時は移つて行 く。今日の私はもう昨日の私ではない。脱殻 をとゞめることは成長の喜びである。
その脱殻の一つを、今私はその頃の私に捧げようと思ふ。
その脱殻の一つを、今私はその頃の私に捧げようと思ふ。
いつの頃からともなしに私はさうなつて来た。どうした訳でなのかもわからない。
「なんて腐つたやうな生活なんだ!」
かう言つてあの人は
「まるで腐つてるんだ。
唾でも吐きかけたいやうな顔つきをして、あの人は私を見下して起つて行く。全くそれに違いない。適切な言葉だと思ふ。だけど、たゞさう思ふだけで、一向痛切にそれが響かない。私の腐つた心には、もう薬もなんの利き目がないのかも知れないなどゝ思ふ。
パラ/\と
「ね!」とぺたり坐つて、あの人の膝にしなだれかゝる。あの人は黙つて居る。
「ねつたら!」
「おい!」
いつもの
「いやあよ!」と鼻声になつて、膝の上にのしかゝつて、猫が自分の寝どこを
「よ! 厭だつてば、そんなに慍つたやうな顔をしてちやあ。」と仰向けになつて見上げながら、首に手をかけてぐい/\と搖らせる。その時に
「ねえ! よう!」
それでも猶あの人の頬は引締つて、丁度内側から吸ひふくべでもかけたやうに、肉がこけて見える。そんな時には、頬骨がいやに高く目に立つて、角度の多い顔になる。そのいつまでもほぐれない顔色を見て居るうちに、それが女の資格を失ふことでゝもあるかのやうに、私の心は
「ようつたらよう!」
「煩い!」
と、私の心は足場を失つてほろりとあの人から離れる。細胞といふ細胞に一ぱい含んで居たやうな体の味||さういつたやうなものをあの人に甘へてる時にいつも味はふ||が、汁を吸ひ取つた梨の滓のやうにぽろ/\したものになつてしまふ。私は恐い顔をして
「何だい? ん?」
今度は私が黙つて居る。暫くしてそつと
私はばたりと畳に体を投げる。そこらを掻き

「なんといふ仕様のない女だらう!」
家の中がしいイんとして居る。襖のかげには息づかひの音もしない。
「なぜあの人は私を
私の頬にはまた新しい涙が熱く冷たく流れる。どつかにぶつかつてつき破らなくては、自分で自分の肉を傷つけたいやうな物狂ほしさになつて、私はいきなり起き上つて行く。
「よ! どうかして、どうかして! 打つて、ぶつて!」と、一つの物体の様に我体をあの人の前に投げる。
「さ! 追ひ出すともどうとも勝手にしたらいゝぢやないか!」と、早く事の頂点に達したさに、あばずれた言葉で無茶に叫ぶ。
「馬鹿!」あの人は怒鳴つた。そして自分の声に激した。
「どうしたつていふんだ?······」
私は胸をせか/\させながら、負けない気になつてその顔を睨みかへす。二つの胸が高く不規則な呼吸を続ける。
暫くすると、あの人はなんにも言はずに、如何にも術なさゝうな溜息をして、私から目を外してしまふ。と、私の胸はかすかにおど/\として来る。どうにもかうにも仕様のないこの心のやり場は、やつぱりあの人の胸でなければならない。あの人といふ対象がなかつたなら、私はこんなに気違ひじみたことをしやしないんだと思つて来ると、あの人の心を惹きつけたさにするいろ/\な調子外れの行為が、却てあの人を悩ませたり、苦しませたりするのに気が引けて来て、すこうしづゝ静かな気分に恢復して行く。涙のあとを走るやうな冷たさが妙に佗びしい。
ふとみると、捨てかけて行つた私の手を先刻から握つたまゝ、身じろきもしずに居るあの人の顔に、一つどころを見つめた眼が、一ぱいの涙を溜めて居る。襲ふやうに私の全身に走つた悲しさが、
「リユウリチカ!」と思はず呼び馴れた隆三の愛称を呼ばせて、その首に手を巻かせる。と、搖られてぽとりと落ちた露が私の頬を打つ。
「
私は堪らなくなつて、心からおろ/\と泣けて来る。
「サアシヤがわるい、(さだ子)サアシヤがわるい。ね
「サアシヤばかりが悪いんぢやないよ。僕も悪いんだ。僕が至らないんだ。僕がもつとすべてに於て強者だと、サアシヤにそんなヒステリーを起させないですむんだ。」
それを聞くと、私はまた無上に済まなくなつて、自分で自分が責められて来る。泣いて/\、すつかり泣き切つたあとの洗はれたやうな胸を大切さうに抱へて、私はいつまでも/\泣いじやくりをして居るなんといふその時の私は、柔順なそして健気な心を持つた女であるのだらう!
「私、貴方に手紙が書きたくなつたの。旅行をなさらない?」
「あゝ、金を作つてくれ。」あの人は苦もなく
私は急に夢がさめたやうになつて、生々とした表情が、水を引くやうに去つて行くのを覚える。なんの興味もない、針の先ほどの刺激もない一日々々の中に、その身が浸つて居ることを思ふと、体も
「売れたかい?」あの人は妙に取すまして居る。
「えゝ。」私は自分で自分を
「ね、サアシヤが可愛いの?」
「あゝ」あの人は厳かな態度を粧はうとする。その口付きから直ぐに、「だが······」と来るのを予覚しながら、私はぢいつとその顔に見入つて居る。
「お前が僕に忠実で、そして······。」
「解つてるわ、/\。」と私は慌てゝその口をとめる。
「ね、後生だからなんの前置もなしに、但し書きをしないで、たゞサアシヤが可愛いつて言つて頂戴!」
たゞ甘えることだけが、あの人の厳かな構へを破る方法でゝもあるかのやうに、私はひたすらあの人に
「よう、後生だから。」
「お前が僕と共鳴し、感激しあつて生きて行く限りは······」
「いや、いやあ! 知つてるの、知つてるの。だからたゞなんにも言はないで、サアシヤが可愛いつて言つて!」
私はたゞもう意地になつて言ひ張る。
「またそんな無茶をいふ······そんなお雛様ごつこのやうな時代はもう通り越してしまつてるぢやないか。考へてごらん、我々はもうかうしてぐづ/\してられる時ぢやないぢやないか。」
「居られるさあ。」
「居られる?」
「えゝ。」
「ぢや僕がなんにもしないで、このまゝつまらない人間で終つてしまつてもいゝのかい?」
「えゝ。」負け惜しみに、やつぱり
「あゝ、それが寂しいんだ!」と、突差に私の心の奥が叫ぶ。
「ぢやもう仕様がない。解つてる/\つていひながら、やつぱりお前にはおれの心が解らないんだ!」
それが、いつも二人の心の別れ目に立つ言葉である。二つの心の交渉はそこにと絶えてしまふ。
私はぎち/\と、唇を噛み出す。「なぜあの人はまた、私のこの心を解つてくれない? すべてがわかつて居ながら、なんでも呑み込んで居ながら、猶かうして居る、自分でも苦しいこの心を、なぜ汲み取つてくれない? あゝやつぱり駄目だ?」
「私だつて、いつまでもかうぢやないでせうよ。そのうちに自然と私の心が持ち直して来る時が来るでせう。私はそれを信じてますわ。」と、いつか私が言つたことがある。真面目に、そして、芝居気なしに、自分で自分を
「そんな、来る時を待つなんていふやうな、消極的な心を持つてるから駄目なんだ。なぜ自分からその時を作つていかないんだ? すべてを肯定し、そして······」
「それが出来たら······」と、直ぐに私はその言葉も終らないうちに考へる。「出来ないといふことはないかも知れない、けれども私には出来ない。いくら内部の要求が強くても、外部の力の援けがなかつたならばそこに一つの仕事を形ち作ることは出来なくはないだらうか? その私の
私は
「重い泥の中に

私は黙るより外はなくなつてしまふ。
「一体泥とはなんだらう? 二人の生活?」
そこに触るのは恐い。そしたらあの人は必とかういふ。「ぢや、別れよう!」
私はそれが恐い。といつて、その言葉に
「では、私は一体どうして欲しいといふのだらう?」
「ねえ、あなたねえ、あなたは今に必とね、第二の恋をしますよ。」と、私はふとこんなことを思ひ出して云ふ。
「どうして?」
「私とはまるで性格の違つた、私の持つてないものを持つてる、しをらしい、若い女に!」
「さうかも知れないね。」
あの人は鼻のあたりに
「もう、あるのかも知れないわ!」
「さうかも知れないよ。」
すると、私はぐいとあの人の口を
「あつたらどうするい?」
あの人は面白がつて言ひ重ねる。
「その時には私にも考へがあるわ。」
「どんな考へ?」
私はじいつと自分の心持を考へて見る。さういふ場合がほんとにあつたとしてみると、私はやつぱり腹たゝしい。うら佗びしくもある。
「いゝの。さうなつても仕方がないの、サアシヤがこんな女だから無理がないんだもの!」
自ら自分に痛手を負はせることは、自ら見放したものに取つて一つの痛い快さである。私はすでにその場に置かれたかのやうに打萎れて、袂の先などをいぢつくつて[#「いぢつくつて」はママ]居る。
「実はね、可愛いのが一人あるんだよ。」と、わざと声を低めて、私の顔近く寄せていふあの人の頬を、不思議な憎しみに駆られて、私は思はずぴしやりと平手で打つ。そしてはつとして慄へるやうな心を、保護するやうにいつか涙が私の
「馬鹿だね、自分から言ひ出したこつちやないか。嫉妬の快感を味はつてやがる!」
何が今悲しいといふ訳もなく、悲しかつた記憶や、悲しからうと思ふ空想の中に、私はあとから/\と涙を見出して行く。
「嘘さあ、そんなことは嘘さあ。」と、慰めるやうな
「そんなにヒステリカルになつちや仕様がないぢやないか。もつと確りしなくちやあ。」と、あの人は
或日。Nさんが遊びに見える。あの人は留守だつた。その二三日前、あの人がNさんを訪ねた話が出たあと、Nさんはふと思ひ出したやうに、何かもの言ひたげの顔をして居る。私は直ぐに悟つた。
「なんか言つたんでせう? 私のこと。」
Nさんは笑つて居る。
「腐つてるやうだつて?」
私の顔には、皮肉な尖つた笑ひが
「とにかく、貴方は此頃荒んで来ましたね、どうかすると目茶苦茶に自分を
此人も私に、利き目のない薬を盛らうとすると思ひながら、自分を鞭打たれる快さを私は味はふ。
「私は堕落してるんですわ、生きるつてことにちつとも興味を見出すことが出来ないんですもの。」
「手がつけられないな。
「
「ぢや、死んでおしまひなさい!」
「全くね。」
私は面白さうな軽い調子で言つた。
「なんの興味もない·········なんの刺激もない·········たゞ、眠つてすべてを忘れてしまふことゝ、泣くことが一番、今の私に取つての慰めなの。私此頃、なか/\泣くことが上手になりましたよ。泣いたり、嫉妬をしたりして、自分から刺激をつくつて行くのよ。」
Nさんは眼鏡の中から、黙つて私の顔を見て居た。
Nさんの帰つたあと、私は潮のさすやうに寄せて来る味気なさに漬りながら、珍しく自省的な気分になつて居た。
「何も
すべてが思ふやうにならないといつて
「何も彼も私が悪いんだ!」
すると、今まで押し殺し/\して居た不安が、あの人の体に就ての気遣ひが、噴き出す泉のやうに私の胸に湧き起つて来る。あの頬の
「今日こそほんとに温かい心をもつてあの人を迎へよう!」
さう思ふと共に、私の体は珍しく軽くなつて、すべての考へが、如何にも妻らしい心持の上に行き渡つて行く。私は急に甲斐々々しく、家の中などの掃除を始める。夕飯にも、何か手の込んだものがこしらへてみたくなつて、暫く打つちやつて置いた料理の本などを引出して見る。
日は暮れて行く。脂肪の焼ける匂ひや、ものゝ煮こぼれる音や、煙りの中に、私は暫くの間
「猫でも貰はう!」と、ふと思ひついたことが、一つの楽しみになつて、そんなものにでも紛れることが、幾らか私の心に変化を与へるかも知れないと、早くそんなことも話して見たく、あの人の顔を見るまでが堪らなく待遠しくなつて来る。冷めないやうにだの、煮え過ぎないやうになどゝ、細かな加減を気にして居るうちに、いつかいつもの時刻は経つて行く。
と、少しく失望して来る私の心は、
一時間経ち、やがて二時間経つ。心の心まで冷め切つて行くやうな私の胸は、何者かに裏切られるやうな腹だゝしさに、だん/\意地悪く働いて行く。あゝも思ひかくも思つてみるけれど、立寄つた先や、用事の見当がつかなければつかないほど、私の心は
「それも面白い!」などゝ私の心は呟く。「それがあの人の示威運動だとする。あの人は泊つて来る。」
「何処へ?」と思つた時、かすかな恐れがふと影のやうに私の胸奥をかすめて消える。だけど、あの人は此頃いつだつて金らしい金は持つて居ない。すれば、
ふと見上げると、時計はいつか十二時近くに針をさしてゐる。私は、自分自身に対して、「ふつ!」といつたやうな気持を抱きながら、さつさと玄関の戸を閉めに出る。それから押入れから蒲団を取出す。電燈の真つ下にわざと自分のだけのべて、私は今夜どういふ態度を取り、そしてどんな言葉をもつて、あの人を迎へるだらうと、自分で自分の心を想像などしながら、寝巻も着替へないで、そのまゝ床の中に潜り込んでしまふ。
私の心は、人気のない大きな伽藍のやうに