上
大庭真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで
半里以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうど
可いと言っていた。
温厚しい性質だから会社でも受が
可かった。
家族は六十七八になる極く丈夫な老母、二十九になる細君、細君の妹のお
清、
七歳になる娘の礼ちゃんこれに五六年前から居るお徳という女中、以上五人に
主人の真蔵を加えて都合六人であった。
細君は病身であるから余り家事に関係しない。台所元の事は
重にお清とお徳が
行っていて、それを小まめな老母が手伝ていたのである。
別けても女中のお徳は年こそ
未だ二十三であるが私はお
宅に一生奉公をしますという意気込で権力が仲々強い、老母すら時々この女中の言うことを聞かなければならぬ事もあった。
我儘過るとお清から苦情の出る場合もあったが、何しろお徳はお家大事と一生懸命なのだから
結極はお徳の
勝利に帰するのであった。
生垣一つ隔てて物置同然の小屋があった。それに植木屋夫婦が暮している。亭主が二十七八で、女房はお徳と同年輩位、そしてこの
隣交際の
女性二人は互に負けず劣らず
喋舌り合っていた。
初め植木屋夫婦が引越して来た時、井戸がないので
何卒か水を汲ましてくれと大庭家に
依頼みに来た。大庭の家ではそれは
道理なことだと
承諾してやった。それからかれこれ二月ばかり
経つと、今度は
生垣を三尺ばかり
開放さしてくれろ、そうすれば一々御門へ
迂廻らんでも済むからと頼みに来た。これには大庭家でも大分苦情があった、
殊にお徳は
盗棒の入口を
造えるようなものだと主張した。が、しかし
主人真蔵の
平常の優しい心から遂にこれを許すことになった。
其方で木戸を丈夫に造り、
開閉を厳重にするという条件であったが、植木屋は
其処らの
籔から青竹を切って来て、これに杉の葉など交ぜ加えて
無細工の木戸を造くって了った。出来上ったのを見てお徳は
「これが木戸だろうか、
掛金は
何処に
在るの。こんな木戸なんか有るも無いも同じことだ」と大声で言った。植木屋の女房のお源は、これを聞きつけ
「それで沢山だ、どうせ私共の力で大工さんの作るような立派な木戸が出来るものか」
と
井戸辺で
釜の底を洗いながら言った。
「それじゃア大工さんを頼めば可い」とお徳はお源の言葉が
癪に
触り、植木屋の貧乏なことを知りながら言った。
「頼まれる位なら頼むサ」とお源は軽く言った。
「頼むと来るよ」とお徳は
猶一つ皮肉を言った。
お源は負けぬ気性だから、これには
むっとしたが、大庭家に
於けるお徳の勢力を知っているから、
逆らっては損と虫を
圧えて
「まアそれで勘弁しておくれよ。
出入りするものは重に
私ばかりだから私さえ
開閉に気を附けりゃア大丈夫だよ。どうせ本式の盗棒なら垣根だって御門だって越すから木戸なんか何にもなりゃア仕ないからね」
と半分折れて出たのでお徳
「そう言えばそうさ。だからお前さんさえ
開閉を厳重に仕ておくれなら
先ア安心だが、お前さんも知ってるだろう
此里はコソコソ泥棒や
屑屋の悪い
奴が
漂行するから油断も
間際もなりや仕ない。そら
近頃出来たパン屋の隣に河井
様て軍人さんがあるだろう。
彼家じゃア二三日前に買立の
銅の大きな
金盥をちょろりと
盗られたそうだからねえ」
「まアどうして」とお源は水を汲む手を
一寸と休めて振り向いた。
「
井戸辺に出ていたのを、女中が
屋後に干物に
往った
ぽっちりの
間に
盗られたのだとサ。
矢張木戸が少しばかし
開いていたのだとサ」
「まア、
真実に油断がならないね。大丈夫私は気を附けるが、お徳さんも
盗られそうなものは
少時でも
戸外に
放棄って置かんようになさいよ」
「
私はまアそんなことは仕ない積りだが、それでも、ツイ忘れることが有るからね、お前さんも屑屋なんかに気を附けておくれよ。木戸から入るにゃ是非お前さん
宅の前を通るのだからね」
「ええ気を附けるともね。
盗られる日にゃ
薪一本だって炭
一片だって馬鹿々々しいからね」
「そうだとも。炭一片とお言いだけれど、どうだろうこの頃の炭の
高価いことは。一俵八十五銭の
佐倉があれだよ」とお徳は井戸から台所口へ続く軒下に並べてある炭俵の
一を指して、「
幾干入てるものかね。ほんとに一片何銭に
当くだろう。まるでお
銭を
涼炉で燃しているようなものサ。
土竈だって
堅炭だって
悉な去年の倍と言っても可い位だからね」とお徳は
嘆息まじりに「
真実にやりきれや仕ない」
「それに御宅は
御人数も多いんだから
入用ことも入用サね。
私のとこなんか二人きりだから
幾干も
入用ア仕ない。それでも三銭五銭と
計量炭を毎日のように買うんだからね、全くやりきれや仕ない」
「全く骨だね」とお徳は優しく言った。
以上炭の
噂まで来ると二人は最初の木戸の事は
最早口に出さないで
何時しか元のお徳お源に
立還り
ぺちゃくちゃと仲善く
喋舌り合っていたところは
埒も無い。
十一月の末だから日は短い
盛で、主人真蔵が会社から帰ったのは最早暮れがかりであった。木戸が出来たと聞いて洋服のまま下駄を突掛け勝手元の庭へ廻わり、
暫時は木戸を見てただ微笑していたが、お徳が
傍から
「
旦那様大変な木戸で、御座いましょう」と言ったので
「これは植木屋さんが
作らえたのか」
「そうで御座います」
「随分妙な木戸だが、しかし植木屋さんにしちゃア良く出来てる」と手を掛けて
揺振ってみて
「案外丈夫そうだ。まアこれでも
可い、無いよりか
増だろう。その内大工を頼んで本当に作らすことに仕よう」と言って「竹で
作えても木戸は木戸だ、ハ、ハハハハ」と笑いながら
屋内へ入った。
お源はこれを自分の
宅で聞いていて、くすくすと
独で笑いながら、「
真実に
能く物の解る旦那だよ。第一あんな心持の優い人ったら
めったに有りや仕ない。
彼家じゃ
奥様も好い
方だし御隠居様も小
まめに
ちょこまかなさるが
人柄は極く好い方だし、お清
様は出戻りだけに
何処か
執拗れてるが、然し
気質は優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を
回想して「水の世話にさえならなきゃ
如彼奴に口なんか
利かしや仕ないんだけど、房州の
田舎者奴が、可愛がって頂だきゃ可い気になりゃアがってどうだろうあの
図々しい
案梅は」とお徳の
先刻の言葉を思い出し、「大変な木戸でしょうだって、あれで難癖を附ける積りが
合憎と旦那がお取上に相成らんから可い気味だ。
愚態ア見やアがれだ」と又つと気を変えて「だけど感心と言えば感心だよ。
容色も悪くはなし年だって私と
同じなら未だいくらだって嫁にいかれるのに、ああやって一生懸命に奉公しているんだからね。全く
普通の
女にゃ
真似が出来ないよ。それに恐しい
正直者だから大庭
様でも
彼女に任かして置きゃ
間違はないサ
······」
こんな事を思いながらお源は
洋燈を
点火て、
火鉢に炭を注ごうとして炭が
一片もないのに気が着き、
舌鼓をして古ぼけた
薬鑵に手を
触ってみたが湯は
冷めていないので安心して「お湯の熱い
中に早く帰って来れば可い。然し今日もしか前借して来てくれないと今夜も明日も火なしだ。火ぐらい
木葉を拾って来ても間に合うが、
明日食うお米が有りや仕ない」と今度は舌鼓の
代に力のない
嘆息を
洩した。
頭髪を乱して、
血の
色のない顔をして、薄暗い洋燈の陰にしょんぼり坐っているこの時のお源の姿は随分
憐な様であった。
其所へ
のっそり帰って来たのが亭主の磯吉である。お源は
単直前借の金のことを
訊いた。磯は黙って腹掛から財布を出してお源に渡した。お源は中を
査めて
「たった二円」
「ああ」
「二円ばかし仕方が無いじゃアないか。どうせ前借するんだもの五円も借りて来れば可いのに」
「だって貸さなきゃ仕方がない」
「それゃそうだけど能く頼めば親方だって五円位貸してくれそうなものだ。これを御覧」とお源は
空虚の
炭籠を見せて「炭だってこれだろう。今夜お米を買ったら
幾干も残りや仕ない。
······」
磯は黙って煙草をふかしていたが、
煙管をポンと強く
打いて、
膳を引寄せ
手盛で飯を食い初めた。ただ
白湯を
打かけてザクザク流し込むのだが、それが
如何にも
美味そうであった。
お源は亭主のこの
所為に気を
呑れて黙って見ていたが山盛五六杯食って、未だ
止めそうもないので
呆れもし、
可笑くもなり
「お前さんそんなにお
腹が
空いたの」
磯は更に
一椀盛けながら「
俺は今日
半食を食わないのだ」
「どうして」
「今日
彼時から
往ったら親方が
厭な顔をしてこの
多忙しい中を何で遅く来ると
小言を言ったから、実はこれこれだって木戸の一件を話すと、そんな事は
手前の勝手だって言やアがる、
糞忌々しいからそれからグングン仕事に掛って二時過ぎになるとお
茶飯が出たが、俺は
見向も仕ないんだ。お女中が来て今日はお
美味い
海苔巻だから早やく来て食べろと言ったが
当頭俺は往かないで仕事を仕続けてやったのだ。そんなこんなで前借のこと親方に言い出すのは全く
厭だったけど、言わないじゃおられんから帰りがけに五円貸してくれろと言うと、へん仕事は怠けて前借か、俺も
手前の図々しいのには
敵わんよ、そらこれで
可かろうって二円出して
与こしたのだ。仕方が無いじゃアないか」と磯は腹の
空いた訳と二円
外前借が出来なかった
理由を一遍に話して
了った。そして話し
了ったころ
漸と
箸を置いた。
全体磯吉は無口の男で又た口の
利きようも
下手だがどうかすると
啖火交りで今のように威勢の可い物の言い
振をすることもある、お源にはこれが
頗る
嬉しかったのである。然しお源には
連添てから足掛三年にもなるが未だ磯吉は
怠惰者だか
働人だか判断が着かんのである。東京女の気まぐれ者にはそれで
済でゆくので、三日も四日も仕事を休む、どうかすると十日も休む、けれどサアとなれば人三倍も働くのが
宅の磯
様だと心得ている、だからサアとなれば困りや仕ないと信じている。然し
何処まで行ったらその「サア」だかそんなことはお源も考えたことはない。又たお源は磯さんはイザとなれば随分人の出来ない思きった大胆なことをする男だと
頼もしがっている。けれどそうばかし思えんこともある。その実案外
意久地のない男かしらと思う場合もあるが、それは一文なしになって困り
抜た時などで、そう思うと
情なくなるからなるべくそれは自分で打消していたのである。
実際磯吉は
所謂る「解らん男」で、大庭の
女連は何となく
薄気味悪く思っていた。だからお徳までが磯には
憚る風がある。これがお源には言うに言われない得意なので、お徳がこの風を見せた時、お清が磯に丁寧な言葉を使った時など
嬉さが込上げて来るのであった。
それで結極のべつ貧乏の
仕飽をして、働き盛りでありながら世帯らしい世帯も持たず、
何時も物置か古倉の
隅のような所ばかりに住んでいる、従ってお源も何時しか植木屋の
女房連から解らん女だ、つまり馬鹿だとせられていたのだ。
磯吉の
食事が済むとお源は
笊を持て
駈出して出たが、やがて
量炭を買て来て、火を起しながら今日お徳と木戸のことで言いあったこと、旦那が木戸を見て言った言葉などをべらべら
喋舌て聞かしたが、磯は「そうか」とも言わなかった。
そのうち磯が眠そうに
大欠伸をしたので、お源は
垢染た
煎餅布団を一枚敷いて一枚
被けて二人一緒に
一個身体のようになって首を縮めて寝て了った。壁の
隙間や床下から寒い夜風が吹きこむので二人は手足も縮められるだけ縮めているが、それでも磯の
背部は半分外に
露出ていた。
中
十二月に
入ると急に寒気が増して霜柱は立つ、氷は張る、東京の郊外は
突然に冬の特色を発揮して、流行の郊外生活に
かぶれて初て郊外に住んだ
連中を
喫驚さした。然し大庭真蔵は慣れたもので、長靴を
穿いて厚い
外套を着て平気で通勤していたが、最初の日曜日は空青々と晴れ、日が
煌々と輝やいて、そよ吹く風もなく、
小春日和が又
立返ったようなので、真蔵とお清は留守居番、老母と細君は礼ちゃんとお徳を連て下町に買物に出掛けた。
郊外から下町へ出るのは東京へ行くと称して出慣れぬ女連は
外出の仕度に
一騒するのである。それで老母を初め細君娘、お徳までの
着変やら何かに一しきり
騒しかったのが、出て
去った
後は一時に
森となって
家内は
人気が絶たようになった。
真蔵は銘仙の
褞袍の上へ
兵古帯を巻きつけたまま
日射の可い自分の書斎に
寝転んで新聞を読んでいたがお
午時前になると退屈になり、書斎を出て
縁辺をぶらぶら歩いていると
「
兄様」と障子越しにお清が声をかけた。
「何です」
「おホホホホ『何です』だって。お
午食は何にも有りませんよ」
「かしこ参りました」
「おホホホホ『かしこ参りました』だって
真実に何にもないんですよ」
其処で真蔵はお清の居る
部屋の障子を開けると、
内ではお清が
せっせと針仕事をしている。
「大変勉強だね」
「礼ちゃんの
被布ですよ、
良い柄でしょう」
真蔵はそれには
応えず、
其処辺を見廻わしていたが、
「も少し
日射の好い部屋で
縫ったら可さそうなものだな。そして
火鉢もないじゃないか」
「未だ手が
凍結るほどでもありませんよ。それにこの節は御倹約ということに
決定たのですから」
「何の御倹約だろう」
「炭です」
「炭はなるほど
高価なったに違ないが
宅で急にそれを節約するほどのことはなかろう」
真蔵は衣食台所元のことなど
一切関係しないから何も知らないのである。
「どうして
兄様、十一月でさえ一月の炭の代がお米の代よりか
余程上なんですもの。これから十二、一、二と
先ず三月が炭の
要る
盛ですから倹約出来るだけ仕ないと大変ですよ。お徳が朝から晩まで炭が要る炭が
高価いて泣言ばかり言うのも無理はありませんわ」
「だって炭を倹約して
風邪でも引ちゃ何もなりや仕ない」
「まさかそんなことは有りませんわ」
「しかし今日は好い
案排に暖かいね。
母上でも今日は大丈夫だろう」と両手を伸して
大欠伸をして
「何時かしらん」
「
最早直ぐ十二時でしょうよ。お
午食にしましょうか」
「イヤ未だ腹が一向
空かん。会社だと
午食の弁当が待遠いようだけどなア」と言いながら其処を出て勝手の座敷から女中部屋まで
覗きこんだ。女中部屋など
従来入ったことも無かったのであるが、見ると高窓が二尺ばかり開け放しになってるので、何心なく其処から首を
ひょいと出すと、直ぐ眼下に隣のお源が居て、お源が我知らず見上た顔とぴたり出会った。お源はサと顔を真赤にして
狼狽きった声を
漸と出して
「お宅ではこういう上等の炭をお使いなさるんですもの、
堪りませんわね」と佐倉の切炭を手に持ていたが、それを手玉に取りだした。窓の下は炭俵が口を開けたまま並べてある場処で、お源が木戸から
井戸辺にゆくには是非この
傍を通るのである。
真蔵も
一寸狼狽いて答に窮したが
「炭のことは私共に解らんで
······」と
莞爾微笑てそのまま首を引込めて了った。
真蔵は直ぐ書斎に返ってお源の
所為に就て考がえたが判断が容易に
着ない。お源は炭を盗んでいるところであったとは先ず最初に来る判断だけれど、真蔵はそれをそのまま確信することが出来ないのである。実際ただ炭を見ていたのかも知れない、通りがかりだからツイ手に取って見ているところを不意に
他人から
瞰下されて
理由もなく顔を赤らめたのかも知れない。まして自分が見たのだから
狼狽えたのかも知れない。と考えれば考えられんこともないのである。真蔵はなるべく
後の方に判断したいので、遂にそう心で
決定てともかく
何人にもこの事は言わんことにした。
しかし
万一もし盗んでいたとすると
放下って置いては
後が悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を
続行ることは
得為すまいと考えたから
尚お更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。
どちらにしてもお徳が言った通り、
彼処へ竹の木戸を植木屋に作らしたのは策の得たるものでなかったと思った。
午後三時過ぎて下町行の一行はぞろぞろ
帰宅って来た。一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。お清は
勿論、真蔵も引出されて
相槌を打って聞かなければならない。礼ちゃんが新橋の
勧工場で大きな人形を
強請って困らしたの、電車の中に
泥酔者が居て
衆人を苦しめたの、真蔵に向て細君が、
所天は寒むがり坊だから大徳で上等
飛切の舶来のシャツを買って来たの、下町へ出るとどうしても思ったよりか余計にお金を使うだの、それからそれと
留度がない。そして聞く者よりか
喋舌ている連中の方が
余程面白そうであった。
先ずこのがやがやが
一頻止むとお徳は急に何か思い出したように
起て勝手口を出たが
暫時して返って来て、妙に
真面目な顔をして眼を
円くして、
「まア驚いた!」と低い声で言って、
人々の顔をきょろきょろ見廻わした。
人々も何事が起ったかとお徳の顔を見る。
「まア驚いた!」と今一度言って、「お清様は今日
屋外の炭をお出しになりや仕ませんね?」と
訊いた。
「
否、私は
炭籠の炭ほか
使ないよ」
「そうら解った、
私は
去日からどうも炭の無くなりかたが変だ、
如何炭屋が
巧計をして底ばかし厚くするからってこうも急に無くなる
筈がないと思っていたので御座いますよ。それで私は
想当ってる事があるから
昨日お源さんの留守に障子の
破目から
内を
ちょいと
覗いて見たので御座いますよ。そうするとどうでしょう」と、一段声を低めて「あの
破火鉢に佐倉が
二片ちゃんと
埋って灰が
被けて有るじゃア御座いませんか。それを見て私は
最早必定そうだと
決定て御隠居様に先ず申上げてみようかと思いましたが、一つ
係蹄をかけて
此方で
験めした上と考がえましたから今日
行って
試たので御座いますよ」とお徳はにやり笑った。
「どんな
係蹄をかけたの?」とお清が心配そうに
訊いた。
「今日出る前に上に並んだ炭に一々
符号を附けて置いたので御座います。それがどうでしょう、今見ると
符号を附けた佐倉が
四個そっくり無くなっているので御座います。そして
土竈は大きなのを
二個上に出して符号を附けて置いたらそれも無いのです」
「まアどうしたと云うのだろう」お清は
呆れて了った。老母と細君は顔見合して黙っている。真蔵は
偖は
愈々と思ったが今日見た事を打明けるだけは
矢張見合わした。つまり真蔵にはそうまでするに忍びなかったのである。
「で御座いますから炭泥棒は
何人だか
最早解ってます。どう致しましょう」とお徳は
人々がこの大事件を
喫驚してごうごうと論評を初めてくれるだろうと予期していたのが、お清が声を出してくれた外、
旦那を初め後の人は黙っているので少し張合が抜けた調子でこう問うた。
暫時く誰も黙っていたが
「どうするッて、どうするの?」とお清が問い返した、お徳は少々
焦急たくなり、
「炭をですよ。炭をあのままにして置けばこれから
幾干でも取られます」
「台所の縁の下はどうだ」と真蔵は
放擲って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その
理由を打明けないと
決心てるから、仕様事なしにこう言った。
「
充満で御座います」とお徳は一言で拒絶した。
「そうか」真蔵は黙って了う。
「それじゃこうしたらどうだろう。お徳の部屋の
戸棚の下を明けて当分ともかく
彼処へ炭を入れることにしたら。そしてお徳の
所有品は中の部屋の
戸棚を
整理けて入れたら」と細君が一案を出した。
「それじゃアそう致しましょう」とお徳は直ぐ賛成した。
「お徳には少し気の毒だけれど」と細君は
附加した。
「
否、
私は『中の部屋』のお
戸棚へ
衣類を入れさして頂ければ
尚お結構で
御座ます」
「それじゃ
先あそう
決定るとして、全体物置を早く作れというのに真蔵がぐずぐずしているからこういうことになるのです。物置さえあれば何のこともないのに」と老母が
漸と口を
利たと思ったら物置の愚痴。真蔵は頭を
掻いて笑った。
「
否、こういうことになったのも、竹の木戸のお蔭で御座いますよ、ですから私は
彼処を開けさすのは泥棒の入口を
作えるようなものだと申したので御座います。今となれゃ泥棒が泥棒の
出入口を
作えたようなものだ」とお徳が思わず地声の高い調子で言ったので老母は急に
「静に、静に、そんな大きな声をして
聴れたらどうします。
私も彼処を開けさすのは
厭じゃッたが開けて了った今急にどうもならん。今急に彼処を
塞げば角が立て面白くない。植木屋さんも
何時まであんな
物置小屋みたような所にも居られんで
移転なりどうなりするだろう。そしたら
彼所を塞ぐことにして今は
唯だ何にも言わんで知らん顔を仕てる、お徳も決してお源さんに炭の話など仕ちゃなりませんぞ。現に盗んだところを見たのではなし又高が少しばかしの炭を
盗られたからってそれを荒立てて
彼人者だちに
怨恨れたら
猶お損になりますぞ。
真実に」と老母は老母だけの心配を
諄々と
説た。
「
真実にそうよ。お徳はどうかすると
譏謔を言い兼ないがお源さんにそんなことでもすると大変よ、
反対に
物言を附けられてどんな目に
遇うかも知れんよ、私はあの亭主の磯が気味が悪くって成らんのよ。
変妙来な男ねえ。あんな奴に限って向う
不見に人に
喰ってかかるよ」とお清も老母と同じ心配。老母も磯吉のことは口には出さなかったが心には無論それが有たのである。
「何にあの男だって唯の男サ」と真蔵は
起上がりながら「
然ども
先ア
関係わんが可い」
真蔵は自分の書斎に引込み、炭問題も一段落着いたので、お徳とお清は大急で夕御飯の仕度に取掛った。
お徳はお源がどんな顔をして現われるかと内々待ていたが、
平常も夕方には
必然水を汲みに来るのが姿も見せないので不思議に思っていた。
日が暮て一時間も
経てから磯吉が水を汲みに来た。
下
お源は真蔵に見られても
巧く誤魔化し得たと思った。ちょうど真蔵が窓から
見下した時は
土竈炭を
袂に入れ
佐倉炭を前掛に包んで左の手で
圧え、更に
一個取ろうとするところであったが、元来
性質の良い邪推などの無い
旦那だから多分気が附かなかっただろうと信じた。けれど夕方になってどうしても水を汲みにゆく気になれない。
そこで磯吉が仕事から帰る前に
布団を
被って寝て
了った。寝たって眠むられは仕ない。
垢染た
煎餅布団でも夜は磯吉と二人で寝るから互の体温で寒気も
凌げるが一人では板のように
しゃちっ張って身に着かないで起きているよりも一倍寒く感ずる。ぶるぶる
慄えそうになるので手足を縮められるだけ縮めて丸くなったところを見ると人が寝てるとは
承知ん位だ。
色々考えると
厭悪な
心地がして来た。貧乏には慣れてるがお源も未だ泥棒には慣れない。
先達から
ちょくちょく盗んだ炭の高こそ多くないが
確的に人目を忍んで
他の物を取ったのは今度が
最初であるから一念
其処へゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には
恐怖も
羞恥も
籠っていた。
眼前にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した旦那の顔が
判然出て来る、そして
テレ隠しに炭を手玉に取った時のことを思うと顔から火が出るように感じた。
「
真実にどうしたんだろう」とお源は思わず叫んだ。そして
徐々逆上気味になって来た。「もしか知れたらどうする」。「知れるものかあの旦那は
性質が良いもの」。「
性質の良いは当にならない」。「
性質の
善良のは
魯鈍だ」。と
促急込んで
独問答をしていたが
「
魯鈍だ、魯鈍だ、大魯鈍だ」と思わず又叫んで「フン何が知れるもんか」と
添足した。そして布団から首を出して見ると日が暮れて入口の障子戸に月が射している。けれども起きて
洋燈を
点けようとも仕ないで、直ぐ首を
引込て又た丸くなって了った。そこへ磯吉が帰って来た。
頭が割れるように痛むので寝たのだと聞いて磯は別に怒りもせず驚きもせず自分で
燈を
点け、
薬罐が
微温湯だから火鉢に炭を足し、水も汲みに行った。湯の
沸騰るを待つ間は煙草をパクパク
吹していたが
「どう痛むんだ」
返事がないので、磯は丸く
凸起った布団を
少時く
熟と
視ていたが
「オイどう痛むんだイ」
相変らず返事がないので磯は黙って了った。その
中湯が
沸騰て来たから例の通り氷のように
冷た飯へ
白湯を
注けて
沢庵をバリバリ、待ち兼た風に食い初めた。
布団の中でお源が
啜泣する声が聞えたが磯には
香物を
噛む音と飯を流し込む音と、
美味いので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食い終ったころには啜泣の声も
止んだのである。
磯が火鉢の
縁を
忽々叩き初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に
巻纏って其処へ坐った。前が
開て
膝頭が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると
逆上せて顔を赤くして眼は涙に潤み、
頻りに啜泣を
為ている。
「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて
狼狽えた様子は少しも見えない。
「磯さん私は
最早つくづく
厭になった」と言い出してお源は涙声になり
「お前さんと
同棲になってから三年になるが、その間
真実に食うや食わずで今日はと思った日は一日だって有りやしないよ。私だって何も楽を
仕様とは思わんけれど、これじゃ
余りだと思うわ。お前さんこれじゃ乞食も同然じゃ無いか。お前さんそうは思わないの?」
磯は黙っている。
「これじゃ
唯だ食って生きてるだけじゃないか。
饑死する者は世間に滅多にありや仕ないから、食って生きてるだけなら
誰だってするよ。それじゃ
余り情ないと私は思うわ」涙を
袖で
拭て「お前さんだって立派な職人じゃないか、それに
唯た二人きりの
生活だよ。それがどうだろう、
のべつ貧乏の仕通しでその貧乏も唯の貧乏じゃ無いよ。満足な家には一度だって住まないで
何時でもこんな物置か
||」
「何を何時までべらべら
喋舌てるんだい」と磯は
矢張お源の方は
向ないで、手荒く
煙管を
撃いて言った。
「お前さん怒るなら
何程でもお怒り。今夜という今夜は私はどうあっても言うだけ言うよ」とお源は
急促込んで言った。
「貧乏が好きな者はないよ」
「そんなら
何故お前さん月の
中十日は
必然休むの? お前さんはお酒は
呑ないし外に道楽はなし満足に仕事に出てさえおくれなら
如斯貧乏は仕ないんだよ。
||」
磯は火鉢の灰を見つめて黙っている。
「だからお前さんがも少し精出しておくれならこの節のように
計量炭も
ろくに
買ないような情ない
······」
お源は布団へ打伏して泣きだした。磯吉はふいと起って土間に下りて
麻裏を突掛けるや
戸外へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に
徹える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、
其家を
訪ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが
帰掛に一寸一円貸せと頼んだ。明日なら出来るが今夜は一文もないと
謝絶られた。
帰路に炭屋がある。この店は酒も
薪も
量炭も売り、大庭もこの店から炭薪を取り、お源も
此店へ炭を買いに来るのである。新開地は店を早く
終うのでこの店も
最早閉っていた。磯は
少時く
此店の前を
迂路々々していたが急に店の軒下に積である炭俵の
一個を
ひょいと肩に乗て直ぐ横の
田甫道に
外て了った。
大急で
帰宅って土間に
どしりと俵を下した音に、泣き
寝入に寝入っていたお源は眼を覚したが声を
出なかった。そして今のは何の響とも気に留めなかった。磯もそのままお源の後から布団の中に
潜り込んだ。
翌朝になってお源は炭俵に気が着き、
喫驚して
「磯さんこれはどうしたの、この炭俵は?」
「買って来たのサ」と磯は布団を
被ってるまま答えた。
朝飯が出来るまでは磯は床を出ないのである。
「
何店で買ったの?」
「
何処だって可いじゃないか」
「聞いたって可いじゃないか」
「初公の近所の店だよ」
「まアどうしてそんな遠くで買ったの。
······オヤお前さん今日お米を買うお
銭を
費って
了やアしまいね」
磯は起上って「お前がやれ量炭も買えんだのッて
八か
間しく言うから
昨夜金公の家へ
往って借りようとして
無ってやがる。それから直ぐ初公の
家へ往ったのだ。炭を買うから
少ばかり貸せといったら一俵位なら
俺家の酒屋で取って往けと
大なこと言うから直ぐ
其家で初公の名前で持て来たのだ。それだけあれば四五日は
保るだろう」
「まアそう」と言ってお源はよろこんだ。直ぐ口を明けて見たかったけれど、
先ア後の事と、せっせと朝飯の仕度をしながら「え、四五日どころか
自宅なら十日もあるよ」
昨夜磯吉が飛出した後でお源は色々に思い
難んだ末が、亭主に精出せと勧める以上、自分も気を腐らして寝ていちゃ何もならない、又たお隣へも顔を出さんと
却て疑がわれるとこう考えたのである。
其処で
平常の通り弁当持たせて磯吉を出してやり、自分も飯を食べて
一通片附たところでバケツを持って木戸を開けた。
お清とお徳が外に出ていた。お清はお源を見て
「お源さん大変顔色が悪いね、どうか
仕たの」
「
昨日から少し
風邪を引たもんですから
······」
「用心なさいよ、それは
不可い」
お徳は「お早う」と口早に
挨拶したきり何も言わない、そしてお源が炭俵の並べてないのに気が着き顔色を変えて眼をぎょろぎょろさしているのを見て、にやり笑った。お源は又た早くもこれを
看取りお徳の顔を
睨みつけた。お徳はこう睨みつけられたとなると
最早喧嘩だ、何か
甚い皮肉を言いたいがお清が
傍に居るので辛棒していると十八九になる増屋の御用聞が木戸の方から入て来た。増屋とは
昨夜磯吉が炭を盗んだ店である。
「
皆様お早う御座います」と挨拶するや、
昨日まで
戸外に並べてあった炭俵が
一個見えないので「オヤ炭は
何処へ片附けたのですか」
お徳は待ってたという調子で
「あア
悉皆内へ
入ちゃったよ。外へ置くとどうも物騒だからね。今の
高価い炭を
一片だって盗られちゃ馬鹿々々しいやね」とお源を見る、お清はお徳を睨む、お源は水を汲んで
二歩三歩歩るき出したところであった。
「全く物騒ですよ、
私の
店では
昨夜当到一俵盗すまれました」
「どうして」とお清が問うた。
「
戸外に積んだまま、
平時放下って置くからです」
「
何炭を盗られたの」とお徳は
執着くお源を見ながら聞いた。
「上等の
佐倉炭です」
お源はこれ等の問答を聞きながら、歯を喰いしばって、
踉蹌いて木戸の外に出た。
土間に入るやバケツを
投るように置いて大急ぎで炭俵の口を開けて見た。
「まア
佐倉炭だよ!」と思わず叫んだ。
お徳は老母からも細君からも、みっしり
叱られた。お清は日の暮になってもお源の姿が見えないので心配して
御気慊取りと風邪見舞とを兼ねてお源を
訪ねた。内が余り
寂然しておるので「お源さん、お源さん」と呼んでみた。返事がないので
可恐々々ながら障子戸を開けるとお源は炭俵を
脚継にしたらしく土間の
真中の
梁へ細帯をかけて死でいた。
二日
経って竹の木戸が
破壊された。そして
生垣が
以前の
様に
復帰った。
それから二月
経過と磯吉はお源と
同年輩の女を女房に持って、渋谷村に住んでいたが、
矢張豚小屋同然の
住宅であった。