滝田哲太郎君
芥川龍之介
◇
滝田君に
初めて
会ったのは
夏目先生のお
宅だったであろう。が、
生憎その時のことは何も
記憶に
残っていない。
滝田君の
初めて
僕の家へ来たのは
僕の大学を出た年の
秋、
||僕の
初めて「
中央公論」へ「
手巾」という
小説を書いた時である。
滝田君は
僕にその
小説のことを「ちょっと
皮肉なものですな」といった。
それから
滝田君は二三ヵ月おきに
僕の家へ来るようになった。
◇
或年の
春、
僕は原稿の出来ぬことに
少からず
屈託していた。
滝田君はその時
僕のために
谷崎潤一郎君の原稿を
示し、(それは
実際苦心の痕の
歴々と見える原稿だった。)大いに
僕を
激励した。
僕はこのために
勇気を
得てどうにかこうにか書き上げる事が出来た。
僕の方からはあまり
滝田君を
尋ねていない。いつも
年末に
催されるという
滝田君の
招宴にも一
度席末に
列しただけである。それは
確震災の前年、
||大正十一年の
年末だったであろう。
僕はその
夜田山花袋、
高島米峰、
大町桂月の
諸氏に
初めてお目にかかることが出来た。
◇
僕は又
滝田君の
病中にも一
度しか
見舞うことが出来なかった。
滝田君は
昔夏目先生が「金太郎」と
あだ名した
滝田君とは
別人かと
思うほど
憔悴していた。が、
僕や
僕と一しょに行った
室生犀生君に
画帖などを
示し、
相変らず
元気に
話をした。
滝田君に
最後に
会ったのは今年の
初夏、
丁度ドラマ・リイグの
見物日に
新橋演舞場へ行った時である。
小康を
得た
滝田君は三人のお
嬢さんたちと
見物に来ていた。
僕はその
顔を
眺めた時、
思わず「ずいぶんやせましたね」といった。この
言葉はもちろん
滝田君に
不快を
与えたのに
違いなかった。
滝田君は
僕と一しょにいた
佐佐木茂索君を
顧みながら、「
芥川さんよりも痩せていますか?」といった。
◇
滝田君の
訃に
接したのは、十月二十七日の
夕刻である。
僕は
室生犀生君と一しょに
滝田君の家へ悔みに行った。
滝田君は
庭に
面した
座敷に北を
枕に
横たわっていた。
死顔は前に
会った時より昔の
滝田君に近いものだった。
僕はそのことを
奥さんに
話した。「これは水気が来ておりますから、
······綿を
含ませたせいもあるのでございましょう。」
||奥さんは
僕にこういった。
滝田君についてはこの
外に
語りたいこともない
訳ではない。しかし
匆卒の
間にも
語ることの出来るのはこれだけである。
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