舞台の言葉、即ち「劇的文体」は、
普通「対話」と呼ばれる形式は、文芸の
これは、「自然な会話」と何も関係はない。この「自然な会話」が、「劇的対話」と混同されたところに、写実劇の大きな病根がある。
「今日は」
「いらつしやい。だれかと思つたらあなたですか」
「よく雨が降りますな」
「ほんとによく降りますな」
「みなさんお変りありませんか」
「はい、有りがたうございます、お蔭さまでみんなぴんぴんしてゐます。ところで、お宅の方は如何です。さうさう、奥さんがどこかお悪いとかで······」
「なあに、大したことはないんですよ。医者は脚気だと云ふんですが、何しろ、あの気性ですから、少しいいと、すぐ不養生をしましてね」
「それは御心配ですな。どうも脚気といふやつは······」
かういふ種類の白は、一時、いやでも、おほ方の脚本中に発見する白である。こんな月並なことをくどくどと喋舌られてゐては、聞いてゐるものがたまらない。
「自然な会話」必ずしも、上乗な「劇的対話」でないことはこの通りであるが、その中に何も劇的事件がないからだ、内容がないからだと云ふかもしれない。
それも
「今日は」
「おや、こいつはお珍らしい」
「降りますね、よく」
「どうかしてますね」
「みなさん、お変りは······」
「ええ別に······。ところで、奥さんがどつかお悪いつていふぢやありませんか」
「なあに、大したことはないんです。脚気だと云ふんですが、何しろ、あの気性でせう、無理をするんです、少しいいと」
「無理をね······。脚気か······こいつ」
前と同じ場面、同じ人物である。云つてゐることも違はない。文句を少し変へただけである。
それだけで、既に多少「月並」でなくなつてゐると思ふ。会話が生きてゐる。より「劇的対話」になつてゐる。舞台の言葉になつてゐる。この二つの面の優劣は、さほど格段の差に於て示されてゐないことは勿論であるが、少しでもそれが認められれば、それでいい。
この相違は、優劣はどこから来るか。前の方は、言葉そのものの
これは単に一例にすぎないが、もつと複雑な心理や、重大な事件を取扱つた場面でも、これに似た表現上の欠陥が、人物の対話を「非舞台的」にしてゐることは事実である。実生活の断片、これほど自然な場面はない筈であるが、同時に多くの場合、これほど非芸術的な場面はないと云つてもいい。殊に現代日本人の生活に於て、この感が
舞台の上の巧みな対話、これは、現実の整理によつて初めて得られるものである。一見、こんな気のきいた対話が、この人物に出来る筈はないと思はれるやうな対話が、舞台上では、あたり前の「日常会話」になり、見物を退屈させないやうな「日常の会話」、それが満足に書けて、初めて劇作家は劇を書くことができるのである。人物にある議論をさせる場合、ある述懐をさせる場合、ある説明をさせる場合、ある哀訴をさせる場合、
今まで、主として、写実的な場面について論じたやうな形になつたが、もともとこの写実といふことが、既に現実の複写ではないのであるから、現実整理の筆を更に現実修正の域に押し進めることは、作者の趣味、才能によつて如何なる程度までも許さるべきである。現実修正は更に現実変形、現実拡大、現実様式化に押し進めることもできる訳である。ただその根柢に、その核心に、飽くまでも実人生の姿が潜められてゐなければならないことは、文芸の本質から云つて当然なことである。これはもう、「表現」以前の問題である。制作過程の出発点である。従来わが国に紹介せられた外国劇が、日本現代劇を本質的に発達させ得なかつた理由として、その翻訳が単に劇の思想
ここでその翻訳の例を挙げることは容易であるが、自分の経験から云つても、
それから私は、チエホフ、ストリンドベリイ、ゴオルキイなどを仏訳で読み始めた。悲しいかな、仏訳とても既に翻訳である以上、原作の妙味はどれだけ失はれてゐるかわからない。さう思ふと、露西亜語もやりたくなる。スカンヂナヴィヤの言葉も覚えたくなる。私にはそれだけの根気はなかつたが、兎に角、日本語に訳された欧羅巴の戯曲は、同じ訳語でも、欧羅巴の一国語に翻訳されたものに比べて見ると、雲泥の差がその間に、また在ることを発見して驚いた次第である。私はイプセン及びストリンドベリイの仏訳だけは、世界的に名訳と認められてゐることを知つたので、まあ、安心ができると思つた。殊にイプセンの翻訳者ブロゾオル伯は
更に自分の恥さらしをすれば、仏蘭西の戯曲ならば、原作が読めると思つて、いろいろ読み漁つたものを、これはここが面白い、あれはあそこが面白いと独りぎめをして悦んでゐた五六年前は、今から考へると、全く戯曲の文体といふものについては盲目であつた。例へば、ポルト・リシュのものなどを読んで、なるほどこれは恐ろしい心理解剖家だ、鋭いものだ、細かいものだ、さう思つて頭を下げてゐた。ところがその後、巴里で暫らく暮して見て、日常の会話にいろいろな疑問が起つたり、あんな言葉をあんな場合に使ふのかといふことを知つたり、あの文句をああいふ風に云ふのかといふことを覚えたり、ああいふ人間が、ああいふ手真似をするんだなといふことを気づいたりしてゐるうちに、ポルト・リシュをもう一度読み直して見てびつくりした。やれやれ、白を云ふ人物の姿、顔、表情、身振、手真似が
私は、
外国の戯曲は、一体どの程度まで翻訳によつて、その魅力を失はずにすむか、かう考へたならば、翻訳者の責任は、それが戯曲であるために、殊に重大さを増すわけである。私は戯曲だけは、少くとも戯曲を書き得るものの手によつて翻訳せらるべきだと思ふ。それでさへ、十分とは云へない。翻訳者の語学力は、例へ小説は訳し得ても、戯曲は待つて呉れと云ひたいのが普通である。
くどいやうであるが、この問題についてもう少し述べておかう。今、ある戯曲が二通り翻訳されてあるとする。どちらも意味から云へば正確であり、文章も読みづらくなく、日本語として、別に不都合のないやうなものだとする。
Tu as raison.
お前の考へは正しい。
お前の言ふことは尤 もだ。
お前の云ふ通りさ。
お説御尤も。
それはさうだ。
それはさうだね。
それもさうだ。
さうだつたね。
いや、まつたくだ。
それを云ふのさ。
それや、さうさ。
さうともさ。
さう、その通り。
さうだとも。
さう、さう。
それ、それ。
それさ。
なるほどね。
なるほど、さうだつた。
そいつはいい。
うまいことを云ふぞ。
それがいいや。
それに限る。
それにしよう。
それもよからう。
さうしよう。
その方がいい。
さう云へば、さうだ。
ほんとにさうだ。
それや、まあ、さうさ。
ほんとだ。
それが、ほんとなんだ。
お前は話せる。
ほんとにさ。
お前の話はよくわかる。
そいつは、尤もな話だ。
それがあたり前さ。
違ひない。
おほきに。
一寸思ひつくだけでこの通り(対手との関係を問題外としても)前後の関係で、はつきり、どれを選ぶべきか、自らきまるのであるが、どつちでも意味は取れるし、間違ひでもない。が、その場合はどつちでなければ面白くないといふのがある筈である。これ原文のわかり方によるものである。もつと適切に云へば、原文の調子、味がわかつてゐなければならないのである。お前の言ふことは
お前の云ふ通りさ。
お説御尤も。
それはさうだ。
それはさうだね。
それもさうだ。
さうだつたね。
いや、まつたくだ。
それを云ふのさ。
それや、さうさ。
さうともさ。
さう、その通り。
さうだとも。
さう、さう。
それ、それ。
それさ。
なるほどね。
なるほど、さうだつた。
そいつはいい。
うまいことを云ふぞ。
それがいいや。
それに限る。
それにしよう。
それもよからう。
さうしよう。
その方がいい。
さう云へば、さうだ。
ほんとにさうだ。
それや、まあ、さうさ。
ほんとだ。
それが、ほんとなんだ。
お前は話せる。
ほんとにさ。
お前の話はよくわかる。
そいつは、尤もな話だ。
それがあたり前さ。
違ひない。
おほきに。
この上に誤訳といふやつが必ずある。仏蘭西語で、一寸間違はれ易い例を挙げてみても、こんなのがある。
「あなたはほんとにいつまでもお若いですね」
「
「年のせゐだね、どうも近頃、足が利かなくなつたよ」
「まさか、それほどでもなからう」||これを「あんまり遠くへ行くからさ」
「どうか僕にかまはないで······」
「ぢや、一寸、行つて来ら」||それを「ぢや、さよなら」
この調子で全篇を訳されてはたまらないが、少しづつの食ひ違ひが、どれほど原文の妙味を傷つけてゐるか、それをまた読者なり、演出者なり、見物なりが知らずにゐるか。さうして、外国劇は面白いとか面白くないとか、わかつたやうなことを云つてゐるが、それを考へると、全くやりきれない。
さて、こんなことを云ひ出したのは、何も今更翻訳の
重ねて云ふ、外国の戯曲からはまだ学ぶべきものが多々ある。それは、翻訳を通しては殆ど味はれない「味」である。そして、日本の現代劇に、この「味」が足らないのは、翻訳劇、殊に、最も乱暴な翻訳劇の罪半分と、西洋劇を直接原文で読み得る当今の若い劇作家が、まだ、その西洋劇のもつ「味」||これは各作者の持ち味でもなく、また西洋各国の文学の特色でもなく、更に所謂、西洋劇独特の色彩、西洋人特有の感情、そんなものを指すのでもなく、真に優れた戯曲が、常にそれによつて魅力を放つところの、「語られる言葉の幻象が、われわれ人間の魂に触れる彼の韻律的効果」に外ならない||その「味」を自国語によつて表はし得ずにゐる、その罪半分であると云ひ得よう。