吉備彦来訪
読者諸君よ、しばらくの間、過去の事件について語らしめよ。······などと
一人の
平安朝時代のことである。
当時藤原信輔といえば土佐の名手として世に名高く殊には堂々たるお公卿様。容易なことでは逢うことさえ出来ない。
「そんな
取り次ぎの者は剣もホロロだ。
「はいはいごもっともではござりますが、まあまあさようおっしゃらずにお取り次ぎお願い申します。······宇治の牛丸が参ったとこうおっしゃってくださいますよう」
で、取り次ぎは内へはいった。
おりから信輔は画室に籠もって源平絵巻に筆をつけていたが、
「何、宇治の牛丸とな? それはそれは珍しい。叮嚀に奥へお通し申せ」
「へへえ、さようでございますかな。······あのお逢い遊ばすので?」取り次ぎの者は不審そうに訊く。
「おお、お目にかかるとも」
「そこでお伺い申しますが、宇治の牛丸と申す
「妖怪変化ではあるまいし、本性などとは無礼であろうぞ。宇治の牛丸と申すのは
「うへえ!」
と取り次ぎの山吹丸はそれを聞くと大仰に眼を丸くしたが、
「馬飼吉備彦と申しますれば本邦第一の物持ち長者と、かよう聞き及んでおりましたが······」
「その長者の吉備彦じゃわい」
「それに致してはその
「ほほう、どのような風態かな?」
「木綿のゴツゴツの布子を着······」
「恐らくそれは
まさか藤原氏の全盛時代には結城紬などはなかった筈。
それはとにかく吉備彦は館の奥へ通された。それお菓子、それお茶よ。それも掻い撫での茶菓ではない。鶴屋八幡の煎餅に藤村の羊羹というのだからプロの口などへははいりそうもない。
ややあって信輔があらわれた。
「よう見えられたの吉備彦殿」
「これはこれはご前様。ご多忙中にもかかわらず、お目通りお許しくだされまして、有難い仕合わせに存じます」
||とにかくこういう意味のことを吉備彦はいったに相違ない。昔の会話はむずかしい。それを今に写そうとしても滅多に出来るものではない。武士は武士、公卿は公卿、ちゃアんと
「ところでわざわざ遠い宇治から
信輔は不思議そうに訊いたものである。
「火急と申すではござりませぬが、是非ともご前の彩管を煩わしたき事ござりまして参上致しましてござります」
······吉備彦は
不思議な願い
「ははあそれでは絵のご用か」
「仰せの通りにござります」
「よろしゅうござる。何んでも描きましょう」
信輔すぐに
「ところでどういう図柄かな?」
「はい」
といって吉備彦は懐中から紙を取り出した。「どうぞご覧くださいますよう」
「どれ」
と信輔は受け取った。
「おおこれは······」
というところを、吉備彦は急いで手で抑えた。
「壁にも耳がござります。······何事も内密に内密に」
「別に変わった図柄でもないが?」
「他に註文がござります」
「うむ、さようか。云って見るがいい」
「お耳を」と云いながら
何か吉備彦は
この吉備彦の囁きたるや前代未聞の奇怪事で、これがすなわちこの物語のいわゆる大切のタネなのである。
「これは変わった註文じゃの」
信輔も
「それに致してもどういうところからそういう心になったのじゃな?」
「別に訳とてはござりませぬがただ私めはそう致した方が子孫のためかと存じまして」
「子孫のためだと? これはおかしい。そっくり
「仰せの通りにござります。恐らく子供達は喜びましょう。それがいけないのでござります」
「はてな?
「家財を受け継いだ子供達は、その家財を無駄に使い、世を害するに相違ござりませぬ。必ず
「それではいよいよそうするか」
「是非お願い致します」
「しかしどうもそれにしても変な絵巻を頼まれたものじゃ。まるでこれでは判じ絵だからの。······よしよし他ならぬお前の
「そこでいつ頃出来ましょうか?」
「一人を仕上げるに一月はかかろう?」
「では六ヵ月後に参ります」
「六人描くのだから六ヵ月後だな」
「何分お願い申し上げます。その間に私めも家財の方を処分致す
馬飼吉備彦は帰って行った。
(かくて月日に
「おお吉備彦か、よく参った。約束通り描いておいたぞ」
信輔卿は一巻の絵巻を吉備彦の前へ押し拡げた。
それは六歌仙の絵であった。······
この謎語なんと解こう
馬飼吉備彦の財産がどのくらいあったかというようなことは僕といえども明瞭には知らぬ。とまれ素晴らしい額であり紀文、奈良茂、三井、三菱、ないし藤田、鈴木などよりもっともっと輪をかけた富豪であったということである。しかし当時の記録にも古文書などにも吉備彦の事はなんら一行も書いてない。で意地の悪い読者の中にはこの事実を楯に取って吉備彦などと云う人間は存在しなかったとおっしゃるかもしれない。よろしい、僕はそういう人にはこういうことを云ってやろうと思う。
藤原時代の歴史たるや悉く貴族の歴史であって民衆の歴史ではなかったからだと。
吉備彦は富豪ではあったけれど貴族ではなくて賤民であった。
そういう卑しい賤民のことが貴族歴史へ載る筈があろうか。
さて、吉備彦は家へ帰ると六人の子供を呼び集めた。
「ここに六歌仙の絵巻がある。お前達六人にこれをくれる。大事にかけて持っているがいい。······俺は今無財産だ? 俺は家財を棄ててしまった。いやある所へ隠したのだ。俺からお前達へ譲るものといえばこの絵巻一巻だけだ。大事にかけて持っているがいい。······ところで俺は旅へ出るから家を出た日を命日と思って時々線香でもあげてくれ」
これが吉備彦の遺訓であった。
吉備彦は翌日家を出た。
鈴鹿峠までやって来ると山賊どもに襲われた。山賊に斬られて
「
まことに変な言葉ではある。
山賊の頭は世に轟いた明神太郎という豪の者であったが、ひどくこの言葉を面白がって、時々真似をして喜んだそうだ。で、手下どももいつの間にかお
「
この暗示的な謎のような言葉は爾来代々の盗賊によっていい伝えられ語り継がれて来て、源平時代、北条時代、足利時代、戦国時代、豊臣時代を経過してとうとう徳川も幕末に近い文政時代まで伝わって来た。
そうして文政の某年に至って一つの事件を産むことになったが、その事件を語る前に例の六歌仙の絵巻について少しくお
絵巻を貰った六人の子は、ひどく憤慨したものである。
「いったい何んでえこの
「いいや俺は呆れもしねえ」次男の
「待ったり待ったり」
と云ったのは小利口の三男月丸であった。
「これには訳がありそうだ。······ううむ秘密はここにあるのだ。この絵巻の六歌仙にな」
「私達は六人、絵巻も六人、ちょうど一枚ずつ分けられる。六歌仙を分けようじゃありませんか」
四男の
「よかろう」
と云ったのは五男の小次郎で、
「
お
藪紋太郎
ちりぢりに別れた六歌仙は再び一つにはなれなかった。
「吉備彦の素敵もない財宝は六歌仙の絵巻に隠されている。絵巻の謎を解いた者こそ巨富を得ることが出来るだろう」||こういう伝説がいつからともなく津々浦々に拡まった頃には、当の絵巻はどこへ行ったものか誰も
こうして幾時代か経過した。
そのうちいつともなくこの伝説は人々の頭から忘れられてしまった。しかしもちろん多くの画家やまた
こうして文政となったのである。
もうこの頃では画家好事家さえ、信輔筆の六歌仙について噂する者は皆無であった。
「大変でございますよ、旦那様!」
襖の外で呼ぶ声がする。
「おお三右衛か」
と紋太郎はとうにさっきから眼覚めていたので、こう云いながら起き上がると布団の上へ
「まあこっちへはいって来い」
「はい」と云うと襖が開き白髪の老人がはいって来た。用人の岩本三右衛門である。キチンと坐ると主人の顔をまぶしそうに見守ったが、
「賊がはいったようでございます」
「うん。どうやらそうらしいな。大分騒いでいるようだ」
「すぐお出掛けになりますか?」
「専斎殿は金持ちだ。時には賊に振る舞ってもよかろう。······もう夜明けに間もあるまい。見舞いには早朝参るとしよう」
三百石の知行取り、本所割下水に
普通旗本で三百石といえば恥ずかしくない歴々であるが、紋太郎の父の紋十郎が、その時代の風流男で放蕩遊芸に凝ったあげく家名を落としたばかりでなく、山のような借金を拵えてしまい、ハッと気が付いて真面目になったところでコロリ
親に似ぬ子は鬼っ子だとある心理学者がいったそうであるが藪紋太郎は実のところ少しも親に似ていなかった。とはいえ決して鬼っ子ではなく
二十八歳の男盛り。
貧しい
「ご免」
と紋太郎は声を掛けた。奥でガヤガヤ話し声はするが誰も玄関へ出て来ない。「頼む」ともう一度声を掛けた。||と、今度は足音がして書生がひょっくり顔を出したが、
「これはご隣家の藪様で」
「昨夜盗難に遭われたとの事、ご家内に別状はござらぬかな?」
「はい有難う存じます。怪我人とてはございませぬが······」
「おおそれなれば何より
「いえ」
と云った時、奥の方から専斎の声が聞こえて来た。「どなたかおいでなされたかな?」
ヌッと現われた五十恰好の坊主。これが主人の専斎で、奥医師で五百俵、役高を加えて七百俵、若年寄直轄で法印の官を持っている。
「おおこれは藪殿で。ひどい目に遭いましてな。が、まずまずお上がりくだされ」
「さようでござるかな。ではちょっと」こういうと紋太郎はつと上がった。隣家ではあり碁友達でもあり日頃から二人は親しいのであった。
「早速のお見舞い有難いことで」
座が定まると改めてこう専斎は礼を述べた。が続いて物語った盗難の話は紋太郎の好奇心を少からず
||
土佐の名画喜撰法師
「その美しい小間使いというはお菊のことではござらぬかな」一通り話を聞いてしまうと紋太郎はこう尋ねた。紋太郎はお菊を知っていた。いつものようにそれは今から十日ほど前、囲碁に招かれ遠慮なく座敷へ通った時、茶を運んで来た小間使いが余り妖艶であったので、それとなく彼が名を訊くと「菊」と答えて引き退ったのを今に覚えているからである。
「さよう菊でございますよ」
専斎はこう云って渋面を作った。「少しく美しすぎましたよ」
「で、奪われた品物は?」
「それがさ」と専斎は渋面を深め、「六歌仙の幅を盗まれてござる」
「ほほう」とこれには紋太郎も
「では小町と黒主をな?」
「いや、黒主は助かりました。他へ預けて置きましたでな」
専斎は今日は言葉少い。ひどく
ひょいと床脇の地袋を開け桐の箱を取り出すと、一本の軸を抜き出した。手捌きも鮮やかにサラサラと軸を解き延ばすと土佐の名手が描いたらしい喜撰法師の画像が出た。じっと見詰めているうちに紋太郎の口から溜息に似た感嘆の声がふと洩れた。
「名画というものは恐ろしいものだ。見れば見るほど見栄えがする」
云いながら静かに立ち上がり床の間へ掛けて改めて見る。
「旦那様」
と襖越しに三右衛門が呼ぶ声が聞こえて来た。「開けましてもよろしゅうございますかな」
「うん」と云ったまま紋太郎は尚喜撰に見入っている。
「おや、喜撰様でございますか」
はいって来た三右衛門も感心し膝をついてじっとなった。しばらく室は静かである。
「三右衛」と紋太郎はやがて云った。「何んと立派なものではないかな」
云われて三右衛門は頭を下げたが、
「立派なものでございます。······ところが喜撰と申しますお方は、どういうお方でございましょうか」
「世捨て人だよ。宇治山のな」
「ははあ、さようでございますかな」
「嵯峨天皇弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。
「さては
「莫迦を申せ。有名な歌人だ」
紋太郎は哄笑する。三右衛門はテレて鬢を掻く。で部屋の中は静かになった。梅花を散らす早春の風が裏庭の花木へ当たると見えてサラサラサラサラサラサラという枝擦れの音が聞こえて来る。植え込みの中で啼いていると見えて鶯の声が聞こえて来る。
と、三右衛門は溜息をした。それからこんなことをいい出した。
「高価なものでございましょうな。その喜撰のお掛け物は」
「お父上からゆずられたものだ。無論高価に相違ない」||飽かず画面に眼を注ぎながら紋太郎は上の空でいった。
「
「専斎殿の
「百両······」と呟いて三右衛門はホッと吐息をしたものである。
尾行の主は?
「これはな」と紋太郎は云いつづけた。「もと六枚あったものだ。いつの時代にかそれが割れて||つまり持ち主が売ったのでもあろうよ。チリヂリバラバラになってしまった。それをどうして手に入れられたものかお父上が一枚手に入れられた。それがこの喜撰法師だ。ところが隣家の専斎殿はそれを二枚も持っておられる。もっとも昨夜の盗難でその一枚を失われたが、失われぬ前のご自慢と来てはそれはそれは大したものであったよ」
しかしそんな説明は三右衛門は聞いてはいなかった。考えに沈んでいたのであった。
と、卒然と三右衛門は云った。「百両のお金がございましたらせめて当座の借金だけでも
「なに?」と初めて紋太郎は用人の方へ顔を向けた。「この喜撰を売れとでも云うのか?」
「米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと······」
「なるほど」
といったが、この瞬間芸術的の恍惚境は跡形もなく消えてしまい、苦々しい現実の生活難が紋太郎の眼前へ顔を出した。で紋太郎は腕を組んだ。
その翌日のことであったが、旅装束の若侍が木曽街道を歩いていた。他でもない藪紋太郎である。
板橋、わらび、浦和、大宮と、彼はずんずん歩いて行った。彼は知行所の熊谷まで、たとえどんなに遅くなっても是非今日じゅうに着きたいものと、朝の三時に屋敷を出てここまで歩いて来たのであった。
彼は渋面を作っている。足が
彼がそれに気が付いたのは、下板橋とわらびとの間の松並木の街道をスタスタ歩いている時で、何気なく見ると自分と並んで
穢さ加減が
ただ爺さんというだけで、まさに年齢は不詳であった。八十にも見えれば六十にも見える。そうかと思うとずぶ若い男が何かゆえあって変装しわざと老人に見せてるのだと、こう思えば思えないこともない。
頭はおおかた禿げているが

「こいつどうぞしてマキたいものだ」
紋太郎は心中思案しながら知らない振りをして歩いて行く。
大正の今日東京市中で、社会主義者どもが刑事をマクにもなかなか手腕が入るそうである。
ここは街道の一本道。薄雪の積もった正月夕暮れ。ほとんど人通りは絶えている。なかなかマクには骨が折れる。
「おおそうだ、やり過ごしてやろう」
思案を決めると紋太郎は
貧乏神
行き過ぎるかと思いきや、その奇怪な老人はズッと側へ寄って来た。紋太郎と並んで切り株へノッソリとばかり腰かけたのである。
それからゴソゴソ懐中を探ると
「お武家様え、火をひとつ」
案に相違して紋太郎は少からず閉口したものの貸さないということも出来ないので無言で煙管を差し出した。老人はスバスバ吸い付ける。
「へい、お有難う存じます」
声までが無気味の調子である。
二人は黙って腰かけている。
「どうもこいつは驚いたな。
紋太郎は不快に思いながら咎めることも出来ないのでやはり黙って腰かけていた。
と、老人が話しかけた。
「
「何?」
といったが紋太郎これにはいささか驚いた。
「いかにも俺は三時に立ったがどうしてそれを知っているな?」
「へへへへへ、まだまだ沢山存じております。例えば今朝ご出立の時、アノ用人の三右衛門様が、何にあわてたのか大変あわてて鴨居で額をお打ちなされたので、『三右衛門はしたない、気を付けるがよいぞ』と、こう旦那様がおっしゃいました筈で」
「いかにもそういうこともあった」
「ええと、昨夜はご隣家へ泥棒がはいって大事な物を||見事な幅を確か一幅盗んで行った筈でございますよ」
「おおおお、いかにもその通りじゃ」
「盗まれた絵は小野小町土佐の名筆でございましょうがな?」
「どうも不思議だ。まさにその通り」紋太郎は思わず腕を組んだ。
「同じ作者の同じ名画、喜撰法師の一幅は現在旦那様が持っておられる筈じゃ。何も驚かれることはない。布呂敷包みの細長い荷物。膝の上のその荷物。それが喜撰様でございましょうがな。······そうして旦那様は知行所で、そのご家宝の喜撰様を金に代える気でござりましょうがな」
「むう」と紋太郎は思わず唸ったが、
「ははあさようか、いや解ったぞ。察するところそのほうは
「はいさようでございますよ。旦那様のすぐお
「ついぞ見掛けぬ仁態じゃが、どこら辺りに住んでいるな?」
「ほんのお側でございます旦那様のお邸内で」
「莫迦を申せ」
と紋太郎は苦々しく一つ笑ったが、
「邸の内には用人とお常という
「へへへ」
と老人はそこでまた気味悪く笑ったが、
「どう致しましてこの
ははあこいつ
「ところでお前は何者だな? そうしていったい何という名だ?」
「貧乏神と申します」
いったかと思うと老人は煙りのように揺れながらス||とばかりに立ち上がった。
「私はな」と老人はいいつづける。「永らくの間お前の所で、厄介になっていた貧乏神じゃ。随分居心地よい邸であったよ。で、立ち去るのは厭なのじゃが、そういう勝手も出来ないのでな、今日を限りに立ち
といって貧乏神は例によって気味悪くニタリとしたが、
「時々お目にはかかろうも知れぬ。私はご隣家へ
こういい捨てると貧乏神はクルリと紋太郎へ背を向けた。それからスタスタ歩き出した。
「ははあなるほど貧乏神か。いかさまそういえばあの風態に見覚えがあると思ったよ。絵にある貧乏神そっくりじゃ。父の代から住んでいたと? アッハハハこれももっともだ。父の代から俺の家はだんだん貧乏になったのだからな。何これから運が向くって? ほんとにどうぞそうありたいものだ。······おや!」
とにわかに紋太郎は
刺青の女賊
それというのは他でもない。貧乏神が消えてなくなり、代わりに美人が現われたからである。
もっと詳しく説明すれば、紋太郎と別れた貧乏神は、街道筋をズンズンと上尾の方へ歩いて行った。ものの半町も行ったであろうか、その時並木の松蔭から一人の女が現われたが、貧乏神と擦れ違ったとたん、貧乏神の姿が消え、一人と見えた女の
学問はあっても昔の人だけに、紋太郎には迷信があった。で忽然姿を消した貧乏神の放れ業が不思議にも神秘にも思われるのであった。
若い二人の旅の男女は、紋太郎にちょっと会釈しながら静かにその前を通り過ぎようとした。
ふと女を見た紋太郎は、
「おや」といってまた眼を見張った。
その時プ||ッと寒い風が真っ向から二人へ吹き付けて来た。女の髪がパラパラと乱れる。手を上げて掻き
「やっぱりそうだ。小間使いのお菊!」
呻くがように紋太郎は云う。と、女は眼を辷らせ紋太郎の顔を
「重ね重ね不思議のことじゃ。貧乏神に小間使いのお菊! 腕に桜の刺青があった。専斎殿の言葉通りじゃ。しかし美しいあのお菊がよもや六歌仙など盗みはすまい」
やがて紋太郎は立ち上がった。
「熊谷まではまだ遠い。上尾、桶川、鴻ノ巣と。三つ宿場を越さなければならない。どれ、そろそろ出かけようか」
腰を延ばしてハッとした。喜撰法師の軸がない! 桐の箱へ納め布呂敷で包み膝の上へ確かに置いた筈の、その喜撰がないのであった。
「ううむ、やられた! おのれお菊!」
「おお旦那様、もうお帰りで。これはお早うござりました」
用人の三右衛門はいそいそとして若い主人を迎えるのであった。
「今帰ったぞ」と紋太郎は機嫌よく邸の玄関を上がった。手に
「首尾はいかがでござりましたかな?」三右衛門は真っ先に訊く。
「首尾か、首尾は上々吉よ」旅装を解きながら元気よく云う。
「それはまあ何より有難いことで。で
「何も俺は売りはせぬ」
「何をマアマアおっしゃいますことやら。知行所の
「ああなるほど喜撰のことか。喜撰の軸なら紛失したよ」
「え、ご紛失なされましたとな?」
「いや道中で盗まれたのじゃ。眼にも止まらぬ
紋太郎は一向平気である。
余りのことに三右衛門はあッともすッとも云えなかった。ただ怨めしそうな眼付きをして主人の顔を見るばかりである。そのうち充血した眼の中から涙がじくじくにじみ出る。
「何んだ三右衛その顔は!」
紋太郎は快活に笑い出した。
「そういう顔をしているから貧乏神が巣食うのだ。めでたい場合に涙は禁物、せっかく来かかった福の神様が素通りしたら何んとする。アッハッハッハッ涙を拭け」
二尺八寸の吹矢筒
「何がめでとうござりましょうぞ」
三右衛門は涙の眼を抑え、
「米屋薪屋醤油屋へ何んと
「まあ見ろ三右衛この筒を」
こういいながら紋太郎はさもさも嬉しいというように手に持っていた吹矢筒をひょいと眼の前へ持ち上げたが、
「お前も知っている鳥差しの
側に置いてある小箱をあけると手製の吹矢を摘み出した。ポンと筒の中へ辷り込ませる。それからそっと障子をあけた。
庭の
紋太郎はろくに狙いもせず筒口へ唇を
いつもながらの精妙の手練に、三右衛門は感に耐えながらも、今は褒めている場合でない。重い溜息を吐くばかりであった。
「二尺八寸の短筒ながらこの素晴らしい威力はどうだ! 携帯に便、
「米屋薪屋醤油屋へ何んと
「三右衛、何が不足なのじゃ?」
「何も不足はござりませぬが。······金のないのが心配でござります」
「金か、金ならここにある」
紋太郎は懐中へ手を入れるとスルリと胴巻を抜き出した。
「小判で二百両、これでも不足かな」
三右衛門の前へドンと投げる。
「あまりお前が金々というから実はちょっとからかったまでさ」
「へえ、それにしてもこんな大金を······」
三右衛門は容易に手を出さない。
紋太郎は哄然と笑ったが、
「貧乏神のいったこともまんざら嘘ではなかったわい。······何の、三右衛、こういう訳だ。実は喜撰を
こうして春去り夏が来た。その夏も
小鳥狩りの季節となったのである。
ちょっと来かかった福の神も何かで機嫌を害したと見え、あの時以来紋太郎の家へはこれという好運も向いて来なかったので、依然たる貧乏世帯。しかしあの時の二百両で諸方の借金を払ったのでどこからもガミガミ催促には来ない。それで昨今の
「おい三右衛困ったな。ちっとも好運がやって来ないじゃないか」
時々紋太郎がこんなことを云うと却って用人三右衛門の方が昔と
「なあに旦那様大丈夫ですよ。米屋も薪屋も醤油屋も近頃はこちらを信用して少しも催促致しませんので。一向平気でございますよ」
「どうやら米屋醤油屋が一番お前には恐いらしいな」
「へい、そりゃ申すまでもございませんな。
「腹が減っては戦は出来ぬ。ちゃんと昔からいっておるのう」
大御所家斉公
ある日、紋太郎は吹筒を
多摩川に
「さてそろそろ帰ろうかな」
こう口へ出して呟いた頃には、暮れるに早い秋の陽がすっかり西に傾いて、諸所に立っている森や林へ夕霧が蒼くかかっていた。そうして彼の獲物袋には、

林から野良へ出ようとした時彼は大勢の足音を聞いた。見れば鷹狩りの群れが来る。
その一群れは足並揃えて
「さては諸侯のお鷹狩りと見える。肥後か薩摩かどなたであろう。いずれご大身には相違ないが」
紋太郎は心中
鷹狩りの群れは近寄って来る。
近づくままよく見れば、老人の冠られた陣帽に、思いも寄らない三葉葵が
紋太郎はハッと
鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。
と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。
家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。
「何んであろうな、あの音は?」
こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。
「不思議の音にござります」
こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。
「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」
家斉公は手を上げて空の一方を指差した。
キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。
何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある
グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。
家斉公はまじろぎもせず大鵬の姿を見詰めていたが、
「聞きも及ばぬ化鳥のありさま。このまま見過ごし置くことならぬ! 誰かある射って取れ!」
「はっ」と
「おおそちなら大丈夫じゃ。矢頃を計り射落とすがよいぞ」
「かしこまりましてござります」
近習の捧げる
「残念!」とばかり二の矢をつがえ再びひょうふっと切って放したが、結果は一の矢と同じであった。二つに折れて地に落ちた。
心掛けある源兵衛は三度射ようとはしなかった。弓を伏せて
大鵬空に舞う
「源兵衛どうした。手に合わぬか?」家斉公は声をかけた。
「千年を経ました化鳥と見え、二度ながら矢返し致しましてござる」
「おおそうか、残念至極。そちの弓勢にさえ合わぬ怪物。弓では駄目じゃ鷹をかけい! 五羽ながら一度に切って放せ!」
「は、はっ」
と五人の鷹匠ども、タラタラと一列に並んだが、拳に据えた五羽の鷹を
家斉公は云うまでもなく五十人のお供の面々は、
ワッと揚がる鬨の声。お供の連中が叫んだのである。
「もう大丈夫! もう大丈夫!」
家斉公も我を忘れ躍り上がり躍り上がり叫んだものである。しかしそれは
五羽ながら鷹は頭を砕かれ血にまみれて死んでいる。しかも
物に動ぜぬ家斉公も眼前に愛鳥を殺されたので顔色を変えて激怒した。
「憎き化鳥! 用捨はならぬ! 誰かある誰かある退治る者はないか! 褒美は望みに取らせるぞ! 誰かある誰かある!」
と呼ばわった。しかし誰一人それに応じて進み出ようとする者はない。声も立てず
忽然この時林の中から一人の若者が走り出た。すなわち藪紋太郎である。
紋太郎は遙か
どんなに大御所が喜んだか? どんなに紋太郎が褒められたか? くだくだしく書くにも及ぶまい。
「紋太郎とやら、見事見事! 遠慮はいらぬ褒美を望め!」破格をもって家斉公は直々言葉を掛けたものである。
「私、無役にござりまする。軽い役目に仰せ付けられ、上様おため粉骨砕身、お役を勤むる事出来ましたなら有難き儀に存じまする」これが紋太郎の
「神妙の願い、追って沙汰する」
これが家斉の言葉である。
はたして翌日若年寄から紋太郎へ宛てて
邸へ帰ると紋太郎は急いで神棚へ燈明を上げた。貧乏神への礼心である。
奇怪な迎駕籠
ある夜、奥医師専斎の邸へ駕籠が二挺横着けされた。一つの駕籠は空であったが、もう一つの駕籠から現われたのは儒者風の立派な人物であった。
「
これが使者の口上であった。もうこの時は深夜であり、専斎は床にはいっていたが、断わることは出来なかった。同じ若年寄管轄でも、林家は三千五百石、比較にならない大身である。
で、専斎は衣服を整え薬籠を持って玄関へ出た。
「深夜ご苦労にござります」儒者風の
「さようでござるかな、これはご叮嚀」
専斎はポンと駕籠へ乗った。と、粛々と動き出す。眠いところを起こされた上、快よく駕籠が揺れるので専斎はすっかりいい気持ちになりうつらうつらと眠り出した。すると、急に駕籠が止まった。
「おや」といって眼を覚ます。「もう林家へ着いたのかな。それにしてはちと早いが」
その時、バサッと音が駕籠の上から来た。
「何んの音かな? これは変じゃ」
すると今度は、サラサラという、物の擦れ合う音がした。
「何んの音かな? これはおかしい」
こう口の中で呟いた時、ひそひそ話す声がした。
「どうやら眠っておられるようじゃ。ちょうど幸い静かにやれ」||儒者風をした使者の声だ。
「へいよろしゅうございます」||こういったのは駕籠舁きである。駕籠はゆらゆらと動き出した。
「こいつどうやら変梃だぞ。どうも少し気味が悪くなった」そこで「エヘン」と咳をした。
「おお、お眼覚めでござるかな。ハッハッハッハッ」と笑う声がする。儒者風の男の声である。馬鹿にしたような笑い方である。
「まだ先方へは着きませぬかな?」専斎は不安そうに声を掛けた。
「なかなかもって。まだまだでござる。ハッハッハッ」とまた笑う。
専斎は引き戸へ手を掛けた。戸を開けようとしたのである。
「専斎殿、戸は開きませぬ。外から錠が下ろしてござるに。ハッハッハッ」とまたも笑う。
専斎はゾッと寒気がした。
「こいつはたまらぬ。
彼はじたばたもがき出した。
そんなことにはお構いなく駕籠はズンズン進んで行く。そうして一つグルリと廻った。
「おや辻を曲がったな」
専斎は駕籠の中で呟いた。とまた駕籠はグルリと廻った。どうやら右へ曲がったらしい。
「さっきも右、今度も右、右へ右へと曲がって行くな」専斎はそこで考えた。「いったいどこへ連れて行く気かな? こんな
駕籠はズンズン進んで行く。右へ曲がったり左へ折れたり、そうかと思うと後返りをしたり、ある時は同じ一所を渦のようにグルグル廻ったりした。俄然駕籠は走り出した。どうやら坂道でも駈け上るらしい。と、不意に立ち止まった。
「やれやれどうやら着いたらしいな」こう専斎の思ったのは糠喜びという奴でまた駕籠は動き出した。
「どうもいけねえ」と渋面を作る。
それから駕籠は尚長い間冬の夜道を進むらしかった。儒者風をした人物は依然
桃色の肉に黄金色の毛
こうしておよそ今の時間にして四時間余りも経った頃、駕籠の歩みが
「ご苦労でござった」「遅くなりまして」「しからば乗り物をずっと奥まで」「よろしゅうござる」
というような、ひそひそ話が聞こえて来た。
突然駕籠が宙に浮いた。ゆらゆらと人の手で運ばれるらしい。畳ざわりの
「よろしゅうござるかな?」「逃げもしまい」「もし逃げたら?」「叩っ切るがよろしい!」
などと凄い話し声がする。と、ス||と
「いざ専斎殿お出くだされ」
「はっ」
と専斎は這い出した。
その金屏風の裾の辺に一人の武士が坐っていたが、
「ここへ」と云って膝を叩いた。語音の様子では老人であったがスッポリ頭巾を冠っているので顔を見ることは出来なかった。鉄無地の衣裳に利休茶の十徳、
「ここへ」と老人はまた云った。で専斎は膝で進む。
「外科の道具、ご持参かな?」その老人は静かに訊いた。
「はい一通りは持って参ってござる」
「それは好都合」と云ったかと思うと老人は金屏風をスーとあけたが
「金創でござる。お手当てを」覆面の老人は囁いた。さも
「へ||い」と思わず釣り込まれ専斎も嗄れた声を出したが、いわれるままに膝行し寝ている人の側へ寄った。ポンと白布を刎ねようとする。と、その手首を掴まれた。で、ギョッとして顔を上げたとたん頭巾の奥から老人の眼が冷たく鋭くキラリと光った。専斎はぞっと身顫いをする。その時老人は手を放しその手を腰へ持って行ったがスッと小刀を抜いたものである。
「あっ」と専斎は
「お手当てを」と引き声でいった。で、専斎は覗いて見た。裂かれた布の間から桃色の肉が見えていたが肉はピクピク動いている。神経の通っている証拠である。
この時までの専斎は見るも気の毒な臆病者であったが、怪我人の傷を一眼見るや俄然態度が
「······第一
心の中で呟きながら専斎はズンズン診て行った。
「······一分、いやいや五厘の相違で、幸福にも生命を取り止めたわい。······」
「専斎殿、お
覆面の老人が囁くように訊いた。
「大事はござらぬ。幸いにな······」
「さようでござるかな。それで安心。······」老人はホ||ッと溜息をしたが、その様子でその老人がどんなに心配をしていたかが十分想像出来そうである。
ここにもある六歌仙
専斎は懐中から紙入れを出した。キラキラ光る銀色のナイフ、同じく
もうこの時には彼の心には、陰森と寂しい部屋の
こうして間もなく消毒も終え、クルクルと繃帯を巻き
「これでよろしい」と静かにいった。「
「
「いや、九分九厘······大丈夫でござる」
「それはそれは有難いことで」
いうと一緒に手を延ばしスーと金屏風を引き廻した。
「しばらく······」というと立ち上がり広い座敷を横切って行く。部屋の外れの襖を開けるとふっとその中へ消え込んだ。
一人になると専斎はまたゾクゾク恐ろしくなったが、度胸を定めて
「はてな?」と呟いて専斎はその軸へじっと眼を注いだ。「や、これは六歌仙だ!」
それはいかにも六歌仙のうち、僧正遍昭と文屋とであった。
「同じ絵師の筆だわえ」
また専斎は呟いた。
それもいかにもその通り、そこに掛けてある二歌仙は、かつて専斎が持っていて小間使いのお菊に奪われた小野小町の一幅と、もう一つ現在持っている大友黒主の一幅と全く同じ作者によって描かれたものだということは一見すれば解るのであった。
「どれ寄って拝見しよう」
腰を上げようとした時である。正面の障子が音もなく開いた。「人が来たな」とひょいと見たが、障子の向こうに、縁側があり縁側の外れに雨戸がありその雨戸が細目に開いて庭園の一部が見えているばかり人らしいものの影もない。また専斎はゾッとした。冷たい汗が背を流れる。
「わっ! たまらねえ! 化物屋敷だア」
叫ぼうとした時、障子の隙へ奇妙な顔が現われた。
「だ、誰だア!」
と声を掛ける。とたんに破れた渋団扇が障子の間からフワリと出た。それから素足がニョッキリと出てやがて全身を現わしたのを見ると、専斎はキョトンと眼を円くした。もちろん恐怖もあったけれどむしろそれよりはおかしかった。まずその男の風彩は僧でもあり俗でもあった。鼠の衣裳に墨染めの衣、胸に叩き鐘を掛けている。腰に下げたは
「誰だ?」と専斎はもう一度いった。
「貧乏神さ。ごらんの通りね」
「貧乏神だ? どこから来た!」
「フフフフお前さんの家からさ」
いいすてるとスルスルと床の間の方へ貧乏神は歩いて行った。
「どこへ行く!」といいながら専斎はヌッと立ち上がった。
正金で五十両
「やかましいやい! へぼ医者め!」
振り返って睨んだ眼の凄さに専斎はペッタリ尻餅をついた。
「
と貧乏神は床の間へ上ると手を延ばし六歌仙の軸をひっ握んだ。
その時襖がサラリと開いて以前の覆面の老人が部屋の中へはいって来たが、「
と掛けた鋭い声は、武道で鍛えた人でなければ容易のことでは出せそうもない。
「ええ畜生、いめえましい!」身を
ヒューッと小束が飛んで来る。パッと渋団扇で叩き落す。次の瞬間には貧乏神の姿は部屋の中には見られなかった。
「方々出合え! 賊でござるぞ!」
忽ち入り乱れる足音が邸の四方から聞こえて来たが、庭の方へ
障子を締め切った覆面の老人。
「驚かれたでござろうな」······打って代わって愛相よく、「寸志でござる。お納めくだされ」
紙包みを前へ差し置いた。
「もはや用事はござりませぬ。······駕籠でお送り致しましょう。······さて最後に申し上げたいは、今夜のことご他言ご無用。もし口外なされる時は
謝礼といって贈られたすっくり重い金包みを膝の上へ置きながら専斎はうとうと睡りかけた。
同じ駕籠に打ち乗せられ同じ人に附き添われ同じ夜道を同じ夜に自宅へ帰って行くところであった。
「今夜のことご他言無用。もし口外なされる時は御身のためよくござらぬ」と、いざお
こうして彼が目覚めた時には日が高く上っていた。自分の家の自分の寝間に弟子や家人に囲まれながら楽々と睡っていたものである。
「金包みはあるかな? 金包みは?」
これが最初の言葉であった。
「はいはい金包みはございますよ」
「いくらあるかな? あけて見るがいい」
「はい、小判で五十両」
「
「なんのあなた、
「どうも俺にはわからない」
「今朝方お帰りでございましたが、やはり昨夜は狩野様で?」
「いやいや違う。そうではない。狩野の邸なら知っている。昨夜の邸とはまるで違う」
「まあ不思議ではございませんか。どこへおいででございましたな?」
「それがさ、俺にも解らぬのだよ」
······で専斎は気味悪そうに渋面を作らざるを得なかった。
こういうことのあったのは、この物語の主人公旗本の藪紋太郎が化鳥に吹矢を吹きかけた功で西丸書院番に召し出されたちょうどその日のことであったが、翌日紋太郎は
「専斎殿お喜びくだされ、意外のことから思いもよらず西丸詰めに召し出されましてな、ようやくお役米にありつきましてござるよ」
こういってから多摩川における化鳥事件を物語った。
「で、今日では日本全国、その化鳥を
紋太郎はこう云って専斎を見た。いつもなら喜んでくれる筈のその専斎が今日に限って、あらぬことでも考えているようにとほんとしてろくろく返辞さえしない。
紋太郎熟慮
これはおかしいと思ったので、
「専斎先生どうなされましたな? お顔の色が勝れぬが?」
「いや」と専斎はちょっとあわて、「実に全くこの世の中には不思議なことがござりますなア」
取って付けたようにこう云ったが、
「藪殿、実はな、この
「ははあ、不思議とおっしゃいますと?」紋太郎は聞き耳[#「聞き耳」は底本では「聞み耳」]を立てる。
「······それがどうもいえませんて、口止めをされておりますのでな」
「なるほど、それではいえますまい」
「ところが
「秘密というものはいってしまいたいもので」
「一人で胸に持っているのがどうにも私には不安でな。||昨夜、それも夜中でござるが、化物屋敷へ行きましてな、不思議な怪我人を療治しました。······無論人間には相違ないが、肌が美しい桃色でな。それに
こんな調子に専斎は、恐ろしかった昨夜の経験を悉く紋太郎に話したものである。
紋太郎は黙って聞いていたが、彼の心中にはこの時一つの恐ろしい疑問が湧いたのであった。
彼は自分の家へ帰ると部屋の中へ閉じ籠もり何やら熱心に考え出した。それから図面を調べ出した。江戸市中の図面である。
それから彼は暇にまかせて江戸市中を歩き廻った。
今夜のことご他言無用、もし他言なされる時は
その日、専斎は六歌仙のうち、手に残った黒主の軸を床の間へかけて眺めていた。
「うむ、いつ見ても悪くはないな。それにしても惜しいのはお菊に盗まれた小野小町だ」
いつも思う事をその時も思い、飽かず画面に見入っていた。もうその時は
と、あろう事かあるまい事か、彼の眼の前で大友黒主が、次第に薄れて行くではないか。
「おやおや変だぞ。これはおかしい」
驚いて見ているそのうちに黒主の絵は全く消え似ても似つかぬ異形の人物が
それが横へ
「泥棒!」
とばかり飛び上がり、恐さも忘れて組み付いた。ひょいと
「これこれ何んだ勿体ない! 俺は神じゃぞ貧乏神じゃ! 燈明を上げい、お燈明をな! 隣家の藪殿を見習うがよい。フフフフ、へぼ医者殿」
禍福塀一重
お菊に軸を盗まれて以来、家族の者は一様に神経質になっていたが、「泥棒」という専斎の声が主人の部屋から聞こえると共に一斉に外へ飛び出した。出口入り口を固めたのである。
「庭へ出た! 裏庭へ廻れ!」専斎の声がまた聞こえた。
その裏庭には屈強の弟子が三人まで固めていたが、薄穢いよぼよぼの老人が築山の裾をぐるりと廻り
「まさか
「そうさ、あいつじゃあるまいよ。泥棒にしちゃ威勢が悪い」本田と云うのが囁き返す。
「しかし」と云ったのは山内というので、「変に見慣れない
その見慣れない変な
「へい、皆様ご苦労様で」ひょこんと一つ頭を下げ、「泥棒なら向こうへ行きやしたぜ」主屋の方を指差した。
「うん、そうか」と行きかかる。とたんに聞こえて来る専斎の声。
「その
あっと云って振り返った時には、爺の姿は遙か向こうの塀の裾に見えていた。それっと云うので追っかける。その後から専斎が
貧乏神は塀際に立ち、一丈に余る黒板塀をじっとその眼で計っていたが、若々しい鋭い元気のよい声で「ヤッ」と一声かけたかと思うと手掛かりもない塀の面をスーッと
「馬鹿め! アッハハ」と哄笑し、笑いの声の消えないうちに隣家の庭へ飛び下りた。
ようやく駈け付けた専斎は、
「藪殿! 藪殿! ご隣家の藪殿!」涸れ声を絞って呼びかけた。「賊がそちらへ逃げ込んでござる! 取り抑えくだされ取り抑えくだされ! それ一同表へ廻り藪殿お邸へ取り詰めるがよい!」
この時紋太郎は部屋にいたが、「泥棒!」という声を聞くとすぐ縁側へ出て行った。
「また賊がご隣家へはいったそうな。よくよく泥棒に縁があると見える」
呟きながら佇んでいると、庭を隔てた黒塀の上へ突然人影が現われた。
「さてこそ賊」と庭下駄を穿き庭を突っ切り追い逼ったが奇妙にも賊は逃げようともしない。
「藪殿か。
ヌッと顔を突き出した。
「おおあなたは貧乏神様で?」紋太郎はすっかり胆を潰した。
「さようさようその貧乏神じゃ。······何んとその後はいかがじゃな?」
「はい、近頃はお陰をもって······」
「ふむふむ、景気がよいそうな。それは何より
「仰せの通りにござります」
「で、私には恩がある。な、そうではあるまいかな?」
「はいはい、ご恩がございますとも」
「では、返して貰おうかな?」
「しかし、返せとおっしゃられても······」
「何んでもござらぬ。
「はて
「うんにゃ、違う! そうではござらぬ。私は隣家に住んでおるよ」
「専斎殿のお邸にな?」
「さようさようヘボ医者のな」
「道理で近来専斎殿は不幸つづきでござります」
隣家の誼みも今日限り
「みんなこの私のさせる
「ははア、さようでござりましたかな」
「どうも彼奴は乱暴で困る」
「さして乱暴とも見えませぬが······」
「私を泥棒じゃと
「なるほど、それは不届き千万」
「今私は追われている」
「それはお困りでござりましょうな」
「で、どうぞ
「いと易いこと。どうぞこちらへ」
||で、紋太郎は先に立ち自分の部屋へはいって行った。
おりから玄関に
「藪殿藪殿!
「これはこれは専斎殿、その大声は何用でござるな?」
悠々と紋太郎は玄関へ出た。
「賊でござる! 賊がはいってござる!」
医師専斎は血相を変え、弟子や家の者を
「拙者の邸へ賊がはいった? それはそれは一大事。ようこそお知らせくだされた。はてさて何を盗んだことやら」
「そうではござらぬ! そうではござらぬ!」
専斎はいよいよ狼狽し、
「賊のはいったは愚老の邸。盗んだものは六歌仙の軸······」
「アッハハハ」とそれを聞くと紋太郎はにわかに哄笑した。「専斎殿、年甲斐もない、何をキョトキョト
「いや」と専斉は歯痒そうに、「賊はこちらへ逃げ込んだのでござるよ!」
「ほほう、どこから逃げ込みましたかな?」
「黒板塀を飛び越えてな。お庭先へ逃げ込みました」
「それは何かの間違いでござろう。······拙者今までその庭先で吹矢を削っておりましたが、決してさような賊の姿など
「そんな筈はない!」
と威猛高に、専斎は怒声を高めたが、
「お気の毒ながらお邸内を我らにしばらくお貸しくだされ。一通り捜索致しとうござる!」
「黙らっせえ!」
と紋太郎、いつもの柔和に引き換えて一句烈しく喝破した。「たとえ隣家の
魂を奪われた専斎が家人を引き連れ
「これは少々嚇しすぎたかな。いやいや時にはやった方がいい。陽明学の活法じゃ」
······で、クルリと身を
貧乏神の姿が見えない。
「おやおやいつの間にか立ち去ったと見える」
用人三右衛門がはいって来た。
「おお三右衛、聞くことがある。貧乏神はどこへ行かれたな?」
「へ? 何でございますかな?」
「ここにおられたお客様だ」
「ああそのお方でござりますか。さっきお帰りになられました。綺麗な
「え? なんだって? 若い方だって?」
「はいさようでございますよ」
秘密の端緒をようやく発見
「いいや違う。
「何を旦那様おっしゃることやら。ええとそれからそのお方がこういうものを置いてゆかれました。旦那様へ上げろとおっしゃいましてね」
云い云い三右衛門の取り出したのは美しい一枚の役者絵であった。すなわち蝶香楼国貞筆、勝頼に扮した坂東三津太郎······実にその人の似顔絵であった。
「貧乏神が役者絵をくれる。······どうも俺には解らない」
紋太郎は不思議そうに呟いたが、まことにもっとものことである。
「お役付きにもなりましたし、お役料も上がりますし、せめて庭などお手入れなされたら」
用人三右衛門の進めに従い、庭へ庭師を入れることにした。
紋太郎
ちょうど昼飯の時分であったが、紋太郎は何気なく庭師に訊いた。
「ええ、そち達は商売がら山手辺のお邸へも時々仕事にはいるであろうな?」
「はい、それはもうはいりますとも」
五十年輩の親方が窮屈そうにいったものである。
「つかぬ事を訊くようだが、百畳敷というような大きな座敷を普請したのを
「百畳敷? 途方もねえ」親方はさもさも驚いたように、「おいお前達心当りはないかな? あったら旦那様に申し上げるがいい」
二人の弟子を見返った。
「へえ」といって若い弟子はちょっと顔を見合わせたが、
「実は一軒ございますので」
長吉というのがやがていった。
「おおあるか? どこにあるな?」
「へえ、本郷にございます」
「うむ、本郷か、何んという家だな?」
「へい、写山楼と申します」
「写山楼? ふうむ、写山楼?」紋太郎はしばらく考えていたがにわかにポンと膝を打った。
「聞いた名だと思ったが写山楼なら知っている」
「へえ、旦那様はご存知で?」
「
「へえへえ、さようでござりますよ」
「
「さあそいつは解らねえ。何しろあそこのお邸へは、種々雑多な人間がのべつにお出入りするのでね」||職人だけに物のいい方が、飾り気がなくぞんざいである。
「おお、そうであろうそうであろう。これは聞く方が悪かった。······文晁先生は当代の巨匠、先生の一
「へえへえ旦那のおっしゃる通りいろいろの人が参詣します。
「何だそれは? ヤットーとは?」
「剣術使いでございますよ」
「剣術使いがヤットーか、なるほどこれは面白いな」
「ヤットー、ヤットー、お面お胴。こういって撲りっこをしますからね」
「それがすなわち剣術の稽古だ」
「それじゃ旦那もおやりですかね?」
「俺もやる。なかなか強いぞ」
「えへへへ、どうですかね」
「こいつがこいつが悪い奴だ。笑うということがあるものか」
などと紋太郎は職人相手に無邪気な話をするのであったが、心のうちにはちゃあんとこの時一つの
深夜の写山楼
明日ともいわずその日の夕方、藪紋太郎は邸を出て、写山楼へ行くことにした。
当時写山楼の在り場所といえば、本郷駒込林町で、附近に有名な太田ノ原がある。太田道灌の邸跡でいまだに物凄い池などがあり、狐ぐらいは住んでいる筈だ。
さて紋太郎は出かけたものの本所割下水から本郷までと云えばほとんど江戸の
本郷追分で駕籠を下りた頃にはとうに
「
などと紋太郎は呟きながら東の方へ足を運んだ。郁文館中学から医学校を通りそれから駒込千駄木町団子坂の北側を
一群れの家並を通り過ぎ辻に付いてグルリと廻ると突然広い空地へ出たが、その空地の遙か
これぞすなわち写山楼である。
「うむ、ずいぶん宏大なものだな」
紋太郎はそこで立ち止まりそっと
「さてこれからどうしたものだ? ······まずともかくももう少し写山楼へ接近して
||で、紋太郎は歩き出した。
初夜といえば今の十時、徳川時代の十時といえば大正時代の十二時過ぎ、ましてこの辺は田舎ではあり人通りなどは一人もなく写山楼でも寝てしまったか
「まさかここからは忍び込めまい。······それでもちょっと押して見るかな」
で、紋太郎は手を延ばし
「どなたでござるな?」と門内からすぐに答える声がした。「土居様お先供ではござりませぬかな? しばらくお待ちくだされますよう」
しばらくあって門が開いた。
もうその頃には紋太郎は少し離れた
「土井様と云えば譜代も譜代
驚いて様子を見ていると、門番の声が聞こえて来た。
「何んだ何んだ誰もいねえじゃねえか。こいつどうも驚いたぞ。ははアさては太田ノ原の
「どうしたどうした、え、狐だって?」相棒の声が聞こえて来る。「気味が悪いなあ、締めろ締めろ!」
ギ||と再び門の締まる陰気な音が響いたが
で、紋太郎はそろそろと隠れ場所から現われたが、足音を盗み塀に添い裏門の方へ歩いて行った。
裏門も厳重に締まっている。乗ずべき隙などどこにもない。
待て! と突然呼ぶ者がある
それでも念のため近寄って邸内の様子を覗こうとした。
「どなたでござるな?」
と門内から、すぐに咎める声がした。「ここは裏門でござります。塀に付いてグルリとお廻りくだされ、すぐに表門でござります。······ははア柳生様のお先供で、ご苦労様に存じます」
「おやおやそれでは柳生侯も今夜はここへおいでと見える。大和正木坂で一万石、剣道だけで諸侯となられた
紋太郎いささか胆を潰し表門の方へ引っ返した。
「待て!」
と突然呼ぶ声がした。闇の中からキラリと一筋光の棒が走り出たが紋太郎の体を照らしたものである。その光が一瞬で消えると黒い闇をさらに黒めて一人の武士が現われた。宗十郎頭巾に
グルリと紋太郎を
「この夜陰に何用あってここ辺りを
言葉の様子が役人らしい。
こいつはどうも悪いことになった。||こう紋太郎は思いながら、
「そういうお手前達は何人でござるな?」
心を落ち着けて訊き返した。
「南町奉行手附きの与力、拙者は松倉金右衛門、ここにいるは同心でござる」
「与力衆に同心衆、ははあさようでござるかな。······拙者は旗本藪紋太郎、実は道に迷いましてな」
「なに旗本の藪紋太郎殿? ははア」
といったがどうしたものかにわかに態度が
「お旗本の藪様とあっては当時世間に名高いお方、それに相違ござりませぬかな?」
「なになに一向有名ではござらぬ」紋太郎は闇の中で苦笑したが、「一向有名ではござらぬがな、藪紋太郎には間違いござらぬよ」
「吹矢のご名手と承わりましたが?」
「さよう、少々
「多摩川におけるご功名は児童走卒も存じおりますところ······」
「なんの、あれとて怪我の功名で」
「ええ誠に失礼ではござるが、貴所様が藪殿に相違ないという何か証拠はござりませぬかな?」
「証拠?」といって紋太郎ははたとばかりに当惑したが、「おお、そうそう吹矢筒がござる」
こういって懐中から取り出したのは常住座臥放したことのない鳥差しの
「ははあこれが吹矢筒で? いやこれをご所持の上は何んの疑がいがございましょうぞ」
こういっている時一団の人数が粛々と
「変わったことでもあったかの?」
こういいながら一人の武士が群れを離れて近寄って来た。どうやら一団の主人公らしい。
「は」といったのは与力の松倉で、「殿にもご承知でござりましょうが、藪紋太郎殿道に迷われた由にてこの辺を
「ああこれこれ、その藪殿、どこにおられるな、どこにおられるな?」
そういう
「ここにおります。······拙者藪紋太郎······」
「おお藪殿か。私は
「おおそれでは南お町奉行筒井和泉守様でござりましたか」
「藪殿、道に迷われたそうで」
「道に迷いましてござります」
「よい時道に迷われた。藪殿、よいものが見られますぞ。アハハハ」
と和泉守、何と思ったか笑ったものである。
諸侯の乗り物陸続として来たる
和泉守と紋太郎とは役向きの相違知行の高下から、日頃
いぎりすもふらんすも皆里言葉たびたび来るは厭でありんす
和泉守の狂歌であるがこんな「さあ
和泉守は命を下す。
「はっ」と云うと与力同心一斉にバラバラと散ったかと思うと闇に隠れて見えなくなり、後には和泉守と紋太郎と和泉守を守護する者が、四五人残ったばかりである。
「藪氏、
と云いながら和泉守は歩き出した。
「ここがよろしい」と立ち止まったのはさっき紋太郎が身を忍ばせた門前の大榎の蔭である。
と、その時、空地の
近付くままによく見れば一挺の駕籠を真ん中に囲んだ二十人余りの武士の群れで、写山楼差して進んで行く。やがて門前まで行き着くとひたとばかりに止まったが、二声三声押し問答。ややあって門がギーとあく。駕籠も同勢も一度に動いてすぐと中へ吸い込まれた。
後は森閑と静かである。
と、和泉守が囁いた。
「上州安中三万石、板倉殿の同勢でござるよ」
「ははあ、さようでございますかな」紋太郎はちょっと
「それか、それはちと秘密じゃ」
和泉守は笑ったらしい。「見られい。またも参られるようじゃ」
はたして遙かの闇の中に二三点の灯がまばたいたがだんだんこっちへ近寄って来る。やはり同じような同勢であった。真ん中に駕籠を囲んでいる。門まで行くと門が開き忽ち中へ吸い込まれた。
「犬山三万五千石成瀬殿のご同勢じゃ」
和泉守は囁いた。それから追っかけてこういった。「大御所様二十番目の姫
「は、よく承知でござります」
「上様特別のご愛子じゃ」
「さよう承わっておりまする」
「お輿入れ道具も華美をきわめ、まことに眼を驚かすばかりじゃ」
「は、そうでございますかな」
「今夜のこともやがて解ろう。······おおまたどなたかおいでなされたそうな」
はたして提灯を先に立て一団の人数が粛々と駕籠を
「あれこれ柳生但馬守様じゃ」
云う間もあらず続いて一組同じような人数がやって来た。
塀へ掛けた縄梯子
「信州高島三万石諏訪因幡守様ご同勢」
「ははあさようでござりますかな」
おりからまたも、一団の人数闇を照らしてやって来たが百人あまりの同勢であった。
「藪氏、あれこそ毛利侯じゃ」
「
「さよう。ずいぶん
間もなく毛利の一団も写山楼の奥へはいって行った。
追っかけ追っかけその後から幾組かの諸侯方の同勢が、いずれも小人数の供を連れ、写山楼差してやって来た。
五万八千石
やがて全く門が締まると、ドーンと
後はまたもや森閑として邸の内外音もない。
「いったいこれからどうなるのかしら?」
紋太郎には不思議であった。町奉行直々の
「上は三十七万石の毛利という外様の大名から、下は一万石の譜代大名まで、外聞を憚っての深夜の会合。いずれ重大の相談事が
こう思って来て紋太郎はゾッとばかりに身顫いしたが、
「いやいや治まれるこの
その時、和泉守が囁いた。
「藪氏、藪氏、こちらへござれ」
裏門の方へ歩いて行く。
裏門まで来て驚いたのは、さっきまで闇に埋ずもれていた高塀の内側が朦朧と光に照らされていることで、その仄かな光の色が鬼火といおうか幽霊火といおうか、ちょうど夏草の茂みの中へ蝋燭の火を点したような妖気を含んだ青色であるのが特に物凄く思われた。
「梯子を掛けい」
と和泉守が、与力の一人へ囁いた。
「はっ」というと神谷というのがつかつかと前へ進んだが、手に持っていた一筋の縄を
「よし」というと和泉守はその縄梯子へ手をかけたが、身を浮かばせてツルツルと上がる。
しばらく邸内を窺ったが、やがて地上へ下り立つと、
「藪氏、ちょっとご覧なされ、面白いものが見られます」
「は、しかし拙者など。······」
「私が許す。ご覧なさるがよい」
「それはそれは有難いことで。しからばご好意に従いまして」
「おお見られい。がしかし、驚いて眼をば廻されな」
「は」といったが紋太郎、無限の好奇心を心に抱き一段一段縄梯子を上の方へ上って行った。
間もなく
百鬼夜行
まず真っ先に眼に付いたのは、数奇を凝らした庭であったが、無論それには驚きはしない。第二に彼の眼に付いたは見霞むばかりの大座敷が、庭園の
「うむ、これこそ百畳敷······」と、こう思ったそのとたん、百畳敷の大広間に奇々怪々の
で、思わず「むう||」と唸ったのである。
「藪氏、藪氏、お下りなされ」
下から呼ぶ和泉守の声に、はっと気が付いて紋太郎は急いで梯子を下へ下りた。
「どうでござったな? あの妖怪は?」
和泉守は笑いながら訊いた。
「不思議千万、胆を冷しました」
「アッハハハさようでござろう」
「彼ら何者にござりましょうや?」
「見られた通り妖怪じゃ」
「しかし、まさか、この聖代に。······」
「妖怪ではないと思われるかな」
「はい、さよう存ぜられますが」
「妖怪幾匹おられたか、その辺お気を付けられたかな?」
「はい私数えましたところ二十一匹かと存ぜられまする······」
「さようさよう二十一匹じゃ」
「やはりさようでございましたかな。······ううむ、待てよ、これは不思議!」
「不思議とは何が不思議じゃな?」
「諸侯方も二十一人。妖怪どもも二十一匹」
「ははあようやく気が付かれたか。······まずその辺からご研究なされ」
和泉守はこう云うとそのままむっつりと黙ってしまった。話しかけても返事をしない。
こうして時間が経って行く。
と、射していた蒼い光が忽然パッと消えたかと思うと天地が全く闇にとざされ木立にあたる深夜の嵐がにわかに勢いを強めたと見えピューッピューッと凄い音を立てた。
「表門の方へ」
といいすてると和泉守は歩き出した、一同その後について行く。
榎木の蔭に
再び闇の空地を通い諸侯の駕籠の町に去った後の、写山楼の寂しさは、それこそ本当に化物屋敷のようで、見ているのさえ気味が悪かった。
「もう済んだ」
と呟くと和泉守は合図をした。いわゆる引き上げの合図でもあろう、手に持っていた
「藪氏」
と和泉守は声をかけた。「おさらばでござる。いずれ殿中で······」
「は」
といったが紋太郎はどういってよいかまごついた。
「あまり道など迷われぬがよい。アッハハハお帰りなされ」
いい捨て部下を引き連れると町の方へ引き上げて行った。
後を見送った紋太郎はいよいよ益

「これはこれは何という晩だ! これはこれは何ということだ!」
つづけさまに呟いたが、何んの誇張もなさそうである。
駕籠と馬
こういうことがあってからいよいよ益

「どうも怪しい」と思うのであった。
「専斎殿の話によれば、ちょうど吹矢で射られたような不思議な金創の人間を、あの写山楼の百畳敷でこっそり療治をしたというが、あるいはそれは人間ではなくて例の化鳥と関係あるもの||半人半妖というような妖怪変化ではあるまいか? それにもう一つ何んのために二十一人の大名があの夜あそこへ集まったのであろう? そうして奇怪な妖怪
「そうだ時々監視しよう」
下城の途次はいうまでもなく非番の日などには遠い本所からわざわざ写山楼まで出かけて行きそれとなく様子を探ることにした。
それはあの晩から十日ほど経ったある雪降りの午後であったが、例によって下城の途次、写山楼まで行って見た。
グーングーングーングーン! 何んともいえない奇怪な音が裏庭の方から聞こえて来た。
その音こそ忘れもしない多摩川の空で垂天の
紋太郎は思わず「あっ」といった。それから「しめたッ」と叫んだものである。
彼はじっと考え込んだ。
「ううむやっぱりそうだったのか! 俺の睨みは外れなかったと見える······もうあの音の聞こえるからは化鳥の
彼の勇気は百倍したが、しかしこのまま写山楼へ踏み込むことも出来なかったのでグルグル塀外を歩き廻り尚その音を確かめようとした。
しかし音は瞬間に起こりしかして瞬間に消えてしまったのでどうすることも出来なかった。
「だんだん夜は逼って来る。やんでいた雪も降り出して来た。さてこれからどうしたものだ。······うむしめた! 明日は非番だ! 今日はこのまま家へ帰り明日は朝から出張ることにしよう」
で、充分の未練を残し彼が邸へ帰り着いたのはその日もとっぷり暮れた頃であったが翌日は
昨日の雪が一二寸積もり、江戸の町々どこを見ても白一色の銀世界で今出たばかりの朝の陽が桃色に雪を染めるのも冬の
吾妻橋を渡り浅草へ抜け、雷門を右に睨み、上野へ出てやがて本郷、写山楼まで来た時にはもう昼近くなっていた。
「おや」と云って紋太郎は思わず足を止どめたものである。
今、写山楼の門をくぐり駕籠が一挺現われた。駕籠
「これはおかしい」
と云いながら過ぎ行く駕籠と馬の後をじっと紋太郎は見送ったが、ハイカラにいえば六感の作用、言葉を変えればいわゆる直覚で、その奇妙な一行が紋太郎には気になった。
「······邸を見張ろうか? 駕籠を
彼はようやく決心し、駕籠の後を追っかけた。
日本橋から東海道を、品川、川崎、神奈川と駕籠と馬とは辿って行く。
駕籠を追って
馬の鈴音、鳥の声、竹に雀はの馬子の唄に、ハッと驚いて眼を覚すと紋太郎は急いで刎ね起きた。雨戸の隙から明けの微茫が蒼く
その時
「もうお目覚めでございますか。お顔をお洗いなさりませ」
「うん」といって廊下へ出る。
「
何気なく女に訊いてみた。
「
「駕籠を座敷まで運ばせた客だ」
「はいまだお立ちではございません」
「駕籠の中には誰がいたな」
「さあそれがどうも解りませんので」
「解らないとは不思議ではないか」
「駕籠からお出になりません」
「食事などはどうするな」
「二人の若いお武家様が駕籠までお運びになられます」
「ふうむ、不思議なお客だな」
「不思議なお客様でございます」
「ええと、ところで二頭の馬、そうだあの馬はどうしているな?」
「
「重そうな荷物を着けていたが」
「重そうな荷物でございます」
「あの荷物はどうしてあるな?」
「やはり二人のお武家様が自分で下ろして自分で片付け、決して人手に掛けませんそうで」
「何がはいっているのであろう?」
「何がはいっておりますやら」
「鳥の死骸ではあるまいかな」
「え?」
と女は眼を丸くした。
「大きな鳥の死骸」
「あれマア旦那様、何をおっしゃるやら」
笑いながら行ってしまった。
ざっと洗って部屋へ戻る。
まず茶が出てすぐに飯。そこそこに
そこで紋太郎も部屋を出た。玄関へつかつか行って見るとまさに駕籠が出ようとしていて往来には二頭の馬がいる。
やがて駕籠脇に武士が付いて一行粛々と歩き出した。
「お大事に遊ばせ」「またお帰りに」こういう声を聞き流し紋太郎も続いて宿を出た。
今日も晴れた小春日和で街道は織るような人通りだ。商人、僧侶、農夫、乞食、女も行けば子供も行く。犬の吠え声、
その人通りを縫いながら駕籠と馬とは西へ下った。そうしてそれを追うようにして紋太郎も西へ下るのであった。
藤沢も越え平塚も過ぎ大磯の宿を出外れた時、何に驚いたか紋太郎は「おや」といって立ち止まった。
「これは驚いた、貧乏神が行く」
なるほど、彼から五間ほどの前を||例の駕籠のすぐ後から||後ろ姿ではあるけれど、渋団扇を持ち腰衣を着けた、
「黙っているのも失礼にあたる。どれ追い付いて話しかけて見よう」
こう思って足を早めると、貧乏神も足を早め、見る見る駕籠を追い抜いてしまった。
「よしそれでは
するとやはり貧乏神も、ゆっくりノロノロと歩くのであった。
こうして一行は馬入川も越し
越前屋という立派な旅籠屋。そこが一行の宿と決まる。
旅籠屋の夜は更けていた。人々はおおかたねむったと見えて
静かに紋太郎は立ち上がった。障子を開け廊下へ出、階段の方へ歩いて行く。
階段を下りると階下の廊下で、それを右の方へ少し行くと、目差す部屋の前へ、出られるのであった。
そろそろと廊下を伝いながらも紋太郎は気が咎めた。胸が恐ろしくわくわくする。しかし目差すその部屋がすぐ眼の前に見えた時にはぐっと勇気を揮い起こしたが、その部屋の前に彼より先に、一人の異形な人間が部屋の様子を窺いながらじっと佇んでいるのを見ると仰天せざるを得なかった。しかも異形のその人間は渋団扇を持った貧乏神である。
「むう、不思議! これは不思議!」
||思わず紋太郎が唸ったのはまさにもっとものことである。
団十郎と三津五郎
文化文政天保へかけて江戸で一流の俳優と云えば七代目団十郎を筆頭とし
「
ある日こう云って訪ねて来たのは七代目市川団十郎であった。
「これはこれは成田屋さんようこそおいでくだされた。さあさあどうぞお上がりなすって」
「ごめんよ」
といって上がり込んだがこの二人は日頃から取り分け仲がよいのであった。
「えらいことが持ち上がってね」
「上覧芝居? へ、なるほど」
「それがさ、西丸の大御所様」
「ははあなるほど、これはありそうだ」
「
「大いに結構じゃありませんか。······で、もうお達しがありましたので?」
「ああ、あったとも、
「そりゃ結構じゃございませんか」
「云うまでもなく結構だが、さあ出し物をどうしたものか」
「で、お好みはございませんので?」
「そうそう一つあったっけ、紋切り形でね『鏡山』さ」
「ナール、こいつは動かねえ。······ところで、ええと、後は?」
「こっちで随意に選ぶようにとばかに
「へえ、さようでございますかな。かえってどうも
「さあそこだよ、全くむずかしい。委せられるということは結構のようでそうでない」
「いやごもっとも」
といったまま三津五郎はじっと考え込んだ。と、不意に
「家の芸だが『
「なに『
「もちろん『
「えい、そりゃ出せますとも。しかし皆さん納まりましょうか?」
「私もそれを案じている」
「私もそれが心配です」
「といって私は是非出したい。······あなたさえ
「さあ」
といったが三津五郎は応とも厭ともいわなかった。
ここは金龍山瓦町で、障子を開けると縁側越しに隅田川が流れている。
ぽかぽか暖かい小六月、十二月十二日とは思われない。
ははアさては成田屋め俺を抱き込みに来おったな。||こう三津五郎は思ったが別に腹も立たなかった。「これはいかさま成田屋としては『
三津太郎の噂
「ナーニ私は
「なあにあなたさえ
「さあそれならこれは決まった。ところで後の出し物は?」
「それは
「いやいやこれも大体のところはここであらまし決めた方が話が早いというものだ」
「なるほど、それももっともだ。······心当たりがありますかえ」
「
「
「御殿物が二つ続く」
「どうもこいつアむずかしい」
「ではどうでしょう『関の戸』は?」
「ははあそこへ行きましたかな」
「
「そうしてあなたの
「私はどうでもよろしいので」
「いやいや是非ともそうなくてはならない。よろしい決めましょう『関の戸』とね」
「これで二つ決まりました」
「ついでに三つ目を······さあ何がいいかな」
二人はしばらく考えた。
「おおところで太郎さんは?」
団十郎は何気なく思い出したままに訊いて見た。
すると三津五郎は苦笑したが、
「また病気が起こりましてね」
「それじゃ、家にはおいでなさらない?」
「昨日から姿が見えません。······ところでいかがですな小次郎さんは?」
「小次郎は家におりますよ」
「おいでなさる? これは不思議。
「さようさ、いつもは
「へえ、家においでなさる?」
「今度は家におりますよ」
「それじゃ家の三津太郎だけがヒョコヒョコ出かけて行ったんですな」
三津五郎は眼を
今話に出た三津太郎とは三津五郎にとっては実子にあたり、それも長男で二十一歳、陰惨な
しかるにそれが一年前、忽然姿が見えなくなり二十日ばかりして帰って来ると俄然性質が一変した。
「俺を知らねえか、え、俺を。明神太郎の
こんな事をいうようになり、穏しかった性質が荒々しくなり自堕落になり歌舞伎の芸は習わずに剣術だとか柔術だとかそんなものばかりに力を入れ、そうして時々理由なしに夜遅く家を抜け出したり十日も二十日も一月も行方知れずになることがあった。
そうして今度も一昨日から行方が
「いや全く悪い子を持つと親は心配でございますよ」
嘆息するように三津五郎はいった。
「私の
団十郎も気の毒そうにしみじみとしていったものである。
後の出し物はまとまらず追って相談ということになり、団十郎の帰った頃から日はひたひたと暮れて来た。
その後の相談で決まったのは「
同じ浅草花川戸に七代目団十郎の邸があったが、天保年間
十九年前
振り袖を着、帯を締め、黙って部屋に坐っていてもこれが男とは思われない。受け口の
「小次郎さん小次郎さん」
「はあい」と優しく返辞をしたが、もうその声から女である。
「親方さんがお呼びですよ」
「はあい」といって立ち上がり、しとしと梯子段を下ったが、パラパラと蹴出す緋の長襦袢が雪のような
「そこへ坐りねえ」
と
「はい」
といって坐ったが、団十郎の膝の上に、小さい行李のあるのを見ると、小次郎は
「今日」と団十郎はいい出した。「瓦町の
じっと様子を窺った。
「へえ、一向存じません」
「おおそうか、知らねえんだな。知らねえとあれば仕方もねえが、他にもう一つ訊くことがある。······この行李だ! 知っていような?」
膝の上の行李を取り上げるとポンと
「へえ」といって小次郎はチラリとその行李を眺めたが、「見たことのある行李でございます」
「見たことがあるって? あたりめえよ! こいつアお前の行李じゃねえか」
団十郎は冷やかに、
「十九年前の春のこと、空っ風の吹く
先祖譲りの大きい眼をグッと見据えて睨んだ時、ブルッと小次郎は身顫いした。
「はい」といったが俯向いたまま、
「さような大事の書き附けを何んで私が盗みましょう。存ぜぬことでございます」
「なに知らねえ? 本当の口か?」
「存ぜぬことでございます」
「ふうむ、そうか。確かだな!」
「何んの
「が、それにしちゃア去年から、何故お前は変わったんだ!」
「はい、変わったとおっしゃいますと」
「何故時々家を抜ける」
小次郎はじっと俯向いている。
「永い時は十日二十日、どこへ行ったか姿も見せねえ。······それに聞きゃあ右の腕へ
「おい待ちねえ!」
と団十郎は、行きかかる小次郎を呼び止めた。
「少しはアタリがついたのかい

「え?」
といって振り返るところを、団十郎は押っ冠せ、
「六歌仙よ、揃ったかな?」
「それじゃ親方! お前さんも······」
「王朝時代の大泥棒、明神太郎から今日まで、二百人に及ぶ泥棒の系図、それから不思議な
「何んとも申し訳ございません。たしかに盗みましてございます」
「そうして六歌仙は揃ったか?」
「はいようやく三本ほど」
「ううむ、そうか、どこで取ったな?」
「そのうち二本は専斎という柳営奥医師の秘蔵の品、女中に化けて住み込んで盗み出してございます」
「二十日ほど家をあけた時か?」
「へえ、さようでございます」
「もう一本はどこで取った?」
「これは藪という旗本の宝、木曽街道の松並木で私の相棒が
「相棒の眼星もついているが、それは他人で関係がねえ。······で、四本目はまだなのか?」
「へえ、まだでございます」
「二十五日は上覧芝居、お前も西丸へ連れて行く」
「へえ、有難う存じます」
「お前を西丸へつれて行くんだ」
「へえ、有難う存じます」
「いいか悪いかしらねえが、まあ俺の心づくしさ」
「へえ、有難う存じます」
「部屋へ帰って休むがいい」
団十郎はこういうと煙管をポンと叩いたものである。
西丸の大廊下
旧記によれば上覧芝居は二十八日とも記されているが、しかし本当は二十五日で、この時の西丸の賑やかさは「沙汰の限りに
朝の六時から始まって夜の十一時に及んだといえば、十七時間ぶっ通しに四つの芝居が演ぜられたわけ、仮りに作られた舞台花道には、百目蝋燭が掛け連らねられ、桜や紅葉の造花から引き幕
ヒューッとはいる下座の笛、ドンドンと打ち込む太鼓つづみ、
真っ先に開いたは「
団十郎の定光が、あの
「東夷南蛮
と例の
楽屋を抜け出した小次郎は、夜の西丸の大廊下を、なるだけ人に見付けられぬよう
一村一町にも
廊下を左へ曲がったとたん、向こうから来た老武士とバッタリ顔を見合わせた。
「ごめん遊ばせ」
と声を掛けスルリ擦り抜けて行こうとした。
「あいやしばらく」
と
「どなたでござるな? どこへおいでになる?」
「はい
「新参のお末、おおさようか。道理で顔を知らぬと思った。で、どちらまで参られるな?」
「はい、お
「秋篠様のお局へな?」
「はい、さようでございます」
「それにしては道が違う」
「おやさようでございましたか。広い広いご殿ではあり、新参者の悲しさにさては道を間違えたかしら」
「おおおお道は大間違い、秋篠様のお局は今来た廊下を引き返し、七つ目の廊下を左へ曲がり、また廊下を右へ廻ると宏大もないお部屋がある。それがお前のご主人のお部屋だ」
「これは有難う存じました。どれそれでは急いで参り······」
「おお急いで参るがよい。······ところで芝居はどの辺だな?」
「ただ今中幕が開いたばかり、団十郎の定光が
「様子を見りゃあお留守居役か、いい加減年をしているのに、男か女かこの俺の見分けが付かねえとは甘え奴さ······秋篠というお局が満千姫様のご生母でそこのお部屋に何から何までお輿入れ道具が置いてあるそうな。信輔筆の六歌仙、
七つ目の廊下を左へ曲がり、尚先へ走って行った。と、
「むう、これだな、どれ様子を」
板戸へピッタリ食い付いて一寸ばかり戸をあけたが朱塗りの
「よし」と呟くとスーと開け部屋の中へ入り込んだ。
ハッと気が付いて振り返ると、
「どなた?」腰元は声を掛けた。
「はい
小次郎はスルスルと近寄ったがパッと飛びかかって首を掴み、持って来た手拭いで
グルリと見廻したがツカツカとはいり、
「どうやらここではないらしい」
奥の襖をまたあけた。
と、現われたその部屋の遙か奥の正面にあたって何やら大勢
「や、人か?」
と仰天したが、普通の人間でもないらしい、あるいはキリキリと一本足で立ちあるいは黒髪を振り乱し、または巨大な官女の首が宙でフワフワ浮いている。
「ワッ、これは!
思わず声を筒抜かせたがハッと気が付いて口を蔽い、
「千代田の城に化物部屋。おかしいなア」
と見直したが、「ブッ、何んだ! 絵じゃねえか!」
部屋一杯の大きさを持ち
「この絵がここにある上は六歌仙の軸もなくちゃならねえ」
見廻す鼻先に墨踉あざやかに、六歌仙と箱書きした桐の箱。
「有難え!」
と小脇に抱え忽ち部屋を飛び出したが、出合い頭に行き合ったのは五十位の老女であった。
「
と呼びかけられ、
「秋篠様のお末霜」
云いすて向こうへ行こうとする。
「何を申す怪しい女子! かく申すこの
「南無三!」
とばかり飛びかかり、顎を下から突き上げた。「ムー」と呻いて仆れるのを板戸をあけてポンと蹴込みそのまま廊下を
ちょうどこの時分紋太郎は彦根の城下を歩いていた。彼はひどくやつれていた。
「俺の旅費もいよいよ尽きた。······しかも未だに駕籠の主も馬の荷物の何んであるかも、突き止めることが出来ないとは。······俺は今に乞食になろう······乞食になろうが非人になろうが、思い立ったこの願い、どうでも一旦は貫かねばならぬ」
勇猛心を揮い起こし駕籠の後を追うのであった。京都、大坂、兵庫と過ぎ、山陽道へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。須磨、明石と来た頃には、文字通り紋太郎は乞食となり、口へ破れた扇をあて編笠の奥から下手な
こうして道中で年も暮れ、
九州の地へはいっても駕籠と馬とは止まろうともしない。
かくて二月の上旬頃長崎の町へは着いたのである。
遙かにも我来つるかな······思わず彼は
駕籠と馬とはゆるゆると出島の方へ進んで行く。
蘭人居留地があらわれた。駕籠はそっちへ進んで行く。
こうして鉄門と鉄柵とで厳重によろわれた洋館が一行の前へ現われた時、一行は初めて立ち止まった。
「ああ蘭人か」
と呟いて紋太郎がぼんやり佇んだ。
もう
その時一人の侍が門を潜ってあらわれた。
「ちょっとお尋ね致します」
「何んでござるな?」と立ち止まる。
「只今ここへ駕籠と馬とがはいりましたように存じますが?」
「おおはいった。ここの主人じゃ」
「そのご主人のお姓名は?」
「ユージェント・ルー・ビショット氏。
「どちらよりのお帰りでござりましょう?」
「江戸将軍家より招かれて百鬼夜行の大油絵を
「二頭の馬に積まれたは?」
「ビショット氏発明の飛行機じゃ」
「は、飛行機と仰せられるは?」
「
と哄笑したが、
「私は長崎の大通詞丸山作右衛門と申す者、ビショット氏とは日頃懇意、お見受けすればお手前には他国人で困窮のご様子、力になってあげてもよい。邸は港の海岸通り、後に訪ねて参られるがよい」
「泥棒!」
とその時ビショット邸からけたたましい声が響いて来たが、
奈良宝隆寺から西一町、そこに大きな畑があり、一基の
今、日は西に沈もうとして道標の影が地に敷いている。
そこを二人の若者が鍬でセッセと掘っている。
掘っても掘っても何んにも出ない。
二人は顔を見合わせた。
「どうもおかしい」
といったのは、他ならぬ坂東三津太郎である。
「ほんとにこいつ変梃だ」こういったのは小次郎である。
「もう一度お
「よかろう」
というと、二人一緒に、ドンとそこへ
二人の前には六歌仙が、在原
「六つ揃わば眼を洗え。||さあさあ水をかけるがいい」
「承わる」
と小次郎は、
六歌仙の眼へ水を注ぐ。と、不思議にも

業平の眼へは「宝」の字が、遍昭の眼へは「隆」の字が、喜撰の眼へは「寺」の字が、黒主の眼へは「西」の字が、康秀の眼へは「一」の字が、そうして最後に小町の眼へは「町」という字があらわれた。
「やはりそうだ。間違いはない。||宝隆寺西一町。||この通りちゃアんとあらわれている。······そうしてここは宝隆寺から西一町の地点なんだ」
貧乏神の
灰、煙り、即希望
小次郎も同じく立ち上がり、
「そうだここは宝隆寺から西一町離れている。そうしてここに
そこで二人は鍬を取り、道標の影の落ちた所を、根気よくまたも掘り出した。
石や瓦は出るけれど、平安朝時代の大富豪
二人はすっかり落胆して鍬を捨てざるを得なかった。
「オイ」
と三津太郎は憎さげに、「お前が西丸で盗んだというその在原業平の軸、もしや
「冗談いうな」
と小次郎もムッとしたようにいい返す。
「千代田の大奥にあった軸だ。贋やイカ物でたまるものか。それよりお前が長崎の蘭人屋敷で取ったという、その文屋と遍昭が食わせものじゃあるめえかな」
「うんにゃ違う、こりゃ確かだ。俺が現在二つの眼で、写山楼の
「へん、どっちがべらぼうでえ、へんな贋物を掴みやがって」
二人はだんだんいい募った。
やがて日が暮れ夜となったが、その星ばかりの闇の中で撲り合う声が聞こえて来た。
その翌日のことである。
二、三人の百姓がやって来た。
「ヒャア、こいつあぶっ
「
「この畑の踏み荒しようは。こりゃハア天狗様の
百姓達は不平タラタラその大きな穴を埋め出した。
それは大変寒い日で、彼等はやがて焚火をし、
「やあここに掛け物がある」
「やあここにも掛け物がある」
「一つ二つ······五つ六つ、六つも掛け物落ってるだあよ」
「何んて穢ねえ掛け物だあ。踏みにじられてよ泥まみれになってよ」
「火にくべるがいいだあ、火にくべるがいいだあ」
信輔筆の六歌仙は間もなく火の中へくべられた。
濛々と上がる白い煙り。忽ち焔はメラメラと六歌仙を包んで燃え上がったが、火勢に
「やあ眼の中へ字が出ただよ。誰か早く読んで見ろやい」
「お
間もなくその字も焔に包まれ、千古の謎は灰となった。
「ああ暖けえ。ああいい火だ」
「もう春だなあ。
「ボツボツ桜も咲くずらよ」
百姓達は暢気そうに火にあたりながら話していた。
紋太郎と大鵬の握手
「いやこれは驚いた。いやこれは意外千万······ふうむ、そうするとご貴殿がつまり加害者でござるかな? ほほう、いやはや意外千万! 大御所様のおいい付けで、ええと吹矢を吹きかけた? ははあなるほど多摩川でな」
大通詞丸山作右衛門は、むしろ呆気に取られたように、紋太郎の顔を見守ったが、
「いやいや決して心配はござらぬ。もはやビショット氏の肩の負傷はほとんど全快致してござる。いやビショット氏は大芸術家、殊に非常な人格者でござればもちろん貴殿の誤りに対して何んの悪感も持ってはおられぬ。それにかえって江戸に近い多摩川の河原で断わりもなく試乗したのは飛んだ失敗、謀叛を企てるそのために江戸の様子を窺ったのだと、
作右衛門はこう云って腰を上げようとした。
ここは長崎海岸通り大通詞丸山作右衛門の善美を尽くした応接間であるがここを紋太郎が訪問したのは、作右衛門と初めて逢った日から約五日ほど経ってからであった。
その間紋太郎はどうしていたかというに、例のうまくもない
その結果作右衛門がかつは驚きかつは進んでビショット氏へ紹介しようといい出したのである。
「それは何より有難いことで。······飛行機も拝見したいけれどむしろそれよりビショット先生に親しく拝顔の栄を得て過失を謝罪致したければなにとぞお連れくださるよう」
「よろしゅうござる。さあ参ろう」
こんな具合で作右衛門方を出、蘭人居留地へ出かけて行き、ビショット邸を
すぐと客間へ通されたがやがて出て来たビショット氏を見ると、
「なるほど」と紋太郎は呟いた。
ビショット氏の皮膚が桃色であり、頭髪はもちろん
作右衛門の話しを聞いてしまうとビショット氏は
「私は日本に十年おります。で、日本語は自由です。······過失というものは誰にでもあります。何んの謝罪に及びますものか。······藪紋太郎さん、よう来てくだされた。私は大変満足です。······喜んで飛行機もお目にかければ沢山
こういうと先に立って歩き出した。
庭に大きな木小屋があったが、すなわち今日の格納庫で、戸をあけるとその中に粛然と
「あっ!」
と紋太郎が声に出し嘆息したのは当然でもあろうか。
「こっちへ」
と云ってビショット氏は二人を大広間へ導いた。眼を驚かす世界の名画! それが無数にかかげられてある。
快よい日光。······南国の日光。······その早春の南国の陽が窓から仄かに射し込んでいる。
一つの額を指差した。
「ダ・ビンチの名画
ビショット氏は微笑した。
「この人ですよ十三世紀の昔に、飛行機製作に熱中した人は! 先駆者! そうです、芸術と科学のね!」
丸山作右衛門に旅費を借り、紋太郎が江戸へ帰ったのはそれから一月の後であった。
彼は直ちに西丸へ伺向し、事の次第を言上した。
「てっきり大鵬と存じたにさような機械であったとは、さてさて浮世は油断がならぬ。日進月歩恐ろしいことじゃ。今日より
小石川区大和町の北野神社の境内の石の階段を上り切った左に、東向きに立てられた小さな
いずくんぞ知らんこの貧乏神、その本体は坂東三津太郎、不良俳優であろうとは。