一、
僕は、「実話」というのが大の嫌いだから、ここには本当のことを書く。
というものの、どうもこれが難題なので、弱る。作らず、嘘でなく、じっさい僕が聴いた他人の告白なんて||よくよく
とにかく、これはいわゆる実話ではない。あくまで、僕が経験し、じっさいに聴いた話である。
で、冒頭に、僕の経歴の一部を明らかにする。これまで、経歴不明の神秘性がある||とかなんとか云われるのは心外であったが、この機に残らずぶちまけてサバサバとしてしまいたい。
それは、中学を出て一年遊び、翌大正八年五月から十一年二月まで、横浜山下町一五二番地、メーナード・エス・ジェソップ商会というのに勤めていた。この店は、ブロンズ
ところが、大正十年十一月九日、年に一度は、
そこの宿は、ホテル「
露台が、重なり合っている狭くるしい通りは、また、
ところが、そうして滞在三日目の夕のことである。
窓からみると、砂堤の蔭に首絞め台のようなものが見える。それが、最初の日から気になっていたので、ジェソップ氏を誘い散歩がてら出かけていった。が、側へゆくと、それは
水牛が、
するとそれから、
(
それは、
間もなく彼は、手の泥を払いながら
「ありゃ、君、人間の手だよ」
と、
そこで、
しかしジェソップ氏は、顎を撫でながらじっと考え込んでいる。僕は、その腹芸を
「君、ちょっとあの男を呼んで来てくれんかね」
と云うのだ。
「でも······何でです?」
私は、なにがなんでも得体が分らないので、躊躇するとジェソップ氏は手をあげ、
「いや君は分らんだろうが、これには
と、声を低め、云い訳顔に語りはじめた。
「このね、マハナディ川の上流には、ダイアモンド鉱地がある。昔とちがって、いまは
「では、発見した鉱夫が逃げられるじゃありませんか」
「そこなんだ。
それが、ジェソップ氏の持つ、最大の悪癖だった。賭けたがること、相場が好き、ボロ株が好き、おまけに、
やがて僕は、主命もだしがたく、草叢に近寄っていった。そうして、怪人
そこで断っておくが、ジェソップ氏は
かれはすぐ飯を食わすというと
それから、僕が日本語でやる
とにかく、チャンドの気品は、絶品というに近かった。たとえて云えば、キップリングの[#ここから横組み]“
しかし、そのチャンドにはなんの用もないのだ。といって、ブラブラさせては不安がるだろうというので、おもにジェソップ氏の身廻りの用をさせていた。がその間、僕には大命が下っていた。それは、チャンドをそれとなく探ることで、ジェソップ氏は、またまたダイヤならずば
しかし僕は、いつかチャンドの別の方面に、興味を持つようになった。それは、ジェソップ氏に対しても決して
やがて、イギリス嫌いの僕は、この青年が好きになった。実際ジェソップ氏のような、ズボラで人の良い英人はいないのだから、僕には、クライヴもヘースチングも村井長庵と大差ないのだ。そんなもんだから、チャンド君に打ち込んだせいもあり、今度は彼の健康が気遣われてきた。
はじめ来たときは、二、三日食わないとこんなかと思ったのが、五日、十日となっても少しも回復しない。
憔悴、脱力、眼に力はなく、
それは、
この告白は、たぶん惰気と暑さで、諸君を困らしめるにちがいない。それほど、印度も暑いが、この話もそうである。
二、
(以下、ラム・チャンドの告白)
だが、教育を受けた、学校だけはお話しましょう。
それは、
聴いて御覧なさい。
で、そこの、教程を終えてから何をしたかというと、まず助教師、そして最近は、校主の知己のヘミングウェー嬢が、本土から来られたについて案内役となりました。
その、ミス・ロバータ・ヘミングウェーは、財団の有力者である
ところが、方々見歩いてこの町に来たとき、偶然ガンディの示威運動が起ったのでした。町は、兵士の発砲以来、廃墟のようになりました。雨が降る、汗が蒸し暑さに腐るように匂う||、事の起りはそういう晩だったのです。
そうそう、宿は「
するとそこから、
「パドミーニ、パドミーニや」
とお呼びになる声がします。
尻あがりの、声を聴いただけでも一人娘の、びりびり蟲のつよいところが触れてくる。
しかし、下婢のパドミーニはここには居りません。私は、なんと入浴中のレディにお答えしていいものかと、惑っているうちに、二度目のお声です。
「パドミーニ、パドミーニはいるんじゃないの、そこに。駄目よ、黙って、
と、湯の面にぴしゃりと何かを叩きつけたらしいのです。
「パドミーニ、パドミーニってば······」
そういって、ミス・ヘミングウェーはしばらくのあいだ、耳を澄ますようにじっと湯の音をさせませんでした。
「じゃ誰よ、そこにいんのは? さっきから、かさこそ音をさせていて、
「いや、僕です。パドミーニは、さっきからここには居りません」
「ああ、なんだ、チャンドさんか」
しかし私は、爽やかな、処女を
とやがて、
「チャンドさん」
と
「ちょっと、あんたにお願いがあるんだけど、······実はパドミーニがいないんで、お願いするんだけど······、そこにある、
とたんに、私は、ぱちぱちっと瞬きました。ゆらゆら、鍵穴を洩れる湯気が、肢体のように
「でも······」と、やっと返辞はしたが、子供のような答えです。すると、ヘミングウェー嬢は、
「アラ、厭なの。じゃ、何かそこでしていんじゃない?
やがて私は、パドミーニが出しわすれていた三角スポンジを手に、
(なにを······ミス・ヘミングウェーのこれは、意味するのだろう。処女が、娘の媚態ともいう羞恥心を捨ててまで、自分に、浴室に入れとは、戯れだけと云えないことだ。)
と、妙な自負心に、私はからだ中浮いてしまったように······ああ、
つぶらな
神品ですよ。触れようとしても出来ぬものはことごとく神品です。
私は······だが、いかなる場合でも、ブリスコーの生徒でした。
「じゃ、ここへ置きますから」
「そう。有難う。でも、ちょっとの
私の、そのときの驚きは何ものに例えようもありません。しかし、ミス・ヘミングウェーは、続けさまに云うのです。
「どう私、頭のほうもそう悪かァないでしょう。湯気で、あんたの眼鏡が曇って、なにも見えないのを知ってるんだから。見えて? ······私が、いま、どんなことをしているか」
と、はげしい湯の音がして
揺れる、くねる。
私は、
「では御ゆるり」
私は、やっと咽喉をうるおし、これだけを云いました。すると、ヘミングウェー嬢は、
「マア、あんた、あんたは割と世帯染みてんのね」
そう云って、くすんとお笑いになったようです。が、その頃から、
それも、湯のほうが
「お気の毒さまね」
ミス・ヘミングウェーが、嘲るように云いました。
「なにがです」
「知っているくせに。······もっと黒檀紳士は、明けっ放しの人かと思っていたわ。つまり、四十
「分りませんね。何です、それは」
「分らないの、マアいいわ。いいから、出てないと水を引っかけるわよ」
私はさんざんに翻弄され、それでも、若葉を嗅ぐような、
それから、部屋へ戻って寝台にころがっているうちに私は、四肢五体を揉みほごされるように狂わしくなってきたのです。
(なんのためだ······なんのために僕を浴室なんかへ呼んだのだ?)
それは、あるいはミス・ヘミングウェーの気紛れかもしれないが、いちがいにそう云い切ってしまうには、あまりに、奔騰的だ、噴油だ。鬱積しているものが
(ふむ、よくあることだ。よく、青葉病といって、急に憂鬱になるか、それとも、見境いなく
と、決めてしまうのも、独り合点でしょうか。分りません

私は、そうして右せんか左せんかと悩み、奇怪な謎を投げかけたヘミングウェー嬢の行為を思いあぐみ惑乱に悶えておりました。
ああ、
馬鹿です。しかし天はこの馬鹿に恵み給うたのか、翌日も雨、その次も雨、しかも暴動の気配が絶えず、ときどき銃声がする。風もない、ただ雨が滝のように地を打っている。
ところで、その日からはじまる八日のあいだが、カリーの女神を祭る精進日となるのです。
水浴をし、あらゆる慾望を絶ち、子羊を犠牲にする。そしてもって、破壊の女神カリーをお慰め申しあげるのです。けれど、いまここでは祭典どころではない。雨に暴動、加えて湯気のようなおそろしい湿気です。
しかしそうした時、ごろごろ
私も、自分ながら、理性を失わんとしているのが分ります。やがて、暗い空がいっそう暗くなり、雨脚も消え、煮られるような夜となりました。
ところが、その夜ヘミングウェー嬢に、神経痛の発作が起りました。前年、ポロの競技中落馬が原因で、その後は、暑さ寒さにつれ、右肩が痛むのです。それでパドミーニと交代に、患部の湿布をかえておりました。甲斐甲斐しく、腕まくりしてギュッとタオルを絞る、すべてが、われながら驚くほどマメだったのです。とその時、通りをザッザッっと、靴音でない一群が通ってゆく。
「アッ、あれ、きっと何だわ」
「なるほど」
「あらッ、私まだなんにも云ってないのに······」
私は、ときどき失敗をやってはぎゅうぎゅうな目に逢わされ、それが久しく
ああ、いかに場合とはいえブリスコーの生徒が、落ちたにも百面相とはなったものです。
「ああ、そうか」
私は、ポンと手を打つかわりに灰皿を上げて、静かに
「分りましたよ、非常時の馬鹿力というのが、あれほど、お痛みだったのが土民がとおると、瞬間ケロリと忘れてしまう······。いや、気が張っとりますと、感じないのですなア」
「そうかしら」
「処世上、その点には、つどつど考えさせられます」
「じゃ、処生哲学ね」
ミス・ヘミングウェーがクスンと笑いながら、
「あたし、まえにはチャンドさんを、ちがう人かと思ってたわ。
「············」
「ところが」
と、云いながら、ヘミングウェー嬢は痛そうに顔をしかめはじめたのです。けれど、まだそれは忍べぬというほどのものではないらしい。
「ただ、あんたは実にまめだと思う」
「まめですか。僕は」
「そう、ほかにも良いところが、きっとあるんだろうと思うわ。だけど、なにしろまめすぎるんでほかが分らなくなるの」
彼女一流の毒舌が、このときはまったく苦痛のなかから発せられました。
「パドミーニ、パドミーニを呼んで」
腰の痛みだけは、私にもさすが触らせない······しかしパドミーニは、いつになってもこの
(パドミーニがいない。)
それをさっきから、私はミス・ヘミングウェーに、思い出させまいとしていたのだ。彼女はいまコック部屋にいる。回教徒だから、カリーさまのこの日にも、なんのお咎めもあるまい。
そしてその間、私が万事取り仕切ってまめまめしく働き、ほとんど、触らんばかりの身近にいる愉悦を、パドミーニがきて妨げられまいとしていたのだ。私は、心のなかで、チェッと舌打ちをしました。ところへ、
「呼んで······、ねえ、早く」
とヘミングウェー嬢が、胸をそらし、苦しそうに呻きはじめました。
「はやく、チャンドさん、引っ張って来てよう」
「ですが」
さすがに私も
「考えてみますと······あれから、もう四、五時間も見えないのですから」
「そう、そう云えば······」
と、痛みを忘れたように、不安気に眼を据え、
「あれ、
と、だんだん、ミス・ヘミングウェーの顔は羞らったようになり、観念の色がなに事かを決めようとしました。
とその時、通りのどこかでワアッと喚声があがると、数発の、銃声とともにおそろしい音が部屋に起りました。窓
その瞬間、せっかくの
つまりこれは、カリーの女神の
ああ、
私はそれから、来る日来る日うつらと送りましたが、しかし、希望はまだ九日目にあります。精進明けの、その日には何事も自由です。そして雨も、その前々夜にはからっと上がり、町にはすでに火薬の匂いもありません。朝の風が、
そこで私は、とって降した彼女の手をかるく握りますと、どうでしょう、そのうえにピシリと鞭が降りました。
ああ、私はとたんに自己を失い······思わぬ変り方、あまりな恥辱にそのまま
それからの放浪です。
私はつくづく、祭、祭に縛られる

おお、
しかし私は、聴いているうちにも、ほかの事を考えていた。それは、ミス・ヘミングウェーのことで、ああさせた、Aphrodisiac なものは何事であろうか。近傍の······
いずれにせよ、八日間精進のことは知っていたにちがいない。そして、雨後の冷気が、ムラ気と火遊びを鎮めるに充分だった||と。
やがて、夜が明けかかり闇が白みはじめたころ、私は、菩提樹の梢をとおして、暁にふるえるユニオン・ジャックの