春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中折帽をかぶり、ゴムか何かの長靴をはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝||どころではない。腿も半分がたは隠れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍子に長靴の中へ落つこつたやうな気がするだらうなあ。
顔馴染の道具屋を覗いて見る。正面の紅木の棚の上に虫明けらしい徳利が一本。あの徳利の口などは妙に猥褻に出来上つてゐる。さうさう、いつか見た古備前の徳利の口もちよいと接吻位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍色の柳の
又ぶらぶら歩きはじめる。八百屋の店に


「つまり馬に乗つた時と同じなのさ。」
「カントの論文に崇られたんだね。」
後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大学生が二人。ちよいと聞いた他人の会話と云ふものは気違ひの会話に似てゐるなあ。この辺そろそろ上り坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に変つてゐる。
「生ミタテ玉子アリマス。」
アア、サウデスカ? ワタシハ玉子ハ入リマセン。||春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。