一 わが青春
今が自分の青春だというようなことを僕はまったく自覚した覚えがなくて過してしまった。いつの時が僕の青春であったか。どこにも区切りが見当らぬ。老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うならば、僕は今も
青春再びかえらず、とはひどく
北海の孤島へ流刑の身でこんな美しい物語をつくるとは、世阿弥という人の天才ぶりに降参せざるを得ない。ところで、話はそういうことではないのだが、僕がこの物語を友人に語ったところが(僕はあらゆる友人にこの物語を話した)最も激しい感動を現した人は宇野千代さんであった。この時以来宇野さんは謡曲のファンになり、
女の人には秘密が多い。男が何の秘密も意識せずに過している同じ生活の中に、女の人は色々の微妙な秘密を見つけだして生活しているものである。特に宇野さんの小説は、私小説はもとより、男の子の話だの、女流選手の話だの老音楽夫人の話だの、語られていることの大部分はこういう微妙な
このような微妙な心、秘密な匂いをひとつひとつ意識しながら生活している女の人にとっては、一時間一時間が抱きしめたいように大切であろうと僕は思う。自分の身体のどんな小さなもの、一本の髪の毛でも眉毛でも、僕等に分らぬ「いのち」が女の人には感じられるのではあるまいか。まして容貌の衰えに就ての悲哀というようなものは、同じものが男の生活にあるにしても、男女の有り方には甚だ大きな
このような女の人に比べると、僕の毎日の生活などはまるで中味がカラッポだと言っていいほど一時間一時間が実感に乏しく、且、だらしがない。てんでいのちが
だから女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その
どうも、然し、女一般だの男一般というような話になると、
三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ
七十になっても、なお青春であるかも知れぬ。そのくせ老衰を嘆いて幽霊になるほどの実のある生活もしたことがない。そのような僕にとっては、青春というものが決して美しいものでもなく、又、特別なものでもない。然らば、青春とは何ぞや? 青春とは、ただ僕を生かす力、諸々の愚かな然し僕の生命の燃焼を常に多少ずつ支えてくれているもの、僕の生命を支えてくれるあらゆる事どもが全て僕の青春の対象であり、いわば僕の青春なのだ。
愚かと云えば常に愚かであり又愚かであった僕である故、僕の生き方にただ一つでも人並の信条があったとすれば、それは「後悔すべからず」ということであった。立派なことだから後悔しないと云うのではない。愚かだけれども、後悔してみても、所詮立直ることの出来ない自分だから後悔すべからず、という、いわば祈りに似た愚か者の情熱にすぎない。牧野信一が
いわば、僕が「後悔しない」と云うのは悪業の結果が野たれ死をしても地獄へ落ちても後悔しない、とにかく俺の精一杯のことをやったのだから、という諦らめの意味に他ならぬ。宮本武蔵が毅然として「我事に於て」後悔せず、という、常に「事」というものをハッキリ認識しているのとは話が余程違うのだ。
僕は自分の愚かさを決して誇ろうとは思わないが、そこに僕の生命が燃焼し、そこに
二 淪落に就て
日本人は小役人根性が旺盛で、官僚的な権力を持たせると
電車の中へ子供づれの親父やおふくろが乗込んでくる。或いはお婆さんを連れた青年が這入ってくる。誰かしら子供やお婆さんに席を譲る。すると間もなく、その隣りの席があいた場合に、先刻、子供や婆さんに席を譲ってくれた人がそこに立っているにも
つまり子供だのお婆さんだのへの同情に便乗して、自分まで不当に利得を占めるやからで、こういう奴等が役人になると、役人根性を発揮し、権力に便乗して仕様のない結果になるのである。
僕は甚だ悪癖があって、電車の中へ婆さんなどがヨタヨタ乗込んでくると、席を譲らないといけないような気持になってしまうのである。けれども、ウッカリ席を譲ると、忽ち小役人根性の厭なところを見せつけられて不愉快になるし、そうかといって譲らないのも余り良い気持ではない。要するに、こういう小役人根性の奴等とは関係を持たないに限るから、電車がガラ空きでない限り、僕は腰かけないことにしている。少しくらいくたびれても、こういう厭な連中と関係を持たない方が幸福である。
去年の正月近い頃、渋谷で省線を降りて、バスに乗った。バスは大変な満員で、僕ですら
僕はこの少年の
このような躾けの良さは、必ずしも生家の栄誉や富に関係はなかろうけれども、然しながら、生家の栄誉とか、富に対する誇りとか、顧みて怖れ
とはいえ、栄誉ある家門を背景にした子供達が往々生れ
とはいえ、彼等の仁義正しいのは主として彼等同志の世界に於てだけだ。一足彼等の世界をでると、つまり淪落の世界に属さぬ人々に接触すると、彼等は必ずしも仁義を守らぬ。なぜなら淪落の人々は
乞食を三日すると忘れられない、と言うけれども、淪落の世界も、もし独立
今年の夏、僕は新潟へ帰って、二十年ぶりぐらいで、白山様の祭礼を見た。昔の賑いはなかったが、松下サーカスというのが掛っていた。僕は曲馬団で空中サーカスと云っているブランコからブランコへ飛び移るのが最も好きだが、松下サーカスは
落ちる。落ちる。そうして、又、登って行く。彼等が登場した時はただの少年少女であったが、落ちては登り、今度はという決意のために大きな眼をむいて登って行く
いつか真杉静枝さんに誘われて帝劇にレビューを見たことがあったが、レビューの女に比べると、あの中へ現れて一緒に踊る男ぐらい馬鹿に見えるものはない。あんまり低脳な馬鹿に見えて同性の手前僕がいささかクサっていると、真杉さんが僕に向いて、どうしてレビューの男達ってあんなに馬鹿に見えるのでしょうか、と
ところが、僕は一度だけ例外を見たのである。
それは京都であった。昭和十二年か十三年。京都の夏は暑いので、僕は毎日十銭握ってニュース映画館へ這入り、一日中休憩室で本を読んだりしていた。ニュース映画館はスケート場の附属で、ひどく涼しいのだ。あの頃は仕事に自信を失って、何度生きるのを止めにしようと思ったか知れない。新京極に京都ムーランというレビューがあって、そこへよく身体を運んだ。まったく、ただ身体を運んだだけだ。面白くはなかった。僕の見たたった一度の例外というのは、だから、京都ムーランではないのである。
京都ムーランよりももっと上手の活動小屋へ這入ったら、偶然アトラクションにレビューをやっていた。小さな活動小屋のアトラクションだから、レビューは甚だ貧弱である。女が七八人に男が一人しかいない。ところが、このたった一人の男が僕の見参した今迄の例をくつがえして、この男が舞台へでると、女の方が貧弱になってしまうのである。何か
こういう印象は日がたつにつれて極端なものになる。男の印象が次第に立派に大きなものになりすぎて、ほかのレビューの男達が益々馬鹿に見えて仕方がなくなるのである。あれぐらいの芸人だから浅草へ買われてこない筈はなかろうと思い、もう一度見参したいと思ったが、あいにく名前を覚えていない。会えば分る筈だから、浅草や新宿でレビューを見るたびに注意したが再会の機会がない。
ところが、この春、浅草の染太郎というウチで淀橋太郎氏と話をした。この染太郎はお好み焼屋だが、花柳地の半玉相手のお好み焼と違って、牛てんだのエビてんなどは余り焼かず、酒飲み相手にオムレツでもビフテキでも魚でも野菜でも何でも構わず焼いてしまう。近頃我々の仲間、『現代文学』の連中は会というと大概このウチでやるようなことになり、我々の大いに愛用するウチだけれども、我々のほかにはレビュー関係の人達が毎晩飲みにくる所なのである。そういうわけで淀橋太郎氏と時々顔を合せて話を交したりするようになり、ある日、京都ムーランの話がでた。そこで、雲をつかむような話で所詮分る筈がないだろうと思ったけれども、同じ頃、活動小屋のアトラクションにでた男の名前が分らないかと訊いてみた。すると僕が呆れ果てたことにはタロちゃんちょっと考えていたが、それはモリシンです、といともアッサリ答えたものである。当時京都の活動小屋へアトラクションに出たのはモリシン以外にない。小屋の場所も人数もそっくり同じだから疑う余地がないと言うのであった。一緒にいた数人のレビューの人達がみんなタロちゃんの言を裏書きした。モリシンは
僕は梅若万三郎や菊五郎の舞台よりも、サーカスやレビューを見ることが好きなのだ。それは又、第一流の料理を味うよりも、ただ酒を飲むことが好きなのと同じい。然し、僕は酒の味が好きではない。酔っ払って酒の臭味が分らなくなるまでは、息を殺して我慢しながら飲み下しているのである。
人は芸術が魔法だと云うかも知れぬが、僕には少し異論がある。対坐したのでは猥褻見るに堪えがたくて
僕は碁が好きだけれども、金銭を賭けることは全く好まぬ。むしろ、かかる人々を憎み
然しながら、カジノのルーレットの如きもの、いささかの理智もなく、さりとてイカサマも有り得ない。かかるものも亦現実のもつ奇蹟のひとつである。人はあそこに金を賭けているのではなく、ただ落胆か幸福か、絶望か蘇生か、実際死と生を天運にまかせて賭ける人もいるのだ。あそこでは自らを裁くほかには犠牲者、被害者が誰もいない。理智という嵐が死に、我自らを裁くに、これぐらい
我が青春は淪落だ、と僕は言った。然して、淪落とは、右のごときものである。即ち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、然らずんば||
この春、愛妻家の平野謙が独身者の僕をみつめてニヤニヤ笑いながら、決死隊員というものは独身者に限るそうだね、妻帯者はどうもいかんという話だよ、と
とはいうものの、僕は又考えた。これはやっぱり平野君の失言ではない。こういう単純怪奇な真理が実際に於て有り得るのである。それは女房とか家庭というもの自体にこのような魔力があるのではなく、女房や家庭をめぐって、こんな風な考え方が有り得るという事柄のうちに、この考えが真理でもあるという実際の力が存在しているのである。こういう考え方があり、こういう風に考えることによって、こういう風に限定されてしまうのである。真理の一面はたしかにこういう物でもある。
実際、わが国に於ては、夫婦者と独身者に非常にハッキリと区別をつけている。それは決して事変このかた生めよ
僕はかような考え方を決して頭から否定する気持はない。むしろ甚だユニックな国民的性格をもった考え方だと思うのである。
実際、思ってもみなさい。このような民族的な肉体をもった考えというものは真理だとか真理でないと言ったところで始まらぬ。実際、僕の四囲の人々は、みんなそう考え、そう生活しているのである。或いは、そう生活しつつ、そう考えているのである。彼等は実際そう考えているし、考えている通りの現実が生れてきているのだ。これでは、もう、喧嘩にならぬ。僕ですら、もし家庭というものに安眠しうる自分を予想することが出来るなら、どんなに幸福であろうか。芥川龍之介が「河童」か何かの中に、隣りの奥さんのカツレツが清潔に見える、と言っているのは、僕も甚だ同感なのである。
然し、人性の孤独ということに就て考えるとき、女房のカツレツがどんなに清潔でも、魂の孤独は癒されぬ。世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくの如く絶対にして、かくの如く厳たる存在も亦すくない。僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。
魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が
数年前、二十歳で死んだ姪があった。この娘は八ツの頃から結核性関節炎で、冬は割合いいのだが夏が悪いので、暖くなると東京へ来て、僕の家へ病臥し、一ヶ月に一度ぐらいずつギブスを取換えに病院へ行く。ギブスを取換える頃になると、
八ツの年から病臥したきりで発育が尋常でないから、十九の時でも肉体精神ともに十三四ぐらいだった。全然感情というものが死んでいる。何を食べても、うまいとも、まずいとも言わぬ。決して腹を立てぬ。決して喜ばぬ。なつかしい人が見舞いに来てもニコリともせず、その別れにサヨナラも言わぬ。いつもただ首を上げてチョット顔をみるだけで、それが
それでも稀に、よっぽど身体の調子のいいとき、東宝へ少女歌劇を見に連れて行ってもらった。相棒がなければそんな欲望が起る筈がなかったのだが、あいにく、そのころ、もう一人の姪が泊っていて、この娘は胸の病気の治ったあと楽な学校生活をしながら、少女歌劇ばかり見て喜んでいた。この姪が少女歌劇の雑誌だのブロマイドを見せてアジるから、一方もそういう気持になってしまうのは仕方がない。
その後、子規の『仰臥漫録』を読んだが、子規も姪と同じような病気であったらしい。場所も同じで、やっぱり腹部であった。子規の頃にはまだギブスがなかったとみえ、毎日
明治三十五年三月十日の日記に午前十時「此日始メテ腹部ノ穴ヲ見テ驚ク穴トイフハ小キ穴卜思ヒシニガランドナリ心持悪クナリテ泣ク」とある。その日の午後一時には「始終ドコトナク苦シク、泣ク」とも書いてある。子規は大人だから泣かずにいられなかったのだろうが、娘の方は十一もある穴を見たとき、まったく無表情で、もとより泣きはしなかった。食事だけが楽しみで、毎日の日記に食物とその美味、不味ばかり書いている子規。何を食べても無言の娘。この二人の世界では、大人と子供がまったく完全に入れ違いになっているので、僕は『仰臥漫録』を読む手を休めて、なんべん笑ってしまったか知れなかった。(こんなことを書くと、渋川驍君の如く、不謹慎で不愉快極るなどというお
然し、この話はただこれだけで、なんの結論もないのだ。なんの結論もない話をどうして書いたかというと、僕が大いに気負って青春論(又は淪落論)など書いているのに、まるで僕を冷やかすように、ふと、姪の顔が浮んできた。なるほど、この姪には青春も淪落も馬耳東風で、僕はいささか降参してしまって、ガッカリしているうちに、ふと書いておく気持になった。書かずにいられない気持になったのである。ただ、それだけ。
僕は次第に詩の世界にはついて行けなくなってきた。僕の生活も文学も散文ばかりになってしまった。ただ事実のまま書くこと、問題はただ事実のみで、文章上の詩というものが、たえられない。
僕が京都にいたころ、碁会所で知り合った特高の刑事の人で、俳句の好きな人があった。ある晩、四条の駅で一緒になって電車の中で俳句の話をしながら帰ってきたが、この人は虚子が好きで、子規を「激しすぎるから」嫌いだ、と言っていた。
けれども『仰臥漫録』を読むと、号泣又号泣したり、始めて穴をみて泣いたりしている子規が同じ日記の中で「五月雨ヲアツメテ早シ最上川(芭蕉)此句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句ノヤウニ思フタノデ今日迄古今有数ノ句トバカリ信ジテ居タ今日フト此句ヲ思ヒ出シテツクヾヽト考へテ見ルト「アツメテ」トイフ語ハタクミガアツテ甚ダ面白クナイソレカラ見ルト五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒(蕪村)トイフ句ハ遥カニ進歩シテ居ル」という実のない俳論をやっている。子規の言っていることは単に言葉のニュアンスに関する一片の詩情であって、何事を歌うべきか、如何なる事柄を詩材として提出すべきか、という一番大切な散文精神が念頭にない。号泣又号泣の子規は激しいけれども、俳句としての子規は激しくなく平凡である。『白描』の歌人を菱山修三は激しすぎるから厭だ、と言った。まったくこの歌は激しいのだから、厭だという菱山の言もうなずけるが、僕はこの激しさに惹かれざるを得ぬ。
僕も一昔前は菊五郎の踊りなど見て、それを楽しんだりしたこともあったが、今はもうそういう楽しみが全然なくなってしまった。曲馬団だとか、レビューだとか、酒だとか、ルーレットだとか、そういう現実と奇蹟の合一、肉体のある奇蹟の追求だけが生き甲斐になってしまったのである。
子規は単なる言葉のニュアンスなどにとらわれて俳句をひねっているけれど、その日常は号泣又号泣、甘やかしようもなく、現実の奇蹟などを夢みる甘さはなかったであろう。然るに僕は、一切の言葉の詩情に心の動かぬ頑固な不機嫌を知った代りに、現実に奇蹟を追うという愚かな甘さを忘れることが出来ない。忘れることが出来ないばかりでなく、生存の信条としているのである。
大井広介は僕が決して畳の上で死なぬと言った。自動車にひかれて死ぬとか、歩いてるうちに脳溢血でバッタリ倒れるとか、戦争で弾に当るとか、そういう死に方しか有り得ないと言う。どこでどう死んでも同じことだけれども、何か、こう、家庭的なものに見離されたという感じも、決して楽しいものではないのである。家庭的ということの何か不自然に束縛し合う偽りに同化の出来ない僕ではあるが、その偽りに自分を縛って甘んじて安眠したいと時に祈る。
一生涯めくら滅法に走りつづけて、行きつくゴールというものがなく、どこかしらでバッタリ倒れてそれがようやく終りである。永遠に失われざる青春、七十になっても現実の奇蹟を追うてさまようなどとは、毒々しくて厭だとも考える。甘くなさそうでいて、何より甘く、深刻そうでいて何より浅薄でもあるわけだ。
スタンダールは青年の頃メチルドという婦人に会い、一度別れたきり多分再会しなかったと記憶しているが、これをわが永遠の恋人だと言っている。折にふれてメチルドを思いだすことによって常に倖せであったとも言い、この世では許されなくても、神様の前では許されるだろうなどと大袈裟なことを言っている。本気かどうか分らないが、平然としてこう甘いことを言い、ヌケヌケとしたところが面白い。スタンダールと仲がいいような悪いようなメリメは、これは又変った作家で、生涯殆んどたった一人の女だけを書きつづけた。彼の紙の上以外には決して実在しない女である。コロンバでありカルメンであり、そうして、この女は彼の作品の中で次第に生育して、ヴィナス像になって、言いよる男を殺したりしている。
だが、メリメやスタンダールばかりではない。人は誰しも自分一人の然し実在しない恋人を持っているのだ。この人間の精神の悲しむべき非現実性と、現実の家庭生活や恋愛生活との開きを、なんとかして合理化しようとする人があるけれども、これは理論ではどうにもならないことである。どちらか一方をとるより外には仕方がなかろう。
一昔前の話だけれども、その頃僕はある女の人が好きになって、会わない日にはせめて手紙ぐらい貰わないと、夜がねむれなかった。けれども、その女の人には僕のほかに恋人があって僕よりもそっちの方が好きなのだと僕は信じていたので、僕は打ち明けることが出来なかった。そのうちに女の人とも会わなくなって、やがて僕は淪落の新らたな世間に瞬きしていたのであった。僕はもう全然生れ変っていた。僕はとてもスタンダールのようにヌケヌケしたことが言えないので、正直なところ、この女の人はもう僕の心に住んでいない。ところが、会わなくなってから三年目ぐらいに(その間には僕は別の女の人と生活していたこともあった)女の人が突然僕を訪ねてきて、どうしてあの頃好きだと一言言ってくれなかったと詰問した。女の人も内心は最も取乱していたのであろうが、外見は至極冷静で落着いて見えた。僕はすっかり取乱してしまったのである。忘れていた激情がどこからか溢れてきて、僕はこの女の人と結婚する気持になった。それから一ヶ月ぐらいというもの、二人は三日目ぐらいずつに会っていたが、淪落の世界に落ちた僕はもう昔の僕ではなく、突然取乱して激情に
女の人がこれに気付いて先に諦らめてしまったのは非常に賢明であったと僕は思う。女の人が、もう二度と会わない、会うと苦しいばかりだから、ということを手紙に書いてよこしたとき、僕も全く同感した。そうして、まったく同感だから再び会わないことにしましょう、という返事をだして、実際これで一つの下らないことがハッキリ一段落したという幸福をすら覚えた。今まで偶像だったものをハッキリ殺すことができたという喜びであった。この偶像が亡びても、決して亡びることのない偶像が生れてしまったのだから、仕方がない。さりとて僕にはヌケヌケとスタンダールのメチルド式の言い
三 宮本武蔵
突然宮本武蔵の剣法が現れてきたりすると驚いて腹を立てる人があるかも知れないけれども、別段に鬼面人を驚かそうとする魂胆があるわけでもなく、まして読者を茶化す思いは
大東亜戦争このかた「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」という古来の言葉が愛用されて、我々の自信を強めさせてくれている。先日読んだ講釈本によると柳生流の極意だということであるが、真偽の程は請合わない。とにかく何流かの極意の言には相違ないので、僕が之から述べようとする宮本武蔵の試合ぶりは、常に正しくこの極意の通りに外ならなかった。
然しながら「肉を切らして骨を切る」という剣術の極意は、必ずしも武士道とは合致しない所がある。具えなき敵に切りかかっては卑怯だとか、一々名乗りをあげて戦争するとか、
剣術には「身を守る」という術や方法はないそうだ。敵の切りかかる剣を受止めて勝つという方法はないというのだ。大人と子供ぐらい腕が違えばとにかく、武芸者同志の立合いなら一寸でも先に余計切った方が勝つ。肉を切らして骨を切るというのが、正しく剣術の極意であって、敢て流派には限らぬ普遍的な真理だという話である。
いったい武士というものは常に腰に大小を差しており、寸毫の侮辱にも刀を抜いて争わねばならぬ。又、どういう偶然で人の恨みを買うかも知れず、何時、如何なるとき白刃の下をくぐらねばならぬか、測りがたきものである。そうして、いったん白刃を抜合う以上、相手を倒さねば、必ずこちらが殺されてしまう。死んでしまっては身も蓋もないから、是が非でも勝たねばならぬ道理だ。一か八かということが常に武士の覚悟の根柢になければならぬ筈で、それに対する万全の具えが剣術だと僕は思う。
だが、剣術本来の面目たる「是が非でも相手を倒す」という精神は甚だ殺伐で、之を直ちに処世の信条におかれては安寧をみだす憂いがあるし、平和の時の心構えとしてはふさわしくないところもある。そんなわけで、剣術本来の第一精神があらぬ方へ
相手をやらなければこちらが命をなくしてしまう。まさに生死の最後の場だから、いつでも死ねるという肚がすわっていれば之に越したことはないが、こんな覚悟というものは口で言い易いけれども達人でなければ出来るものではない。
僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。尤も夢酔は武芸者などと尤もらしいことを言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない生涯だから子々孫々のいましめの為に自分の自叙伝を書く気になって『夢酔独言』という珍重すべき一書を遺した。
それだけしか習わない文章だから実用以外の文章の飾りは何も知らぬ。文字通り言文一致の自叙伝で、俺のようなバカなことをしちゃ駄目だぜ、と喋るように書いてある。
僕は『勝海舟伝』の中へ引用されている『夢酔独言』を読んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人には全部手紙で照会したが一人として『夢酔独言』を読んだという人がいなかった。だが『勝海舟伝』に引用されている一部分を読んだだけでも、之はまことに驚くべき文献のひとつである。
この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それは実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった。読者のために、今、多少でも引用してお目にかけたいと思ったのだが、あいにく『勝海舟伝』がどこへ紛失したか見当らないので残念であるが、実際一頁も引用すれば直ちに納得していただける不思議な名文なのである。ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。
子供の海舟にも悪党の血、いや、いつでも死ねる、というようなものがかなり伝わって流れてはいる。だが、親父の悠々たる不良ぶりというものは、なにか芸術的な安定感をそなえた奇怪な見事さを構成しているものである。いつでも死ねる、と一口に言ってしまえば簡単だけれども、そんな覚悟というものは一世紀に何人という小数の人が持ち得るだけの極めて稀れな現実である。
常に白刃の下に身を置くことを心掛けて修業に励む武芸者などは、この心掛けが当然有るべきようでいて、実は決してそうではない。結局、直接白刃などとは関係がなく、人格のもっと深く大きなスケールの上で構成されてくるもので、一王国の主たるべき性格であり、改新的な大事業家たるべき性格であって、この稀有な大覚悟の上に自若と安定したまま不良無頼な一生を終ったという勝夢酔が例外的な不思議な先生だと言わねばならぬ。勝海舟という作品を創るだけの偉さを持った親父ではあった。
夢酔の覚悟に比べれば、宮本武蔵は平凡であり、ボンクラだ。武蔵六十歳の筆になるという『五輪書』と『夢酔独言』の気品の高低を見れば分る。『五輪書』には道学者的な高さがあり『夢酔独言』には戯作者的な低さがあるが、文章に具わる個性の精神的深さというものは比すべくもない。『夢酔独言』には最上の芸術家の筆を以てようやく達しうる精神の高さ個性の深さがあるのである。
然しながら、晩年の悟りすました武蔵はとにかくとして、青年客気の武蔵は
晩年宮本武蔵が細川家にいたとき、殿様が武蔵に向って、うちの家来の中でお前のメガネにかなうような剣術の極意に達した者がいるだろうか、と訊ねた。すると武蔵が一人だけござりますと言って、都甲太兵衛という人物を推奨した。ところが都甲太兵衛という人物は剣術がカラ下手なので名高い男で、又外に取柄というものも見当らぬ平凡な人物である。殿様も甚だ呆れてしまって、どこにあの男の偉さがあるのかと訊いてみると、本人に日頃の心構えをお訊ねになれば分りましょう、という武蔵の答え。そこで都甲太兵衛をよびよせて、日頃の心構えというものを訊ねてみた。
太兵衛は暫く沈黙していたが、さて答えるには、自分は宮本先生のおメガネにかなうような偉さがあるとは思わないが、日頃の心構えということに就てのお訊ねならば、なるほど、笑止な心構えだけれども、そういうものが一つだけあります。元来自分は非常に剣術がヘタで、又、生来臆病者で、いつ白刃の下をくぐるようなことが起って命を落すかと思うと夜も心配で眠れなかった。とはいえ、剣の才能がなくて、剣の力で安心立命をはかるというわけにも行かないので、結局、いつ殺されてもいいという覚悟が出来れば救われるのだということを確信するに至った。そこで夜ねむるとき顔の上へ白刃をぶらさげたりして白刃を怖れなくなるような様々な工夫を凝らしたりした。そのおかげで、近頃はどうやら、いつ殺されてもいい、という覚悟だけは出来て、夜も安眠できるようになったが、これが自分のたった一つの心構えとでも申すものでありましょうか、と言ったのだ。すると傍にひかえていた武蔵が言葉を添えて、これが武道の極意でございます、と言ったという話である。
都甲太兵衛はその後重く用いられて江戸詰の家老になったが、このとき不思議な手柄をあらわした。丁度藩邸が普請中で、建物は出来たがまだ庭が出来ていなかった。ところが殿様が登城して外の殿様と話のうちに、庭ぐらい一晩で出来る、とウッカリ口をすべらして威張ってしまった。苦労を知らない殿様同志だから、人の
宮本武蔵に『十智』という書があって、その中に「変」ということを説いているそうだ。つまり、智慧のある者は一から二へ変化する。ところが智慧のないものは、一は常に一だと思い込んでいるから、智者が一から二へ変化すると嘘だと言い、約束が違ったと言って怒る。然しながら場に応じて身を変え心を変えることは兵法の大切な極意なのだと述べているそうだ。
宮本武蔵は剣に生き、剣に死んだ男であった。どうしたら人に勝てるか自分よりも修業をつみ、術に於いてまさっているかも知れぬ相手に、どうしたら勝てるか、そのことばかり考えていた。
武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」という覚悟を、これが剣法の極意でございますと、言っているけれども、然し、武蔵自身の歩いた道は決してそれではなかったのである。彼はもっと凡夫の弱点のみ多く持った度し難いほど鋭角の多い男であった。彼には、いつ死んでもいい、という覚悟がどうしても
松平出雲守は彼自身柳生流の使い手だったから、その家臣には武術の達人が多かったが、武蔵は出雲守の面前で家中随一の使い手と手合せすることになった。
選ばれた相手は棒使いで、八尺余の八角棒を持って庭に現れて控えていた。武蔵が書院から木刀をぶらさげて降りてくると、相手は書院の降り口の横にただ控えて武蔵の降りてくるのを待っている。無論、構えてはいないのである。
武蔵は相手に用意のないのを見ると、まだ階段を降りきらぬうちに、いきなり相手の顔をついた。試合の挨拶も交さぬうちに突いてくるとは無法な話だから、大いに怒って棒を取り直そうとするところを、武蔵は二刀でバタバタと敵の両腕を打ち、次に頭上から打ち下して倒してしまった。
武蔵の考えによれば、試合の場にいながら用意を忘れているのがいけないのだと言うのである。何でも構わぬ。敵の隙につけこむのが剣術なのだ。敵に勝つのが剣術だ。勝つためには利用の出来るものは何でも利用する。刀だけが武器ではない。心理でも油断でも、又どんな弱点でも、利用し得るものをみんな利用して勝つというのが武蔵の編みだした剣術だった。
僕は先日、吉田精顕氏の『宮本武蔵の戦法』という文章を読んで、目の覚めるような面白さを覚えた。吉田氏は武徳会の教師で氏自身二刀流の達人だということであるが、武術専門家の筆になった武蔵の試合ぶりというものは甚だ独特で、小説などで表わす以上に、光彩
武蔵が吉岡清十郎と試合したのは二十一の秋で、父の無二斎が吉岡憲法に勝っているので、父の武術にあきたらなかった武蔵は、自分の剣法をためすために、先ず父の勝った吉岡に自分も勝たねばならなかった。
武蔵は約束の場所へ時間におくれて出掛けて行った。待ち疲れていた清十郎は武蔵を見ると直ちに大刀の
清十郎の弟、伝七郎が復讐の試合を申込んできた。伝七郎は大力な男で兄以上の使い手だという話なのである。武蔵は又約束の時間におくれて行った。今度の試合は復讐戦だから真剣勝負だろうと思って武蔵は木刀を持たずに行ったが、行ってみると驚いた。伝七郎は五尺何寸もある木刀を持っていて、遠方に武蔵の姿を見かけるともう身構えているのである。武蔵は瞬間ためらったが直ぐ決心して刀を抜かず素手のまま今迄通りの足並で近づいて行った。伝七郎は油断なく身構えていたが、いつ真剣を抜くだろうかということを考えていたので気がついた時には、五尺の木刀が長すぎるほど武蔵が近づいていたのである。そのとき刀を抜けば武蔵は打たれたかも知れぬが、突然とびかかって、伝七郎の木刀を奪いとった。そうして一撃の下に打ち殺してしまったのである。
吉岡の門弟百余名が清十郎の一子又七郎という子供をかこんで武蔵に
宍戸梅軒は武蔵を見ると分銅を廻転させはじめた。武蔵は五六十歩離れて右手に大刀をぬいてぶらさげたまま暫く分銅の廻転を見ていたが、右手の大刀を左手に持ち変えた。それから右手に小刀を抜いた。武蔵は左ギッチョではないから(肖像を見ると分る)本来だったら右手に大刀、左手は小刀の筈だけれどもこの時は逆になっていることを注意していただきたい。さて武蔵は左右両手ともに上段にふりかぶったのである。そうして、右手の小刀を敵の分銅の廻転に合せて同じ速度で廻しはじめた。こうして廻転の調子を合せながらジリジリと歩み寄って行った。
梅軒は驚いた。分銅で武蔵の顔面を打つには同じ速度で廻転している小刀が邪魔になる。
邪魔の小刀に分銅をまきつければ、左の大刀が怖しい。やむなくジリジリ後退すると武蔵はジリジリ追うてくる。と、クサリが下へ廻った瞬間に武蔵の小刀が手を離れて梅軒の胸へとんできた。慌てて廻転をみだした時には左手の大刀が延びて梅軒の胸を突きさしていた。梅軒は危く身をそらしたが次の瞬間には頭上から一刀のもとに斬り伏せられていたのである。この試合には梅軒の弟子が立合っていたが、先生斬らるというので騒ぎかけたとき、武蔵はすでに両刀を持ち直して弟子の中へ斬りこんでいたのであった。
剣法には固定した型というものはない、というのが武蔵の考えであった。相手に応じて常に変化するというのが武蔵の考えで、だから武蔵は型にとらわれた柳生流を非難していた。柳生流には大小六十二種の太刀数があって、変に応じたあらゆる太刀をあらかじめ学ばせようというのだが、武蔵は之を否定して、変化は無限だからいくら型を覚えても駄目であらゆる変化に応じ得る根幹だけが大事だと言って、その形式主義を非難したのである。
これとほぼ同じ見解の相違が、佐々木小次郎と武蔵の間にも見ることが出来る。
小次郎は元来富田勢源の高弟で、勢源門下に及ぶ者がなくなり、勢源の弟の次郎左衛門にも勝ったので、大いに自信を得て「
ところが武蔵によれば、相対的な速力それ自身には限度がある。つまり変化に応じてあらかじめ型をつくることと同じで、燕の速力に応じる速力を用意しても燕以上の速力のものには用をなさぬ。だから、一番大切なのは敵の速力に対するこちらの観察力で、如何なる速力にも応じ得る眼をつくることが肝心だという考えだった。
小次郎は燕から会得した速剣を「虎切剣」と名付けて諸国を試合して廻り一度も負けたことがなく、小倉の細川家に迎えられて、剣名大いに高かった。その頃京都にいた武蔵は小次郎の隆々たる剣名を耳にして、その速剣と試合ってみたいと思ったのだ。速剣それ自身は剣法の本義でないという彼の見解から、当然のことであった。
彼は小倉へ下って細川家へ試合を願い出で、許されて、船島で試合を行うことになった。武蔵は家老の長岡佐渡の家に泊ることになり、翌朝舟で船島へ送られる筈であったが、彼自身の考えがあって、ひそかに行方をくらまし、下関の廻船問屋小林太郎左衛門の家へ泊った。
翌日になって、もう小次郎が船島へついたという知らせが来たとき、ようやく彼は寝床から起きた。それから食事をすませ、主人を呼んで櫓をもらい受けて、大工道具を借り受け、木刀を作りはじめた。何べんも渡航を催促する飛脚が来たが、彼は耳をかさず丹念に木刀をきざんだ。四尺一寸八分の木刀を作ったのである。
元来、小次郎は三尺余寸の「物干竿」とよばれた大剣を使い、それが甚だ有名であった。武蔵も三尺八分の例外的な大刀を帯びてはいたが、物干竿の長さには及ばぬ。のみならず小次郎は速剣で、この長い剣を振り下すと同時に返して打つ。この返しが小次郎独特の虎切剣であった。これに応ずるには、虎切剣のとどかぬ処から、片手打に手を延ばして打つ、これが武蔵の戦法で、特殊な木刀を作ったのもそのためだった。
武蔵は三時間おくれて船島へついた。遠浅だったので武蔵は水中へ降りた。小次郎は待ち疲れて大いに苛立っており、武蔵の降りるのを見ると憤然波打際まで走ってきた。
「時間に遅れるとは何事だ。気おくれがしたのか」
小次郎は怒鳴ったが、武蔵は答えない。黙って小次郎の顔を見ている。武蔵の予期の通り小次郎益々怒った。大剣を抜き払うと同時に鞘を海中に投げすてて構えた。
「小次郎の負けだ」と武蔵が静かに言った。
「なぜ、俺の負けだ」
「勝つつもりなら、鞘を水中へ捨てる筈はなかろう」
この間答は武蔵一生の圧巻だと僕は思う。武蔵はとにかく一個の天才だと僕は思わずにいられない。ただ彼は努力型の天才だ。堂々と独自の剣法を築いてきたが、それはまさに彼の個性があって初めて成立つ剣法であった。彼の剣法は常に敵に応じる「変」の剣法であるが、この最後の場へ来て、鞘を海中へ投げすてた敵の行為を反射的に利用し得たのは、彼の冷静とか修練というものも有るかも知れぬが、元来がそういう男であったのだ、と僕は思う。特に冷静というのではなく、ドタン場に於いても
僕は船島のこの問答を、武蔵という男の作った非常にきわどいが然しそれ故見事な芸術品だと思っている。
実際試合は危なかった。間一髪のところで勝ったのである。
小次郎は激怒して大刀をふりかぶった。問答に対する答えとしての激怒をこめて振りかぶった刀なのだ。この機会を逃してならぬことを武蔵は心得ていた。なぜなら、小次郎に時間を許せば、彼も
武蔵は急速に近づいて行った。大胆なほど間をつめた。小次郎は斬り下した。だが、小次郎の速剣は初太刀よりもその返しが更に怖しい。もとより武蔵は前進をとめることを忘れてはいない。間一髪のところで剣尖をそらして、前進中に振り上げた木刀を片手打ちに延ばして打ち下した。小次郎は倒れたが、同時に武蔵の鉢巻が二つに切れて下へ落ちた。
小次郎は倒れたが、まだ生気があった。武蔵が誘って近づくと果して大刀を横に斬り払ったが、武蔵は用意していたので巧みに退き
武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」覚悟を剣法の極意だと言っているが、彼自身の剣法はそういう悟道の上へ築かれたものではなかった。晩年の著『五輪書』がつまらないのも、このギャップがあるからで、彼の剣法は悟道の上にはなく、個性の上にあるのに、悟道的な統一で剣法を論じているからである。
武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆に之を武器に用いる剣法である。溺れる者藁もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、之を利用して勝つ剣法なのだ。
之が本当の剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たねばならぬ。妥協の余地がないのである。こういう最後の場では、勝って生きる者に全部のものがあり、正義も自ら勝った方にあるのだから。是が非でも勝つことだ。我々の現下の戦争も亦然り。どうしても勝たねばならぬ。
ところが甚だ気の毒なことには、武蔵の剣法は当時の社会には容れられなかった。形式主義の柳生流が全盛で、武蔵のような勝負第一主義は激しすぎて通用の余地がなかったのだ。
武蔵の剣法も亦、いわば一つの淪落の世界だと僕は思う。世に容れられなかったから淪落の世界だと言うのではないが、然し、世に容れられなかった理由の一つは、たしかにその淪落の性格のためだとは言えるであろう。
一か八かであるが、しかも額面通りではなく、実力をはみだしたところで勝敗を決し、最後の活を得ようとする。伝七郎との試合では相手が大きな木刀を持参したのに驚いた時に逆にそれを利用して素手で近づくという方法をあみだしている。小次郎の試合では、相手が鞘を投げすてるのを逃さなかったし、松平出雲守の御前試合では相手の油断に目をとめると挨拶の前に相手を打ち倒してしまった。
武蔵は試合に先立って常に細心の用意をしている。時間をおくらせて、じらしたり、逆をついて先廻りしたり、試合に当って心理的なイニシアチヴをとることを常に忘れることがなく、自分の木刀を自分でけずるというような堅実な心構えも失わないし、クサリ鎌に応じては二刀をふりかぶるという特殊な用意も怠らない。試合に当って常に綿密な計算を立てていながら、然し、
「小次郎の負けだ」
めざとくも利用して武蔵はそう言ったが、然し、そこに余裕などがあるものか。武蔵はただ必死であり、必死の凝った一念が、溺れる者の激しさで藁の奇蹟を追うているだけの話だ。余裕というものの一切ない無意識の中の白熱の術策だから、
然しながら、武蔵には、いわば悪党の
いつでも死ねる、という偉丈夫の覚悟が彼にはなかったのだ。その覚悟がなかったために編みだすことの出来た独特無比の剣法ではあったけれども、それ故また、剣を棄てて他に道をひらくだけの芸がなく、生活の振幅がなかった。都甲太兵衛は家老になって、一夜に庭をつくる
剣術は所詮「青春」のものだ。特に武蔵の剣術は青春そのものの剣術であった。一か八かの絶対面で賭博している淪落の術であり、奇蹟の術であったのだ。武蔵自身がそのことに気付かず、オルソドックスを信じていたのが間違いのもとで、元来世に容れられざる性格をもっていたのである。
武蔵は二十八の年に試合をやめた。その時まで試合うこと六十余度、一度も負けたことがなかったのだが、この激しさを一生涯持続することができたら、まさに驚嘆すべき超人と言わざるを得ぬ。けれども、それを要求するのは余りに苛酷なことであり、血気にはやり名誉に燃える彼とは云え、その一々の試合の薄氷を踏むが如く、細心周到万全を期したが上にも全霊をあげた必死の一念を見れば、僕も亦思うて
まったくもって、剣術というものを、一番剣術本来の面目の上に確立していながら、あまりにも剣術の本来の精神を生かしすぎるが故に
武蔵は柳生兵庫のもとに長く滞在していたことがあったという。兵庫は柳生派随一の使い手と言われた人だそうで、兵庫は武蔵を高く評価していたし、武蔵も亦兵庫を高く評価していた。二人は毎日酒をくんだり碁を打ったりして談笑し、結局試合をせずに別れてしまった。心法に甲乙なきことを各々認め合っていたので試合までには及ばなかったのだという話で、なるほどあり得ることだと
何事も勝負に生き、勝負に徹するということは辛いものだ。僕は時々日本棋院の大手合を見物するが、手合が終ると、必ず今の盤面を並べ直して、この時にこう、あの時にはあの方がというような感想を述べて研究し合うものである。ところが、勝った方は談論風発、感想を述べては石を並べその楽しそうな有様お話にならないのに、負けた方ときたら石のように沈んでしまって、まさに永遠の恨みを結ぶかの如く、釈然としないこと甚だしい。僕でも碁を打って負けた時には口惜しいけれども、その道の商売人の恨みきった形相は質的に比較にならないものがある。いのちを
将棋の木村名人は不世出の名人と言われ、生きながらにしてこういう評価を持つことは凡そあらゆる芸界に於いて極めて稀れなことであるが、全く彼は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である。碁打の方には、この闘志の片鱗だに比肩すべき人がない。相撲取にも全然おらぬ。
けれども、木村名人も、もう何度負けたか知れないのだ。これに比べれば武蔵の道は陰惨だ。負けた時には命がない。佐々木小次郎は一生に一度負けて命を失い、武蔵はともかく負けずに済んで、畳の上で往生を遂げたが、全く命に関係のない碁打や将棋指ですら五十ぐらいの齢になると勝負の激しさに堪えられない等と言いだすのが普通だから、武蔵の剣を一貫させるということは正に尋常一様のことではなかった。僕がそれを望むことは無理難題には相違ないが、然しながら武蔵が試合をやめた時には、武蔵は死んでしまったのだ。武蔵の剣は負けたのである。
勝つのが全然嬉しくもなく面白くもなく何の張合いにもならなくなってしまったとか、生きることにもウンザリしてしまったとか、何か、こう魔にみいられたような空虚を知って試合をやめてしまったというわけでもない。それは『五輪書』という平凡な本を読んでみれば分ることだ。ただ、だらだらと生きのびて『五輪書』を書き、その本のおかげをもって今日も尚その盛名を伝えているというわけだが、然し、このような盛名が果して何物であろうか。
四 再びわが青春
淪落の青春などと言って、まるで僕の青春という意味はヤケとかデカダンという意味のように思われるかも知れないけれども、そういうものを指しているわけでは毛頭ない。
そうかと云って、僕自身の生活に何かハッキリした青春の自覚とか讃歌というものが有るわけでもないことは先刻白状に及んだ通りで、僕なんかは、一生ただ暗夜をさまよっているようなものだ。けれども、こういうさまよいの中にも、僕には僕なりの一条の灯の目当ぐらいはあるもので、茫漠たる中にも、なにか手探りして探すものはあるのである。
非常に当然な話だけれども、信念というようなものがなくて生きているのは、あんまり意味のないことである。けれども、信念というものは、そう軽々に持ちうるものではなくて、お前の信念は何だ、などと言われると、僕などまっさきに返答が出来なくなってしまうのである。それに、信念などというものがなくとも人は生きていることに不自由はしないし、結構幸福だ、ということになってくると、信念などというものは単に愚か者のオモチャであるかも知れないのだ。
実際、信念というものは、死することによって初めて生きることが出来るような、常に死と結ぶ直線の上を貫いていて、これも亦ひとつの淪落であり、青春そのものに外ならないと言えるであろう。
けれども、盲目的な信念というものは、それが如何ほど激しく生と死を一貫して貫いても、さまで立派だと言えないし、
僕は天草四郎という日本に於ける空前の少年選手が大好きで、この少年の大きな野心とその見事な構成に就て、もう三年越し小説に書こうと努めている。そのために、
切支丹は自殺をしてはいけないという戒めがあって、当時こういう戒めは甚だ厳格に実行され、ドン・アゴスチノ小西行長は自害せず刑場に引立てられて武士らしからぬ死を選んだ。又、切支丹は武器をとって抵抗しては殉教と認められない定めがあって、そのために島原の乱の三万七千の戦死者は殉教者とは認められていないのだが、この掟によって、切支丹らしい捕われ方をするために、捕吏に取囲まれたとき、わざわざ腰の刀を鞘ぐるみ抜きとって遠方へ投げすてて縄を受けたなどという御念の入った武士もあったし、そうかと思うと、主のために殉教し得る光栄を与えてもらえたと言って、首斬りの役人に感謝の辞と祈りをささげて死んだバテレンがあったりした。当時は殉教の心得に関する印刷物が配布されていて、信徒達はみんな切支丹の死に方というものを勉強していたらしく、全くもって当時教会の指導者達というものは、
いのちにだって取引というものがある筈だ。いのちの代償が計算外れの安値では信念に死んでも馬鹿な話で、人々は十銭の
宮本武蔵は吉岡一門百余名を相手に血闘の朝、一乗寺下り松の果し場へ先廻りして急ぐ途中、たまたま八幡様の前を通りかかって、ふと、必勝を祈願せずにいられない気持になり、まさに神前に
僕はこの武蔵を非常にいとしいと思うけれども、これはただこれだけの話で、この出来事を彼の一生に結びつけて大きな意味をもたせることには同感しない。武蔵のみではないのだ。如何なる神の前であれ、神の前に立ったとき何人が
自殺した牧野信一はハイカラな人で、人の前で泥くさい自分をさらけだすことを最も怖れ慎んでいた人だったのに、神前や仏前というと、どうしても素通りの出来ない人で、この時ばかりは誰の目もはばからず、必ずお賽銭をあげて丁寧に拝む人であった。その素直さが非常に羨しいと思ったけれども、僕はどうしても一緒に並んで拝む勇気が起らず、離れた場所で鳩の豆を蹴とばしたりしていた。
数年前、菱山修三が外国へ出帆する一週間ぐらい前に階段から落ちて
その後、僕が小田原の松林の中に住むようになったら、近所
死ぬることは簡単だが、生きることは難事業である。僕のような空虚な生活を送り、一時間一時間に実のない生活を送っていても、この感慨は痛烈に身にさしせまって感じられる。こんなに空虚な実のない生活をしていながら、それでいて生きているのが精一杯で、祈りもしたい、酔いもしたい、忘れもしたい、叫びもしたい、走りもしたい。僕には余裕がないのである。生きることが、ただ、全部なのだ。
そういう僕にとっては、青春ということは、要するに、生きることのシノニイムで、年齢もなければ、又、終りというものもなさそうである。
僕が小説を書くのも、又、何か自分以上の奇蹟を行わずにはいられなくなるためで、全くそれ以外には大した動機がないのである。人に笑われるかも知れないけれども、実際その通りなのだから仕方がない。いわば、僕の小説それ自身、僕の淪落のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇蹟に合一せしめるということを、唯一の情熱とする以外に外の生き方を知らなくなってしまったのだ。
これは甚だ自信たっぷりのようでいて、実は之ぐらい自信の欠けた生き方もなかろう。常に奇蹟を追いもとめるということは、気がつくたびに落胆するということの裏と表で、自分の実際の力量をハッキリ知るということぐらい悲しむべきことはないのだ。
だが然し、持って生れた力量というものは、今更悔いても及ぶ筈のものではないから、僕に許された道というのは、とにかく前進するだけだ。
僕の友達に長島萃という男があって、八年前に発狂して死んでしまったけれども、この男の父親は長島隆二という往昔名高い陰謀政治家であった。この政治家は子供に向って、まともな仕事をするな、山師になれ、ということを常々説いていたそうで、株屋か小説家になれと言ったそうだ。
この話をその頃僕の好きだった女の人に話したら、その人はキッと顔をあげて、小説家は山師ですかと言った。
その当時は僕も閉口して、イエ、小説家は山師の仕事ではありません、と言ったかも知れないが(良く覚えていないのだ)今になって考えると、
こういう僕にとっては、所詮一生が毒々しい青春であるのはやむを得ぬ。僕はそれにヒケ目を感じること無きにしもあらずという自信のない有様を白状せずにもいられないが、時には誇りを持つこともあるのだ。そうして「淪落に殉ず」というような一行を墓に刻んで、サヨナラだという魂胆をもっている。
要するに、生きることが全部だというより外に仕方がない。