一
むかし
三保松原に
伯良といふ
漁夫がゐました。松原によく天人が遊びに降りてくるのを見て、
或日その一人の
天の羽衣を脱いであつたのをそつと隠しました。天人は天に上る飛行機の用をする羽衣をとられて、仕方なく、地上に
止まつて伯良のおかみさんになりました。
此天人が生んだ子は男で
子良といふ名でした。
天人は天に住まうものですから、
此地上にゐては外国に来てゐるやうなものでさつぱり面白くありません。間がな
隙がな外に出ては空を
眺めて、嘆いてをります。
「あゝ羽衣があつたら、あの雲の上、あの青い/\空の奥の御殿へ行かれるものを、伯良さんは
何処に隠したか知ら。」
伯良の留守を見ては、天人はこつそりと家のうちを捜してみますけれど、羽衣はないのでした。
「あゝ仕方がない。もう死ぬまで
漁夫の女房で暮らしていくことか。」
天人は深い/\
嘆息を
吐いてをります。
二
ところが
或日のこと、自分の生んだ子の
子良が来て、おつ
母さんは
何ぜいつもそんな
不機嫌な顔をしてゐるのですか、と
訊きますから、実は
私はお隣りの
助さんや、八さんのおかみさんとはちがつた天人であるから、
故郷の天へ帰りたくてたまらないのでと言つてきかせました。
「さうかい。ぢやお母さんの故郷の天はどんなところかい。海もあるかい、山もあるかい。そして木も生えてゐるかい。魚もとれるかい。」
子良は十になつてゐましたから、もういろんなことが分るうへ、何でも珍らしいことを見たがり聞きたがりするのでした。
「そんなに一
時にきいたつてお話は出来ませんよ。
妾の故郷の天は一口に言へば、あのそれ、時時空に見えるでせう。美しいお城が、あれよ、あの
蜃気楼といふものとよく似てゐるの。」
「ウン、それぢや、僕も行つてみたいな。おつ
母さん、
僕をつれて行かない、天へ遊びに。」
天人は悲しさうに頭をふりました。そして
天の羽衣といふものが無ければいかれない。その羽衣は、
伯良がどこかに隠してゐて、どうしても渡して
呉れないから、
迚もその望みをかなへることは出来ないと、言ひました。
三
それから
又三日ばかり
経つて、天人が空を
眺めてゐますと、
子良がこつそりと来て、その
袖を引いて、
囁きました。
「あのね、羽衣の
在所が分つたよ。」
「えつ、本当かい。」
と、母の天人は
眼を丸くしました。
「本当とも、けれどもね、
僕には取れないところにあるんだ。」
子良は、今朝お父さんの
伯良が、天井裏にある網を下すとき、小さなつゞらを、一緒におろし、その
蓋をあけたら美しい着物が出て来たので、何かと
訊いてみたら、
之は
天の羽衣といふものでお母さんがお嫁に着て来た大事なものだ。他人に知れると盗まれるから、
誰にも言つてはいけないぞと、伯良が言つたのでした。
「あゝ有難い、それでは
直ぐそれを着て、天に昇りませう。」
天人は大喜びで、伯良が沖に漁に出た留守を見はからひ、そのつづらの中から天の羽衣を出して、着ました。さて子良を
背におぶつて、天へヒラ/\/\と昇らうとしました。ところがドツコイそんなうまいことは出来ません。
如何に昇らうとしても、
身体がちつとも浮かないのです。
「ハア悲しい。困つた。」
と、天人は目に涙をためて、
口惜しがりました。
「子良や
迚も
此羽衣だけではお前までつれて昇る力がありません、お前は
此地にピツタリとくつついて離れることの出来ない人間の血をうけてゐるから、なかなか重たくて迚もダメです。」
「ではおつ
母さん、
僕つれていかないの。どうしてもいけない?」
「ダメ/\、あとで、また何とかしませう。今はダメ。誰かに見付かつて、又羽衣をとられるといけないから、お母さんは直ぐ帰ります。待つておいで、左様なら、左様なら!」
天人は子良が自分を慕つて泣くのに引かされ、自分も涙を流しましたが、
故郷へ帰りたい一念は押へきれず、
只ひとり、ヒラリ/\と天をさして昇りました。
四
昨日と
経ち今日と過ぎ、
忽ち三四年経つてしまひました。けれども
明暮子良がどんなに待つても天人の母は帰つて来ません。どうなつたものやら風の便りすらないのでした。
子良はもう立派な
漁夫の少年です。
親父の
伯良を
扶けて漁に出ます。けれども母のことばかり考へてゐました。子良の幼ない記憶に残る母は鼻の高い、色の
真白な、せいの高い美しい人でした。子良はその母が目について忘れられないのでした。
「お前が
天の羽衣の隠してある
処を教へたりなんかするから、お
母は
去つちまつたんだよ。だが
彼の女は
遉が天の者だけに子供の可愛いことを知らんと見える、人情がないね。」
伯良は子良がぼんやりと外の松の
樹の下に立つて母の飛んで行つた空を
眺めてゐるのを見ると、よくこんな
愚痴まじりの小言のやうなことを言ひました。
そのうちもう二年経ちました。
或る日矢張松原に出て、空を眺めてゐますと、日のある方から何やら白いものが落ちて来るやうですから「ハテ何だらうか」と、
瞳をこらして見てゐると、それは段々近くなつて一羽の
鶴であることが分りました。するとまたその後から黒い大きなものが降りて来ますから、いよ/\変だと思つてゐると、それは一羽の
大鷲で、鶴をめがけて、追うてくるのだと分りました。
鶴は悲しい声を出して、一生懸命に逃げて来ますが、鷲はその強い大きな翼を
搏つてすさまじい勢で風をきり、たちまちに追ひ付き、その鋭い
爪と
嘴とで、鶴を突いたり、
蹴つたりするので、空は鶴の白い羽がとび散り、まるで雪がふるやうでした。鷲は鶴を
引浚つていくつもりですが、鶴も今は必死ですから、その長い
嘴を
槍のやうに使ひ、その羽に力をこめてふせぎながら、
隙があつたら逃げようと、だんだん下へ/\と舞ひ下つて来ました。
子良はそれを見て、鶴がかはいさうになりましたので、どうにかして助けてやらうと思ひ、手に小石を拾つては鷲をめがけて投げつけました。始めのうちは遠いのでなか/\とゞきませんでしたが、だん/\近くなつたので、その石の一つが、まぐれ当りに鷲のからだに当りました。さすがの鷲もそれには少し困つたところを、鶴はす早く逃げて、子良の近くにある小松のしげみに隠れてしまひました。
五
マアよい事をしたと思つて、
子良は喜んで
家に帰り
誰にも言はずにその日も暮れましたので、寝床に入つて
眠ました。
しかし二三時間も
経つと、誰やら女の声で御免なさい/\と言つて、雨戸をたゝく者がありますから、目を
醒まして明けてみますと、
其処に昼間たすけてやつた
鶴が立つてゐました。
「先程はどうも大変な御助けを受けまして何とも御礼の申し様もございません。」と、鶴は丁寧に頭を下げて言ひました。
「実は
私は貴下のお
母様から言ひつかつて、天へお迎へに来ましたが、
鷲の為めにサン/″\羽や
身体をいためられて、自分だけ低い空をとぶのがやつとでございます。ですから貴下を
背負してあの高い天の御殿などにはもう
迚もいかれませんけれども
此儘にして置いては私の役目が果せませんから、一つ
貴下が天に御昇りになれる法をお教へ致します。」
天の羽衣もなく、又鶴の背にものらずに天に昇る法といふのは
斯うでした。
昔天人が降つて遊んだ松原のあたりに、月のよい夜時々天から大きな
釣瓶が
繩をつけて下ろされる、それは天人が風呂をたてる水を汲むのでした。
元から天人
達は自分で降りて来て美しい景色を
眺めながら、うしほを浴びるのでしたが、
伯良が羽衣を隠してから後危ないから、こんな工合にしてゐるのでした。で、子良はその
釣瓶の水をまかして、自分が代りに中に入つて行けばよいといふのでした。
六
子良は今度こそ天にのぼつて、
蜃気楼の御殿を見たり、お母さんに会つたりすることが出来ると、大変
悦んで、
或る月のよく光つた晩、こつそり
鶴が教へた
処に行き、松の
蔭に隠れて天から
釣瓶の下りてくるのを待つてゐました。
夜もだん/\更けて、月が高く昇り、松に吹く風の音がさえにさえて来ますと、果して空から大きな釣瓶が下りて来て、
汐の中に、ドブン、ザワ/\と音を立てました。子良はそら今だと大急ぎで飛び出し、その釣瓶の水をあけると、自分が代つてその中に入りました。釣瓶は勢よく天へ引き上げられ、高く/\上がつたとき、どうした
機みにかその
繩がきれて、子良は
真逆様に地面へ
墜ち、
身体は形もないほどメチヤ/\にこはれてしまひました。けれどもその時子良の魂だけは、フワリと浮いて、羽衣も釣瓶もなしに、ひとりでに高く/\天へ昇つて行きました。