一
県庁のあるS市へやって来た人が、どうも退屈だとか単調だとかいってこぼすと、土地の人たちはまるで言いわけでもするような調子で、いやいやSはとてもいいところだ、Sには図書館から劇場、それからクラブまで一通りそろっているし、舞踏会もちょいちょいあるし、おまけに頭の進んだ、面白くって感じのいい家庭が幾軒もあって、それとも交際ができるというのが常だった。そしてトゥールキンの一家を、最も教養あり才能ある家庭として挙げるのであった。
この一家は大通りの知事の
さて医師のスタールツェフ、その名はドミートリイ・イオーヌィチが、郡会医になりたてのほやほやで、S市から二里あまりのヂャリージへ移って来ると、やはり御多分に漏れず、いやしくも有識の士たる以上はぜひともトゥールキン一家と交際を結ばなくてはいかん、と人から聞かされた。冬のある日のこと、彼は往来でイヴァン・ペトローヴィチに紹介され、お天気の話、芝居の話、コレラの話とひとわたりあった後、やはり招待をかたじけのうすることになった。春になって、ある祭日のこと||それは昇天節の日だった||患者の診察を済ませるとスタールツェフは、ちょいと気散じがてら二つ三つ買物もあって、町へ出掛けた。彼はぶらぶら歩いて行ったが(実はまだ自分の馬車がなかったので)、のべつこんな歌を口ずさんでいた。||
浮世の杯 の涙をば、まだ味わわぬその頃は······
町で食事をしてから、彼は公園をちょっとぶらついた。やがてそのうちにイヴァン・ペトローヴィチの招待のことが
「ようこそどうぞ」とイヴァン・ペトローヴィチは、昇り口で彼を出迎えながら言った。「これはどうも御珍客で、いやはや実に喜ばしい次第です。さあさこちらへ、ひとつ最愛の妻にお引き合わせ致しましょう。私はこの
「こちらへお掛け遊ばせな」とヴェーラ・イオーシフォヴナは、お客を自分の傍へ坐らせながら言った。「あなたこの私に
「ええ、この甘ったれの
「ちょいとジャン」とヴェーラ・イオーシフォヴナが

スタールツェフはエカテリーナ・イヴァーノヴナにも引き合わされた。これは十八になる娘さんで、すこぶるお母さん似の、やっぱり瘠せぎすな愛くるしい人だった。その表情はまだ子ども子どもしていて、腰つきも細っそりと
「ようこそどうぞ」
やがて一同そろって客間へ通って、すこぶる真面目くさった顔つきで席におさまると、いよいよヴェーラ・イオーシフォヴナが自作の小説を朗読するのだった。彼女はこんなふうに始めた。||『
「
すると客の一人が、拝聴しながら想いをどこやら千里の外に飛ばしていたと見え、やっと聞きとれるほどの声でとんちんかんな相づちをうった。||
「いや······実にさようで······」
一時間たち、二時間たった。すぐ近所の市立公園ではオーケストラが音楽を
「御作品は雑誌などに発表なさるのですか?」と、スタールツェフはヴェーラ・イオーシフォヴナに聞いた。
「いいえ」と彼女は答えた。「どちらへも発表はいたしませんわ。書いては戸棚の中にしまっておきますの。発表して何に致しましょう?」とその理由を説明して、「だって私どもには財産がございますもの」
すると一同はなぜかしら
「さあ今度はお前さんの番だよ、猫ちゃん、何か一つ
召使たちがグランド・ピアノの
「よおし、猫ちゃんや、今日はまた
一同が彼女をとり巻いて、おめでとうを言ったり、驚嘆してみせたり、あれほどの音楽は絶えて久しく耳にしたことがないと断言したりするのを、彼女は無言のまま
「素敵ですな! 素晴らしいものです!」
「素敵ですな!」スタールツェフも、満座の熱中にばつを合わせて言った。「どちらで音楽をお習いになったんですか?」と彼はエカテリーナ・イヴァーノヴナに聞いた。「音楽学校ですか?」
「いいえ、音楽学校へはまだこれからはいるところですの。只今のところはここのマダム・ザヴローフスカヤに習っておりますの」
「あなたはここの女学校をお出になったのですか?」
「まあ、とんでもない!」と彼女に代ってヴェーラ・イオーシフォヴナが答えた。「私どもでは先生がたに宅までお
「でも音楽学校へはあたし行きますわよ」とエカテリーナ・イヴァーノヴナが言った。
「いいえ、猫ちゃんはママを愛しておいでだわね。猫ちゃんはパパやママを悲しい目に逢わせはしないことね」
「いや、行きますわ! あたし行きますわ!」エカテリーナ・イヴァーノヴナはふざけて駄々をこねながらそう言って、小さな足をトンと鳴らした。
さて夜食になると、今度はイヴァン・ペトローヴィチが持芸を披露におよぶ番だった。彼は眼だけで笑いながら、一口噺をやったり洒落を飛ばしたり、滑稽な謎々を出して手ずから解いて見せたりした。しかものべつに彼一流の奇妙な言葉を使うのだったが、それは永年の
ところがまだそれで
「さあさ、パーヴァ、一つ
パーヴァは見得を切って、片手を高く差しあげると、悲劇口調でいきなりこう叫んだ。||
「ても不運な
で、一同わっとばかり笑い出してしまった。
『面白い』とスタールツェフは
彼はまだ一軒レストランへ寄ってビールを飲み、さてそれから
そなたの声がわが耳に、優しくもまた悩ましく······
二里あまりの道を歩きとおして、やがて寝床にはいってからも、彼はこれっぱかりの疲労も感ぜず、それどころかまだ五里ぐらいは平気で歩けそうな気がした。
『悪しくはないて······』うとうとしながら彼はふと思い出して、声に出して笑った。
二
スタールツェフはトゥールキン家へ行こう行こうと思い暮しながら、病院の仕事がひどく多忙で、いっかな手すきの時間が得られなかった。そんなふうで一年あまりの時が勤労と孤独のうちに過ぎた。ところが図らずもある日、町から水いろの封筒にはいった手紙がとどいた。
ヴェーラ・イオーシフォヴナはもう久しい以前から偏頭痛に悩まされていたが、それが最近、猫ちゃんが毎日のように音楽学校へ行く行くと
ある祭日だった。エカテリーナ・イヴァーノヴナは例の長ったらしい、うんざりさせるピアノの稽古を終わった。それからみんなは長いこと食堂に陣どってお茶を飲んで、イヴァン・ペトローヴィチが何やら滑稽な話をしていた。と、その時ベルが鳴った。誰かお客様だから、玄関まで出迎えに立って行かなければならない。スタールツェフはこのひとしきりの混乱に乗じて、エカテリーナ・イヴァーノヴナに向かってひそひそ声で、ひどくどぎまぎしながらこう言った。||
「後生です、お願いです、私を苦しめないで下さい、お庭へ出ましょう!」
彼女はちょっと肩をすくめて、さも当惑したような、相手が自分に何の用があるのやら
「あなたは三時間も四時間もぶっとおしにピアノをお弾きになる」と彼はその後からついて行きながら言うのだった。「それが済むとママの傍に坐っていらっしゃる。これじゃまるっきりお話をする暇がないじゃありませんか。十五分でも結構ですから私に下さい、お願いです」
もうそろそろ秋で、古い庭の中はひっそりとわびしく、並木の道には黒ずんだ落葉が散り敷いていた。もはや
「まる一週間というものお目にかかりませんでしたね」とスタールツェフは続けた。「それがどんなにつらいことだか、あなたが分かって下すったらなあ! まあ腰を掛けましょう。私の申し上げることをおしまいまで聴いて下さい」
二人とも庭の中にお気に入りの場所があった。枝をひろげた
「どんなお話ですの?」とエカテリーナ・イヴァーノヴナは、愛想も素気もない事務的な口調でたずねた。
「まる一週間もお目にかかりませんでした、あなたのお声を聞くのも実に久しぶりです。私はとてもあなたのお声が聞きたいんです、聞きたくって
彼女が彼の心を魅し去ったのは、その新鮮さ、眼や頬のあどけない表情によってであった。彼女のきものの着こなしまでが、その飾り気のなさや無邪気な雅趣によって、彼の眼には何かこう世の常ならぬ
「お目にかからなかったこの一週間、あなたは何を読んでおいででした?」さて彼がこう尋ねた。「話して下さい、お願いですから」
「*ピーセムスキイを読んでいましたわ」
「と仰しゃると何を?」
「『千の魂』ですわ」と猫ちゃんは答えた。「でもピーセムスキイっていう人、随分おかしな名前だったのねえ、||アレクセイ・フェオフィラークトィチだなんて!」
「おや、どこへいらっしゃるんです?」とスタールツェフは、彼女がやにわに立ちあがって家の方へ行きかけたのを見て、ぎょっとして悲鳴をあげた。「僕にはぜひともお話ししなけりゃならん事があるんです、どうしても聴いていただきたい事が。······せめて五分間でも僕と一緒にいて下さい! 後生のお願いです!」
彼女はもの言いたげな様子でふと足をとめたが、やがて不器用な手つきで彼の掌に何やら書いたものを押しこむと、そのまま家の中へ駈け込んで、またもやピアノに向かってしまった。
『今晩十一時に』とスタールツェフは読みとった、『墓地のデメッティの記念碑の傍においでなさい』
『ふむ、こいつはどうもすこぶる賢明ならぬことだて』と彼は、われにかえってそう考えた。『何の因縁があって墓地なんぞを? どういう気だろう?』
明らかにこれは、猫ちゃんがからかっているのだ。
彼にはもう自家用の二頭立てもあったし、パンテレイモンという
ものの四、五町ほど彼は野道を歩いた。墓地ははるか彼方に黒々とした帯になって現われ、まるで森か、さもなくば大きな庭園を見るようだった。やがて白い石垣や門が見えてきた。······月の光をたよりに、その門の上の方に記された文字が読みとられた。『*······の時きたらん』というのである。スタールツェフは
あたりは沈黙だった。この深い和らぎの中に、大空からは星がみおろしていて、スタールツェフの足音がいかにも鋭く、心なく響きわたるのだった。やがてお寺で夜半の
デメッティの記念碑は礼拝堂のような
人影はなかった。まったく誰がこの真夜中にこんな所へやって来るだろう? しかしスタールツェフは待っていた。まるで月の光が彼の身うちの情熱を暖めでもしたように、燃えるような気持で待ちつづけながら、接吻や
とその時まるで幕が下りたように、月が雲間にかくれて、あたり一めん
「ああくたびれた、立ってるのもやっとなくらいだよ」と彼はパンテレイモンに言った。
そして、ほっとした気持で馬車の中に掛けながら、彼はふとこんなことを考えた。
『やれやれ、
三
あくる日の夕方、彼は結婚の申し込みをしにトゥールキンへ行った。ところが
またしても長いこと食堂にすわり込んで、お茶をがぶがぶやっていなければならなかった。イヴァン・ペトローヴィチは、お客が沈み込んで退屈そうにしているのを見ると、チョッキのかくしから何やら書きつけをとり出して、御領地内の
『花嫁にはきっと相当な
ゆうべ一睡もしなかったので、彼はふらふらとめまいがして、まるで何か甘ったるい睡眠剤でも
『思いとまるんだね、手後れにならんうちにな! あれがお前の手に合う女かい? あれは甘やかされ放題のわがまま娘で、昼の二時までも寝る女なのに、お前と来たら番僧の
『ふん、それがどうした?』と彼は考えた。『いっこう平気じゃないか』
『それだけじゃない、お前があの娘をもらったら』とその片はしは続けた、『あれの親類一統はお前に田舎の勤めをやめて、町へ出て来いと言うだろう』
『ふん、それがどうした?』と彼は考えた。『町なら町でいいじゃないか。花嫁についた
やっとのことでエカテリーナ・イヴァーノヴナが、舞踏会用のデコルテを着込んで可愛らしいすがすがしい姿になってはいって来たが、するとスタールツェフはすっかり
彼女が行って参りますを言い始めると、彼も||こうなってはもうここに居残っている用もないので||立ちあがって、患者が待っているから家へ帰らなければと言い出した。
「致し方もありませんな」とイヴァン・ペトローヴィチは言った、「ではお出掛け下さいだが、ついでに猫ちゃんをクラブまで送りとどけていただきますかな」
そとは雨がぽつぽつ降っていて、ひどい暗さで、ただパンテレイモンの
「わしはお
馬車は動きだした。
「僕はきのう墓地へ行きましたよ」とスタールツェフは始めた。「あなたもずいぶん意地のわるい無慈悲な真似をなさる
「あなた墓地へいらしったの?」
「ええ、行きましたとも、おまけに二時ちかくまでも待っていました。えらい目に逢いましたよ······」
「たんとそんな目にお逢いなさるがいいわ、冗談の分からないような方は」
エカテリーナ・イヴァーノヴナは、自分に参っている男を見事に一番かついでやったし、それに人がこれほど熱心に自分に打ち込んで来るので御機嫌ななめならず、ほほほと笑い出したが、とたんにきゃっと悲鳴をあげた。というのは丁度そのとき馬がクラブの門を入ろうと急にカーヴを切ったので、馬車がぐいと
「もうたくさんだわ」と彼女は素気なく言い放った。
と思った次の瞬間、彼女の姿はもう馬車の中にはなくて、
「どうしたんだ、この薄のろ? さっさと出さんか!」
スタールツェフはいったん家へ帰ったが、じきにまた引き返して来た。借り物の
「いやはや、恋をしたことのない連中というものは、じつに物を知らんものですなあ! 僕は思うんですが、恋愛を忠実に描きえた人は未だかつてないですし、またこの優にやさしい、喜ばしい、悩ましくも切ない感情を描き出すなんて、まずまず出来ない相談でしょうねえ。だから一度でもこの感情を味わった人なら、それを言葉で伝えようなんて大それた真似はしないはずですよ。序文だとか描写だとか、そんなものが何になります? 余計な美辞麗句が何になります? 僕の恋は測り知れないほどに深いんです。······お願いです、後生ですから」と、とうとうスタールツェフは切り出した、「僕の妻になって下さい!」
「ドミートリイ・イオーヌィチ」とエカテリーナ・イヴァーノヴナはひどく真面目な顔をして、ちょっと考えてから言った。「ドミートリイ・イオーヌィチ、そう仰しゃって下さるのはあたし本当に有難いと思いますし、またあなたを御尊敬申し上げてもおりますわ。でも······」と彼女は立ちあがって、立ったまま後を続けた、「でも、堪忍して下さいましね、あなたの奥さんにはわたくしなれませんの。真面目にお話ししましょう。ねえドミートリイ・イオーヌィチ、あなたも御存じの通り、わたしは世の中で何よりも芸術を愛していますの。わたしは音楽を気ちがいのように愛して、いいえ崇拝していて、自分の一生をそれに捧げてしまいましたの。わたしは音楽家になりたいの、わたしは名声や成功や自由が欲しいんですの。それをあなたは、わたしにやっぱりこの町に住んで、このままずるずるとこの空虚で役にも立たない、もう私には我慢のできなくなっている生活を、続けろと仰しゃるんですわ。妻になるなんて||おおいやだ、まっぴらですわ! 人間というものは、高尚な輝かしい目的に向かって進んで行かなければならないのに、家庭生活はわたしを永久に縛りつけてしまうにきまってますわ。ドミートリイ・イオーヌィチ(と呼びかけて彼女はちらっと
そして、泣きだすまいとして、彼女はくるりと身をひるがえすと、客間を出て行ってしまった。
スタールツェフは、今の今まで不安げに打っていた動悸がぱったり
それから三日ほどはてんで何事も手につかず、食事もしなければ眠りもしなかったが、やがてエカテリーナ・イヴァーノヴナが音楽学校にはいりにモスクヴァへ出発したという噂が耳にとどくと、彼はやっと落ち着きを取り戻して、また元の生活に返った。
そののち、自分があの晩、墓地をほっつき歩いたり、町じゅう駈けずりまわって燕尾服をさがしたりしたことを時たま思い出すと、彼はだるそうに伸びをして、こう言うのだった。||
「御苦労千万なことさ、何しろ!」
四
四年たった。今ではもうスタールツェフには町にもたくさん患家があった。毎あさ彼はヂャリージでの宅診を急いで済ませてから、町へ往診に出かけるのだったが、その馬車ももう二頭立てではなく、じゃらじゃら小鈴のついた
スタールツェフは方々の家へ出入りして、ずいぶんいろんな人間にぶつかったが、その誰一人とも親しい交わりは結ばなかった。町の連中のおしゃべりを聞いたり、その人生観を聞かされたりすると、いやそれどころかその
芝居や音楽会などという娯楽からも彼は遠ざかっていたが、その代り
エカテリーナ・イヴァーノヴナが立って行ってからまる四年の間に、彼がトゥールキン家を訪れたのは後にも先にもたった二度で、それも相変らず偏頭痛の療治をしているヴェーラ・イオーシフォヴナの招きがあったからであった。毎とし夏になるとエカテリーナ・イヴァーノヴナは両親のところへ帰省したけれど、彼は一度も会わずにしまった。なんとはなしに機会がなかったのである。
ところがそうして四年たってからだった。ある静かな暖かな朝のこと、病院へ一通の手紙がとどけられた。ヴェーラ・イオーシフォヴナからドミートリイ・イオーヌィチに宛てたもので、近頃はさっぱりお見えにならないので淋しくてならない、ぜひお越しくだすってわたくしの悩みを和らげて下さいまし、なおちょうど今日はわたくしの誕生日にも当たりますので、という文面だった。その下の方には追って書きとして、『ママのお願いにわたくしも加勢をいたします。ネの字』とあった。
スタールツェフはちょっと考えたが、その夕方になるとトゥールキン家へ馬車を走らせた。
「やあ、ようこそどうぞ!」とイヴァン・ペトローヴィチが眼だけで笑いながら彼を出迎えた。
「
ヴェーラ・イオーシフォヴナは、めっきりもう年をとって髪も白くなっていたが、スタールツェフの手を握ると、とってつけたように溜息をついて、こう言った。||
「ねえ先生、あなたはわたくしに
さてその猫ちゃんは? 彼女は前よりも瘠せて、顔の色つやが落ち、それと同時に器量もあがれば姿もよくなっていた。しかしこれはもうエカテリーナ・イヴァーノヴナで、猫ちゃんではなかった。もはや以前の新鮮さも、子ども子どもした罪のない表情もなかった。その眼ざしにも身のこなしにも、何かこう今まではなかったもの||遠慮がちなおどおどした様子があって、現にこのトゥールキンの家にいながら、まるで今ではもうわが家にいる心地がしないといったふうだった。
「ほんとに幾夏、幾冬ぶりでしょう!」と彼女はスタールツェフに手をさし伸べながら言ったが、胸の動悸がはげしく打っていることはありありと見てとられた。そしてじいっと、さも物珍しげに彼の顔にみいりながら、彼女は言葉をつづけた。「まあなんてお肥りになって! 日に焼けて、大人っぽくおなりになったけれど、でも全体にはあまりお変わりになりませんのね」
いま見ても彼はこの人が好きになれた。それどころか大いに好きになれたが、しかし今ではこの人に何か足りないもの、さもなければ何か余計なものがあって||もっとも彼自身にも明らかにこれと名指すことはできなかったが、とにかく何かしらが、もはや彼に以前のような感情を抱くことを妨げるのだった。彼の気に入らなかったのは彼女の蒼白さ、むかしはなかった表情、弱々しい微笑、それから声だったが、しばらくすると今度はもうその衣裳も、彼女のかけている
甘いドーナッツでお茶を飲んだ。それからヴェーラ・イオーシフォヴナが小説の朗読にかかって、ついぞこの人生にありようもない絵そら事を読み上げて行ったが、スタールツェフはそれに耳を傾けたり、彼女の美しい白髪あたまを眺めたりしながら、お仕舞いになるのを待っていた。
『無能だというのは』と彼は考えるのだった、『小説の書けない人のことではない、書いてもそのことが隠せない人のことなのだ』
「
それからエカテリーナ・イヴァーノヴナがピアノを騒々しく長々と弾いて、それがやっと済むと、みんなで長いことお礼を言ったり感心したりした。
『よかったなあ、この人をもらわないで』とスタールツェフは思った。
彼女は彼の方を見つめていて、その様子はどうやら彼がお庭へ参りましょうと言い出すのを待っているらしかったが、彼は黙っていた。
「ねえ、すこしお話しを致しましょうよ」と彼女は歩み寄って来てそう言った。「いかがお暮しですの? 何をしていらして? どうですの? わたくしこの頃はずっとあなたのことばかり考えておりましたのよ」と彼女は神経質な調子でつづけた。「お手紙を差しあげようかしら、自分でヂャリージへお訪ねしてみようかしらと思って、とうとうお訪ねすることに決めたんですけど、またあとで思い返しましたの||だって現在あなたがわたくしのことをどう思っていて下さるのか分からないんですもの。わたくし本当にわくわくしながら今日のおいでをお待ちしておりましたのよ。後生ですわ、お庭へ参りましょうよ」
二人は庭へおりて、四年前と同じように、あの
「ねえ、いかがお暮しですの?」とエカテリーナ・イヴァーノヴナがきいた。
「相変らずですな、まあどうにかやっていますよ」とスタールツェフは答えた。
それ以上のことは何一つ考え出せなかった。二人はしばらく無言だった。
「わたくし何だか落ち着かないで」とエカテリーナ・イヴァーノヴナは言って、両手で顔をかくした。「でもどうぞお気になさらないでね。家に帰ってみると本当によくって、みなさまにお会いできるのが本当にうれしくって、まだしっくり慣れきれませんの。いろんな思い出がありますわねえ! わたくしこんな気がしていましたの、あなたと二人でさぞのべつ幕なしに、夜が明けるまでおしゃべりをすることでしょうって」
いま彼にはちかぢかと彼女の顔やきららかな眼が見えるのだったが、こうして暗がりの中にいると、彼女は部屋の中にいるときよりも若々しく見え、それのみか以前の子ども子どもした表情がもとに戻って来たようにさえ思われた。実際また、彼女はあどけのない好奇の眼をみはって彼の顔をみつめていたのだ。それはさながら、いつぞや自分にあれほど熱烈な、あんなに
「あの覚えておいでですか、舞踏会の晩あなたをクラブまでお送りした時のことを?」と彼は言った。「あのときは雨が降っていて、真っ暗で······」
小さな火はいよいよ燃えあがって、とうとう無性にしゃべりたくなった、生活の愚痴がこぼしたくなった······。
「いやはや!」と彼は溜息まじりに言った。「あなたはいま、私がどう暮しているかとお尋ねでしたっけねえ。こんなところでどう暮すも何もあるもんですか? ええありゃしませんとも。年をとる、肥る、焼きがまわる。昼、そして夜、||あっという間に一昼夜、人生はただもやもやと、なんの感銘もなく、なんの想念もなく過ぎてゆく。······昼のうちは儲け仕事、晩になるとクラブがよい、おつきあいの相手と来たらカルタ気ちがいか、アルコール中毒か、ぜいぜい声の
「でもあなたにはお仕事が、生活の高尚な目的がおありですわ。あなたは御自分の病院の話をなさるのがあんなにお好きでいらしたじゃありませんか? わたしあの頃はとてもおかしな娘で、一人で大ピアニストのつもりになっていましたの。今ではどこのお嬢さんでもピアノぐらいお弾きになりますけど、わたしもつまりは皆さんと同じように弾いただけの話で、べつにこの私にとり立ててこれというほどのものなんかありはしなかったんですわ。わたしのピアニストは、ママの小説家と同じことなんですわ。それにもちろん、あの時のわたしにはあなたという方が分かりませんでしたけれど、その後モスクヴァへ行ってからは、よくあなたのことを考えるようになりましたの。実はあなたのことばっかり考えておりましたの。本当になんという幸福でしょう、郡会のお医者さんになって、お気の毒な人たちを助けたり、民衆に奉仕したりするのは。まったく何という幸福でしょう!」とエカテリーナ・イヴァーノヴナは夢中になって繰り返した。「わたしモスクヴァであなたのことを考えるたびに、とてももう理想的な、けだかい方に思えて······」
スタールツェフはふと、自分が毎晩ポケットからほくほくもので引っぱり出す例のお札のことを思い出し、胸の小さな火が消えてしまった。
彼は
「あなたはわたしがこれまでに存じ上げたかたの中で一ばんお立派なかたですわ」と彼女はつづけた。「これからもお会いしましょうね、そうしてお話しを致しましょうね、そうじゃなくって? 約束して下さいましな。わたしピアニストなんかじゃありませんし、もう自分のことであれこれ迷ったりなんぞもしませんわ。それからあなたの前ではピアノも弾きませんし音楽の話もしませんわ」
一緒に家の中へはいって、夜のあかりのもとで彼女の顔や、自分にそそがれている悲しげな、感謝にみちた、さぐるような[#「さぐるような」は底本では「さぐるやうな」]眼を見たとき、スタールツェフはふっと不安におそわれて、またしてもこう考えた。
『よかったなあ、あのときもらっちまわないで』
彼は別れの挨拶をしはじめた。
「夜食もあがらないでお帰りになるなんて、そんなローマ法がありましょうかな」とイヴァン・ペトローヴィチは彼を送って来ながら言うのだった。「それじゃあなた、何ぼ何でも垂直きわまるなさり方ですなあ。おいおい、一つ
パーヴァはもはや子どもではなく、
「ても不運な
こうしたことが一々みんなスタールツェフの
それから三日するとパーヴァがエカテリーナ・イヴァーノヴナの手紙を持ってきた。
『あなたはちっともお見えになりませんのね。なぜですの?』と彼女は書いていた。『もうわたくしどもをお見かぎりではないのかと案じております。本当に心配で、それを考えただけでもこわくなります。どうぞわたくしを安心させて下さいまし。おいでになって、
ぜひちょっとお話し申し上げたいことがありますの。あなたのE・T・』
彼はこの手紙を読みおえると、ちょっと考えてからパーヴァに言った。||
「なあ君、今日は伺えませんと申し上げてくれ、とても忙しいからって。伺うにしても、そうさな、三日ほどあとになりましょうってな」
しかし三日たち一週間たったが、彼は依然として行かなかった。ある日などはちょうどトゥールキン家の前を通りかかって、せめて一分間でも寄らなくちゃ悪いなと思い浮かんだが、ちょっと小首をひねって······寄らないでしまった。
でそれ以来というもの、彼はもう二度とトゥールキン家の
五
それからまた何年かが過ぎた。スタールツェフはますますふとって
「これが書斎か? これは寝室だな? そっちは何だ?」
そう言いながらふうふう息をついて、額の汗をぬぐうのである。
彼は用事が山ほどあるくせに、それでも郡会医の椅子は投げ出さない。欲の一念にとっつかれてしまって、そっちもこっちも間に合わせたいのである。ヂャリージでも町でも彼のことを簡単にイオーヌィチと呼んでいる。||『イオーヌィチはどこへお出掛けかな?』とか、『イオーヌィチを立会いに頼むとしようか?』とかいったぐあいに。
「お
彼は孤独である。来る日も来る日も退屈で、彼の興味をひくものは何一つない。
彼がヂャリージに住むようになってから今日までを通じて、猫ちゃんに恋したことが後にも先にもたった一つの、そして恐らくはこれを最後の
夜食をやりながら、彼は時によると振り返って、何かの話に割り込んで来ることもある。||
「それはあなた何のお話ですかな? はあ? 誰の?」
またどこか近所の食卓で、談たまたまトゥールキン家のことに及んだりすると、彼はこんなふうにたずねる。||
「それはあなた、どこのトゥールキンのお話ですかな? あの、娘さんがピアノを弾きなさるうちのことですかな?」
彼の方のお話はこれでおしまいである。
さてトゥールキン家の方は? イヴァン・ペトローヴィチは年もとらず、ちっとも変わらないで、例によって例の如くのべつ洒落のめしたり一口噺をやったりしている。ヴェーラ・イオーシフォヴナはお客の前で自作の小説を、例の
「さようならどうぞ!」
そしてハンカチを振る。
訳注
『榾あかり』の唄||ロシヤ農家の宵の情景をうたった哀調ゆたかな民謡。ただし榾とは言っても囲炉裏 にくべるのではなくて、白樺 など脂 の多い木の榾を暖炉の上に立てて蝋燭 代りにともすのがロシヤの貧しい農家のならいであった。
「死ね、デニース······」云々||この文句は、ロシヤ十八世紀の諷刺劇の大家デニース・フォンヴィージン一代の傑作『わか様』Nedoroslj が初演(一七八二年)された際、時の権臣ポチョームキンが感嘆のあまり発した言葉。「死ね、デニース、それとももはやいっさい書くな」の形でも伝えられている。
ピーセムスキイ||十九世紀中葉に活躍したロシヤ作家。長篇小説『千の魂』はその代表作の一つ。
『······の時きたらん』||墓地の門の上に弓なりに渡したアーチに、「墓にある者みな神の子の声をききて出 づる時きたらん」(『ヨハネ伝』第五章二十八節)の章句が記してあったのであろう。
ラフィット||ボルドー産赤ぶどう酒の一種。
「死ね、デニース······」云々||この文句は、ロシヤ十八世紀の諷刺劇の大家デニース・フォンヴィージン一代の傑作『わか様』Nedoroslj が初演(一七八二年)された際、時の権臣ポチョームキンが感嘆のあまり発した言葉。「死ね、デニース、それとももはやいっさい書くな」の形でも伝えられている。
ピーセムスキイ||十九世紀中葉に活躍したロシヤ作家。長篇小説『千の魂』はその代表作の一つ。
『······の時きたらん』||墓地の門の上に弓なりに渡したアーチに、「墓にある者みな神の子の声をききて
ラフィット||ボルドー産赤ぶどう酒の一種。