大正十二年九月一日、天柱
世俗の怖れる二百
私は二階で客と話していた。私も客も煙草を
妻は玄関口へべったり坐って、左の手で柱に捉まり、右の手で末の女の児を抱き寄せるようにしておろおろしている傍に、八つになる女の児は畳の上に両手を
家はまだゆらゆらと揺れていた。妻ははずれかけた次の室との境の襖の引手に手をかけてそれに取りつこうとしたが、襖がはずれて取りつけなかった。が、その内に地の震いは小さくなって来た。私はその時客のいないことに気がついたが、地震の小さくなった間に、妻や子供を外へ出さなくてはならないという考えの方へ気を取られて、それ以上客のことを考えることができなかった。その客は私のいない間に
私の家の門の出口の左角になった古い木造のシナ人の下宿は、隣の米屋や靴屋の住んでいる一棟が潰れて押されたために門の内へ倒れかかっていた。地の震えは後から後からとやって来た。私は妻と子供をすぐ近くの寄宿舎の庭へと伴れて往った。そこは奈良県の寄宿舎であった。私はそれから足に怪我をしている客を負ぶって伴れて来たが、後の激震が気がかりであるから、地震の静まるまでそこにいることに定めて、家へ入って往って
私はその一方で藤坂をあがって、その近くに住んでいる友人の家へと往った。大塚行きの電車の線路に沿うた両側の家では、皆線路の上に避難していた。潰れた家は見えなかったが、どの家も屋根瓦がひどく落ちていた。友人の細君も避難者の中に交って筵の上に坐り、洋傘を日覆いにして、生れたばかりの嬰児を抱いていた。
大砲を撃つような音が時折聞えだした。火事だ火事だという声が人びとの口から漏れるようになった。牛込の下宿から私の家の安否を気使うて来てくれた若い友達は、砲兵工廠が焼けていると言った。私はその友達と一緒に電車通りを伝通院前へと往った。渦を捲いている人波の中には、蒲団などを蓋の上にまで乱雑に積みあげた箱車を数人の男女で押している者、台八車に箪笥や風呂敷包の類を積んでいる者、湯巻と襦袢の肌に嬰児を負ぶって小さな子供の手を曳いている者、衣類の入った箪笥の抽出しを肩にした者、シャツ一枚で金庫を提げた者、畳を担いだ者、猫のような老婆を負ぶった者、頭を血みどろにした若い男を横抱きにした者、そうした人たちが眼先が暗んでいるように紛紛として歩いていた。その人たちは頭髪を見なければ両性の区別がつかなかった。
砲兵工廠は火になっていた。春日町の方へと曲って往く電車線路の曲り角から、その一部の建物の屋根の青い焔を立てて燃えているのが見られた。私たちは安藤坂をおりて往った。砲兵工廠の火は、江戸川
砲兵工廠の市兵衛
東京全市三分の二を焦土と化した猛火の煙は、二つの大きな入道雲となって天の一方にもくもくと立ち昇っていた。それは白い牛乳色をした気味の悪い雲で、その下の方に鼠色の煙が渦を巻いていた。私はその雲を切支丹坂の樹木の上に見ていた。その雲は延びたり縮んだりした。江戸川の方から入って来る避難者の中には、おりおり振り返ってその雲を悲しそうな眼で見る者があった。陽が落ちると雲は真赤な火になった。
地の震いは二時間おきぐらいにやって来た。私たちは家内が持ち出して来た
翌日私は本郷の西片町へ往って、そこの友人と一緒に本郷三丁目の方へと往った。その三丁目の本郷座に寄った方の角に、一二軒の家を残して湯島天神のあたりから神田明神にかけて焼けているのが煙雲を透して見えた。そこここに立っている焼け残りの土蔵の屋根などには、まだ火のあるのがあってそれからは煙を吐いていた。私たちはそれから
私はその友人と真砂町の電車停留場で別れて、そのまま電車通りを歩いて春日町の停留場を通り、それから砲兵工廠に沿うて坂路をのぼった。火に包まれていた砲兵工廠もこちらの方は焼けなかったと見えて無傷の建物が聳えていたが、煉瓦塀は爆破したように砕けて崩れていた。坂をあがり詰めて右に折れ曲ったところが砲工学校の塀であった。瓦と土とで築いた水戸邸の遺物としての古い古い塀も、ばらばらに崩れていた。私はそれを見て、水戸屋敷の記念物もとうとうなくなったなと思って、ちょと惜しいような気がした。数日して藤坂上の友人に聞くと、水戸邸の遺物として残っているのは、その塀と涵徳殿と後楽園の入口にある二棟の土蔵とであったが、その涵徳殿も土蔵も潰れたとのことであった。
私は土塀の崩潰を惜しむとともに、藤田東湖のことをすぐ思い浮べた。色の黒い

「安政見聞誌」三冊を書いた仮名垣
安政二年十月二日の夜は、通り二丁目の糸屋という書肆に頼まれた切付本の草稿がやっとできあがったので、妻はそれを持って往って、例によって二分の潤筆料をもらって来て、一分を地代の滞りに払い、一分で米を買って来て井戸端で
私はその日から街路の警備に立たされた。地震に乗じて朝鮮人が陰謀を企て、今晩は竹早町の小学校を中心にして放火を企てているから警戒せよというような貼紙をする者があったので、各戸から一人ずつ、小銃、刀、
私は手鎗の柄を切って短くしたのを持っていた。それは
本郷の方にちょっと用事があったので、それへ廻り道をして大学の正門前へ出、それから電車通りを往って、二日の日に一度見ている本郷の焼け跡の灰を見ながら、若竹の前を通って順天堂の手前へ出た。かつては皇城を下瞰するというので一部の愛国者を憤激さしたニコライの高い塔も焼けて、頂上がなくなっていた。それからお茶の水橋を渡ろうとしたが、
路の左側の女子高等師範の建物も、聖堂も、教育博物館の建物も焼けていた。教育博物館の前になった河縁の鳥屋の焼け跡には、まだ石油のカンらしい物が燃えていた。
昌平橋を渡って須田町へと往った。そこには万世橋駅と高架線の線路と、街頭に建った銅像とが残っているのみであった。他は焼け残りの土蔵、四壁ばかり残った石造の建物、火の入った金庫、鉄骨、流れ藻のように手足に絡まる電線、石、瓦、煉瓦、灰、消え残りの火、煙。私は荒漠たる焼け跡を通って本石町の方へ往き、そこから新常盤橋を渡って東京駅へと往った。火災を免がれた東京駅付近の大建築物が、地震の損害を受けていても
東京駅の構内にも避難者が入っていた。私は駅長室へ往って汽車のことをしらべた。汽車の墜落は事実であったが、私の心配は杞憂に終った。私ははじめの予定通り本所に往くことにして、呉服橋を渡り、それから日本橋の街路を横切って、白木屋の焼け跡に沿うて往きかけたが、本石町と馬喰町とに焼け跡を弔うてやりたい書肆のあることを思いだしたので、引き返し、欄干の粧飾の焼けて鎔けかけた日本橋を渡って、外形ばかり残った三越の建物を見ながら、また本石町の四辻へと往って、そこから右に折れた。
風が火のほとぼりと灰とを吹いた。それに空には暑い陽が燃えていた。私は東京駅前で詰めかえて来たサイダーのビンの水を飲みながら歩いた。
左側の本石町の書肆の焼け跡はすぐ見つかった。そこにも避難している場所を書いた札が建ててあった。今度は右側になった馬喰町三丁目の書肆の跡を見出そうと思い思い歩いた。焼け跡で鍬を持って掘っていたり、トタンの半焼けになったのを持って来て、仮小屋をこしらえていたりする者が多くなった。
小さな川があって橋がかかり、剣銃の兵士が数人立っていた。私は見るともなしに橋の左側から水の上を見た。蒲団や藁莚などの一めんに浮んだ中に人の死体が見えた。それはシャツ一枚の俯向きになった男で、両肱を左右に張って拳をこしらえ、それで両足の膝のあたりに力を入れているように足先をあげていたが、獺か猫かの死んでいるようであった。死体は五六間下手の方にもまだ一つ見えた。それは土人形のような感じのする死体で仰向けになって浮いていた。私は二人とも人間のような気がしなかった。
橋の左右の欄干に添うてたくさんの鉄棒や、一方を鎗のように削った竹などが置いてあった。一人の若い男が何か言ってその中から竹杖を拾って手にした。取ってかまわなければ自分も一本もらおうと思って、鉄棒を取りあげたところで、剣銃の兵士が来て、鉄棒を取ってはいけないと言って叱った。私はすぐその鉄棒が通行人の手から没収せられたものだということを知った。私は独りで苦笑しながら黒竹の切れっぱしに換えて橋を越した。
それは浅草橋であったが、周囲の目標がなくなっているので判らなかった。私はまだ馬喰町三丁目は来ないか来ないかと思って往っていた。大きな真黒い煙突のある建物が眼についた。私ははじめてそれが蔵前の専売局だということを知った。そこで私は馬喰町の方は日を変えることに定めたが、それでも
二三人の兵士がそこにもいて通行人を監視していた。私は中央の車道を通りながら、神田川の口の手前になった岸の方に眼をやった。退潮の赤濁のやや減った水際に二三の死体らしい物が漂うていた。私は足を止めて注意した。そのあたりの頭を出した捨石のごろごろした所には、戸板や衣類のようなものがごたごたとかかってそれが干あがっていた。その流れ物の中にも仰向きになって両足を水の中にした死骸があって、それは力士のようにぶくぶくと膨れあがっていた。二日三日のころにはその両国橋をはじめ、厩橋、吾妻橋の
国技館の外形は整然として両国の空を圧して、火災に逢ったとは思われないほどであった。私は橋を渡って電車の線路を往こうとしたが、橋の袂から河岸の方へ往く人もあるので、その方から自転車を押して来た店員のような若い男に、被服廠跡への路を聞いてみた。若い男はどっちから往っても好いと言った。私は河岸の方へ曲って往った。河岸には仮小屋を並べてたくさんの者が避難していた。
右の方には両国の汽車の線路が、焼け跡の灰の中に浮いて連なっていた。それは鉄骨かなんぞのように焦げて黒くなっていた。河縁に電気の機具でも製造していると思われるような一廓をつくった建物が、不思議に焼け残っていた。それと向きあって路の右側に石の門と土塀の一部が残り、街路に面して二三本の半焼けになった鈴懸の樹のある所があって、その門の敷石の上に、右の手と頭に繃帯をしたシャツに腹掛けの運漕屋の親方らしい男が腰をおろしていた。私も暑くて苦しいので、そこですこし休むつもりで、その門口の石橋の
もう十二時に近かった。私は親方に別れて歩いた。焼け残りの建物の端になった所に小さな掘割の水があって、橋がかかり、その袂に交番があった。見るとその交番の手前になった建物の前に人がたくさん立っていた。そこには火事の怪我人であろう、破れた衣類を着た子供や女が手と言わず足と言わず体中を繃帯して筵の上にごろごろしていた。後で気がついたが、それは被服廠跡から救いだした人人であった。両足と頭に繃帯した五つぐらいの女の児が足を投げだして坐り、片手に小さな茶碗を差し出しているのに、半纏を着た男が水筒の水を注いでやっていた。私は
路の右側には天幕を張って警官が出入りしていた。私は橋を渡って往った。蔵前の専売局の煙突がすぐ前岸に見えた。右側には大きな邸宅跡の石垣の崩れがあった。石垣の内は大きな泉水になって、まわりの樹木は焼けたり折れたりしていた。その邸宅跡をすぎると兵士の一人が路ぶちに立っていた。私は被服廠はその奥らしいと思ったので、兵士の方へは往かずに手前から焼け跡を切れて往って、兵士のいる方から来ている小路へ出た。五六人の男が奥の方から出て来た。もう脂肪臭いいやな匂いがしてきた。左側の柱の燃え残りの傍に黒く焦げた一つの死体があった。それは肱から先と膝から先のない猿とも人とも判らなくなったものであった。黒焦げ死体はその二三間先にもあった。私は気味は悪かったが、それに対して別にいたましいというような感情は起らなかった。
焼け残りの建物がその先にあって、三人ばかり詰襟の服を着た者がいた。その傍にひとところ畳一枚敷ぐらいの所に火を燃やしていた。それは上にトタンを着せ、下に薪木になる柱の折れのような物を置いて何か焼いているらしかった。建物は路の角に入口を向けていた。その入口の
広っ場の中は一めんの死体で、ちょうど沖から帰って来た漁師が思い思いに海岸へ魚の盛りをこしらえて、仲買人の来るのを待っている時のように、人の盛りをこしらえてあった。それは二三十人ぐらいに見える所もあれば、百人ぐらいに見えるような所もあった。それは死骸を探しに来る遺族に判りやすくするためにこしらえたものであった。遠くの方で死者を弔う読経の声がしていた。
五六人の者が兵士の傍へ往って何か交渉していた。私はすぐ死者を探している者でなければ中へ入れないと思ったので、地方の関係のある新聞社の名を名刺に肩書して兵士の所へ往った。兵士はすぐ私の入ることを承知した。私は右の手で手拭を持ってそれで口と鼻とを掩うて、左斜に広っ場を突き切るつもりで歩いた。私は一つ一つ死人を見ていては気持が悪くなって歩かれないと思ったので、一箇所に眼を留めずにして進んだ。溺死人のように脹れあがった者、腐った魚のように半身がどろどろになった者、黒焦げになった者、そうした死体が二町四方もあろうと思われる所を掩うて見えた。子供の死体もたくさん交っていた。女の死体の半焦げになった傍に小さな一
風は正面から吹いていた。すこしでも手拭の覆いに隙ができると恐ろしい臭気が鼻を刺した。私はもう斜めに突き切るのが厭になったので、右の方の死体の少ない方に反れ反れして走った。
鉄骨の建物があってその前にも二三人の人がいて火を焚いていた。私はその火が身寄りの者の死骸を焼いている火だということを知った。その中には女も一人交っていた。その人たちもそれぞれ鼻にハンカチをやっていた。私はその傍を通って左に建物の間を潜って往った。その建物を出はずれると焼け残りの塀があって、外は電車通りになっていた。
私はその電車通りを歩きかけてから再び驚かされた。その被服廠跡と電車通りとを隔てた溝の中は、幾百幾千とも判らない、目刺鰯の束を焼いたようになった黒焦げの死体で埋まっていた。私は、なるほどこの被服廠跡の焼死者が三万余と言うのも誇大ではないと思った。その溝の上になった被服廠跡にはまだ動かさない死体の丘ができていて、それを人夫たちがおろして外へ運んでいる傍に、身寄りの者を尋ねているらしい人たちが散らばって、死体をあっちこっちと覗いていた。
私は帰りに吾妻橋の袂から荷足船で兵士に渡してもらって、浅草公園へと廻った。公園では浅草寺と観音堂とが残っていた。その観音堂は
私は公園の山のベンチに腰をかけて、上野の山を眼界にして左右にひろびろと広がった白い焼野原を見ながら、花屋敷の前で買って来た梨の実を