今こそ、二三流の劇場を歩いているとはいえ、その昔、
それでこそ、その名は私たちの耳に、なかなか
と云うのは、その一座には、日本で一ヶ所と云ってもよい特殊な上演種目があった。それがほかならぬ、
そこで、一つ二つ例をあげて云うと、「
さらにそれ以外にも、今どきとうてい見ることのできない、ケレンものなども上演されて、「小町桜」や「
しかし、ここで
事実作者も、幼少のころおい、この一座の絵看板には数回となく接していて、
ところがついにそれは、小芝居にありきたりの、
狂乱した肉慾が、神の定めも人の掟もあっけなく踏み越えて、ただひたすらに作り上げた傑作がこれであり、里虹一座の人たちは、まったく油地獄のそれのように、うちまく油流れる血、踏みのめらかし踏みすべらかして、とめどない足のぬめりに、底知れず堕ち込んで行くのだった。
そこで作者は、あの
それには、宿命の糸を丹念にほぐし手繰り寄せて、終回の悲劇までを余さず記してゆかねばならぬのであるが、まず何より、順序として里虹の前身に触れ、あの驚くべき伝奇的な
今世紀のはじめ、ケルレル博士の発議によって、
それが紀州公
正史においてすら、
その島は
ところが、まもなくこの一孤島に、不思議な囚人が訪れることになった。
と云うのは探鯨の雅号が、
しかし、この孤島の所在は、探鯨の死と同時に国替えなどもあって、ついに姉川家の記録から、消え失せてしまったのであった。
ところが、それから何十年経った後のことだったろうか、はからずも
と云うのが、明治廿一年三月のこと||嵯峨家の当主は、そのおり
ところが、今年になって、はしなくもその孤島にまつわる、秘密が曝露されたと云うのは、教授の
作者は、次行にその全文を掲げて、この事件の発端を終りたいと思う。
||一八八七年四月十七日日没
しかして、夷岐戸島の姿を遠望するに及んで、余はまったく度肝を抜かれた。珊瑚礁の奇観も、ここに至っては、海に根を張って空に開いた、大花弁というほかにないであろう。その赤紫色の塊団は、さながら
微風は、椰子花の匂いを混ぜた海の香りを、余に向ってまともに吹きつけた。
しかし、そうしているうちに、ふと余の瞳に映じたものがあって、その衝動の苛烈さには、思わず双眼鏡を取り落したほどだった。
それから余は、狂わんばかりに夢中になり、その双眼鏡を、かわるがわる船員に貸し与えたのであったが、いずれも血の気を失った。
余は幼少のころ、霧深い大気の中で、樹木を妖怪と信じたこともあったが、この場合は断じてそうではない。しだいに余の魂は、現実に戻るのを嫌うようになった。そして、ある詩の一句を
上半身は、それは美しい女体であるけれども、腰から下は暗い
彼女は、猫のような
そこで余は、さっそく島に向ったが、暗礁多く、上陸したのは翌朝だった。
ところが、意外のことに、人魚は一夜のうちに
そこで、島を離れ、ミンダナオ島に向うことになったが、その夕べ、悪夢は再び
それは、翌夕日没直後のことで、なにか
すると、その巨大な網は、金色の滴を跳ね飛ばしながら、徐々と闇の深みから現われてきた。しかしその瞬間、余は巨大な力に、ギュッと心臓を掴まれたような気がした。
それは、板戸のような
余は、その際の光景を、未だに想起することができる。
月のない海には、赤い光がどんよりと映り、女の屍体からは、液体の宝玉がしずくのように滴り落ちている。
それは、女の乳房を、豪奢な王冠に変えたかのようで、中央の乳首には、夜光虫が巨大な
しかし、余らはまもなく意識を取り戻し、女体を水葬した後に、出帆したが、わけても困らされたのは、二人の日本青年に言語が通じないということだった。
しかし、そのうち一人が、アサオリコウという言葉を、しきりに口していたのを記憶しているが、何より四人の子が、二人のいずれに属するものか不明だった。その後余は、ルスン島の土人港バグアイにおいて、以上の六人||すなわち青年二人男児三人女児一人を、本国に送還したのであったが、その間目撃した異常な秘密については、今でさえも狂わんばかりに夢中である。
それがあるいは、超自然的な要素であるか、それとも夢と本質を同じうしているのか、あるいは単に、余ら乗組員の全部が、神経の病的な
しかし、その驚くべき神秘については、余に語るべき舌はない。
別送の一幅に含ませて、その謎を嵯峨家に奉呈するものである。
以上のとおり読み終ると、
七つ糸の
そこは、武州草加の芝居小屋、年も押し迫った暮の廿八日のこと||。
はや春興行に、乗り込みまでも済ました一座のものは、薄汚い仕度部屋のなかで、車座になっていた。
ぐるりには大入袋や安っぽい石版摺りの似顔絵などが、一面に張られていて、壁地の花模様などは、何が何やら判らないほどに、
すべてが、腐った沼水にうつる水際のように、なんともいえぬ陰気な
「どうだね
法水にそう云われて、里虹は
年のころは、六十を幾つか越えていて、牡牛のような、がっしりと肥えた多血質の身体をしていた。おまけに、
しかし、彼が孤島から救われた一人であることは、ここで贅言を費やすまでもないことだろう。
やがて法水は、
それは百号ほどのもので、数世紀も遡行したと思われるような、暗い色調で描かれていた。事実クイロス教授が持ち出した謎は、この画中において、さらに混沌たるものになってしまったのである。
しかし、特徴と云えば二つほどあって、一人が蒼ざめ、打ち伏して苦悶していると、もう一人は、これは右胸を押え同じような表情をしている。
また、もう一つは、二人とも指の節が太く、髪の毛が薄く、頭が水頭のように膨れあがっていることだった。

しかし、以上のほかに、もう一つ際立って不思議なものがあったのである。と云うのは、二人とも、双方の足首に上図のような紋様が描かれ、それは||あるいは
「どうも僕には、クイロス教授の意志というのが、判らんのだがね。しかし、こう離れて見ていると、なんだか怖ろしいような気がしてくるじゃないか。どうやら、ボルルワスキーかニコラス・フェリー||臭いのだが······」
あるいは、朱と暗緑の対比から、発しているのかもしれないが、事実その絵からは、
法水は、なにやら云いたげな顔をしたが、その時隅から中山
この老人は、耳の辺まで垂れた
小六は半畳ほどずり出して、
「すると、なんですかな先生。いまおっしゃった異人の名というのが、なにかこの図紋とでも関係がござんすので······」
と云うと、相手の深々とした皺を、法水は、痛ましげに見やっていたが、
「いやいや、なんでもないのだよ。じつは、ちょっと他のものに、
と何げなく云ったけれども、その眼はただならぬ暗色を湛え、ギロリと六人の車座を見まわした。
明敏な読者諸君は、すでに気付かれたことと思うが、小六はさておき、里虹を交えた他の四人というのが、その年配といい、なにかしら夷岐戸島の四人の
しかし、その暗合の魔力は、ついにその場限りではなかった。その時法水は、ただそれらしい符合に打たれただけで、やがて心火にめぐりはじめる、片輪車のことなどは毛ほども知らなかったのである。
法水が帰ってからも、一座はそのままの沈黙を続けていた。
霜刻に近い夜ふけの楽屋の中は、いたって火の気も乏しく、外の凍りが室内にも及んで、
そのうち山村儀右衛門が、例の神経的な、蒼白いしゃくれ顔を突き出して、
「ところで
と云って、彼はかたわらの逢痴と顔を見合せるのだった。
逢痴は、一座中の若
この逢痴には、はじめ二つの世界があった。
一つは、楽屋における男性であり、一つは、舞台における女性であったが、やがて自働的な聯想を起したのであろうか、今ではもう、感情挙動言葉服装とも、女性のそれと異ならないものになってしまった。
まったく着物のままざんぷりと水に漬けて、どこからどこまで透き徹してしまっても、たぶん彼には、女性以外の特徴が見出されないに相違ない。そうして、古風な芝居言葉だが、お
久米八は、他の三人と同じ、四十を超えた老女優だが、肉のかたく引き緊った、どこかに厭味のある顔立だった。
彼女は、すべてが男性化していて、その汚なげによごれた爪にも、
そして、その三人に挾まって、なんら特徴のないのが村次郎だった。
しかし、里虹はそう云われると、半白眼をぴたりと、儀右衛門に据えて、
「四谷······。へん、めっそうもねえ」
と吐き出すように云い放って、
「のう
と壁に貼り付けてある写楽の絵で、岩井喜代太郎が扮している、「
「だいぶ安手な写楽のようだが、聴くところだと、喜代太郎はそれほどの
と、話を外らすような、しかも、異様な言葉を口にしたのだった。
しかし、そう云いながら、里虹はぜいぜいと息を切らし、

彼はしばらく
「いいから、窓でも締めねえってことさ。こうして、車座になっていると、うっかり
と、異様な言を吐き
その夜儀右衛門は、いつまでも寝つくことができなかった。
||はじめ想い
さらに、もう一つの証拠というのは、四人がいずれも、実の父母を知らないということで、戸籍面を見ても、一家を創立した戸主になっているのだ。
そして、いまはっきりと知ったのは、四人のいずれか二人が里虹を父にしているということ||それが島中の二人が、島に流された二人であるか。また里虹の子以外の二人は、いったい誰を父にしているのであろうか。
その疑惑の深さには、現実も幻も差別がなく、揉み込めば揉み込むほど、頭の中に触れる突起がなくなってしまって、やがて彼は恍惚となってしまうのだった。
しかし、そうしているうちに、ふと松飾りのざわめきに触れると、彼の神経はふたたび鋭くなってきた。
そうして、今度は夷岐戸島に行き、不思議な人魚の
||あの島における祖先の次の時代に、もし男の子と女の子とが、生れたとしよう。するとそこには、道徳も思想も、言語も抑制もあり得ないはずである。
ソドムの崩壊の日、生き残った一人の父と二人の娘は、いったいなにを行なったか。それは抱擁であり、肉慾であり、大いなる沈黙の儀式である||種族保存のためには、あの刑罰の神、エホバですらもそれを許したではないか。
しかし、
儀右衛門はそこでハッとなり、鋭い苦痛を思って、
と云うのは、二人とも二十まえのことであったが、ふとした魔の
もしやして、二人が
いきなり血のさわぎを覚えて、儀右衛門は
彼は自分の血管の中に、木を噛む虫のような音を聴いたのである。その途端、儀右衛門は強烈な衝動に駆られて、一目散に楽屋のなかへ、飛び込んで行ったのであった。
そして、永いこと薄闇のなかに立ちつくして、彼は油絵具の、どんよりとした反映を見詰めていた。
が、心の中は、里虹に対する憤りで一杯だった。
あの男が、自分の父親であるかないかはしばらくさておき、もしそうでないとして、戸籍面をあのようにしたとすれば、とりもなおさず、自分が経験した
また、事実自分の子であったとしても、そういった悪魔的な性格は、あの男に必ずやあるに相違ない。
わけても、苦悩が酷烈なそれだけに、その心理はあながち奇蹟とは云われないはずである。それにしても、この四人ははたして誰の子なのであろう。一人、二人、三人、四人||そのうち二人が、たしかに里虹の子にはちがいないのであるが······
と、1、2、3、4||と数字の幻像が目まぐるしく駈け廻っているうちに、いかなる心理的な結合であろうか、いきなり6と9の上に、強いスポットのような光が落ちた。そして、その瞬間、儀右衛門は髪の毛が動いたかと思った。
何故なら、6と9と組み合わせた形は、胎内における双胎児のそれではないか。まったく、身も世もないあの烈しい
すると、五感が異常にするどくなって、まもなく儀右衛門は、画中から驚くべき特徴をつかみ出した。
それは、双生児にはつきものの
画中では、それが頭の渦にも、
四人のうち二人は、たしかに双生児でなければならない||しかし、それを自分の身に及ぼしてみると、いまや儀右衛門は、世界中の
で、窓を開けると、乳色の
直助権兵衛||その名を儀右衛門は、なぜか妙にひしむような、闇の香りのなかで味いはじめた。
それは、はじめ儀右衛門が、配役書きを置いたとき表に出た部分であって、里虹は
直助、権兵衛と||そう二つの名が重なり合っていることは、おそらく里虹のみが知る双生児の
村次郎、村次郎が直助権兵衛では、お袖は||と、やにわに彼はその全文を拡げてしまった。そして今や、動かぬ証拠を、掴み上げてしまったのである。
直助権兵衛 嵐村次郎
お岩妹お袖 山下久米八
お岩妹お袖 山下久米八
それは、綾にからまっている
あの時里虹が、村次郎の名を見ただけで、キッパリと云い切った||というのも、また彼が、問わず語らずに暗示した不倫な関係も、ことごとく、二つの名のうちに秘められているのではないか。
村次郎と久米八は、明白に双生児であり、二人はそうとは知らず、直助とお袖が堕ち込んだ、鬼畜の道を辿りつつあるのだ。そう判ると、かすかな嫉妬を覚えたけれども、これまでの惨苦も
そうして、再び床に入ったけれども、裏木戸の音は依然として止まず、その間を逢って、雨の滴が思い出したように落ちてくるのだ。
それには心動のような
誰しも今夜は、見知らぬ父母に
ところが、どうしたことか、その夜のうちに予感が適中してしまった。
翌暁風がおさまると同時に、それなり里虹の姿が、掻き消えてしまったのであるから······。
「まあ聴きねえ。
里虹の行衛が知れなくなって何月目か後のこと、警察でも尋ねあぐんで、結局不入りのための失踪ということでケリをつけたのだが、その日、先夜の四人を前に儀右衛門が切りだした。
「ところが、そのうち一番うけたのが、例の『椿姫』ってやつさ。いいから、わっしに
と、なにやら険しい気組で、儀右衛門はギロリと一座を見廻すのだったが、その
それが、この事件にとると、秘密の中の秘密といったようで、妙に青黒い、底知れぬ池を覗き込むような気がするのだった。
けれども、一座の者はいっこうにさりげなく、この鋭い比喩に動じたような者もないのだった。
しかし、儀右衛門の心の中は、嵐村次郎に対する疑惑で一杯だった。ああも、ギスリと里虹に刺されたのであるし、よしんば彼が父であるにしろないにしろ、そうと知られた上は、口を覆うよりも針を立てよ||ではないか。
しかし村次郎は、相も変らず黙々としているので、その物静けさには一種不気味な気持に駆られる場合さえあった。
もしあの夜、楽屋に入った儀右衛門を、村次郎が知っていたとすれば、思うに自分は燃えさかる熱蝋を胸に突きつけられて掴もうにも由なく、足を引きながらたあいなく後ずさりして、一滴一滴と、手から腕にまた胸に、憐れな蝋涙をうけていかなければならぬのではないか。
そうして、
その乗り込みの前夜、はからずも事件の神秘を、一つ解くことができた||それは、風が収まればと云った、里虹の謎なのであった。
そこは、上州藤岡の劇場で、乗り込みを両三日中に控え、ちょうど
舞台裏には、唐人殺しに使う、
ところが、しばらく見ぬ間に、儀右衛門は見る影もなくやつれ果て、青々とした剃り跡が、ひときわ目立っていた。法水の眼には、それが
彼は、儀右衛門の頭が上らぬ間に、早々切り出した。
「手紙はたびたび貰っているが、君はあまり考え過ぎると思うね。だいたい自問自答というやつは、自分で自分の心を解釈するんだから、いつも標準が狂いがちなものなんだよ。だから、対象となる自分の心の状態が、どうも誇張されやすいのだ。ところで、しばらく来ない間に、だいぶ顔触れが変ったようだが······」
「ええ、最近に
と儀右衛門に云われて、思い出したのであるが、楽屋口に入ろうとしたとき、一人の瘠せた老人を見たのを思い出した。その老人は、異様に皺が深く、ことに青磁色をした、珍しい皮膚の色が印象的だった。
儀右衛門は膝を組み直して、
「ところで、たびたび申し上げました、村次郎のことでござんすが、
と云いかけたのを、慌てて遮って、
「君は、あまりに考え過ぎるんだよ。無暗に解剖をしたがるんだ。正直に云うと、里虹の事件よりも、自分の解剖の方が、面白いんじゃないかね」
と
「その村次郎のこってすが、わっしゃほんとうに、済まねえことをしてしまったんで。かねて先生から、役の性根や心理の解釈に、いろいろと教えていただきましたが、それが今度という今度は、わっしにゃ恨めしいんで······。じつは久米八の
と彼は、思いもつかぬもの静かな態度で語りはじめた。
「ねえ先生、聴いておくんなさい。いつだったか知らねえが、人間っていうやつは、自分の心の動きをなにかの図や、線や角などで表わしたがるという話を伺いましたが、それが、あの晩の里虹に現われたのです。
あの時窓の外を見て、風にはためいている
ところが、あの翌朝、風が収まると姿が見えなくなったのですから、どうもその暗合にわっしたちは不思議な魔力があるのではないかと、考えるようになりました。そして、磁石にでも引かれるように、その人間放れのした
ところが、どうだったでしょう。ふとした事から、その時の黙劇じみた秘密を知ることができたのです。
あながちそれは、
それは、いかさま
そこで先生、あの時里虹の前には、四谷の配役の中で、直助権兵衛(嵐村次郎)とあるところが、開かれてあったのですが、その前にたしか村次郎の幟を見たのでしょう。
だいたい幟というやつは、風に吹かれると、よくどこかに大きな皺ができて、文字の
それが山村となるではございませんか。
ねえ先生、やはりあの
「なるほど、フロイドの全集の中には、家(Haus)というところを、心中考えていたことを
と法水は、別にこれという感情を表わさなかった。
しかし、山村儀右衛門の解釈は、いまや驚くべき悲劇的な光景となって、彼の前に現われた||あの嫌厭すべき近親相姦者は、ついに彼だったのである。
儀右衛門は、ぶるぶる総身を
「それから先生、またあの時里虹は、写楽の『関本おてる』を見て、事実喜代太郎はさほど背の高い俳優ではなかったのだが、誤って写楽が、
しかし、これは、いわゆる
それに、
と云うのは、外界に対照するものがなければ、汽車でも汽船でも速度が判らないように、里虹はあの島で、もう一人の男ばかりを見ていたために、自分を巨人と信じてしまったのでした。そうなると、相手の一人が、恐ろしく背の低い男にならねばなりませんが、私は、いまだに身柄の不明な、中村小六がそうではないかと思うのです。あの
と云うのは、私たちが、いわゆる男と女の畜生児だったからです。
しかし、その双生子はさておいて、どうして自分の妻を殺さねばならなかったのでしょうか。
いいえ、ここまで云えば、私と久米八とが双生子の兄妹だったということも、また
けれども、問題なのは、里虹の妻が、そもそも誰であるかということです。そこで、一つクイロスの文書を、最初から思い
法水は、この時、眼前の儀右衛門が、精神の昂揚状態に入っているのではないかと疑った。
いろいろな影像が入れ代り立ち代り、驚くべきほどの早さで、相手の表情の中を、かすめ行くのを見た。
儀右衛門は、なにかしら怖ろしい力に、捉えられたかのように息をせき
「ねえ先生、たしかクイロスの文書の中には、あの不思議な神秘的な生物||人魚のことが記されてありましたっけね。ところが、上陸するとその姿は見えず、その夜上った
「なるほど明察だ。とんとあの※[#「木+伐」、U+6830、226-7]の趣向は、戸板がえしそっくりだからね。これで、里虹が『四谷怪談』を、本気で
と云った法水の声も、耳に入らないかのよう、儀右衛門は気味悪げな、薄笑いを浮べて云った。
「さすが、先生だけにお察しは早えが、なによりわっしが知りてえのは、お
人魚の首と、腰からしたをぶった切ってしまえば、それはただの首無し女にすぎねえじゃありませんか。
わっしは、上陸したクイロスはじめの人たちを見て、さぞ里虹が
それから先生、近頃じゃわっしも、
それは狂気の合間合間に現われる、
いわば、それまで厭わしさに充ちていた現実の一部が、ここではっきりと、魅力あるお
おりおり母は、軟体動物が潜り込んでいる、割目を覗き込んで、無残にも軟らかな
こうして、はしなくも儀右衛門が、幻影の世界に浸りはじめると、彼は別人のような気がして、一段と高い生活に上ったように考えられた。
まったく、その夢の最高頂においては、あの厭わしい現実の苦悶と拮抗できるのであった。しかし、一方において彼は、その人魚の形が、両肢の癒合した
おそらく、そうでもしなければ、彼の心は均衡を失って、たちまち狂いの、どん底に叩き込まれたであろうが、そうして一方では、身も世もあらぬ悩みに悶え、また片方では、朦朧とした夢を楽しんで、からくも彼は、狂気の瀬戸際で踏み止まることができたのであった。
すると、儀右衛門に不思議な心理が起りはじめた。
と云うのは、考えても考えきれぬような異様な
それが、自然の本性に反した、不倫な慾求であることは云うまでもない。さらにまた、一種の心理的畸形とでも云えるだろうが、しかし、畸形はけっして奇蹟ではないのである。
いつとなく、儀右衛門の心を、あの聴くだに厭わしい、骨肉愛の悩みが
彼は、そうした悪夢の中を漂い、人間に与えられた地獄味の中で、わけても、味のもっとも
やがて、永い沈黙の後に、法水が口を開いた。
「しかし友田屋、これは、少し無理かもしれないがね。人魚も骨肉相姦も、当分のうちは、神話の中に
と云って、儀右衛門がもじもじしているうちに、何を思いついたか、法水の表情が、いきなり硬くなった。
「ところで、もう一つ訊きたいのは、いまの君の考えだが、それを最近思いついたのならいいがね。もしあの晩だとすると、君が里虹を殺したといっても、けっして心理的に不自然ではないのだ」
「それは、同時に久米八もでしょう」
と透き通ったような蒼白い顔を、ピタリと据えて、
「わっしは、ただこれきりしきゃ知らねえのですよ。あの晩、風が止んだのが
そうして、なぜ||と反問したげな法水の顔を見るでもなく、儀右衛門は懐中から、一枚の紙片を取り出した。
それには、思わずも釘付けするような力があったと云うのは、いつぞやクイロスの画中、双生児の足首に捺されてあった異様な図紋の下に、次の文章が記されてあったからだ。
儀右衛門は役どころではなし、里虹を尋ねて、伊右衛門を演ぜしめよ。
「ところが先生、こいつがどう見えても、里虹の筆蹟に違えねえのですがね。それに、いま始めて判りましたが、どう考えたって、この図紋の形は、六本
その時儀右衛門が苦しくなって中止したように、それはなんとも云えぬ、不気味な
夷岐戸島の秘密、クイロスの絵画、里虹の生死||と次々に鬱積していったものが、いつとなく土台の底深くを、じりじりと蝕んでいて、やがては思いもつかぬ、自壊作用となって現われるのではないだろうか。
それでなくてさえ、大地が暗く、夢中をさ迷い歩くような感じがして、暗中に差し招く、隠密の手をはっきりと意識しているばかりではなく、こうも
法水は、しばらく相手の顔を
「ところで、友田屋、これだけは、どうあっても口にしまいと、決心していたんだがね、実を云うと、君と久米八は、実の兄妹ではないのだよ。僕は君の身体から、あの怖ろしい爪を引き剥がしてやろう」
と瞬間
「君は、夷岐戸島の秘密を、それからそれへと
君は、クイロスの画の中で、たった一ヶ所だけ見逃した部分がある」
なに、クイロスの画に||というような儀右衛門の眼に、法水は再び
「と云うのは、一方が苦しんでいると、片方の子が、それと同じような表情をして、右胸を押えているということだ。実を云うと、それが何あろう、
十九世紀の末頃だが、有名なシャン・エンの
ねえ友田屋、君は双体畸形が、健康も感覚も情緒も、共通なのを知っているかね。そして、一方が軽い病気をしてさえも、片方が、不快な感覚を起すということも||。つまり、あの絵の中で、表情が同一なことと、片方の
つまり君はローザとジョーゼ姉妹のように、クイロス教授の手術で分離したのだよ。ハハハハそんなに方々見廻したって、どこに
儀右衛門は、その意外な名を聴くと、さらに新しい、一つの魔夢の中に入ったような気がした。けれども、そうして現実の恐怖から、はっきり截ち切られてしまうと、それまで覚えもしなかった、一つの疑惑が頭をもたげてきた。
と云うのは、法水の推断によって、久米八が兄妹でないということになると、当然双体畸形の相手を、村次郎か逢痴かのいずれかに求めねばならず、はては、二人のいずれがそうであるか、またその結合のし方も、胸かそれとも、背中合せの
まったく、その二つのものは、果しなく絡み合って、結局は見透しのつかない、雲層の中に埋れてしまうのであるが、またそうなって、双体畸形の片方が、もし逢痴である場合を考えると、彼の恋情にも、なんとなく怖れが出てくるのだった。
と云うのは、いかにプラトニックであるとはいえ、それは精神的
しかし、いずれ彼の疑惑のすべては、小六の口によって解決されるであろう||あの夷岐戸島ただ一人の生残者は、今に何もかも話してくれるにちがいない。まだまだ、儀右衛門の心の中では、双体畸形のことはもちろん半信半疑であり、わけても、逢痴に対する愛着が、そうでなかれかしと秘かに祈るのであった。
ところが、その日のうちに、片身の本体が明らかにされたと云うのは、そうして対座中、どうしたことか、法水が聴耳を立てはじめたからである。
それはどこかから、チャリンチャリンと
「ねえ友田屋、どうやらこれから、小道具部屋に行かなけりゃならんよ。たしか
儀右衛門は、それを聴いてハッと顔色を変えたけれども、法水の透視的神経は、黒死館殺人事件一つでさえも、優に十五を数えるではないか。
やがて、横合の廊下まで来ると、そこで儀右衛門は、釘付けされたように立ちどまってしまった。
なぜなら、廊下に向けて開かれてある、硝子戸越しに、ダラリと下った、小六の両手が見えたからである。
そして、口は
「ねえ先生、いったい全体、小六は自分から死のうとしたのでしょうか、それとも、誰かに吊されたのでしょうか」
儀右衛門は、この老
しかしそれは、まばらな歯並が覗いている、紫色の唇ではなかった。まったく、彼の思考を読み取ることができる、不思議な力でもないのなら、こうも符合したように、小六の死が速急に現われる道理がないのである||ただ一人、それも、あの怖ろしい秘密を解くことができる、ただ一人の男が死んでしまった······。
そうして、彼には、この無残劇の深さがとうてい測りえなかったのであるが、そのうち、思いがけない喜びが訪れてきた。
と云うのは、小六にまだ、体温が残っているのを発見したことで、それから総掛りの人工呼吸の結果、この老侏儒はようやく蘇生することができた。
すると、なんとしたことかむっくと立ち上って、胸から出る息が、苦しげに響いた。
「ふ、
と汚ならしい、
「ねえお前さん、皆んなが寄ってたかって、わっしのことを小さいと云うがね。しかし、真実小さく見えるなあ、わっしじゃねえ、彼処にいる為十郎なんだよ。ええ、
そのとたん一同の視線が、おりから湯上りの為十郎に注がれたが、その老人は、軽く
「わっしが、
「なあ、私が双生児なんですって。でももっとも、いま小六さんの前を通ったのは、私だけなんですけど······」
と逢痴は、こころもち臆したようであったが、それは何もかも、女になりきった、恥らいのようにも見えた。
彼は法水に気づいて、静かに会釈したが、
「ですけど先生、いったい小六さんは、自分から首を
と逢痴が、ズバリと云いきったのは、この場合けっして不自然な質問ではなかった。
と云うのは、小六の襟首に、一つ
しかし、一方小六を、どんなにか
法水も、困りきったような顔をして、
「なるほど、豊竹屋の云うとおりなんだよ。現に、ステイフェンの『
と小六が、昏々と眠りはじめたのを見ると、彼は儀右衛門の耳に口を寄せた。
「自分が、首を縊らねばならぬ原因も云われないし、また、加害者の名も口に出せないとしたら、この一座の
ところで、参考のために、僕がどうして、この老人の縊首を発見したか、説明しておこう。
これは、簡単な波動の原理なんだが、例えば、池に二つ石を投げ込むと、同じように波紋を起すだろう。ところが、その中間に、より大きな石を投げ入れると、もしその波紋の方向が、同じな場合には、前の二つが消えてしまうんだよ。つまり、この二つの
事実、一座には、刻々と高まってゆくような、妙に不安定な空気があった。それを、法水は仄かに感じただけで、その日は、ほどなく戻ってしまった。
けれども、この日の出来事は、儀右衛門にとると、彼が築き上げた、あらゆる仮説の顛覆を意味するのである。
もし、小六の云うのが真実だったとして、夷岐戸島の
しかし、何より儀右衛門を、絶望の淵深くに叩き込んだのは、いよいよ小六によって、逢痴が双体畸形の片割れだというばかりでなく、胸と胸とが癒着している、いわゆる
そうなると、逢痴に対する愛着が、まったく厭わしいものになってしまって、再び彼は、昏迷の泥沼へ深く沈みゆくのであった。
それは、往々に壮年者が見る、忌わしい艶夢のようなものであった。と云うのは、近頃ことに親しい久米八と逢痴の間を考えると、時として彼の眼前に、異様な白昼夢が出現するのだった。
一人の女と一人の
そうでなくてさえ儀右衛門は、そうと知ってからというもの、双体畸形特有の、
それは、永劫に解けぬ循環論であった。
双体畸形の二人は、一人でも二人でもなく、生命は二つのようでもあるが必ずしもそうではない。
そうなると、時計の振幅がだんだんに狭められてゆくように、逢痴に対する愛着も、つまるところは、自分自身を恋するように思われてきた。そして、はては四次元が三次元に、また二次元にと、ついには外界のすべてが、自分自身の中へ沈潜してゆくのではないかと、
しかし、それは明らかに、狂気の前兆である。
儀右衛門は、その危険な囁きから遁れようとして、最初の夜のことを想い出した。そして、何より一応は、現場の瀬踏みをしなくてはならぬと考えた。
と云うのは、あの時小六と逢痴との間は、
しかし、今度は案に相違して、その玻璃房は、二重屈折の三稜鏡だった。
したがって逢痴の姿が、二重に映ろう道理とてはないのである。
こうして、否定と肯定とが背中合せして、紛乱の渦が、いよいよ波紋を拡げているうちに、いよいよこの一座は、「四谷怪談」をひっさげ東都初登場となった。そして、河原崎座の初日に当って、まったく無残絵か因果絵でなくては見ることのできない、血みどろの悲劇が捲き起されたのであった。
大南北の「東海道四谷怪談」を、原本どおり演出するというので、たださえ狭苦しい場末の河原崎座は、割れんばかりの大入だった。
狂言
その二幕目伊右衛門の浪宅、いわゆる髪
お岩は逢痴、宅悦は小六。舞台は、
お岩 ヤヤ着物の色合、つむりの様子。こりゃ、これ、ほんまに
と髪は解け、垢じみた肌襦袢に包まれて、全身から放っていそうな、異様な臭いを振り
それは、おどろ
そして、宅悦との応答があって、髪梳き道具が持ち出されると、お岩は櫛を手に取り、思い入れよろしくの後に、
お岩 母の
そうして、櫛で
そこからはまるで、絹ででも
やがては、水に拡がる油のよう、一筋二筋と糸を引きはじめ、
ばらりと抜けた一つかみの毛を、両手に握りしめて、恨めしげにキュッと
お岩 今をも知れぬこの岩が、死なばまさしく、その娘。祝言さするは、これ
と、月と
ところが、そうした陰惨な色どりが、未だに消えぬ観客の耳に、つんざくような叫喚が、幕の背後から聴えてきた。
それは、衝立の蔭で、夷岐戸島唯一の生残者と目され、先には不可解な縊死を見せた宅悦の小六が、今度こそは、白眼を剥き出し手足を縮めて、それはあえなくも息が絶えていたからであった。
この意外な突発事件は、その日の興行を、髪梳き場だけで中止させてしまった。
そして、観衆が立ち去った後は、広い空間を、侘びしげな空気が揺れていてその中に、二、三蟻のように
それが、法水のほか、四、五人の検屍官一行だったのである。
ところが、不審なことには、屍体にはどこぞといい、他殺の痕跡がないのだった。中毒と覚しい痕もなければ、皺の深みに隠れている、針先ほどの傷もなく、両眼も

そこで検屍官は、小六の屍体に自然死を推定した。
「ところで法水さん、聴けばこの一座では、『四谷怪談』がかつて一度も、上演されたことがないと云うじゃありませんか。そこに、この老人の
法水は、検屍官の言を聴くともなく、傍らにあった、お岩の半面
それは、右眼の下のところまで被さるもので、
つまり、そこに髪梳きの、技巧があるというわけだが···その時は
法水は、その
「なるほど、
と、かたわらの床から、取り上げたものを見て、一同は少なからず驚かされた。
それは、お岩の変貌を写す鏡で、今どきとうてい見ることのできない、古風な長柄の鉄鏡だった。そして、裏面には、
ところが、法水に表を返されて、一同はあっと叫んだ。
と云うのは、その鏡面に、薄く滲み出たかのごとく、紅で、五本の指痕が印されてあったからである。
「ところで、こういう昔の鉄鏡に、一種不思議な現象があるのを、御存知でしょうか。それは、表面何事もない鏡でも、一度光を当てると、なんともいえない不思議な模様が、前方に映ることです。しかし、その正体というのは、鏡の裏面にある浮彫りなんですよ。それは、最初鏡を磨く際に、模様のある低い部分が、一端は
そう云って、いちいち法水は、座員の顔を見渡していたが、誰もかも、凍り付いたように血の気を失っていた。
と云うのは、もはや贅言を費やすまでもなく、それは、はっきりとあの魔の衣裳||いつぞや儀右衛門に示されたところの、人魚の
その意外な出現が、小六に衝撃を与え、彼の心動を止めたに相違ないのであるが、そうなると、その指痕の主は何者であるか、疑問はそこに残されてしまった。しかも、それには一つの特徴があって、右手であるばかりか、食指と無名指とがほとんど同じ高さであり、
しかし、それから座員を去らしめて綿密な調査を行なったのだが、ついにそれが逢痴に決定されてしまった。
「ところで友田屋」
法水は帰りがけに、儀右衛門を訪ねて、
「むろん、僕の推断を刑法的に見たら、おそらく、なんの価値もあるまいがね。しかし、あながち夢想でもないのだよ。と云うのは、小道具掛りの中に、たしか今里銀五郎とかいった、
その夜、儀右衛門には怖ろしい夜が訪れた。
と云うのは、この事件を機会にして、再び、彼を悩ましつづける、神経の
それは、また例の
それでなくてさえも、近頃は頻々と白昼夢を経験したり、時折はまた、
ところが、その翌日、前夜のうち逢痴に対する令状が発行されたとみえ、
いまや舞台は、三幕目砂村
伊右衛門 よしなき秋山うせたばっかり、口ふさぎに大事の墨附、あいつに渡してこの身の旧悪。ハテ要らざるところへうせずとよいに南無三暮れたな。どりゃ、竿を上げようか。
しかし、伊右衛門は、まだ未練げに、
時刻も
すると、おどろ
端には
伊右衛門思わず仰天して、
やや、覚えの杉戸は。
と、戸板にかかった針先をとろうとし、つるりと滑った途端に、
しかしその時、観客の
と云うのは、なんとそのお岩が後向きであって、ただ守り袋をさしつける人形の作り手のみが、ひょいと不器用な、動きかたをしたにすぎなかった。
伊右衛門 まだ浮ばぬな。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。このまま川へ突出したら、
と、戸板を蹴ると、今度は裏に返り、藻をばらりと被った
その瞬間儀右衛門は、全身の血が、まるで逆流せんばかりの思い、いまや一身に、世界中の嘲りをうけているような気がした。
と云うのは、
しかし、儀右衛門は気力を振い起して、
伊右衛門 またも死霊の。
と、抜打ちに死骸に切りつけると、大ドロあって、
けれども、その時儀右衛門は、塑像のように動かなくなり、釣竿を腕に支えたまま
もはや彼は、奔馬のような脈を感じ、錯覚さえも生じて、蘆も土橋も水も何もかも、キラキラした、
しかし、そのうち水門が開かれて、滝流しの
ところが、そのだんまりの真最中、板戸が進み行くにつれて、なにか金色に輝いた脂肪のようなものが、水面をじわりじわりと拡がって行くのだった。そうして花道を行く間に、だんだんと右に傾いて行き、ようやく切幕の下に達したとき周囲の観客はつんざくような叫び声を上げた。
見ると、戸板がくるりと返って、そこには、お岩の衣裳を着、
こうして、観衆の真唯中で、小六殺しの推定犯人逢痴は、無残な死体を
死体には一面に太い
しかし、こうして死に、硬くなって、永久動くことのない身体のいろいろな部分が、法水の眼には、異常な意味を持ってきた。彼は何度となく水中を透し見たり、浮んでいる作り藻を絞ったりしていたが、そうして滴り落ちる蒼黒い水に、明らかな失望の色を
彼は、傍らの儀右衛門を振り向いて、
「どうだね友田屋、君は気がつかんかね。こりゃ、とてもひどい出血なんだぜ。ところが、浮いているのは、血漿や脂肪だけで、肝腎
そうして、
しかし、水中に出血がないという事は、一方において、殺人現場を舞台以外に局限してしまった。そうなると、当然裏向きお岩の疑問が起ってきて、幸いだんまりの場面の暗さを機に、あれが誰かの一人三役ではないかとの疑いも起ってくるのだった。
しかし、そうしているうちに、舞台裏の調査が終って、実に驚くべき、報告がもたらされてきた。
と云うのは、座内を隅々まで探したのだったが、一滴の血さえ発見されないばかりでなく、誰しもが、格闘の物音も聴かずと云い、ただ逢痴の部屋から平素使う
そうなってみると、出血の失踪は、実に驚嘆すべき奇跡となり、早くも法水の顔には、ただならぬ困惑の色が現われた。
したがって奈落の調査が、
この座の奈落には、小芝居特有の色が現われていて、天井の低い、すべてが、だんだんと朽ちて行く、骨のように
そして、白っちゃけた壁や、中央にある
しかし、法水は、そこにいる村次郎の口から、戸板返しの技巧を聴くことができた。
「つまりなんでさあ、本水口に使うのと、お岩を入れるのと、杉戸が二枚いるんですよ。そして、最初は下手の方から、菰を被せたのを流して来るんですが、さて伊右衛門の前に来ると、それを浪幕の陰から、手際よく引っ張り込むんです。そして今度は、役者の入っている方を、みんなでかつぎ上げて、きっかけと同時に、ぬうと突き出すという寸法なんですよ。ところが御覧のとおり、浪幕があるものですから、奈落はせいぜい二燭の電球ぐらいで、人の顔なんぞ、てんで見分けがつくもんですか。つまり、そんな具合で、間の悪い時だと、杉戸の
「なに、逢痴の台詞を聴いたって||」
法水は、その一度ですっかり顔色を失ってしまった。
「そうですとも、聴いたのはわっしばかりじゃねえ、みんながそうでさあ。なあ、銀五郎||」
と傍らにいる、顔中傷だらけの小道具方を見て、村次郎は同意を求めるように云った。
「なにしろ、最初本づりのきっかけで、入って来たのも、豊竹屋なんですよ。それからわっしらが、総掛りで
村次郎は、咽喉をゴクゴク鳴らせて、息を出すのも、苦しげになってきた。
しかし、そうしてこの事件は、紛糾混乱の絶頂にせり上ってしまったのである。
現在眼の前には、二枚の杉戸が立てかけられているのだけれど、それとて一様に、小仏小平の衣裳がなく、同じように水に濡れていて、しかもその衣装は、眼前の床に投げ捨てられているではないか。すると、もっとも合理的な解釈が、不可能になってしまって、犯人は暗さに乗じ、お岩・小平・与茂七と、三段早変りを
と、そうも思われたけれども、何より
そして、裏向きお岩の謎は、遠く遠く雲層の彼方に没し去ってしまったのである。
ところが、その翌日、法水が河原崎座を訪れた時は、ちょうど四幕目の終り、これから「蛇山の庵室」に、かかろうとする際のことであった。
儀右衛門は、法水の顔を見ると、
「実は先生、ゆうべ一晩で、わっしは十年も、年
法水は、しばらく口を
「だが友田屋、それを僕に云わせると、けっして弟殺しとは云えないのだよ。実は、今朝の解剖で、僕は動かせぬ確証を掴んできた。逢痴には、
その瞬間、儀右衛門は化石したようになって、それは永いこと、姿勢を改めなかったのである。しかし、法水は静かに言葉を次いだ。
「いつぞや、君に里虹が失踪した時刻を、訊ねたことがあったっけね。すると君は、風が止んだのが午前三時で、騒ぎ出したのは、たしか六時十五分前頃でしょう||と云った。しかし、後で調べてみると、風が止んだ時刻は、すでに五時近かった。そこで僕は、その偽りが、何に原因しているのか考えはじめたのだが、ふと思いついたのは、三時も五時四十五分も、それぞれ時計の盤面では、直角をなしていてしかもそれが、正午の十二時を軸に廻転しているという事だ。ねえ友田屋、類似聯想たるや、実に正確な
と、そこで言葉を截ち切って、法水はやや顔色を和らげた。
「しかし、君にしても、おめおめ僕の手を待つとも思われないし、この事件の落着を見ないで死ぬのは、いかにも残念にちがいない。だが、それより何より、はじめての『四谷怪談』を、さぞ君は、終りまで勤めたいだろうね。よろしい。僕は舞台の上で、君に、犯人の声を聴かせてやることにしよう」
そうして儀右衛門が、いよいよ最後の一頁を飾る、劇的な演技がはじまった。
眼は血走り、息は
しかし、その頃奈落の中で、法水は、六人を前に何事かを語っていた。
「あるいは君たちの中で、前の座頭の里虹を、知らない者があるかも知れない。けれども、そのむかし里虹と小六とが、或る事情からルソン島へ行かねばならなかったことがあるのだ。その時、クイロスという生理学者が、二人の嬰児に、血液循環の実験をしたのだ。それは、片側の静脈を切って、そこに塩化鉄を置き、反対側の静脈には、フェロシアン・カリウムを注射するのだ。すると、二十何秒か経って、その血液が一順したとき、塩化鉄が溶けて真青な色に変るのだよ。つまり、あの時の逢痴が、意識朦朧としていたというのも、結局は常用の沃度と、フェロシアン加里を
すると、一同の視線が、思わず仮髪師の為十郎に注がれたが、法水の言はたちまちに、その臆測を粉砕してしまった。
「ところが、そうして小六を
そうして、犯人の所在は局限されたが、ここで再び、形勢は逆転してしまった。村次郎に口を押えられた為十郎だけが、一人安全圏内に止まることになった。しかし、そうしているうちに演技は進んで、すでに蛇山の庵室も終りに近く、伊右衛門が父源四郎に勘当をうけるところで、
伊右衛門 昔気質の偏屈
と思い入れのところに、いきなり下の奈落から、声高に叫んだものがあった。
呆れたとは
それは、有名な伊右衛門の
法水は、それを聴くと同時に、一目散に奈落へ駆けつけたが、扉際でチラリと為十郎の姿を見たかと思うと、
この事件の悪鬼は、死所を奈落に択んで、多量の青酸を
しかし、村次郎はじめ一座の者は、しばらく放心したように立ち
「僕は、何よりも先に、悪鬼の再生を告げなけりゃならんよ。里虹は、儀右衛門のために、昇汞で殺されたかと見えたが、そのじつ為十郎となって、未だに生きていたのだ。
と云うのは、阿片食も病い
しかし、その正体は、ついに小六のために、発見されてしまった。
と云うのは、あの男が
つまり、例のプルキンエ現象というやつだね。
それから、云いもせぬ逢痴の台詞が、どうして聴えて来たかということは、少しでも里虹を知る者には、それが得意の、
と、この事件の
そして、それを手に持ったとき、天上の切穴から、一筋の血糊が、すうっと糸を引いて落ちた||ああ儀右衛門もか。
しかし、血を血で打ち返す極悪伊右衛門の再生こそ、真実里虹にほかならないであろう。まことに彼は、首は飛んでも、動いて見せたのであるから。