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無題抄

上村松園




 私には、どうも絵以外のことですと、どうせ余技にすぎないからという気がして、打ち込んで熱中する気になれない性分があるようです。三味線にしても長唄にしても、最初は謡曲にしても、皆そういう風にずぼらに考えていました。

 が、近頃では、如何に余技にしても、どうせやるからには、何かひとつくらい懸命にやってみようという気になって来ています。


 上手な人のを聴いていると、節廻しひとつにしても言うに言われない妙味があり、その抑揚の味のよさを聞いて感心するばかりでなく、難しいながらも自分でもやってみようという励みが出て来ます。

 そうした励みの気持ちを考えてみますと、形式は違っていても、絵の上で苦心している気持ちと同じ味のものがあると思います。

 謡曲をやっていながら、私は廻り廻ってそれが絵の上にも役に立っていると思うようになって来ました。


 私は、以前は、余技は余技として下手でもいいと思いまして、凝りもせずにおりましたが、近頃はそれと反対に「余技の下手なものは本技も下手だ」というまるで逆な気持ちになって来ました。

 よく考えてみると、優れた才能ある人は、やはり余技においても上手のようです。


 余技といえば、九条武子夫人を憶い出します。

 九条武子夫人は、松契という画号で、私の家にも訪ねて来られ、私もお伺いして絵の稽古をしていられました。

 武子さんの、あの上品な気品の高い姿や顔形は、日本的な女らしさとでもいうような美の極致だと思います。

 あんな綺麗な方はめったにないと思います。綺麗な人は得なもので、どんな髷に結っても、どのような衣裳をつけられても、皆が皆よう似合うのです。

 いつでしたか、一度丸髷に結うていられたことがありました。たいていはハイカラで、髷を結うていなさることは滅多にないので、私は記念に、手早く写生させて貰いましたが、まことに水もしたたるような美しさでした。

「月蝕の宵」はその時の写生を参考にしたのです。もちろん全部武子夫人の写生を用いたという訳ではありませんが······


大いなるものゝ力にひかれゆく

     わが足もとの覚つかなしや

 武子夫人の無憂華の中の一首であるが、私は武子夫人を憶い出すごとに、この歌をおもい、あの方のありし日の優しいお姿を追想するのであります。


 大いなるものゝ力にひかれゆく······まことに、私たち人間のあゆみゆく姿は、大いなる天地あめつちの神々、大慈大悲のみ仏から見られたならば、蟻のあるきゆく姿よりも哀れちいさなものなのに違いありません。

 人事をつくして天命を待つ、とむかしの人が申したように、何事も、やれるところまで努めつくしてみた上で、さてそれ以上は、大いなる神や仏のお力に待つよりほかはありません。


 芸術上のことでも、そうであります。自分の力の及ぶ限り、これ以上は自分の力ではどうにもならないという処まで工夫し、押しつめて行ってこそ、はじめて、大いなる神仏のお力がそこに降されるのであります。天の啓示とでも申しましょうか、人事の最後まで努力すれば、必ずそのうしろには神仏の啓示があって道は忽然と拓けてまいるものだと、わたくしは、画道五十年の経験から、しみじみとそう思わずにはいられません。

 なせば成るなさねば成らぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけり······の歌は、このあたりのことをうたったものであろうと存じます。

 人の力でどうにもならないことが||特に芸術の上で多くあるようです。考えの及ばないこと、どうしても、そこへ想い到らないことが度々ありました。そのようなときでも、諦めすてずに、一途にそれの打開策について想をねり、工夫をこらしてゆけば、そこに天の啓示があるのです。

 なせばなる||の歌は、この最後の、もう一押し、一ふんばりを諦めすてることの弱い精神に鞭打つ言葉であろうと思います。

 ならぬは人のなさぬなりけり||とは、人が最後の努力を惜しむから成らぬのであるということで、結局最後は天地の大いなる力がそこに働いて、その人を助けるのであります。


 一途に、努力精進をしている人にのみ、天の啓示は降るのであります。

 もっとも、天の啓示は、そうでない人にも降っているのかも知れません。が、哀しいことに、その人は一途なものを失っているので、その有難い天の啓示を掴みとることが出来ないのであります。

 天の啓示は、いろいろの形で、いろいろの場所へ現われるものであります。

 絵のほうにしましても、時には、朝焼雲、夕焼の空の色に、それを示して下さることもあります。

 千切れ飛ぶ雲の形に、どうしても掴めなかったものの形を、示されることもあります。

 荒壁の乾きぐあい、撒き水の飛沫の形をみて、はたと気づいて、

「ああ、あの形をとったら||

 と、そこから仕事がすらすらと運んだことも幾度あるか知れません。

 要は不断の努力、精進をしておれば機会を掴むことが出来るのではないでしょうか。


 天の啓示を受けるということは、機会を掴むということであります。

 天の啓示とは機会ということであります。


 機会ほど、うっかりしていると逃げてしまうものはありません。

 機会を掴むのにも、不断の努力と精進が必要なのであります。






底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社


   1976(昭和51)年11月10日発行

入力:鈴木厚司

校正:小林繁雄

2004年5月8日作成

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