帷子姿の半身
トントントントントントン······トン。
表戸を続けて打つ者がある。
「それまた例のお武家様だ······誰か行って
こう忠蔵は云いながらズラリと仲間を見廻したが俺が開けようというものはない。
トントントントンとそう云っている間も
「小六、お前開けてやんな」
職人
「チェッ」と忠蔵は舌打ちをしたが、「由さんお前お
「へ、どうぞあなたから」||由蔵はこう云うと舌を出したが、にわかにブルッと
「松公、お前立つ気はないか?」
「どうぞお年役にお前さんから······私はどうも戸を開けるのが昔から不得手でございましてね」
「つまらない事云わねえものだ。戸を開けるに得手も不得手もねえ。みんな厭なら仕方がねえ」忠蔵はひょいと立ち上がったがどこか腰の辺が
「おい
こう云ったのは忠蔵自身がやはり恐い証拠でもあろう。それでも足音を忍ばせてそっと表戸へ近寄ると
とたんにトントンと叩かれたのでハッと一足退いたが、連れて閂がガチリと外れ、その音にまたギョッとしながら忠蔵は店へ飛び上がった。と、潜戸がスーと開いて、まず痩せこけた蒼白い手が指先ばかりチラリと見え、それから古ぼけた
顔は胸まで
ほとんどどこにも生気がない。
老武士は顔を埋ずめたまま店先までスーと寄って来たが余韻のない
「
「へーい」
と忠蔵は応じたが何がなしに総身ゾッとして、
「小中黒の
「············」今度は忠蔵は言葉もなく云われた矢を取って差し出した。と老武士は小手を振ったがこれは
その翌日のことである||
「ほんとかな? それは? その噂は? ふうむ、不思議な老人じゃの······」
「ほんとも本当、
こう云って忠蔵は居住いを正し、真っ昼間ながら
「それで
「で何かな、その老人は、どこから来るのか解らぬのかな?」
「へい、それがあなた解るくらいなら······」
「そうさな、恐ろしくもないわけだな······でそれでは今日まで後を
「そんな事、かりにも出来ますようなら家内一同夜になるとああまでしょげ返りは致しませぬので······」
本所の七不思議
主馬はちょっと
「忠蔵、安心するがよいわ。それがし今夜朋輩と参って曲者の正体見現わしてくりょうに」
「どうぞお願い致します」忠蔵は喜んで頭を下げた。
「弓の方は期日までに頼んだぞ」
「それはもう承知でございます」
「
「よろしくお願い致します」
主馬はそのまま立ち去って行ったがはたして夜になると、朋輩二人を連れ、弓師左衛門の家へやって来た。
左衛門夫婦も挨拶に出て雑談に時を費したがいつもの時刻に近付くと
夜はしんしんと更けて来た。何となく物凄く思われるかして主馬を初め集まっている者は、次第に言葉数が少くなった。とその時表戸をトントントントンと叩く音がする。ハッと皆は眼を見合わせむっと一時に
それでもさすがは武士だけに主馬は
「
「ヘーイ」
と忠蔵は顫えながら云った。
「小中黒の征矢三筋······」
「ヘーイ」
と忠蔵はまた応じた。
くるりと老武士は
「方々」と主馬は声をかけた。どうやらその声には生気がない。それでも自身真っ先に立って同じ潜戸から戸外へ出た。首うな垂れた老武士は星月夜の道をスースーと三間ばかり
ものの半町も行った頃、その老武士は右へ曲がった。で三人も右へ曲がった。右へ曲がってまた半町老武士はスースーと歩いたが、そこでピタリと足を止めた。と門の開く音がして左側の家並の一所からふと人声が聞こえたかと思うと老武士の姿は見えなくなった。
「············」
三人は黙って顔見合わせた。それから静かに足を運び老武士の姿の消えた辺まで用心しながら近付いた。
道場構えの一宇の屋敷がそこに広々と立っている。
「どうも不思議だ」とまず主馬が朋輩の一人へ話しかけた。「たしかここには柏屋という染め物店があった筈だのに······」
「さようさ、全く不思議だの」話しかけられた主馬の朋友の南条紋太郎が
「さては狐狸にでもつままれたかの」||もう一人の朋輩荒木内記は呻くような声でこう云った。
「全体どうも本所という土地が
「馬鹿を云わっしゃい、臆病千万」
と主馬は一口に打ち消したが、その実やはり心のうちではそいつを考えていたのであった。
「主馬殿、ともかくも帰った方が泰平無事ではござらぬかの」||紋太郎は小声で誘って見た。
「君子
「とは云えこのまま帰っては弓師左衛門や忠蔵へ対してちと面目がござらぬではないか」主馬は
静寂を破る弦音
「や、門が開きましたな」
「これはこれは不用心至極」
三人の者は事の意外に
「門が開いたを幸いに案内を乞い
主馬はこう云って二人を見た。
「よかろう。案内を乞うことにしよう」こう紋太郎はすぐ応じた。内記は少からず躊躇したがそれでもやがて決心して二人の朋輩の後を追った。
三人は玄関の前まで来た。
「頼む」と主馬が声を掛けたが誰も返辞をする者がない。家内は
「深夜まことに恐縮ながら是非にご面会致したければどなたかご案内くだされい」
再び主馬は声を掛けたがやはり家内からは返辞がない。人のいない空屋のようで陰々として物凄い。三人はにわかに気味悪くなった。
とたんに、ヒェーッと絹を裂くような鋭い掛け声が奥の方から
主馬が真っ先に逃げ出したのはよくよく驚いたのに相違ない。三人往来へ走り出るとホッと額の汗を拭った。
「我ら日置流の射法を学びここに十年を経申すがこれほど凄じい弓勢にはかつて逢ったことございませぬ」
「全く恐ろしい呼吸でござったのう」
「妖怪でござるよ。妖怪でござるよ」
三人が口々にこう云ったのは不思議な屋敷の門前から五町あまりも逃げのびた時で、三人の胸は早鐘のように尚この時も
翌日三人は打ち揃って改めてその屋敷まで行って見たが、そこにはそんな屋敷はなくて柏屋という染め物店が格子造りに紺の
この弓屋敷の不思議の噂は間もなく江戸中に拡がった。本所七不思議はさらに一つ「弓屋敷の矢声」の怪を加えて本所八不思議と云われるようになった。弓道自慢の幾人かの武士は自分こそ妖怪の本性をあばいて名を当世に揚げようと屋敷の玄関までやっては来たが、大概一矢で追い返されよほど剛胆な人間でも二筋の矢の放されるを聞いては、その掛け声その矢走りの世にも鋭く凄いのに
「ごめん」
とある日一人の男が柏屋の店を訪ずれた。年の頃は二十五、六、田舎者まる出しの
「へい、染め物でございますかね」
柏屋の手代はこう云いながら、季節は七月の夏だというに
「いんね、そうじゃごぜえません。噂で聞けばお
「ああさようでございますか。それはどうも大変ご親切に」手代はおかしさを
「失礼ながらご身分は?」
「信州木曽の
「え、
「ああ
「へいさようでございますか。どうぞしばらくお待ちくだすって」
手代は奥へ飛んで行ったが引き違いに出て来たのは柏屋の主人の弥右衛門という老人であった。
弥右衛門は多右衛門の様子を見て思う事でもあると見えて丁寧に奥へ案内した。幽霊の噂が立って以来実際柏屋染め物店は一時に寂れてしまったので、たといどのような人間であろうと、その化物を見現わしてくれて、
まず茶菓を出し酒肴を出し色々多右衛門をもてなした。多右衛門は別に辞退もせずさりとて
「やれやれとんだご馳走になって俺ハアすっかり酔いましただ。どれ晩まで一休み。ごめんなんしょ、ごめんなんしょ」
こういう
暑い夏の日もやがて暮れ、
帛を裂く掛け声
こうして
「あ、お目覚めでございますかな」
じっとそれまで多右衛門の
「ハア、どうやら目がさめ申した。今、
「
「へえもうそんなになりますかな。が、ちょうど時刻はようごわす。どれ用意をしようかな」
多右衛門は持って来た風呂敷包みを不器用の手付きで拡げたが、中には桑の木で作ったらしい手垢でよごれた半弓と
「どっこいしょ」
と掛け声と一緒に彼はヒョロヒョロと立ち上がった。雨戸を開けて中庭の方へそのままスーと消えてしまったのである。
後は
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
こう弥右衛門は
この間も夜は更けて行った。と鳴り出した鐘の音。回向院で撞く鐘でもあろうか。陰々として物寂しい。
とたんに「ヒェーッ」と
「ワッハッハッ」と
その笑い声が途絶えた刹那またも
「ワッハッハッハッまだ駄目駄目!」と、多右衛門の声がまた聞こえた。
「ワッハッハッハッ、まだ駄目じゃ。人間を射ることは出来ようが獣を射ることは出来そうもねえ。お
こういう声が消えたかと思うと、忽ち何物か空を渡る声がグーングーン、グーンと聞こえて来た。矢が
その後は何の音もない。と雨戸が外から開かれ多右衛門がそこからはいって来た。左の手に弓を持ち右の手に巻物を載せニタニタ笑いながら座敷へはいると、遠慮なく
「明晩から幽霊は出ますめえ。よく云い聞かして来ましたからの。いや面白い幽霊でね。
とんと巻物を下へ置いて。その巻物こそ他ならぬ弓道
そして系図には
果然、信州は木曽山中の猟師、姓も
日置弾正を流祖とした日置流弓道は後世に至って、
それにしても、不思議な妖怪沙汰を起こし日置流系図を多右衛門に与え別に一派を立てさせたのはいったい何者であったろう?
それについて多右衛門はこんなことを云った。
「今こそ染め物店にはなっているが戦国時代にはあの辺に大きな館があったのだ。日置弾正様のお館がな。||で、亡魂が残っておられ、日置流の