オーレンカという、退職八等官プレミャンニコフの娘が、わが家の中庭へ下りる小さな段々に腰かけて、何やら考え込んでいた。暑い日で、うるさく
中庭のまんなかにはクーキンという、遊園『*ティヴォリ』の経営主と持主とを一身に兼ねて、やはりその屋敷うちの離れを借りて住んでいる男がたたずんで、空を眺めていた。
「またか!」と彼は捨てばちな調子で言うのだった。「また雨と来らあ! 毎日毎日雨にならないじゃ済まないんだ||まるでわざとみたいにさ! これじゃ首をくくれというも同然だ! 身代限りをしろというも同然だ! 毎日えらい欠損つづきさ!」
彼はぴしゃりと両手を打ち合せると、オーレンカの方を向いて言葉をつづけた。||
「つまりこれなんでさ、ねえオリガ・セミョーノヴナ、われわれの渡世って奴は。まったく泣きたくなりまさあ! 働く、精を出す、うんうんいう、夜の目も寝ない、ちっとでもましなものにしようと考えづめに考える、||ところがどうです? 一つにはまずあの
あくる日も夕方ちかく又もや雨雲がひろがって来たので、クーキンはヒステリックな笑い声を立てながら言うのだった。||
「ええ何てこったい? 勝手に降りやがれだ! いっそ遊園ぜんたい水びたしにしちまうがいいや、いっそこの俺を水びたしにしちまうがいいや! 俺のこの世の幸福も、いやさあの世の幸福も、どうなりと勝手にしやがれだ! 芸人どもが俺を訴えたけりゃ訴えるがいいや! 裁判所がなんだい? シベリヤへ徒刑にやられたって構やせんぞ! 断頭台もあえて辞しはせんぞ! ハ、ハ、ハ!」
そのまた翌日も同様だった。······
オーレンカは黙って真剣な顔つきでクーキンの言葉を聴いていたが、時には彼女の眼に涙のうかぶこともあった。やがての果てに彼女はクーキンの
「可愛い
彼女が生まれ落ちるとからずっと住み通してきたこの家は、お父さんの遺言状には彼女の名ざしになっているものだが、町はずれのジプシー村にあって、『ティヴォリ』遊園のじき近くだった。毎ばん
彼の方から申し込みをして、二人は結婚した。そして彼は、彼女の頸筋や、ぽってりと健康にはちきれんばかりの肩先につくづく気がついたとき、思わず両手を打ち合わせてこう口走った。||
「可愛い女だなあ!」
彼は幸福な気持だったが、あいにく婚礼当日の昼間が雨で、それから夜ふけになってまた降ったので、彼の顔からは終始絶望の色が消えなかった。
結婚ののち二人は楽しく暮していた。彼女は
「けどねえ、見物衆にそれが分かっているでしょうか?」と彼女は言うのだった。「あの連中の求めるのは小屋掛けの見世物なんですわ! 昨日わたくしどもで『裏返しのファウスト』を出しましたら、どのボックスもほとんどがらあきでしたが、それがもしわたしたちヴァーニチカと二人で何か俗悪なものを出したとしたら、さだめし小屋は大入り満員だったに相違ないんですわ。明日はヴァーニチカと二人で『地獄のオルフェウス』を出しますの。いらしてちょうだいね」
というふうに、芝居や役者についてクーキンの吐いた意見を、彼女もそのまま受け売りするのだった。やはり良人と同様彼女も見物が芸術に対して冷淡だ、無学だといって軽蔑していたし、舞台稽古にくちばしを出す、役者のせりふまわしを直してやる、楽師れんの行状を取り締まるといった調子で、土地の新聞にうちの芝居の悪口が出たりしようものなら、彼女は涙をぽろぽろこぼして、その
役者連中は彼女によくなついて、『ヴァーニチカと二人』だの『可愛い
その冬も二人は楽しく暮した。町の劇場をその冬いっぱい借り切って、短い期限をきってウクライナ人の劇団や、奇術師や、土地の
「あなたはまったく何て立派な人でしょうねえ!」と彼女は彼の髪をなでつけてやりながら、嘘いつわりない本心からそう言うのだった。「あなたはまったく何ていい人でしょうねえ!」
*大斎期に彼は一座を募集にモスクヴァへ旅立ったが、彼女は良人がいないと眠れないので、ずっと窓ぎわに坐りとおして星ばかり眺めていた。そんな時には彼女は自分の身を、鶏小屋に
「開けてください、まことにお手数さま!」と誰かが門の外で、
オーレンカは前にも良人から電報をもらったことは何べんかあったけれど、今度はどういうわけかはっと気が遠くなってしまった。ぶるぶる
『イヴァン・ペトローヴィチ キョウ キュウセイ、ヌグ サシズマツ、ツウシキ カヨウビ』
とこんなぐあいにその電報には『ツウシキ』だとか、更にもっとちんぷんかんぷんな『ヌグ』だとかいう字が打ってあった。署名はオペレッタの一座の監督の名になっていた。
「いとしいあなた!」とオーレンカはおいおい泣きだした。「あたしの懐かしい、いとしいあなた! 何だってあたしはあなたとめぐり合ったんでしょう? 何だってあたしはあなたという人を知って、恋したりなんぞしたんでしょう? あなたはこの哀れなオーレンカを、この哀れな不仕合せな女を棄てて、いったい誰に頼れと仰しゃるの?······」
クーキンの埋葬は火曜日に、モスクヴァのヴァガニコヴォ墓地で行なわれた。オーレンカはわが家へ水曜日に帰って来たが、自分の部屋へはいるが早いかばったり寝台の上に伏し倒れて、声をかぎりに号泣したので、往来や隣近所の中庭までよく聞こえた。
「可愛い
それから
「何事によらず物にはそれぞれ定まった命数というものがありましてね、オリガ・セミョーノヴナ」と彼は悟り澄ましたような調子で、声に同情を含ませて話すのだった。「ですから誰か身うちの者が死んだとしても、それはつまり神様の思召しなんですから、そんな場合にもわれわれは気をしっかり持って、すなおに
オーレンカを木戸のところまで送って来ると、彼は別れを告げて、そのまま向こうへ歩いて行った。それ以来というもの、日がな日ねもす彼女の耳には彼の悟り澄ましたような声がきこえ、ちょいと眼をつぶってもたちまち彼の真っ黒な
プストヴァーロフとオーレンカは夫婦になって楽しく暮した。たいてい彼は昼飯まで材木置場に陣どっていて、それから外交に出掛けるのだったが、あとはオーレンカが引き受けて、夕方まで帳場に坐り込んで勘定書を作ったり、商品を送り出したりするのだった。
「当節じゃ材木が年々二割がたも値あがりになっておりましてねえ」と彼女はお得意や知合いの誰彼に話すのだった。「何せあなた、以前わたくしどもでは土地の材木を
彼女は自分がもうずっとずっと前から材木屋をしているような気がし、この世の中で一ばん大切で必要なものは材木のように思えて、桁材だの、丸太だの、板割だの、薄板だの、小割だの、
「オーレンカ、おまえどうしたのさ、ええ? 十字をお切り!」
良人の思うこと考えることは、同時にまた彼女の思うこと考えることだった。彼がこの部屋は熱すぎるとか、商売が近ごろひまになったとか考えると、彼女もそう考えるのだった。良人が
「まあ、しょっちゅうあなたはお家にばかり、でなければ事務所にばかりいらっしゃるのねえ」と知合いの人がよくそんなふうに言った。「たまには芝居へなり、ねえ可愛いあなた、それとも曲馬へなりいらっしゃればいいのに」
「わたくしどもヴァーシチカと二人には芝居見物の暇なんぞありませんのよ」と彼女は悟り澄ました調子で答えるのだった。「わたくしども自分の腕で御飯をいただいております者には、時間つぶしをする余裕なんかございませんわ。芝居なんぞどこがいいんでしょうねえ?」
土曜日になるとプストヴァーロフと彼女はきまって夜祷式に行き、祭日には朝の
「おかげさまで、結構な暮しをしておりますわ」とオーレンカは知合いの人たちに言い言いした。「有難いことですわ。どうか世間の皆さまにも、わたくしどもヴァーシチカと二人のように暮させて差し上げたいものですわ」
プストヴァーロフがモギリョフ県へ材木の仕入れに出掛けると、彼女はひどく
「では、くれぐれもお大事にね」と彼女は、
そしてまた彼女は相変らず良人の口真似で、いかにも悟り澄ましたような、いかにも思慮ぶかそうな言葉づかいをするのだった。獣医の姿はもう下の扉のそとへ消えてしまったのに、彼女はもう一ぺん彼の名を呼んで、こんなことを言ってきかせた。||
「ねえ、ヴラヂーミル・プラトーヌィチ、あなたは奥さんと仲直りをなさるのがいいですわ。お子さんのためだと思って奥さんを
そしてプストヴァーロフが帰って来ると、彼女はひそひそ声でこの獣医のことや、その不仕合せな家庭生活のことを良人に話してきかせて、二人とも溜息をついたり首を横にふったりしながら、その男の
といったぐあいで、プストヴァーロフ夫婦はひっそりとおとなしく、互いに愛し愛されつつ水ももらさぬ仲むつましさで六年の歳月をおくった。ところがある冬の日のこと、ヴァシーリイ・アンドレーイチは事務所で熱いお茶をがぶがぶ飲んでから、帽子もかぶらず材木の送り出しに
「こうしてこのわたしを見棄てていったい誰に頼れと仰しゃるの、ねえあなた?」と、良人の埋葬を済ませてから彼女はおいおい泣くのだった。「あなたに死に別れてこの先どうして生きて行ったらいいの、みじめな不運なこのわたしは? 親切な皆さまがた、このわたしを
彼女はずっと黒い服に白い喪章をつけて押し通し、帽子や手袋はもはや生涯身につけぬことにきめ、外へ出るのもごく時たま教会まいりか良人の墓参に行くだけにして、まるで修道尼のように引きこもって暮していた。こうして六カ月たつと、彼女はやっと喪章をはずして、窓の
「わたくしどもの町では獣医の家畜検査というものがちゃんと行なわれておりませんので、そのため色んな病気がはやるんでございますわ。のべつもう、人さまが牛乳から病気をもらったとか、馬や牛から病気が感染なすったとか、そんなお話ばかり伺いますのねえ。まったく家畜の健康と申すことには、人間の健康ということに劣らず、心を配らなくてはなりませんわ」
彼女の言うことは例の獣医の考えそのままの受け売りで、今では何事によらず彼と同じ意見なのだった。してみればもはや、もともと彼女は誰かに打ち込まずには一年と暮せない女で、今やその身の新しい幸福をわが家の離れに見出したのだということは、語るに落ちた次第だった。ほかの女だったら世間の非難を浴びずに済みそうもないこの出来事も、オーレンカのことだとなると誰ひとりとして悪く思う気にはなれず、彼女の身の上のことは何事によらずもっとも至極とうなずけるのだった。彼女も獣医も、二人の仲におこった変化のことは誰にも打ち明けず、ひた隠しに隠していたけれど、あいにくこれが二人の注文どおりに行かなかったというわけは、オーレンカがおよそ秘密なんていうことは
「自分の分かりもしない話をするじゃないってあんなに頼んどくのにさ! 僕たち獣医同士で話をしている時には、お願いだから口出しはやめて下さい。それは要するに、退屈なだけですからねえ!」
すると彼女は、びっくりしたような眼でおどおどと彼を見て、こう聞き返す。||
「ヴォローヂチカ、じゃああたし何の話をすればいいのよ

そして彼女は眼に涙をうかべて彼に抱きついて、後生だから怒らないでねと頼む||といった調子で二人は幸福だった。
だがしかし、この幸福もほんのわずかの間だった。獣医が連隊について行ってしまった、それも永久に行ってしまった。というのはその連隊がどこかとても遠いところへ、もう一あしでシベリヤというところへ移されたからである。でオーレンカは一人ぼっちになってしまった。
今度こそもう彼女はまったくの一人ぼっちだった。父親はとうの昔に亡くなり、例の肱掛椅子は屋根裏に転がっていて、
が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。彼女の眼には身のまわりにある物のすがたが映りもし、まわりで起こることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組み立てることが出来ず、何の話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという怖ろしいことだろう! 例えば
町は次第に四方へひろがって行った。ジプシー部落も今では通りと名が変わり、例の『ティヴォリ』遊園や材木置場のあったあたりには、はや家が立ち並んで、横町がいくつもできていた。時のたつのは何と早いものだろう! オーレンカの家は
「あっちへおいで、あっちへ······。ここには用はないよ!」
こうして日が日にかさなり、年が年にかさなって、||なんの喜びもなければ、なんの意見というものもない。炊事女のマーヴラの言うことなら、それで結構というあんばいだった。
七月のある暑い日のこと、ちょうど夕暮ちかくで町の家畜の群が往来をぞろぞろ追われて行き、中庭いちめんにもうもうと埃がたちこめる時刻だったが、とつぜん誰か木戸をこつこつと叩く人があった。オーレンカは自分で開けに立って行って、一目みるとそのままぼおっと気が遠くなってしまった。門の外に立っていたのは獣医のスミールニンで、もはや白髪頭になって、みなりも平服姿だった。彼女はたちまち一切が思い出されて、つい堪えかねてわっと泣き出すと、一言の口もきかずに男の胸へ顔をうずめてしまい、あまりの興奮に前後を忘れて、それから二人がどこをどうして家の中へはいり、どんなぐあいにお茶のテーブルに坐ったかも気づかないほどだった。
「まあお珍しい!」と彼女は、うれしさにぶるぶる顫えながら口ごもった。「ヴラヂーミル・プラトーヌィチ! いったいどこから、どうした風の吹きまわしでいらしたの?」
「実はここにすっかり住みつこうと思いましてね」と彼は話すのだった。「軍隊の方をやめてこうしてこの町へやって来たのは、一つ自由の身になって運だめしをしてみよう、一ところに根のすわった生活をしてみようという考えからなんです。それに息子ももう中学へ上げる年ごろですしね。大きくなりましたよ。僕も実はその、家内と仲直りをしましてねえ」
「で今どこに奥さんいらっしゃるの?」とオーレンカは尋ねた。
「息子と一緒に宿屋にいますがね、僕はこの通り歩きまわって貸家さがしというわけなんです」
「あら、それじゃあなた、いっそ私のこの家になさいましよ! これでも結構住めるじゃありませんか? ああそれがいいわ、それにあたし、お家賃なんか一文だっていただかないわ」とオーレンカは興奮しはじめ、またもや泣きだした。「あなた方はこっちに住んでちょうだい、あたしは向こうの離れで結構だわ。あああたし、ほんとにうれしい!」
翌日はさっそく
「おばさん、これおばさんとこの猫?」と彼はオーレンカに聞いた。「この猫が
オーレンカは少年を相手にしばらく話したり、お茶を飲ませてやったりするうちに、彼女の心臓は胸の底でみるみる温かくなり、あまくしめつけられて来たぐあいは、さながらこの少年が生みのわが子ででもあるようだった。そして、晩になって彼が食堂に腰かけて復習をしていると、彼女は感動と同情のこもった眸でじっとその顔を眺めながら、こうささやくのだった。||
「まあ、なんて可愛らしい、きれいな子だろう。······あたしの坊や、それにほんとにお利口に、ほんとに色白に生まれついたものねえ」
「島とは」と少年は声を張りあげて読んだ。「陸地の一部にして四面水もて囲まれたるをいう」
「島とは陸地の一部にして······」と彼女はあとについて言ったが、これこそ彼女が永年にわたる沈黙と、想いのうちにひそむ空虚とを破って、確信をもって口にした最初の意見だった。
こうして彼女にはもう自分の意見というものが出来たので、夜食のときなどサーシャの両親を相手に、当節では子どもたちも中学の勉強がなかなか難しくなってとか、しかしどっちかといえばやはり古典教育の方が実科教育よりも優れている、というのは中学を出たときどの方面へも道が開けていて、志望によっては医者にもなれ技師にもなれるから、などと述べたてるのだった。
サーシャは中学へ通うようになった。彼の母親はハリコフの姉さんのところへ行って、そのまま帰って来なかった。父親の方はというと毎日どこかへ家畜の検疫に出掛けて、時によると三日も続けて家をあけることがあるので、オーレンカはサーシャが両親にすっかり
さてサーシャが彼女のいる離れに住むようになってから、早くも半年になった。毎朝オーレンカが少年の部屋へはいって見ると、彼はぐっすり眠っていて、片方の腕に頬をのっけたまま寝息ひとつ立てない。彼女は起こすのが可哀そうな気がする。
「サーシェンカ」と彼女は悲しそうに言う。「起っきなさい、坊や! 学校の時間ですよ」
少年は起きて、服をきて、神様にお祈りをして、それからお茶を飲みに坐る。お茶をコップに三杯のんで、大きな輪形ビスケットを二つと、バターのついたフランス・パンを半かけら食べる。彼はまだ眼がさめきらないので機嫌がわるい。
「ねえサーシェンカ、あんたまだお
「いいってば、ほっといとくれよ、お願いだから!」とサーシャが言う。
それから彼は往来を学校の方へ歩いてゆく||自分は小っぽけなくせに、大きな制帽をかぶってランドセルを背負っている。そのあとからオーレンカがそっとついて行く。
「ちょっとサーシェンカ!」と彼女が呼びとめる。
少年がふり返ると、彼女はその手に
「ねえ、おばさんは家へお帰りよ、僕もう一人で行けるから」
彼女は歩みをとめて、
サーシャを学校まで送りとどけてしまうと、彼女はゆっくりと家路につくのだったが、その時はいかにも満ち足りた、ゆったりと安らかな、愛情のあふれこぼれんばかりの気持だった。彼女の顔もここ半年ほどのうちにまた若返って、にこにこと朗らかに輝いている。行き会う人々はその顔をつくづく眺めて、思わずうれしくなってこう話しかける。||
「こんにちは、可愛いオリガ・セミョーノヴナ! ご機嫌はいかが、可愛い
「当節では中学の勉強もなかなか難しくなりましてねえ」と彼女は市場でそんな話をする。「ほんとに冗談じゃありませんわ、昨日なんかも一年生はお伽詩の暗誦と、ラテン語のお
それから彼女は先生がたの噂、授業の話、教科書の話と、かねがねサーシャから聞いていることをそのままに述べ立てる。
二時すぎに二人そろって昼食をとり、晩になると二人そろって予習をしたり泣いたりする。やがて彼を寝床へ入れてやりながら、彼女は長いあいだ彼のために十字を切ったり、小声でお祈りを唱えたりして、それが済んで自分も寝床へはいると、夢ともなく
「ごろ······ごろ······ごろ······」
と不意に、はげしく木戸を叩く音。オーレンカははっと眼ざめて、恐ろしさに息もつけない。心臓の鼓動はわれるようだ。半分間ほどすると、またもや叩く音。
『ハリコフから電報が来たんだわ』と彼女は、からだじゅうがくがく顫えだしながら考える。『あれの母親が、サーシャをハリコフへ呼び寄せようって言うんだわ。······ああどうしよう!』
彼女は身も世もあらぬ気持になる。頭も、足も、手も冷たくなって、自分ほど不仕合せな人間は世界じゅうに一人もないような気がする。それから更に一分ほどすると、話し声が聞こえてくる。あれは獣医がクラブから帰って来たのだった。
『まあ、よかったわ』と彼女は思う。
心臓のおもしがだんだんひいて行って、ふたたびほっと楽な気持になる。彼女はまた横になって、サーシャのことを考えつづける。当のサーシャは隣の部屋でぐっすり寝入っていて、時々こんな寝言をいっている。||
「よおし覚えてろ! あっちい行けったら! 乱暴するない!」
訳注
『ティヴォリ』||ローマ付近にある名勝の地にちなんだ名である。
大斎期||復活祭にさきだつ七週間。三月から四月にまたがるのが普通である。
御受難週||復活祭にさきだつ一週間。
大斎期||復活祭にさきだつ七週間。三月から四月にまたがるのが普通である。
御受難週||復活祭にさきだつ一週間。