その一
『監獄といへばあたまから、善人の行くべき処でないと思ふ人が多い。なるほどそれは国事犯者の少数と、ある一二の項目に触れて禁錮された、人々とを除いたならば、まるつきり、純潔無垢なるものの、行くべき処でないには相違ない。さらば青天白日とかいふ、監獄の外に居るものは、既往と将来とは知らず、現在では、純潔無垢なものばかりかといふに、なかなかさうはゆかぬてや。この中にはかの有名なる、判官の弄花事件もあつた、議員の収賄事件もあつた。顕れた事実は少数だが、それに類した事が、現在いくら行はれつつあるかもしれぬ。否行はれてゐるのである。先づ例を卑近な辺に採らふならば、わづかの金を振りまはして、格外の手数料、利子などを貪り、貧民の生血を吸つてゐる恠物もある。がこれらは咎め立するほどの、
と、さすがに職業柄だけに、市ヶ谷監獄署面会人控所にて、大気焔を吐きたまふは、この頃某県より東京へ転貫の、
『しかるをいはんやここは面会人控所ではないか。檻内の者はとにかく、面会を乞ふものその者に、果たして何の罪がある。これ実に世のいはゆる晴天白日の人、即ち天下公衆の一人ではないか。それも罪三族を
と、はつきりといひ切りたきところを、さすが結尾の一節だけは、舌鋒を鈍らし、むにやむにやとお口の内に噛み殺したまひしは、天晴れお見上げ申したる御仁躰なり。
されどかく、しばしば感歎を促されては、さうは問屋がと余談に移るものあるを、弁護士殿は苦々しげに見てゐたまひしが、ふと傍に控えたる少年の、これこそはさもさも同情の想ひ、眉宇に溢れたるを、うい奴と発見したまひ。
『君はいつも見る顔だが、一躰何の事件で来てゐるのだ。よく感心にたびたび遣つて来るの』
君と呼ばれたる少年は、年の頃十五六、小柄なれば七位にもや。浅黒き顔に黒木綿の羽織、麁末なる
『はあ、父が来てゐるのです』
『ふむ、未決か、既決か』
『既決といふ外はありません、昨日確定裁判を下されたのですから。それがどうしたです』
妙に人に喰つてかかりさうなる気色を、弁護士殿は、微笑をもて迎へながら。
『ふむ、さうか、それはいけなかつたな。一躰どういふ、罪名を付せられたのだな』
少年は猪飼への答といふよりも、むしろ己が感慨に迫られて、我知らず口を開き。
『そ、それが実に間違つとるんです。全躰は人の委託金ですが、使用の特権をその所有者から許されてゐたんです。だから良し費消したところで、民事の制裁を受くべきものであるに、
はなはだしく憤慨して腕を扼し、思はず高声にいひ放ちしが、辺りに佇める押丁と顔見合せ、さすがに口を噤みたり。弁護士殿は、やをら巻煙草の灰をはたき、
『ふふむ、さうか、委託物費消か、いやよくある奴だ』
少し冷やかなる調子なりしが、理性は前刻の、卓論を繰返して黙するを許さず。
『まあいいさ、さう怒る事もない。軽罪だから直き出られるさ。最長期としたところで知れたものだからな』
少年は勃然として、弁護士の顔を見上げ、
『三年です、その人に依つては、長くもない時日でしやう。だが一日の破廉恥罪と、十年の国事犯罪とは、あなたはどちらをお取りになりますか。父はいやしくも郷里では、県会の副議長にも挙げられた人間です、地方の政党幹事をも、遣つてゐた人物です。そして初期の衆議院には、いくばくの国民を代表した代議士であり、のみならず僕の家は、近県に誰知らないものはない、数百年連綿の旧家です。その士、その家の主人が、破廉恥罪の名によつて、今後三年を
骨鳴り、肉躍る少年の気色に、弁護士少し敬重の意を傾け、自から詞も丁寧に、
『いや失言しました、ごもつともです。もつとも再審は御請求なさるでしやうな』
『もちろんしました、二回まで上告して、二年の時日を未決檻に、空しく送つた上の今日です』
『なるほど』
『実に今の判官には目がないです。文字の外には、読むべき証拠を見得ないです。だから僕は充分法律を研究して、
『別に造作はないです、四五年もやれば沢山です。一躰御郷里はどこですか、東北ですか、西南ですか』
『東北です』
『では宮城か、福島辺でいらつしやるですか』
『はあ先づその辺です』
折から押丁の声として、大村耕作面会人、大村一郎||ツと罵るかの如く呼立つるに、少年はチヨツと舌打して、弁護士に目礼を施し、奮然として出で行きぬ。跡に弁護士殿は自問自答。
『ふむ、大村耕作といつたな、なるほど忘れてゐた、さうだ、それだ。では
その二
神田鎌倉河岸の葬具屋に並びて、これも白木の看板麗々しく、東京地方裁判所所属弁護士、猪飼弁三事務所の、その名は満都に隠れあれど、まんざら三百でなきは、八百屋のお払ひ滞らぬにも知られ、米屋酒屋の掛乞よりは、訴訟人の足繁きに、さても東京は結搆な処と、東京の有難さ身に染みたる奥方の、詞のなまり、身のつくりも、やつとお国の垢抜けしに、我もいささか肩身広き心地してと、口の悪き
されば上は玄関番の書生より、下は台所の斑に至るまで、勤めやうでは、勤めにくくもなき筈を。いかはしけむ、書生の一人、大村一郎といふ無骨もの。これのみはとかく奥様の御意に召さず、またしてもお小言戴くを三の笑止がり。あの奥様は威張らせてさへ置けば御機嫌よきに、逆らひなさるから、お前様は損だよ。手よりは口の方上手に働かすが、このお邸の肝要ぞやと、
奥様は今がた旦那どの、玄関に見送らせたまひ。書斎のお掃除、これのみは、小間使の手にも掛けず、御自分のもちになりたるを片付けたまひ。さも大仕事したる跡なるかのやうに、ぺたり仲の間の火鉢の傍によりかかりたまひ。ああ
三は来たなと、今まで板場に骨休めし身を、急に起こして立働く、流しもとの忙しさ、奥様殊勝と見遣りたまひ。
『お前もちつとお休みな、今日は横浜へお出になつたのだから、夕方でなくツちやあ、お帰りはあるまいよ。お昼食は要らないのだから、まあ安心さ』
三はぬらしたばかりの手を、大形に拭き拭き
『さやうでいらつしやいますか、道理でいつもより、お早くお出掛だと存じましたよ、じやあ今日はお留守事に、お洗濯でもいたしますか』
『ああどうせして貰ひたいんだけれど、まあ少し位後でもいいよ。どふもお天気が変だから』
いひながら、お庭の方を見遣りたまひ、旦那どののお机の上に、視線を触れて。
『おおさうさう忘れてゐた、郵便を出させろとおつしやつたんだに。大村は居るかえ』
『はいいかがでございますか、ちよいと』
と立ちて大村さん大村さんと呼びながら玄関の襖を明け、
『おやまたどつか行ツちまつたんだよ。奥様居りませんでございます。いつでもね、あなた』
と、三ははや奥様の、御立腹を促し顔なり。
『さうかえ、まただんまりで出て行つたんだらう。
奥様は大村の為に、郵便の事は忘れ果てたまひたるらし。三は大なる腰を、敷居際にどつと据え。
『さやうでございますとも、真実にいけ好かない人でございます。奥様の前でございますが、私達にでもああしろかうしろツて、旦那様よりか、いつそ威張つてるんでございますもの。どこの書生さんだつて、あんな書生さんもないものでございます。私も随分これまで書生さんの在るお邸に、御奉公も致しましたが、大村さんのやうな方は始めてでございますよ。だから私はこちら様へ上りました当季は、御親類の、若旦那様ででもいらつしやるかと存じましたに、
『ああさうだともさうだとも。だから私はいつも旦那様にさう申し上げてゐるんだけれど、御自分で連れていらしつたもんだから、打遣つて置け打遣つて置けとおつしやるんだもの。真実に困つちまうよ。あれでは書生を置いとく、甲斐がないじやないか』
『真実にさやうでございますねえ。お庭のお掃除一ツしやうじやなし、自分で遣う
とはどこにか思召の、書生様ありと思し。奥様はむろんといふ風に、煙管をポンと叩きたまい。
『仕方がないのよ、いくら申し上げたつても』
『おやなぜでございます』
奥様はじれつたさうに、火箸もて、雁首をほじりたまひながら、
『なぜツてね、別に躰した訳もないんだがね、旦那様があれの親にお世話、いゑ何ね、世話になんぞおなりあそばしやあしないんだけれど、同じ国でお
『へー、あんな人にでも親がございますか』
『ホホホホ
『へー、でもあなたついしか、親の事なんぞ、申した事がございませんもの。もつとも私達に話すなんて、そんな優しい人じやございませんけれど』
『そりやあその筈さ、あつてないやうなものだから』
『へー、じやああんな人ですから、親だつても、寄せ付けないんでございますか』
『何ね、さうじやないんだよ、父親は監獄に這入つてるんだもの』
『おやおやおや、奥様、じやあ盗人の子でございますの。まあ驚きましたねえ。道理で』
と、三は呆るる事

『奥様つまらない事を致しましたねえ私の銭入も、全くあの人に、取られたのでございますねえ』
『え、銭入ツて何』
『はいこないだ失くなしました』
『ふむむむ、いつか通りで買つて来たつて、見せたのかえ』
『へい、それにはしたを少々ばかし、入れておいたのでございますが、それがさつぱりこないだから、知れないんでございますもの』
『だつてお前、それはこのあいだ
『へい、遺失したんだとあきらめておりますのでございますが、さう承つて見ますると、少し変でございますよ。どうもあなた、遺失した覚えがございませんのですもの』
この三いつも遺失したものを、心に覚えてすると見へたり。奥様もやうやく釣り込まれたまひ。
『さうそりやあ何ともいへないよ。まあよく考へて御覧、まさかとは思ふんだけれど、いよいよとなれば調べなければならないから。何しろあれの親も、盗人じやあないが、お金を遣ひ込んで這入つたんだといふからね』
折しも
その三
それよりは一郎三との衝突日に烈しきを、あはれ調停の任に当りたまふべき奥方の。何事ぞいつも三の神輿をかつぎ出されたまひ、三が肩には奥様の、光明輝く悲しさに。一郎は毎度泣寐入の、夜毎の夢にも、かの陰口のみは忘れかね。己れやれよくもこの一郎を、盗み根性ありとまで評せしよな。他事はともあれこれのみはと、半夜の衾を蹴つて起き出る、力は山を抜くべきも、ぬきさしならぬ食客の身の悲しさは、理非を旦那どのの前に争はむ力の抜けて。おのれ馬鹿女め、今に見よと、両の拳には、一心に青雲を握り詰むれど、これとて雲を
その四
飯田町何丁目の、通りを除けし格子造り、表は三間奥行も、これに
折から来かかる一人の男、
『おや中井さんお出でかえ、さあずつとお上り』
と
『へい奥様、お嬢様』
と中井はどこまでも、うやうやしく挨拶して。
『いやどうも厳しいお暑さでございます、せつせつと
と言ひ訳して、ぱたぱたと袖口より風を入れ、厭味たつぷりの絹
『これでさつぱり致しました。しかしお邸はたいへんお風通しが宜しいやうで』
と、事新しくそこら見廻すを、年増は軽くホホと受けて。
『中井さんお邸なんて、そんな事はよしておくれ。真実に今の躰裁では赤面するからね。これでも住居には違ひないんだけれど』
『いやごもつともでござります』
と、ここほろりとなりしといふ見得にて、わざと声の調子を沈ませ。
『実に浮世でござりますな。これでもと申しては、失礼でございますが、私どもにとりましては、結構な住居でございますが、さう思召すも、御無理ではございません。あつは世が世でいらつしやいましたならば』
といふに年増は
『もうもう、そんな時代な
『ヘヘヘヘこれは
と
『実はその少し耳よりなお話で伺つたのでございますがやはりおちは歌舞伎座と申す訳。ヘヘヘ失礼ながら奥様お嬢様には、まだどちらへも御縁はお極りあそばしませぬか』
こなたも耳よりなる話に、年増もぐつと乗出して、思ひ出したやうに手を叩き、氷と、そして何かお肴をと急に小女にいひ付くるも、現金なる主人振なり。中井はしめたと腰据えて。
『実はその何でございます。名前は少し申し上げかねますが、さる新華族様の若殿が』
『ふむむむむむ』
と冒頭第一、気受けよき様子に、中井はいよいよ乗地になり
『実はその若殿様と申すは、御養子様なんでいらつしやいますが。その奥方のお姫様と申すが、まだ十五のおぼこ気ばかりではなく。一躰にちと訳のある御
としきりに妾といふを気にする様子を、年増は別に心に留めず。
『いいじやあないか、お妾だつて。それならまるで奥様同様だわね。それで何かえ、お手当はどういふんだえ』
『へいそれはもう、どうでもお話がつきませうでございます。華族様の若殿様でいらつしやる上、二三年前外国へ御修業にお出になつて、私共には分りませんが、何だか片仮名で有難さうな、お肩書が付いてゐるんでございますから、ただ今は御自分様で、お小遣金は御充分に、お取りになつてをりまするところへ、親御様から表向きの、お手当はあらうと申す訳でございますから、失礼ながらお二人や、お三人口位は、楽々とお過ぎになる位の事は、充分に出まする見込でげす。どうせあなたそれでなくちやあ、埋まらない話でございますからヘヘヘヘいやまたどうにもその辺は私が』
と存外
『そりやあいい話だね。まあ一ツお
と、一口飲みて中井へさし、それよりは二人にて、さしつ抑えつ飲みながらの密議、互ひにしばしばうなづき合ひ。
『じやあその返事次第、歌舞伎座へ
『それは万々承知の、助六は堀越が一世一代、その狂言の当りよりも、こちの揚巻さまが大当り、やんやといはせて見せまする』
『ホホホホ、お前の承知も久しいもんだ。いつかの写真が、やうやく今日御用に立つたといふ訳だから』
『これはきついお小言、ありやうは奥様と申すに、あまりどつとした口はないもので』
『それはいふだけお前が野暮だよ。旦那のお顔に対しても、こちらからはどこまでも、生真面目に出掛けらあね』
『いやこれは重々恐れいつたいは、こんな事にひけとらぬ中井才助、今日といふ今日、始めて一ツの学問を』
『ホホホホ馬鹿におしでない。そんな事はどうでもよいから、そこをどうぞ
『もちろん仰せにや及ぶべきでげす。じや奥様これでお暇乞を、明日は早朝に先方へ参りまして、茶屋と日限を取極めました上、いづれ重ねて御挨拶を。随分重くろしいのが、気に入る方でございますから、当日はお嬢様極彩色でお出掛を』
と、無礼の詞も慾故には、許す
その五
そもこの男を誰とかなすと、この人の出端だけは、堅くるしく、書かねばならぬ大村一郎。ついでながらその身の上のあらましを記すべし。
一郎が父耕作といふは、かつても彼がいひし通り、宮城にては、隠れなき旧家の大地主。その分をだに守りなば、多額納税の、数にも入るべき身上なりしに、小才覚ありて素封家には、似合はしからぬ気力ありしが、その身の禍、明治も廿、廿一の、政海の高潮四海に漲りて、大同団結の大風呂敷、ふわりと志士を包みし中に、捲き込まれての馴れぬ船出、乗合とてはいづれを見ても、某々の有力家、その来往を新聞に、特書せらるるほどの国士ながら、金力には欠乏を感ずる饑虎の羊となりて、耕作が前にはやつちややつちや、下へは置かぬ

さればさしづめおあかの方は、一郎が母となりし訳なれど、稚きより剛気の一郎、なかなかこれを母と呼ぶを
おあかはその間に万事己が意に任せて、したきほどの栄耀し尽くし、一郎が事は少しも搆はねど。一郎が妹とくといふは、女の子だけに己れに手なづけ、
その六
おつかさんとはいひたからぬ、おあかの顔に瞳を据え。
『一体今の奴は、何といふ奴です。失敬極まるじやないですか、徳を妾になんて』
といふは我への面当と、おあかはわざと冷やかに。
『いいじやないか何だつても。お前あれを知らないかえ』
『何知るものですか、あんな奴ツ』
『ホホホホまたお株が始まつたよ。あれはね、ほら芝に居た頃、始終出入りしてゐた袋物屋さ』
『袋物ツて何です。どふせ正当の商売じやないでしやう』
『困るねえ、袋物は袋物さ。せいとの商売か、先生の商売か、そんな事は知らないが、何しろお父様もよく御存じの人だよ』
『···············』
『さういつちや気に入らないかしらないが、あれだけはよく感心に尋ねてくれるよ。外の者は随分御贔負になつた者でも、見向きもしないんだけれど』
『それがいけないです。
『何、為になんぞなるものかね、今の躰裁だもの。人をツ、私だつてそれ位の事は知つてるよ。まんざら人のおもちやにやあならないからね』
一郎はしばし無言、やにはに談話一歩を進め。
『それで何ですか、いよいよ徳を妾にお遣りなさるんですか』
『ああ仕方がないからね。さうでもしなけりやお前。二人の口が干上ツてしまわうじやないか』
『これやあ恠しからん。なぜそんなら妻に遣らないのです』
『ホホホホお前も未だ了簡が若いね。そりやその筈さ、自分では
『そりやあります、先さへ好まなければ』
『さうさ、大きにさうさ、それでもよくまあ感心に、先さへ好まなけりやあといふ事を、知つてお出だね。それならば話すがね、なるほどお前のおいひの通り、巡査か、小学校の先生位のところなら、これでも御の字で貰つてくれやうがね。それではお前
弱身につけ入る強面、憎しと思へど母といふ、名には叶はぬ痩腕の、油汗を握り詰め
『そ、それは無理です、私は未だ修業中の身躰です』
『それ御覧、それならお前も無理じやないか。修業中なら修業中のやうに、なぜ私にお任せでない』
『そ、それは任せます、もとより任せてゐるのです。だが徳は私の妹です、お父様の娘です。それがどうして、妾になんぞ遣れるもんですか』
『これは面白い、聞きませう。ではお前何かえ、私に耻をかかすんだね。かくべき耻なら、かきもしませう。なるほど私は妾上り、芸者もしたに相違ない。だが今では大村耕作の、家内で通るこの身躰を、見ン事お前はお徳の母でないといひますかえ。さあ聞きどころ聞きませう』
と詰寄する権幕の、売詞には買詞
『もとよりさうです、母でない、この一郎は最初から』
『母と思はぬこの家へ、なぜおめおめとお帰りだ』
『もちろん出ます、直ぐ出るんです』
と畳を蹴立つる一郎の、出たれば結句厄払ひと、落着き払ふ母の顔、
『むむ徳、貴様も己れと一所に来い』
『あら兄さん嫌ですよ。そんなに怒るもんじやあないわ。早くお母さんにおあやまりなさいな』
『馬鹿ツ、貴様も己れの妹じやないか』
『だから兄さんもここにいらつしやいツてば』
『馬鹿ツこれが分らないか、大馬鹿の、無神経めツ』
『むしだつてしやうがないわ。兄さんなんぞについて行つたら、どこへ連れて行かれるか、知れやしないわ』
『なんだと。では貴様妾に遣られても、搆わんか』
『仕方がなけりやあなりますわ』
『うぬ、父上の顔汚しツ』
怒りに任せて蹴り仆すを、待ちかねておあかのさし出。
『さあさあもつと蹴つておくれ。お徳を蹴るのは私へ面当、さあさあたんと蹴られませう』
その七
紅塵万丈の都門の中にも、武蔵野の俤のこる四ツ谷練兵場、兵隊屋敷をずつと離れて、権田原に近き草叢の中に、
『ああつまらない、実に残念だ。世間は広く人間は多きも、恐らく至る所に逆遇を蒙る、僕の如き者も珍しいだらう。
『大村、たいさう早いね。どこへ行つたんだ』
これも同じ兵子帯連ながら、大きに工面よき方と見へて。新しき紺飛白の単衣裾短かに、十重二十重に巻付けしかの白
『うむ、君か』
と大村が力なき返辞を恠しみて。
『どうしたんだ。つまらむ顔をしてるじやないか』
『むむ』
『どこか悪いか』
『むむ』
『またうむか、よせよせうなるなあ。どうしたんだ一躰』
『どうもしない、歩行とる』
『ハハハハ君、君やあどうかしてるぜ。気を注けなきあいかんぞ』
『なぜ』
『なぜツて君、その顔色はどうだ。まるで草の中から這出したやうだぜ』
『うむツ』
と大村は少し驚き。
『ど、どうして君はそれを知つとる』
『知る筈じやあないか、今現に見とるんだから』
『うツ、見たつて、己れが出るところをかい』
『ハハハハ馬鹿、そんな屁理屈をいふもんじやない。形容詞だ』
『さうか、さうならさうといへばよいに』
やや安心の躰なりしが、なほも心の咎めてや。
『君、真に形容詞か』
『知れた事さ』
兵子帯は、無造作にいひ放ちしが、いかにも不気味といふ風にて。
『真実に君どうかしてゐるよ。どこまで行く、僕が送つてやらう』
しきりに注目しながら連れ立つを、大村は迷惑がり。
『小田君先へ行くよ、急ぐから』
『急ぐなら僕も急ぐさ。その方が勝手だ』
ともども早足に歩みながら、なほも友情禁じ難くや。
『君真実に顔色が悪いよ。いつそ僕の
『う、国野ツて、国野為也か。あれは黄石公とはゆくまいか』
『君何をいつてるんだ。国野だよ、知つとるだらう、開明党の』
『知つとるさ。だから聞くんだ』
『聞くまでもないじやないか。本職の代言も
『さうさ、だから確かめたいんだ、どういふ人物かを』
『うむさうか、それなら分つとる。そりやあ非常な人傑さね。世間では破壊党と誤解されとるが、どうして僕等に対しては、まるで君子だ、驚くべき謙徳家だ。実に書生を愛するよ。だから誰でも身命を
と小田はわざわざ袖口を引張つて見せ。
『先生がこないだ時計を質に遣つて買つてくれたんだ。十人の書生に
『いや変つた』
『どう変つた。少しはよくなつたか』
『なあに、出ツちまつたんだ』
『そりやあゑらい。そしてどこに居る』
『どこにも居ない』
『どこにもツて君、寐起きする処が、あらうじやないか』
『ない』
『ふざけたまふな、喰仆しに行きあしないよ』
『そ、さういふ事をいふからいかん。僕がそんな卑劣な男かい。じやあいはう、
『むむ、さうか、それで分つた。だから僕が草の中から、這出したといつたに、ギツクリしたんだな』
『うむ』
『ハハハハこれは大笑ひ、実に一奇談だ。それでやうやく安心した。実はね君があんまり、とんちんかんな挨拶ばかりするもんだから、僕は少々心配してたんだが、それならばいい、もう大丈夫だ。そして君これから行く処があるのかい』
『いやそれはまだ極まらんのだ』
『さうかひ。それじやあやつぱり、僕と一所に、先生の許へ来ないか、神田だ。僕も実のところ昨日青山の
『どうだかなあ、君買被つとるんじやないか』
『どうして。何しろまあ来てみるがいい』
話しながら行く程に、二人の足はいつしか学習院の前を過ぎ、四ツ谷見附にさしかかるに。老幹拮掘たるお濠端の松が枝、曙光を受けて青緑掬すべく、さながら我を歓迎するかの趣あるにぞ。大村はここに濛々の境を脱し、微かながらも快哉を叫ぶを、小田はおもむろに顧みて。
『どうだ君、四ツ谷見附がさしづめ

その八
世に奥様なき家ほど、不取締なるものはあるまじ。一廉のお邸の、障子は破れ、敷台には十文以上の足の跡、縦横無尽に砂もて
さあれ一応二応の、敗れには屈せぬ一郎、なほも数年の鉄案を、確かむる大敵ござんなれと。冷えし
それよりは一郎、人の平和に暇の出来、一意専念法律の、書冊にのみ親しみて、己が前途にのみ急ぐを。同門の書生といふよりは、壮士輩の嘲りて、
『おい大村、また書物と首ツ引かひ。よせよせそんな馬鹿な真似は。今からゑんやらやつと漕付けたところで何だい。仕入の弁護士か、志願して、判事に登用されたところで、奏任の最下級じやないか。先生の幕下に属しながら、そんな小さな胆玉でどうなるか。せめて政談演説の、下稽古でもやつてみろい。舌三寸で天下を、動かす事が出来るんだ。僕なんぞは書物といつたら、いつから見ないか知れやしない。それでも政党内閣の代になつて、先生が外務大臣にでもなりや、僕はさしづめ英仏の、公使位には登用されるんだ、その内にやあまたたびたび交迭があつて、いつかは内閣の椅子も、譲られうといふもんだ。君もせつかく書物が好きなら、せめて国際法でも調べておいて、秘書官位にや遣つて貰ふやうにするがいい。ハハハハ』
と面搆へだけは先生に譲らぬ、虎髯撫で下ろして冷笑するは。この家に古参の壮士の都督殿なり。
小田はさすが忠実に、
『君実に悪い事はいはなひから、少しは周囲の、光景といふ事に気を注けてくれたまへ。先生がかうたくさんに書生を置いとくのは、何も門下から学者を出さうといふつもりではない。いはば緩急の用に応ずる、壮士を準備しておくといふも、一ツの目的なんだから、君間には撃剣でもやつてみたまへ。それぢやあまるでいつも君が痛罵しとつた、
とこれは重きを、未来の警部にでも置けるらし。皮肉家の一人さし出て。
『君等は大村の人物を、誤解しとるから、そんな失敬な事をいふんだ。大村の厳父は政論壇上に立ちながら、ことさらに国事犯閥を避けて、平民的常事犯をもて問はるるの所為を選んだ人傑ではないか。してみると今この令息が、先生の下風に立つて、功名の前途を取るを
と、どつと笑ふもこの日頃。為也の別て、一郎が気骨を愛し、古参を超えて任用の、一ツは秘蔵の愛嬢が、教科書の復読をさへに、これに托したるを妬めば、得意につけ、失意につけ、さても至るところ冷笑の多き世や。
その九
従前の一郎ならば、かかる事にも眼に角立てべきなれど、今は為也が無言の徳に化せられ、鋒芒を収めたる一郎。よし笑はば笑へ罵れば罵れよ。我には我のせむやうありと。なほも
先生は例の、淡泊なる調子にて。
『どうだ。なかなかよく勉強してゐるやうだね。つい始終
人も人、言も言。一郎は覚えず熱涙一滴。
『はい達者で居るやうでござります』
『さうか、それは結構だ。選挙の際には、随分卑劣の手段が行はれるからね』
先生は何をか、憶ひ出て感慨一番したまひし後。
『それで何か、君は何をやるつもりなんだ』
『はい、いろいろな妄想も起こつて参りますが、ともかく父を引受けねばならぬ身躰でござりますから。第一着に弁護士で地歩を固め、その以上の事は、後に決定致したい考へです』
『なるほどそれも宜しい。空論空産では仕方がないからね。しかし君の志望は、別にあるといふ事は知つとるから。順序を追つて、充分に遣るが宜しい。出来るだけの保護は必ず与へるから』
対話はこれに過ぎざりしも、言々急所を刺したればか。一郎はこの一二言に、百万の味方を得たるよりも心強く。さてこそ我を知る人は、この先生の外にはあらじ。我はこの知遇に対しても、将来必ず為すところあらざるべからずと、深くも心に刻み込みぬ。
その十
それよりいくばくの月と日は、一郎が境遇にも変化を与へず。心裡も平和に過ぎ去りしに。俄然政海の、光景は一変して、頼みきつたる民党の、かれもこれも猟官沙汰。前車の覆轍、後車なる、開明党の殷鑑とはならで、因果はめぐる小車を、我も己れもと轢らせつ。人の失意を我が得意、出世の門に急ぐなる、その失躰は前車といづれ。誰も鴉の雌雄は知らねど、鷺を鴉と争はれぬ、暗き心根世に知れて、絶えぬ噂はこれ一ツ。駿馬の骨のそれならぬ、国士の果てはさても重宝。死しても皮を留むなる、獣の皮は幾十倍、
さあれ風声鶴涙に驚きて、先生の清操を疑ふは、知遇に
『じやあいつ辞令を下させてもいいね』
『さうさ。だが四五日は待つてくれ。少し都合があるから』
聞き耳立てし一郎の、俄に立止まりしその気配に、中止となせし話し声。誰だと先生の声かけたまふに、決然として大村と答へ。踵を返して書生部屋に、この大疑問の、解釈を試みんとする一刹那。またも一郎が机の上に、一郎を驚殺するの一封書は載せられゐぬ。
『何ツ、父上は御病死とや。獄内にツ、ちゑー残念ツ』
その一書を握りたるまま、押入より蒲団引きずり出し。頭より打
その翌々日満都の新聞紙上欄外に、二号活字もて数行の殺伐文字は掲げられぬ。
昨夜九時頃、||において、朝野渡氏を、車上に要撃したるものあり。電光一閃氏が頭上に加はりしも早速の働き、短銃 を連発せしにより。曲者はその目的を達し得ずたちまちに踪跡を晦 したり。車夫の言によれば、壮士躰の男にて、面貌頗る、国野為也氏方の書生、大村某といへるものに彷彿たりと。なほ後報を竢つて記すべし。
国野先生は、この新聞を手にして、呆然自失したまふところへ。令嬢の梅子殿、顔色かえて入り来り。『お父様、大村の事が新聞に出てゐるさうでございますね。昨日の朝、あれがでまする時、私にこの一封を渡しまして。二三日の内私の事が新聞に出ました時、これを先生にあげて下さい。それまでは決して
と、差し出すに、さてはとうなづきて
かつて聞く、士に貴ぶところのものは気節なり、気節なきは士にあらず。今や時勢滔々奢侈に流れ、人心華美を衒 ふ。ここにおいてか天下の士、気節の貴ぶべきを遺 れて、黄金光暉の下に拝趨す。それ黄金は士気を麻痺するの劇薬、名節を変換するの熔爐なり。今の士相率きひて、媚を権門に納 れ、
を要路に通ずるは、その求むるところ功名聞達 よりも、むしろ先づ黄金を得んと欲するの心急なればなり。その境遇や憐れむべし。その志操や卑しむべし。しかるに天下一人の、これが頽 を挽回するの策を講ずるなし、かへつてこの気運を煽動し、人才登用を名として、為に門戸を啓き、名望あるの士を迎へて啗 はしむるに黄金をもつてし、籠絡して自家の藩籬に入れ、もつて使嗾に供せんと欲す。ああ銅臭、否鉱毒の感染するところ、士の高節清操を糜爛せしむ。あに慨歎に堪ゆべけむや。いはんやその弊害の及ぶところ、ひいて世運の進歩を妨げ、国威の拡張を障 ふる事、決して浅少にあらざるをや、速やかに眼前に横たはるの蠧賊 を除き、士風の萎靡を振ひ、社会の昏夢を警醒せんと欲し、斬奸 の策を決行す。伏して惟 るに先生の盛徳実にこれ国士無双、謙譲もつて人を服し、勤倹もつて衆を率きゆ。加ふるに経世の略、稜々の節、今の時に当つて先生を外にして、はた誰にか竢つあらむ。しかもなほかつその隙を覗ひ、名望高節を傷つけむと試むるものあるにあらずや。
今や国家実に多事、内治に外交に、英雄の大手腕を要するもの、什 佰 にして足らず。しかも出処進退その機宜一髪を誤らば、かの薄志弱行の徒と、その軌を一にし、その笑ひを後世に貽 さんのみ。あに寸行隻言も、慎重厳戒せざるべけんや。すべからく持長守久の策を運 し、力 めて、人心を収攬せよ。人心の帰する所、天命の向ふ所には、大機自から投ずべし。その大機に会し、大経綸を行ひ、大抱負を伸べて、根本的革進を企図するも、未だ遅しとなさざるにあらずや。黄口の児敢 て吻喙 を容 るるの要なきを知る、知つてなほかつこれをいふ、これ深く天下の為に竢つところあればなり。
顧 ふに生や師恩に私淑し、負ふところのものはなはだ多し。しかるに軽挙暴動、妄 りに薫陶の深きに負 むく。その罪実に軽しとせず。しかれども生がこの過激蛮野の行為を辞せず、一身の汚名を堵 して、微衷を吐露し、あへて一言を薦むるものは、いささか深厚の知遇に酬 ゆるに外ならず。冀 くはこれを諒せよ。門下生某泣血頓首。
覚束なき筆の跡ながら、一郎を知る、先生の眼には自から生気あり。撫然として長歎独語、
今や国家実に多事、内治に外交に、英雄の大手腕を要するもの、
『ああ惜しい、青年を
その余響かあらぬか、朝野策士は、重ねて国野氏を訪はず。されば国野氏が邸内の光景は、旧によつて旧の如くなるも。流言蜚語は、未だ全く跡を絶たず。その進退は今もなほ、世間疑問の一問題たり。
されど一郎は疾くその筋の手に捕はれて、その黯澹たる半世の歴史は、謀殺未遂犯てふ罪名の下に、葬られ
外に二三
『ほんとに思つたよりも、恐ろしい男だつたよ。永く置いといたら、私達だつて、どんな目に逢つたか知れやあしない』とこれのみは七十五日の後までも繰返されしを、鎌倉河岸と、飯田町の辺に、聞きしといひしものありし。(『世界之日本』一八九七年七月)