
云つたと
聞くが
如き
形式のものが
飜然とある。おや/\
前勘か。
否、
然うでない。
······特、
一、
二、
三等の
相場づけである。
温泉の
雨を
掌に
握つて、
我がものにした
豪儀な
客も、ギヨツとして、
此れは
悄氣る
······筈の
處を
······又然うでない。
實は
一昨年の
出雲路の
旅には、
仔細あつて
大阪朝日新聞學藝部の
春山氏が
大屋臺で
後見について
居た。
此方も
默つて、
特等、とあるのをポンと
指のさきで
押すと、
番頭が
四五尺する/\と
下つた。(
百兩をほどけば
人をしさらせる)
古川柳に
對して
些と
恥かしいが(
特等といへば
番頭座をしさり。)は
如何?
串戲ぢやあない。が、
事實である。
棟近き
山の
端かけて、
一陣風が
渡つて、まだ
幽に
影の
殘つた
裏櫺子の
竹がさら/\と
立騷ぎ、
前庭の
大樹の
楓の
濃い
緑を
壓へて
雲が
黒い。「
風が
出ました、もう
霽りませう。」「これはありがたい、お
禮を
言ふよ。」「ほほほ。」ふつくり
色白で、
帶をきちんとした
島田髷の
女中は、
白地の
浴衣の
世話をしながら
笑つたが、
何を
祕さう、
唯今の
雲行に、
雷鳴をともなひはしなからうかと、
氣遣つた
處だから、
土地ツ
子の
天氣豫報の、
風、
晴、に
感謝の
意を
表したのであつた。
すぐ
女中の
案内で、
大く
宿の
名を
記した
番傘を、
前後に
揃へて
庭下駄で
外湯に
行く。
此の
景勝愉樂の
郷にして、
内湯のないのを
遺憾とす、と
云ふ、
贅澤なのもあるけれども、
何、
青天井、いや、
滴る
青葉の
雫の
中なる
廊下續きだと
思へば、
渡つて
通る
橋にも、
川にも、
細々とからくりがなく
洒張りして
一層好い。
本雨だ。
第一、
馴れた
家の
中を
行くやうな、
傘さした
女中の
斜な
袖も、
振事のやうで
姿がいゝ。
||湯はきび/\と
熱かつた。
立つと
首ツたけある。
誰の?
······知れた
事拙者のである。
處で、
此のくらゐ
熱い
奴を、と
顏をざぶ/\と
冷水で
洗ひながら
腹の
中で
加減して、やがて、
湯を
出る、ともう
雨は
霽つた。
持おもりのする
番傘に、
片手腕まくりがしたいほど、
身のほてりに
夜風の
冷い
快さは、
横町の
錢湯から
我家へ
歸る
趣がある。
但往交ふ
人々は、
皆名所繪の
風情があつて、
中には
塒に
立迷ふ
旅商人の
状も
見えた。
並んだ
膳は、
土地の
由緒と、
奧行をもの
語る。
手を
突張ると
外れさうな
棚から
飛出した
道具でない。
藏から
顯はれた
器らしい。
御馳走は
||鯛の
味噌汁。
人參、じやが、
青豆、
鳥の
椀。
鯛の
差味。
胡瓜と
烏賊の
酢のもの。
鳥の
蒸燒。
松蕈と
鯛の
土瓶蒸。
香のもの。
青菜の
鹽漬、
菓子、
苺。
所謂、
貧僧のかさね
齋で、ついでに
翌朝の
分を
記して
置く。
蜆、
白味噌汁。
大蛤、
味醂蒸。
並に
茶碗蒸。
蕗、
椎茸つけあはせ、
蒲鉾、
鉢。
淺草海苔。
大な
蛤、
十ウばかり。(
註、ほんたうは
三個)として、
蜆も
見事だ、
碗も
皿もうまい/\、と
慌てて
瀬戸ものを
噛つたやうに、
覺えがきに
記してある。
覺え
方はいけ
粗雜だが、
料理はいづれも
念入りで、
分量も
鷹揚で、
聊もあたじけなくない
處が
嬉しい。
三味線太鼓は、よその
二階三階の
遠音に
聞いて、
私は、ひつそりと
按摩と
話した。
此の
按摩どのは、
團栗の
如く
尖つた
頭で、
黒目金を
掛けて、
白の
筒袖の
上被で、
革鞄を
提げて、そくに
立つて、「お
療治。」と
顯はれた。
||勝手が
違つて、
私は
一寸不平だつた。が、
按摩は
宜しう、と
縁側を
這つたのでない。
此方から
呼んだので、
術者は
來診の
氣組だから
苦情は
言へぬが
驚いた。
忽ち、
縣下豐岡川の
治水工事、
第一期六百萬圓也、と
胸を
反らしたから、
一すくみに
成つて、
内々期待した
狐狸どころの
沙汰でない。あの、
潟とも
湖とも
見えた
······寧ろ
寂然として
沈んだ
色は、
大なる
古沼か、
千年百年ものいはぬ
靜かな
淵かと
思はれた
圓山川の
川裾には
||河童か、
獺は?
······などと
聞かうものなら、はてね、
然やうなものが
鯨の
餌にありますか、と
遣りかねない
勢で。
一つ
驚かされたのは、
思ひのほか、
魚が
結構だ、と
云つたのを
嘲笑つて、つい
津居山の
漁場には、
鯛も
鱸もびち/\
刎ねて
居ると、
掌を
肩で
刎ねた。よくせき
土地が
不漁と
成れば、
佐渡から
新潟へ
······と
聞いた
時は、
枕返し、と
云ふ
妖怪に
逢つたも
同然、
敷込んだ
布團を
取つて、
北から
南へ
引くりかへされたやうに
吃驚した。
旅で
劍術は
出來なくても、
學問があれば
恁うは
駭くまい。だから
學校を
怠けては
不可い、
從つて
教はつた
事を
忘れては
不可い、
但馬の
圓山川の
灌ぐのも、
越後の
信濃川の
灌ぐのも、
船ではおなじ
海である。
私は
佐渡と
云ふ
所は、
上野から
碓氷を
越えて、
雪の
柏原、
關山、
直江津まはりに
新潟邊から、
佐渡は
四十五里波の
上、と
見るか、
聞きかするものだ、と
浮りして
居た。
七日前に
東京驛から
箱根越の
東海道。
||分つた/\
||逗留した
大阪を、
今日午頃に
立つて、あゝ、
祖母さんの
懷で
昔話に
聞いた、
栗がもの
言ふ、たんばの
國。
故と
下りて
見た
篠山の
驛のプラツトホームを
歩行くのさへ、
重疊と
連る
山を
見れば、
熊の
背に
立つ
思がした。
酒顛童子の
大江山。
百人一首のお
孃さんの、「いくのの
道」もそれか、と
辿つて、はる/″\と
來た
城崎で、
佐渡の
沖へ
船が
飛んで、キラリと
飛魚が
刎出したから、きたなくも
怯かされたのである。
||晩もお
總菜に
鮭を
退治た、
北海道の
産である。
茶うけに
岡山のきび
團子を
食べた
處で、
咽喉に
詰らせる
法はない。これしかしながら
旅の
心であらう。
|| 夜はやゝ
更けた。はなれの
十疊の
奧座敷は、
圓山川の
洲の
一處を
借りたほど、
森閑ともの
寂しい。あの
大川は、いく
野の
銀山を
源に、
八千八谷を
練りに
練つて
流れるので、
水は
類なく
柔かに
滑だ、と
又按摩どのが
今度は
聲を
沈めて
話した。
豐岡から
來る
間、
夕雲の
低迷して
小浪に
浮織の
紋を
敷いた、
漫々たる
練絹に、
汽車の
窓から
手をのばせば、
蘆の
葉越に、
觸ると
搖れさうな
思で
通つた。
旅は
樂い、
又寂しい、としをらしく
成ると、
何が、そんな
事。
······ぢきその
飛石を
渡つた
小流から、お
前さん、
苫船、
屋根船に
炬燵を
入れて、
美しいのと
差向ひで、
湯豆府で
飮みながら、
唄で
漕いで、あの
川裾から、
玄武洞、
對居山まで、
雪見と
云ふ
洒落さへあります、と
言ふ。
項を
立てた
苫も
舷も
白銀に、
珊瑚の
袖の
搖るゝ
時、
船はたゞ
雪を
被いだ
翡翠となつて、
白い
湖の
上を
飛ぶであらう。
氷柱の
蘆も
水晶に
||金子の
力は
素晴らしい。
私は
獺のやうに、ごろんと
寢た。
而して
夢に
小式部を
見た。
嘘を
吐け!
ピイロロロピイ
||これは
夜が
明けて、
晴天に
鳶の
鳴いた
聲ではない。
翌朝、
一風呂キヤ/\と
浴び、
手拭を
絞つたまゝ、からりと
晴れた
天氣の
好さに、
川の
岸を
坦々とさかのぼつて、
來日ヶ峰の
方に
旭に
向つて、
晴々しく
漫歩き
出した。
九時頃だが、
商店は
町の
左右に
客を
待つのに、
人通りは
見掛けない。
靜な
細い
町を、
四五間ほど
前へ
立つて、
小兒かと
思ふ
小さな
按摩どのが
一人、
笛を
吹きながら
後形で
行くのである。ピイロロロロピイーとしよんぼりと
行く。トトトン、トトトン、と
間を
緩く、
其處等の
藝妓屋で、
朝稽古の
太鼓の
音、ともに
何となく
翠の
滴る
山に
響く。
まだ
羽織も
着ない。
手織縞の
茶つぽい
袷の
袖に、
鍵裂が
出來てぶら
下つたのを、
腕に
捲くやうにして
笛を
握つて、
片手向うづきに
杖を
突張つた、
小倉の
櫂の
口が、ぐたりと
下つて、
裾のよぢれ
上つた
痩脚に、ぺたんことも
曲んだとも、
大きな
下駄を
引摺つて、
前屈みに
俯向いた、
瓢箪を
俯向に、
突き
出た
出額の
尻すぼけ、
情を
知らず
故らに
繪に
描いたやうなのが、ピイロロロピイと
仰向いて
吹いて、すぐ、ぐつたりと
又俯向く。
鍵なりに
町を
曲つて、
水の
音のやゝ
聞こえる、
流の
早い
橋を
越すと、
又道が
折れた。
突當りがもうすぐ
山懷に
成る。
其處の
町屋を、
馬の
沓形に
一廻りして、
振返つた
顏を
見ると、
額に
隱れて
目の
窪んだ、
頤のこけたのが、かれこれ四十ぐらゐな
年であつた。
うか/\と、あとを
歩行いた
方は
勝手だが、
彼は
勝手を
超越した
朝飯前であらうも
知れない。
笛の
音が
胸に
響く。
私は
欄干に
彳んで、
返りを
行違はせて
見送つた。おなじやうに、
或は
傾き、また
俯向き、さて
笛を
仰いで
吹いた、が、やがて、
來た
道を
半ば、あとへ
引返した
處で、
更めて
乘つかる
如く
下駄を
留めると、
一方、
鎭守の
社の
前で、ついた
杖を、
丁と
小脇に
引そばめて
上げつゝ、
高々と
仰向いた、さみしい
大な
頭ばかり、
屋根を
覗く
來日ヶ峰の
一處を
黒く
抽いて、
影法師を
前に
落して、
高らかに
笛を
鳴らした。
||きよきよらツ、きよツ/\きよツ!
八千八谷を
流るゝ、
圓山川とともに、
八千八聲と
稱ふる
杜鵑は、ともに
此地の
名物である。それも
昨夜の
按摩が
話した。
其時、
口で
眞似たのが
此である。
例の(ほぞんかけたか)を
此の
邊では、(きよきよらツ、きよツ/\)と
聞くらしい。
ひと
聲、
血に
泣く
其の
笛を
吹き
落すと、
按摩は、とぼ/\と
横路地へ
入つて
消えた。
續いて
其處を
通つたが、もう
見えない。
私は
何故か、ぞつとした。
太鼓の
音の、のびやかなあたりを、
早足に
急いで
歸るのに、
途中で
橋を
渡つて
岸が
違つて、
石垣つゞきの
高塀について、
打つかりさうに
大な
黒い
門を
見た。
立派な
門に
不思議はないが、くゞり
戸も
煽つたまゝ、
扉が
夥多しく
裂けて
居る。
覗くと、
山の
根を
境にした
廣々とした
庭らしいのが、
一面の
雜草で、
遠くに
小さく、
壞れた
四阿らしいものの
屋根が
見える。
日に
水の
影もさゝぬのに、
其の
四阿をさがりに、
二三輪、
眞紫の
菖蒲が
大くぱつと
咲いて、
縋つたやうに、
倒れかゝつた
竹の
棹も、
池に
小船に
棹したやうに
面影に
立つたのである。
此の
時の
旅に、
色彩を
刻んで
忘れないのは、
武庫川を
過ぎた
生瀬の
停車場近く、
向う
上りの
徑に、じり/\と
蕊に
香を
立てて
咲揃つた
眞晝の
芍藥と、
横雲を
眞黒に、
嶺が
颯と
暗かつた、
夜久野の
山の
薄墨の
窓近く、
草に
咲いた
姫薊の
紅と、
||此の
菖蒲の
紫であつた。
ながめて
居る
目が、やがて
心まで、うつろに
成つて、あツと
思ふ、つい
目さきに、
又うつくしいものを
見た。
丁ど
瞳を
離して、あとへ
一歩振向いた
處が、
川の
瀬の
曲角で、やゝ
高い
向岸の、
崖の
家の
裏口から、
巖を
削れる
状の
石段五六段を
下りた
汀に、
洗濯ものをして
居た
娘が、
恰もほつれ
毛を
掻くとて、すんなりと
上げた
眞白な
腕の
空ざまなのが
睫毛を
掠めたのである。
ぐらり、がたがたん。
「あぶない。」
「いや、これは。」
すんでの
處。
||落つこちるのでも、
身投でも、はつと
抱きとめる
救手は、
何でも
不意に
出る
方が
人氣が
立つ。すなはち
同行の
雪岱さんを、
今まで
祕しておいた
所以である。
私は
踏んだ
石の、
崖を
崩れかゝつたのを、
且つ
視て
苦笑した。
餘りの
不状に、
娘の
方が、
優い
顏をぽつと
目瞼に
色を
染め、
膝まで
卷いて
友禪に、ふくら
脛の
雪を
合はせて、
紅絹の
影を
流に
散らして
立つた。
さるにても、
按摩の
笛の
杜鵑に、
拔かしもすべき
腰を、
娘の
色に
落ちようとした。
私は
羞ぢ
且つ
自ら
憤つて
酒を
煽つた。
||なほ
志す
出雲路を、
其日は
松江まで
行くつもりの
汽車には、まだ
時間がある。
私は、もう
一度宿を
出た。
すぐ
前なる
橋の
上に、
頬被した
山家の
年増が、
苞を
開いて、
一人行く
人のあとを
通つた、
私を
呼んで、
手を
擧げて、「
大な
自然薯買うておくれなはらんかいなア。」
······はおもしろい。
朝まだきは、
旅館の
中庭の
其處此處を、「
大きな
夏蜜柑買はんせい。」
······親仁の
呼聲を
寢ながら
聞いた。
働く
人の
賣聲を、
打興ずるは
失禮だが、
旅人の
耳には
唄である。
漲るばかり
日の
光を
吸つて、
然も
輕い、
川添の
道を
二町ばかりして、
白い
橋の
見えたのが
停車場から
突通しの
處であつた。
橋の
詰に、
||丹後行、
舞鶴行||住の
江丸、
濱鶴丸と
大看板を
上げたのは
舟宿である。
丹後行、
舞鶴行||立つて
見たばかりでも、
退屈の
餘りに
新聞の
裏を
返して、バンクバー、シヤトル
行を
睨むが
如き、
情のない、
他人らしいものではない。
||蘆の
上をちら/\と
舞ふ
陽炎に、
袖が
鴎になりさうで、
遙に
色の
名所が
偲ばれる。
手輕に
川蒸汽でも
出さうである。
早や、その
蘆の
中に
並んで、
十四五艘の
網船、
田船が
浮いて
居た。
どれかが、
黄金の
魔法によつて、
雪の
大川の
翡翠に
成るらしい。
圓山川の
面は
今、こゝに、
其の、のんどりと
和み
軟いだ
唇を
寄せて、
蘆摺れに
汀が
低い。
彳めば、
暖く
水に
抱かれた
心地がして、
藻も、
水草もとろ/\と
夢が
蕩けさうに
裾に
靡く。おゝ、
澤山な
金魚藻だ。
同町内の
瀧君に、ひと
俵贈らうかな、
······水上さんは
大な
目をして、
二七の
縁日に
金魚藻を
探して
行く。
······ 私は
海の
空を
見た。
輝く
如きは
日本海の
波であらう。
鞍掛山、
太白山は、
黛を
左右に
描いて、
來日ヶ峰は
翠なす
額髮を
近々と、
面ほてりのするまで、じり/\と
情熱の
呼吸を
通はす。
緩い
流は
浮草の
帶を
解いた。
私の
手を
觸れなかつたのは、
濡れるのを
厭つたのでない、
波を
恐れたのでない。
圓山川の
膚に
觸れるのを
憚つたのであつた。
城崎は
||今も
恁の
如く
目に
泛ぶ。
こゝに
希有な
事があつた。
宿にかへりがけに、
客を
乘せた
俥を
見ると、
二臺三臺、
俥夫が
揃つて
手に
手に
鐵棒を
一條づゝ
提げて、
片手で
楫を
壓すのであつた。
||煙草を
買ひながら
聞くと、
土地に
數の
多い
犬が、
俥に
吠附き
戲れかゝるのを
追拂ふためださうである。
駄菓子屋の
縁臺にも、
船宿の
軒下にも、
蒲燒屋の
土間にも
成程居たが。
||言ふうちに、
飛かゝつて、
三疋四疋、
就中先頭に
立つたのには、
停車場近く
成ると、
五疋ばかり、
前後から
飛びかゝつた。
叱、
叱、
叱!
畜生、
畜生、
畜生。
俥夫が
鐵棒を
振舞すのを、
橋に
立つて
見たのである。
其の
犬どもの、
耳には
火を
立て、
牙には
火を
齒み、
焔を
吹き、
黒煙を
尾に
倦いて、
車とも
言はず、
人とも
言はず、
炎に
搦んで、
躍上り、
飛蒐り、
狂立つて
地獄の
形相を
顯したであらう、と
思はず
身の
毛を
慄立てたのは、
昨、
十四年五月二十三日十一時十分、
城崎豐岡大地震大火の
號外を
見ると
同時であつた。
地方は
風物に
變化が
少い。わけて
唯一年、もの
凄いやうに
思ふのは、
月は
同じ
月、
日はたゞ
前後して、
||谿川に
倒れかゝつたのも
殆ど
同じ
時刻である。
娘も
其處に
按摩も
彼處に
|| 其の
大地震を、あの
時既に、
不氣味に
按摩は
豫覺したるにあらざるか。
然らば
八千八聲を
泣きつゝも、
生命だけは
助かつたらう。
衣を
洗ひし
娘も、
水に
肌は
焦すまい。
當時寫眞を
見た
||湯の
都は、たゞ
泥と
瓦の
丘となつて、なきがらの
如き
山あるのみ。
谿川の
流は、
大むかでの
爛れたやうに
······其の
寫眞も
赤く
濁る
······砂煙の
曠野を
這つて
居た。
木も
草も、あはれ、
廢屋の
跡の
一輪の
紫の
菖蒲もあらば、それがどんなに、と
思ふ。
||今は、
柳も
芽んだであらう
||城崎よ。
大正十五年四月
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