河沿いの地面から、太陽はその透きとおった黄いろい光線をだんだんに引上げて行った。河端の
老人と男たちは腰掛の上にすわって無駄話をしながら大きな芭蕉団扇をゆらめかした。子供等は飛ぶが如くに
文人の酒船は河中を通った。文豪は岸を眺め
けれど文豪のこの話はいささか事実に背反している。彼は
彼の孫娘の
九斤老太は年の割に耳が
この村には特別の習慣があって、子供が出来ると秤に掛け、斤目によって名前を附ける。九斤老太は五十の年を祝ってから、だんだんと不平家になった。彼女はいつも若い時の事をはなして、天気はこんなに熱くはなかった、豆はこんなに硬くはなかった、と、なんでも皆、今の世の中が悪くて昔の世の中がいいのだ。まして六斤は彼の祖父の九斤に比べると三斤足りない。彼の父の
七斤ねえさんというのは、彼女の倅の

「代々落ち目になるばかりだ」九斤老太は同じ事を繰返した。
七斤ねえさんはこれに対してまだ答えもせぬうちにたちまち七斤が
「お前さん、なんだって今時分帰って来たの。どこへ行ってけつかったの。人がお前の御飯を待っているのが解らねえのか。この馬鹿野郎!」
七斤は田舎に住んではいるが少しく野心を持っていた。彼の祖父から彼の代まで三代
七斤は象牙の吸口と白銅の雁首の附いている六尺余りの
「代々落ち目になるばかりだ」九斤老太はまた同じことを言った。
七斤はそろそろ頭を上げて溜息を吐き
「天子様がおかくれになったそうだね」
七斤ねえさんはしばらく呆れ返っていたが、急に何か思付き、「そりゃあ、いい按排だね。天子様がおかくれになれば大赦があるんだよ」
七斤はまた溜息を吐き「
「天子様は辮子が要るのかね」
「天子様は辮子が要る」
「お前はなぜ知っているの」七斤ねえさんは少しせき込んでせわしなく訊いた。
「
七斤ねえさんはこの言葉をきくとハッとした。これは決していいことじゃない。咸亨酒店へ行けば世間のことが皆わかる。そう思って七斤の方に眼を移すと、そのざんぎり頭が馬鹿に目立ったので、腹が立って堪らなくなり、彼を咎め、彼を悔み、彼を怨んだが、急にまた焼け糞になって、一杯の飯を高々と盛上げ七斤の眼の前に突きつけ、「お前さん、早くおまんまを食べておしまいなさいよ。泣きっ面をしたって今さら辮子が延びるもんじゃない」
太陽は末端の光線を収め尽して、水面はしのびやかに涼気を囘復した。地面の上にはお碗とお箸の響がした。人々の脊筋の上にはまた汗粒を吐き出した。七斤ねえさんは三碗の飯を食い
趙七爺は隣村の
七斤ねえさんは覚えている。二年前に七斤は酔払って一度、趙七爺を「
趙七爺はずんずん進んで来た。坐って飯を食っていた人は皆立上って、箸を自分の飯碗に差向け「七旦那、わたしどもと一緒にここでお支度をなさいませ」
七爺は頻りにうなずいて「どうぞお構いなく」といいながら、ずっと七斤家の食卓の側へ言った。七斤達はのべつにお愛想をいうと、七爺は微笑を含んで「どうぞお構いなく」を繰返しながら、彼等のお菜をこまごまと研究し始めた。「いい匂いの干葉だね。||風の吹くたんびにいい薫りがするよ」趙七爺は七斤の後ろに立って、七斤ねえさんを向う側に眺めてこんな事を言った。
「天子様がおかくれになったのですか」と七斤はきいた。
七斤ねえさんは七爺の顔を見ると、せい一杯にお世辞笑いをして「天子様がお
「大赦ですか||大赦はいずれそのうち、どうしてもあるはずです」と七爺のそう言ってしまうとふと急に語気を荒くした。
「だがお前の
七斤と彼の女房は本を読んだことがないから、この引き事の奥妙を悟ることは出来なかったが、何しろ学問のある七爺がこんな風にいうのだから事情が大変面倒で取返しのつかぬものと察し、まるで死刑の宣告を受けたように、
「代々落ち目になるばかりだ」九斤老太は不平の真ッ最中であったから、この機に乗じて趙七爺に向い「今の
七斤ねえさんは立上って誰にいうともなく喋った。「こりゃあ、どうしたら好かろう。お婆さんも子供も内の者は皆あの人に
趙七爺は頭を
七斤ねえさんは書物の上に書いてあると聴いてすっかり絶望した。自分ひとりで慌てたところがしようがないのでたちまち恨みを七斤に移し、箸を取って彼の鼻先きへつきつけ「これは腑抜けのお前が自分で撒いた種だよ。わたしはとうから言っていたんだ。船を出してはいけません、お城へ行ってはいけませんと。ところがあの時どうしても
村人は趙七爺が村へ来たのを見てみな大急ぎで飯を済まして、七斤家の食卓のまわりに
「お前は今こそそんな事をいうが、あの時は······」
「なんだ。活き腐れめ、咎人め」
見物人の中で、八一ねえさんは心掛けのごくいい人であった。彼女は二歳の忘れがたみを抱いて、七斤ねえさんの側で騒動の成行きを見ていたが、この時心配のあまり慌てて口をきいた。「七斤ねえさん、もういいよ。人は神様でないから、誰だって未来のことは分りません。あの時お前は何とも言わないのは、辮子が無くとも好かったんじゃないか。ましてお役所の旦那はいまだに
七斤ねえさんはしまいまで聴かぬうちに、もうふたつの耳朶を真赤にして箸を持って振向き、それを八一ねえさんの鼻先きへ差しつけ「おやおや、これはまた妙なことを聞くもんだね、八一ねえさん、わたしはどう考えてみても、こんな出鱈目を言われる覚えはありません。あの時わたしは三日の間泣きとおしてこの六斤の餓鬼までも連れ泣きしたのは、誰も皆知っていることです」
その時六斤は大きなお碗の中の飯を食い完って、空碗を持上げ、手を伸ばして「お代り」と言った。七斤ねえさんはいらいらしていたので、ちょうど六斤の蝶々とんぼの真上にあった箸をあげて、急に下したから六斤の頭のまん中を叩きつけたわけである。「誰がお前に口出ししろと言ったえ。この間男の
ガランと一つ音がして、六斤の手の中の空碗が地の上へころげ落ち、煉瓦の角にぶつかって大きな欠け口が出来た。七斤は跳び上って欠け碗を取上げ、破片を拾って合せてみながら「畜生」と一つぼやいて六斤を叩きのめした。九斤老太は泣き倒れている六斤の手を取って引越し「代々落ち目になるばかりだ」といいつづけて一緒に歩き出した。
八一ねえさんも怒り出した。「七斤ねえさん、お前は棒を恨んで人を打つのだよ······」
趙七爺は初めから笑っていたが、八一ねえさんが「役所の旦那が御布れを出さない」と言った時から、いささか機嫌を損じて
彼は両手をひろげて
八一ねえさんは腹立ちのあまり子供を抱えて
趙七爺もすぐその跡に
村人はぼんやり突立って腹の中でじっと考えてみると、乃公達は確かに趙翼徳に対して抵抗は出来ない。そうすると七斤の命は確かに無いものだ。七斤は既に掟を犯した。想い出すと彼はいつも人に対して城内の
七斤は欠け碗を持って部屋に入り、閾の上に腰掛けて煙草を吸ってみた。何しろ非常な心配事で、吸い込むのを忘れていると、象牙の吸口から出た六尺あまりの斑竹の先きにある白銅の火皿の中の火の光が、だんだんと黒ずんで来た。彼は心の中で大変あぶなくなったと思ったが、どういう風にしていいのか、どんな計らいをしていいのか、非常にぼんやりして掴みどころがなかった。
「辮子はね、辮子だ。丈八の蛇矛。代々落ち目になるばかりだ。天子様はお匿れになる。壊れたお碗は町へ持ってって釘を打たせればいい。誰が抵抗することが出来るか。書物の上に一条々々書いてある。畜生!······」
第二日の朝早く七斤はいつもの通り魯鎮から通い船を漕いでお城へ行き、晩になるとまた魯鎮に帰って来た。きょうは六尺の斑竹の煙管の外に一つのお碗を持って来た。彼は晩飯の席上で九斤老太に向い、このお碗を城内で釘付けすると欠け口が大きいから銅釘が十六本要った。一本が三文で皆で四十八文かかった。
九斤老太ははなはだ不機嫌だった。「代々落ち目になるばかりだ。わしは長生きをし過ぎた。釘一つが三文。むかしの釘はそんなものではない。むかしの釘は何だ······わしは七十九になった」
それから後でも七斤は日々に入城したが、家内はいつも
村人は大抵廻避して彼が城内から持って来た珍談を聞きに来ようともしなかった。七斤ねえさんはいい機嫌になっていられない。いつも「咎人」と彼を罵った。
十日ばかり過ぎて七斤は城内から帰って来ると彼の女房は大層嬉しそうだ。
「お前は城内で何か聴いておいでだろうね」
「なんにも聴かなかった」
「天子様はお匿れにならないのだろう」
「あいつ等は何とも言っていなかった」
「咸亨酒店の中で何とか言っていた人はなかったかね」
「なんとも言っていなかった」
「わたしはきっと天子様はお匿れにならないと思うよ。わたしはきょう趙七爺の店の前を通ると、あの人は坐って本を読んでいたが、辮子は前のように頭の上にまるめていたよ。そして長衫は著ていなかった」
「···············」
「お前はどう思う。ね、お匿れにならないのだろう」
「そうだね。お匿れにならないのだろう」
今の七斤は早くもまた、七斤ねえさんと村人から相当の尊敬と相当の待遇を払われるようになった。夏になると彼等は以前のように自分の門口の空地の上で飯を食ったが、皆集って来て嬉しげに話した。九斤老太はもう八十のお祝になったが、相変らず不平で相変らず達者であった。
六斤の頭の上の蝶々とんぼはその時すでに一つの大きな辮子に変っていた。彼女は近頃纏足を始めたが、やはりもとのように七斤ねえさんの手助けをして、十六本の釘を打った飯碗を捧げて、
(一九二〇年十月)