間もなく軍隊に入る。戦争に行く、そして山とは永久にお別れになる||。こうした残り少ない山生活が、なおどれだけの情熱に値するか?
大東亜戦争の始まる頃から、この懐疑は不断にまつわりついて、山へ出かける時にも、山を歩く時にも私を離れなかった。自分の幸福、他の者の幸福||他の者の幸福に基づく自分の幸福······。
軍隊に入る時は、よもや二度と生きて山を歩けるとは思わなかった。それはまた一つの慰めでもあった。自分自身で決断し切れなかった問題を、境遇の変化が強制的に解決してくれることになったから。忙しい軍隊生活の中では、山を思い返す暇はなかった。ほんの断片的な山の印象、山の匂いとか、山の風とか、霜融けの温まりとか、そうしたものはしばしば強烈に甦ってくることもあったが、登攀を回顧させるほど特別なものではなかった。
そうして次第に山を忘れていった。否、忘れたと思っていた。二カ年の南方生活の問はとくにそうであった。
復員したのがこの七月、帰って見れば親父が死んでいつの間にか一家の長となっている。その跡片づけの煩雑さ、忙しさは目の廻るようだった。それでも菜園の手入れをしている時など、木蔭を渡る風のささやきに、ふと、山を想い出すこともあったが、現在の社会情勢からして、家の事情からしても、到底山へは行けるとも思えなかった。今度こそ真から山を諦め、忘れることができると信じていた。そしてそうするように、無意識的な努力をしていた。山の本など倉の奥へしまい込んで。
ある日、私は隣村に通ずる橋を渡って、伯父の家へ急いでいた。今まで貸していた土地の問題について伯父の知恵を借りるために。もう夕暮近くなって、涼しい風が田の面を渡っていた。稲の青い穂が波打って、秋が近づいていた。田園の果に、
「山へ行きたい」、「穂高へ行きたい」。もう用件も何もあったものではない。すぐ家へ帰って、ルックを詰めて······。よほどのこと、私はそうしようかと思った。
だが母の顔、伯父の顔、弟や妹のこと等を思い浮かべると、そうすることはできなかった。
「俺は今山を想っているのではない。自分のかつて山で過した楽しかった日を懐しんでいるのだ。それに違いない、それに過ぎないのだ······」そう思って自分を見詰め返して見た。そしていくぶん落ちつきを取りもどした。
「自分は山を離れなくてはいけない。いつまでも山に執着することは自分を幸福にする途ではない」その後も、しばしばこうした事は起こった。しかしそのつどそれは抑えつけ、そして抑え付けることもできた。自分の本当の幸福ということのために······。だがこうして諦められると思った山が、
(昭和二十一年十二月二十五日)