公爵 伊藤博文
個人としての伊藤侯と大隈伯
伊藤侯と大隈伯とは當代の二大政治家なり、隨て其人物に對する批評の紛々たるは亦此侯と此伯を以て最も多しとす。是れ其の個人としての性格未だ明かならざるに由る。故に之を觀察して甲乙性格の異同を對照するは實に多少の趣味なからんや。
概していへば、伊藤侯と大隈伯とは互ひに相似たる所之れなきに非ず。才を愛し士を好むは相似たり




大隈伯の思想は經驗より結撰し來る







伊藤侯は公卿華族の如く、大隈伯は大名華族の如し





伊藤侯の辭令は滑脱婉麗にして些の圭角なし、以て夜會の酬接に用ゆ可く





才を愛し士を好むに於て、伊藤侯と大隈伯とは共に他の元勳諸公に過ぐ















大隈伯の特質として最も著明なるは、精神常に活動して老て益々壯んなるに在り








伊藤侯の特質として最も著明なるは、風流韻事自ら高しとするに在り







伊藤侯の銅臭なくして艶聞ある、大隈伯の艶聞なくして銅臭ある、世之れを稱して好個の一對と爲す










伊藤侯は信仰を有せず












個人としての伊藤侯と大隈伯とは夫れ斯の如し




伊藤侯の現在未來
藩閥控制
嚮に伊藤侯が、自ら骸骨を乞ふて大隈板垣兩伯を奏薦し、以て内閣開放の英斷を行ふや、藩閥家は侯を目して不忠不義の臣と爲し、極力其擧動を詬罵するに反して、侯の政敵は寧ろ侯の英斷を賞揚し、或は侯を以て英國の名相ロペルトピールに比するものあり









舊勢力とは何ぞや、藩閥是れなり












夫れ藩閥は三十年間我政界の主動力たり









侯は明治十四年、大隈伯と相約して、十六年を以て國會開設の議を奏請せむとしたりき






第二伊藤内閣組織せらるゝや、侯は竊かに故陸奧伯の手を通じて自由黨と提携するの端を啓き、日清戰爭の後に至て終に公然提携の實を擧げ、板垣伯に内務大臣の椅子を與へて、一種の聯立内閣を形成したりき











未定數
伊藤侯は既に藩閥を打破して舊勢力と全く分離せり










凡そ今日の所謂る政黨なるものは、主義政綱に依りて進退するに在らずして、唯だ利害に依て分合するものたるに過ぎず











伊藤侯は黨首の器なるや
伊藤侯が頃ろ政黨改造の意見を發表して、既成政黨の弊害を矯正せんとするや、侯の機關紙たる『日々新聞』は、侯の目的、模範政黨を作るに在りと暗示し、憲政黨の機關紙たる『人民新聞』は、侯の位地を論じて、憲政黨に入るの侯の志に合ふ可きを諷告したり



然れども憲政黨及び其他の伊藤崇拜者が、果して能く伊藤侯の人物を領解したるや否や











余は伊藤侯が當今第一流の政治家として、其智見判斷固より一頭地を地平線上より抽むずる者あるを認識す。されど侯は政黨の首領として、國民を指導するの適才なりや否やと問はゞ、余は容易に之れを首肯する能はず


侯はビスマークの大膽雄略なく、又メツテルニヒの隱險佞惡なしと雖も、其專制主義を喜び、宮廷的攻略に長ずるに至ては、侯は稍此二人に類似したる所あり。顧ふに侯が近來政黨に接近したるは明白なる事實なり

































されど政治家は道徳家に非ず



伊藤侯は大隈伯の如く未來の問題を語ること少なく、其語るや大抵過去帳の展讀のみ


之を要するに、伊藤侯は政治家としては當今第一流の人物なれども、黨首としては大隈伯の對手に非ず




立憲政友會の創立及び其創立者
(一)新組織の政黨
立憲政友會の創立は、確かに政治上の一進歩なり。少くとも近かき未來に於ける局面展開の動力たる可きは、何人も疑はざる所なり。但だ其の組織の果して健全なる發達を遂げ、其實力形貌共に果して能く完全なる政黨たるを得可きや否やは、是れ固より前途に横はれる未解の設題たるのみ。余は敢て之が解釋を今日に試みむといふには非ず。
立憲政友會の創立者を見るに、資望朝野の間に高き伊藤侯以下或は曾て臺閣に列したる人あり、或は前日まで一黨の領袖たりし人あり、或は敏腕の名ある舊官吏あり、或は地方の豪紳あり、其の他間接直接に立憲政友會の創立に與かりたるものは、孰れも所謂當代の名士にして、其自ら揚言する所を聞けば、遖ぱれ憲政の完成を期するを以て任と爲し、私利を謀らず、獵官を願はざる忠誠明識の政治家なるものゝ如し。余豈其の醇駁を判じ、清濁を斷ずといはむや。
且つ政友會の總裁たる伊藤侯は、久しく既成政黨の弊害を憂へ、屡々公私の集會に臨みて之れが矯正の必要を唱へたるを見るに於て、其の今囘自ら起て立憲政友會を組織したるもの、蓋し亦平生の理想を行はむと欲するに外ならじ。余は此の點に於て深く侯の志を諒とし、唯熱心に侯の成功を祷ると共に侯の幕下に集まれる諸君子が、始終善く侯の指導に服從し、以て國家の爲めに侯の志を成さしめむことを望むや極めて切なり。有體にいへば、余は不幸にして侯の人物及び經綸に深厚なる同情を表する能はず。されど其の六十有二の高齡に達して、意氣未だ毫も衰へず、自ら政友會を發起して、政治的新生涯の人たるを期す。其の頭腦精神の強健なる、亦一代の豪といふ可し。
余は侯が政友會を發起したるを以て政治的新生涯に入るといふは何ぞや。侯が藩閥の範疇を脱して國民的政治家と爲るの序幕は、疑ひもなく政友會の組織なればなり。侯は曾て超然主義の政治家なりき。今や侯は其の宿見を抛棄して自ら政黨を組織せり。是れ侯の歴史に一大段落を作りしものに非ずや。唯だ侯が淡泊に舊自由黨に入らずして、別に自家の單意に依りて政友會を發起したるは、稍々狹隘自重に過ぎたるの嫌あれども、是れ寧ろ侯の老獪のみ。
曩に舊自由黨總務委員が伊藤侯を大磯に訪ふて、侯に入黨を勸め、以て全黨指導の位地に立たむことを請ふや、侯は更に熟考の必要ありと稱して即諾を與ふるに躊躇したりき。余を以て其の心事を推すに、第一歴史あり情實ある既成政黨に入るときは、勢ひ自家の自由手腕を拘束せられて、十分其の意見を行ふこと能はざる恐れあり。第二舊自由黨には政敵多く、特に侯の政友は侯と倶に舊自由黨に入るを好まざりし事情あり。第三舊自由黨は、當時局面展開を唱へて山縣内閣と提携を絶ち、隨つて事實上山縣内閣に反對する態度を執りしを以て、若し伊藤侯にして此の際舊自由黨に入りて之れを指導するに至らば、是れ恰も政權爭奪の野心を表示するに同じく、山縣内閣の手前、甚だ面白ろからず。第四舊自由黨たとひ侯を首領として忠實なる服從を誓ふも、他の爲に迎立せられたる首領は、何時其の廢黜する所と爲るを知る可からず。苟も一たび侯の指導行はれざる場合と爲れば、侯は板垣伯と同一運命に遭遇するか、然らざれば自ら脱黨の擧に出でざる可からず。主權自由黨に存すればなり。第五舊自由黨の政綱主義及び組織は、總べて侯の理想と合致せず。之れを改造せむとすれば、其の全部を破壞せざる可からず。寧ろ新政黨を創立するの便宜なるに如かむや。是れ侯が舊自由黨に入るを避けて、別に立憲政友會を發起したる所以なり。
侯が新政黨を組織するに付ては、頗る經營慘憺の苦心を費やし、之れに着手するの前、先づ藩閥元老の承認を求むるの手段を執りたり。井上伯は政治上の主義に於てよりも、寧ろ私交上の關係に於て伊藤侯の政黨組織に同情を表し、以て一種の任侠的援助を侯に與へたりと雖も、他の藩閥元老は、中心實に侯の政黨組織を喜ばざりしに拘らず、猶ほ強て之れを表面より妨害したるものなかりしが如し。葢し藩閥元老の意氣漸く衰へて、復た自ら今後の難局に當らむとするの抱負あるものなく、而して現に内閣の首相たる山縣侯の如きも、最近二年間の經驗に依りて、到底政黨の勢力を無視する能はざるの趨勢を認識したれば、たとひ憲法上の解釋に於て多少伊藤侯と見を異にするものあるも、敢て成敗を賭して自家の所信を徹底せむとするの勇氣ありとも見えず。是れ終に伊藤侯の政黨組織を承認せざるを得ざる所以なり。侯は又舊自由黨の熱心なる主張を排し、故らに黨名を採らずして會名を用ゐたるは、識者より見れば、殆ど兒戯に類すと雖も、是れ一は黨と稱すれば自由黨の變名なるが如き嫌あると、一は全く既成政黨の組織を踏襲するを欲せざる爲なる可し、其の宣言及綱領を發表するに侯の單名を以てして、何人をも之れに加へざるは、是れ侯の最も意を用ゐたる所にして、其の理由は次の二點に歸着すべし。曰く立憲政友會は伊藤侯の創立したるものなれば、其の存廢を決するは伊藤侯の自由意思にして、何人も之れを掣肘するを得可からず。曰く宣言及び綱領は侯の單意に成りたるものなれば、之れを修正變更するは侯の獨裁たる可く、隨つて立憲政友會に入るものは徹頭徹尾侯に盲從し、何人も侯に容喙するを許さゞる是れなり。此の推測の正當なるは、政友會發會式の日に發表したる會則を一讀せば更に明白なり。其の會則に據れば、總務委員幹事長以下の選任より、大會、議員總會等の召集まで、一切總裁の權能に屬すること、恰も文武百官の任命乃至議院の召集解散等、總て君主の大權に屬するが如し。而して其の總裁の就任に關して何等の規定なきを以て、立憲政友會の總裁は固より一般政黨の推選首領と其の性質を異にせり。要するに總裁は立憲政友會の主體にして、其の機關には非ず。換言せば伊藤侯の立憲政友會に總裁たるは、猶ほ專制國に君臨せる元首の如く、其の權能は絶對にして無限なり、一般の政黨首領は、亦黨の一機關たるに過ぎざるを以て、先づ政黨ありて而る後に首領あれども、獨り立憲政友會に在ては、總裁は即ち立憲政友會にして、立憲政友會ありて而る後に總裁あるに非ず。報知記者伊藤侯を評して、日本政黨界のルイ十四世といひたるもの誠に當れり。
自由黨は立憲政友會に合同すと稱して解黨したり。既に合同といへば立憲政友會は對等なる位地に於て自由黨を迎へざる可からず。而も立憲政友會の組織は、個人の加入を許すと雖も、對等なる團體の合同を許さず。則ち舊自由黨が自ら合同と稱すと雖も、立憲政友會に於ては、唯だ舊自由黨員たりし各個人の加入を認むるのみ。顧ふに政友會の最大多數は舊自由黨員たるを見るに於いて、事實上政友會の大幹部は隨つて舊自由黨たる可きは無論なり。されど伊藤侯の意思は即ち政友會の意思にして、舊自由黨は之れに柔順なる服從を表するの外、何等の意思もなき勢力もなきものなりと認めざる可からず。伊藤侯が單名を以て政友會を組織するに付て用意の周到なる實に斯の如きものあり。
(二)宣言及綱領
伊藤侯の發表したる宣言の大要は、既成政黨の言動を論じて、或は憲法の原則と相扞挌するの病に陷りたりと爲し、或は國務を以て黨派の私に殉ずるの弊を致すと爲し、或は宇内の大勢に對する維新の宏謨と相容れざるの陋を形したりと爲せり。是れ舊自由黨の言動に就て特に戒飭したる意もある可く、將た他の黨派に對して非難を加へたる點もある可し。舊自由黨が之れを以て毫も自由黨に渉らずと辯じ、百方牽強附會の辭を費やしたる報告を配布したるは、唯だ滑稽の極といはむのみ。宣言の内容は三段に分つ可し。其の一は閣臣任免の本義を説き、其の二は政黨の國家に對する關係を説き、其の三は政黨の規律を説けり。閣臣任免の本義に付ては曰く、抑も閣臣の任免は憲法上の大權に屬し、其簡拔擇用、或は政黨員よりし、或は黨外の士を以てす、皆元首の自由意思に存す。而して其の已に擧げられて輔弼の職に就き、献替の事を行ふや、黨員政友と雖も、決して外より之れに容喙するを得ずと。是れ純意義に於ける政黨内閣を否定して、
其の政黨と國家との關係を説ては曰く、凡そ政黨の國家に對するや、其の全力を擧げ、一意公に奉ずるを以て任とせざる可からず。凡そ行政を刷新して以て國運の隆興に伴はしめむとせば、一定の資格を設け、黨の内外を問ふことなく、博く適當の學識經驗を備ふる人才を收めざる可からず。黨員たるの故を以て地位を與ふるに能否を論ぜざる如きは斷じて戒めざる可からず。地方若くは團體利害の問題に至りては、亦一に公益を以て準と爲し、緩急を按じて之れが施設を決せざる可からず。或は郷黨の情實に泥み、或は當業の請託を受け、與ふるに黨援を以てするが如きは斷じて不可なりと。其の意專ら獵官收賄の行動を排斥するに存し、舊自由黨の如き最も中心忸怩たらざる可からず。而も其の總務委員の陳辯を見るに、反つて過を蔽ひ非を飾りて侯の訓戒を無視せむとするは又何の醜ぞ。其の官吏任用に對しては、資格限定の程度と方法は別問題なりと設辭して、尚ほ獵官の餘地を後日に留め其の收賄行動に對しては、此等弊竇は我黨の深く戒規したる所にして、今更之を一洗するの必要を感ぜず。之を以て暗に我黨を指すの言とするに至りては、己れを卑うして自ら疑ふの嫌あるを免かれずといひ、以て毫も自ら反省囘悟するの赤心を示さゞるは、伊藤侯亦恐らくは其の厚顏に驚きたる可きを信ぜむとす。最後に政黨の規律を説て曰く、政黨にして國民の指導たらむと欲せば、先づ自ら戒飭して紀律を明にし其の秩序を整へ、專ら奉公の誠を以て事に從はざる可からずと。是れ既成政黨の無紀律不秩序を咎め、此れより生じたる黨弊を革むるを趣旨としたるに在り。余は伊藤侯が主として此の趣意を實行せむことを望まざるを得ず。
綱領や約九個條にして、宣言の註脚といふ可く、其の外交に關しては、文明の政以て遠人を倚安せしめ法治國の名實を全からしめむことを努む可しといひ、其國防に關しては常に國力の發達と相伴行して、國權國利を充全ならしめむことを望むといひ、其の學政に關しては國民の品性を陶冶し、公私各々國家に對する負擔を分つに耐ゆるの懿徳良能を發達せしめ、以て國礎を牢くせむことを希ふといひ、其の實業に關しては、農商百工を奬め、航海貿易を盛にし、交通の利便を増し、國家をして經濟上生存の基礎を鞏からしめむことを欲すといふの事項稍々政綱らしきを見るのみ。而も是れ何人も異存なかる可き
(三)創立の參謀
政友會の創立に與かれる參謀としては、先づ舊自由黨總務委員を以て重もなる人物と爲さざる可からず。されど伊藤侯の計畫は、勉めて各種の人物と各階級の代表者を網羅するに在り故に投票權の多少よりいへば、舊自由黨最も多數の創立委員を出だす可き筈なれども、十二人の創立委員中舊自由黨より擧げたるものは僅に四名の總務委員にして、其の餘は總べて舊自由黨以外の人物を指名したりき。
此等の創立委員中最も新らしき印象を世人に與へたる人物は、男爵本多政以氏と爲す。彼れは前田家の舊大老にして、維新前は五萬石を領したる加賀の名族なり。其の公人生涯に入りしは、今囘の政友會創立に與かれるを以て始めと爲すが故に、其の人物經歴共に未だ多く人に知られずと雖も、傳ふる所に依れば、彼は從來實業に從事して嘗て政治運動に關係したることなく、唯だ其の名望の高きと、其の風采の酷だ近衞公に肖たるものあるを以て、加賀の近衞公と稱せられたりといふ。彼れが伊藤侯の勸誘に應じて政友會に入り、以て不慣れなる政治劇の舞臺に立つに至りしは、唯だ伊藤侯其人に傾倒せるが爲めなりと聞く。伊藤侯が先年加賀地方を遊説したるに際し、彼れは初めて伊藤侯の謦咳に接すると同時に、遽かに侯の崇拜家と爲りたるものゝ如し。彼れ政友會に入るに臨み、極めて正直に、有りのまゝに、自己の心事を人に語りて曰く、我家の資産は、祖先が政治上に於て獲得したるものなり。乃ち之れを政治上に於て蕩盡するも亦憾みなしと。奇男子なるかな。
都筑馨六氏が政友會の創立委員たるも亦一異色たるを見る。何となれば、彼れは最も黨人を忌み、政黨を嫌ひ、政治上に於ては極端の保守主義を持するを以て、曾て屬僚中の頑冥派なりとの目ありたればなり。憲政黨内閣の成るや、彼れは大隈伯を訪ふて憲法上の論端を開き、帝國の憲法と政黨内閣とは決して兩立す可からざる所以を切論して、大隈伯の持論を打破せむと試みたるほどの熱心なる非政黨内閣論者なり。彼れ又曾て人に語りて曰く、大隈伯は其品性識量共に立派なる政治家なり。唯だ其の周圍を叢擁する者は、大抵無頼野性の黨人にして、伯の徳を累はすものたらざるなし。伯が此等の黨人を相手として國事を謀るの意甚だ解す可からずと。其の黨人を視るや殆ど蛇蝎の如し。今や政友會には最惡最劣の黨人頗る多くして、清流の士皆

西園寺公望侯、渡邊國武子、金子堅太郎男の三氏に至ては、是れ純然たる伊藤侯の門下生なれば、則ち侯と進退趨舍を倶にするは亦怪む可きなし。大岡育造氏は、曾て國民協會を自由黨に合同せしめて、伊藤侯を其の首領たらしめんと試みたる策士にして、侯の今囘發起せる政友會の創立委員たるは、其の最も滿足とし、榮譽とする所たるは無論なる可し。渡邊洪基氏は一たび伊藤侯の四天王の一人なりと稱せられたる人なり。其志を政界に得ざるや、乃ち身を實業社會に投じて久しく政治的野心を抑損し、隨つて侯と彼れとの關係は次第に杳遠と爲りつゝありしと雖も、侯の政友會を組織するに及び、成る可く多く舊政友を糾合するの必要あると、渡邊氏と實業社會との間には多少の連絡あるを以て、彼を通じて實業家を招徠するの必要あるとに依りて、殆ど相忘れむとしたる一門下生に復舊を求めて、之を政友會創立委員の一人に指名したりき。長谷場純孝氏の創立委員に加へられたるは、彼れが薩派を代表するが爲めにして、彼に取ては寧ろ望外の榮譽なる可し。彼れは思想に於ても、感情に於ても、若くは其の人格に於ても決して伊藤侯に容れらる可き點を有せず。其の容れられたるは、是れ侯が彼れの代表權に重きを置きたる證なればなり。
(四)歸化したる敵將
伊藤侯は勉めて各種の要素を收容せむと欲し、敵黨の人物と雖も來るものは之を拒まざるの概を示したり。此を以て新を喜び舊を厭ふの輕佻者流、若くは侯の資望勢力に依りて萬一の倖進を冀ふものは、爭ふて政友會に赴きたり。獨り進歩黨の領袖として、操守堅固の壯年政治家として議院の内外に高名なりし尾崎行雄氏が十數年以來利害苦樂を共にせる政友に別れて、一人の知己を有せざる政友會に投じたる行動の如きは、一個未了の疑問として政界に存在せり。されど余を以て之れを觀れば、彼れの行動は極めて單純なる目的に出でたるに外ならじ。有體にいへば、大隈伯よりも伊藤侯を以て自家の榮達を謀るに便宜なりと信じ、進歩黨よりも政友會を以て多望の未來を有すと認めたればなり。固より其の觀察と判斷とは、種々の方面と複雜なる材料を基礎としたるを疑はずと雖も、其の出發點の功名心にして、其の歸着點の榮達に在る可きは、何人も疑ふものある可からず。其の進退條件が政見の異同に關せざるは、彼れが曾つて進歩黨に對して何等の提言なかりしを以ても之れを知る可きのみならず、彼れが終始其の心事を秘密にして、一政友にすら眞實を語りたることなしいふを聞ても、其の如何なる動機に依りて進退したりしかを察するに足る。
凡功名心に富める政治家は、往々榮達の爲に主義政見を一擲するの例少からず。英國現内閣の殖民大臣チヤムバーレーンは、初め急進黨として、愛蘭自治論主張者として、チヤーレス、ヂルクの最親なる政友として、愛蘭黨首領パーネルの熱心なる辯護者として議會に立てり。然るにグラツドストンの自治案一たび出るや、彼れは遽かに之れに反對して終に保守黨と提携したり。其の表面の辭柄は大英國の統一を維持すといふに在れども、其の豹變の倏忽なるは、今尚ほ嚴酷なる批評家の冷笑を免がるゝ能はず。頃日米國の雜誌『アウトルツク』に掲載せるヂヤスチン、マツカーシー氏のチヤムバーレーン論を讀むに、其のチヤムバーレーンの自治案に反對したる當時の事情を説て頗る詳悉なり。其中にいへるあり、曰く愛蘭尚書ウイリアム、フオスターの辭職するや、其の後任としてチヤーレス、ヂルクを推薦する者あり、而もヂルクは内閣に座次を有せざれば、到底愛蘭に於ける自治政略を内閣に行はしむる能はずと稱して之れを謝絶したり。此に於てかチヤムバーレーンを以て之れに擬するものあり、彼れ亦竊に其の位置を希望し、且つ之れを得むが爲に、あらゆる手段を盡くしたり。彼れ以爲らく、我れは當然愛蘭尚書に推薦せらる可し、我れ能く其の任務を全うするの準備ありと。而して彼れは愛蘭の
(五)交渉の失敗
政友會が各種の要素を收容せむとして、諸ろの方面に交渉したる畫策は大抵失敗に終れり。最も與し易しと爲したる貴族院研究會すら、宣言及綱領には贊成なれども研究會の會則は會員をして他の團體に加はるを禁ぜりとの口實に依りて入會を拒絶し、初めより伊藤侯の屬望したる實業家の如きも、東京大阪に於ける高級分子は、亦皆入會を避けて其の藥籠中の物とならず。而して其來り投ずるものは、大抵政治を以て營利の目的を達せむとする政商か、若くは中流以下の地方實業家のみ。侯の失望亦以て察すべし。
元來侯が實業家を收容せむとするの畫策は、既に選擧法改正案提出の時に成り、而して其の改正案を成立せしむるが爲めには、或は當局者として之れを議院に論じ、或は自ら貴族院の議席に就て之れを論じ、或は地方を遊説して其の所見を發表し、以て市の獨立、市民の投票權擴張を主張したるは、蓋し亦實業家を味方として政界に立たむとするの後圖に非るはなかりき。此の點に付て井上伯は深く侯の苦衷を諒とし、侯が政友會を發起するや、竊に親近なる都下の實業家に内意を傳へて有樂會の會合を催ふさしめたり。伯は自ら此會席に列して政友會の代辯人と爲りたりき。而して其の勸告の切偲を盡くしたるに拘らず、雨宮一派の相場師を除くの外、多數の實業家は孰れも申し合せたる如く、其の入會を辭謝したりき。蓋し彼等は必ずしも政治と實業との關係密切なる所以を解せざるに非ずと雖も、日本の政黨界には尚ほ多くの缺點あり。特に黨爭の結果個人的取引及び個人的交際までも其の餘累を及ぼすの弊害あるを見るに於て、未だ政友會の進行を檢するに及ばずして、輕ろ/″\しく之に入會するは、思慮ある實業家の爲さざる所なり。且つ入會勸告者たる井上伯は、自身先づ政友會に入りて而る後他人の入會を勸告す可き筈なるに、現に政友會の名簿中には伯の記名なくして、反つて他人の之れに記名せむことを望むは、頗る蟲の善き話なり。天下豈斯くの如き勝手氣儘の事ある可けんや。
* * * * * * *
之れを要するに、立憲政友會は、資望當世に比なき伊藤侯の發起に係れると、其の朝野に亙りて比較的多數の政友を有すると、其の主要の目的實に既成政黨の陋弊を刷新するに在るとに依りて、頗る一時の人心に投ずるものありと雖も、其の團體の大幹部は、最も腐敗を極めたる舊自由黨たるを見るに於て、其の果して能く伊藤侯の理想を實行するを得可きや否やは、暫らく政治的設題として之れを後日の解答者に待たむのみ。(三十三年十月)
第四次の伊藤内閣
(上)伊藤侯と憲政
幸運なる伊藤侯は、政治上最も多望なる時代に於て第四次内閣を組織せり。顧ふに侯の出づるや、常に時代に歡迎せらる。而も其の末路は、常に失敗に終る。知らず、第四次内閣の進行は如何。是れ實に、政治家たる伊藤侯の死活問題なり。若し能く國民の冀望を滿足せしむるの施設あらむか、既徃幾多の失敗は、之を償ふて餘りあるのみならず、侯は明治年間第一流の政治家として、永く歴史上の大人物たるを得可し。若し之れに反して萬一失敗せむか、侯は到底虚名の政治家たるを免がる可からず。
薩長元勳にして内閣總理大臣たりしものは、侯を外にして故黒田伯あり、松方伯あり、山縣侯あり。されど黒田伯は唯だ一囘内閣を組織したるのみにて、而も極めて短命なる内閣なりき。松方伯と山縣侯とは、内閣を組織したること前後各二囘なりしも、之れを伊藤侯に比すれば、共に人氣ある總理大臣たるを得ざりき。伊藤侯の内閣を組織するや、最初は常に天下に歡迎せられて、最後は常に國民を失望せしむ。侯が明治十八年自ら總理大臣と爲りて第一次の内閣を組織するや、始めて政綱を發表し、官制を改革し、文官任用令を設け、天下をして齊しく其の風采を想望せしめたりき。而も其の辭令の立派なる割合には實際に成功したる事績甚だ少かりしのみならず、繁文縟禮の弊反つて此間に生じたり。加ふるに浮泛なる歐化政略は、内治外交の兩面に救ふ可からざる壞膿を生じて、遂に内閣の瓦解を見るに至りき。第二次内閣は、選擧干渉に失敗したる松方内閣の後に組織せられ、山縣、黒田、井上、大山、仁禮の薩長元老も相携へて入閣したれば、世間之れを稱して元勳内閣といひたりき。侯は意氣軒昂我れ能く政黨の外に超然として議會を操縱するを得可しと信じたるに拘らず、議會は寧ろ侯の行動を非立憲的と爲して、荐りに不信任動議を提出したりき。一たびは和衷協同の勅諭を奏請したりき。二たびは議會の解散を斷行したりき。而も議會は容易に武裝を解くを肯んぜずして依然内閣の攻撃を事としたりき。此にて侯は超然主義の到底保持す可からざるを自覺し、自由黨と提携して内閣組織に多少の變更を加へたりと雖も、其の姑息※[#「糸+彌」、15-下-6]縫の政策手段は、漸く内閣の統一を破りて内部より崩壞したりき。
第三次の内閣組織に際しては、侯は初め之を大隈板垣兩伯に謀りて、所謂る三角同盟を作らむと試みたりき。其の行はれざるに及で、一切政黨との交渉を避けて超然内閣を組織したりしは、其の無謀固より論ずるに足らず。是れ半歳ならずして内閣總辭職の止む可からざりし所以なり。されど侯は此の失敗に依りて其の政治思想に一大發展を爲したり。乃ち今日政友會を組織して自ら政黨の首領と爲り、其黨員を率ゐて此に第四次内閣を組織したるは、是れ安んぞ超然主義の失敗に原本せざるなきを知らむや。侯は大隈伯に比すれば、獨自一己の識見に缺くる所あり。大隈伯は明治十四年改進黨を組織してより、飽くまで政黨内閣を主張し、且つ其の主張の早晩實行せらる可き時機あるを確信して、毫も疑はざりしに反して、侯は政黨内閣の運命に對して近年まで半信半疑の間に彷徨したりき。今や侯は政黨内閣を組織して、憲政の完成を以て自ら任とせり。而かも今日は侯の實力を試驗するに最も適當なる時代なるを見るに於て、侯たるもの亦大に奮ふ所なかる可からず。何故に今日を以て侯の實力を試驗するに最も適當なる時代なりといふや。曰く侯にして若し其の理想を新内閣の上に行ふこと能はずして、之れをして見苦るしき失敗を取るが如きことあらしめば、其の結果として畏る可き保守的反動を惹き起すことなきを保す可からざればなり。此の點よりいへば、侯は實に憲政の安危に負ふ所の責任甚だ大なりといふ可し。
惡口に長ずる批評家は、侯を目して觀兵式の大將なりといへり。是れ侯が無事の日に壯言大語すれども、一たび難局に逢へば、心手忽ち萎縮して自己の責任を

顧ふに侯は先づ十分政友會を訓練し、然る後、内閣を組織して其の理想を實行せむと期したるものゝ如し。されど山縣内閣は、侯の成算未だ熟せざるに早くも總辭職の擧に出でたり。侯の狼狽想像するに餘りありと雖も、侯にして苟くも既に自ら起ちたる以上は、唯だ勇往邁進して其の理想を實行するを期す可きのみ。又何ぞ成算の未熟を以て念とすべけんや。
(下)新内閣の人物
伊藤侯の最初の内閣役割案には、政友會以外に於て井上伯及び伊東男の二人を算入したりしは殆ど疑ふ可からず。但し井上伯は老來野心漸く消磨したりといへば、自ら進で閣員たらんとするの目的ありしとは信ずる能はずと雖も、伯は政友會の創立には熱心なる世話人たり、新内閣の出産には老練なる産婆役たりしを以て、更に新内閣の保姆として重要なる一椅子を占むる權利を有したりしは無論なり。而して伊藤侯も亦之れを以て、伯に望みたりしは、既に公然の秘密なり。單に新陳代謝の必要より論ずれば、老骨井上伯の如きは、むしろ新内閣の伍伴たらざるを喜ぶべしと爲す。されど伯にして若し内閣の一員たりしとせむか、其の一種の潛勢力は多少内閣に威重を加へたりしやも知る可からず。伊東男に至ては、其の人品或は議す可きものありと雖も、其行政の才固より當世に得易からず。伊藤侯が彼れを新内閣に羅致せむとして慫慂頗る勉めたるは又當然といはんのみ。况んや彼れは伊藤侯と切て切れざる關係あるに於てをや。
然るに伊東男は、最初より入閣を肯んぜず。井上伯は内閣組織の間際に於て突然失蹤したるは何ぞや。世間傳ふる所に依れば、伊東男は近頃漸く伊藤侯に親まずして反つて山縣侯に接近しつつあり。是れ入閣の勸告を拒絶したる所以なりと。此の説恐らくは揣摩臆測にして眞相を得たるものにはあらじ。余の聞ける所にては、伊藤侯は二三年以來頓に健康に異状を呈し、筋肉の機能次第に衰憊したると共に、神經系統の感應作用は反つて過敏と爲り、隨つて喜怒愛憎の變轉甚だ迅速にして端睨す可からざるものありと。侯の近状果して斯くの如しとせば、其何等かの刺戟に由りて、一時若くは或場合に於て、伊東男と感情上の衝突ありしやも知る可からず。されど此れが爲に侯と伊東男との關係一變したりとは想像し得可くもあらず。而も伊東男の新内閣に入るを避けたるは他なし。一言にしていへば、侯は政友會の創立に付ても、將た新内閣の組織に付ても、多くは伊東男に謀らず、たとひ之を謀るも多くは其の意見を容れずして、反つて伊東男の平生敵視せる他の人士に謀りたるが故に非ずや。蓋し彼れは新内閣を認めて豫後不良の症状ありと爲し、伊藤侯をして早晩之れを自覺せしめて、局外より侯を救ひ出だすの手段を取らむと欲するものゝ如し。唯だ此の推定は、彼と伊藤侯との關係に就て、常識上より觀察したるに出づ。若し彼れに別種の隱謀奇策ありとせば、是れ固より彼れ以外の人の窺ひ知る可き所に非ず。
井上伯の失蹤は、渡邊子の心機一轉と相反襯して一幅の奇觀を表出せり。世間の取沙汰にては、渡邊子自ら新内閣の大藏大臣たらむことを豫期したるに、松方伯は伊藤侯に向て子を大藏大臣の器に非ずと爲し、此の椅子は斷じて子に與ふ可からずと説き、侯の意亦稍々之に動かされて井上伯を大藏大臣たらしめむとするの傾向ありしを以て、子は憤々の情に堪へずして伊藤侯と絶交せむとしたるのみと。而も子が心機一轉の喜劇を演じたる瞬間に於て、井上伯失蹤の一珍事起りしを見れば、渡邊子の心機一轉は、安ぞ井上伯の入閣中止の結果ならざるを知らむや。されど此の際に於ける出來事は一切暗黒より暗黒に移りて方物す可からず。之れを批判するの必要もなく、又批判し得可くもあらずと雖も、獨り渡邊子が心機一轉問題を以て無用の人騷がせを爲したるに拘らず、其の豫期したる大藏大臣の椅子を得たるはめでたし。されど政友會總務委員等は、渡邊子の心機一轉問題に付て物々しく爭ひ騷ぎ、終に報告書を發表して、子の罪過を數へ、子の行動を稱して狂亂といひ、伊藤侯に向て其の處分を強請したるほどなるに、彼等は箇の狂人と内閣に并び立て怪むの色なきは、亦古今無類の一大奇觀なりといふ可し。元來渡邊子は疳癖ありて、往々常軌を逸する行動あり。而も之れを托するに無意義なる禪家の裝姿を以てするが故に、其の一擧手一投足は殆ど常識を以て料る可からざるものあり。政治家としては或は要領を得ずとの評を免れずと雖も、新内閣の大藏大臣としては、子を外にして其の適任者を求む可からざれば、子を狂人視せる政友會總務委員等は、到底子の位置を動かすこと能はじ。
末松謙澄男の内務大臣たるは、最適任といふ能はざれども、又大なる不可もあらず。彼れは内務に多少の經驗と學識とを有し、且つ其の資性も比較上廉潔に近かきものあるを以てなり。特に彼れは伊藤侯の愛婿として殆ど侯と一身同體の個人的關係あるが故に、侯は自由に之れを指揮監督するを得可きは無論なり。則ち末松男を内務大臣たらしめたるは、是れ事實に於て、侯が自ら内務大臣を兼攝したるものと認めて可なり。政友會の一部人士は星亨氏を内務大臣たらしめむと欲して、熱心に運動したるに拘らず、侯が毫も是れに掛意せずして末松男を擧げたる良工の苦心亦想ふ可し。
金子男は心竊に農商務大臣たらしむことを期せり。彼れの實業奬勵策は、何人も甚だ感服せざるものなれども、兎に角一度は農商務大臣たりしこともあり。實業上に關しては、曲りなりにも組織的意見を有せる一個の人才たるを以て、新内閣中彼れの爲めに最好の位置は確かに農商務大臣の椅子なりき。而も侯が彼れに與ふるに司法大臣の閑職を以てしたるは彼れが如何に侯の爲めに輕視せられ居るかを見る可し。松田正久氏の文部大臣たるは世人の均しく意外に感ずる所なる可し。世人は寧ろ尾崎行雄氏か否らずむば西園寺侯を以て文部大臣に擬したりき。西園寺侯は健康未だ恢復せざるの故を以て、自ら新内閣に入るを好まざりしといふの事情はあれども、尾崎氏に至ては然らず。彼れは曾て文部大臣として頗る好評あり、其の人物技倆亦松田氏と同日に語る可らざれば、則ち西園寺侯にして自ら起たざるに於ては、尾崎氏こそ寧ろ新内閣の文部大臣として最好の人物なれ。知らず彼れは内閣大臣を目的として進歩黨を脱したりといはるゝを氣にして、自ら入閣を避けたる乎。將た彼れ自身は入閣を望みたるも、伊藤侯は彼れを閣員に加ふるを好まざりし乎。
星亨氏を遞信大臣たらしめ、林有造氏を農商務大臣たらしめたるは、恰も膏肉を餓虎に與へたる如しとて、國民の頗る寒心する所なり。されど伊藤侯は政黨に於ては首領專制を唱へ、内閣に於ては首相獨裁を主義とするの政治家たり。侯にして果して能く其の主義を實行するの決心あらば、たとひ詐僞師を内閣大臣たらしむるも亦必らず之れをして其詐僞を行ふに由なからしむるを得む。况んや星林の兩氏の如きは、共に材幹手腕ある一廉の人物にして、若し之れを善用すれば、相應の治績を擧げ得可き望みあるに於てをや。唯だ侯が之れを善用するを得るや否やは甚だ世人の危む所たるのみ。
新内閣員として最も注目す可きは、加藤高明氏の外務大臣たること是なり。彼は久しく英國駐在の帝國公使として令名あり。其の外交上の技倆よりいへば、新内閣の外務大臣として何人も故障をいふものある可からず。彼れは啻に外務大臣として適任なるのみならず、内閣大臣たるの人格より見るも、新内閣中實に第一流の地歩を占むるものなり。彼れは名古屋出身たるに拘らず、毫も名古屋人の特色たる纖巧輕※[#「にんべん+鐶のつくり」、18-上-6]の處なく、極めて硬固にして冷靜の頭腦を具へ、決斷に長じ抵抗に強く、言笑亦甚だ不愛嬌なれども、常識豐富にして、其の思想は頗る健全なり。彼を知るものは彼れを稱して英國紳士の典型を得たるものなりといへり。故に彼れの新内閣に在るは、確かに中外に對する重鎭たらむ。余は伊藤侯が彼れを入閣せしめたるを以て内閣組織上の一大成功と爲す。
第四次伊藤内閣は、斯の如くにして組織せられたり。其從來の内閣に比すれば、形式に於ても實質に於ても共に進歩したるものたるは疑ふ可からず。一人の元老を加へずして、悉く後俊を以て組織したるは實質上の進歩なり。陸海軍大臣を除くの外、全然藩閥の分子を一掃したるは形式上の進歩なり。其の閣員の多數政友會より出でたるを以て之れを政黨内閣といふ可なり、其の老骨を排して後俊を網羅したるを以て之れを人才内閣といふ亦可なり。余は此點に於て新内閣の成立を祝するに躊躇せず。若し夫れ實際の施設は、今後の進行如何に由て更に評論せむと欲す。(三十三年十一月)
伊藤侯の現位地
英國の名宰相ロバート、ピールが曾て保護政策を棄てゝ穀物輸入税廢止論に同意するや、保守黨は彼れを罵つて、變節の政治家なりといひ、一般の批評家は亦彼れの行動を稱して矛盾といひたりき。然れども彼れは此の變節に由りて、反つて國家國民の福利を増進したれば、則ちたとひ黨首としては一時の物議を免がれざりしも、政治家としては確かに偉大の成功を奏したりといふべし。佛國のギゾー(有名なる文明史の著者)彼れを論じて曰く、ロバート、ピールは、單純なる理論家にあらず、又た原理原則に拘泥する哲學者にもあらず、彼れは事實を較量するの實際家にして、其の終局の目的は成功に在り。然れども彼れは主義の奴隷たらざると共に、必らずしも主義を輕蔑するものにあらず、彼れは政治的哲學を全能なりとも、若くは無益なりとも信ぜざるがゆゑに、敢て之れを崇拜することなしと雖も、而も之れを尊重せりと。是れ實にピールの人物を正解したる言なり。
顧みて我伊藤侯の出處進退に視る、侯は多くの點に於て亦頗るピールに似たるものあり。侯は黨首としては固より缺點なきの人物にあらずと雖ども、政治家としては、朝野の元老中兎も角も大體に通ずるの士なり。今や侯は桂内閣と政友會とを妥協せしめたるの故を以て、世上の非難攻撃を一身に集中したり。獨り反對黨の盛んに侯を攻撃するのみならず、侯の統率の下に立てる政友會も、亦動搖に次ぐに動搖を以てして自ら安むぜざるものゝ如し。是れ侯を目して政黨に不忠實なりと認めたるが爲なり。唯だ此の見解に依りて、尾崎行雄氏は去れり、片岡健吉氏は去れり、林有造氏は去れり、其餘の不平分子は去れり。彼等は以爲らく、政友會總裁たるものは、唯だ政友會の利害を以て進退の凖とせざる可からず、唯だ政友會の主義綱領を保持する限りに於て會員指導の任に當らざる可からず、然るに侯の爲す所は、黨首たるの責任よりも、寧ろ元老たるの位地に重きを置きて、政府と妥協を私約し、以て專制的に之れを政友會に強ゆるの擧に出でたり、是れ到底忍び得べき所にあらずと。然り、侯は既に自ら公言して、乃公は一身を擧げて政友會に殉ずる能はずといへり、是れ尋常黨首の言ふ能はざる所にして、適々以て侯の侯たる所以の本領を見るなり。
然れども侯は決して他の藩閥者流の如き政黨嫌ひの政治家にあらず、政黨嫌ひの政治家にして焉んぞ自ら政友會を組織することあらむや。唯だ侯は黨首たるには餘りに執着心に乏しくして黨派の主義綱領を輕視するの傾向あるのみ。凡そ主義綱領といふが如きは、黨派あつて始めて現はれたるに過ぎずして、惡るくいへば、源氏の白旗、平家の赤旗といふに異る所なし。赤旗白旗は源平戰爭の標幟には必要なりしも、鎌倉幕府の政治家には、何の必要なかりき。固より立憲國の黨派は公黨にして私黨にあるざるがゆゑに、其の主義綱領は、即ち國家に對する公念の發動にして、黨派の私意にあらざる可し。然れども同一主義の政友會憲政本黨が、故らに對壘相當りて相爭ふは何ぞや、知らず所謂る主義綱領なる者は、黨派に於て何の用を爲しつゝある乎。余は現時の黨派が使用しつゝある主義綱領が、殆ど赤旗白旗と何の選む所なきを惜まざるを得ず。故に若し黨派の利害と國家の利害と兩立せざる場合に於いては、眞の政治家は往々黨派の主義綱領を輕視することあり、ピールの穀法廢止論を採用して變節の名を甘むじたる如き、正さしく其の一例たり。或は政黨は公黨なるがゆゑに、其の利害は國家の利害と衝突せずといはむか、是れ亦黨人の自觀なるのみ。人は言ふ、伊藤侯は黨首の器にあらずと、余も亦爾かく信ぜり、何となれば彼は此の自觀を固執する能はざるの位地に在ればなり。然れども是豈侯の政治家たるに害あらむや。
抑も侯の政友會を組織したるは、實に模範政黨を作らむが爲なり。模範政黨とは、黨派的私情を去り國家的公見に就くの政黨なるべし。侯は此の目的に依りて政友會を指導せむとしたるを以て、其の黨首としての行動は、反つて黨人の意に滿たざるもの多きが如し。有體に評すれば、彼等は、侯が國家元老の一人として政友會に總裁たるを以て、唯だ此の一點のみにても、頗る政友會に利ありと信じたりき。何となれば、元老たるの資望は、單純なる黨首の勢力よりも、より大なる勢力を有すと想像すればなり。されば彼等は、第十七議會に於て桂内閣と衝突するに當り、侯の勢力善く桂内閣を屈服して解散の代りに内閣を交迭せしむるを得べしと豫期したりしならむ。而も解散は來りて交迭は來らざりき、何となれば、桂内閣は彼等の想像するが如き腰の弱き内閣にあらざるのみならず、伊藤侯自身の如きも亦自ら取つて代るの成算なかりしを以てなり。是に於て乎、彼等は大に失望したり。第十八議會開くるや、彼等は竊に謂へらく、今度こそは一擧して内閣を倒すを得むと。而も彼等の御大將は、戰略を講ずる代りに和約を講じ、其の結果は妥協と爲りて發表せられたりき、彼等は豈再び失望せざるを得むや。然れども假りに侯をして妥協の申込を拒絶せしめ、飽くまで桂内閣と戰はしむるとせむ、余は尚ほ彼等が失望より脱する能はざりしを信ず、何となれば、妥協成らずんば復た解散を見るの外なければなり。彼等の侯に期する所は、侯が元老たるの勢力資望を利用して、第一には解散を避け、第二には政友會内閣を組織するに在る可し。中には内閣を交迭せしむるまでは、幾囘の解散をも畏れずと稱する硬派と、交迭にして容易に庶幾し得可からずば、唯だ成る可く解散を避けむことを望むの軟派あるべしと雖ども、多數の會員は、伊藤侯の勢力を過信し、侯にして政友會を指導する限りは、桂内閣は解散を行ふ能はずして總辭職を行ふの運命に遭遇すべしとの夢想を描ける連中なり。伊藤侯の勢力を以てすと雖ども、固より斯の如き都合善き希望を滿足せしむるの魔術を有せざるは無論なり。
然れども侯は大局の利害を打算すると共に、又た出來得る限り善く政友會の利害をも考量したり。侯は桂内閣が猫撫聲を使ふに似ず、案外其の決意の堅固なるをも認識したりき。妥協の申込を素氣なく拒絶せば、其の結果は再解散あるをも疑はざりき。故に侯は會員を諭して曰く、此の上政府と衝突して解散を重ぬるは國家の不利益なりと。其の實、解散は政友會の不利益なれば妥協は一面に於て政友會の爲に謀りたるものといふべし。政友會員たるものは、又何の總裁に慊焉たらざる所ぞ。
夫の脱會諸氏の中には、侯が妥協の爲に反對黨としての立場迄をも全く失はしめたるを稱して、政黨の本分を紊りたると爲すものありと雖も、妥協は政府と議會との衝突を避くるを大趣意としたるがゆゑに、若し形式的に妥協を是認して、他の方法例へば豫算問題の討議に於て側面より政府を苦むるが如き擧に出でむか、妥協の大趣意は全く破れむ、伊藤侯にして斯くの如き馬鹿らしき演劇を承認すべしと謂はむや。但だ侯が黨首として部下を指導するの術を盡さざる所ありしは、何人も亦之れを否定する能はざるを惜むのみ。蓋し妥協の内容に付ては、侯は詳細に常務委員に説明せずして、彼等をして突然現内閣と交渉せしめたり、彼等は總裁が唯だ妥協の端緒を開き置きたるのみにて、其の内容は更に之れを協定するに十分の餘地あるべしと信ぜしならむ。而も一たび現内閣員と交渉するに及び、妥協の内容は、既に政府と伊藤侯との間に協定を經たるを審かにして一驚を喫したりしが如し。是れ殆ど常務委員を死地に陷れたるものに非ずや。其の專制を用ゆる度に過ぎて、會員をして侯の一擧一動を端睨する能はざらしめたるは、決して人心を收攬するの道にはあらず。侯は此點に於て部下の離叛を招ぐに至りたるは、亦止むを得ざるの數なりといふべし。
或は曰く、侯は黨首の責任を忘れて、單に元老たるの位地に於て政府と妥協せり、是れ立憲政治家より藩閥政治家に退却するの態度に非ずやと。黨派政治と立憲政治とを混同する黨人は、動もすれば此の言を爲して侯を議せむとせり。然れども是れ恐らくは侯を誤解するものならむ。蓋し侯は黨派に殉ぜざると同じく、亦藩閥にも殉ぜざるの政治家なり。侯にして藩閥に殉ずるほどの愚人ならば初めより政友會を組織する如き無益の勞苦を爲すの謂れなく、さりとて黨派に殉ずるには、侯の思想は餘りに經世的なり。侯は藩閥を超越すると共に黨派をも超越して、高く自ら地歩を占めたり。是れ侯が黨人に喜ばれざる所ある如くに、又た藩閥者流にも嫌はるゝ所ある原因なり。侯は國家の元老たる身分を自覺するがゆゑに、時としては黨派の側に立ちて藩閥と爭ふことあるべく、時としては藩閥の忠言者と爲りて黨人の疑惑を惹き起すことあるべく、則ち今囘の和協問題の如き其一發現なりといふも可也。要するに侯は近かき將來までは、暫らく政界の大導師として、朝野政治家の過失を矯正するを任務とするの最も適當なるを見る、是れ侯の如き有力なる元老が國家に對する最高の義務なるべし。
若し夫れ政界の革新を號呼して、漫に元老を無用視する黨人輩は、是れ未だ政界の現状を領解せざるものなり。歐洲立憲國には固より我國に存在する元老の如きものなし。然れども我國に於ては、元老は實に一種の政治的勢力なり。政友會は伊藤侯を離れて必らず存立を危くすべく、憲政本黨は大隈伯に依りて僅に其の形體を維持せり。世に新政黨組織を傳ふるものありと雖ども孰れの元老かを奉じて之れを首領と爲すに非ずむば、政黨らしき政黨は容易に生まれざるなり。されば總裁の行動に不平なるが爲に政友會を退會したる諸氏の如きは、今や立場なき沙漠の亡者にして、殆ど其の身を寄するの地なからむとするにあらずや。彼等は孰れも個人として未だ元老に代るの資望を有せざれば、現存政黨以外に新政黨を造るの困難なるは論ずるまでもなく、たとひ之れを組織することありとするも之れが首領たるものは必らず元老の一人たるべし。而して伊藤侯以上の首領を現存元老中より得るの望みなきこと明白なりとせば、彼等は遂に再び政友會に復歸するか、然らずむば憲政本黨に投ずるの外ある可からず。若し二者其の一を選まざれば、地方選擧區に籠城するか、若くは中央政界の批評家たるに過ぎざるべし。此の趨勢を考ふれば、政友會の分裂に依て誘發せらるべき政界の革新は、革新といふよりは寧ろ政界の退歩といはざる可からず。余は伊藤侯が憲政有終の美を爲すの志を諒とし、其の政友會を模範政黨と爲さむとするの精神尚ほ存するものあるを信じ、其の會員の指導訓練に於て更に大に努力あらむことを望むや隨つて切ならざるを得ず。(三十六年七月)
韓國皇帝と伊藤統監
一昨年三月伊藤侯が特別の使命を帶びて韓國に赴き、始めて伏魔殿の主人公たる皇帝に對面したる時、蜜の如き辭令に富みたる皇帝は、侯に望むに永く京城に淹留して啓沃の任に當らむことを以てし、且つ自ら金尺大綬章を賜はりて、侯を尊信するの意を表したりき。其の際侯は此の人格上の一問題たる皇帝を如何に觀たるかを知る能はずと雖ども、兎に角應酬の結果は極めて良好にして、日韓兩國の新關係も、大體に於て侯と皇帝との間に或る默契の成れるを想はしめたりき。
昨年十一月侯が日韓協約締結の大命を啣みて再び韓國に使するや、皇帝は侯の奏陳を聞て頗る驚惑し、次ぐに悲痛の語を以てせり。曰く、韓國は曾て支那の正朔を奉じて其の屬邦たることありしも、未だ外交權を之れに委任したることあらざりき。今卿の提示せる協約は、朕が祖宗五百年の社稷を全く滅亡せしむるものなりと。其の聲惻々として人の腸を斷つに足れり。侯亦豈多少の感動なきを得むや。况むや、參政韓圭咼は歔欷流涕の餘殆ど喪心し、元老趙秉世は阿片を呑で自殺し、前參政閔泳煥は精神逆上して狂死したるを見るをや。然れども皇帝は侯の剴切周到なる説明によりて、協約締結の止む可からざるを了悟し、終に各大臣に命じ、韓國及び皇室の位地面目に利益ある修正を施すを條件として日本の大使と商議せしめたるに、侯は啻に其の修正案の全部を容れたるのみならず、更に皇帝の直接の希望に應じて新たに一條を加へたりき。第五條の日本政府は韓國皇室の安寧と尊嚴を維持するを保證すといふもの是れなり。尋で侯は韓國統監に任ぜられ本年三月を以て京城に駐剳したれば、皇帝は待つに師父の禮を以てし、且つ各大臣に諭して、萬機總て侯の指導に從はしめたり。是に由て之れを見れば、韓國の皇帝は實に無限の信任を侯に寄せたるものゝ如し。
斯くて日本は韓國の保護者となれり。伊藤侯は韓廷の指揮者となれり。統監府は半島政治の中心となれり。侯は何時なりとも皇帝に謁見し得るの特權を有し、又何時なりとも各大臣を統監府に召集して内閣會議を開くの威勢を有せり。侯は命に背くものあれば大臣と雖も、之れが免黜を奏請し得べく、場合に依りては内閣の更迭をも謀るを得べく、兵力をも使用するを得べし。然れども是れと同時に、侯は韓國上下の誤解を招くを恐れて、成る可く急激なる改革を避け、温和漸進の方針を執り、一面に於ては政府の現状を維持して政治的動搖の發生を防ぎ、一面に於ては恩威兼用の施設に依りて信義を八道に光被せしめんとせり。侯は日本の韓國を保護するは之れを亡ぼす所以に非ずして、却つて其の興國の要素を開發せしむる所以なるを韓民に教へむとせり。侯は文明式の行政と、平和の經世術とに依りて韓國の秩序を整調し、韓民の生活状態を一變し、以て韓國の歴史に新性格を賦與せんと企てたり、侯は領土擴張の主義を含める覇道を排斥して、誠心誠意に王道を以て李家の天下を綏むずるに外ならざるを皇帝に領會せしめむと努めたり。約言せば侯の爲す所は韓國の上下をして日韓協約の意義を善意に解釋せしめ、疑はず、惑はず、恐れずして全く日本政府に信頼せしむるを計るに在り。
勿論韓國は事實に於て日本の殖民地なり。然れども侯は日本人をして韓國の利益を壟斷せしむる如き何等の偏頗なる政略を行使せず總ての外國人に對して機會均等主義を適用せり。侯は寧ろ居留日本人の取締を嚴重にすること度に過ぎたりと非難せられたりき。蓋し日本政府の對韓策は、二十年來一貫して始終渝る所なく、常に正義と友誼とを以て、韓國の平和及び文明を發達せしむるに力を致したると共に、又韓國に於ける日本の權利及び利益を保護するを旨としたりき。而も此政策は、韓國に出入する不道徳の日本人に障害せられて、十分韓民に徹底せざりしこと往々之れありしのみならず、極言せば韓民の日本に對する惡感情は、主として韓國に出入する日本人の行爲に基くもの多かりき。是れ伊藤侯が特に居留日本人の取締を嚴重にして、公明正大なる日本政府の措置を中外に彰表し、以て韓民の心を安むじ、併せて關係列國に平靜を與へむと欲する所以なるべし。要するに侯が韓國統監としての第一用意は日本に對する韓國上下の誤解を排除するに在るものゝ如し。是れ易きに似て實は最も難儀なる仕事なれども、世間多くは侯の用意を是認し、且つ侯の老練と聲望とを以てして必らず成功に到達するの時期あるを信ぜり。
然るに本年五月、侯が凱旋大觀兵式に參列せむが爲に歸朝したるまゝ、月を越えて東京に淹流するに乘じ、韓國の各地に宮中の隱謀と關聯したる暴動は起れり。而して其の頭目とも見るべきは、多少韓國に名を知られたる閔宗植、崔益鉉、柳麟湯の輩にして、中に就き崔益鉉の如きは韓國屈指の碩儒と稱せらる。彼等の揚言する所に依れば、彼等は皆宮中より賜はれる馬牌、鍮尺を有し、皇帝の密勅を奉じて協約の實行を妨ぐるの同盟を爲せりといふに在り。更に事實を究むるに、内官姜錫鎬及び參領李敏和の二人相謀り、妖僧金升文を皇帝に引見せしめて無稽の惑言を爲さしめ、終に皇帝を動かして、宮廷を暴動の策源地たらしむるに至れりと信ぜらる。是に於て韓國皇帝は依然として人格上の一問題たり。
由來韓國の憂は政令二途に出づるに在り。是れ宮中府中の別明かならざるに由れるは論なしと雖も、之れをして然らしむる所以のものは、單に其の制度の確立せざるが爲めのみに存せずして、實に韓國皇帝其の人の陰謀好きなるに在り。皇帝は不幸にして陰謀の外何事をも見聞せず、又其の性格は陰謀に適するやうに造られたり。其の言語の才は能く人を籠絡するに足り、其の反覆表裏の心術は巧に權變を弄するに足り、而して其の小事に聰明にして大局に瞹昧なるは、奸小の徒をして最も玉座に親近し易からしむ。故に韓國皇帝の人格上に不思議なる變化を見ざる限りは、たとひ宮中府中の權域を法定すと雖も、之れに依りて全く韓國の寧靖を期するは容易ならずと謂ふべし、何となれば韓國に於ては、皇帝は唯一の政治家にして、曾て各大臣の補弼を藉りたることなきのみならず、常に各大臣を操縱し、若しくは之れを掣肘して内閣の統一を困難ならしめ、延て各大臣をして互ひに狐疑せしめ、互ひに皇帝の寵遇を爭はしめ、其の極内閣をして亦同じく陰謀の府たらしむるに過ぎざればなり。
侯が今次の暴動を使嗾するものゝ宮中に伏在するを見て、必らず宮中を肅清すべしと誓ひ、決然として韓國に向ひたるは甚だ人意を強うするに足りき。侯の京城に入るや、直に皇帝に謁見して宦官閹竪の皇室を誤まるを痛言すること二時間に亙り、直に勅許を得て宮中肅清に著手し、一夜にして王宮の各外門は悉く警務部の日本巡査に依て守備せらるゝを見たり。宮禁令は發布せられたり、其の結果として雜輩の出入は嚴禁せられ、禮式院長李容泰は禁令違反の罪に問はれて免職せられたり。是れと同時に奸魁處罰の詔勅は出でたり、皇帝は李敏和を以て人材の選擇を誤り國體を損失したりとし、姜錫鎬を以て中間に在りて周旋の勞を執り、共に罪状を極むとし、法部をして速に拿捕せしめ、宜しく懲犯すべしと宣へり。姜等の罪状は果して皇帝の與知せざる所なるか。皇帝は又宮中肅清に關し、詔して曰く、宮中の肅清は、屡々勅諭を下して之れを誡めたるに、久しければ輙ち懈弛して秩序を紊るの失態を見ると。知らず皇帝は曾て宮中肅清を誡めたることあるか。
此の間に於ける伊藤侯の措置は實に迅雷疾風の如くなりき。韓國の上下震慴して、殆ど其の爲す所を知らざるの状想ふ可し。侯の初めに綏撫手段を採りたるもの、今や一轉して壓威手段を執るの止むを得ざるに至れり。斯くの如く侯が前後全く別人に似たるの擧に出でたるは、以て侯の決心の頗る固きものあるを知るべく、侯若し此の機會に於て韓國皇帝の人格を研究せば、其の發明する所亦必らず多からん。顧ふに宮中肅清の事たる、從來日本政府が施政の改善を助言する毎に、先づ第一に之れを勸むるを例とせり。然れども皇帝自ら正うせずして宮廷の正しかるべきやうなく、特に韓國皇帝は最も夜の趣味に感ずること深きがゆゑに、魑魅魍魎は時を得顏に君側を徘徊して毒焔を煽ぐに於て、宮中の肅清何を以て行はれむや。所詮陰謀は韓國皇帝の附き物なり。雜輩の出入は之れを禁じ得べしと雖も、宮廷の陰謀は終に之れを根絶す可からず。今日宮門の警衞を如何に嚴重にするとも、陰謀は外より來らずして内より發生するを如何せむ。區々たる門鑑に依りて之れを防遏せむとするは寧ろ或は徒勞に屬するなきを得むや。
然らば韓國宮廷の陰謀を根絶するに策なきか、曰く是れ有り、唯だ時間の力是れのみ。即ち陰謀を其の發生するに一任し、而して其の發生を檢出する毎に之れを鎭壓し、漸次に其の醗酵力の消滅するを待つのみ。夫れ韓國の禍源は群小に非ず、雜輩に非ず、大臣の無能に非ずして、皇帝の人格に在り。韓國問題は政治上に於ては既に解決せられたりと雖も、其の禍源は猶ほ依然として皇帝の人格に存す。苟も韓國保護の實効を奏せんとするに於ては、時間は必らず最後の斷案を皇帝の人格に下だすに至らむ。要するに伊藤侯の成功の遲速は、此の時間の到來の遲速に在りと認むべきのみ。(三十九年八月)
伊藤侯、クローマー、及びラネツサン
現代に於て、保護國の統治者として最も成功したる人を問はば、第一に英國のクローマー男を指名し、次に佛國のラネツサン氏を以て答ふるもの多かるべし。クローマー男の埃及に於ける位地は、僅に英國總領事兼外交事務官たるに過ぎざりき。又英國の埃及に對する保護權は、公然法律を以て設定せられたるにはあらざりき。而もクローマー男は二十餘年間の拮据經營によりて、英國の埃及保護を既成事實として列國に承認せしめたりき。佛國の殖民政策は大抵失敗の歴史を有すれども、比較的効果を擧げつゝあるものは、印度支那に於ける保護政治なりとす。而して其の功勞は主として之をラネツサン氏に歸せざるべからず。我が伊藤統監を以て此の二人に比するは、未だ其の時機を得たるものに非ずと雖も、侯が日本に於て最初の保護國統治者たる名譽を得たると共に、其の韓國に施設する所は、事の大小を問はず、均しく内外の注目を集中すること、恐らくはクローマー男にも將たラネツサンにも過ぐるものあるべし。况むや侯は政治家としての聲望固より夐に此の二人の上に出づるをや。
クローマー男は模範英人ともいふべき實行家にして、其の精敏堅實なる事務的能力は、埃及に於ける諸般の施設に顯はれたる成績能く是を證明せり。彼は高遠なる理想を以て埃及を指導するよりも、直に手を眼前の行政事務に下だして、實際上より之れを改良するの得策なるを知りて、先づ灌漑工事を興して水利を治めたりき。是れ埃及の唯一財源は耕地の收穫に在るが故に、治水を以て財政整理の前提と爲さむとするに外ならざりき。此成算は果して誤らずして財政漸く整理の緒に就き、公債を償還し徭役を全廢し、窮民地方の地租十分の三を輕減したるも猶ほ豫算に剩餘を見たりき。尋で兵制、獄制、地方行政及び司法制度の整改理革一として成功せざるなかりき。其の間撤兵問題、蘇丹事件等ありしも、彼は英京政府を助けて著々之れを解決し、終に埃及に於ける英國の保護權を確保して最早動かすべからざるものならしめたり。
佛國が安南に對して保護關係を生じたるより既に百餘年を經過したりき、而も紛亂相繼ぎて、保護政略容易に實効を擧ぐる能はざりしが、千八百八十六年ラネツサン氏は議會の委任を受けて安南地方を巡視し、深く其の國情を調査して、既徃に於ける佛國殖民政策の弊害を洞察し、歸來一書を著はして大に當局者を啓發する所あらしめ、終に自ら進みて印度支那總督となり、頗る安南保護の組織を改めたり。彼は大統領より附與せられたる廣濶なる全權によりて東京と交趾とを直轄し、安南及び東埔塞の統監を廢し、商高理事官をして印度支那總督の監督の下に保護事務を行はしむることゝなせり。彼は深く安南王の信任する所となりしが、千八百八十四年罷められて國に歸へるに及で、總督制度は稍々挫折したりと稱せらる。
伊藤侯が今囘締結したる日韓協約は、列國の承認せる既成事實を成文に章明したるに過ぎずして、是れ位の措置は侯に在ては寧ろ牛刀割

立憲史上の伊藤公
伊藤公は新日本の建設者として、總ての史的事業に關係し、且つ他の何人よりも大猷參畫の功勞多き人なり。若し公の働らきたる部分の一つにても、完全に仕遂ぐるものあらば、彼は亦明治時代の一名士たる價値を得るに足るべし。公の政治生涯は多面にして而も面々華麗なり。燦然として悉く人目を集むるものにあらざるはなし。凡そ政治家の功名心を飽かすべき最好の機會は、殆ど一として公の手に觸れざることなく、是れと同時に其の政略及び行動は時として物議の中心たることありと雖も、終始善く皇上の御信任を全うして頭等元勳の待遇を受けたり。後世より公を見ば恐らくは維新の三傑よりも一層偉大なる人物なりと信ぜらるべし。
然れども公が新日本建設者の一人として優勝特絶の地歩を占むる所以は、言ふまでもなく立憲政治の創設を大成したるに在り。顧ふに立憲政治の創設は、岩倉、木戸、大久保の諸賢夙に之れを 聖天子に獻替して其の基を啓らき、爾來補弼の重臣之れを内に翼贊し、在野の政治家之れを外に唱道して、遂に欽定憲法の發布を見るに至りたりと雖も、此の憲法の立案、及び之れを實施するが爲に必要なる一切の準備は、殆ど專ら伊藤公の手に成れりと謂ふべし。蓋し立憲政治を創設するに於て最も困難なる問題は、日本固有の國性と、歐洲立憲制との圓滿なる調和を實現すること是れなりき。若し國性に適合せざる憲法を制定するときは、啻に之れを運用するの難きのみならず、到底其の効果を收むる能はずして、却つて帝國の發達と繁榮とを阻害するに至らむ。公は理想よりも歴史に重きを置き、國性と兩立し得る限りに於て、歐洲立憲制の組織を斟酌採擇せむとし、其の聖鑒を蒙りて任に憲法立案の事に膺るや、一面に於ては歐洲各國の憲法を調査して、二年の歳月を海外に費し、一面に於ては自ら專門の國學者を相手とし、心血を竭くして古今の沿革を講究したり。當時憲法を私議するもの、大抵其の範を民政主義の立憲制に採らむとするに傾き、之れに反して民政主義を悦ばざるものは、動もすれば極端なる神權政治を主張して、立憲政治を否認するの論結に歸著し、共に皇謨の大精神と相距る甚だ遠かりき。而も公は政治家たるの識見と立法家たるの才智とを兼備するの資を以て、純然たる君主的立憲制の日本の國性に適合するを確信し、且つ之れを確立するに於て周到なる意匠と愼重なる考慮を凝らし、以て遂に千古不磨の大典を立案するを得たり。
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斯くて憲法を發布せられたりと雖も、之れを實施するに方りては、先づ行政各部の機關をして立憲的動作を爲さしむるに適當なる諸般の改革を行はざるべからず、否らざれば未だ立憲政治の創設を完成したりと謂ふを得ざればなり。而して此の改革は政府の組織を根本より變更するものなるが故に、其の影響の及ぶ所は極めて廣汎にして、直接に之れが打撃を受くるものは政府部内の藩閥者流なり。例へば會計法の如き、文官任用令の如きは、事實上藩閥の勢力を削小するの結果を生ずるを以て、最も藩閥者流の感情を刺戟したりしは自然の勢なるべし。然れども 皇上は憲法調査の全權と共に、憲法實施に關する凖備をも擧げて之れを公の自由手腕に委任せられたりき。是れ改革の容易に行はれたる所以なり。且つ憲法實施の準備整頓するや、公は自ら新官制に基きたる内閣の總理大臣と爲りて、各行政機關の運用を試みたりき。是れ將に來らむとする議會に對せむが爲に、政府の立憲的動作を訓練するに外ならざりき。斯くの如く公は一身を立憲政治の創設に捧げて其の能事を盡くしたれば、憲法の効果を收むるに就いても、亦無限の責任あるを感ずるは當然なり。
初め歐洲に於ては、日本の果して憲法政治に成功するや否やを疑ふの學者少なからざりしが、顧みて憲法實施後の經過を見れば、政府と議會との行動に於て大に非難すべき點なきに非ずと雖も、全體の成績よりいへば、何人も憲法の効果に對して疑惑を挾むものあるべからず。但だ公は憲法と一身同體の關係あるを自信して、憲法實施以來、其の朝に在ると野に在るとを問はず、絶えず其効果の如何を監視して、立憲政治の健全なる發達を助けむとするものゝ如し。曾て屡々議會に現はれたる大臣責任問題に關しては、公は君主的立憲制の本義を固執して、英國流の責任論を排斥するに餘力を遺さざりき。何となれば日本の内閣は帝室内閣にして、大臣は天皇に對して補弼の責に任ずと憲法に明記したればなり。然れども公は帝室内閣を廣義に解釋し、原則としては、政黨をして天皇の大權を侵犯せしむるを許さずと雖も、日本臣民は均しく文武官に任ぜらるゝの權利を與へられ、又文武官の任免は、大權の發動に屬するものたる以上は、政黨を以て内閣を組織せしむるも、决して君主的立憲制と相悖らずと説けり。是を以て公は大隈板垣兩伯を奏薦して内閣を組織せしめたることありしのみならず、自ら政友會を組織し、其の會員を率ゐて内閣を組織したることありき。要するに公が政友會を創立したるは、日本立憲政治史に一新紀元を劃するものなり。
公が憲法の効果を收めむが爲に、常に朝野の間に立ちて、憲法の活ける註解者として働らき、今尚ほ働らきつゝあるは、憲法起草者たる公として避くべからざる責任を感ずるが故なるべし。今や憲法發布二十年期に際し、皇上特に憲法紀念館を公に下賜して、其の晩年の光榮を限りなからしめ給ふ。拜聞す此の建物は皇室の典範、帝國憲法、其他附屬法の議事所に充てられ、陛下日夕親臨せられたる御由緒ありと。然らば是れ實に憲法紀念館たると同時に、又公の偉勳を表彰する永遠の紀念たるべし。(四十一年三月)
伯爵 大隈重信
現時の大隈伯
理想的大隈内閣
大隈伯は終始政黨内閣を主張して、曾て渝らざるの政治家なり。啻に之れを持論として主張したりしのみならず、亦自ら之れを組織して、滿腹の經綸を實施せむと欲したるや久し




されど最初の理想的大隈内閣は、現内閣とは大に其實質を異にするものなりき









故に現内閣は、形式に於ては憲政黨の内閣なりと雖も、其實質に於ては則ち、進歩自由兩黨の聯立内閣なりと謂はざる可からず、唯だ夫れ然り、此を以て大隈伯はたとひ現内閣の總理たるも、憲政黨は未だ大隈伯を中心とせざるの事實あるに於て、現内閣は決して世人の豫期したる如き理想的大隈内閣に非るは、復た言ふを俟たず、然らば理想的大隈内閣とは何ぞや



大隈伯の同化力
第一次の大隈内閣は、不幸にして世人の理想に描かれたる大隈内閣にはあらじ







政黨の首領に必要なる第一資質は、偉大なる同化力なり








大隈伯は日本に於ける當今有數の大政治家なり





顧ふに維新の元勳にして、直接に政黨に關係したる者は唯だ大隈板垣の兩伯あるのみ
























今や其進歩黨は更に自由黨と合併して憲政黨と爲り、大隈伯を總理として内閣を組織したるに於て、伯にして苟も偉大の同化力を有せば其憲政黨を同化して大隈黨たらしむること、猶ほ進歩黨を同化したるが如くなる可きも憲政黨は果して大隈伯に同化せらる可きや否や


大隈伯と憲政黨
憲政黨は成立日尚ほ淺くして、未だ混沌の境を出づる能はず






されど此慣例は黨規を以て定む可からず、又首領と黨員との約束に依て成立す可からず











人民の代表者
興國の機運に乘じて、露國征伐を斷行したる現内閣は、今や國民の全後援を集中して、徐ろに未來の成功を望みて前進しつゝあり。特に總理大臣桂伯と直接に和戰の票決を爲したる外務大臣小村男とは、唯だ此の一擧に由りて、遽かに古今無雙の英雄となりたるものゝ如し。然れども彼等は、其の展開したる大舞臺の役者としては餘りに陰氣にして、且つ餘りに沈欝なるが爲に、世界は彼等以外に更に實力ある人物の國民を指導するものあるを信ぜり。而して伊藤侯の如きは今日に於ても亦最も世界の注目を惹ける日本代表者の一人たるは疑ふ可からず。事實に於ても、伊藤侯が現内閣の後見職たる威信を有し、隨つて重大なる問題に對して常に勢力ある發言權を行ひつゝあるがゆゑに、總理大臣桂伯よりも、外務大臣小村男よりも、侯爵伊藤博文といへる名は、今尚ほ日本を談ずる外人の口頭より之れを逸せざるを見る。
然れども余は茲に大隈伯を紹介するの亦必らずしも無意義ならざるを思ふ。何となれば桂伯を政府の代表者とせば、若し又た伊藤侯を帝國の代表者とせば、大隈伯は人民の代表者といふべき模範的人物なればなり。伯は憲政本黨の首領なり、現内閣に對しては當面の政敵たると共に、民間に於ても固より多數の反對黨に依て圍繞せらる。而も其統率せる政黨は、未だ議會の過半數をも占むる能はざるを以て、此の點よりいへば、伯を稱して人民の代表者と爲すべからざるに似たり。唯だ伯の最近生涯に於て現はれたる行動は、次第に政黨首領たるの範圍を脱して、寧ろ人民の代表者たる位地に接近せむとするの傾向あるを知るざる可からず。
顧ふに政黨の信用未だ高からざる日本の如き國に在ては、政黨の首領たるものゝ社會的境遇は、頗る窮屈にして自由ならざるものなり。彼れは政權爭奪の外、何等の目的を有せずと認めらるゝがゆゑに、政治上の關係なき社會の各階級は、動もすれば彼れと相觸著せむことを避くるのみならず、彼れ自身も亦自然に之れと相隔離せざるを得ざるに至る。板垣伯の如き即ち其一人なり。自由黨の全盛時代に於ては、板垣伯といへば恰も日本人民の崇拜せる自由の化身の如く見えたれども、其の一旦黨籍を去りて在野の一個人となるや、伯の存在は忽ち國民の記憶より去りたるに非ずや。之れに反して大隈伯は、明治十四年改進黨を組織してより、二十餘年間一日の如く政黨と旅進旅退したるに拘らず、其の社會的境遇は、曾て之れが爲めに檢束せられずして、其の住居せる早稻田の邸宅は、殆ど東京社交の中心たり。伯の門戸は常に開放せられたり。伯と社會各階級との交渉は間斷なく繼續せられたり。伯は政黨の首領たる故を以て毫も其の社會的境遇の寂寞を感ぜざるなり。
伯が他の政黨政治家と其の生涯を異にする所以は、蓋し一は其の理想の同じからざるに由れり。凡そ黨派政治家は、大抵政治を狹義に解釋せり。彼等は政治を以て一種の專門技術と爲し、政治團體を以て特別なる社會の一階級と爲し、其の極端なる個人主義を抱けるものに在ては、社會の進歩と政治の進歩とは殆んど相關せざるものゝ如くに信ずるものなきにあらず。然るに大隈伯は、絶對的政治萬能主義にして、社會に於ける一切の改良及び進歩は、唯だ善政を行ふに依て之れを庶幾し得べしと信ぜり。出世間的なる宗教すらも、大隈伯の見る所にては、亦政權の援助を借りて始めて其の健全なる發達を期し得べきものゝ如し。其の理想は斯くの如くなるがゆゑに、伯は勉めて社會の各階級と交渉し、之れをして政治と同化せしめずむば止まざらむとせり。若し政治家をして一種の專門技術家たらしめば、伯の政治に於ける趣味は必らず索然として消滅せむ。何となれば伯の頭腦は總合的にして個人的ならざればなり。一言にして伯を評すれば、伯は靈魂ある新聞紙なり。伯は善く貴族と平民との思想を聯結せり、官吏と代議士との感情を聯結せり、軍人と文學者との意見を聯結せり、銀行家も、工業家も、地主も、小作人も、若しくは相場師、貿易家、鐵道屋、海運業者も、皆伯の不思議なる概括力に依て聯結せられ、毫も伯の性格に於て相扞格すべき障害あるを見ざりき。要するに伯は社會各階級の思想感情を總合して之れに政治的著色を施し、以て其の獨占權を有せむとするの人なり。
世間或は伯の耳學を笑ふ。然れども伯の伯たる所以は、其の受納力大にして偏狹なる個人的意見なき處に在り、其の社會の各階級と善く適合して、善く各種の意見を攝取し、又た善く之れを消化するの力は、之れを稱して一個の天才なりといふも可なり。
故に伯は狹義に於ける政治家に非ずして、寧ろ大なる市民なり、日本人民の總代表者なり。故に又た伯にして假りに政黨首領たることを罷むることありとするも、其の大市民たる位地には何の影響する所なかるべし。伊藤侯は日本帝國の代表者として久しく外人に知らる。而も侯は伯に比すれば稍々個人的にして、其の頭腦は獨自一己の圭角を有せり。侯は決して大隈伯の如く社會の各階級と適合し得るの性格を有せず。大隈伯は落々たる
されば大隈伯は、其の生活に於ても、飽まで現在的社交的にして、一點山林の氣象なしと雖も、伊藤侯は江湖の詩趣を解するに於て、稍々東洋賢人の面目あり。侯は一年中の多くの時間を大磯の閑居に費やし、公務の外帝都に出づること極めて少なく、俗客と酬接するよりも、寧ろ讀書に親しむの性癖あるを以て、必らずしも社交の中心たるを求めざるが如し。大隈伯は決して一日も此般の生活状態を忍ぶ能はざるなり。伯は早稻田に廣大なる庭園を有し、園中には無數の珍奇なる花卉を蓄へり。特に其温室は伯の最も誇りとする所にして、室内は四季常に爛漫たる美花を以て飾れり。伯は園藝道樂を最も高尚なるものとし、屡々人に向て、花を愛するものは善人なりとの格言を繰り返へして自ら喜ぶと雖も、伯の花を愛するは、詩人の美神に


伯は啻に門戸を開放して、善く客に接し、人を饗するのみならず、更に善く馬車を飛ばして公私の會合に出席せり。而して伯の往く所、必らず一段の活氣ありて場屋に磅

從來伯は其の言論の餘りに多きが爲に、所謂不言實行を以て自ら任ずる政治家は、伯を稱して大言放論家と爲し、以て其の信用を傷けむとしたり。而かも伯は其の言論の力に依りて、反つて市民の崇拜を鍾めたり。是れ他なし、伯は最も聰慧なる市民の思想を語るの豫言者なればなり。伯は好で意見を吐露すれども、敢て異を立てゝ高く自ら標置するの論客にあらずして、輿論の代言者なり。伯は個人的意見の創造者に非ずして、人民の聲の寫眞機なり。是故に伯は精確の意義に於ける英雄に非ず。伯は偉大なる凡人なり。國民の運命を左右せむとする主我的人物に非ずして、國民の運命と倶に進退するの時代的人物なり。維新の三傑と稱せられたる西郷、木戸、大久保は、各々維新の大業を以て自己の獨力に依りて成したるものゝ如くに思惟したりしやも知る可からず。軍制を改革し、自治制度を制定したる山縣侯は、此等の事業を以て自己の創意に出でたりと思惟するも知る可からず。又た憲法を立案したる伊藤侯は、固より議會を開きたるを以て自己の功なりとすべく、露國を征伐する現内閣員は、興國の雄圖は我等の手に依て斷ぜられたりと思惟すべきは無論なり。然れども大隈伯は、個人の伎倆に重きを置かざるがゆゑに、維新の大業も、法制の改良制定も、議會の開設も、大陸戰爭も、其他既往三十餘年間に於ける日本の發達進歩は、總べて國民的運動の結果なりと思惟せり。
唯だ伯は善く時代精神を攝取し、善く人民の希望と一致するの性格を有すと雖も、之れを行ふの權力と久しく遠ざかりたるを以て、政治上に於ては長く逆境の人たらざるを得ざりき、然れども伯は其の朝に在ると野に在るとを問はず、常に人民の代表者たるを失はざるがゆゑに、其の社會的境遇は甚だ幸福にして、其の生涯は頗る快活なり、伯は不幸にして權力を有せざるがゆゑに、至尊に侍して獻替の任を盡くすに由なしと雖も、人民の代表者として、間接に國家に貢獻するの功は、復た沒す可からざるものあり。特に日本國民の大飛躍を試みたる今日に際し、伯の如き人民の代表者を民間に有するは、國家の代表者として伊藤侯を朝廷に有すると相待つて、時局を運爲するの二大勢力たるべし。
凡そ國際問題は政府と政府との間に於て主として解决せらると雖も、最後の解决者は寧ろ國民なりといはざる可からず。故に内に在て民心を統一し、外に向て人民の思想感情を代表する人物の存在は、國際問題の解决に對して大なる共力となるべし。今や日露戰爭は啻に列國政府の注意を牽引したるのみならず、又た深く列國人民の耳目を動かしたり、隨つて其の人民の思想感情が、其の政府の政策に隱然たる影響を與ふるものあるを知るときは、我日本人民と環視列國人民との間に思想の交通を開くの必要あるは論ずるを待たず。而して大隈伯の如きは思想交通の一機關として頗る有効なる働らきを爲しつゝあるを記憶せざる可からず。
元來大隈伯は、未だ一たびも海外に出でたることなしと雖ども、其の屡々外務の當局者たることありしと、其の外交的辭令に嫻へる故とを以て、其の外人に知らるゝことは伊藤侯に亞げり。故に伯が野に在るの時と雖も、外國使臣は常に伯の門に出入して伯と意見を交換するを喜び、又た來遊外人の重もなるものは、其の公人たると私人たるとに論なく、大抵伯を訪問して其の謦咳に接せざる者なし。伯は此等の外人を待遇するに於て亦能く親切鄭寧を盡くすがゆゑに、伯と會見して不快の感を殘すものは一人もあらずといへり。而も伯は此の場合に於て、最も善良にして最も進歩したる日本人民の思想を紹介するがゆゑに、其の外交上に寄與するの利益は甚だ偉大ならむ。伯は實に無冠の外務大臣として外人と應接するものにあらずや。
日露戰爭起るや、外國の新聞記者は、軍事通信の任務を帶びて續々我國に來朝せり。彼等の中には始めて日本を觀たるもの少なからざれば、往々日本を誤解して日本に不利益なる報告を本國に送るものなしとも限らず。是れ决して輕視すべきものに非ざるを以て、大隈伯は屡々彼等を早稻田に招きて日本の眞相を説明するに勉めたり。曩に開國五十年紀念會を開くや、伯は亦奮つて周旋の勞を執り、居留米人をして頗る滿足せしめたりき。當日會場整理の任に當りし米人ドクトル某氏が、我米人は最も大隈伯を愛好せりといひしを見るも、伯が如何に外人間に信用あるかを想ふ可し。
英國史傳家エワルド曾て其の著『代表的政治家』に於てパルマルストンを評して曰く、彼れは最高の能力に依りて英國を支配せざりき。然れども彼れは忠實にして不撓不屈なる愛國者なりき。彼れは正直にして善良なる信條を有したりき。彼れの智識は精確にして多種なりき。彼れの國民に對する同情は眞摯にして决して僞りならざりき。彼れの趣味及び性格は、全然當時の英國人民を代表したりき。彼れの生涯は必らずしも偉大なりといふ可からず、然れども我政治家中にては最も英國的なりきと。余は此の語を移して以て我大隈伯を評するの甚だ適當なるを思はずむばあらず。(三十七年六月)
進歩黨の首領
進歩黨の中には、總理大隈伯の退隱を希望するもの少からずと傳へらる。其の意蓋し進歩黨不振の原因を以て伯の指導宜しきを得ざるに歸し、伯の退隱に依りて進歩黨の門戸を開放し、廣く人才を招徠し、新たに適當の首領を求め、以て黨勢を擴張すると共に、又政權に接近せむと欲するに在るものゝ如し。近時新聞紙上の一問題となりたる進歩黨の改革運動なるものは、此の希望を有する黨員を中心として起りたるに外ならじ。彼等は政友會と提携して却つて其の賣る所となれる幹部の無策に憤慨し、堂々たる一大政黨を以てして其の言動の毫も議會に重きを置かれざるの現状に煩悶し、進では政權に接近するの機會に益々遠ざかり、退ては政界に孤立して漸く民心に厭かれむとするの非運に苦惱し、而して斯くの如き苦惱煩悶憤慨より生ずる自然の反動は、終に彼等を驅て馬鹿らしき謀叛を企てしむるに至れり。大隈伯の退隱を希望すといふ如きは、馬鹿らしき隱謀に非ずして何ぞや。
大隈伯の進歩黨に總理たるは、則ち正當の人物に於ける正當の位地なり。伯の健康にして猶ほ黨務に堪ゆる限りは、進歩黨は伯を總理とするに依りて其の存在を保つを得可く、又其の存在をして生命あり光輝あらしむるを得可し。若し伯にして一たび進歩黨を去らば、何人が代つて之れが總理となるも、啻に黨勢をして今日以上の發展を爲さしむる能はざるのみならず、恐らくは進歩黨の存在を危くするに至るなきを保す可からず。勿論舊自由黨は板垣伯を伊藤侯に乘り替へたるが爲に其の輪廓を擴大したる政友會となれり。政友會は伊藤侯の相續者として西園寺侯を得たるが爲に、頗る其の統一を鞏固にしたるものに似たり。然れども大隈伯は板垣伯の如き好々翁に非ず、而して不幸にして良相續者を有する伊藤侯とも其の境遇を同うせざるがゆゑに、現時の進歩黨は、大隈伯を外にして復た適當なる統率者を發見する能はざるなり。大隈伯有て始めて進歩黨有り、大隈伯の威望と伎倆と有て僅に進歩黨の頽勢を支持すと謂ふべきなり。
然れども進歩黨が大隈伯に期するに政權に接近するの途を以てするは、根本的謬見なり。伯は才力偉大なる政治家たるを失はずと雖も、是れと共に、無遠慮なる討論家なり、掛引なき自由發言家なり、是れを以て、伯は松方伯と聯合して、之れと調和を全うする能はず、板垣伯と同盟して亦之れと調和を全うする能はず、伯は才力を以て人を壓服するを知りて、才力の以て壓服し得べからざるものあるを顧慮せざる風あり。故に伯は政黨内閣の首相としては或は理想的首相たるを得可く、單に政權に接近するの目的を以て思ひ切つたる大々讓歩を爲すことは、伯の性格に於て能く忍び得る所に非ず。此の點よりいへば、伯の進歩黨に總理たるは、或は進歩黨をして永く逆境に沈淪せしむるの一原因たるやも知る可からず。是を以て、唯だ政權に

彼等は兒玉子の名を呼び、又山本男に望を屬すといふと雖も、是れ彼等の片思ひのみ。此の一子一男は、たとひ未來の首相候補者なりと稱せらるゝも、首相の位地を得るには、必らずしも政黨の力を藉るの必要なきのみならず、利口なる兒玉子、聰明なる山本男は、又能く政黨の價値と其の利弊とを知れり。時勢にして大なる變化あらざる限りは、豈輕ろ/″\しく其の身を政黨に入るの愚を爲さむや。
抑も進歩黨の急要なる問題は、總理の廢立に非ずして、其の主義綱領が時勢に適するや否やを講究するに在り。余を以て之れを觀れば、進歩黨が久しく逆境に沈淪したるは、進歩黨の自ら招く所にして、獨り之れを大隈伯に責むべき理由はあらず。蓋し進歩黨は、智辯能力に富めるに於て、遠く政友會の上に出づるに拘らず、其の割合に黨勢の振はざるは他なし、進歩黨の主義政策は十年一日の如く些しの變化なければなり。近代の政治は
國際競爭を本位とするの政治は、各種の專門智識と專門技術とを以て組織せられ、且つ運用せらる。故に斯くの如き政治に於ては、多數の國民よりも、寧ろ國民中より抽出したる少數の人才之れが指導者たらざる可からず。然るに進歩黨は往々此の少數者の意見を無視して、却つて所謂る國民の輿論なるものに媚びむとするの迹あり。彼等は學者の同情、專門家の援助を度外して偏へに選擧區の俗情を迎合するを是れ勉む。彼等の智辯能力なるものは、要するに選擧區民の歡心を得るの術なるのみ。其の黨勢の振はざるは亦當然のみ。之れに反して、政友會は智辯能力の士に富まざるに拘らず、其の主義綱領は進歩黨の其れの如くに固定せず、時としては進歩黨と均しく消極的に陷ることあるも、指導其の宜しきを得ば、必らずしも消極的政策に同意せしめ難きに非ず。其の淡泊にして與みし易き所以は、却つて其の善導し易き所以たるを見るべく、彼等が比較上政權に接近するの便宜あるは此れが爲めなり。
されば進歩黨にして黨勢を發展せしめむとせば、先づ其の主義綱領をして時勢と適合するものたらしめざる可からず。即ち從來の消極的政策を棄てゝ、斷然積極的政策を執らざる可からず。顧ふに彼等の非難攻撃する官僚政治なるものは、固より多少の弊害なきに非ざるべし。其の動もすれば行政機關を過大に擴張して國費の膨脹を顧みざる傾向ある如きは其の一なり。然れども行政機關の擴張は、國際競爭より來れる必然の結果にして、到底之れを避けむとして避くべからず。唯だ一方に於て行政機關を必要の程度に擴張すると同時に、一方に於て成るべく國費を有効に使用し、以て濫費の弊なからしむるは、是れ精確なる科學的智識と行政的手腕に俟つべし。無責任なる放言の能く爲す所にはあらず。故に進歩黨にして改革の意あらば、總理の廢立よりも其の政策の上に一生面を開くの擧あるを急務とせむ。
然れども大隈伯は漸く老ひたり。其の黨務に堪ゆるの健康は今後久しきに保つ可からず、若し伯にして進歩黨の永久なる繁榮を望むに於ては、一日も早く適當なる相續者を發見するの必要あるべきは無論なり。苟も適當なる相續者を發見するに於ては、伯亦必らず自ら喜で總理の位地を退かむ。唯だ今日未だ伯の相續者として耻しからざる首領的人物を發見する能はざるのみ。是れ黨員の苦惱煩悶する所たるのみならず、又總理大隈伯の苦惱煩悶する所たるべし。(三十九年五月)
黨首を辭したる大隈伯
一月第三日曜日に開きたる憲政本黨大會は、總理大隈伯の思ひ掛なき告別演説を以て、沈痛無量なる光景の間に閉ぢられたりき。伯は豫告なくして突然辭職の述懷を爲したるがゆゑに、内心伯の退隱を希望し居たる儕輩も、事の意表に出でたるに錯駭して、頗る擧措を失したるものゝ如し。顧ふに伯が辭職を申出でたる所以は、單に一身上の自由を欲すといふに過ぎずして、他に特別の理由あるを認めざるも、深く其の語る所を玩味せば、今日伯をして自ら辭意を表明するに至らしめたる動機の存するもの固より之れなきに非ず。
伯は一面に於て本黨發展の路を開かむが爲に總理を辭するを必要なりと唱へつゝ、一面に於ては總理を辭するも决して本黨を去らずと斷言せり。則ち其の辭職なるものは唯だ形式的退隱たるに止まり、伯の猶ほ間接にも直接にも本黨との關係を絶つの意なきや無論なるべし。且つ伯が政治を生命と爲し、總理を辭すとも决して政治的活動を中止せずと言明したるを見れば、伯の辭職を求むる理由は殆ど解すべからず。伯は本黨に總理たるも總理たらざるも舊に仍りて政治的活動を繼續せむとす。知らず本黨總理として正々堂々政治的活動を繼續するの何故に本黨に利あらずとするか。此の點よりいへば伯は無意義の辭職を申出でて、徒らに黨員の感情を惑亂せしめたるに似たるも、實は伯の心奧に感慨自ら禁ぜざるものあり、乃ち名を辭職に藉て一大警告を黨員に與へむと欲したるに外ならじ。
伯は黨則改正黨勢擴張に關する大會の討論を評して、本黨の大活動と爲し、口を極めて英氣の勃々たるを激賞したりと雖も、今其の所謂る黨則改正なるを見るに、從來の首領政治を廢せむが爲に、之れに代ゆるに合議制度を以てしたるのみ、是れ總理大隈伯に對する信任缺乏の投票に非ずして何ぞや。伯は自ら謙遜して黨勢の振はざる原因を伯の微力爲すなきに歸すと雖も、本黨の僅に存在するを得るは、唯だ大隈伯あるを以てなり。伯は本黨に何の負ふ所なきも、本黨は全く伯の理想に依て活けり。若し本黨より伯の理想を拔き去らば、本黨の實體は次第に腐敗して終に

抑も大隈伯の理想は、國民の代表機關を完全に運用して、英國風の憲政を日本に扶植せむとするに在り。伯は曾て此の理想によりて改進黨を組織し、進歩黨を指導し、又現に憲政本黨を率ゐ來たれり。伯は固より單純なる批評家を以て自ら居らむとするものに非ざるべく、苟も其の懷抱する理想にして實現するを得るの成算あるに於ては、進むで政權に接近するも亦敢て避くる所に非ざるべし。然れども伯は政權に接近するの前に於て、先づ國民の輿望を要求せり。國民の輿望を要求するが爲に、先づ主義によりて政黨の性格を鮮明ならしめむと努めたり。初め西園寺内閣の成るや、伯は首相の人と爲りに對して多少の同情を表したりしも、其の施設の漸く伯の信ずる所と違ふや、伯の批評的態度は一變して露骨なる攻撃者の位地に立つに至れり。何となれば伯は西園寺内閣を目して、全く官僚團の勢力に支配せられ、最早一政黨を代表したる面目の以て中外に示すに足るものあらずと爲したるがゆゑなり。伯は官僚政治を認めて、憲政の健全なる發達に害ありと信ずる人なり。故に偏へに政權に接近せむが爲に、主義の消長を顧みずして官僚團と結托するは其の甚だ喜ばざる所なり。伯は斯くの如き行動を以て政黨の性格を喪失すと爲すなり。
然れども本黨の改革派なるものは、寧ろ大隈總理と其の見解を異にするものゝ如し。彼等は政友會が曲がりなりにも政權に接近したるを得意の境遇なりと思へり。西園寺内閣を以て恰も自黨の内閣なるかの如くに吹聽し、意氣揚々として國民に誇らむとする政友會を見て、彼等は殆ど本黨の秋風索莫たる逆境に堪へざらむとするの状あり。彼等は政治上に於ける官僚團の勢力甚だ強大なるを知るに及で、政友會が之れと相結托したるの却つて利口なるを信ぜむとするに至れり。彼等の中には、大隈伯にして本黨を退隱せば、啻に官僚團の一角と連絡し得るの門戸開通するのみならず、更に本黨の運命を開拓すべき新首領の官僚團より出現せむことを夢想するものすらありといへり。本黨にして大隈伯の理想に服從する限りは、其の境遇の順逆如何に拘らず、兎に角一個の性格ある政黨として存在し得べきも、伯に棄てられたる本黨は、其の烏合の群衆たるに於て大同倶樂部と又何の選む所あらむ。勿論本黨が天下を取るの時機を待つは愚に近かしと雖も、是れ特に本黨に於て然りと言ふに非ず。凡そ孰れの政黨を問はず、其の能く上下の信任を得て内閣を組織せむことは當分望みなしと謂はざる可からず。故に若し本黨の改革派にして、政黨に關する根本の觀念を抛棄せむとせば別問題なれども、眞面目に政黨の名に依りて天下を取らむとする如きは餘り蟲のよき沙汰なりといはまくのみ。敢て問ふ公等は天下を取るの資格ありや、其の自信ありや、將た其の信任ありや。且つ天下を取るのみが政黨の能でもあるまじ、政權に接近するのみが黨勢擴張の唯一手段にもあるまじ。眞に黨勢を擴張せむとせば、何ぞ其の本に反へらざる。本とは他なし、順逆に頓著せず、主義によりて進退する是れなり。其の本を脩めずして唯だ政權に接近せむことを求む。是れ本黨の深患なり。大隈伯が總理を辭せむと欲するは、其の意實に此の深患に陷りて自ら悟らざる黨人に警告を與へむとするのみ。
是に由て之れを觀れば、大隈伯の辭職は、本黨の發展上必要なるものに非ず、要するに其の申出は唯だ本黨の將來に對する一大警告たるに過ぎざるのみ。然れども政治の全局より案ずれば、余は寧ろ伯が斷然本黨を棄つるの擧に出でたるを歡迎す。蓋し伯は伯自ら聲言したる如く、たとひ本黨との關係を絶つも、活動の餘地は到る處に之れあるなり。伯は單身にして偉大なる勢力を民間に有すること、猶ほ伊藤侯が丸腰にして能く威望を朝廷に有するが如し。伯は元來本黨に依て重きを爲し居るの政治家に非ざるなり。本黨或は亡ぶるとも、伯は未だ遽に政治的死亡を遂ぐるの癈人に非るなり。一政黨を指導訓練するは、必らずしも無用なりと謂ふべからずと雖も、國民を指導訓練するは、更に最も必要なりと謂はざる可からず。今の黨人は、智識に於ても、品性に於ても、决して國民の高級分子に非ず。高級分子の政黨に入らざる所以は、國民全體の政治思想に進境なきが爲なり。而して國民の政治思想は、單に一般教育の力のみに依て之れを發達せしむべきに非ず、別に偉人の人格より發動する感化力に待つもの多し。伯にして若し狹隘なる一政黨の範圍を脱して自由の地歩を占め、政府の元勳たる伊藤侯と相對し、國民の元勳として黨派以外に活動の餘地を求めば、伯の大なる人格は、必らず國民全體を指導するの明星たらむ。是れ伯の晩節を善くするの道なり。(四十年二月)
大隈伯と故陸奧伯
十二月十日及び二十四日に於て、余は無限の興味と大なる敬意とを以て二個の盛典を見たり。一は早稻田大學の學園に擧行せられたる大隈伯の銅像除幕式にして、一は外務省構内に擧行せられたる故陸奧伯の其れなり。大隈伯は現在の人にして、且つ若干の未來を有し、陸奧伯は過去の人にして、其の傳記は十年以前に終結せり。然れども偉人傑士は、千古尚ほ毀譽褒貶の定らざる半面を存すると共に、他の半面の妍醜は、寧ろ其の觸接したる同時代の國民に審判せらるゝを適當とするの理由なきにあらず。余は此の理由に於て、兩伯に關する少許の智識を語らむとす。
大隈伯の公生涯に於て、其の歴史的價値の最も大なる部分二つあり。新らしき政治的日本を建設せむが爲に政黨を組織したることゝ、學問の獨立を謀らむが爲に、官學に對抗すべき私學を興したること是れなり。板垣伯は亦政黨を組織したるによりて、明治時代の一代表的人物となりき。福澤翁は亦曾て私學を興したるによりて、不朽の紀念を文化事業に遺したりき。今ま大隈伯の能く一人にして板垣伯及び福澤翁の爲したるものを兼濟したるを見るものは、誰れか伯を近世の偉人と稱するに反對するものあらむや。且つ夫れ板垣伯は、始めて自由黨を組織するに方てや、其の名望勢力實に一時を曠うするの概ありしも、年所を經るに從つて漸く尾大不掉の状を示し、終に殆ど國民の記憶より遠ざかりて、杳然聞ゆるなきの末路に立てり。之れを大隈伯が、久しく政權と近接せざるに拘らず、常に夫の終始順境を來往する伊藤山縣兩公と盛名を

若し夫れ陸奧宗光伯は、未だ天壽を全うせずして十年前に病死したる人なり。若し伯をして尚ほ今日に健在せしめば、必らずや其の傳記に一段の光彩を添ゆるの事功ありしを疑はず。然れども伯は少なくとも日本の外交史に新紀元を開きたる中興の外務大臣なりき。第一外交機關が殆ど全く藩閥の勢力圈を離れて獨立の位地を占むるに至りたるは、伯の力與つて最も多きに居れり。外交を專門の技術とせる近世の傾向に順應して、訓練ある外交官を登庸するの方針を確立したるは伯なりき。貴族若くは耆宿の名譽職たりし公使の任務を有能者に引渡して、日本の外交機關を刷新するの計畫は、主として伯の手を藉つて行はれたりき。今の林外務大臣を始め、小村壽太郎、加藤高明、高平小五郎、原敬等の諸氏を重用して、外交政略の効果を大ならしめたるものは伯に非ずや。元來伯の人と爲りは、深く藩閥者流の信頼せざる所なりしに拘らず、獨り伯の指導する外交機關に對しては復た一指を染むる能はずして、伯の自由手腕に任かさゞるを得ざりき。從つて外務省は殆ど十分に伯の感化を受けたりしに似たり。第二に伯は條約改正の成功者なり。日清戰爭の執行者なり。伯が新條約案を英國に提出したるの時は、方に日清和戰の機關、髮を容れざるの危急に迫まるの際なりき。若し尋常外交家をして此の場合に處せしめば、或は一方の爲に他方を犧牲に供したりしやも知るべからず。况んや是れと同時に第三者に對する外交關係漸く過敏ならむとしたるに於てをや。勿論當時伯が果して韓國問題を以て和戰を斷ずるの腹案ありしや否やは疑問なれども、兎に角韓國問題と條約改正とは、伯に於て輕重し難き二大懸賞案たりしは言ふを待たず。而も伯は屡次白刄の下を潛ぐるが如き態度を以て、巧みに韓國問題の解決手段を進行すると共に、斷然條約改正の談判を開始して遂に其の目的を達したりき。此の期間は伯の智力の最も發越したる絶頂にして、又實に外交劇の能事を盡くしたる一齣なりき。且つ伯が外交團に於ける英國の優勝位地を認識して、先づ之れと條約改正を商議したるは、單に條約改正の成功を早めたるに止らず、其の將來の帝國外交を支配する大方針は、亦既に此の時に於て定まれりと謂ふべし。則ち日露戰爭前後二囘に締結せられたる日英同盟の如き、蓋し伯の政略より胎生したる産物たるに過ぎず。第三に伯は世界主義を外務省に輸入したりき。伯は以爲らく、帝國をして國際會議の一員たらしめむとせば先づ形式實質共に歐洲文明と諧調する政略を執らざるべからずと。此の政略は往々非愛國的なりと認められて、保守派より最も激烈なる攻撃を受けたりと雖も、後年日露戰爭起るに及びて、宗教人種を異にする列國の同情を最後まで維持し得たるは、主として此の政略の賜なりと謂はざる可からず。要するに伯は新旗幟を霞ヶ關に樹てゝ帝國の外交を彰表し、新生命を外交機關に賦して外務省の性格を一變し、後の當局者をして其の率由する所以の大本を知らしむるに於て、晩年の心血を傾倒したりと謂ふべく、即ち今に於て伯の銅像の外務省構内に建設せらるゝを見るは、事と人と處と三者均しく宜しきを得て

然れども陸奧伯は外務省の陸奧伯に非ずして、日本の陸奧伯なり。大隈伯は早稻田大學の大隈伯に非ずして、日本の大隈伯なり。特に大隈伯の如きは、啻に日本の大隈伯たるのみならず、其の名聲は漸次世界的音色を帶び來らむとせり。顧ふに陸奧伯を以て大隈伯に比すれば、其の人格に於て大小の品異なるあり、其の頭腦に於て廣狹の質同じからざるありと雖も、共に藩閥以外の出身者にして、自己の手腕を以て自己の天地を開拓したるに於ては則ち一なり。而も兩伯の出處進退には、自ら兩樣の意匠ありて好個の對照を爲せり。大隈伯の出處進退を見るものは、先づ其の公生涯の前半期に於て、伯が内より政治を改革せしむとして全力を之れに用ひ、其の志の行はれ難きを悟るに及び、更に政治改革の手段を變じて、國民的運動の指導に其の後半期を費やしたるを認むべく、陸奧伯の出處進退を見るものは、伯が初め屡々外より政治改革の氣運を促がさむとして成らず、一朝心機轉換するや、自ら進むで政府の使用人となり、其の權變の才を竭くして内より藩閥を控制せむとしたるを認むべし。是を以て兩伯は終始殆ど反對の側面に立てり。
大隈伯は藩閥の後援を有せずと雖も、維新の文勳は毫も藩閥者流の武勳に讓らざりしが故に、明治初年に於て既に樞要の位地を占め、藩閥をして勢ひ伯の勢力を敬重せざるを得ざらしめたりき。伯は急激なる民選議院建白者に誘はるゝには、其の思想餘りに秩序的にして且つ實際的なりき。伯は前原一誠、江藤新平等の暴動に與みするには、其の識慮餘りに進歩的にして且つ冷靜なりき。伯は土佐派の空漠たる自由論を迎合するには、其の智見餘りに經世的にして且つ老熟なりき。伯は馬上を以て天下を取りたる藩閥の、到底永く馬上を以て天下を治むる能はざるを知りたれば、時の政府の中心たる大久保利通の威望を利用して、自己の長所を縱横に揮灑し、以て徐ろに政治改革の雄心を逞うせむとしたりき。然れども大久保の死すると共に、政府は忽ち茲に適當なる統率者を失ひ、單に藩閥の利害を一致せしめて、漸次勃興し來れる國民的運動を頑強に抑遏せむとしたりき。是に於てか、伯が内より政治を改革せむとするの計畫は失敗に歸し、時代は伯を促がして國民と握手せしめ、以て伯の公生涯に分界線を劃したりき。伯が明治十五年を以て政黨を組織したるは、蓋し新らしき政治的日本を建設せむが爲に新らしき手段を必要なりと自覺したる結果のみ。爾來伯は稀れに政府に出入し、一たびは自ら首相となりて内閣を組織したることあれども、常に政黨を基礎としたる立憲政府の完成を期せざるなく、殆ど一身の得失を忘れて藩閥と奮鬪したりき。
顧みて陸奧伯の行徑を見れば、伯の前半期は、藩閥に對する謀叛を以て一貫したりき。勿論伯は著名なる維新の功臣にも非ざれば、明治の初期に於ける伯の資望は、未だ甚だ言ふに足るものなかりき。加ふるに伯の人格は藩閥の大勢力たる大久保利通の理想に適合せざりしを以て互ひに相反撥し、終に伯を驅つて不平黨の一人たらしめたりき。伯は木戸孝允に説くに國民主義と薩摩征伐の策を以てしたれども、謹愼なる木戸は持重して敢て妄りに動かざりき。獨り今の井上侯は大久保攻撃の勇將として聞え、頗る伯と意氣投合したりし如しと雖も、其の勢力孤弱にして固より大久保黨と對抗するに足らざりき。
其の大阪府判事、神奈川縣知事、租税權頭、及び元老院幹事等の諸官を歴任して、前半期の終結たる明治十一年の隱謀事件に至るまで、伯の胸中に畫きしものは唯だ藩閥政府を顛覆せむとするの戯曲のみ。而して其の最後の幕は、伯の戯曲中最も奇矯にして最も露骨なるものなりき。斯くて伯が七年間の囹圄に於て領悟したる眞諦は、恰も大隈伯と正反對の方向を取ることなりき。伯の獄を出づるや、其の曾て敵視したる藩閥者流の助力を得て歐洲に遊び、其の歸るや直に外務省に入りて辨理公使となり、尋いで米國公使となり、轉じて山縣内閣の農商務大臣となり、伊藤内閣の外務大臣となり、子爵となり、伯爵となり、勳一等となりき。此の間に於ける伯の政府改造策は、先づ藩閥と政黨とを結合するを第一着手としたりき。故に伊藤内閣の策士たる伯は、同時に自由黨の謀主たりき。伯が其の後半期に於て、伊藤公の信頼を藉つて自己の理想を實現せむとしたるは、猶ほ大隈伯が其の前半期に於て、自己の經綸を行はむが爲に、必らずしも大久保黨たりと目せらるゝを避けざりしに同じ、以て兩伯の出處進退に兩樣の意匠あるを見るべし。
世或は大隈伯の後半期を以て失敗の歴史と爲す。若し政權に近接せざるが故に失敗なりといはば、明治十五年以後の大隈伯は實に失敗の政治家なり。伯の後半期二十五年間の大部分は、全く政府と絶縁せられたる歳月なればなり。然れども伯が政治家としての實力及び偉大は、寧ろ此の後半期に於て十分發揮せられたりき。朝側の二大勢力たる山縣伊藤兩公も、時としては此の二大勢力の聯合したる政府も、其の系統を承けたる桂内閣も、乃至西園寺内閣も、最も大隈伯の存在を重視し、大隈伯の活動を畏憚し、大隈伯の監視、批評、向背に對して喜憂を感じたるのみならず、伯の意見は往々日本國民の利害を代表するものとして列國の政府及び國民を聳動したる場合少なきに非ず。伯豈失敗の政治家ならむや。但し伯は政權に近接したる機會に於ても、亦久しからずして之を喪ふが故に此の點よりいへば、伯は疑ひもなき政治上の失敗者なるに似たり。伯は條約改正問題を以て黒田内閣を瓦解せしめたりき。松方侯と聯合内閣を造りて其の終りを善くする能はざりき。憲政黨内閣の首相として其の統一を維持すること能はざりき。伯を閣員としたる内閣は、不幸にして必らず内部の分裂より破れたりき。之れを伯の失敗といはゞ失敗たるに相違なきも、其の失敗は未だ以て伯の政治家たる名聲を毀傷するに足らざるなり。元來伯は常識の天才なれども、伯は其の常識を行ふに當つて、動もすれば物理學上の重力法を無視するの嫌ひあり。例へば伯は決して單純なる放言壯語家にあらずして、又實に謹愼自重の徳あり。而も伯は屡々此の兩極の垂直を保つの用意を缺けることあるが爲に、或る社會の人は伯を無責任の政治家なりと冷嘲せり。伯は必らずしも剛情我慢、他を壓例して自ら喜ぶものに非ず、又善く交讓し、善く調和し得るの雅量を有せり。而も伯は屡々此の雅量と剛情との水準を秤るを忘るゝことあるが爲に、共同者の憤懣を買ふことあるを見たり。伯は反對黨の惡口する如くに、常に便宜に從つて意見を製造する臨機主義者に非ずして、又一家の信條と一貫の理想とを有する政治家なり。而も伯は屡々臨機主義者なりと誤解せらるゝの傾向あるは何ぞや。是れ重力法の原則に頓著せざるが爲なり。今一つ伯に於て發見する所は、伯が清濁併せ呑むの大度と、群情を駕御するの術との間に重力法を應用すること周到ならざるの迹あること是れなり。蓋し伯は自信強きが故に、如何なる人物をも包容して其の材料を盡さしめむとし、且つ如何なる不平の聲も之れを鎭撫するに於て多くの苦心を要せずとするの風あり。概言せば伯の人格は、圓滿といふよりは寧ろ多面といふべく、完美といふよりは寧ろ偉大といふべく、而して其の本領は、目前の成敗を顧みずして、我が爲さむとする所を爲すの男性的活動に在り。
陸奧伯の人格は、大隈伯と自ら別種の模型を有せり。伯は神經質の才子にして、若し伯より野心と覇氣とを除かば、或は詩人文學者の質に近かきやも知るべからず、伯は天才の詩人に見るが如き鋭敏特絶なる直覺力を有し、又泰西著名の文學者に見る如き深刻なる觀察眼を有せり。然れども此の直覺力と觀察眼とは、伯の野心及び覇氣と抱合して、聰明自ら恃むの政治家を鑄造したりき。伯は人の隱微を讀み、敵の弱點を指し、世の情僞を察し、事の利害を斷し、理の是非、機の先後を判ずるに於て、電光の暗室を照らすが如し。唯だ伯は聰明自ら恃むが故に毫も衆俗を送迎して人望を收めむとすることなく、衆俗も亦伯の豺目狼視に觸るゝを好まずして自ら伯と親まざるに至る。是を以て伯には獨り個人的能力の伯を重からしむるものありて、國民に對しては殆ど何等の感化をも及ぼしたるものなかりき。伯は曾て伊藤内閣と自由黨との連鎖たることありしも、若し伯をして自由黨統率の任に當らしめば、到底星亨の爲し得たりしものを爲し得ざりしならむ。伯或は政黨の謀主たるを得たらむも、理想的黨首の器は之れを伯に望むべからず。伯は智力の輪轉機なり。滿身總べて是れ智力にして、其の道徳も、其の勇氣も、其の感情も皆智力を以て指導せらる。故に伯に在ては智力と一致せざる道徳は愚なり、智力より生ぜざる勇氣は暴なり、智力に伴はざる感情は痴なり。眞の道徳、眞の勇氣、眞の感情は智力を本位としたるものにして、智力は眞なり、美なり、善なり、絶對的尊貴なり。故に伯は智者を服すれども、勇者を服する能はず、血性家を服する能はず。是れ伯の勢力圈の甚だ狹かりし所以なり。
然れども伯の智力本位は、其の人格の色彩輪廓を瞭然たらしむるを以て伯と相見るものは伯に於て一の僞善を認めず、心々直に相印するの感を生じて、伯に信服するものは恰も宗門的關係を胥爲するに至るべし。故に伯は多數の信服者を作る能はざりしも、其少數信服者は悉く小陸奧宗光なり。否らざるは陸奧宗光の熱心なる崇拜者なり。唯だ夫れ輪廓の餘りに瞭然たる人格は、其の實質概して狷介にして餘裕なし。偉大なる人格の第一特色は、受納力の宏博なるに在り。概括力の富贍なるに在り。統率力の優勝なるに在り。此の點に於て大隈伯は獨り當代に雄を稱し得べく、陸奧伯の極めて個人的獨尊的なると頗る其の人格を異にせり。大隈伯は政治に於てデモクラシーを主張すると同時に、其趣味に於てもデモクラチツクなり。之れに反して陸奧伯は、政治の原則としては亦均しくデモクラシーを信ずと雖も、其の趣味は或る意義に於て全くアリストクラチツクなり。彼は凡俗を好まず、又凡俗の好む所を好むこと能はず。彼は凡俗と天才との間には踰ゆべからざるの鴻溝あるを信じ、滔々たる凡俗は、到底天才者の頭腦を領解する能はずと思惟せり。若し大隈伯を以て思想界のトルストイとせば、陸奧伯は稍々ニイチエに類似すと謂ふべし。ニイチエの奇崛獨聳は嶄然として時代の地平線を超越したるものありと雖も、終にトルストイの感化の偉大なるに及ばざるなり。陸奧伯の大隈伯に於けるは、猶ほニイチエのトルストイに於ける如きのみ。(四十年十一月)
伯爵 板垣退助
板垣退助
世に傳ふ、板垣伯は兩面ある人物なり






余の別に見る所とは何の謂ぞ













元勳諸老にして政黨を組織したるものは、彼を外にして大隈伯の改進黨あり、後藤伯の大同團結あり、西郷侯の國民協會ありき


西郷侯の國民協會を組織するや、自ら樞密議官を抛つて公然之れが首領となり、以て一旦大に爲すあらんとするの意氣ありしにも拘らず、其一躍して内閣に入るや復た冷然として一顧を協會に與へざるの奇觀あり











人或は曰く板垣伯入閣は無條件なり、彼れは總理の資格を以て入閣する能はずして元勳の名義に依りて入閣す





故に彼れの入閣は、少なくとも政黨内閣に進むの門戸を開き、以て今後の政局に一變化を與ふるの動機となりたるものなり














彼れは能く始めより政黨の眞意義と眞作用とを融會したりしや否や、將た政黨内閣を組織するの自信を有して自由黨と飽くまで進退を倶せんとするや否や、共に吾儕の知る所に非ずと雖も、とにかく日本政黨中に在て、彼れは最も舊き歴史ある自由黨の首領として、比較的成功を得たるの事實は甚だ多とするに足れり

最近の板垣伯
其一 劈頭の喝破
曾て自由神の化身として、憲政の天國を建設す可く藩閥の惡魔と健鬪したる老英雄も、今や其の屠龍搏虎の手を收めて、平和にして且つ女性的なる社會事業に老後の慰藉を求むるの人となりぬ。曰く風俗の改良、曰く日本音樂の改良、曰く勞働者の保護、曰く盲人の教育、曰く女囚乳兒の保育、是れ彼れが老夫人の熱切なる同情と協力とに頼りて、現に社會に寄與しつゝある生涯の殘光なり。彼れの前世紀は、血の歴史なり、戰鬪の歴史なり、波瀾多き歴史なり。彼れは屡々不忠不臣の名を受けたりき。彼れの一擧一動は常に探偵の報告資料たりき。彼れの黨與は總て叛逆匪徒を以て目せられたりき。あらゆる迫害、あらゆる追窮は、高壓力に富める武斷政府に依りて間斷なく試みられたりき。豈唯だ此に止らむや。彼れは反對黨の毒刄に傷けられて殆ど生命を喪はむとしたりき。嗚呼當年の彼れを以て之れを現時の彼れに比せば、殆ど喬木を出でて幽谷に遷りしが如し、誰れか其の變化の甚しきに驚かざるものあらむや。
然れども彼れは二十餘年間國民的運動の首領たりしが爲に、其の資望は尚ほ隱然として、重きを公私人の間に有せり。彼れが勢力の源泉たりし一大政黨は、既に彼れの手を離れて伊藤侯の領有に屬したれども、新首領の訓練未だ到らずして、往々舊首領の復活を希望するものあるのみならず、世には人の美徳を歎美するもの稀れにして、寧ろ他の意中を曲解するを喜ぶの批評家多きがゆゑに、彼れ少しく動けば、揣摩臆測紛然として隨ひ起る、自由黨再興の風説の如き、即ち其の一なり。
板垣の復活、自由黨の再興、何たる捏造説ぞ、余の夢にも覺えざる虚聞なり。
是れ彼れが記者を其の應接間に迎へて、微笑を帶びながら、而も極めて明白に喝破したる劈頭語なりき。曩に高知政友會支部に紛擾あるや、彼れは老躯を起して故郷に歸れり。其の紛擾に對して、自ら責任ある裁决を與へむが爲には非ず、唯だ郷黨の要望に應じて、情誼上の忠告を與へむが爲に外ならざりき。彼れは一種の意見書を發表したりき。此の意見書には政治哲學の旨義を含蓄せる文字あれども、政黨首領の其二 時代の事業
彼れは白縞の綿服に紺太織の袴を着け、籐椅子に凭れて日本製のシガレツトを吹かしながら、反切明亮なる土佐音にて談話を續けたり。
政治界は權勢、名譽、利祿及び人爵の中心點なり。故に世俗の欲望皆此に集注す。獨り社會事業に至ては、本來無報酬にして一も如上の欲望を
かしむるに足るものなし。是れ政治的退隱者たる板垣の爲に好個の事業に非ずや。
彼れは斯く語りつゝ、眞摯なる鳶色の目にて記者を見詰めたり。三分の神經質と七分の多血質とを調和したる相貌は、今も尚ほ依然として異状なき健康を保持し居れども、其の額際より頬の邊りを繞りて、蜘蛛の巣の如く織り出されたる無數の皺紋は、深刻にして精苦なりし閲歴の默示として、頗る記者の同情を刺戟したりき。村夫子らしき質朴の風采にも、流石に第一流の國士たる品位は備はりて侵かし難く、純白にして柔滑なる絹樣の美鬚髯は、奇麗に梳られて顏面の高貴なる粧飾と爲れり。凡そ人物の精力は、大抵一期の時代事業終ると共に竭くるものたり。明治の時代を見るに、維新政府の建設より國會開設に至るまでを第一期と爲す可く、國會開設より憲政黨内閣の組織に至るまでを第二期と爲す可く、第一期の時代事業は、專制主義の政府に代ゆるに立憲政府を以てして、國民に參政權を享有せしむるに在りき。是れ最も重大にして最も困難なる時代事業にして、歐洲に在ては、之れを仕遂ぐるが爲に殆ど百年以上の苦がき運動を要したりき。日本の板垣伯は、明治六年始めて其の同志と與に民選議院の建白を提出したり。而して十四年には、國會開設を豫約し給へる詔勅の煥發あり、二十二年には國民歡呼の間に憲法發布せられ、其の翌年には待ち設けたる初期の議會は召集せられたりき。是れ豈驚く可き速力を示せる成功に非ずや。彼れは此の成功の分配者として最大なる人物なり。彼れは他の如何なる政治家よりも、此の第一期の時代事業に貢献したる功勞多きは、爭ふ可からざる事實なり。伊藤侯は憲法立案者の名譽を獨擅し得可し、然れども此の名譽は、板垣伯が國民的運動の首領として根氣よく國會論を繼續したる賜のみ。故に伊藤侯が故陸奧伯の献策を納れて、彼れの率ゐたる舊自由黨と提携せむとするや、先づ彼れと會合し、徐ろに説て曰く、足下は國會開設の主動者なり、我輩は憲法の立案者なり、乃ち立憲政治の美を濟すの責任は、懸つて足下と我輩との双肩に在らずやと。是れ一時人を欺くの甘言たるに過ぎずと雖も、事實は之れを眞理として承認せざる可からず。彼れは日本憲政史上に永久磨滅す可からざる千古の格言を留めぬ。如何に其の沈痛にして天來の音響を帶びたるかを記臆せよ、曰く板垣死すとも自由は死せずと、是れ實に國民的運動の大精神を代表したるものに非ずして何ぞや。彼れの名は此の格言に依て萬世に感謝せらる可し。たとひ岐阜の遭難に死したりしとも、彼れに於て復た何の遺憾あらむ。况むや生きて第一期の時代事業を完成し、併せて其の當初の理想を實現したる政黨内閣をも、一たびは大隈伯と聯合して之れを組織したることあるをや。彼れは第一期の時代事業に竭くす可かりし精力を餘まして、之れを第二期の事業にも使用したるがゆゑに、是れ所謂る強弩の末、魯縞を穿たざるもの。記者は寧ろ彼れが退隱の遲かりしを惜む。
顧ふに舊自由黨は、彼れと與に産まれて、彼れと與に成長したるものなり。彼れ一旦悟る所あるや、何の惜氣もなく、無代價にて之れを伊藤侯に讓與したりき。是れ人情の忍び難しとする所なれども、彼れに在ては疑ひもなく明哲の處置たり。蓋し今の政治界に立つものは、皆權勢利祿を得むことを目的とし、此の目的を達するに最も都合善き首領を求めて之れに頼らむと欲するものに非るなし。而も彼れの位地及び人物は此の點に於て黨人の望を繋ぐに足らざるを如何せむや。彼れが人情の忍び難きを忍びたるは、更に之れよりも一層忍び難きものあるを恐れたればなり。
其三 社會改良
圓卓を隔てゝ彼れと語れる記者は、如上の理由に依りて彼れの退隱に同情を表するを禁じ得ざりき。此に於てか彼れの社會事業は、又た滿腔の敬意を以て之れを迎へざること能はざりき。彼れは社會改良の必要なる所以を説て曰く、
憲政の完美を謀らむとせば、社會の根柢を鞏固ならしめざる可からず。社會の公徳腐敗しては、獨り政治の健全ならむことを望むも難からずや。而して社會の公徳は、宗教家若くは道學先生の説教のみにて維持し得可きに非ざれば、先づ有形上の禮節作法より矯正し始むるを要す。是れ余が風俗改良に着手したる所以なり。
彼れは
余を顧問としたる婦人同情會は女囚携帶乳兒保育會なるものを組織したり。是れ其の名の如く女囚の携帶乳兒を引取りて、之れを保育するを目的とする慈善事業なり。凡そ襁褓の乳兒にして、其の母の有罪なる爲めに、均しく獄中に伴はれて陰欝なる囚房の間に養育せらる、天下豈此に過ぐるの慘事あらむや、彼れ携帶乳兒の、斯く獄舍の生活に慣るゝや、反つて普通兒童の活溌なる遊戯を喜ばずして、再び獄舍に入らむことを望むものあるに至る。
彼れは談じて此に至り、殆ど感慨に堪へざるものゝ如く、其の瞼邊は少しく濕るみ、其聲は少しく顫ひぬ。一女囚の携帶せる乳兒は、母乳の不足なるが爲に、麥飯の
液 を飮用せしめたるに、激烈なる下痢を起して死に瀕したり。婦人同情會は之れを引取りて治療を加ふるや、此の半死半生の乳兒は、忽ちにして健康體に復したりき。母の刑期滿つるを聞きて、其の監獄に携へ往きて母子を會見せしめたるに、母は喜び極まつて泣き、以後決して罪惡を犯さずと誓へりとぞ。又た一乳兒あり、聲を發する毎に臍凹み頭腦は腫張して頗る畸形なりき。其の病源は不明なれども兎に角之れを引取りて養育したるに、頭腦は常態に復し、臍部の奇觀も止みたりき。
彼れは

眞の慈善家は大抵資財なく、富めるもの多くは慈善家にあらず、儘ならぬ世や。
と語り終りて座に復せり。其四 彼れの人格
記者が彼れに於て見たる人格には、膽識雄邁、霸氣人を壓する大隈伯の英姿なく、聰敏濶達、才情圓熟なる伊藤侯の風神なく、其の清

記者は彼れの應接間を辭せむとしつゝ、端なく三個の額面に注目を導かれぬ。彼れは記者の問に應じて身を起し、先づ南面の壁上に掛れる金縁の大額を説明して曰く、
是れ普佛戰爭後に於ける第一囘の佛國國民議會なり。左側に起立し、頻りに手を揮つて何事か發言しつゝあるの状を爲せる鬚武者の男は、有名なるガムベツタなり。彼れは急進過激黨の首領として、斷然共和政府を建設す可しと主張し、當時盛むに國民議會の議場に暴ばれたりき。中央の椅子に坐を占め、群衆に取り圍まれて沈思默考しつゝあるは、穩和黨の首領チエールなり。彼れは共和政府建設論に對して、猶豫決する能はざるが爲に、急激黨の難詰を受けつゝあるなり。
彼れは更に他の一額に向へり。是れ伊太利統一後始めて開きたる伊太利議會の寫眞なりき。彼れの持てる扇子は、起立せる異裝の一漢子に觸れたり。彼れは曰く、見よ、破れたる軍帽を冠むり、長がき外套を着し、一人の從者を伴ふて議場の片隅に起てる質朴漢は、是れ議會の光景を見むとて來れるガリバルヂーなり。
彼れは曾て日本のガリバルヂーを以て稱せられたりき。其の多感にして侠熱ある、夫れ或はガリバルヂーに私淑する所あるに由るか。最後に彼れの説明せる石版繪の額は、此應接間に於て最も珍奇なる紀念品たりき。舊式の武裝を爲したる十四五人の軍人は、或は鐵砲を捧げ、或は刀を撫して撮影せられぬ。而して彼れは三十歳前後の血氣盛りなる風貌に於て其の中に見出されしが、其の面影は今も爭はれぬ肖似を認識せしめたりき。此石版繪は、彼れが會津征伐より凱旋して、部下の士官を隨へ、江戸市中を遊觀したる時、通り掛けの寫眞屋にて撮影したるものゝ複製なり。彼れは之れを説明しつゝ滄桑の感に堪へざるものゝ如し。顧れば彼れの出發點は軍人にして、中ごろ改革家と爲り、國會論者と爲り、政黨の首領と爲り、終には社會改良家と爲りて、最も平和なる生涯に入る。是れ譬へば急湍變じて激流と爲り、更に變じて靜流と爲り、而して後一碧洋々たる湖沼と爲れるが如し。此の點よりいへば、人生自然の順序を經過したりといふ可し。然れども彼れの生涯を一貫して渝らざるものは、利害よりも良心に動され易き性情是れなり。是れ彼れの彼れたる所以なり。(三十五年十月)
古稀の板垣伯
























公爵 山縣有朋
山縣有朋
世間、山縣有朋を見る何ぞ其れ謬れるや。彼を崇拜するものは曰く、重厚端※[#「殼/心」、45-下-16]古名臣の風ありと









伊藤前内閣倒れて松方内閣將に成らんとするや、衆皆彼を以て首相に擬し、慫慂已まず










試に彼が黒田内閣の時代に於ける出處を見よ














彼は最も失敗を恐る











山縣侯の政治的系統
其一 山縣侯の潛勢力
有體に云へば、山縣侯は政治家として今尚ほ顯勢力を有するの人に非ず





されど不思議なるは侯の位地なり







品川子は、侯及び伊藤井上の三老を崇拜して長州の三尊と稱す





顧みて山縣侯の系統を見よ、現内閣に於ては、清浦奎吾、曾禰荒助、桂太郎の三氏固より侯の直參たり









此故に侯が政府部内及び貴族院に於ける潛勢力は、薩長の元勳中一人として之れに及ぶ者あるなし







其二 山縣侯と國民協會との關係
國民協會は山縣侯の直接に關係したる政團に非ず




案ずるに山縣侯は、其思想性格に於て大に伊藤侯と合はざる所あり。山縣侯は保守的思想を有し、伊藤侯は進歩的思想を有し、山縣侯は謹嚴端實の性格にして、伊藤侯は磊落滑脱の氣質なり。且つ山縣侯は由來神經質の人物にして、動もすれば厭世主義に傾けども、伊藤侯は快豁なる多血質にして、樂天主義の人物なり。其公私の行動に於て往々衝突することあるは、亦已むを得ずと謂ふ可し。大岡氏は政治家としては固より伊藤侯を推す可きも、山縣侯とは亦切て切れられざる關係あるに於て、其兩侯の睚眦反目を融解せむと勉むるは何ぞ怪むに足らむや。
山縣侯が第二次内閣を組織するや、協會員中議論二派に分かる。甲は絶對的に内閣を助けむと主張して、乙は超然内閣にては反對するの外なしと主張し、大岡氏の如きは寧ろ後者の主張者たりしと雖も、是れ唯だ一時の權略にして、實は山縣内閣をして自由派と提携せしめむとするの意たりしならむのみ。蓋し山縣内閣をして自由派と提携せしむるは、是れ山縣伊藤兩侯をして調和せしむる所以なればなり。而して大岡氏は終に其目的を達せり。山縣侯は一切の感情を棄てゝ自由派と提携し、伊藤侯も亦其擧を贊して、背後より山縣内閣に應援す可きの約を爲したり。此に於て國民協會は純然たる山縣内閣の與黨と爲ると共に、衆議院に一名の政友を有せずと目せられたる山縣侯は、此に新たなる忠實の政友を有するに至れり。
其三 山縣系統の兩派
國民協會は既に山縣侯の忠實なる政友と爲れりと雖も其中固より兩派あり。保守主義を有するものと、進歩主義を有する者と是れなり。首領品川子は稍々保守主義に近く、政黨内閣には反對の意見を有する人なり。佐々氏の熊本國權派は、初めより絶對的に政黨内閣を非認する保守主義を有するものたり。之に反して大岡、元田等の一派は、時勢の變に際して政黨内閣の避く可からざるを信ずるものなり。彼等は精確の意義に於ける進歩主義を有するものにあらざれども、少なくとも時勢と推移するの術を解するものなり。此點に於て佐々等の國權派と内政に對する政見を異にするは疑ひもなき事實にして、其山縣侯の爲に謀る所以のもの隨て自ら徑庭あるを見る可し。國民協會以外に於ける山縣系統の人物を見るに、亦進歩保守の兩派に分かれたり。保守派の最も極端なるものは、都筑、園田、野村、古澤等にして、彼等は啻に政黨内閣を忌むこと蛇蝎の如くなるのみならず、政黨と提携するすら既に内閣の尊嚴を失ふものなりと信ずるものゝ如し。憲政黨内閣の成るや、園田男は其内閣を認めて帝國の國體を破壞するの内閣なりと罵り、自ら警視廳を煽動して之れに反抗を試みむとしたる人なり、野村子は曾て客に語りて、議會は幾たびにても解散して可なりと主張し、豫算不成立の不幸は、内閣大臣以下腰辨當にて之れを償ひ得可しとの奇論を吐きたる人なり、古澤氏は往時自由黨に入りて民權を唱へたる人なれども、其後長派の恩顧を受くるに及で、一變して藩閥黨と成り、近來は帝王神權説を主張して、極力政黨内閣に反對し、都筑氏は、井上伯が嘗て官吏と爲るの外には潰ぶしの利かぬ男なりと評せしほどの自然的吏人にして、吏權萬能の主義を固執せる保守的人物なり。山縣内閣の將に自由派と提携せむとするや、氏は最も強硬なる非提携論者にして、山縣侯に勸むるに飽くまで超然内閣の本領を立つ可きを以てしたりといふ。聞く氏は山縣系統中に在て、最も才氣峻峭なる壯年政治家なりと。然るに其時務を辨ずるの迂濶なること斯の如きは、豈學に僻する所あるが爲ならずや。朝比奈知泉二宮熊次郎の兩氏は、山縣侯に深厚なる同情を表する政論家なり。朝比奈氏は曾て侯の機關たる東京新聞主筆として、夙に非政黨内閣を主張し、其後日々新聞に筆を執るに及でも、終始其主張を改めざる人にして、其屠龍縛虎の雄文一世を傾倒して何人も敵するものなし。聞く非政黨内閣は氏の持論なりと。二宮氏は曩きに獨逸に留學して、國家主義を齎らし歸り、今や現に『京華日報』の主筆として、日に政黨攻撃の文を草し、伊藤侯が内閣を憲政黨に引渡したるの擧を目して亂臣賊子の所爲なりと極論したることあり。此兩氏は共に山縣系統の保守派にして、唯だ朝比奈氏は二宮氏に比して少しく温和にして變通あるを異りとするのみ。
更に山縣系統の進歩派を見るに、實は極めて少數にして、正直に政黨内閣を信ずる者は、恐らくは絶無なる可し。されど清浦、曾禰、桂等の諸氏は半ば政黨内閣を信じ、青木子に至ては十中八九までは政黨内閣論に傾き、現に山縣内閣成るの前、自ら憲政黨に入黨を申込みたりといふを見れば、子は遠からずして政黨員たるの日ある可し。
山縣系統は以上の如く兩派に分かれ、兩派互に侯を擁して、第二次内閣を組織したるを以て、其内閣は超然を本領とするにもあらず、政黨を基礎とするにもあらざる雜駁の内閣を現出するに至れり。世間或は山縣侯を以て憲法中止論者とするものあれども、事實は大に然らず。侯は謹愼周密の小心家にして、決して憲法を中止するが如き大英斷を施し得る如き人物に非ず。唯だ侯の系統に屬する屬僚中に無責任の激論を爲すものあるが爲め、世人をして侯を誤解せしめたるのみ。但し昨年伊藤内閣の末路に方りて、宮中に元老會議あり。伊藤侯の提出したる善後策に對して、黒田伯の憲法中止論出でたるは、事實として傳へられたれども、是れとても伯が熱心に主張したるには非ざりしといふ。山縣侯の謹愼を以てして、豈斯くの如き暴論を唱ふることあるべけんや。
余は曾て侯は出處に巧みなる人なりと評したることあり。其今囘に處する所以の者を觀るに、亦頗る其巧處あるに感服すと雖も、侯は到底政治家に非ず。久しからずして必らず退隱せむ。唯だ其現在の位地は、侯が從來養ひ來れる潛勢力によるものなるを知らば、侯の潛勢力にして存在する限りは、侯は決して未だ政界の死人に非ずと知るべし。(三十二年一月)
山縣首相に與ふ


侯爵山縣公閣下、我輩は多年閣下の政敵として論壇に立つものなりと雖も、閣下の徳を頌するに於て、亦敢て政府の屬僚に讓らざるの誠實を有せり、彼の政府の屬僚が閣下の徳を頌するや、動もすれば其過失をも辯護して閣下を誤らむとするものあり、我輩の閣下の徳を頌するや、唯だ其頌す可き所以を頌して、有りのまゝに所見を披陳するに外ならず、隨つて閣下の過失を擧示して忌憚なき所あるも、故らに訐いて以て直とするには非ずして、之れを閣下の聰明に訴へて、萬一の反省を求めむと欲するの微意のみ、我輩は曾て閣下に何の恩怨なく、又何の求むる所なし、則ち其歎美す可きを歎美し、攻撃す可きを攻撃するに於て、一に事實と理義に據りて公明正大の論斷を下だすに過ぎざるなり。
相公閣下、率直にいへば、我輩は閣下を當世の大政治家として、其人物を崇拜するものに非ず、又内治外交の政策に付ても、我輩は不幸にして多く閣下に同情を表する能はざるを悲む、さりながら維新の元勳として閣下の功勞は遠く伊藤井上の二者に出で、其維新後に於ける文武の事業も、亦赫々として人目に輝くもの多し、乃ち我輩は閣下の人物及其政策に敬服せざるの故を以て、決して閣下の國家に貢献したる功勞を忘るゝものに非ずと雖も、此れと同時に、我輩は近來閣下の政治的過失頗る少なからざるを認識し、而して閣下の晩節之れが爲めに大に負傷したるの事實をも認識するに於て、こゝに謹で閣下の處決を促がすの公開状を與へんとす。
相公閣下、閣下は議會の盲從に依りて、既に二大宿題を解釋し得たり、一は第十三議會に於ける増租案にして、一は第十四議會に於ける衆議院議員選擧法なり、此二大宿題は共に前代内閣の持て餘ましたるものたりしに拘らず、閣下の内閣は終に能く議會の協贊を得たり、閣下の得意も亦想ふ可しと爲す、而も此れを以て、閣下の内閣極めて鞏固たるの證と信ぜば甚だ誤れり、况むや其の二大宿題の通過の如き、國家の利害より見れば、必ずしも喜ぶ可き成功なりと認む可からざるに於てをや、且つ閣下は内閣組織以來、前代未聞の政治的過失を行へり、顧ふに此の過失は半ば受動的行爲に出で、閣下の本意に非るもの多からむ、凡そ人を殺すは罪惡なれども、故殺と謀殺とは、其犯罪の度合に輕重あり、閣下の過失は譬へば故殺罪の如く、始より豫備あるの着手に非る可きも、さりとて閣下固より其過失に對する責任を



山縣相公閣下、世には閣下を目して出處進退に巧みなる人なりといふ者あり、我輩も亦閣下が謹愼にして、常に出處進退に注意するの周到なるを信ずれども、獨り閣下が餘りに國家を憂ふるに切なるが爲に、反つて自家の本領に背きて、漫然今日の難局に當りたるは、我輩甚だ閣下の爲に歎惜する所なり、閣下或は國家の急、敢て一身の利害を顧るに遑あらずと言はむ、此の類の言語は、古來往々愛國者の口より聞く所なりと雖も、國家の急は決して斯る單純なる思想の能く濟ふ所に非るを奈何せむや。
曩に閣下の内閣を組織するや、自ら天下に告白して、我れは一介の武辨なりといへり、是恐らくは閣下の謙辭に過ぎざる可しと雖も、其の中亦閣下が自ら知るの明あるをも表示せり、今此の自知の明ありて、尋常愛國者の軌轍を脱する能はず、強て國家の急に赴て之を濟ふ所以の經綸なく、而して其の有る所のものは一時姑息の施設に非ずむば則ち行政の紊亂と、議院政略の小成功とを見るのみ、是れ豈閣下の初心ならむや。
相公閣下、閣下にして若し其初心を點檢せば、閣下恐らくは一日も現時の位地に晏然たる能はじ、我輩の見る所に依れば閣下は初期議會を切り拔けたる時を以て、正さしく閣下が政治舞臺の千秋樂と爲すべかりき、蓋し初期議會は、我國方に憲法政治の開闢時代に屬し、内外の人、皆半信半疑の眼を以て、政府及議會の行動を凝視したり、現に歐洲の學者中には、憲法政治を以て東洋人種に適せずと論ずるものありしを見るに於て、政府も議會も、當時實に世界の公試驗を受くるの位地に在りたりと謂ふべし。果して大衝突は始まれり、議會は殆ど解散の危機を踏まむとしたりき、而して閣下は當時の内閣に首班として慘憺の經營を竭くし、終に能く議會を平和の間に閉會せしむるを得たりしは、固より閣下の名譽ならずと謂ふ可からず、閣下乃ち此の時を以て内閣を退きたるは、其の出處進退亦巧みならずと謂ふ可からず、閣下若し當時の隱退を以て永久の政治的訣別としたらむには、閣下は清淨圓滿なる晩節を保全し得て、帝國憲法史上の第一頁を飾るの人物たらむなり、而して斯くの如きは實に閣下の初心たりしや疑ふ可からず。
惜いかな、閣下は稀有の愛國者たる故を以て、反つて其初心を喪ひ、國家の急を坐視するに忍びずと稱して敢て今日の難局に當り、以て初期議會に博し得たる名譽を臺無しにするの過失を行ひたり、一昨年閣下が内閣を組織するや、識者は閣下の聰明に異状あるを注目して、竊かに其前途を危みたり、是れ他なし、議會開設以來既に十餘年を經過したる時代は、人文の進歩よりいふも、内外形勢の變化より見るも、到底前世紀の賢人等が出現す可き幕ならずと信じたればなり、我輩は必ずしも此見地に雷同するものには非ず、世の所謂る前世紀の賢人中にも、智力根氣共に強壯にして、尚ほ能く時代の精神を驅使する人物なきに非ざれども、而も此の見地は、大體に於て眞理を外づれざる鐵案たるは論ずるまでもなし。
相公閣下、我輩は閣下の尊敬す可き賢人たるを知る、之を知るが故に、我輩は閣下の生涯に汚點少なからむことを望みたり、之れを望みたるが故に、今や其晩節を傷けたるを見て、閣下の爲に




山縣相公閣下、閣下にして若し初期議會以後の時代を領解し、曾て超然として政界の外に高踏したりとせよ、我輩は決して閣下の徳を頌するに吝ならじ、顧ふに閣下は前には軍制の改革家として、全國皆兵の主義を實行し、後には市町村制度の創意者として、地方自治の基礎を確立したる人なり、閣下は唯だ此の二大事績に依りて、優に明治第一流の元勳たる名譽を要求し得可し、又何ぞ多きを望みて反つて大に失ふの愚を爲す可けむや。
閣下が明治五年陸軍の編制に着手するや、之に反對せるものは、當時軍職を失ひたる多數の舊藩士のみに止まらず、彼の軍人の大首領たる西郷隆盛すらも、亦實に之れに異議を唱へたりき、而も閣下は敢て之れを畏れずして其の所信を斷行し、遂に全國皆兵の徴兵令を發表したりしは、之れも伊藤侯が憲法制定の事業に比して、寧ろ著手の困難なりしを疑はず、而して閣下が此の軍制の改革に成功するや、一躍して直に陸軍部内の指導者と爲り、特に十年の役には、閣下の最も憚りたる西郷黨を殘滅して、武力に誇れる薩閥の根據を拔き以て陸軍省をして遂に長閥の勢力範圍たらしめたりき、今や閣下は、元帥の待遇と陸軍大將の軍職とを有し、凡そ軍人としては此の上もなき最高の位置及び之れに伴へる君寵を享け、即ち所謂る功成り名遂げ、復た世に遺憾なきの人なり、顧みて更に大政治家たらむことを望むは、豈閣下の有終の美を成す所以ならむや。
相公閣下、人生の樂事は自己の天職に忠實なるに在り、閣下曾て日本のモルトケを以て自ら任じたりといふ、而もモルトケは軍人より起りて、軍人に終り、曾て其意を政治上の功名に動かされざりき、是軍事を以て自己の天職なりと信じたればなり、固より我輩は閣下が日本モルトケの自任ありといふを聞て、竊に其の抱負の盛大なるに敬服し、以て伊藤侯が日本ビスマークを自任する意氣と併稱して近代の雙美たるを疑はずと雖も、但だ我輩は閣下が日本モルトケの自任ありて、而もモルトケの如く政治上の功名に淡泊ならざるを甚だ惜むのみ。
或は閣下が自治制度の創意者たりしを以て、閣下に亦た政治的能力ありといふ者あらむ、是れ必らず佞者の妖言にして、閣下は斷じて之れに耳を借す可からず、案ずるに自治制度の實施は實に閣下の大功なり、我輩豈に其の大功を滅せむとするものならむや、さりながら政治は別才にして閣下の長所に非らざるは、閣下自から之れを知れり、自から其の長所に非らざるを知りて久さしく之れに干渉するは、恐らくは智見ある閣下の本意なりとも認む可からじ、見よ自治制度は、現に閣下の統督せる内閣の下に於いて、頗る壞敗したるが爲に、之れを制定したる閣下の名譽に大なる損害を與へたるに非ずや、蓋し自治制度の壞敗は、一は之れを運用する地方自治體の腐敗にも由れど、之れが監督者たる行政官廳の職責を竭さゞるもの亦其の一大原因たり、而して閣下は啻に行政官廳の曠職を匡救する手段を取らざりしのみならず、又明かに其の手段にも乏しきの失體を現はしたり、此點に付ては、我輩更に後文に於て其事實を擧示す可しと雖も、要するに政治上の位地は、決して閣下の久しく居る可き所に非ず、閣下何ぞ早く之れを自覺して、將に來らむとする運命の危機より脱せざるや。


山縣相公閣下、閣下頃ろ某貴族院議員に對して、余は政治上如何なる困難に遭遇するも、決して自ら骸骨を乞ふが如きの擧には出でず、既に第十四議會も幸ひに無事の通過を得たれば、余は來る第十五期及第十六期の議會までも此の内閣を持續して、百般の政務に改善を加ふる心算なりと語れるを傳ふるものあり、是れ之れを傳ふるものゝ妄に非ずむば、恐らくは閣下の心事を誤解するものゝ臆測ならむ。
事實を直言するに、閣下の内閣は、過去一年有半の間に於て、啻に政務に付て何の改善したるものなきのみならず、反つて其失政の大なる、議會開設以後の内閣中、最も顯著なるものなり、議會若し健全にして良心に富み、眞に國民の利害を代表するの行動あらば、必らず一日も閣下の内閣と兩立せずして、早く第十三議會に於て破裂を見たりしや疑ふ可からず、然るに内閣の相手とせる議會は、醜怪なる多數黨派の毒泉に涜がされて其の良心を喪ひ、内閣の失政を匡救するを爲さずして、寧ろ之れを助長せしむるの行動に出でたり、是れ閣下の内閣が、幸ひに原形を今日に保つを得たる所以なり。
故に閣下の内閣にして依然今後に存立することあらむか、此一方に於て議會の愈々腐敗する運命を豫想す可く、一方に於ては又閣下の失政益々増加するをも豫想せざる可からず、斯くの如きは豈國民の能く忍ぶ所ならむや、我輩は必らずしも好で閣下の過失を追究せむとするものには非ず、さりながら閣下にして之れを自覺せざる以上は、我輩は有りのまゝに事實を擧示して閣下の反省を求めざる可からず、顧ふに閣下が一介の武辨を以てして今日の難局に當る初より經綸の一も觀る可きものなきは又當然なりとせむ、而も閣下が自ら天下に宣言したる言責を實行せずして、隨つて國民の閣下に豫期したる冀望の悉く水泡に歸したるは、我輩の甚だ遺憾とする所なり。
相公閣下、閣下内閣組織以來屡



山縣相公閣下、我輩は曾て多くの冀望を閣下の内閣に屬せざりしと雖も、獨り官紀振肅の一事は閣下專賣の政綱たりしを見るに於て、中心實に此點に於ける閣下の特色が十二分に發揮せられむことを期したりき、而も其事實に現はれたるものを觀れば、閣下專賣の貴重なる政綱は、殆ど悉く破壞せられて完膚なく、國民をして閣下の特色の果して何れに在るやを怪ましめたるは我輩甚だ意外の感に打たれざるを得ず手短かに我輩の記憶に殘れるものをいへば昨年の地方議員選擧に際し地方官が行政權を濫用して其選擧に干渉したる如き其一なり、一昨年増租案の衆議院に提出せられたるに際し、小山田某の議員買收に盡力したる勞に酬ひむが爲に、竊に横濱工事受負を某に許可するの私約が、西郷内相と自由黨領袖星亨氏との間に成立したりし如き其二なり、官林拂下問題の醜聞頻りに出でて、曾禰農相の名屡々此間に流傳し、現に農相を黒幕として組織したる帝國黨の領袖が、上毛江州石川青森福井等の各地に於て、官林拂下を條件として黨員を募集したるは世に隱くれなき事實にして、而も曾禰農相の直接間接に之と關係ありしを認識せられたる如き其三なり、凡そ此類の事實は、明々白々掩はむと欲して掩ふ能はざる所にして特に横濱埋立事件の眞相に至ては、在野黨代議士の爲めに公然第十四議會に暴露せられ、以て其餘沫の西郷内相の面上に瀝げるも、内相は曾て一言も之を辯解する能はざりしのみならず列席の議員孰れも之を默聽して相爭はざりしを見れば、閣下の失策は自ら官紀紊亂の事實を認めつゝありと斷言せざる可からず、而して是れ實に方正謹嚴の風采家を以て有名なる閣下の統督せる内閣の現状なり、相公閣下、我輩をして有體に閣下の失策を語らしめば、閣下は不幸にして議院政略を何よりも大切とするの謬見に陷りたり、顧ふに立憲國の内閣に在ては議院政略も亦一の重要なる政略たるを疑はずと雖も、單に内閣の存立を謀るを目的として之れを濫用するに於ては、其の弊の極る所殆ど底止す可からず、乃ち閣下が官紀振肅の言責を實行する能はざるも、亦閣下存立の爲めに議院政略を濫用したる結果に外ならず、英國のワルポールは、此の議院政略に成功して能く其の内閣を十餘年間の久しきに維持したりしも、此が爲めに人心を腐敗せしめ、政界を汚濁せしめたる罪惡は擧げて言ふ可からざるものあり、但だワルポールは初めより正人君子を以て自任せず、其言動亦放膽磊落にして、其人物と頗る相照應したりしも獨り閣下は方正謹嚴の風采家たるを以てして、漫にワルポールの故智を學ばむとするは、我輩甚だ奇異の感なき能はざる所なり。


山縣相公閣下、我輩は特に閣下の議院政略を攻撃するものに非ず、總て既往十餘年間に於ける藩閥政府の議院政略に對しては中心實に感服する能はざるもの多し、最初は超然主義を表面の口實として、裏面に於ては竊に吏黨を製造し、而も輿論の勢力終に當る可からざるを見るや、解散を以て議院を威嚇するを唯一の政略と爲し、屡々無名の解散を奏請して徒らに民心を激昂せしめ、而して立憲内閣の責任に付ては曾て自ら反省する所なかりき、是れ單に内閣の存立を目的として、時局の大體を觀察せざるより來れる暗愚の政略にして、其の最後の勝利が常に議院に歸したりしも復た怪むに足らず、此に於て乎次に政黨提携の事あり、稱して國務を分擔すといふと雖も、實は官祿を懸けて獵官者を買收したるに過ぎずして、眞に政黨を基礎として内閣の鞏固を謀るの意には出ざりき、憲政黨内閣起るに及んで、稍々政黨を基礎とするの體相を表示したりと雖も、政黨の訓練未だ到らずして權力分配の愚論黨人の間に唱道せられ、流石に國民の輿望を負へる内閣も、是れが爲に遂に無殘の末路を見たりき。
今や閣下の内閣は既に二囘の議會を經過して、閣員に一人の更迭なく、内閣改造の説幾度か自由黨に依て唱らるゝも、未だ一個自由黨員の入閣したる者あらず閣下は此點に於て確に議院政略の成功を自負するも可なり、さりながら閣下の議院政略は、其實質に於て既往政府の取りたる政略に比して更に恐る可き濁浪を政界に汎濫せしめたり、此の濁浪は黨人を溺死せしめ、議院を溺死せしめ、延て政府をして亦溺死せしめむとするの猛力を以て進行しつゝあり、顧ふに閣下は内閣組織の當初より、早く其の政略の弊害斯くの如くならむことを豫期せざりしなる可し、唯だ其の如何にもして内閣の存立を永からしめむと欲するに急なる、自ら過失の極處に達するを覺らざるのみ、蓋し閣下は初め獵官を制せむとして或は官吏登庸法を改正し、或は議員の歳費を増加したれども、此れと同時に政治的射利熱を利用して議院を操縱したる結果は、萬般の問題總べて賄賂と報酬とに依て決定し、神聖なる議院をして殆ど一種の株式市場たらしめたり、夫れ政治的射利の弊風一たび行はるれば、議員は毫も國庫の支出を惜まずして、唯だ其地位を營利の具たらしめむと謀る、自由黨が鐵道國有法案を提議したる如きは即ち此れが爲なり、世間或は當期の議會が比較的巨多の議案を成立せしめたるを見て其の成績を著大なりといふものあれども、是れ寧ろ當時議會の腐敗を證するの事實たらむのみ、我輩請ふ閣下の爲めに少しく其理由を語らむ。


山縣相公閣下、我輩の見る所にては、第十四議會の如きは、我國議會有つて以來最も醜惡の議會なりと斷言せざる可からず、我輩は單に九十三日の期間に於て殆ど其の三分二を休會したる故を以て、直に當期議會を怠慢の議會なりと論ずるものに非ず、是れ最初より政府に盲從するを目的としたる議會に於て亦當然の顯象なればなり、如何に盲從の暗號たる讀會省略説の歡迎せられたるかを見よ、如何に盲從の傳令使たる恒松某が政府の爲に重寶がられたるかを見よ、斯くの如くにして盲從相談の委員會は本會議の議事を奪ひ、斯くの如くにして政府の提案は大抵討論を用ゐずして通過せらる、則ち我輩は二億五千四百萬餘圓の大豫算を提出したる政府の大膽を不思議とも思はず、又此未曾有の巨額に對して、僅に軍事費に於て四十餘萬圓を削減したる議會の柔順なるにも驚かざるなり。
議者又當期議會が建議案の頗る多かりしを奇異の顯象なりといふ、然り貴族院に於て十二種、衆議院に於て七十二種の建議案を見たるは、實に初期議會以後の一大奇觀たるに相違なし、特に政府が國庫の負擔を増加するを憂へずして動もすれば漫然之れを迎合するの状ありし如き、固より常識あるものゝ判斷に苦む所たり、さりながら其の原因は頗る單純にして、唯だ是れ議會の壞血症に罹りたる事實を表示する顯象なりといはむのみ、案ずるに此等の建議案中には間々國家的問題を含めるものなきに非ざれども、其の相爭ふて提議したるものは、總じて政治的營利の黴菌に襲はれざるものなし、例へば利益分配の事情の爲に或る黨派の間に紛擾あり、以て一旦衆議院に於て否決せられたりし若松港築港問題の如き、最初は自由黨の黨議とまでなりたる鐵道國有法案が、中ごろ同一事情の爲に除外例を主張する二十七人組を出だし、其の極遂に之れを委員會に握り潰ぶしたる如き、即ち明白に議會腐敗の事實を説明するものに非ずして何ぞや、且つ他の一方に於て、議員涜職法案が薄弱不明なる理由の下に否決せられたること、尾崎發言に關する事實調査の動議が空しく委員會に握り潰ぶされたるとは亦實は議會腐敗の反影なるを認識す可き一大顯象にして、凡そ斯る顯象を以て滿たされたる議會が、國民の利害を顧念とせざる行動あるは又唯だ當然なりといはむのみ。
相公閣下、閣下は二億五千四百萬圓の大豫算を無難に通過したるを以て十分の欣榮とする所なる可し、政治的營利を事として國民の負擔を増加するの建議案を提出する議會は、固より閣下の内閣が提出したる大豫算に削減を加ふる理由はある可からず、閣下も亦寧ろ此の弱點を利用せむとしたり、故に國庫の負擔を増加する建議案も勉めて之れを迎合し、以て財政上他日の破綻を見るを毫も意とせざるなり、而して是れ實に國家の爲めに悲む可きの不幸なり。


山縣相公閣下、我輩は閣下の議院政略が、市價を有する多數の人頭を買收したる點に於て成功したるを認識す、而して累々たる多數の人頭は、金錢若くば、其他の利益を條件として、爭ふて良心を賣り、意見を賣り、投票を賣り、起立を賣りたる政治的市場の取引に對し、敢て張膽明目して精嚴なる道徳上の批評を加ふるは、我輩寧ろ其の徒爾に屬するを知る、さりながら閣下にして自ら其の初心を點檢せば、閣下は宜しく漫りに議院政略の成功に誇るべからず、閣下或は議會を盲從せしめたるを以て能く内閣の目的を達したりとせむ、而も事實をいへば閣下の議會に盲從したるもの亦少しとせず、試に閣下の爲めに一二の實例を開示せむ。
曩きに閣下が第十三議會に臨むや、財政計畫の唯一基礎として地租率を百分の四に増加するの法案を衆議院に提出したりと、其意地租以外の財源を以て到底財政計畫の基礎を鞏固ならしむるに足らずと爲し、即ち他の零細なる歳入に求めずして、專ら地租増徴に依頼せむとするに在りき、然るに閣下の提携を約したる自由黨が多く之れに反對するに及で、遂に最初の提案を一變して、五箇年期を條件とせる三分三厘説に折合ひ、以て僅に議會を通過するを得たり、之れを表面より見れば、單に四分案に對して七厘の減率を爲したるに過ぎずと雖も、實は財政計畫を根本より變更して議會の要求に盲從したるに外ならず、何となれば一定の年期を條件とせる課税法は、既に鞏固なる財政計畫の目的と兩立せざるのみならず、現に此の減率の結果として、別に歳入の補填を他の三税に求めたる如きは、明白に最初の計畫を破壞したるものなればなり即ち定見ある政治家に在ては、斯くの如きは實に不面目の甚だしきものたるに拘らず閣下の内閣が淡然として毫も之れを恥とせざりしは何ぞや。
若し夫れ第十四議會に至ては、唯だ愈々出でて愈々奇なりといはむのみ、試に思へ衆議院の或る一派は、閣下の提出したる未曾有の大豫算に協贊する代償として、運動費セシメの魂膽より生じたる幾多の建議案を提出し、恰も國庫の空巣覗ひを働くが如きの状あるも、閣下の内閣は一も二もなく之れを迎合したるに非ずや、又宗教法案は閣下の内閣に於ける最大最重の提案にして、歐洲の立憲國に在ては實に内閣の進退に關する大問題なり、而も閣下は此の法案の貴族院に否決せらるゝを見て痛痒の表感なかりしのみならず、曾て之れが通過を計る爲に熱心の盡力なく、初めより議會の爲すがまゝに盲從するの態度を示したるは何ぞや、相公閣下、議會は唯だ金錢若くは其他の利益を條件として閣下に盲從し、閣下は唯だ内閣の存立を目的として往々定見なき行動に出づること斯くの如し、我輩は閣下の名譽の爲めに、閣下が内閣首相たる責任の爲に斷々然として此の失體を問はざる可からず、况んや閣下の失體は尚ほこゝに止らざるに於てをや。


山縣相公閣下、顧ふに閣下の議院政略は、單に政治道徳上の一問題として後世史家の評論に任かす可き者に非ず、何となれば閣下の議院政略より岔出したる毒泉は、現に閣下の司配せる各部の行政體統をも膿壞せしめたればなり、夫れ議會の腐敗は、主として議會自身の責任に存すといふを得可きも、行政體統の膿壞は、閣下直接に其の責任を負はざる可からず、是れ即ち政治道徳上の一問題に非ずして、直に内閣大臣の實際的責任問題なり。
例へば横濱埋立事件に就て之を見るも、閣下を辯護するものは、是れ首相の知る所に非らずして粗放なる西郷内相の失體といひ、西郷内相を辯護するものは、亦是れ内相の知る所に非ずして、小松原内務次官の非行なりといふ、抑も知ると知らざるの爭點は自ら別問題なり、乃ち閣下の責任は決して知覺缺乏の故を以て解除せらるゝを得ず、事實たとひ小松原次官一個の非行に屬すとするも、之れに對する匡救の責任は懸つて閣下の肩上に在らずや、然るに閣下は曾て何等の處置を此の間に取らざりしのみならず、其の關係者の一方に自由黨領袖星亨氏あるが爲に、一方は閣下の畏敬せる西郷内相たるが爲に、遂に躊躇して手を下だすを憚りたるは首相たるの威嚴を失墜したるものに非ずして何ぞや更に地方議員選擧干渉に就て之れを見るも閣下は斷じて此の事實を認めずといふを得ざるものたるに拘らず、閣下の内閣は、亦唯だ與黨に壓迫せられて地方官の亂憲的行爲を制する能ざりしに非ずや、其他最近の事實に現はれたるもの、一として行政體統の膿壞と閣下の無能力とを表示するものたるは、我輩の甚だ閣下の爲めに悲む所なり。
聞く閣下は街鐵市有の意見を有する人なりと、其意見の當否は暫らく措くも、内務次官たる小松原氏が擅まに一派の政商と結托して職權を亂用したる罪案を決する能はず、以て頗る内閣の威信を輕からしめたるは、斷じて閣下の失體なりと謂はざる可からず、宗教法案に關しては、閣下初めより一定の成算を有せず偏へに斯波社寺局長平田法制局長等の献策を聽きて生硬未熟の法案を提出し、而も往々地方官をして各地信徒の運動を妨害せしめ、若くは行政權を借て東本願寺に干渉したる如きは、亦閣下の失體ならずと謂ふを得ず、凡そ事斯くの如きは恐らくは閣下の本意に非る可し閣下は常に官紀振肅行政統一を以て自ら標榜するの人たればなり、さりながら閣下内閣を組織してより、曾て官紀振肅行政統一の實を擧ぐることなく、動もすれば與黨の專横と屬僚の跋扈との爲に、内閣の威信と行政機關の紊亂を來すを見るは何ぞや又兩院より建議したる學制調査會設置案の如きは、實際に於て文部省不信任の意義を表明したるもの也何となれば學制の方針を定むるは文部大臣の職責にして他の容喙を要す可きものに非ず、若し學制調査會の設置するの必要ありとせば外交調査會を設置して外交の方針を諮詢し、内務調査會を設置して内務の方針を諮詢し、財政調査局を設置して財政の方針を諮詢せざる可からず、斯くの如くば内閣大臣なるもの殆ど無用の長物たる可きを以てなり、然るに文部省は頃日兩院の建議を容れて省内に學制調査局類似のものを設置するに決したりとは又何の咄々怪事ぞや、此の一事を見ても我輩は行政機關の大に荒廢したるを想像せざる能はざるなり。


山縣相公閣下、閣下の内閣時代に及で、各部の行政機關が頗る荒廢したる事實は、獨り我輩内國人の眼中に映ずるのみに止らずして、東京駐在の列國外交官中にも往々帝國政府の不統一無能力を私議する者あり、現に我輩の聞く所に依れば外人居留地に關する登記事項すらも、政府は容易に其處置を施す能はずして時日を遷延し、其他新條約實施上の交渉案件にして、今も尚ほ滿足なる解答を得ざるもの多きが爲めに、彼等は已むを得ずして當局者以外の勢力家に協議を求むることありといふ、特に私立學校令に付て、文部當局者が外交官の反對の爲に左支右吾の行動ありしは、殆ど公然の事實にして、凡て此般の事、其の帝國政府の威信に關するや頗る大なりと謂はざる可からず。
相公閣下、閣下は元來職守に嚴に、職權を

思ふに閣下は漫に屬僚の小献策に氣觸れて大局を觀るの眼識を失ひ、單に議院政略に成功するを以て能事と爲したるもの、是れ實に閣下が政治の大道を踏み外づしたる所以なり、蓋し彼の屬僚輩の頭腦には、唯だ内閣を出來得るだけ永く維持せんと欲する目的の外には一物なく、而も此の目的は、國家經綸の抱負より來れるには非ずして、實は官職を生活問題より見たる劣情より出でたるに過ぎず、而して彼等が生存競爭の大敵として常に忌憚するものは黨人なるが故に、彼等は先づ此の黨人の獵官心を抑制するに於て如何なる手段方法をも顧みざるに至れり、是れ議院政略の由て生ずる所にして、而も其の之れを施して底止する所なきや、反つて内閣の威信と行政機關の壞敗とを招くに至れるを知らざるなり。


山縣相公閣下、閣下が屬僚の進言を納れて柄にもなき議院政略を亂用したる結果は、殆ど政治をして私利私慾を目的とする一種の營業たらしめ、其の爭ふ所は、官職若くは利益上の條件にして敵味方の分かるゝ起點は亦唯だ此の一事に在り、是れ固より政治階級の總墮落といふの外なしと雖も、一は閣下等を包擁せる屬僚の行動も、亦與つて大に咎めありと斷言せざる可からず。
凡そ今の藩閥家にして、最も多數の屬僚を有するものは閣下に過ぐる者なく、而して其の屬僚の爲めに政治上の過失を犯したるもの、亦閣下より太甚しきものあらじ、伊藤侯は自己の伎倆を信ずるの政治家なるを以て閣下に比すれば屬僚を有すること少なきのみならず、其の屬僚の侯に對するや隨がつて唯だ服從的状態を有するに過ぎずと雖も、而も尚ほ屬僚の爲めに大事を誤まらるゝことなきに非ず、况むや閣下に於てをや、蓋し閣下は常に政治家の位地に

相公閣下、閣下は多數の屬僚を有するに於て今も尚ほ政治上の一勢力たるを失はずと雖も之を政治家の名譽より見れば、決して自ら誇る可きの勢力に非ざるを如何せむ、眞に伎倆ある政治家は、一人の屬僚を有せずして、其の勢力自ら天下に展ぶるを得れども閣下の政治上に於ける勢力は唯だ屬僚の爲に存在し、屬僚の爲に利用せらるゝ勢力たるを見るのみ、閣下の名譽に於て又何の加ふる所ぞ、議會開設以來屬僚は常に褊僻なる國家至上權と、頑愚なる超然内閣論を唱へて藩閥家を利用したりき、是れ黨人に對する屬僚の作戰計畫にして、其の計畫の迂なるや、戰ひ遂に利あるずして政黨の提携と爲り、一轉して憲政黨内閣の時代と爲りたるは、實に最近の事實なり此の間屬僚中にも分裂を生じて自ら政黨に接近するものを出だせりと雖も、其の多數は依然として政黨と利害を異にするものたり、而して閣下は現に此の多數の屬僚に依て包擁せらるゝを見る彼等は閣下を以て最も自己の生存に便利なる人なりと認め、曩きに憲政黨内閣の時代に於て、常に閣下の椿山莊に會合して當時の内閣を破壞するの陰謀を企てたり、顧ふに當時の内閣は、一は自由黨の遠見なき行動に由て破壞したれども、其の破壞の主因は内閣の一部と閣下の椿山莊とを傳流せる一種の電氣力に在りたるは復た疑ふ可からず、閣下願くは我輩をして其説を悉さしめよ。


山縣相公閣下、我輩の記憶する事實に依るに憲政黨組織當時に於ける椿山莊は、實に明治時代の鹿谷として時人の注目を惹きたる位地に在りき、初め伊藤侯が地租問題に失敗して内閣瓦解の危機に立つや、閣下の屬僚は以て閣下再び世に出づる機會と爲し、閣下も亦自ら伊藤内閣の後繼者たる可き運命あることを信じたりき、此に於て乎椿山莊は、閣下を議長としたる大小屬僚の密議所と爲り、伊藤侯が一方に於て早くも内閣を憲政黨に引渡すの準備を爲しつゝある間に閣下の屬僚は迂濶なる内閣相續策を畫して大に閣下の野心を煽揚したりき、而して御前會議と爲り、而して閣下と伊藤侯との物別れと爲り、而して閣下に於ては寢耳に水の憲政黨内閣突如として出現したりき、斯くの如くにして閣下の内閣を夢想したる屬僚の絶望と憤恚とは、殆ど名状す可からざりしなり。
當時閣下の屬僚は、此急激なる政變を目して、伊藤侯の不忠不臣なる行動に歸因すと爲し、中には侯を罵つて國賊といふものすらありしと雖も、國民は寧ろ侯の公明磊落なる心事を歎稱して、古名相の出處進退にも讓らずといひたりき、而も閣下より之れを見れば、閣下は恰も伊藤侯の爲に出し拔かれたる觀ありしを以て、其の伊藤侯の行動に慊焉たらざりしは亦無論たる可し、此に於て乎椿山莊は再び隱謀の策源地と爲り、閣下の屬僚は日夕出入して憲政黨内閣の破壞に着手したりき、此れを聞く、憲政黨内閣組織の發表せられたる頃、石黒忠悳翁偶々椿山莊を訪ふ、都筑馨六氏先づ在りて翁と政變を語り、頗る時事に憤々たるものゝ如し、翁諭して曰く、足下等常に元勳に依頼して大事を濟さむとするは甚だ誤まれり、何ぞ自家の實力と運動とに依りて天下を取るの計を爲さゞる、一時の政變に驚くは年少政治家の事に非ず、氣を吐き才を展ぶるは寧ろ今後に在り、足下宜しく大に奮へよと而も都筑氏及び其他の屬僚は、閣下の威名を借らずしては、何等の着手をも爲し能はざりしなり。
既にして閣下の屬僚は憲政黨内閣の破壞に着手したり、當時の警視廳たる園田安賢男は公然部下の廳吏を集めて煽動的演説を爲し、當時の無任所公使たる都筑馨六氏は自ら内閣の最大有力者なる某伯を訪ふて政黨内閣の攻撃を試み、而して一方に於ては自由黨の權力均分論を奇貨とし、桂子爵の手に依りて内部より内閣分裂の端を啓かしめたり、是れ實に伊藤侯が清國漫遊の留守中に起りたる現象なり。


山縣相公閣下、閣下と伊藤侯とは、其人格に於ても、思想に於ても、本來決して兩立す可き契點あらざるに拘らず、其表面上久しく相互の調和を保持し得たりしは、唯だ藩閥擁護の共同目的に對して、離る可からざる關係を有したりしを以てなり、然るに侯は一朝此の共同目的より解脱し、敢て内閣の門戸を開放して、之れを藩閥の當の敵たる大隈板垣の兩伯に與ふ、是れ事實に於ては閣下に向て政治的絶交を告示したると共に、又其の持説と認められたる超然内閣制を固執せざる心事をも表明したる擧動なり、當時世人は此の擧動を以て、英國のロベルト、ピールが保守黨の反對を顧慮せずして穀法廢止案を採用したるに比し、以て其の明達の見に服するものありしと雖も閣下より之れを見れば、固より驚く可き豹變たりしに相違なし。
伊藤侯は獨り此の擧動に於てピールに似たる者あるのみならず人物に於ても亦稍々相類したるものなきに非ず、例へば其性情必らずしも極冷ならざれども、少なくとも微温にして事物に執着せざる所、其の知覺鋭敏にして囘避滑脱に巧みなる所、其の敵にも味方にも敬愛せらるゝ割合に、親密なる多數の政友に乏しく、又自ら之れを求むるの熱心なき所、ピール然り、伊藤侯も亦然り、是れ侯が藩閥家の反對に頓着せずして、大隈板垣の兩伯を奏薦したりし所以、さりながら伊藤侯は此の一擧に於て、從來の位地に著ぢるしき變化を生じたりき、一方に於ては國民の新同情を得たりと雖も他方に於ては藩閥及び之れに屬したる人士の憎疾を蒙ること少なからずして、曾て侯に服從したるものまでも遽かに侯に背き去れるを見たりき、而して閣下は實に伊藤侯の失ひたるものを得て、隱然として憲政黨内閣の一大敵國たる趣ありき。
伊藤侯は周圍の繋累を免かれむが爲め、飄然として清國漫遊の途に上りたる間に、閣下の屬僚は、憲政黨内閣に對して嫉妬的妨害を加へ、たとひ閣下の指揮に出でざるも亦閣下の傍觀したる種々の馬鹿らしき舞劇を演じたりき、特に尾崎氏の共和演説問題に至ては、政治問題として殆ど半文の價値なきものたるに拘らず、閣下の屬僚等は、自由黨の暗愚なる擧動を迎合して、頻りに尾崎排斥の火の手を煽り立て、遂に此に依りて以て憲政黨内閣の破壞に成功したりき、而して憲政黨内閣の倒るゝと共に、閣下の屬僚は早くも閣下を椿山莊より起して、伊藤侯の未だ清國より歸朝せざる前に内閣を組織せしめたり、是れ正さしく伊藤侯を出し拔きたる復讐的手段なりといふも亦可ならむのみ、斯くの如くにして成立したる閣下の内閣は、其の自然の運命として、近き未來に於て伊藤内閣に代はらる可きは誰れか復た之れを疑ふものぞ。


山縣相公閣下、閣下と同主義同臭味の野村靖子は、伊藤侯が大隈板垣兩伯を奏薦したる擧動を評して、是れ神經錯亂の表現なり到底本氣の沙汰に非ずと散々に言ひ罵りたることあるを記憶すと雖も、當時閣下にして若し自ら難局を切り拔くの成算を開示せむか、伊藤侯は必らず喜びて閣下に後事を托したりしや疑ふ可からず、而も閣下は唯だ伊藤侯の政黨論に反對して、時局と乖離せる超然内閣制を主張し、以て天晴れ大忠臣の肝膽を見せたる外には、曾て政治家として責任ある發言を爲したるを聞く能はざりき、乃ち此の事情を領解するものは、恐らくは何人も伊藤侯の擧動を否定するを得可からじ。
特に怪む、閣下は憲政黨内閣の後を受けて自ら現内閣を組織するに及で、忽ち其前日の主張を抛棄し少なくとも其の持説を變更して一二の政黨と提携したるのみならず、嚮に閣下の屬僚等が不忠不臣の賊子とまで痛罵したる伊藤侯に對して、今日唯だ其の款心を失はむことを是れ恐れ、大小の事總て侯の意見に聽きて僅に辨ずるを得るが如きの状あるは何ぞや、我輩を以て閣下を觀れば閣下は元來氣むづかしき神經質の人物なれども、實は決して強固なる意思を有する武斷家に非ず、其の權勢を喜び名爵を好むの天性或は人に過ぐるものあらむ、而も閣下は政治家として別に卓然自ら立つ所の見地なく、有體にいへば唯だ臺閣の氣象に富める一種の貴人たるに過ぎず、是れ政府を世界とせる屬僚の盟主たるには最も適當なる人格にして、隨つて動もすれば彼輩の爲めに利用せられて大事を誤る所以なり。
案ずるに憲政黨内閣の破壞は、たとひ閣下の爲には幸運の發展たりし變局なりといふを得可きも、其變局の決して伊藤侯の本意にも非ず、又自由黨多數の冀望にも非ざりしは無論なるを以て、閣下は宜しく閣下の前途に政治上必然の反動あるを豫期し置かざる可からず、世には伊藤侯の心事をさま/″\に臆測するものあれども、我輩の見る所に依れば、閣下の内閣は恐らくは伊藤侯の理想に適合したる内閣に非ざると共に、自由黨に於ても初めより閣下の内閣に同情を表するに非ず、我輩の所謂る政治上必然の反動とは即ち此の形勢より出現す可き第二の變局をいふなり、請ふ閣下の爲に其の大略を語らむか。


山縣相公閣下、我輩が憲政黨内閣の破壞を以て伊藤侯の本意に非ずといふは何に由るや

當時閣下の屬僚等が百方憲政黨内閣の破壞を企つるや、世人は之れを伏見鳥羽の一揆に比して、頗る其の頑愚を冷笑したりと雖も、不幸にして憲政黨内閣は、此の頑愚なる一揆の爲めに取つて代はらるゝの運命に遭遇し、以て政局をして再び舊世界に退却せしめたり、是れ獨り伊藤侯の本意に非ざるのみならず、自由黨の多數も亦决して之を冀望せざりしは明白なるに、當時自由黨が一二の野心家の爲めに操縱せられて、自ら建設したる内閣の破壞を招きたるは、我輩唯だ其の無謀無算に驚かざるを得ざりき、我輩は伊東巳代治男及び星亨氏が、前後外務大臣候補者として失敗したるを遺憾とし愚直なる板垣伯を煽動して權力均衡の提議を爲さしめたるを認めて、其の最初の目的が決して閣下の内閣を造り出だすに在りと信ずるものに非ず、何となれば此の二政治家は單に進歩派の勢力膨脹を妬みたる外には、別に何等の成算ありしと思はれざればなり、去りながら權力均衡の題目は、最初より憲政黨内閣の破壞を計畫したる藩閥の殘黨の爲には、最も便利なる最も都合善き政變の導火線なりき、何となれば此權力均衡論を決定するの投票權は、當時内閣の中立者たる西郷侯と桂子との手中に在りたるに於て、藩閥の殘黨にして之と相策應せば、輙ち内閣破壞の目的を容易に達し得可かりしを以てなり、而して西郷侯の機を見るに敏なるを知り、又桂子の純然たる山縣系統として閣下の屬僚と親密の關係あるを知るものは此の一侯一子が文相更迭問題に付て閣議分裂したる際にも、曾て適正なる調停の手段を取らざりしを怪まざる可く、將た板垣伯が乖謬無名の辭表を天



山縣相公閣下、幸福なる閣下は、憲政黨内閣の破壞と共に、端なく其の舊勢力を復活して政治上の主人公と爲り、而して内閣組織の使命は閣下に傳へられ、而して閣下は恰も謝安を氣取りて椿山莊を出で、而して國民は唯だ目を圓くして閣下が如何なる内閣を組織するかを注視したりき、顧みて此際に於ける自由黨の行動を見れば、全く當初合同の精神を忘れて、自ら造りたる内閣の破壞を快とせしものゝ如く、私鬪術に巧みなる星亨氏を軍師として、一時の小成敗を爭ひ、卑劣なる投機手段に成功したるを稱して黨略の能事終れりと爲し、而も坐して江山を將て他人に附與するの愚に陷りて自ら覺らざりし如き、識者は唯だ其淺陋を憫笑するのみ、既にして閣下の内閣成るや政治上の立場を失ひたる自由黨は、其の主義政見を犧牲にして閣下と提携を約したりと雖も、實は互ひに欺き合ひ詐り合ふて政治上のポン引を働かむとしたるに過ぎず、初め閣下が策士の言を聽きて自由黨と提携せむとするや、閣下の屬僚中には此の提携を非として飽くまで超然内閣の實體を保持す可しと主張したるものあり、閣下の歴史及び内閣組織の初一念より察すれば、閣下恐らくは眞に肝膽を披て自由黨と提携するを欲したりとも思はれず、現に自由黨が提携の條件として二三黨員の入閣を要求したるに際し、閣下は之れに答へて單に人才としてならば自由黨より閣員を拔くも可なれど、黨員としてならば入閣の要求に應じ難しといひたりしを見れば、閣下の意亦超然内閣の本領を以て立つに在りしを知る可し、且閣下が當時自由黨領袖等と屡々提携に關する交渉を試みつゝある間に、板垣伯は公然自由黨員に向て、何種の内閣を問はず善政を行へば之を援くるに躊躇す可からずと演説して、有りの儘に閣下の内閣が超然内閣たることを承認したりき、而も自由黨の多數は、閣下の内閣をして超然内閣の裝姿を脱せしむるの冀望ありしが爲めに、斯る意義に於ける提携の交渉は一旦破裂に歸したりしに拘はらず、閣下と自由黨とは更に瞹眛なる交渉を經由して、終に怪しき提携を約したり、此の提携の結果として閣下の内閣は純然たる超然内閣にも非ず、又政黨を基礎とするの内閣にも非ざる一種の間色内閣と爲りたるに於て、閣下と自由黨との關係は、隨つて唯だ政略的關係若くは利益的關係たるに止まり、曾て主義政見の契點に依りて渾然融和したる事實を示すこと能はざるに至れり、是れ閣下が政治上の過失を犯したる最初の起點に非ずして何ぞや。


山縣相公閣下、閣下と自由黨との提携は、唯だ政略的關係若くは利益的關係に依りて成立したるを以て、閣下は自由黨を待つに眞の政府黨を待つの道を以てせずして、唯だ之れを操縱して盲從せしむることを努め、自由黨も亦閣下の内閣に對して眞の政府黨たる觀念なく、唯だ其の位地を利用して政治的營私の目的を達せむことを圖る、而も閣下は宣言して曰く、諸君と相倚り相助けて進取の宏謨に答へむと、嗚呼誰れか其の自ら欺くの甚しきに驚かざるものあらむや、顧ふに憲政黨の分裂に付ては、伊藤侯が進歩自由兩派の孰れにも多少の遺憾ありしは無論なる可しと雖も、我輩の見る所に依れば侯の最も遺憾としたるは、恐らくは憲政黨内閣の破壞餘りに脆くして、端なく超然内閣を再興せしむるに至りたる一時ならむ、何となれば是れ侯が閣下等の異論を排して敢て大隈板垣兩伯を奏薦したる當初の意思に背きたればなり、然るに侯の直系に屬する伊東巳代治男等が自由黨の策士と相呼應して極力憲政黨の破壞に從事したるは何ぞや、蓋し進歩派の勢力次第に膨脹して自由派の分子までも漸く進歩化するの傾向ありと認め憲政黨内閣の維持一日を長うすれば獨り進歩派の爲めに一日の利あるを恐れて、其の大勢未だ定らざる前に之れを破壞するの優れるに如かずと信じたるを以てなり、彼輩の心事は唯だ此の一點に存したりき、當時固より閣下の内閣を造り出だすの目的なかりしのみならず、別に善後の策に付ても何等の成竹なかりしは復た言ふを俟たざるなり。
自由黨が二三策士の術中に陷りて、自暴自棄の行動に出でたるは、其の愚誠に憐む可しと雖も、一旦斯くの如くにして政治上の立場を失ひたるに於ては、其の如何なる内閣たるを問はずして之れと相結托するは止むを得ざる窮策たりしと同時に、閣下の内閣が政見の異同を論ぜずして自由黨と提携を求むるに至りしも、亦止むを得ざるの窮策なりと謂はんのみ、而も閣下は自由黨に誓ふに休戚利害を倶にして永く相渝らざる可きを以てす、是れ正さしく自ら欺くの虚言にして、其意唯だ一時を糊塗するに在りしは決して疑ふ可からず、閣下乃ち自由黨をして單に政略的關係若くは利益の下に永く盲從せしめんと欲する乎、我輩は斷じて其の目的の空想に屬するを信ぜむとす、閣下願くは我輩をして閣下の未來を説かしめよ。


山縣相公閣下、今や我輩は閣下の未來を指示するに當て、先づ閣下の内閣が如何なる現状の下に存在するかを觀察せざる可からず、顧ふに閣下の内閣は、議會開設以後の内閣中に於て、最も平和らしき、最も鞏固らしき状態を保てる内閣なり、議會は既に二會期を經過したれども、遂に一たびも解散の危機に際したることなく、内閣改造の説屡々起りたれども其の閣員には亦一人の交迭したるものなし、是れ前代の内閣に在て曾て觀ざるの現象にして、殆ど閣下の獨占せる慶事なりと謂はざる可からず、さりながら閣下若し我輩に直言を許さば、我輩は閣下の内閣を稱して、僅かに外援の支持に頼りて存在せる大厦なりといはむと欲す、而も其の外援すら今や漸く去らむとするを見るに於て、閣下の内閣は正さしく存在の資力を失ひたるものと斷言せざる可からず、大石正巳氏が第十四議會に於て、閣下の内閣を評して借馬内閣といひたるも、亦實に此の意に外ならざるのみ。
さりながら閣下願くは我輩の説を誤解する勿れ、我輩は決して立憲國の内閣を以て或る勢力の援助なくして存在するものなりとは信ずるものに非ず、或る勢力とは議會に絶對的多數を占むるの政黨即ち是れなり、而して斯くの如き大政黨の援助は、固より立憲國の内閣に必要なるを疑はずと雖も、閣下の内閣は唯だ一時の利害に依りて政府を辯護する聯合黨を有するに過ぎずして、主義政見に依りて統一せる一大政府黨を有せざるを奈何せむや、人あり閣下に向て閣下は眞の政府黨を有するやと問はゞ、閣下は必らず然りと答ふるの勇氣なかる可し、是れ事實に於て眞の政府黨なきのみならず、閣下は曾て公然眞の政府黨を作りたることなければなり、則ち我輩は唯だ閣下が議院政略を亂用して政黨を操縱したるを見る、未だ閣下が主義政見に依りて進退を倶にす可き眞の政府黨に援助せらるゝを見ず。
相公閣下、我輩の聞く所に依れば、伊藤侯は改正選擧法通過の後、竊に閣下に向て政府黨組織の計畫目下に必要なるを説き、暗に此の大任を伊藤侯に委するの内勅を得るの手段を盡さむことを求めたるに、閣下之を肯んぜずして曰く、君にして苟も政黨を組織せむとせば則ち君自ら之れを爲して可なり、内閣は斷じて其の議を贊するを得ずと、此に於て乎伊藤侯は閣下の與に爲すあるに足らざるを怒りて、爾來閣下と益々情意の疏通を缺くに至れりと、是れ閣下が伊藤侯の野心測られざるを恐れたるにも由る可しと雖も、一は閣下が強て超然内閣の外觀を維持せむとするの謬見より出でたるものに非ずして何ぞや、要するに閣下は現在に於て眞の政府黨を有せざるのみならず、其の政府黨らしきものすらも、日に閣下の内閣と相離れて反つて閣下の死命を制するの政敵たらむとするが如きは、亦豈閣下の宜しく警戒す可き一大危機に非ずと謂はんや。


山縣相公閣下、閣下は或は帝國黨を以て内閣の忠僕なりと信ぜむ、然り其の歴史よりいふも、其の關係よりいふも、帝國黨は確かに内閣の忠僕たる可き傾向を有するものなり、さりながら僅々二十餘名の代議士を有する眇たる一小黨は、閣下が果して頼つて以て有力なる忠僕とするに足る可き乎、況むや帝國黨は政治的投機師を以て組織したる烏合の政團にして、殆ど政黨と名く可き實質を具へざるに於てをや、先づ試に其の領袖たる者の如何なる人物なるかを見よ、佐々友房氏は自ら大策士を以て任ずるに拘らず、識慮頗る暗昧にして確然たる定見なき人なり、曾て獨逸に遊ぶや、其の國の各政黨が大抵宗教問題を政綱に掲ぐるを見て以爲らく是れ我國の宜しく學ぶ可き模範なりと、歸來直に帝國黨の政綱に宗教事項を加ふるの必要を唱へたる如き愚論家なり、而して、此の愚論家にして且つ自稱大策士たる彼れは、唯だ毎日根氣よく書簡を手記して、己惚れと迂濶とを扱き雜ぜたる報告を選擧區民に爲すの外には、巧みに元勳政治家の間を周旋し、區々の縱横説を進むるを以て獨り自ら得意とするのみ、元田肇齋藤修一郎の兩氏は、彼れに比すれば智見も思想も數等進歩したる人物なれども、一は小膽にして大事を擔當するの器なく、一は不謹愼にして公人としての信用缺げたり、斯くの如き人物に依て指導せらるゝ帝國黨は復政治上に於て何事を爲し得可しとする乎。
相公閣下、閣下の閣僚たる清浦曾禰の兩氏は、曩きに帝國黨の組織に後援を與へ、今も現に其の黒幕として頗る盡力すといふと雖も是れ恐らくは閣下の利益に非らずして寧ろ閣下に禍ひせむ、何となれば是れ徒らに伊藤侯及び自由黨の反感を買ふに過ぎざればなり、昨年國民協會の解散するや大岡育造氏は伊藤侯を擁して新政黨を組織せむとしたるも、其の計畫は佐々元田等の反對に沮まれて行はれざりしのみならず、閣下は清浦曾禰等の閣僚に誤られて帝國黨の成立を助け、地方議員選擧の際の如きは、竊かに地方官に向つて、帝國黨の候補者には十二分の援助を與よ、其他の政黨員に對しては局外中立を守れと内訓して自由黨の激昴を招きたるは公然の事實なり、大岡氏は舊國民派中には比較的智慮に富める人物なり、乃ち此般の現状を見て、頗る憤々の情に禁へざるものありしが爲に、終に飄然として外國漫遊の客と爲り、以て暫らく政變を待つの已むを得ざるに至れり、一の大岡氏を失ひたる如きは、たとひ帝國黨を輕重するに足らずとするも、閣下の閣僚にして帝國黨と密接の關係あるものは、唯だ清浦、曾禰の兩氏のみにして、其他の閣僚は孰れも帝國黨の微弱にして頼む可からざるを知り、現に桂子の如きは、寧ろ自由黨と深く結托して、之れを利用せむとするの野心あり、西郷侯は頃日帝國黨の首領たるを密約すと稱せらると雖も、侯は自由黨に對しても如何なる密約を爲し居るやを知る可からざるに於て、閣下と帝國黨との關係は反つて内閣の統一を破るの原因たらむ、閣下果して帝國黨を以て頼むに足るの忠僕なりと信ずる乎。


山縣相公閣下、我輩の見る所に依れば帝國黨は清浦曾禰の兩氏と直接の關係あるに過ぎずして、其の他の閣員は初めより之れと利害を倶にするの意なきに拘らず、閣下輕ろ/″\しく此の兩氏に致されて、竊かに帝國黨の成立を助けたるは、是れ實に閣下の一大失策なりと謂はざる可からず、葢し帝國黨は自ら内閣の忠僕たるを以て任ずと雖も、實は清浦曾禰兩氏の忠僕にして、純然たる政府黨には非ず、假りに之れを政府黨と認むるも、其の勢力は固より閣下の内閣を維持するに足らず、况むや政府黨に非ずして一個の私黨たるに於てをや、然るに閣下は斯る私黨を以て直參の忠僕たらしめむとして、反つて内閣の統一を破るの結果を考慮せざるは何ぞや。
桂子は閣下の内閣を組織するが爲に、憲政黨内閣の末路に當りて頗る如才なき立ち

相公閣下、閣下の最大謬見は、唯だ議院政略を以て能事と爲し、金錢若くは其の他の利益を懸けて自由黨を操縱せむとしたるに在り、顧ふに現時の自由黨は殆ど腐敗の極度に達したるに於て、閣下の議院政略が其弱點に投じて十二分の成功ありしは、我輩と雖も亦之を認ざるに非ず、さりながら自由黨員の中には亦多少時勢の要を識る者なきに非ざるが故に、單に閣下の内閣に盲從して永く藩閥の奴隷たるに滿足せざる人物亦少なきに非ず、彼等は閣下と共に到底立憲政治の實効を擧ぐるに足らざるを自覺し、別に新機軸を出だして政局の進轉を計らむとせり、是れ閣下の内閣が漸く内部の動搖を始めたる所以なり。


山縣相公閣下、閣下の内閣が近時漸く動搖し始めたるは疑ひもなき事實にして、帝國黨の代表力たる清浦曾禰の兩氏は、專ら閣下の參謀として内閣の政略を指導するの位地を占め、閣下の屬僚たる都筑、平田、安廣等の頑夢派と相策應して、自由黨を牽制するの運動に着手しつゝあるは、亦既に公然の秘密なり、我輩の聞く所に依れば、彼等は閣下に向て總べて自由黨の要求を峻拒す可しと勸告したり、此れが爲めに自由黨と提携を絶つに至るも復た畏るゝに足らずと説きたり、第十五議會までには、帝國黨と中立派とを連合せしめ、更に進歩自由の兩黨代議士中より幾多の醜漢を買收せば、優に多數を議會に制するに得ること掌を反へすよりも易しと進言したりといふ、其の無稽無謀の太甚しき、殆ど閣下を死地に陷ゐるゝにあらずむば止まざるものなるに拘らず、閣下の意思稍



山縣相公閣下、世に傳ふ、頃ろ自由黨は閣下に向て内閣の三四脚を要求し、若し聽かれずむば提携を謝絶して内閣に反對するの決意を示したりと、是れ恐らくは局面展開の第一着手たる可し、さりながら閣下にして此の要求に應ぜむとせば、先づ閣下に最も親近なる閣僚を引退せしめざる可らず、今や此等の閣僚は、自己の運命を迫害せむとする自由黨に對して防禦の策を講じ、閣下の屬僚と倶に極力現状を維持するの成案を具して閣下に迫りつゝあり、此の成案は固より閣下を死地に陷ゐるゝものなりと雖も、自由黨の要求とても亦閣下を窘窮せしむるの毒計たるが故に、閣下は殆ど進退維れ谷まれるの位地に在りと謂ふ可し。
抑も自由黨が果して既に斯くの如き要求を閣下に提供したるや否や、たとひ既に之れを提供したりとするも、是れ自由黨多數の冀望なりや否やに付ては、我輩未だ輙すく明言し能はざる所なりと雖も、自由黨が之れに類するの運動を開始しつゝあるの事實は斷じて疑ふ可くもあらじ、或は曰く末松謙澄男主として内閣割込の議を唱へ、自ら閣下に向て談判の任に當れりと、末松男が内閣改造の張本人たるは、我輩の甚だ信ずる能はざる所にして、若し彼れにして此の議を唱へたりとせば、是れ必らず伊藤侯の承認を得たる上の事ならざる可からず、さりながら伊藤侯は决して現在の自由黨と意氣相許すものに非ず、隨つて自由黨にして侯を擁立せむとせば、大に其の内容を變更して、更に侯の理想に適合せる新衣裳を着用せざる可からず、然るに現在の自由黨は、其の内容頗る雜駁不規律にして、動もすれば一二の無頼漢に致されて、政治上の罪惡を犯せること尠なからず、而して其の罪惡の主動力として目せらるゝものは現に總務委員の一人たる星亨氏なるに於て、自由黨は先づ彼れの專制政治を離れたる後に非ずむば、到底伊藤侯を起して自由黨の首領たらしむるを得可からず、我輩は伊藤侯を認めて眇たる一の星亨を畏るものなりとも信ずるものに非ずと雖も、自由黨が彼れの專制的手腕に左右せられて之れを奈何ともする能はざるの醜態あるは、既に天下公衆の認識する所たり、自由黨の腐敗するや久し、我輩は其の原因を以て決して一二無頼漢の非行に歸するものに非ず、さりながら現時の自由黨が、星亨氏に掻き



山縣相公閣下、閣下は星亨氏を以て如何なる人物なりと爲す乎、彼は閣下の内閣を成立せしめたるに付て間接の功あり、自由黨を閣下の内閣に盲從せしめたるに付て直接の功あり、而して今や彼は内閣改造の技師長として、局面展開の魔術家として、動もすれば閣下を威嚇し、強迫し、若くは誘惑して、先づ其の怪腕を現状打破に着けむとするの野心あり、夫の自由黨が政權分配を提携の報償として、内閣の三四脚を要求したりといふ如きは、又安んぞ其の策源の彼れが帷幄より出でざるなきを知らむや。
若し理を以て之れを論ずれば、自由黨は決して閣下に向て政權分配を要求するの權利あるものに非ず、何となれば最初より無條件提携を約して、後日に其の報償を要求するは、是れ分明に詐僞を自白するものなればなり、さりながら閣下と自由黨との提携は本來主義政見の一致より成りしにも非ず、又肝膽相許し意氣相投じたる結果にも非ずして、唯だ一時の利害に依りて偶然相合したるに過ぎざるを以て、其の提携の亦利害に依りて破るゝに至るも自然の勢なりと謂はざる可からず、而して星亨なる人物は實に自由黨の代表者として、前には閣下と共に詐僞の政治的約束を締結し、後には謂れなき報償を強請して閣下を陷擠せむと試むるの主謀者なり。
彼は曾て剛腹破廉耻の議長として衆議院を除名せられたるほどの不名譽の人物なり、今こそ自由黨の專制君主として、凶炎赫灼たれども、是れ自由黨の無能力なるが爲にして、必らずしも彼れの資望獨り高きが故に非ず、現に憲政黨内閣時代に於て、時の自由派大臣は、彼れが外務大臣たらむとする野心を牽制せむとして、伊東巳代治男を外務大臣候補者に推薦したる事實ありしは、豈其の明白なる證據に非ずや、而も一朝憲政黨内閣倒れて閣下の内閣起るに及で、彼は恰も風雲の際會を得たる惡龍の如く、遽かに飛舞騰躍して自由黨を惑亂し、曾て自由黨の中堅たる土佐派すらも殆ど屏息して彼れの指命を受くるの止むを得ざるに至る、亦憐まざる可けむや。
世間或は彼れを時代の權化として、其の技倆手腕に畏服するものあり、我輩を以て彼れを觀れば、彼は高等長脇差の隊長にして、僅に政治家の外套を着けたる一個の野人のみ、其の最も長ずる所は、唯だ善惡是非を問はずして然諾を實行するの大膽即ち是れなり、彼れが政治上の罪惡を犯したるも此に在ると同時に、彼れが黨與の歡心を得るも亦此に在り、而して政治道徳の問題の如きに至ては、彼れ固より冷眼を以て之れを度外に附したり、是れ其の爲す所一も常識を以て測る可からざるものある所以なり。


山縣相公閣下、閣下が星亨氏を利用して自由黨を操縱したるは、即ち可なり、さりながら此れと同時に、閣下は絶えず彼れの爲に詛はれつゝあるを自覺せざる可からず、彼は如何なる沒義道の策略をも實行して閣下の内閣に自由黨を盲從せしめたり、閣下或は之れを徳とするも亦可なり、さりながら此れと同時に、閣下は彼れが無報償にして一事をも爲さざる三百代言的氣質あることをも認識せざる可からず、顧ふに閣下は彼れが曾て急激なる自由主義の論者として慓悍猛戻なる言動ありしを記憶し以て其の今日に於て反つて閣下等の主張せる國家萬能主義を迎合するの態度を意外とするならむ、怪むなかれ是れ彼れに在ては實に尋常の事のみ彼れは理想を有し主義を尊重するの政治家に非ずして、唯だ獸力最も逞ましき野心家の雄のみ、彼れ往々大言壯語群小を驚かすものありと雖も、其の胸中には濟國安民の經綸あるに非ずして、唯だ政治上の狗儒教信者なり、世には正義人道の罪人たるもの少なからずと雖も、彼れが如く冷酷にして善く正義を笑ひ人道を嘲けるものは、古今の歴史に於ても甚だ稀有なり試みに彼れが第十四議會に於て尾崎行雄氏を陷擠せむとしたる手段の如何に忍刻なりしかを見よ、彼は尾崎氏が豫算全部に反對なりといへる片言を捉らへて、直ちに之れを皇室費にも反對するの意を表示したりと誣ひ以て氏を大不敬罪に問はむとしたりしに非ずや、其の敵黨に對する戰法の卑劣にして且つ陰險なるは暫らく之れを措くも、其の正義人道に對する思想の冷酷なる、決して公人の行爲として之れを見る可からざるものあり、誰れか彼を稱して主義あり理想ある政治家とするものぞ。
相公閣下、曾て民黨に推薦せられて衆議院議長と爲り、而も自ら民黨の聯合を破りたるものは則ち彼れ星亨氏なり、彼は閣下の内閣に自由黨を盲從せしめたるも、今や彼は局面展開の魔術を講じて閣下の内閣を破壞せむとするを見る、是れ彼れに在ては殆んど尋常の事のみ、何ぞ怪むを須ゐむ、獨り我輩の怪む所は一百餘の代議士を有する大政黨が斯くの如き醜怪なる人物をして擅まに其黨規を紊亂せしめて憂へざること是れなり、我輩豈一の星亨氏に重きを置きて區々の言を爲すものならむや。


山縣相公閣下、道路傳ふる所に據れば、自由黨の總務委員も亦星亨氏の局面展開論に一致し、聯立内閣の名義の下に政權分配を閣下に要求するの議を決したりと、而して斯る要求の到底閣下に容納せらる可きものたらざるは、我輩既に之れをいへり、閣下にして若し之れを拒絶せば、自由黨は如何なる態度を以て所謂る局面展開の實效を擧げむとする乎、或は曰く、事此に至れば自由黨は唯だ閣下の内閣と提携を絶つの外なきのみと、顧ふに此種の局面展開論は、恐らくは伊藤侯の同意を得るものにあらざる可く、侯は曾て自由黨の爲めに屡々政權分配を要求せられて屡々手を燒きたるの人なり、侯が政黨改造を唱道するの一要義は實に自由黨が常に政權分配を口實として、侯の所謂る大權の作用に干渉するの行動を抑制するに在り、侯が容易に自由黨の擁立を肯んぜざるは、亦誠に此れが爲のみ、而も星亨氏の一たび自由黨の實權を握るに及で、自由黨は唯だ政治を以て專ら私利私福を營むの具と爲し、閣下も亦其の私情を利用して議院政略を運用し、其の結果として自由黨は益々腐敗すると共に、閣下の内閣も亦漸く威信を失ふの擧措に出でたること少なからず、是れ伊藤侯が別に局面展開の必要を認むるに至りたる所以なり、但だ侯は局面展開に付て別種の成算あるを以て、今日尚ほ局外に中立して自由黨の爲に自ら起つの愚を爲さゞるのみ。
相公閣下、伊藤侯は今日自由黨に擁立せられて直に閣下の内閣に肉薄せざる可し、さりとて閣下は自由黨と提携を絶ちて、果して能く内閣の存立を保ち得可しと信ずる乎、閣下の屬僚は第十五議會を解散するの覺悟を閣下に求めたりといふも、閣下にして若し此の覺悟を以て自由黨の要求を拒絶せば閣下は議院の多數を敵とするのみならずして、閣下に對する伊藤侯の反感も亦必らず此の時を以て事實に現はれむ、何となれば閣下の内閣にして議院の多數を敵とするに至れば、伊藤侯は必らず自ら起つて其の難局を匡救せむとし、以て侯の最も得意なる内閣乘取策を行ふ可ければなり、侯の最も得意なる内閣取乘策とは、他の窮處を見澄まして始めて自ら起つこと是れなり、換言せば侯は水到りて渠自ら成るの機會を待つものなり、故に侯が今日の心事を測れば、閣下の内閣と自由黨とが益々衝突せむことを望み、自由黨が閣下の内閣と提携を絶つに至らむことを望み、而して自由黨が勢ひ侯の命令の下に左右せらるゝに至らむことを望めり、是れ閣下の宜しく領解せざるべからざる事情にあらずや。


山縣相公閣下、閣下の内閣が近き未來に於て伊藤侯の内閣に代らる可き運命あるは、殆ど一種の豫言として國民に信ぜらるゝのみならず、伊藤侯亦自ら取つて代るの野心勃々たるは、天下何人も恐らくは之れを疑ふ者ある可からず、但だ自由黨が伊藤内閣の成立を望むの意たとひ熱切なりとするも、其意單に侯を擁立して私利私欲を遂げむとするに在らば、到底再び衝突するの外なきは明白の理勢なるを以て、侯にして愈々自ら起つの時は、是れ自由黨が大に其の内容を改造して、侯の理想に適合せる政黨と爲りたるの日ならざる可からず、是れ自由黨に在ては頗る困難なりと雖も、其の成ると成らざるとは別問題とするも、兎に角閣下の内閣が現に局面展開の機運に襲はれつゝあるは事實にして、閣下は決して此機運に抵抗すること能はざるを自覺せざる可らず、葢し閣下の内閣は、獨り伊藤侯に倦まれたるのみならず、獨り自由黨に倦まれたるのみならず、又既に國民に倦まれたること久し、隨つて局面展開は、獨り伊藤侯の冀望のみならず、獨り自由黨の冀望のみならずして、又國民多數の冀望なるを以てなり。
相公閣下、今の時に於て閣下の内閣を維持せむとするものは、天下唯だ閣下の屬僚あるのみ、閣下は此の屬僚の援助に依りて何時までも内閣の現状を維持し得可しと信ずる乎、夫れ立憲政治の内閣にして一旦國民の多數に倦まるゝことあらば、是れ其の内閣が直に倒るゝの運命を示すものなり、夫の自由黨は一二の野心家の爲めに操縱せられて區々たる目前の利害に制せらるゝが爲めに、眞の局面展開未だ行はれずして、閣下の内閣亦僅かに一日の休安を保つを得ると雖も、自由黨亦必ずしも達識遠見の人なきに非ず、苟くも其主義政見を同うするものと大に合同して、先づ藩閥を殲滅するの壯志を奮へば、閣下の内閣は唯だ一擧にして輙ち倒れむのみ、而も是れ我輩の空想に非ずして自然の趨勢なる可きを信ず。
天下定まる可くして定らざるは、其の罪實に在野の黨人に在り、彼等は初め藩閥打破を旗幟として起りたるに拘らず、其の目的未だ成らずして早く藩閥と提携したりき、是れ實は藩閥を利用せむとするに在りたるも、反つて多く藩閥の爲めに利用せられたりき、是れ今に於て尚ほ眞の局面展開を見る能はざる所以なり、我輩の所謂る局面展開とは、完全なる政黨内閣を建設すること是れなり、完全なる政黨内閣を建設するの策は他なし、唯だ最初の民黨合同を實行するに在り、是れ曾て憲政黨内閣時代に於て既に之れを實行し、不幸にして一二野心家の自由黨を惑亂したるものありしが爲めに忽ちにして其の合同を破りたるも、是れ人爲の破壞にして當然の破壞には非ず、我輩は自由黨中にも、閣下の内閣に於ける失敗の經驗に鑑みると同時に、其必らず大悟徹底して眞の局面展開を實行するの準備に着手する人ありを信ぜむと欲す。


山縣相公閣下、自由黨を惑亂して其の良心を壞敗せしめたるものは、之れを前にしては伊東巳代治男あり、之れを後にして星亨氏あり、自由黨が自ら主義政見を棄てゝ藩閥の奴隷と爲りたる所以は、一は其の薄志弱行にして眼前の小利害に制せられたるに由ると雖も、一は此の兩野心家の爲めに大に誤られたるものなくむばあらじ、是れ閣下の既に之れを目撃し、且つ現に之れを目撃しつゝある事實なり



山縣相公閣下、看來れば閣下の前途も暗黒なる如く、自由黨の前途も暗黒なる如く、隨て政界總體の前途も殆ど混沌として判別す可からざる如しと雖も、國民多數の冀望は自然に歸着する所ありて、我輩の所謂る眞の局面展開を見るの時機決して遠きに非ざる可きは、我輩の固く信じて疑はざる所なり、而して是れ啻に大勢に於て然るのみならず、又國家の必要なりと謂はざる可からず、試に閣下の爲に先づ其の必要ある所以を説かむか。
相公閣下、今の時に於て國家に最も必要なるは漫に租税を増徴して國民の負擔を加重するに非ず、若くは漫に軍備を擴張して外國と事端を啓くにも非ず、世間動もすれば積極主義を唱へて好で大言壯語する者ありと雖も、是れ實は政治上に於て全く無稽無意義の話たるに過ぎず、夫れ國家を經綸する、消極なる可くして消極主義に據り、積極なる可くして積極主義に據り、一に唯だ國家の利害を標準として經綸の策を立つ、斯くの如きは是れ政治の要道に非ずや、我輩の國家に必要とする所は必ずしも消極主義の經綸に在らず、必らずしも積極主義の經綸に在らずして、國民多數の信用を基礎とせる政黨内閣の建設に在り、到底此れに非ずむば以て内治外交の政策を確立すること能はざればなり、顧ふに閣下の内閣は、既に二會期の議會に於て共に衆議院の多數を得たりしが故に表面より見れば、頗る鞏固なる内閣に似たりと雖も、顧みて其の施設したる所を見れば、内治外交一切の政策唯だ姑息と※[#「糸+彌」、68-下-10]縫とを勉めて毫も國民を滿足せしめざること、我輩の篇を累ねて叙述したる所の如く、而して閣下の内閣が最大成功として誇る所は、實に人心を腐敗せしめ公徳を破壞せしめたる議院政略是れのみ、蓋し閣下の内閣は少數微力なる帝國黨及び時代の精神を領解せざる頑愚の屬僚を味方と爲すの外には、眞に主義政見を同うしたる黨與を議會に有せず、夫の自由黨との提携の如きは、原と相互の詐術に依りて成りたるものなるを以て、其の相献酬するや又唯だ詐術を是れ事として曾て利害存亡を倶にするの誠實あることなし、是れを以て閣下は單に議院政略に苦心して内治外交に對する經綸を考慮するに遑あらず、其の一たび重大なる時局に際會するに及べば、常に姑息の手段に依りて内閣一日の安を謀らむとせり、是れ果して鞏固なる内閣なりと謂ふを得可き乎。


山縣相公閣下、若し夫れ閣下にして自由黨の強迫に屈して内閣の椅子を自由黨に割讓せむか、是れに依りて一時或は自由黨の反抗を禦ぎ得可しと雖も、是れと同時に内閣の基礎は反つて益々動搖の度を高むるを如何せむや、蓋し閣下は單に自由黨と提携してすら、尚ほ且つ動もすれば屬僚の不平、及び自由帝國兩黨間の嫉妬軋轢の爲に屡々惱殺せられたり、一旦自由黨員を内閣に入れて之れに政權を分與せば、自由黨は勢に乘じて更に其の權力範圍を擴張せむとし、屬僚及び帝國黨は自己の位地を嬰守せむとして種々の隱謀を企てむ、其の結果として内治外交の機關益々停滯して内閣の威信愈々降らむ、是れ豈閣下の前途をして一層暗黒ならしむる所以に非ずや、且つ閣下は曾て他の藩閥元老中に在て最も貴族院の望みを屬したる人なり、然るに自由黨と提携してより、閣下漸く貴族院の歡心を失ひ、現に宗教法案の如きは、法案其物既に不完全なりしは無論なりしも、其の貴族院に於て大多數を以て否決せられたるは亦貴族院が閣下の内閣を信任せざる明證に非ずや、今若し自由黨員を閣員として聯立内閣を造らば、貴族院の閣下に對する反感は恐らくは測る可からざるものあらむ、閣下何を以て内閣の安全を保たむとする乎。
相公閣下、閣下今日の計は唯だ斷然闕下に拜趨して内閣の總辭職を奏請するに在り、閣下の内閣にして此の擧に出でむか、後に現はる可き内閣は、其の何人に依て組織せらるゝものたるに拘らず、必らず政黨を基礎とする内閣なる可きは必然の趨勢なり、但し其の内閣の完全なる政黨内閣たるを得るや否やは固より未だ知る可からずと雖も、其の内閣の閣下の内閣よりも進歩したるものなる可きは決して疑ふ可からず、たとひ然らずとするも一變局を經る毎に漸次政黨内閣に近づくの動機を促進するものたるに於て我輩は一日も早く閣下をして過渡の時代を善くせしめ、以て閣下の名譽を後昆に垂れむことを望むこと切なり、世に一種の俗論あり曰く、今日は孰れの政黨も絶對的多數を有するものなし、現内閣にしてたとひ總辭職を爲すことあるも、之れに代りて内閣を組織し得るの準備ある政黨は一も之れあることなし、内閣は遽かに更迭せしむ可からず、又更迭せしむるの必要なしと、我輩請ふ其の俗論たる所以を解説せむ。


山縣相公閣下、凡そ立憲國の内閣に貴ぶ所は、唯だ其の存立の長期なるに在ずして、其の施設の多く且大なるに在り、長期の内閣と雖も、其の施設毫も觀る可きものなくば、則ち短期の内閣と又何の撰む所ぞ、故に我輩は寧ろ能力ある内閣を望みて、單に長期なる内閣を望まず、何となれば能力ある内閣は、たとひ短期にして斃るゝことあるも、尚ほ能く光輝ある成績を留むるを得るに反して、能力なき内閣は、たとひ長期の存立を保つことあるも、決して國家に多大の貢献を爲すこと能はざればなり、况むや長期の内閣は反つて政治上の罪惡を作ること古今其の例に乏しからざるに於てをや。
相公閣下、閣下の内閣は、議會開設以來最も長期の内閣にして、又議會開設以來最も無能力の内閣と稱せらる、顧ふに閣員悉く無能無力なるに非ず、中には多智多才の人物ありと雖も内閣の基礎頗る薄弱にして内は統一の形全く破れて行政機關の作用大に頽廢し、外は野心ある政治家若くは黨與の爲に牽制せられて、曾て自由手腕を揮ふ能はず、而して閣下は強て内閣を維持せむとして、沒主義沒政見の行動を事とするの外、復た何等の顯著なる成績を擧げたるものなし、閣下の内閣を評するものは曰く現内閣の長期なる所以は、唯だ其の無能無力なるが爲めのみ、能力ある内閣は、彼れが如き姑息にして活動せざる長期の舞臺に耐へざるなりと、言稍々苛刻なりと雖も、亦半面の眞理を道破したるものなり、斯る不名譽なる内閣を維持するは、啻に閣下の利益ならざるのみならず、又決して國家の利益に非ず、閣下乃ち今に於て斷然闕下に伏して骸骨を乞ひ、以て國家の爲めに賢路を開くは是れ豈閣下有終の美を成す所以に非ずや。
閣下にして苟も内閣の總辭職を奏請せば、陛下は更に他の有力なる政治家をして新内閣を組織せしめ給ふ可し、而して次に來る可き内閣は其の必然の組織として政黨を基礎とするものたる可く、其の内閣にして議會に多數を占むる能はずむば、多數を議會に占むる内閣を見るまで幾囘更迭するも亦可なり、是れ立憲政治の發達史上殆ど免がる可からざるの經過なり、さりながら我輩の見る所に依れば、政黨内閣を今日に建設するは敢て難事に非ず、必ずしも絶對的多數の大政黨出づるの後を俟たざるなり、今一人の有力なる政治家ありて、純然たる政黨内閣を建設せよ、絶對的多數の大政黨は、必らず此れと同時に出現せむ、要は斯る英斷ある政治家の自ら起つに在り、今の政治家動もすれば絶對的多數の大政黨なきを以て政黨内閣組織の最大要件を缺けるものといふと雖も、是れ取るに足らざる俗論のみ、蓋し絶對的多數の大政黨は、自ら行政權を把握するの冀望あるに於て始めて出現す可し、單に立法部たる議會に於て絶對的多數の大政黨出現せむことを期するは、是れ猶ほ搭載す可き船舶なくして、漫に貨物を港灣に集めむとするが如し、若し眞に政黨を基礎とするの内閣を組織する政治家あれば、主義政見の異同に依りて天下必らず二大政黨に分かれむ、二大政黨に分かれざれば、政黨終に行政權を把握するの時期なければなり、是れ我輩が朝野の政治家に向て大に警告せむとする所なり。


山縣相公閣下、既に政黨内閣の已む可からざるを認識するときは、宜しく此の大勢を利導して圓滑なる變局を謀る可し、宜しく漫に此の大勢に逆抗して立憲政治の發達を阻碍す可からず、是れ朝野の政治家が國家に負ふ所の責任に非ずして何ぞや、閣下にして自ら之れを爲さむとせば則ち之れを爲すも亦可なり、苟くも之れを爲すこと能はずむば、寧ろ他の政治家をして之れを爲し得可からしむるの疏通手段を取るに如かず、而も前者は閣下の境遇及び本領の許さゞる所たるに於て我輩は閣下に望むに、斷然後者の擧に出づるの一大決心を以てせむと欲す、之れを爲すこと極めて容易なり、唯だ内閣より退引する即ち是れのみ。
相公閣下、今の政黨内閣を難しとするものは、往々辭を絶對的多數の政黨なきに藉ると雖も、實は政黨内閣に反對して藩閥内閣を維持せむとする頑夢者流の俗論にして、彼等は中心實に政黨の支離滅裂して徒らに議會に紛爭するを喜ぶものなり、其國家の利害と人民の禍福とに付て、曾て意を致さゞるものたるは復た疑ふ可からず、夫れ今日の憂は絶對的多數の政黨なきに在らずして、能く大勢を利導して政黨内閣を建設するの一日も速かならざるに在り、伊藤侯にても善し、大隈伯にても善し、今日假りに純然たる政黨内閣を組織し見よ、天下必ず主義政見の異同に依りて二大政黨に分れむ、是れ必然の趨向にして又立憲政治に於ける當然の歸宿なり、嚮きに伊藤侯が大隈板垣兩伯を奏薦したるは、實に此大勢を利導せむと欲する精神に外ならざるなり、我輩は、當時深く侯の光明磊落なる心事に敬服したりと雖も、不幸にして憲政黨の組織餘りに尨大なりしが爲に、權力の集中點未だ定まらざるに早く既に權力平衡の愚論起り、遂に政敵をして乘じて以て内閣破壞の目的を達せしめたり、さりながら當時若し假すに尚ほ數月を以てせば、權力の集中點自然に定まる所あると同時に、政黨の淘汰作用も適當に行はれて、去るものは去り留まるものは留まりて、天下は必ず二大政黨の分有する所となりしや明かなり、故に我輩は憲政黨内閣の瓦解を以て政黨内閣制を否定するの原由なりと信ぜざるも、憲政黨の組織に關しては初より大に遺憾なくむばあらず、何となれば當時憲政黨には第一統一に必要なる首領あらざりしを以てなり、即ち今若し名實兼備の首領ある政黨にして内閣を組織せば、たとひ現に絶對的多數を議會に占むる能はずとするも、其の内閣一たび成立して議會に臨めば、議會必らず之れを歡迎して一大政府黨忽ち出現せむ、或は然らざるも亦必らず絶對的多數の他の政黨によりて内閣を相續せらるるの機運を作らむ、又何ぞ絶對的多數の政黨あるを待て始めて政黨内閣を建設し得可しと謂はんや。


山縣相公閣下、今日若し政黨内閣に反對せんとせば、先づ之れに代る可き内閣の主義を一定せざる可からず、閣下の屬僚は官屬主義の内閣を建設せむと欲すと雖も之れ徒勞のみ、若し官屬主義にして成立し得可くむば、初期議會に於て既に成立す可き筈なるに、當時僅かに超然内閣の名義によりて一時を糊塗したるに止まり、事實は反つて政黨の援助を得て内閣を支持したるは何ぞや爾來官屬主義は獨り藩閥者流若くは藩閥に隷事せる屬僚の間に唱へらるゝに過ぎずして、年々歳々唯政黨の勢力次第に膨脹するを見るのみ、是豈政黨内閣の到底否定す可からざる理由に非ずや。
相公閣下、自由黨が閣下の内閣と提携したるは、蓋し閣下の内閣をして官屬主義の内閣ならしめんとするにあらずして、實に政黨内閣に入る可き過渡時代の内閣と認めたるに由れり、切言せば閣下の内閣は、自由黨の爲に試驗せられつゝあるなり、此の試驗にして自由黨の豫期したる如き結果を見ざれば、自由黨は如何なる手段を使用しても其當初の目的を達せずむば休止せざる可し、而して閣下は今や一方に於ては官屬主義の屬僚に擁せられ、一方に於ては政黨内閣を目的とせる自由黨に援助せられ、恰も南面すれば北狄怨み、北面すれば南蠻怨むの境遇に在り、閣下の現位地は亦頗る不思議なりと謂ふべし、其不思議なるは尚ほ可なり、是れ疑もなき閣下の災難なり、閣下にして苟くも進退其の機宜を誤まれば遂に屬僚にも離畔せられ、自由黨にも反對せられて、政界の立往生を爲すの外なきに至らむ、亦閣下の宜しく熟慮すべき場合に非ずや。
閣下漫に政界の前途を憂ふる勿れ、國家は何時までも老骨を煩はすの必要なく、後進の人物にして國家の大事に耐ゆるもの亦少なきに非ず、閣下の内閣にしてたとひ直に更迭すと雖も、之れに代るの内閣を組織するは必らずしも難事に非ず、况むや天下既に閣下の内閣に倦みて、人心變を思ふの今日に於てをや、且つ國家方に鞏固なる内閣を得て内外の政務を刷新せむことを望むに際して、微弱にして統一なき閣下の内閣をして尚ほ今後に存立せしめば、政界益々沈滯して國家毫も活動する能はざるに至らむ、是れ我輩が閣下に向つて斷然たる辭職を勸告する所以なり。


山縣相公閣下、我輩は閣下頃ろ辭任の意あると聞き、竊かに閣下が處决の時機を得たるを賀したりしに、今や又閣下が策士の言に動かされて忽ち留任の心を起したりといふを聞きては、我輩深く閣下の聰明頗る蔽はるゝ所あるを惜まずむばあらず、閣下に留任を勸告するものは自由黨の毫も畏る可からざると、伊藤侯の遽かに起つの意思なきとを以て閣下の聰明を蔽はむとすと雖も是れ姑息の計を進めて反つて閣下の過失を再三せしめむとするの妖言なり、閣下が既往三年間の歴史を觀るに閣下の過失は實に此の類の妖言に原本したるもの多し、閣下は元來謹厚愼密にして進退を苟もするの人に非ず、而も其の屬僚を有すること他の元勳よりも多數なるを以て、動もすれば佞嬖の小人に擁せられて不測の過失に陷ること少なきに非ず、今に於て尚ほ自ら悟らずむば、閣下恐らく恢復す可からざる汚名の下に沒了せむ。
相公閣下、閣下は政治家として他の元勳に卓出したる技倆を有するに非ず、而も其の内閣を組織してより既に二會期の議會を通過し、兎も角も比較的長期の内閣の首相として今日まで無事なるを得たり、此の點よりいへば、閣下は藩閥元勳中最も幸運なる位地に立てりと謂ふ可し、夫れ賢者は名を惜み、哲人は身を保たむことを思ふ、閣下はたとひ政治家たるの技倆なきも、賢哲の用意を爲すに於て未だ必らずしも晩れたりと謂ふ可からず、閣下何ぞ之れを熟計せざる

山縣公爵
現代日本に於て最も秘密多き人物は、恐らくは山縣公爵なるべし。彼れの性格、伎倆、及び政策は、伊藤公爵若くは大隈伯爵等の如く分明に表現せられざるが故に、國民は唯だ彼を政治界の一勢力として其の存在を認識する外、復た彼れの眞價に就て何等の知る所なきものに似たり、例へば世人は彼を稱して最も頑固なる保守主義の代表者と爲すも、彼れの保守主義の如何なるものなるかを精確に領解するもの果して之れあるや。世人は又彼を目して政黨内閣制に反對する政治家と爲すも、誰れか果して彼れの口より公然たる非政黨内閣論を聞きたるものありや。或は彼を陰險といひ、或は彼を壓制家といふも、其の批判は果して事實を根據としたるものなりや。頗る疑はし。然れども彼れの眞價の知られざる處は、是れ却つて彼れの眞價の存する處にして、彼れが伊藤公爵大隈伯爵等と相對峙して、別種の勢力を有する所以亦此にあり。
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大凡政治家に二樣の模型あり。公衆と倶に語り、公衆と倶に喜憂し、常に門戸を開放して、勉めて公衆と接近し、以て自己の存在を社會に記憶せしむるを平生の用意と爲すもの是れ一、大隈伯爵の如きは此の模型の政治家にして、伊藤公爵も亦稍々之れに近かし。第二は全く反對の模型にして、敢て漫りに公衆と親まず、必らずしも社會に自己を領解せしむるを求めずして、唯だ其の信ずる所を行ひ、其の爲さむとする所を爲し、名聲よりも實功を重むじ、人の是非よりも事の結果を考へ、且つ言行謹愼にして、持重の念頗る強し。山縣公爵の如きは則ち是れなり。前者は社會の感情中に生活し、後者は少數者の信任に身を托し、前者は公衆を對象として客觀し、後者は自己及び自己の職分を本位として主觀す。前者は共和國に在ても猶或は政治家たるを失はずと雖も、後者は獨り君側輔弼の宰相として立つに非ずむば、政治家たるよりも、寧ろ軍人として成功せむ。山縣公爵が常に一介の武辨と稱し曾て政治家を以て自ら任ぜむとするの口吻を漏らしたることなきは、則ち彼れに自知の明あるが爲に非るなきか。
試に大隈伯爵を見よ、彼れの門前は日に各種各樣の來客を以て市を成せり。政黨員も往き、新聞記者も往き、實業家も往き、相場師も往き、紳士も往き、貴婦人も往き、學者も、書生も、浪人も爭ひ往けり。而して一たび早稻田邸の玄關を辭したるものは、皆大隈伯爵の寫聲機となり、喇叭管となり、讚美者となりて、彼れを社會に吹聽し、紹介し、推奬して、彼れに對する記憶を深からしめざるなし。是れと同時に、彼は自ら進むで活溌なる社會的運動に關係し、或は好むで公私の會合に出席し、或は屡々大なる園遊會を開き、以て自己と公衆との連絡を謀るが故に、彼は既に政黨總理を辭して直接に政治界と交渉せざるも、其の存在は依然として公衆瞻仰の標目たり。特に彼れの有する廣大なる庭園は、殆ど一種の高等公園として公衆に公開せられたるものゝ如く、彼れの誇りとする園藝の如きも、彼に在ては閑人の道樂に非ずして多忙なる社會的運動の一方便たり。彼は其の庭園に瀟洒たる一茶室を有せり。而も余は未だ曾て彼れが宗匠を呼びて茶會を催したるの風流ありしを聞かず。閑寂を旨とする茶會の如きは彼れの到底堪ゆる所に非ればなり。彼は陽氣を好み多事を好み、活動を好み、變化を好む。彼は一日も懷抱を封鎖する能はず、一日も談論を廢する能はず、一日も社交と隔離する能はず、一日も沈欝なる天地に俯仰する能はず。彼は山を樂むの仁者たるよりは水を樂むの智者たるを喜べり。彼は安心立命を求むるの達人たるよりは、一生奮鬪を繼續するの戰士たるを選べり。
伊藤公爵を以て彼れに比すれば、其の人格に大なる相違ありと雖も、其の名譽心の頗る旺盛にして、常に身を公衆の眼前に置き、自己の存在の社會に意識せられむことを求むるの點に於ては則ち一なり。彼は大隈伯爵の如く放膽無雙ならず、又大隈伯爵の如く非常に多方面ならず。彼れの世界は殆ど政治に限られたり。然れども彼は此の限られたる世界を成るべく華やかにして、働らき甲斐あらむことを期するが故に、自己の存在の社會に忘れらるゝは、最も彼れの恐るゝ所なり。彼は又大隈伯の如く單に社會の潮流に乘ずる巧妙なる舟子たるを以て甘むぜずして、潮流其物を指導せむとするの慨ありと雖も、要するに風潮以外に立つて獨自一己の理想を保守する人にあらず。若し伊藤公爵と大隈伯爵とを對照せば、伊藤公爵は歐洲大陸の政治家たる面影あり、大隈伯爵は英國政治家の風ありと謂ふべくして孰れも歐洲式の政治家たり。轉じて山縣公爵を觀れば、其生涯は夐然別種なり。彼は明治の歴史に於て最も重要なる部分を働らきたる一人なり。彼は自ら首相となりて内閣を組織したること前後二囘、其の内閣を組織せざる場合に於ても、屡々内閣の製造者たることありて、其の發言は往々内閣の更迭に影響を示したり。彼は所謂る元老團の要素として天皇陛下より特絶の待遇を受け、内外の重大なる國務は、一として彼れの與かり知らざるものなく、恐らくは最後の眞理を最初に聞くべき位地に居るものは彼なるべし。蓋し日清戰爭以來、軍事は政治機關の強部を占め、所謂る戰後經營なるものゝ如き、畢竟軍事を主として財政を從としたる立案たるに過ぎざるの觀あり。之れに加ふるに日露大戰の經驗を以てしたるに於て總ての政治問題は殆ど軍事萬能主義に依て左右せらるゝの傾向を現はせり。則ち是の時に當りて、政府の樞機は軍事を心軸として囘旋するが故に、政治問題の秘鍵を握るものは亦軍事當局者なりと推定するも可なり。而して山縣公爵は軍國の大首領として優越的威望を有するのみならず、軍事と政治の關係を研究するに於て又他の元老の何人にも勝れるは言ふを俟たず。斯くの如き威望と長所とを兼備せる山縣公爵が最も早く政治問題の極意に通じ得べき地位に在るは當然なりと謂ふべし。但だ彼は當局者としても、局外者としても常に超然として公衆環視の圈外に特立せむとするの態度を執るものゝ如く、伊藤公爵大隈伯爵等が終始公衆の耳目を聳動せむとすると頗る其の趣を異にせり。されば伊藤公爵大隈伯爵等は、其の妍醜瑕瑜大概露見して蔽はるゝ所なきも、山縣公爵の眞價は容易に公衆の窺ひ知る所とならず。彼は輪廓明白なる一人格としてよりは、寧ろ人格化したる一勢力として國民の眼に映ぜり。從つて國民は彼れの存在を政權と聯結して觀察するに止まり、眞に能く彼れの人格を領解し得るものは甚だ少なきに似たり。
且つ伊藤公爵も、大隈伯爵も、其の私生涯と公生涯とを問はず、均しく之れを公處の白堊光裡に展開して彼等の自由批評に任ずと雖も、山縣公爵に至ては、公私の生涯に截然たる分界あるが故に、其の私生涯は醇粹なる私生涯にして殆ど公衆と何の交渉する所なし。彼は朝廷の大禮、若くは官務的性質を帶びたる會合以外に出席すること甚だ稀なり、單に社交を目的とする普通の公會に周旋して、八面酬接の交渉を事とするは、彼れの性向に適せざる所なるべし。時として椿山莊園遊會を見ることあるも、是れ大切なる外國の貴賓に敬意を表する場合か否らずむば一家の賀儀を機會として少數の親近者を招待する場合に行はるゝのみ。彼は政治家として國民の輿論に拘束せらるゝを避くるとともに、其の私生涯に於ても亦公衆の心理に煩はさるゝを免かれむと欲するものゝ如く、則ち其の庭内境靜かにして風塵到らざる處に安置したる彼れの銅像は、無言の間に善く活ける主人公の理想を語る者に非ずして何ぞや。されば彼の私生涯は、豪華の以て世に誇るべき者なく、盛裝の以て人を驚かすべきものなく、彼れの位地よりいへば、寧ろ極めて單純簡朴なりと評すべし。此の私生涯に含蓄せられたる趣味も、亦從つて公衆的ならずして個人的なり、一般的ならずして家族的なり。私生涯の彼は書院の人にして、彼は僅に漢詩を作り、和歌を詠ずるの閑趣味を解するのみ。圍碁を弄し謠曲を奏するの娯樂あるのみ。有體にいへば山縣公爵は決して公衆の好愛する政治家に非ず。然れども世には一般公衆に好愛せられずして、却つて鞏固なる勢力を有する政治家あり。彼は一般公衆に對しては、一の快感を與ふべき態度を示さず。彼は自己の能事を盡くして、必らずしも其の公衆に知られむことを願はず。彼は浮泛なる群情に殉ずるを爲さゞる代りに、少數の共同者に信頼せらるゝを以て滿足せり。彼は細心にして愼獨の工夫あり、謹嚴にして妄りに放言高論せざるが故に、彼れの共同者は、彼れと秘密を語り、大事を謀りて危まざるなり、彼は批評せずして計畫し、實行し、否らずむば沈默するが故に、國民の眼には頗る陰氣にして腹黒き政治家に見ゆるも、彼れの親近者及び共同者に對する行動は、眞摯なる考慮、動搖せざる決斷、負托に背かざる信義、責任に對する大なる信念を以て表現せらる。山縣公爵は稍々是れに類する政治家なり。其の公衆に歡迎せられずして、而も猶ほ能く政治界の一大勢力たるは、彼れの人格が少數共同者に信頼せらるゝ所あるが爲なり。顧ふに彼れの共同者若くは親近者の中にも、感情趣味に於て彼れと相容れざるもの之れあらむ。然れども終に彼れに對して惡聲を放つものなきは、彼を以て與に樂むべからざるも、相信頼するに足るの人なりと爲すに由れり。世間或は彼を徳川家康に比す。蓋し陰忍老獪にして權謀に富めること二人相同じと爲すなり。安んぞ知らむ、二人の最も相似たる所は、其の共同者をして信頼せしむるに足るの確乎不拔なる資質に存することを。豈唯だ陰忍老獪にして人の信頼を得ること彼れが如きことあらむや。
彼れの人格思想は、伊藤公爵大隈伯爵等と對照すれば、より多く東洋的なりと雖も、若し強ひて歐洲に其の比倫を求めば、英國のウエリントン其の人を擧げざるべからず。出でては元帥たり入つては宰相たる所、我が山縣公爵とウエリントンと東西の好一對なるべく、其の政治思想の保守的に傾けること亦二人甚だ相遠からず。唯だウエリントンは殆ど政治家たるの一能力だも備へざりき。彼は經綸若くは政術に就いては僅少の智識を有したるのみ。彼れが唯一の注意は女皇内閣の權力を完全に維持せむとするに在りき。彼は過失多き政治家なりき。無策の政治家なりき。而も其の能く首相として内閣を組織し得たるは、彼れが赫々たる戰功に伴へる威望の力に由りたるのみ。我が山縣公爵が、其の本領の亦軍事に在るに拘らず、其の政治の方面に於ても偉大の勢力を有すると同日にして語るべからず。然れども二人に共通する特色は、社交的色彩を放てる生涯を有せざる是れなり。ウエリントンは毫も公衆の感情に頓着せざると共に、又公衆に好愛せらるべき、傾向を其の天分に發見せざりき、彼れの態度は冷靜なりき、乾燥なりき、生硬なりき。彼れの言行には、一點の衒耀なく、夸張なく、文采の燦爛たるものなく、活氣の飛動せるものなく、常に克己、自制、規律を以て鍛錬せられたる軍人氣質の標本たりき。是れ必らずしも温暖なる情緒を缺けるが爲に非ず。彼れの友誼心の深厚にして且つ恒久的なりしは、彼れの親近者の皆認識する所にして、是を以て彼は好愛せられざりしも、信頼せられ、歸依せられ、服從せられたりき。而も彼れをして人望の偶像たらしむるには、彼れの人格は餘りに嚴肅にして陰氣なりき。之れが我が山縣公爵に見るも、亦大同小異の模型に逢ふの感なからずや。
若し政治家を俳優と同視し、其の世に處するや、恰も俳優の舞臺に立つが如く、其の言行絶えず公衆の耳目に印象を與ふるを以て能事とすること、猶ほ俳優が一に大向ふの喝采を博するの技術を盡すに似たるを取るべしとせば、山縣公爵の如きは最も割の惡しき政治家なり。若し之れに反して、公衆には好愛せられざるも、共同者には信頼せらるゝの徳を有し、新聞紙の寵兒とはならざれども、上御一人の覺え頗るめでたく、名聲に於ては甚だ揚らざるも、勢力に於て確實なる基礎を有するものありとせば、其政治家として成功するの要素果して孰れに多しとすべきか。山縣公爵は完全なる政治家に非ざるべし、然れども少なくとも彼は俳優的政治家に非ずして、實質ある成功を期圖するの政治家なり。彼は此の實質ある成功を期圖するに於て、毫も公衆の聲援を藉るの手段を執らざるものゝ如し。公衆の聲援なきも、實權を有するときは政治に成功するの難からざるを知るの政治家なり。故に彼は國民に接近するよりも、先づ權力に接近するの地盤を作るに努めたり。此の點に於て大隈伯爵は固より彼れに及ばず、伊藤公爵と雖も或は彼れの用意の周到に如かざるべし。
現時の政治界は漸く元老の手を離れて新人物の斡旋に附せられむとするに於て、山縣公爵の勢力は遠からずして實存の形を失ふべきや必然なり。而も所謂る山縣系と目せらるゝ桂、清浦等の一派が、尚ほ新時代の勢力として優に大政黨と對抗するに足るを見れば、山縣公爵の涵養したる勢力の鞏固にして、其の根柢の深かきものあるを想ふべし。大隈伯爵の周圍には一人の小大隈と認むべきものなく、伊藤公爵の幕下にも亦小伊藤と稱すべきものあらざるに、獨り山縣系に屬する遊星の多數は、孰れも小山縣の面目を備へたり。是に由て之れを觀れば、彼れの感化力も亦驚くべきものなくむばあらず。以て彼れの眞價の存する所を知るべし。(四十一年一月)
活動したる河野廣中
△河野廣中の奉答文事件は、一時疑問の中心と爲つて、是れには黒幕があるの、進歩黨の策略だのと、いろ/\揣摩憶測をするものがあつたが、追々事實が擧がるに從つて、黒幕の仕事でも何でもない、河野一己の腦中から生れた趣向であつたことが
△兎角政治社會には、政略とか利害とかいふものがあつて、總ての觀察が色眼鏡を通して來るから、動もすると事實を曲解する傾があつて困まる。河野のやうな自ら欺くことの出來ない男が自分に何等の信念もないのに、唯だ策士の入智惠でアンな際どい芝居が演られるものでない。又た河野は正直だからといつて、一から十まで人の御先に遣はれる役目と極まつて居る道理もない。ソンな河野なら、福島事件の張本と爲つて、七年も八年も監獄の飯を食ふやうな陰謀を企てない。
△奉答文事件は、河野本來の面目を遺憾なく發揮したものである。
△一體當世の策士といふ奴は、陰險だの狡猾だのといつても、其の策略は大抵常識から割り出したもので、萬朝報の寶探しよりはモソツと判り易いやうに仕組まれて居る。河野は策士といはれる方でないから、所謂る策略といふやうなことは出來ぬかも知れない。併し策士の思ひも寄らぬ非常の決斷は、河野の如き眞面目の人物に見出ださるゝことが多い。
△常識から見れば、河野の奉答文私製は、到底正當の處爲と認め難い。英國の議會では、勅語奉答は直に内閣の不信任案となることがあつて、其の討議の爲に二日も三日も朝野の論戰を續ける慣例であるが、我國の議會では、勅語奉答は唯だ至尊に敬意を表する儀式的奏文とする慣例で、政治上の意味を含ませないことになつて居る。此の慣例は永久變更が相成らぬという譯でもないから、變更する必要と機會があらば、之れを變更しても一向差支がない。併しソレをするには適當の方法手續に依らざるべからずだ、然るに河野は適當の方法手續に依らずして、獨斷を以て從來の慣例を破つた。
△凡そ閣臣の失政を彈劾するのは、憲法より與へられたる議院の權能であるけれども、討論を用ゐずに之れを決することは出來ない。又た之れを討論に附するには、議院法の規定に依て議員より發議せしむるを要するのである。
△河野の朗讀したる勅語奉答文は、形式上討論に附した姿になつて居るが、實際は討論を用ゐずに可決したのである。否討論が出來ないやうに仕向けたといつても宜しいと考へる。内閣の彈劾上奏案とも見るべきほどのものを、議長の勝手で拵らへて、議長の單意で提出して、討論の準備なき議院に可否を問ふといふ法はない。ソンな大切な問題を夢中に拍手して通過せしめ、後で大騷ぎを遣らかした議員も議員だが、其議員に不意打を喰はした河野議長の處爲も、决して正當とは謂はれない。
△内政は彌縫を事とし、外交は機宜を失すといへる奉答文中の文字は、或は衆議院多數の意向を表現したものかも知れない。併し討論なしに之を可決しては、其文字は全く無意義の空文字となるのである。又た理由を説明せずに斯る上奏文を捧呈するのは、陛下に對する敬禮を缺て居ると思ふ。
△熟ら/\開會以前の形勢を見るに、政友會と憲政本黨とは相聯合して内閣に當らうといふ攻撃同盟が成立つたのであるから、議事の進行次第で、閣員彈劾の上奏案が現はるゝのであつたかも知れない。併しソレにしても、十分當局者に質問をしたり、説明を求めたりして、其の上で正々堂々たる討論をも悉くし、今度こそは大に内閣の油を搾つて遣らうといふのは、聯合黨領袖株の心算であつたらしい。ソレデ河野が若し聯合黨の爲に謀つたならば、彼れは獨斷でアのやうな奉答文を朗讀する事は出來ぬ筈である。大石正巳は河野議長の處爲を非常に喜むで居つたさうだが、ソレハ一時の感興に打たれたからであつて深く考へて見たら決して喜ぶべき譯のものでない。
△如何に目的が正しくても、手段が正しくなくては憲政を圓滿に發達せしむることが出來ない。少々は目的が間違つて居ても、之れを達するの手段が正しければ天下の同情を得ることがある。かるがゆゑに、政治家の苦心は、どうしたら手段が正しく見えるだらうと工夫することであつて、所謂る策士といふ奴は、目的は兎も角も手段を正しく見せ掛けるやうに仕組むのが巧みである。河野の今囘の遣り口は、全く之れとは反對であるから、たとひ河野自身では俯仰天地に恥ぢざる積りでも、世間では陰險悖戻の策略を用ゐたものゝやうに彼れを非難するのである。
△河野自から語る所では、奉答文を政治上の意義あるものとするのは、彼れの年來の持論で、彼れは議長の候補者に推された時、『若し當選して議長の椅子に就くことゝなつたら、此の持論を實行して見ようと決心した』さうだ。是れは眞實の自白に相違ない。要するに朝野を驚かした奉答文も、唯だ此の單純なる功名心から生れたので、策略だの陰謀だのといふほどのものでもないと考へる。
△然らば彼れは何故に此の事を一應政友に相談せずに獨斷に遣つたかといふに、ソコが則ち河野本來の面目で、彼れは大事を行ふ場合に、人と相談する男でない。又た責任を人と分かつやうなことは好まない方だ。度量が濶いやうで、狹まいやうで、チヨツと尋常人と異つた點がある。
△勿論從來の慣例を破つて、奉答文に閣臣彈劾の意義を含ませるといふことは、相談しても容易に同意を得るものでないことは、河野も能く知つて居たのである。コンな話を正面から持ち掛けて見給へ、代議士などは唯だ膽を潰ぶすばかりで、政黨の領袖で候のといつて居る手合でもイザとなると腰を拔かすに極つて居る。相談なんてソンなこと非常の英斷を下だす場合に禁物である。
△元來河野は、如何なる地位に居ても、如何なる時代に在ても間斷なく仕事をするといふ性格の人でない。彼れは感情の最高潮に達した時でなくては活動を顯はさない質である。世は彼れが久しく蜚ばず鳴かずに居つたのを嘲つて無能といつたが、是れは蜚むだり鳴いたりする動機に觸れなかつたので、無能には違ひないが、活動力は消滅した譯でないのである。
△算盤を彈じくとか、理窟を捏ねるとかいふことは、能者のすることで、河野のやうな性格の人には出來ぬ藝だ。利害を離れ、政略を離れて、唯だ一個河野といふ人格の自我を發揮する時でなくては、彼れの本領が見えぬのである。
△トコロが當世は小刀細工の流行する時節であるから、河野の自我が發揮された奉答文事件を認めて、誰れか背後に黒幕が隱くれて河野を操つたのだと推測するものがある。誠に河野の爲に氣の毒の感に堪へない。特にニコチン中毒の説を流布して、河野と煙草屋との間に何か秘密でも在るかのやうに言ひ做すに至つては、餘り酷どい穿ち樣であると考へる。ソンな河野なら、今のやうな貧乏はして居ない。
△政府に買收されたといふのも黨派根性から割り出した推測で、愚にも附かない話ぢや。マー河野よりも政府の都合を考へて見給へ、解散の結果は、前年度の豫算を執行することゝなるのだ。第十七議會は解散で三十六年度の豫算が不成立となつて居るのだから、前年度の豫算といへば三十五年度の豫算である。三十七年度の歳計を立つるのに三十五年度の豫算に依るといふのは、政府の大困難であつて、ワザ/\ソンな大困難を引受くる爲めに、河野を使つて解散の口實を作る如き馬鹿な狂言をするでもなからうぢやないか。
△又た西園寺侯が河野を煽てゝ遣らせた狂言に過ぎないといつて
△併しドンな批評があらうとも、河野は河野の爲さむとする所を決行し了せたのであるから、毀譽褒貶は度外に置くべしだ。兎に角彼れは十分自我を滿足せしめたのだから、外に何も遺憾なことがなからう、今度のやうな機會は再び來るものではない。彼れも此に於て始めて歴史上の一人物と爲つたのである。(三十七年一月)
尾崎行雄
尾崎行雄
學堂の英雄崇拜
博學多識の小野東洋早く歿し、敏警聰察なる藤田鳴鶴尋で逝き、俊邁明達の矢野龍溪は、中ごろ久しく政界と絶縁して、隈門の人才、爲めに人をして寂寞を感ぜしめ、今や世間島田沼南、犬養木堂、尾崎學堂を隈門の三傑といひ、而して學堂最も當世に稱せらる



顧ふに議會開設以前までの學堂は、唯だ夸大なる空想と、奇矯なる言動とを以て、漫に聞達を世間に求め、天下經綸の實務は一切夢中にして、獨り氣を負ひ、才を恃み、好むで英雄を氣取り大政治家を擬したる腕白書生たりしに過ぎず








彼れが曾て報知新聞に在るや、文を屬して容易に成らず、編輯人之れを督促して急なり、彼れ大聲叱して曰く、我れは未來の立憲大臣たらむと期するもの、何ぞ數々として我れを累はすの太甚しきやと、是れ猶ほ昔者ジスレリーが、メルボルン公の、『足下は政論家と爲て何を爲さむとするか』と問へるに答へて、我れは唯だ英國の總理大臣たらむとするのみといへると一對の大言なり



彼れが曾て東京府會の議員たるや、例に依りて放言高論動もすれば議場を惱殺せしめんとす





彼れが自負心強く、夸大の空想に耽り、莊嚴なる英雄の舞臺に神迷するの状は、亦明かに彼れの風采にも躍然たり









彼れは常に矢野龍溪に兄事し、龍溪を以て大臣以上の人物なりと尊崇し、其人品を評して少なくとも當代一流といひたるものなり


學堂の成功
學堂が成功の一原因は、政治家の凖備と修養とを怠らざる是れなり







彼れは斯くの如き抱負と熱心とを以て帝國議會に入れり











且つ彼れは衆議院に於て、討論家として卓越なる能力を顯はしたり







伊藤内閣の時なりき、彼れは渡邊侠禪と、一錢一厘の問答を試みて侠禪を飜弄せり






彼れが成功の原因は、更に焉れより大なるものあり










然りと雖も、彼れが進歩黨中最も有力の位地を得たる所以のものは、唯だ伎倆と勉強との力に是れ由るに非ずして別に之れが原因たるものあり、品性高潔にして體面を重んじ、清澹の生活を樂みて鄙劣の念なき即ち是れなり
















學堂の人物
政治家としての學堂は、策略縱横、權變百出、能く一時の利害を制するに於て木堂に及ばず







尾崎東京新市長
▲政友會を脱して、遽かに政治的孤兒となつた尾崎行雄君は、棄てる神あれば助くる神ありで、同情ある東京市民に拾ひ上げられて市長の地位に安置せられた。君は曾て言つたことがある。我輩の生涯は恰も隧道の多い鐵道旅行をするやうなもので、時々暗黒の處に差し掛つては、再び前途の光明を認めてヤツト安心することがあると。なるほど考へて見ればさうかも知れない。
▲君がジスレリーを氣取て居るといふのは有名な話であるが、近頃は君をチヤムバーレーンに較べるものがあるやうだ。チヤムバーレーンはバーミンガムの市長と爲つたこともあるから、此の點だけが似て居るやうだが、人格は全く反對で、少しも似て居る處がない。
▲チヤムバーレーンは理想家でなくて、實行家である。但し何んな政治家でも、苟も政治家であつてみれば、何かの理想を持つて居らぬものはないのである。チヤムバーレーンにも、赤いとか白いとかいふ理想あるに違ひない。しかし彼れは自己の理想よりも更に政治家に大切なものがあるといふことを心得て居る。即ち時代の精神である。彼れが時代の精神に觸接するの鋭敏なることは、殆ど天才の詩人が無意識に自然と觸接するやうな趣がある。初めは自治法案に贊成して居つたが、時代精神が漸く大英統一主義に傾いて來たのを察して、潮合を計つて自治法案反對と出掛けた處などは凄い腕だ。此頃は復た保護貿易主義らしいものを唱へて居るが、元來自由貿易策は英國の國是ともいふべき位のもので、自由黨でも保守黨でも此の政策には今が今まで指一本も差しかねたものであるが、彼れが大膽にも之れを變更しようと試みるのは、全く時代精神の傾向を見拔いて居るからだ。其の目先の早いことは疑ひもなき天才である。
▲尾崎君はさういふ柄ではない、一體は主觀的理想家であるから、其の頭腦は一定の型に這入つたやうに固まつて居る。それであるから、君の政治論は、十年前も今日も、少しも變化もなければ進歩もないやうである。進歩黨を去て政友會に赴いた時は、世間から變節だとか無節操だとかいはれたが、實は變節でも何んでもない。唯だ一寸乘替汽車に乘つて見たばかりで、其の行先はチヤンと極まつて居つたのである。
▲理想家に免がれない短所は、常に自己に重きを置きすぎる弊があつて、兎角時代の精神を看過するから、實行的手段には迂濶であるやうだ。此の社會を自己の理想通りにして見たいと思ふのは、面白いことは面白いが、社會は自己の理想より進歩して居ることもあり、後れて居ることもあつて、平行して居ることは少ないものだから、理想家は何うかすると社會の孤兒となるのである。
▲尾崎君の行徑を見るに、多少其の傾向があるではなからうか。政友會を脱したのも、自己の理想が行き詰つた爲めであつて、別段深い考があつたものと見えない。世間には、君が伊藤侯を見損つて政友會に飛び込むだのが誤りであつたと評するものもあるが、強ち見損なつた譯ではなからう。唯だ自己の理想を餘り大事にし過ぎた爲に、當時の境遇に堪え得なかつたのである。
▲しかし茲が尾崎君の人氣のある所以で、失敗しても世間の同情が君を離れないのであらう。チヤムバーレーンのやうな人物は、成功すれば世間から同情を受けるが、失敗でもしたら最後、名譽も信用も忽ち去つて仕舞うのが必然だ。其處になると、理想家は一得一失で、失敗しても左ほど世間から憎まれない。尾崎君は即ち其の一例で、君は自ら言つて居るやうに、屡々暗黒の隧道に行き當ることがあるが、暫らくして再び光明の出口に送り出さるゝのである。
▲政友會を脱したのは、丁度隧道に向つた處であつて、君自身も此先どうなることかと氣が氣でなかつたに相違ない。其處へ都合よく東京市長が缺けて居つて、後任問題の持ち上がつた際であつたから、人氣は恐ろしい勢で君に集つた。これだけは君の夢にも思はなかつたのであらうが、君に取つて所謂る渡りに舟で、人氣といへる不思議の魔力に引かれたのである。
▲凡そ聰明な人物は、自分で自分の運命を開拓するものであるが、餘り聰明でない人物でも、人氣といふ魔力に擔がれると、豫期せざる仕合せに逢ふものらしい。
▲ソンなことはどうでも宜いとして、さて君はチヤムバーレーンに比較されて居るから、どうかチヤムバーレーンに劣らないやうに、緊かり市政を行つてもらひたいものだ。市政といへば小さいやうであるが、なか/\さうでない。國務大臣の仕事にも劣らぬほどの難役であるのだ。
▲チヤムバーレーンがバーミンガムの市長と爲つたのは未だ國會議員とならない前であつて、政治家としては經驗が甚だ少なかつたのである。しかし會社事業や何かで實務上の手腕が十分認められて居つたから、市民の信用を得て市長に選まれたのである。果して彼れは市民の希望に背なかつた。新たに大規模の公園を造くる、自由圖書館を建てる、市民の大會堂を設ける、水道及び瓦斯の供給を市有にする、貧民窟を市外に移して市の體裁を綺麗にする、それは/\目醒ましき働きを現はしたのである。隨て彼れの市長たりし時代はバーミンガム市の歴史上、最も記憶すべき重要の時代といはれて居るが、尾崎君も市長となつた序に思ふ存分に手腕を示してもらひたいものである。
▲唯だ市政はヂミな仕事でハデでない代りに、隨分細かい、面倒臭い處があるから、何でも根氣よく、勉強するに限る。それに東京の市政にはいろ/\の歴史もあり、込み入つた情實もあるから、政黨を率ゐたり、國會議場で討論するやうな譯に往かない。君は市會を小國會にし、市廳を小内閣にする抱負があるさうだが、ソンなことは市政には餘り必要がない。市政は直接に市民の生活問題に關係するものだから、教育とか、衞生とか、交通機關とかいふ實際の施設に最も注意してもらひたいのである。市會がどうの、市廳の組織がどうのといふやうなものは、格別大事でないと考へる。
▲どうも理想家は、空理空論に流がれて、實務の上に手を拔く弊があるから、尾崎君も餘つぽど用心しないと、つまらない失敗を取らないとも限らない。君は宜しく市民の人氣に背かないやうに甘く遣るべしだ。(三十七年八月)
尾崎行雄氏の半面
此頃外債問題討議の市會議場に於て、市長尾崎行雄氏は、久しぶりにて大氣焔を吐きたり。氏は某議院が、外債のコムミツシヨンを如何に處分するやと言へるを聞き咎めて、行雄は二十年來政海の激浪を經來れり、十萬二十萬の端金の爲に名節を汚すものに非ずと傲語し、以て頗る世間の耳目を驚かしたるものゝ如し。
尾崎氏の品性廉潔なるは何人も之れを疑ふものなく、市民が氏を市長に戴きたるも、實は其廉潔を信じたるに外ならず。然れども世間は氏に望むに、更に廉潔以上何事か市政の上に施設する所あらんことを以てしたり。有體にいへば、世間漸く氏が市長として餘りに無爲なるに失望したり。氏より見れば今の市會議員なるものは箸にも棒にも掛らぬ連中なるべし。而も氏は斯る連中の爲に往々愚弄せられ、若くは鼎の輕重を問はれむとするの状なきに非ず。是れ平生氏を知るものゝ甚だ心外千萬とする所なり。
勿論人は動いて一事を爲す能はず、靜かにして却つて多くの爲すことあり。氏が二十年間の政治的活動は、隨分目覺ましからざるに非ずと雖、其の迹を見れば唯だ廉潔の美名を得たるのみにて、是れといふべき格別の事業もなきに似たり。されば市長となりて以來氏が殆ど寂然として聞ゆるなきに至りしもの、或は氏が實質上大に爲しつゝある所以なるも知るべからず。是を以て氏の靜かなるは毫も咎むべきに非ず、要するに其の平生の抱負に背かざるだけの仕事を爲すことを得ば足れり。今や氏は千五百萬圓の外債募集に成功したり。氏は此の金額を以て市區改正其他の事業を未來の短かき時日内に遂行せむとすと聞けり。是れ恐らくは東京市の戰後經營なるべし。其の成敗は則ち市の能否を試驗する所以なれば、氏夫れ二十年來鍛錬し得たる手腕を揮つて世間の群小を一齊屏息せしむるを得るや否や。(三十九年八月)
尾崎市長と大岡市會議長
尾崎行雄氏は東京市長として未だ世間に誇るに足るものなくして、却つて群小嘲弄の標的たらむとするは氣の毒の至りに堪へず。前に氏の市長に就任するや、故星亨の殘黨たる郡市懇話會、之れに反對して起りたる公民會、及び餘の中立派は、悉く相一致して氏を助くるの態度を示したりき。而も時を經るに從ひ、氏は漸く市民の代表者に重むぜられず、最も氏を信用したる公民會派すらも、氏に對する同情は以前の如く深厚ならざむとするに至れり。氏の位地は幾たびか危急に迫れりと報ぜられたりき。氏の名節を惜むものは寧ろ氏が辭職の斷あらむことを望みたること一再に止らざりき。特に電車問題に關する氏の失敗は、氏をして最後の處決に出でしむるに十分の理由あるものなりき。氏は東京市會が電車市有の決議を爲したるを見て、直に屬僚に命じて市有案を編制せしめつゝありしに、市參事會員は其の同一屬僚をして更に反對の立案を爲さしめたりといへり。市參事會員の行動斯くの如く、市會の形勢亦飜雲覆雨して、氏に求むるに市有案の撤囘を以てしたるに至ては、是れ氏に向て詰腹を切らしめむとするに均し。而も氏は尚ほ晏如として市廳に眠る。知らず氏の意氣銷沈したるか、將た大に將來に期する所あるか。
茲に東京市會議長の大岡育造氏といへる大政治家あり。世間或は氏を以て市長の椅子を窺

大岡氏は巧慧機敏の才子にして善く謀り善く働くと稱せらる。之れに反して尾崎氏は正直なる神經質の人物にして、常に上品の手段を以て上品の目的を達せむとし、其の心術に一點の横着なきがゆゑに、頗る野暮にして融通の利かぬ堅氣者に似たり。されば小手先の器用を喜ぶものは、大岡氏に意を寄する多かるべきも、唯だ東京市民は市長として一事の尾崎氏に信頼すべきものあるを了解せり。氏の清廉潔白なること是れなり。東京市政は、久しく不淨なる人物に依て攪亂せられたりき。是を以て他の資格に於て缺くる所あるも、清廉潔白の人格を有するものは東京市長として最も安心すべき人物なりと東京市民は思へり。尾崎氏にたとひ事務の能の甚だ稱すべきものなしとするも、其の清廉潔白なる美質は東京市民の毫も疑はざる所なり。但し市會及び市參事會の小野心家小陰謀家は、却つて此の清廉潔白を窮屈に感ずるものあるやも知れざれども、市民の輿望は此に歸せり。故に若し清廉潔白に於て尾崎氏の如く明白ならざる人物ありて市長の椅子を窺

斯くて尾崎氏の位地は當分安全なれども、實は脆弱なる安全なり。實力を以て支持したる安全に非ず。氏にして若し小心翼々唯だ過失なきを勉むるのみならば、氏の位地安全なるが爲に東京の市政に何の加ふる所あるを見ざらむ。元來氏は豁達にして腹心を披くの門戸開放家にも非ず。さりとて術數を蓄へ陰謀を成すの策士にも非ず、要するに氏は一種の獨善主義者にして名節を貴ぶの君子人なり。故に品性は極めて立派なれども、俗人を相手にして俗事を處理するに於ては、其の頭腦餘りに窮屈にして狷介なり。氏は熱心なる味方を作る能はず、又忠實なる子分を得る能はず。首領たるの器局は到底氏に於て求むべからず。故に氏に望む所は、思ひ切つて自己の所信を斷行し、何人の反對をも畏れずして獨り其の爲さむとする所を爲し、位地を賭して驀進するに在り。然らずして唯だ無爲無能の好々先生に終らば、氏の政治的生命は遠からずして絶えむ。位地の安全なるを以て自ら甘むぜば、氏の末路は知るべきのみ。(四十年二月)
公爵 近衞篤麿
近衞篤麿
一代記の序言
近衞篤麿公の名が世に出でたるは、漸く最近十年間の短日月のみ。而も彼れの春秋尚ほ高きを見るに於て、此短日月は僅かに彼れが公人歴史の初期たるに過ぎず





統御の器
彼れが歐洲より歸るや、久しからずして帝國議會開會せられ、彼れは憲法より與へられたる特權に依りて貴族院の一席を占めたり





松方内閣成るや、彼は遂に議長に勅選せられて第十議會に膺りたりき


忠忱の人
彼れは久しく貴族院に於ける硬派の首領たり





故に彼は一方に於ては藩閥を攻撃すると共に、一方に於ては又屡々衆議院の行爲を非難したりき







第五議會の解散するや、彼れは其同志と共に伊藤首相に忠告書を贈りて、首相の反省を求めたり










自任に高き人
松方内閣組織せらるゝに及び、人あり彼れを誘ふに文部大臣の椅子を以てす























謹愼の人
昔者孔明、漢後主に上表して曰く、先帝臣が謹愼なるを知る、故に臣に託するに大事を以てせりと







主義の人
彼れ前年獨逸大學に在るや、其卒業論文として責任内閣論を草し、以て名譽ある學位を受けたり







華族社會の好一對
近衞公と西園寺侯とは華族社會の好一對なり、近衞公は現に貴族院議長たり、西園寺侯も亦曾て貴族院に副議長たりき



特に近衞公の獨逸學に於ける、西園寺侯の佛蘭西學に於ける、其素養以て相敵するに足り、近衞公の國家主義に於ける、西園寺侯の世界主義に於ける、其思想以て相爭ふに足る


歸朝したる近衞公
(上)
歸朝したる近衞公は、政治社會の未定數として一般に認めらるゝ人なり



余の記憶によれば、公の世界漫遊は、貴族教育の取調を第一の目的と爲し、政治上の觀察は寧ろ第二の目的なりしものゝ如し


















さりながら實際の腐敗は獨り貴族及び貴族院に止らず、近來政黨及び衆議院の腐敗は寧ろ是れに過ぎたり


腐敗の事實は敢て今日に發したるに非ず







近衞公は貴族の儀表にして、其高風固より國民の瞻仰する所



(下)
近衞公にして若し新運動を開始するものとせば、公は果して如何なる方向を選む可き乎



現今の政黨は、其腐敗に於て五十歩百歩の差はあれども、其腐敗は則ち一なり




近時動もすれば政黨より逃がれて一身を潔くせむとするの人あり








公の既成政黨に入るは、絶對的に利ならず、又絶對的に害ならず











公若し既成政黨に入るを利あらずとして別に一政黨を組織せば如何




歸朝したる近衞公は、政治上の未定數なりと雖も、其一擧一動は、少なからざる注意を以て國民に屬目せらる

故近衞公を追憶す
近衞公と政黨内閣
故近衞公は、最も多望なる未來の人なりき。不幸にして、一朝病の爲めに過去の人となり、國家は之れによりて柱石たるべき偉材を失ひ、貴族は之れによりて好個の首領を失ひ、國民は之れによりて又た一代の儀表たるべき人物を失ひたり。余は公の知を辱うする茲に十有餘年、其の間屡ば公に謁して、公の指導を受けたるもの頗る多く、今にして之れを追懷すれば、音容尚ほ儼として目に在るが如きを覺ゆ。嗟乎公薨ずるの日、享年僅に四十有二、識量漸く長じ、威望次第に高きを加へむとするの時に方り、空しく雄志を齎らして永久の眠に就く。人生の恨事寧ろ是れに過ぐるものあらむや。
余が始めて公と相識りしは、明治二十七年二月中旬なりき。當時余は毎日新聞の一記者たりしを以て、主筆島田三郎君は、特に翰を裁して余を公に紹介し呉れたりき。余の公を訪問したる際は、公は貴族院に於ける硬派の領袖として、第二次伊藤内閣に對する隱然たる一敵國たりき。蓋し公は伊藤内閣が第五期議會を解散したるを以て、非立憲的動作と爲し、貴族院議員三十七名と連署して、忠告書を伊藤首相に與へ、首相の復書に接するや、更に復書辯妄と題する一文を草し、機關雜誌『精神』の號外として之れを發表したりき。其の論旨侃諤、首相の無責任を攻撃して毫も假藉する所なきの故を以て、在野の黨人は自然に公と相接近すると共に、伊藤内閣は公を認めて侮るべからざるの強敵と爲せり。然れども余の始めて見たる近衞公は、極めて平允端懿なる貴公子なりき。其の言動は固より尋常

尋で第六議會復た解散せらるゝや、公は再び非解散意見と題するものを『精神』の號外として發表し、公然伊藤内閣に宣戰状を贈りたり。其の末文に言へるあり、曰く要するに伊藤内閣の信任し難き事實は、天下の耳目に彰々として現はれ來れり。而して解散の結果として、將に來るべき總選擧の紛擾は國民の心を痛ましめ、國民の財力を費さしむること極めて大ならむとす。想ふに現内閣の言動は、今後依然として今日の如くならむ。今日の言動を以て國民の信任を全うせむと望むが如きは、斷


公は曾て獨逸に留學して、頗るスタインの國家主義に私淑する所多しと雖も、其の立憲政治に關する思想の傾向は、大體に於て英國的なり。故に初期議會以來常に藩閥内閣に反對して政黨内閣の本義を主張したりき。然れども公の政黨内閣論は、夫の政權爭奪を目的とせる黨派政治家と大に其の見地を異にせり。公の政黨内閣を主張するは、之を措て憲政の運用を圓滑ならしむるの道なしと信ずるが爲めのみ。故に徒らに政權の爭奪を事とする政黨は、公の斷じて與みせざる所なりき。
公曾て『慨世私言』を著はして、内閣と政黨との關係を詳論したることあり。其の黨人を戒むるの言に曰く、在野政黨員たるものも、徒らに政府乘取の紛爭を愼まざるべからず。何となれば立憲政治の時運に到達したる國家に於ては、急躁焦慮する所なきも早晩政黨内閣の起るべきは其の數なり。而も今日の如く、各黨各派孰れも確乎たる一大主義を有するなく、情實に合し、情實に離れ、小黨分裂の時に於て、政府を乘取らむとするも豈得べけむや。假令幸にして乘取り得たるとするも、其れ能く一黨一派の内閣にして、久しく其の位地を支ふるを得べけむや。朝たに新内閣成りて夕べに僵る、國家の爲に何の益ぞ。國民の爲に何の利ぞ。寧ろ國家の大勢定りて、政黨の爭ふ所主義の實行に一定し、一大政黨を以て一大政黨と爭ふの時期を待つの國家國民の利たるに如かずと。以て公の志の在る所を知るべし。
余は二十八年二月雜誌『精神』の董刊を公より託せられ、爾來重大なる問題起る毎に、公の意見を聽くの機會に接すること益々多かりき。後ち精神を改題して『明治評論』と爲すや、公は其の立案に成れる『朝黨野黨』と題する一論文を余に與へて、其の初刊の紙上に掲げしめたり。當時伊藤内閣は自ら稱して超然内閣といひしに拘らず、竊に自由黨と提携し、又別に國民協會をも收攬して内閣の黨援と爲さむとし、其の旗幟甚だ鮮明を缺きたるのみならず、動もすれば内部の調和を謀るに急なるが爲に、彌縫と姑息とを事とするの状あり。而して在野黨の如きも、各派互ひに相分立して、一大政黨を組織するに至らず、隨つて其の在野黨としての勢力毫も發展する所あるを見ざりき。公乃ち伊藤首相に向ては、其の宜しく超然主義を棄て、純粹なる政府黨を作り、以て其の旗幟を鮮明にすべきを勸め、在野黨の盟主たる大隈伯に向ては、其の宜しく改進黨との關係を絶ちて各派合同の疏通に便ならしむべきを説きたり。是れ一篇の眼目なりき。公は此意見を以て直接間接に朝野の政治家を指導するに努めたるは言ふまでもなく、大勢亦久しからずして、遂に半ば公の意見を實現し、自由黨は公然政府黨と爲り、改進黨其餘の各派は、相合同して進歩黨を組織するに至りき。
然れども公は唯だ至公至誠を以て時局に處し、未だ曾て政權爭奪の渦中に陷りたることあらず。故に二十九年松隈内閣成るや、公は文部大臣の候補に擬せられ、切に入閣を慫慂せられたりと雖も、公は固辭して之れを受けざりき。公を知ると知らざるとを問はず、皆公の入閣を希望せざるものなく、余も亦實に公の自ら起たむことを勸告したる一人なりき。公其の心事を余に語りて曰く、松隈内閣は一種の聯合内閣なり、之れを從來の内閣に比すれば、稍々進歩したる體貌を有するに似たりと雖も、其の實質は薄弱にして統一を缺き、情弊尚ほ依然として内部に纏綿せり。其の前途知るべきのみ。我れ不似と雖も、身華冑の首班に列し、任重く途遠し。又何ぞ躁進して功名を徼倖し、以て自ら求めて名節を汚がすの位地に立つの愚に出でむや。且つ我れ、陛下の命を受けて學習院の院長たり。眞に華族をして皇室の藩屏たらしめむとせば、先づ華族の子弟を教育するより急なるはなし。我れ既に此目的を抱て、專ら措畫經營する所少なからず、之れを完成するは談豈容易ならむや。文部大臣たるの適材は世間自ら其の人あらむ、學習院の措畫經營は、斷じて之れを他人に委する能はずと。蓋し公は是より前、學習院長に任ぜられ、全力を擧げて華族の子弟教育に從事しつゝありしを以てなり。余は公の著眼の高明なると、心事の純潔なるに服し、益々公の人格に敬意を表せざるを得ざりき。
松隈内閣は果して公の豫想に違はず、所謂薩派と進歩派との紛爭日に絶えずして、忽ち瓦解するに至れり。政界は再び伊藤内閣を復活したりき。而も其の内閣は舊に仍りて超然主義を唱へたりしがゆゑに、自由黨は反旗を飜へして内閣攻撃の位地に立ち、尋で進歩黨と合同して憲政黨と爲るや、伊藤侯は大隈板垣二老を奏薦して新内閣を組織せしめ、茲に始めて政黨内閣の組織を見るを得たりき。而も此の内閣は、政黨内閣としては最も醜惡を極め、特に人才の選叙に於て當を得ざるもの頗る多かりき。黨派の腐敗漸く此の時より助長し、政界の溷濁復た濟ふ可からざるの状態に陷りたり。是に於てか、公の政黨内閣に對する信念は、多少の動搖を始め來りしものゝ如くなりき。公曰く、政黨内閣は暫らく斷念せざる可からずと。但だ公の君國に忠實なる、憲政の運用を圓滑ならしむるの道に於て、曾て一日も之れが講究を忘れたることあらず。故に第十八議會に於て、桂内閣と衆議院と衝突するや、公は無益の紛爭によりて國務の進行を阻碍するを見るに忍びず自ら兩者の間に立ちて妥協を謀らむとしたりき。其の盡力は成功せざりしと雖も、世人は深く公の苦心を諒としたりき。
余の見たる近衞公は、日本貴族の最高貴なる血液を遺傳したると共に、又た其の最純良なる性質をも禀受したりき。其の名利の範疇を超脱して、一意唯だ君國に報効せむことを圖りたるは之れが爲なり。然れども公は黨派政治家として成功するの人に非ざりしが如し。何となれば山野の習氣を帶びたる黨人を指導するよりも、君側に侍して献替補弼するの、寧ろ公の人格に賦與せられたる天品なればなり。
清國保全主義
公の政治的生涯は甚だ短かりしと雖も、其の言動の録すべきもの甚だ少なからず。中に就き特筆大書すべきは、清國保全の旨義を唱道して國論を統一したる是れなり。
明治三十三年義和團の蜂起するや、清廷之れを勦討するの擧に出でず、却つて陰に之れを助けて、其の排外的暴動を煽揚したりき。是に於てか、各國は兵を北清に出して清廷の罪を問はむとし、而して露國は此の事變を奇貨として滿洲を占領せむとするの色ありしを以て、公は清國分割の端或は此の間に啓けむことを恐れ、清國保全の旨義を標榜として國民同盟會を起したりき。當時國内には、或は清國分割を主張するものあり、或は滿韓交換を説くものありて、國論紛々歸著する所なく、特に政友會は、總務委員會を開きて國民同盟會の行動を非認するの决議を爲したりき。然れども各國の政府及び識者は、概して清國の保全、東洋の平和を聲明したるを以て、公の唱道せる大旨義は、殆ど世界の公論たるに至れり。即ち夫の英獨協商の如きは亦清國の領土保全門戸開放を以て原則としたるものなりき。
英獨協商の成立したる時は、帝國の内閣は政友會を以て組織し、伊藤侯は實に之れが首相たりき。而して政友會は初め國民同盟會の行動を非認したるに拘らず、其の内閣は英獨協商の原則を容認して之れに加入したれば、内閣と國民同盟會とは、其の旨義に於て遂に一致するを見たりき。
然れども露國は滿洲の情形不穩にして鐵道保護の必要ありと稱して、兵力を以て之れを占領し、尋で露國關東總督アレキシーフと盛京將軍増祺との間に、滿洲に關する密約締結せられたりとの報ありしがゆゑに、公は同盟會員を私邸に招集し、我政府をして滿洲占領の撤兵及び露清密約の成立に反對するの方法を執らしめむことを決議したりき。
既にして露清特約更に露都に於て成立を告げむとするや、公は清國の大官重臣に警告するに、極力特約に抗拒すべきを以てし、我政府も亦公等の主張を容れて、露國政府に露清特約を廢棄すべしと忠告すると同時に、清國全權に向ても特約に調印すべからずと通告したり。斯くて露清條約は成立せざるを得たりと雖も、露國は依然事實上の滿洲占領を繼續したるを以て、公は滿洲開放統治策を起草し、之れを劉坤一、張之洞の兩總督に贈りたり。其の大意、滿洲を開放して、各國の利權を均霑せしめ、以て其の領土を保全するの得策なるに如かずといふに在り。此の論亦久しからずして世界の公論と爲れり。後ち公は自ら清韓兩國に遊び、親しく兩國の大官名士と會見し、共に力を大局の支持に致さむことを約して歸り、爾來公の意見は、大抵我當局者の施設と其の歸著を同うし、小村壽太郎氏の外務大臣たるに及で、日英同盟の締結と爲り、滿洲撤兵の談判と爲り、今や時局も遠からずして將に解決せられむとするの時機に際會するを得たり。是れ豈公が初めて清國保全の大旨義を唱道して國論を統一したるの功に由らずと謂はむや。
伊藤侯との關係
公は内治外交の政策に付ては、終始多く伊藤侯と衝突して、多く大隈伯と接近するの傾向を有したりき。然れども其の個人的位地よりいへば、公は最も早く伊藤侯に接近したる人にて、大隈伯とは、松隈内閣組織の頃、早稻田專門學校卒業式に於て、唯だ一囘會見したることあるのみと聞けり。但し公と伯との聯鎖たらむと勉め、若くは公伯をして政治的交際を開かしめむと企てたる策士は、或は之れありしを疑はず。然れども公は終に大隈伯と善く相識るに及ばずして薨じたりき。故に曾て公を目して大隈伯の系統に屬すと爲したるものは、全く公の立場を誤解したるものなり。
若し夫れ伊藤侯は、明治十七年公を海外に留學せしむべき勅許を奏請したりき。公の獨逸ライプチヒ大學に在るや、此の先輩政治家と青年學生との間には、間斷なく書信の往復ありたりき。公の學成りて歸朝するや、時方に帝國議會の開設に逢ひ、公は憲法の與へたる特權に依りて貴族院に列したりしが、當時貴族院議長たりし伊藤侯は、此の歸朝者の政治的技倆を試驗せむが爲に一時假議長の事を攝行せしめたりき。公の議事整理上に現はしたる手腕は、老年議員をして舌を卷かしめたるのみならず、推薦者たる侯をして亦其の成功を祝せしめたりき。伊藤侯は實に公を政治家に仕立上げむが爲に、凡百の訓練指導を與へむと欲したりき。後年公自らも余に語りたることあり、余は伊藤侯の薫陶に負ふ所頗る多きものありと。公の伊藤侯に於ける關係の舊るくして且つ親しかりしこと斯くの如し。
然るに第四期議會以後、公は伊藤侯と漸く其の政見を異にし、伊藤内閣が第五議會を解散するに及で、公は伊藤侯に對する絶交書ともいふべき『復書辯妄』を發表し、尋で『非解散意見』をも公刊して、斷然伊藤侯の政敵たる位地に立つを辭せざりき。其頃公は伊藤侯に呼び付けられて、其の言動の不謹愼なるを叱責せられたることありしを聞けり。而も公は憲法擁護の爲めに私情を抑制するの止むべからざるがゆゑに、伊藤侯の喜怒に依りて進退する能はざりしものゝ如し。公は當時の境遇を余に語りて曰く、我れの伊藤侯に反對するは、最大なる精神上の苦痛なりき。何となれば侯は我師父といふべき恩人なればなり。然れども此の苦痛を忍ぶは、公義の命ずる所にして、復た之れを奈何ともすべからずと。非解散意見書中にも亦言へり、現内閣總理大臣伊藤博文伯(當時は伯爵たり)に對しては、私交上寧ろ其の人を徳とする所あり。是を以て政治上の事件に就ても、伯が手際巧みに偉功を奏せむことを祈り、社會の趨勢にして、伯の施設に逆戻するが如きあらば、伯や潔く大丈夫たるの擧措に出で、勇退高踏遂に其の徳を傷けず、流石は維新元勳の言動、凡庸政治家の企及すべからざるものありとの名譽は伯の身邊に纏ひ、百年の後、伯や國民の瞻仰する所と爲り、千歳の下青史の上、模範政治家たらむことを望むの私情は胸襟の間に往來する所たり。篤麿が私交の上に於て伊藤博文伯に對するの情實に師父に對するの情に劣らざるものありて存す、豈一毫の怨恨あらむや。(中略)然れども篤麿が私情に於て伊藤博文伯に繋けたる所の希望は、全く水泡に屬したり。今や篤麿は私情を去て公義に依り、舊來の情誼を棄てゝ、斷然伊藤内閣反對の側に立ち、公然其の非を鳴らさゞるを得ざるの場合に至れり。國家の爲に私情を割く、篤麿不敏と雖も已むべきに非るを知ればなりと。情理并び到れるの辭なりと謂ふべし。
近衞公は私情を忍ぶに於て實に強固なる意思を有したる人なりき。而も其の意思や、公義の發動より出でて、一點の野心を雜へず、所謂る公鬪に強くして私鬪に弱きの類乎。嗟乎公や逝く、公の後繼者たるべき人物は果して有りや無しや。(三十七年二月)
星亨
星亨
彼は政界の未知數なり
星亨氏は曾て不人望を以て高名なりき



されど彼れを讚美する一部の聲は亦甚だ高大なり








彼は天性の黨人なり
彼れは天性の黨人なり


彼れの政治的閲歴は、半ば爭鬪の事實を以て作れり

曾て大隈伯等の始めて改進黨を組織するや、其主義政綱は大體に於て自由黨と其歸着を同うせり


既にして井上條約案出づるや、兩黨偶然其歩武を同うして之に反對し、一日兩黨の聯合懇親會あり

國會既に開くるに及で、自由、改進の兩黨相聯合して藩閥政府と戰ひ、稱して民黨と謂ふ




此に於て乎彼は啻に一般政界の信用を失ひたるのみならず、自由黨も亦漸く彼れを敬して遠け、其全權公使に任ぜられて米國に派遣せらるゝや、識者之れを評して自由黨の内亂豫防策なりといへり

彼れが爭鬪の力に富めるは恰も英國のオーコンネルに似たり




剛愎不遜は、彼れが有する特質の第二なり









凡そ世間に剛愎の士多しと雖も、其剛愎彼れが如きに至ては、古今亦罕に觀るの異彩たらずむばあらじ




彼は主我的人物なり
若し彼をして單に放膽不諱、剛愎不遜の木強漢ならしめば、彼は僅に鷄鳴狗盜の雄たるに過ぎず








彼れ往時英國の某大學に在て法律を修む








顧ふに彼れが見掛によらぬ學者たるは、今や漸く多數の認識するの所となれりと雖も、其言動の毫も學者らしからざるは他なし、彼れは主我的意思を以て總べての問題を解釋し、我れに利なれば理窟を言ひ、我れに不利なれば無理をも言ふの傾向あればなり

彼の去就は單純なり
今や彼は一般の想像するが如き大運動なく、其擧動は頗る平和にして、僅に新聞記者を相手として無意義の評論を試みつゝあるのみ





世間或は彼れを以て高島一派と結托するの意ありと傳ふものあれども、高島一派の現勢力は殆ど零位なり








且つたとひ自由進歩の兩派をして分裂するの不幸あらしむるとするも、自由黨は彼れが爲に一種の迷室なり




故に彼は必らずしも強て現内閣に反對するものに非ず




星亨の自由黨
(一)政治的喜劇
横濱埋立事件は極めて簡短なる問題なり






(二)排星運動の動機
土佐派が横濱埋立事件を以て星氏の罪惡を彈劾せむとしたるは極めて滑稽なり、曰く星氏が埋立出願の許可を擔保して、議員買收金を小山田某より支出せしめたるは、自由黨の名譽を毀損したる一大非行なりと




星氏は自由黨の純代表者のみ


(三)土佐派の嫉妬
土佐派の衰へたるや太甚し







(四)幕中の傀儡師
伊東代治男は曾て土佐派を通じて自由黨を操縱したる人なり



彼れが横濱埋立事件を以て星氏を征伐せむとしたるは、猶ほ共和演説事件を以て尾崎氏を攻撃したる


(五)星征伐の失敗
自由黨にして若し果して黨紀を振肅するが爲に星氏を除名するの必要あらむか、何ぞ比較的信用ある末松、江原等の君子人をして之れを提議せしめざる


有體にいへば末松、江原等の君子人が、尚ほ黨の平和を口にして滔々たる濁流と浮沈するは頗る解す可からざるものあるに似たり



(六)排星運動の遺算
排星運動には確かに二個の遺算ありき

星除名論者は以爲らく、横濱埋立事件に關して星氏に反對する同盟中には、星氏の直參と認む可きもの少なからず








且つ星氏を除名せば、隨て西郷内相を排斥せざる可からず









(七)組織改造論
星除名論に失敗したる土佐派は、更に組織改造論を唱へて第二の排星運動を開始せり






(八)政權分配論
星氏は組織變更反對決議を爲さしむと同時に、一方に於ては政權分配論を唱へて、局面一變の新手段を採りたり

現内閣は自由黨と休戚を共にすると揚言したるに拘らず、其爲す所は、皆自由黨の初志と背馳したりき






(九)自由黨の實際的首領
星亨氏は眞に自由黨の實際的首領なり







田中正造
田中正造氏
下院の名物
年々開會する帝國議會の下院に於て、常に奇異なる風采言動を以て、無限の興味を傍聽者に與ふる一人物あり。其山猫の人化したる的の面既に甚だ愛嬌津々たるのみならず、其選擧區民より贈與せられたりといへる五所紋付黒木綿の羽織を着用して、古武士の純朴を存する所亦頗る異彩あり、彼は誰れぞ、下院第一等の名物田中正造氏其人なり。
彼は多くの場合に於て極めて沈默なりと雖も、是れ唯だ眠れる獅子の沈默のみ、其勃然として一たび自席を起つや口を開けば惡罵百出、瞋目戟手と相應じて、猛氣殆ど當る可からず、曾て原敬氏を罵つて國賊と爲すや、叱



顧ふに彼れがあらゆる惡口雜言を濫用して、往々議場の神聖を汚がすの失體あるは、固より君子の與みせざる所なるべし



禮法を無視して惡口雜言を濫用するは、確かに彼れの大疵なり、粗暴矯激にして軌道を逸脱するの亡状は、亦固より彼れの大缺陷なり







鑛毒事件は、彼れの專賣問題にして、彼れは此問題の爲めにモツブの巨魁なり、愚民のデマゴーグなりと稱せらるゝをも厭はざるなり

余は此問題に關して、全然彼れの主張に同意するものに非ず



誠實なる方便家
誠實是れ好方便なりとは、屡々余の聽く所の語なれども、之を實行するものは甚だ稀なり






彼は熱血男兒なり



試に見よ、鑛毒問題は古河市兵衞氏と地方一部の農民との間に起れる一小事件のみ



















されど彼は兎も角下院の名物なり


口碑上の豪傑












