一
(一体、どうしたのだろう······)
私は、すくなからず、不安になって来た。あの親友黒住箒吉がまるで、ここ二三ヶ月というもの消息不明になってしまったのだ。
私が、自分から「親友」などと呼びかけるのは、
黒住と私とは二代続きの、おやじから受けついだ交友であった。彼の父が家に遊びに来た時など、いつも彼の変屈を心痛して、
『春ちゃん、箒吉はアンナ風だけれど、よろしくお願いしますよ······時々お遊びに来て下さい||』
と、いかにも父親一人の家庭らしい、優しい、思いやりのある言葉で、私を誘ってくれた顔を、フト思い出すのである。
いまは、もう彼の父も、私の父も既に亡くなってしまって、第二代目の交友に引つがれてしまった。そして時々私は箒吉のことを偲い出す度に、手紙のやりとりなどして、死んだ彼の父に、お義理の端を済ませていたのだが。||
彼は、なかなか自分から私に呼びかける男ではなかったけれど、私の出す手紙には、きっと、
||それが、
私は、不安になって来た、いままでが、私の手紙に対して几帳面な黒住だっただけに、何かしら黒い翳を感ずるのである。(一体、どうしたのだろう······)
二
私は、五時を合図に
そして、黒住の住む西荻窪の駅に、はき出された時は、もう空の
燦々と輝く電燈を吊した新興商店街を抜けると、見覚えの道が、黒く柔らかに武蔵野の森に続いていた。私は黙々として記憶の道順を反芻しながら、いくつかの十字路を曲ると、むくむくと生え並んだ生垣の中に、ぼんやりと輪を描く外燈を発見した。
私は、も一度「黒住」とかかれた真ッ黒い表札を確めると玄関の格子戸を細目にあけ、案内を乞うてみた。
(はい······)
そんな返事が、台所の方できこえると、ばあやが、濡れた手を、前掛で拭き拭き出て来た。
『まァ、春樹さんじゃありませんか、まァまァすっかりお
ばあやは久し振りの訪問者を、嬉しそうに迎えてくれた。
『まったく、御無沙汰しました。······箒吉君は||』
『ええそれが······まァおかけ下さいまし』
ばあやは蒲団を押出すように、私の方に寄来した。
(いないのか||)
私は軽い失望を味わって、蒲団に腰を下ろした。
『それが貴方······』
ばあやはいかにも大事件だ、というように手をふりふり話し出すのであった。
『まァほんとうに、貴方様に来ていただいて、どんなに心強いか、知れはしませんわ······ええ、そりゃ御手紙を度々
(妙なことをいう)
私の口の先まで、出かかった言葉を、ばあやは押しかえすように
『何せまァ、わたしは心配で心配で、それは前から変った御気性の方ではございますけど、それがまァこの頃は、一体何をなさって居られるのやら、わたしにも一向わかりませんので』
『へえ、じゃ家にいないので||』
『いいえ、それが貴方、ずっとお部屋にいられるようなんですけど、そのお部屋が||ええなんと申し上げましょうか······その座敷牢······とでも申し上げたいような······』
『自分で好んで、はいってるんですか』
『滅相もない、なんでわたし共が旦那様を座敷牢などに||それは御自分でお造りになったので、わたしが御食事を差し上げますのは、戸に小さな窓が開いておりまして、中から箒吉様がお開けになって受取られるほか、覗くこともお許しになりませんのでございます』
(そんなことが······。正気の沙汰じゃないぞ)
『へんな話ですねェ、で、いまもその部屋にいるんですか』
『さあ、それが、真夜中なんかに、ふいとお出掛になられますので、ハッキリ申し上げられませんけど、今日は御食事のお知らせもございませんし、······多分お出掛と思いますけど······』
『
と思うほかに、いよいよ不安が増して来たので
『兎に角、一度その部屋をみせてくれませんか||』
とばあやに案内してもらって、その部屋へいってみた。
成るほどその部屋は、頑丈な、分厚つそうな樫のドアーに堅く閉され、一寸、押してみた位ではびくともしなかった。
耳を澄ましてそのドアーに押しつけてみると、中ではただタチタチタチと、時計の音が絶え絶えに響いているばかりであった。
(一体、これはどうしたというのだ······)
私は、むくむくと入道雲のように拡がる不安と、様々な想像とを倍加されただけでむなしく帰らなければならなかった。
三
暗い夜霧の下をくぐって、私がアパートに帰りついた時だった、アパートの入口の事務所のおじさんが、
『一寸、お留守にこの方が見えましたよ、······顔色の悪い人ですねェ||』
と差し出された名刺には、「黒住箒吉」と鮮やかに印刷されていた。私の目には、その文字がピョコンと飛出してみえた。
と、簡単に書いてあった。
(行き違いだったのか)
(それにしても、重大な要件とは||)
でも、あしたの六時にはすべて解決するだろうと思った。
四
先刻、 ! ! ! ! ! !
と、喫茶店ナイルの時計が、私の肩の上で鳴ったが、黒住は、まだ現れなかった。
総硝子張りの、温室のような近代構成派の喫茶店ナイルは光々と白昼電燈に照らし出されていたが、硝子戸一枚の外はあの銀座特有のねっとりとした羊羹色の闇が、血管のようにくねくねと闇にはしるネオンサインを小さく
もう冷えきったコーヒーのカップを口に運ぼうとした時だった。冷ッとする空気と一緒に、ドアーを押しあけて、はいって来た男があった、一目で私は
(黒住||)と直感した。
黒住は、薄く笑いながら、私の前の椅子に腰を下ろした。
『しばらく、待った······きのうは、行き違いになってしまって||』
私は、黒住が来たら、いまの今まで、約束の時間を無視したことを、詰ってやろう、と心構えにしていたのだが、一目彼の様子を見ると、その余りに
その高く突出した頬骨の下に、
『どうしたんだい君、病気なのか||』
『いいや』
黒住はだるそうに、口を動かし始めた。
『手紙の返事も出さないで、悪いとは思ってたんだが、何しろ、今、一寸重大な実験をしてるんでね||』
『重大な要件、っていうのは』
『それなんだ、実は、僕はもう長いことないかも知れないんで、君に、色々頼みたいこともあるんで······』
『バカな||』
私はそれとなく、さっきから黒住の薄い影を気にしていたので、思わず大きな声でその不安をはね飛ばそうとした、だが黒住は案外落着いて
『いや、ほんとうだよ。でも僕は命なんか惜くないと思ってるんだ||といきなりいったって、君には解ってくれまいけど』
『どんなわけなんだ一体、はじめからいってくれ給え······』
『うん······』
黒住は軽く咳き込むと、すぐ続けた。
『実は、いま人間は眠らないでも、いいという実験をしてるんだ······』
(この男、気が狂ったのではないか||)
私は、しげしげと彼の顔を見直した。
『そういったって、君は信じてくれないだろうけど、これは実際なんだ、現に実験中なんだ』
『君。バカなことをいっちゃいけないぜ、しっかりしてくれよ、一晩徹夜したって疲れてしまうのに、眠らないでいられるもんか||』
(バカバカしい) 私は吐出すようにいった。
『いや』 黒住は、平然と続けた、
『君、そんなことをいうのは認識不足だよ、一寸例をとれば||ほら君自身だって経験があるだろう、四月までは八時半始業だった学校が四月からは八時になる、三十分早くなれば三十分早く起きればいい、それは二三日つらいけど、すぐ馴れちまう、それだよ、この習慣というやつを利用するんだ、これなら出来るだろう||』
(それはそうさ、三十分位||)
『それを考えたら出来る筈じゃないか、あしたは今日より三十分早く起きる、そのあしたは又三十分早く起きる||といったって、毎日三十分ずつ早く起きたら溜らないから十分位ずつ早くおきて、それに馴れたら又十分位ずつ||十分位早く起きるのは一週間もあれば馴れちまうよ、馴れるというのは恐ろしいもんだね、習慣というのは実に偉大なもんだ、この世の中はすべて慣性、イナーシアーというものが支配しているんだ······』
黒住は、滔々と奇怪な説明を始めるのであった。私は、普段黙ってばかりいる箒吉の、このモノに憑かれたような饒舌に、寧ろ唖然としてしまった。
『それで、君は、眠りを減らしているというのかい||』
『ウン、僕はここ数ヶ月、血の出るような苦心を払った、僕は一週間に二十分位ずつ睡眠時間を減らしてみたんだ、そして君、成功したよ、もういまでは二日に十五分も寝ればいいんだ、四十八時間のうち十五分しか寝ないんだ、もうすぐ三十日間に十分も寝ればいいようになるだろう······』
私は、黒住が、これほど巧みな話術を、持合せていようとはいまの今まで気がつかなかった。
(なんだバカバカしい||)と思うほかに(或は、そうかも知れぬ······)とも思われて来るのだ。
ダガ||
『ナゼそんなことを始めたんだい』
私は、とうから聞こうと思っていた問題に辿りついた。
『それは、それは一寸』
彼は
『まァ、いってみれば、僕はあのまどろみの快感を味わいたいからなんだ、あのぬくぬくと暖かい床の上に長々と、ねているのか、覚めているのか、そんな訳のわからぬ快よい線を
彼は、こういうと寂しそうな声をたてて笑うのであった。
(無理に眠りをへらして、そのふらふらする気持に陶酔するなんて······)
(でも、黒住のような
『君、それだけの理由じゃないだろう』
私はワザと詰問するようにいった。
『えっ、そんなことは······じゃあ、一緒に家へ来ないか||』
彼はギクリとしたように立ち上ると、もう出口の方へ、あゆみはじめた。
五
私は、その痩せ呆うけた黒住の肩口を見詰め乍ら、彼について行くより仕方なかった。
(いい機会があったら、そんなバカなことを止めてやらなけりゃ······)
黒住も、私も黙々と歩きつづけた。
×
又黒住の家へ、私達がついたのは、もう九時も廻っていたろうか······でもばあやに一寸挨拶をし、彼の部屋にはいって固く戸を閉し、間もなくばあやがお茶をあの小窓から渡したきり、私達二人は、全然この世の中から隔離されてしまったのだ。その部屋は八畳位の広さで、窓は一ヶ所もなく、真白い箱のようなものであった。
その中に、大きな寝台が一つ、書物のとりちらかされたテーブルが一つ、椅子が一つ、タッタそれだけの世界であった。その外目につくのは部屋のつきあたりにある一間位の押入とテーブルの本の間に挟まって、かすかにあゆみ続ける時計位のものであった。
(この間の時計の音は、これか||)
私はそんなことを思いながら、部屋の中を見廻していた。
黒住はベットに腰を下ろすと、私に椅子をすすめながら
『さっきは、何しろ外だったんで、ゆっくり話も出来なかったけど、僕は君がこんなヘンなことを始めた理由を······といわれた時は、思わず僕の心の底をみすかされたような気がしたんだ』
とぽつりぽつり話し出すのであった。
『実際、僕もはじめは、あの寝覚めの妙な気持に興味を持ってやったんだけど、それが、最近そうとだけはいわれなくなって来たんだ。それは一寸、なんだけど、新らしい恋人が現われたのだ』
(恋人||)
私は、あまりの思い構けぬ言葉に、呆然としてしまった。
『寧ろ、祝福すべきじゃないか||』
『いや、それがこの世のものではないんだ』
『||君は一体、僕をからかってるのか』
『いや失敬失敬、僕のいい方が悪かった、||でも、一寸適切な言葉がなかったもんだから······』
彼は寂しそうに笑うと、目を伏せてしまった。
私は何かしら異様な気持に襲われ乍ら
『君ハッキリいってくれたまえよ、もしそのことが重大な要件であり、僕に手伝いの出来ることなら遠慮なくいってくれたまえ、及ばずながら、なんとかしよう······』
『ありがとう、君がそういってくれるのは、トテモ有り難いけど、でも駄目な話だ、僕の恋人は夢の中だけしか現われて来ないのだ||』
(夢の中の恋人||)
私はその時代がかった話に、重ねて唖然とせざるを得なかった。
(今の世の中に、夢の中の恋人に
『君、とても信じてはくれないだろうけど、その彼女。ルミは、あの
黒住の顔は、かすかではあるが紅潮して来たようであった。
彼は又続けるのである。
『僕は、その彼女と逢う為に、前にも増してどんどん眠りを減らして、その深いまどろみをつくらなければならなくなった、||この儘では、眠りを全然失った時、それは僕の死ぬ時かもしれないけど······そんなことは、今の僕には問題じゃない。||ただ最後の場合になった時に、君だけはタッタ一人の友だちだから、事情を知っていてもらいたかったんだ』
私は、いつか言葉を失って沈黙してしまった。彼も亦、黙って時計の音に聞き入っていた。
六
それから、どの位時間がたったであろうか、突然黒住が立ち上ると、
『さあ、これから十五分ばかり寝なけりぁならんから、一寸失敬する······』
私は、ぼんやりと彼のなすままを見詰めていた。彼は目の前で洋服を、手早く脱いでしまうと、ベットに潜り込んだ||とみるまに、もう眠りに引ずり込まれていったようである。
私は、見るともなく、彼の寝顔に見入った。その余りにも
思い出すともなく、少年時代からの彼の様子などを考え出していた時、私は、思わずアッと叫ぶところであった。
彼が起き上ったのだ。
ダガ、彼はまだ寝ているのである。危なっかしい早瀬を渡るような足取りで、ベットからはなれたのだ。
(夢遊病||)
私が、呆然としている中に、彼は押入まで辿りつくとその戸を開けて、何か、がさがさと抱え出した。
『アッ······』
彼はその少女を
(人形か||。人形だ)
如何にもそれは、驚ろくべきほど精巧につくられた外国人形であった。一目見た時は、はっとするほど精巧な人形であった。私はフト彼の父の外遊を思い出した。
(あの外遊の御土産かも知れない······)
||私が、そんなことを考えている中にベットの上ではその人形ルミと、黒住との奇怪極まる悦楽が始まったのだ。
黒住は、無惨にも人形の着物を最後の一枚までもはぎとってしまった。そして、ぽい、と私の目の前になげすてられた時、どうしたことか、私はその着物から、ほのぼのとした甘い少女の体臭を強く感じたのだ······。
私の心は妖しく震えて来た。
(そんなことはない、人形だ)
と思いながらも。
然し私はその赤裸にされた人形の体全部に、点々とした、くちづけの跡を発見した時、私の心の隅にあった獣心が、力強く起き上って来、烈しい嫉妬に、思わず椅子をはねのけて立上った。
(夢の中の恋人だなんて||)
私はそんな美しい言葉を使った黒住が、殺してもあきたらぬように思えて来た。
やがて人形ルミと黒住との優しい愛の囁きがボソボソと聞え始めて来た時は、私の心は全く平衡を失っていた。この奇怪至極な、この世のものでない雰囲気は、私の心をすっかり掻き乱してしまったのだ。
私はテーブルの上に投出された鍵をつかむと、ぶるぶると震える手でドアーを開け、又ピンと錠をおろしてしまった。ばあやはもう寝てしまったのか、目にふれなかった。私はその儘黒住の家を抜け出すと、あてもなく夜の道に
(人形、ルミ······)
夜は深閑と更けて、彼方の骸骨のような森の梢には、細いいまにも破け落ちそうな月がひっかかり、新聞紙がもののけのように風にのって
(黒住のヤツ、わざわざ俺の目の前で······)
私の網膜には、まだあの縺れ合った恥態が、なまなましく焼きついていた。
「ふ、ふ、ふ······」
フト、ポケットに突込んだ手の先に鍵が触った。
(こいつが、なくなったらあの二人は飢え死だ!)
私は、思い切り遠くへ、その鍵を投棄てた。どこかで、チャリンと音がしたようだ。
「ふ、ふ、ふ······」
私は溜らなく
道はいつのまにか黒い坂道へかかっていた、空気は月光の下で、白い渦を巻いて流れていた。目の前には