「ではみなさんは、そういうふうに川だと
言われたり、
乳の
流れたあとだと
言われたりしていた、このぼんやりと白いものがほんとうは何かご
承知ですか」先生は、
黒板につるした大きな黒い
星座の図の、上から下へ白くけぶった
銀河帯のようなところを
指しながら、みんなに
問いをかけました。
カムパネルラが手をあげました。それから四、五人手をあげました。ジョバンニも手をあげようとして、
急いでそのままやめました。たしかにあれがみんな星だと、いつか
雑誌で読んだのでしたが、このごろはジョバンニはまるで毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという
気持ちがするのでした。
ところが先生は早くもそれを見つけたのでした。
「ジョバンニさん。あなたはわかっているのでしょう」
ジョバンニは
勢いよく立ちあがりましたが、立ってみるともうはっきりとそれを答えることができないのでした。ザネリが前の
席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。先生がまた
言いました。
「大きな
望遠鏡で
銀河をよっく
調べると
銀河はだいたい何でしょう」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんどもすぐに答えることができませんでした。
先生はしばらく
困ったようすでしたが、
眼をカムパネルラの方へ
向けて、
「ではカムパネルラさん」と
名指しました。
するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上がったままやはり答えができませんでした。
先生は
意外なようにしばらくじっとカムパネルラを見ていましたが、
急いで、
「では、よし」と
言いながら、自分で星図を
指しました。
「このぼんやりと白い
銀河を大きないい
望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう」
ジョバンニはまっ
赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの
眼のなかには
涙がいっぱいになりました。そうだ
僕は知っていたのだ、もちろんカムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの
博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ
雑誌のなかにあったのだ。それどこでなくカムパネルラは、その
雑誌を読むと、すぐお父さんの
書斎から
巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な
頁いっぱいに白に
点々のある
美しい
写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが
忘れるはずもなかったのに、すぐに
返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午後にも
仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき
遊ばず、カムパネルラともあんまり物を
言わないようになったので、カムパネルラがそれを知ってきのどくがってわざと
返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。
先生はまた
言いました。
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの
砂や
砂利の
粒にもあたるわけです。またこれを
巨きな
乳の
流れと考えるなら、もっと天の川とよく
似ています。つまりその星はみな、
乳のなかにまるで
細かにうかんでいる
脂油の
球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと
言いますと、それは
真空という光をある
速さで
伝えるもので、
太陽や
地球もやっぱりそのなかに
浮かんでいるのです。つまりは
私どもも天の川の水のなかに
棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の
底の
深く遠いところほど星がたくさん集まって見え、したがって白くぼんやり見えるのです。この
模型をごらんなさい」
先生は中にたくさん光る
砂のつぶのはいった大きな
両面の
凸レンズを
指しました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな
私どもの
太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの
太陽がこのほぼ中ごろにあって
地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが
薄いのでわずかの光る
粒すなわち星しか見えないでしょう。こっちやこっちの方はガラスが
厚いので、光る
粒すなわち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるという、これがつまり今日の
銀河の
説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、またその中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この
次の理科の時間にお話します。では今日はその
銀河のお
祭りなのですから、みなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい」
そして教室じゅうはしばらく
机の
蓋をあけたりしめたり本を
重ねたりする音がいっぱいでしたが、まもなくみんなはきちんと立って
礼をすると教室を出ました。
ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七、八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして
校庭の
隅の
桜の木のところに
集まっていました。それはこんやの
星祭りに青いあかりをこしらえて川へ
流す
烏瓜を
取りに行く
相談らしかったのです。
けれどもジョバンニは手を大きく
振ってどしどし学校の
門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの
銀河の
祭りにいちいの
葉の
玉をつるしたり、ひのきの
枝にあかりをつけたり、いろいろしたくをしているのでした。
家へは帰らずジョバンニが町を三つ
曲がってある大きな
活版所にはいって
靴をぬいで上がりますと、
突き当たりの大きな
扉をあけました。中にはまだ
昼なのに
電燈がついて、たくさんの
輪転機がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん
働いておりました。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い
卓子にすわった人の
所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく
棚をさがしてから、
「これだけ
拾って行けるかね」と
言いながら、一枚の紙切れを
渡しました。ジョバンニはその人の
卓子の足もとから一つの小さな
平たい
函をとりだして
向こうの
電燈のたくさんついた、たてかけてある
壁の
隅の
所へしゃがみ
込むと、小さなピンセットでまるで
粟粒ぐらいの
活字を
次から
次へと
拾いはじめました。青い
胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、
「よう、虫めがね
君、お早う」と
言いますと、近くの四、五人の人たちが声もたてずこっちも
向かずに
冷たくわらいました。
ジョバンニは何べんも
眼をぬぐいながら
活字をだんだんひろいました。
六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは
拾った
活字をいっぱいに入れた
平たい
箱をもういちど手にもった紙きれと引き合わせてから、さっきの
卓子の人へ
持って来ました。その人は
黙ってそれを
受け
取ってかすかにうなずきました。
ジョバンニはおじぎをすると
扉をあけて計算台のところに来ました。すると
白服を
着た人がやっぱりだまって小さな
銀貨を一つジョバンニに
渡しました。ジョバンニはにわかに顔いろがよくなって
威勢よくおじぎをすると、台の下に
置いた
鞄をもっておもてへ
飛びだしました。それから元気よく
口笛を
吹きながらパン
屋へ
寄ってパンの
塊を一つと
角砂糖を一
袋買いますといちもくさんに走りだしました。
ジョバンニが
勢いよく帰って来たのは、ある
裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口のいちばん
左側には
空箱に
紫いろのケールやアスパラガスが
植えてあって小さな二つの
窓には
日覆いがおりたままになっていました。
「お母さん、いま帰ったよ。ぐあい
悪くなかったの」ジョバンニは
靴をぬぎながら言いました。
「ああ、ジョバンニ、お
仕事がひどかったろう。
今日は
涼しくてね。わたしはずうっとぐあいがいいよ」
ジョバンニは
玄関を上がって行きますとジョバンニのお母さんがすぐ入口の
室に白い
巾をかぶって
寝んでいたのでした。ジョバンニは
窓をあけました。
「お母さん、今日は
角砂糖を買ってきたよ。
牛乳に入れてあげようと思って」
「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから」
「お母さん。
姉さんはいつ帰ったの」
「ああ、三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね」
「お母さんの
牛乳は来ていないんだろうか」
「来なかったろうかねえ」
「ぼく行ってとって来よう」
「ああ、あたしはゆっくりでいいんだからお前さきにおあがり、
姉さんがね、トマトで何かこしらえてそこへ
置いて行ったよ」
「ではぼくたべよう」
ジョバンニは
[#「 ジョバンニは」は底本では「「ジョバンニは」]窓のところからトマトの
皿をとってパンといっしょにしばらくむしゃむしゃたべました。
「ねえお母さん。ぼくお父さんはきっとまもなく帰ってくると思うよ」
「ああ、あたしもそう思う。けれどもおまえはどうしてそう思うの」
「だって
今朝の新聞に今年は北の方の
漁はたいへんよかったと書いてあったよ」
「ああだけどねえ、お父さんは
漁へ出ていないかもしれない」
「きっと出ているよ。お父さんが
監獄へはいるようなそんな
悪いことをしたはずがないんだ。この前お父さんが持ってきて学校へ
寄贈した
巨きな
蟹の
甲らだのとなかいの
角だの今だってみんな
標本室にあるんだ。六年生なんか
授業のとき先生がかわるがわる教室へ
持って行くよ」
「お父さんはこの
次はおまえにラッコの
上着をもってくるといったねえ」
「みんながぼくにあうとそれを
言うよ。ひやかすように
言うんだ」
「おまえに
悪口を
言うの」
「うん、けれどもカムパネルラなんか
決して
言わない。カムパネルラはみんながそんなことを
言うときはきのどくそうにしているよ」
「カムパネルラのお父さんとうちのお父さんとは、ちょうどおまえたちのように小さいときからのお
友達だったそうだよ」
「ああだからお父さんはぼくをつれてカムパネルラのうちへもつれて行ったよ。あのころはよかったなあ。ぼくは学校から帰る
途中たびたびカムパネルラのうちに
寄った。カムパネルラのうちにはアルコールランプで走る汽車があったんだ。レールを七つ組み合わせるとまるくなってそれに
電柱や
信号標もついていて
信号標のあかりは汽車が通るときだけ青くなるようになっていたんだ。いつかアルコールがなくなったとき
石油をつかったら、
缶がすっかりすすけたよ」
「そうかねえ」
「いまも毎朝新聞をまわしに行くよ。けれどもいつでも家じゅうまだしいんとしているからな」
「早いからねえ」
「ザウエルという犬がいるよ。しっぽがまるで
箒のようだ。ぼくが行くと
鼻を鳴らしてついてくるよ。ずうっと町の
角までついてくる。もっとついてくることもあるよ。今夜はみんなで
烏瓜のあかりを川へながしに行くんだって。きっと犬もついて行くよ」
「そうだ。
今晩は
銀河のお
祭りだねえ」
「うん。ぼく
牛乳をとりながら見てくるよ」
「ああ行っておいで。川へははいらないでね」
「ああぼく
岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ」
「もっと
遊んでおいで。カムパネルラさんといっしょなら
心配はないから」
「ああきっといっしょだよ。お母さん、窓をしめておこうか」
「ああ、どうか。もう
涼しいからね」
ジョバンニは立って
窓をしめ、お
皿やパンの
袋をかたづけると
勢いよく
靴をはいて、
「では一時間
半で帰ってくるよ」と
言いながら
暗い
戸口を出ました。
ジョバンニは、
口笛を
吹いているようなさびしい口つきで、
檜のまっ黒にならんだ町の
坂をおりて来たのでした。
坂の下に大きな一つの
街燈が、青白く
立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん
電燈の方へおりて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの
影ぼうしは、だんだん
濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を
振ったり、ジョバンニの
横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは
立派な
機関車だ。ここは
勾配だから
速いぞ。ぼくはいまその
電燈を通り
越す。そうら、こんどはぼくの
影法師はコンパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た)
とジョバンニが思いながら、
大股にその
街燈の下を通り
過ぎたとき、いきなりひるまのザネリが、新しいえりのとがったシャツを
着て、
電燈の
向こう
側の
暗い
小路から出て来て、ひらっとジョバンニとすれちがいました。
「ザネリ、
烏瓜ながしに行くの」ジョバンニがまだそう
言ってしまわないうちに、
「ジョバンニ、お父さんから、ラッコの
上着が来るよ」その子が
投げつけるようにうしろから
叫びました。
ジョバンニは、ばっと
胸がつめたくなり、そこらじゅうきいんと鳴るように思いました。
「なんだい、ザネリ」とジョバンニは高く
叫び
返しましたが、もうザネリは
向こうのひばの
植わった家の中へはいっていました。
(ザネリはどうしてぼくがなんにもしないのにあんなことを
言うのだろう。走るときはまるで
鼠のようなくせに。ぼくがなんにもしないのにあんなことを
言うのはザネリがばかなからだ)
ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、さまざまの
灯や木の
枝で、すっかりきれいに
飾られた
街を通って行きました。
時計屋の店には明るくネオン
燈がついて、一
秒ごとに石でこさえたふくろうの赤い
眼が、くるっくるっとうごいたり、いろいろな
宝石が海のような色をした
厚い
硝子の
盤に
載って、星のようにゆっくり
循ったり、また
向こう
側から、
銅の人馬がゆっくりこっちへまわって来たりするのでした。そのまん中にまるい黒い
星座早見が青いアスパラガスの
葉で
飾ってありました。
ジョバンニはわれを
忘れて、その
星座の図に見入りました。
それはひる学校で見たあの図よりはずうっと小さかったのですが、その日と時間に合わせて
盤をまわすと、そのとき出ているそらがそのまま
楕円形のなかにめぐってあらわれるようになっており、やはりそのまん中には上から下へかけて
銀河がぼうとけむったような
帯になって、その下の方ではかすかに
爆発して
湯げでもあげているように見えるのでした。またそのうしろには三本の
脚のついた小さな
望遠鏡が黄いろに光って立っていましたし、いちばんうしろの
壁には空じゅうの
星座をふしぎな
獣や
蛇や魚や
瓶の形に書いた大きな
図がかかっていました。ほんとうにこんなような
蠍だの
勇士だのそらにぎっしりいるだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたいと思ってたりしてしばらくぼんやり立っていました。
それからにわかにお母さんの
牛乳のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。
そしてきゅうくつな
上着の
肩を気にしながら、それでもわざと
胸を
張って大きく手を
振って町を通って行きました。
空気は
澄みきって、まるで水のように通りや店の中を
流れましたし、
街燈はみなまっ青なもみや
楢の
枝で
包まれ、電気会社の前の六本のプラタナスの木などは、中にたくさんの
豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の
都のように見えるのでした。子どもらは、みんな新しい
折のついた
着物を
着て、星めぐりの
口笛を
吹いたり、
「ケンタウルス、
露をふらせ」と
叫んで走ったり、青いマグネシヤの花火を
燃したりして、たのしそうに
遊んでいるのでした。けれどもジョバンニは、いつかまた
深く
首をたれて、そこらのにぎやかさとはまるでちがったことを考えながら、
牛乳屋の方へ
急ぐのでした。
ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が
幾本も
幾本も、高く星ぞらに
浮かんでいるところに来ていました。その
牛乳屋の黒い
門をはいり、牛のにおいのするうすくらい
台所の前に立って、ジョバンニは
帽子をぬいで、
「
今晩は」と
言いましたら、家の中はしいんとして
誰もいたようではありませんでした。
「
今晩は、ごめんなさい」ジョバンニはまっすぐに立ってまた
叫びました。するとしばらくたってから、年とった女の人が、どこかぐあいが
悪いようにそろそろと出て来て、何か用かと口の中で
言いました。
「あの、今日、
牛乳が
僕※
[#小書き平仮名ん、183-7]とこへ来なかったので、もらいにあがったんです」ジョバンニが一生けん
命勢いよく
言いました。
「いま
誰もいないでわかりません。あしたにしてください」その人は赤い
眼の下のとこをこすりながら、ジョバンニを見おろして
言いました。
「おっかさんが
病気なんですから
今晩でないと
困るんです」
「ではもう少したってから来てください」その人はもう行ってしまいそうでした。
「そうですか。ではありがとう」ジョバンニは、お
辞儀をして
台所から出ました。
十字になった町のかどを、まがろうとしましたら、
向こうの
橋へ行く方の
雑貨店の前で、黒い
影やぼんやり白いシャツが入り
乱れて、六、七人の生徒らが、
口笛を
吹いたり
笑ったりして、めいめい
烏瓜の
燈火を
持ってやって
来るのを
見ました。その
笑い声も
口笛も、みんな聞きおぼえのあるものでした。ジョバンニの
同級の
子供らだったのです。ジョバンニは思わずどきっとして
戻ろうとしましたが、思い
直して、いっそう
勢いよくそっちへ歩いて行きました。
「川へ行くの」ジョバンニが
言おうとして、少しのどがつまったように思ったとき、
「ジョバンニ、ラッコの
上着が来るよ」さっきのザネリがまた
叫びました。
「ジョバンニ、ラッコの
上着が来るよ」すぐみんなが、
続いて
叫びました。ジョバンニはまっ赤になって、もう歩いているかもわからず、
急いで行きすぎようとしましたら、そのなかにカムパネルラがいたのです。カムパネルラはきのどくそうに、だまって少しわらって、おこらないだろうかというようにジョバンニの方を見ていました。
ジョバンニは、にげるようにその
眼を
避け、そしてカムパネルラのせいの高いかたちが
過ぎて行ってまもなく、みんなはてんでに
口笛を
吹きました。町かどを
曲がるとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかえって見ていました。そしてカムパネルラもまた、高く
口笛を
吹いて
向こうにぼんやり見える
橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。ジョバンニは、なんとも
言えずさびしくなって、いきなり走りだしました。すると耳に手をあてて、わあわあと
言いながら
片足でぴょんぴょん
跳んでいた小さな
子供らは、ジョバンニがおもしろくてかけるのだと思って、わあいと
叫びました。
まもなくジョバンニは走りだして黒い
丘の方へ
急ぎました。
牧場のうしろはゆるい
丘になって、その黒い
平らな
頂上は、北の
大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも
低く、
連なって見えました。
ジョバンニは、もう
露の
降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。まっくらな草や、いろいろな形に見えるやぶのしげみの間を、その小さなみちが、一すじ白く星あかりに
照らしだされてあったのです。草の中には、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、ある
葉は青くすかし出され、ジョバンニは、さっきみんなの
持って行った
烏瓜のあかりのようだとも思いました。
そのまっ黒な、
松や
楢の林を
越えると、にわかにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ
亙っているのが見え、また
頂の、
天気輪の
柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、
夢の中からでもかおりだしたというように
咲き、鳥が一
疋、
丘の上を鳴き
続けながら通って行きました。
ジョバンニは、
頂の
天気輪の
柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に
投げました。
町の
灯は、
暗の中をまるで海の
底のお
宮のけしきのようにともり、
子供らの歌う声や
口笛、きれぎれの
叫び声もかすかに聞こえて来るのでした。風が遠くで鳴り、
丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの
汗でぬれたシャツもつめたく
冷やされました。
野原から汽車の音が聞こえてきました。その小さな
列車の
窓は
一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの
旅人が、
苹果をむいたり、わらったり、いろいろなふうにしていると考えますと、ジョバンニは、もうなんとも
言えずかなしくなって、また
眼をそらに
挙げました。
(この間原稿五枚分なし)
ところがいくら見ていても、そのそらは、ひる先生の
言ったような、がらんとした
冷たいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や
牧場やらある
野原のように考えられてしかたなかったのです。そしてジョバンニは青い
琴の星が、三つにも四つにもなって、ちらちらまたたき、
脚が何べんも出たり引っ
込んだりして、とうとう
蕈のように長く
延びるのを見ました。またすぐ
眼の下のまちまでが、やっぱりぼんやりしたたくさんの星の
集まりか一つの大きなけむりかのように見えるように思いました。
そしてジョバンニはすぐうしろの
天気輪の
柱がいつかぼんやりした
三角標の形になって、しばらく
蛍のように、ぺかぺか
消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、
濃い
鋼青のそらの野原にたちました。いま新しく
灼いたばかりの青い
鋼の
板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
するとどこかで、ふしぎな声が、
銀河ステーション、
銀河ステーションと
言う声がしたと思うと、いきなり
眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで
億万の
蛍烏賊の火を一ぺんに
化石させて、そらじゅうに
沈めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと
穫れないふりをして、かくしておいた
金剛石を、
誰かがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、
眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも
眼をこすってしまいました。
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの
乗っている小さな
列車が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の
軽便鉄道の、小さな黄いろの
電燈のならんだ車室に、
窓から外を見ながらすわっていたのです。車室の中は、青い
天鵞絨を
張った
腰掛けが、まるでがらあきで、
向こうの
鼠いろのワニスを
塗った
壁には、
真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。
すぐ前の
席に、ぬれたようにまっ黒な
上着を着た、せいの高い
子供が、窓から頭を出して外を見ているのに気がつきました。そしてそのこどもの
肩のあたりが、どうも見たことのあるような気がして、そう思うと、もうどうしても
誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。いきなりこっちも
窓から顔を出そうとしたとき、にわかにその
子供が頭を引っ
込めて、こっちを見ました。
それはカムパネルラだったのです。ジョバンニが、
カムパネルラ、きみは前からここにいたの、と
言おうと思ったとき、カムパネルラが、
「みんなはね、ずいぶん走ったけれども
遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども
追いつかなかった」と
言いました。
ジョバンニは、
(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出かけたのだ)とおもいながら、
「どこかで
待っていようか」と
言いました。するとカムパネルラは、
「ザネリはもう帰ったよ。お父さんが
迎いにきたんだ」
カムパネルラは、なぜかそう
言いながら、少し顔いろが青ざめて、どこか
苦しいというふうでした。するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か
忘れたものがあるというような、おかしな
気持ちがしてだまってしまいました。
ところがカムパネルラは、
窓から外をのぞきながら、もうすっかり元気が
直って、
勢いよく
言いました。
「ああしまった。ぼく、
水筒を
忘れてきた。スケッチ
帳も
忘れてきた。けれどかまわない。もうじき白鳥の
停車場だから。ぼく、白鳥を見るなら、ほんとうにすきだ。川の遠くを
飛んでいたって、ぼくはきっと見える」
そして、カムパネルラは、まるい
板のようになった
地図を、しきりにぐるぐるまわして見ていました。まったく、その中に、白くあらわされた天の川の左の
岸に
沿って一
条の
鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の
立派なことは、夜のようにまっ黒な
盤の上に、一々の
停車場や
三角標、
泉水や森が、青や
橙や
緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。
ジョバンニはなんだかその地図をどこかで見たようにおもいました。
「この
地図はどこで買ったの。
黒曜石でできてるねえ」
ジョバンニが
言いました。
「
銀河ステーションで、もらったんだ。
君もらわなかったの」
「ああ、ぼく
銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちのいるとこ、ここだろう」
ジョバンニは、白鳥と書いてある
停車場のしるしの、すぐ北を
指しました。
「そうだ。おや、あの
河原は月夜だろうか」そっちを見ますと、青白く光る
銀河の
岸に、
銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、
波を立てているのでした。
「月夜でないよ。
銀河だから光るんだよ」ジョバンニは
言いながら、まるではね上がりたいくらい
愉快になって、足をこつこつ鳴らし、
窓から顔を出して、高く高く星めぐりの
口笛を
吹きながら一生けん
命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも
水素よりもすきとおって、ときどき
眼のかげんか、ちらちら
紫いろのこまかな
波をたてたり、
虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん
流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、
燐光の
三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは
橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは
三角形、あるいは
四辺形、あるいは
電や
鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに
振りました。するとほんとうに、そのきれいな
野原じゅうの青や
橙や、いろいろかがやく
三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり
顫えたりしました。
「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た」ジョバンニは
言いました。
「それに、この汽車
石炭をたいていないねえ」ジョバンニが左手をつき出して
窓から前の方を見ながら
言いました。
「アルコールか電気だろう」カムパネルラが
言いました。
するとちょうど、それに
返事するように、どこか遠くの遠くのもやのもやの中から、セロのようなごうごうした声がきこえて来ました。
「ここの汽車は、スティームや電気でうごいていない。ただうごくようにきまっているからうごいているのだ。ごとごと音をたてていると、そうおまえたちは思っているけれども、それはいままで音をたてる汽車にばかりなれているためなのだ」
「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた」
「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた」
ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、
三角点の青じろい
微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行くのでした。
「ああ、りんどうの花が
咲いている。もうすっかり秋だねえ」カムパネルラが、
窓の外を
指さして
言いました。
線路のへりになったみじかい
芝草の中に、
月長石ででも
刻まれたような、すばらしい
紫のりんどうの花が
咲いていました。
「ぼく
飛びおりて、あいつをとって、また
飛び
乗ってみせようか」ジョバンニは
胸をおどらせて
言いました。
「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから」
カムパネルラが、そう
言ってしまうかしまわないうち、
次のりんどうの花が、いっぱいに光って
過ぎて行きました。
と思ったら、もう
次から
次から、たくさんのきいろな
底をもったりんどうの花のコップが、
湧くように、雨のように、
眼の前を通り、
三角標の
列は、けむるように
燃えるように、いよいよ光って立ったのです。
「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、せきこんで
言いました。
ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える
橙いろの
三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに
幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの
幸なんだろう」カムパネルラは、なんだか、
泣きだしたいのを、一生けん
命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの」ジョバンニはびっくりして
叫びました。
「ぼくわからない。けれども、
誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん
幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるしてくださると思う」カムパネルラは、なにかほんとうに
決心しているように見えました。
にわかに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、
金剛石や草の
露やあらゆる
立派さをあつめたような、きらびやかな
銀河の
河床の上を、水は声もなくかたちもなく
流れ、その
流れのまん中に、ぼうっと青白く
後光の
射した一つの
島が見えるのでした。その
島の
平らないただきに、
立派な
眼もさめるような、白い
十字架がたって、それはもう、
凍った
北極の雲で
鋳たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに
永久に立っているのでした。
「ハレルヤ、ハレルヤ」前からもうしろからも声が
起こりました。ふりかえって見ると、車室の中の
旅人たちは、みなまっすぐにきもののひだを
垂れ、黒いバイブルを
胸にあてたり、
水晶の
数珠をかけたり、どの人もつつましく
指を組み合わせて、そっちに
祈っているのでした。思わず
二人ともまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの
頬は、まるで
熟した
苹果のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。
そして
島と
十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。
向こう
岸も、青じろくぼうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその
銀いろがけむって、
息でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい
狐火のように思われました。
それもほんのちょっとの間、川と汽車との間は、すすきの
列でさえぎられ、白鳥の
島は、二
度ばかり、うしろの方に見えましたが、じきもうずうっと遠く小さく、
絵のようになってしまい、またすすきがざわざわ鳴って、とうとうすっかり見えなくなってしまいました。ジョバンニのうしろには、いつから
乗っていたのか、せいの高い、黒いかつぎをしたカトリックふうの
尼さんが、まんまるな
緑の
瞳を、じっとまっすぐに
落として、まだ何かことばか声かが、そっちから
伝わって来るのを、
虔んで聞いているというように見えました。
旅人たちはしずかに
席に
戻り、
二人も
胸いっぱいのかなしみに
似た新しい
気持ちを、何気なくちがった
語で、そっと
談し合ったのです。
「もうじき白鳥の
停車場だねえ」
「ああ、十一時かっきりには
着くんだよ」
早くも、シグナルの
緑の燈と、ぼんやり白い
柱とが、ちらっと
窓のそとを
過ぎ、それから
硫黄のほのおのようなくらいぼんやりした
転てつ
機の前のあかりが
窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、まもなくプラットホームの一
列の
電燈が、うつくしく
規則正しくあらわれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人はちょうど白鳥
停車場の、大きな
時計の前に来てとまりました。
さわやかな秋の
時計の
盤面には、青く
灼かれたはがねの二本の
針が、くっきり十一時を
指しました。みんなは、一ぺんにおりて、車室の中はがらんとなってしまいました。
〔二十分
停車〕と
時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも
降りて見ようか」ジョバンニが
言いました。
「
降りよう」
二人は一
度にはねあがってドアを
飛び出して
改札口へかけて行きました。ところが
改札口には、明るい
紫がかった
電燈が、一つ
点いているばかり、
誰もいませんでした。そこらじゅうを見ても、
駅長や
赤帽らしい人の、
影もなかったのです。
二人は、
停車場の前の、
水晶細工のように見える
銀杏の木に
囲まれた、小さな広場に出ました。
そこから
幅の広いみちが、まっすぐに
銀河の
青光の中へ通っていました。
さきに
降りた人たちは、もうどこへ行ったか
一人も見えませんでした。
二人がその白い道を、
肩をならべて行きますと、
二人の
影は、ちょうど四方に
窓のある
室の中の、二本の
柱の
影のように、また二つの
車輪の
輻のように
幾本も
幾本も四方へ出るのでした。そしてまもなく、あの汽車から見えたきれいな
河原に来ました。
カムパネルラは、そのきれいな
砂を一つまみ、
掌にひろげ、
指できしきしさせながら、
夢のように
言っているのでした。
「この
砂はみんな
水晶だ。中で小さな火が
燃えている」
「そうだ」どこでぼくは、そんなことを
習ったろうと思いながら、ジョバンニもぼんやり答えていました。
河原の
礫は、みんなすきとおって、たしかに
水晶や
黄玉や、またくしゃくしゃの
皺曲をあらわしたのや、また
稜から
霧のような青白い光を出す
鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその
渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその
銀河の水は、
水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに
流れていたことは、
二人の
手首の、水にひたったとこが、少し
水銀いろに
浮いたように見え、その
手首にぶっつかってできた
波は、うつくしい
燐光をあげて、ちらちらと
燃えるように見えたのでもわかりました。
川上の方を見ると、すすきのいっぱいにはえている
崖の下に、白い
岩が、まるで
運動場のように
平らに川に
沿って出ているのでした。そこに小さな五、六人の人かげが、何か
掘り出すか
埋めるかしているらしく、立ったりかがんだり、時々なにかの
道具が、ピカッと光ったりしました。
「行ってみよう」
二人は、まるで一
度に
叫んで、そっちの方へ走りました。その白い
岩になったところの入口に、〔プリオシン
海岸〕という、
瀬戸物のつるつるした
標札が立って、向こうの
渚には、ところどころ、
細い
鉄の
欄干も
植えられ、
木製のきれいなベンチも
置いてありました。
「おや、
変なものがあるよ」カムパネルラが、
不思議そうに立ちどまって、
岩から黒い
細長いさきのとがったくるみの
実のようなものをひろいました。
「くるみの
実だよ。そら、たくさんある。
流れて来たんじゃない。
岩の中にはいってるんだ」
「大きいね、このくるみ、
倍あるね。こいつはすこしもいたんでない」
「早くあすこへ行って見よう。きっと何か
掘ってるから」
二人は、ぎざぎざの黒いくるみの
実を
持ちながら、またさっきの方へ近よって行きました。左手の
渚には、
波がやさしい
稲妻のように
燃えて
寄せ、右手の
崖には、いちめん
銀や
貝殻でこさえたようなすすきの
穂がゆれたのです。
だんだん近づいて見ると、一人のせいの高い、ひどい
近眼鏡をかけ、
長靴をはいた
学者らしい人が、
手帳に何かせわしそうに書きつけながら、つるはしをふりあげたり、スコップをつかったりしている、三人の
助手らしい人たちに
夢中でいろいろ
指図をしていました。
「そこのその
突起をこわさないように、スコップを使いたまえ、スコップを。おっと、も少し遠くから
掘って。いけない、いけない、なぜそんな
乱暴をするんだ」
見ると、その白い
柔らかな
岩の中から、大きな大きな青じろい
獣の
骨が、横に
倒れてつぶれたというふうになって、
半分以上掘り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、
蹄の二つある
足跡のついた
岩が、
四角に十ばかり、きれいに切り取られて
番号がつけられてありました。
「君たちは
参観かね」その
大学士らしい人が、
眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみがたくさんあったろう。それはまあ、ざっと百二十
万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新しい方さ。ここは百二十
万年前、
第三紀のあとのころは
海岸でね、この下からは
貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり
塩水が
寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこ、つるはしはよしたまえ。ていねいに
鑿でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの
牛の
先祖で、
昔はたくさんいたのさ」
「
標本にするんですか」
「いや、
証明するに
要るんだ。ぼくらからみると、ここは
厚い
立派な
地層で、百二十
万年ぐらい前にできたという
証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな
地層に見えるかどうか、あるいは風か水や、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。けれども、おいおい、そこもスコップではいけない。そのすぐ下に
肋骨が
埋もれてるはずじゃないか」
大学士はあわてて走って行きました。
「もう時間だよ。行こう」カムパネルラが地図と
腕時計とをくらべながら
言いました。
「ああ、ではわたくしどもは
失礼いたします」ジョバンニは、ていねいに
大学士におじぎしました。
「そうですか。いや、さよなら」
大学士は、また
忙しそうに、あちこち歩きまわって
監督をはじめました。
二人は、その白い
岩の上を、一生けん
命汽車におくれないように走りました。そしてほんとうに、風のように走れたのです。
息も切れず
膝もあつくなりませんでした。
こんなにしてかけるなら、もう
世界じゅうだってかけれると、ジョバンニは思いました。
そして
二人は、前のあの
河原を通り、
改札口の
電燈がだんだん大きくなって、まもなく
二人は、もとの車室の
席にすわっていま行って来た方を、
窓から見ていました。
「ここへかけてもようございますか」
がさがさした、けれども親切そうな、
大人の声が、
二人のうしろで聞こえました。
それは、茶いろの少しぼろぼろの
外套を
着て、白い
巾でつつんだ
荷物を、二つに分けて
肩に
掛けた、
赤髯のせなかのかがんだ人でした。
「ええ、いいんです」ジョバンニは、少し
肩をすぼめてあいさつしました。その人は、ひげの中でかすかに
微笑いながら
荷物をゆっくり
網棚にのせました。ジョバンニは、なにかたいへんさびしいようなかなしいような気がして、だまって
正面の
時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、
硝子の
笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。カムパネルラは、車室の
天井を、あちこち見ていました。その一つのあかりに黒い
甲虫がとまって、その
影が大きく
天井にうつっていたのです。赤ひげの人は、なにかなつかしそうにわらいながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ていました。汽車はもうだんだん早くなって、すすきと川と、かわるがわる
窓の外から光りました。
赤ひげの人が、少しおずおずしながら、二人に
訊きました。
「あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか」
「どこまでも行くんです」ジョバンニは、少しきまり
悪そうに答えました。
「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ」
「あなたはどこへ行くんです」カムパネルラが、いきなり、
喧嘩のようにたずねましたので、ジョバンニは思わずわらいました。すると、
向こうの
席にいた、とがった
帽子をかぶり、大きな
鍵を
腰に下げた人も、ちらっとこっちを見てわらいましたので、カムパネルラも、つい顔を赤くして
笑いだしてしまいました。ところがその人は
別におこったでもなく、
頬をぴくぴくしながら
返事をしました。
「わっしはすぐそこで
降ります。わっしは、鳥をつかまえる
商売でね」
「何鳥ですか」
「
鶴や
雁です。さぎも白鳥もです」
「
鶴はたくさんいますか」
「いますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか」
「いいえ」
「いまでも聞こえるじゃありませんか。そら、耳をすまして
聴いてごらんなさい」
二人は
眼を
挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の
湧くような音が聞こえて来るのでした。
「
鶴、どうしてとるんですか」
「
鶴ですか、それとも
鷺ですか」
「
鷺です」ジョバンニは、どっちでもいいと思いながら答えました。
「そいつはな、
雑作ない。さぎというものは、みんな天の川の
砂が
凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして
始終川へ帰りますからね、川原で
待っていて、
鷺がみんな、
脚をこういうふうにしておりてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと
押えちまうんです。するともう
鷺は、かたまって
安心して
死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。
押し
葉にするだけです」
「
鷺を
押し
葉にするんですか。
標本ですか」
「
標本じゃありません。みんなたべるじゃありませんか」
「おかしいねえ」カムパネルラが
首をかしげました。
「おかしいも
不審もありませんや。そら」その男は立って、
網棚から
包みをおろして、手ばやくくるくると
解きました。
「さあ、ごらんなさい。いまとって来たばかりです」
「ほんとうに
鷺だねえ」
二人は思わず
叫びました。まっ白な、あのさっきの北の
十字架のように光る
鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い
脚をちぢめて、
浮彫りのようにならんでいたのです。
「
眼をつぶってるね」カムパネルラは、
指でそっと、
鷺の
三日月がたの白いつぶった
眼にさわりました。頭の上の
槍のような白い毛もちゃんとついていました。
「ね、そうでしょう」
鳥捕りは
風呂敷を
重ねて、またくるくると
包んで
紐でくくりました。
誰がいったいここらで
鷺なんぞたべるだろうとジョバンニは思いながら
訊きました。
「
鷺はおいしいんですか」
「ええ、毎日
注文があります。しかし
雁の方が、もっと売れます。
雁の方がずっと
柄がいいし、
第一手数がありませんからな。そら」
鳥捕りは、また
別の方の
包みを
解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる
雁が、ちょうどさっきの
鷺のように、くちばしをそろえて、少しひらべったくなって、ならんでいました。
「こっちはすぐたべられます。どうです、少しおあがりなさい」
鳥捕りは、黄いろの
雁の足を、
軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。
「どうです。すこしたべてごらんなさい」
鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっとたべてみて、
(なんだ、やっぱりこいつはお
菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな
雁が
飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の
菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお
菓子をたべているのは、たいへんきのどくだ)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。
「も少しおあがりなさい」
鳥捕りがまた
包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「ええ、ありがとう」といって
遠慮しましたら、
鳥捕りは、こんどは
向こうの
席の、
鍵をもった人に出しました。
「いや、
商売ものをもらっちゃすみませんな」その人は、
帽子をとりました。
「いいえ、どういたしまして。どうです、今年の
渡り
鳥の
景気は」
「いや、すてきなもんですよ。
一昨日の
第二限ころなんか、なぜ
燈台の
灯を、
規則以外に間(一時空白)させるかって、あっちからもこっちからも、電話で
故障が来ましたが、なあに、こっちがやるんじゃなくて、
渡り
鳥どもが、まっ黒にかたまって、あかしの前を通るのですからしかたありませんや、わたしぁ、べらぼうめ、そんな
苦情は、おれのとこへ
持って来たってしかたがねえや、ばさばさのマントを
着て
脚と口との
途方もなく
細い
大将へやれって、こう
言ってやりましたがね、はっは」
すすきがなくなったために、
向こうの野原から、ぱっとあかりが
射して来ました。
「
鷺の方はなぜ
手数なんですか」カムパネルラは、さっきから、
訊こうと思っていたのです。
「それはね、
鷺をたべるには」
鳥捕りは、こっちに
向き
直りました。「天の川の水あかりに、十日もつるしておくかね、そうでなけぁ、
砂に三、四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、
水銀がみんな
蒸発して、たべられるようになるよ」
「こいつは鳥じゃない。ただのお
菓子でしょう」やっぱりおなじことを考えていたとみえて、カムパネルラが、思い切ったというように、
尋ねました。
鳥捕りは、何かたいへんあわてたふうで、
「そうそう、ここで
降りなけぁ」と
言いながら、立って
荷物をとったと思うと、もう見えなくなっていました。
「どこへ行ったんだろう」
二人は顔を見合わせましたら、
燈台守は、にやにや
笑って、少し
伸びあがるようにしながら、二人の
横の
窓の外をのぞきました。
二人もそっちを見ましたら、たったいまの
鳥捕りが、黄いろと青じろの、うつくしい
燐光を出す、いちめんのかわらははこぐさの上に立って、まじめな顔をして
両手をひろげて、じっとそらを見ていたのです。
「あすこへ行ってる。ずいぶん
奇体だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな」と
言ったとたん、がらんとした
桔梗いろの空から、さっき見たような
鷺が、まるで雪の
降るように、ぎゃあぎゃあ
叫びながら、いっぱいに
舞いおりて来ました。するとあの
鳥捕りは、すっかり
注文通りだというようにほくほくして、
両足をかっきり六十
度に開いて立って、
鷺のちぢめて
降りて来る黒い
脚を
両手で
片っぱしから
押えて、
布の
袋の中に入れるのでした。すると
鷺は、
蛍のように、
袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり
消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、
眼をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで
無事に天の川の
砂の上に
降りるものの方が
多かったのです。それは見ていると、足が
砂へつくや
否や、まるで
雪の
解けるように、
縮まってひらべったくなって、まもなく
溶鉱炉から出た
銅の
汁のように、
砂や
砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、
砂についているのでしたが、それも二、三
度明るくなったり
暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
鳥捕りは、二十
疋ばかり、
袋に入れてしまうと、
急に
両手をあげて、
兵隊が
鉄砲弾にあたって、
死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに
鳥捕りの形はなくなって、かえって、
「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほど
稼いでいるくらい、いいことはありませんな」というききおぼえのある声が、ジョバンニの
隣りにしました。見ると
鳥捕りは、もうそこでとって来た
鷺を、きちんとそろえて、一つずつ
重ね
直しているのでした。
「どうして、あすこから、いっぺんにここへ来たんですか」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして
問いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか」
ジョバンニは、すぐ
返事をしようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね」
鳥捕りは、わかったというように
雑作なくうなずきました。
「もうここらは白鳥
区のおしまいです。ごらんなさい。あれが名高いアルビレオの
観測所です」
窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな
建物が四
棟ばかり立って、その一つの
平屋根の上に、
眼もさめるような、
青宝玉と
黄玉の大きな二つのすきとおった
球が、
輪になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん
向こうへまわって行って、青い小さいのがこっちへ
進んで来、まもなく二つのはじは、
重なり合って、きれいな
緑いろの
両面凸レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみだして、とうとう青いのは、すっかりトパーズの
正面に来ましたので、
緑の中心と黄いろな明るい
環とができました。それがまただんだん
横へ
外れて、前のレンズの形を
逆にくり
返し、とうとうすっとはなれて、サファイアは
向こうへめぐり、黄いろのはこっちへ
進み、またちょうどさっきのようなふうになりました。
銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い
測候所が、
睡っているように、しずかによこたわったのです。
「あれは、水の
速さをはかる
器械です。水も
······」
鳥捕りが
言いかけたとき、
「
切符を
拝見いたします」三人の
席の
横に、赤い
帽子をかぶったせいの高い
車掌が、いつかまっすぐに立っていて
言いました。
鳥捕りは、だまってかくしから、小さな紙きれを出しました。
車掌はちょっと見て、すぐ
眼をそらして(あなた方のは?)というように、
指をうごかしながら、手をジョバンニたちの方へ出しました。
「さあ」ジョバンニは
困って、もじもじしていましたら、カムパネルラはわけもないというふうで、小さな
鼠いろの
切符を出しました。ジョバンニは、すっかりあわててしまって、もしか
上着のポケットにでも、はいっていたかとおもいながら、手を入れてみましたら、何か大きなたたんだ紙きれにあたりました。こんなものはいっていたろうかと思って、
急いで出してみましたら、それは四つに
折ったはがきぐらいの大さ
[#「大さ」はママ]の
緑いろの紙でした。
車掌が手を出しているもんですからなんでもかまわない、やっちまえと思って
渡しましたら、
車掌はまっすぐに立ち
直ってていねいにそれを開いて見ていました。そして読みながら
上着のぼたんやなんかしきりに
直したりしていましたし
燈台看守も下からそれを
熱心にのぞいていましたから、ジョバンニはたしかにあれは
証明書か何かだったと考えて少し
胸が
熱くなるような気がしました。
「これは三
次空間の方からお
持ちになったのですか」
車掌がたずねました。
「なんだかわかりません」もう
大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ
笑いました。
「よろしゅうございます。
南十字へ
着きますのは、
次の
第三時ころになります」
車掌は紙をジョバンニに
渡して
向こうへ行きました。
カムパネルラは、その紙切れが何だったか
待ちかねたというように
急いでのぞきこみました。ジョバンニも
全く早く見たかったのです。ところがそれはいちめん黒い
唐草のような
模様の中に、おかしな十ばかりの字を
印刷したもので、だまって見ているとなんだかその中へ
吸い
込まれてしまうような気がするのでした。すると
鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたように
言いました。
「おや、こいつはたいしたもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける
切符だ。天上どこじゃない、どこでもかってにあるける
通行券です。こいつをお
持ちになれぁ、なるほど、こんな
不完全な
幻想第四次の
銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方たいしたもんですね」
「なんだかわかりません」ジョバンニが赤くなって答えながら、それをまたたたんでかくしに入れました。そしてきまりが
悪いのでカムパネルラと
二人、また
窓の外をながめていましたが、その
鳥捕りの時々たいしたもんだというように、ちらちらこっちを見ているのがぼんやりわかりました。
「もうじき
鷲の
停車場だよ」カムパネルラが
向こう
岸の、三つならんだ小さな青じろい
三角標と、地図とを見くらべて
言いました。
ジョバンニはなんだかわけもわからずに、にわかにとなりの
鳥捕りがきのどくでたまらなくなりました。
鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる
包んだり、ひとの
切符をびっくりしたように
横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考えていると、もうその見ず知らずの
鳥捕りのために、ジョバンニの
持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの
幸になるなら、自分があの光る天の川の
河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう
黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですかと
訊こうとして、それではあんまり出し
抜けだから、どうしようかと考えてふり
返って見ましたら、そこにはもうあの
鳥捕りがいませんでした。
網棚の上には白い
荷物も見えなかったのです。また
窓の外で足をふんばってそらを見上げて
鷺を
捕るしたくをしているのかと思って、
急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい
砂子と白いすすきの
波ばかり、あの
鳥捕りの広いせなかもとがった
帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう」カムパネルラもぼんやりそう
言っていました。
「どこへ行ったろう。いったいどこでまたあうのだろう。
僕はどうしても少しあの人に
物を
言わなかったろう」
「ああ、
僕もそう思っているよ」
「
僕はあの人が
邪魔なような気がしたんだ。だから
僕はたいへんつらい」ジョバンニはこんなへんてこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで
言ったこともないと思いました。
「なんだか
苹果のにおいがする。
僕いま
苹果のことを考えたためだろうか」カムパネルラが
不思議そうにあたりを見まわしました。
「ほんとうに
苹果のにおいだよ。それから
野茨のにおいもする」
ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは
窓からでもはいって来るらしいのでした。いま秋だから
野茨の花のにおいのするはずはないとジョバンニは思いました。
そしたらにわかにそこに、つやつやした黒い
髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのぼたんもかけず、ひどくびっくりしたような顔をして、がたがたふるえてはだしで立っていました。
隣りには黒い
洋服をきちんと
着たせいの高い青年がいっぱいに風に
吹かれているけやきの木のような
姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立っていました。
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ」青年のうしろに、もひとり、十二ばかりの
眼の茶いろな
可愛らしい女の子が、黒い
外套を
着て青年の
腕にすがって
不思議そうに
窓の外を見ているのでした。
「ああ、ここはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット
州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこわいことありません。わたくしたちは
神さまに
召されているのです」
黒服の青年はよろこびにかがやいてその女の子に
言いました。けれどもなぜかまた
額に
深く
皺を
刻んで、それにたいへんつかれているらしく、
無理に
笑いながら男の子をジョバンニのとなりにすわらせました。それから女の子にやさしくカムパネルラのとなりの
席を
指さしました。女の子はすなおにそこへすわって、きちんと
両手を組み合わせました。
「ぼく、おおねえさんのとこへ行くんだよう」
腰掛けたばかりの男の子は顔を
変にして
燈台看守の
向こうの
席にすわったばかりの青年に
言いました。青年はなんとも
言えず
悲しそうな顔をして、じっとその子の、ちぢれたぬれた頭を見ました。女の子は、いきなり
両手を顔にあててしくしく
泣いてしまいました。
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお
仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます。それよりも、おっかさんはどんなに
永く
待っていらっしゃったでしょう。わたしの
大事なタダシはいまどんな歌をうたっているだろう、
雪の
降る朝にみんなと手をつないで、ぐるぐるにわとこのやぶをまわってあそんでいるだろうかと考えたり、ほんとうに
待って
心配していらっしゃるんですから、早く行って、おっかさんにお目にかかりましょうね」
「うん、だけど
僕、船に
乗らなけぁよかったなあ」
「ええ、けれど、ごらんなさい、そら、どうです、あの
立派な川、ね、あすこはあの夏じゅう、ツィンクル、ツィンクル、リトル、スターをうたってやすむとき、いつも
窓からぼんやり白く見えていたでしょう。あすこですよ。ね、きれいでしょう、あんなに光っています」
泣いていた
姉もハンケチで
眼をふいて外を見ました。青年は教えるようにそっと
姉弟にまた
言いました。
「わたしたちはもう、なんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを
旅して、じき
神さまのとこへ行きます。そこならもう、ほんとうに明るくてにおいがよくて
立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの
代わりにボートへ
乗れた人たちは、きっとみんな
助けられて、
心配して
待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう」青年は男の子のぬれたような黒い
髪をなで、みんなを
慰めながら、自分もだんだん顔いろがかがやいてきました。
「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか」
さっきの
燈台看守がやっと少しわかったように青年にたずねました。青年はかすかにわらいました。
「いえ、
氷山にぶっつかって船が
沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが
急な
用で二か月前、一足さきに本国へお帰りになったので、あとから
発ったのです。私は大学へはいっていて、
家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か
昨日のあたりです、船が
氷山にぶっつかって一ぺんに
傾きもう
沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、
霧が
非常に
深かったのです。ところがボートは
左舷の方
半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは
乗り切らないのです。もうそのうちにも船は
沈みますし、私は
必死となって、どうか小さな人たちを
乗せてくださいと
叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いて、そして子供たちのために
祈ってくれました。けれどもそこからボートまでのところには、まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかいて、とても
押しのける
勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお
助けするのが私の
義務だと思いましたから前にいる子供らを
押しのけようとしました。けれどもまた、そんなにして
助けてあげるよりはこのまま
神の
御前にみんなで行く方が、ほんとうにこの方たちの
幸福だとも思いました。それからまた、その
神にそむく
罪はわたくしひとりでしょってぜひとも
助けてあげようと思いました。けれども、どうしても見ているとそれができないのでした。子どもらばかりのボートの中へはなしてやって、お母さんが
狂気のようにキスを
送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなど、とてももう
腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん
沈みますから、私たちはかたまって、もうすっかり
覚悟して、この人たち二人を
抱いて、
浮かべるだけは
浮かぼうと船の
沈むのを
待っていました。
誰が
投げたかライフヴイが一つ
飛んで来ましたけれどもすべってずうっと
向こうへ行ってしまいました。私は一生けん
命で
甲板の
格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたいました。そのときにわかに大きな音がして私たちは水に
落ち、もう
渦にはいったと思いながらしっかりこの人たちをだいて、それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです。この方たちのお母さんは一
昨年没くなられました。ええ、ボートはきっと
助かったにちがいありません、なにせよほど
熟練な
水夫たちが
漕いで、すばやく船からはなれていましたから」
そこらから小さな
嘆息やいのりの声が聞こえジョバンニもカムパネルラもいままで
忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して
眼が
熱くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その
氷山の
流れる北のはての海で、小さな船に
乗って、風や
凍りつく
潮水や、はげしい
寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうにきのどくでそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう)
ジョバンニは
首をたれて、すっかりふさぎ
込んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを
進む中でのできごとなら、
峠の上りも下りもみんなほんとうの
幸福に近づく一あしずつですから」
燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに
至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」
青年が
祈るようにそう答えました。
そしてあの
姉弟はもうつかれてめいめいぐったり
席によりかかって
睡っていました。さっきのあのはだしだった足にはいつか白い
柔らかな
靴をはいていたのです。
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな
燐光の川の
岸を
進みました。
向こうの方の
窓を見ると、野原はまるで
幻燈のようでした。百も千もの大小さまざまの
三角標、その大きなものの上には赤い点々をうった
測量旗も見え、
野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん
集まってぼおっと青白い
霧のよう、そこからか、またはもっと
向こうからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした
狼煙のようなものが、かわるがわるきれいな
桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった
奇麗な風は、ばらのにおいでいっぱいでした。
「いかがですか。こういう
苹果はおはじめてでしょう」
向こうの
席の
燈台看守がいつか
黄金と
紅でうつくしくいろどられた大きな
苹果を
落とさないように
両手で
膝の上にかかえていました。
「おや、どっから来たのですか。
立派ですねえ。ここらではこんな
苹果ができるのですか」青年はほんとうにびっくりしたらしく、
燈台看守の
両手にかかえられた一もりの
苹果を、
眼を
細くしたり
首をまげたりしながら、われを
忘れてながめていました。
「いや、まあおとりください。どうか、まあおとりください」
青年は一つとってジョバンニたちの方をちょっと見ました。
「さあ、
向こうの
坊ちゃんがた。いかがですか。おとりください」
ジョバンニは
坊ちゃんといわれたので、すこししゃくにさわってだまっていましたが、カムパネルラは、
「ありがとう」と
言いました。
すると青年は自分でとって一つずつ二人に
送ってよこしましたので、ジョバンニも立って、ありがとうと
言いました。
燈台看守はやっと
両腕があいたので、こんどは自分で一つずつ
睡っている
姉弟の
膝にそっと
置きました。
「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな
立派な
苹果は」
青年はつくづく見ながら
言いました。
「この
辺ではもちろん
農業はいたしますけれどもたいていひとりでにいいものができるような
約束になっております。
農業だってそんなにほねはおれはしません。たいてい自分の
望む
種子さえ
播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック
辺のように
殻もないし十
倍も大きくてにおいもいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら
農業はもうありません。
苹果だってお
菓子だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです」
にわかに男の子がばっちり
眼をあいて
言いました。
「ああぼくいまお
母さんの
夢をみていたよ。お
母さんがね、
立派な
戸棚や本のあるとこにいてね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼく、おっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか、と
言ったら
眼がさめちゃった。ああここ、さっきの汽車のなかだねえ」
「その
苹果がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ」青年が
言いました。
「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん」
姉はわらって
眼をさまし、まぶしそうに
両手を
眼にあてて、それから
苹果を見ました。
男の子はまるでパイをたべるように、もうそれをたべていました。またせっかくむいたそのきれいな
皮も、くるくるコルク
抜きのような形になって
床へ
落ちるまでの間にはすうっと、
灰いろに光って
蒸発してしまうのでした。
二人はりんごをたいせつにポケットにしまいました。
川下の
向こう
岸に青く
茂った大きな林が見え、その
枝には
熟してまっ赤に光るまるい
実がいっぱい、その林のまん中に高い高い
三角標が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじってなんとも
言えずきれいな
音いろが、とけるように
浸みるように風につれて
流れて来るのでした。
青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。
だまってその
譜を聞いていると、そこらにいちめん黄いろや、うすい
緑の明るい
野原か
敷物かがひろがり、またまっ白な
蝋のような
露が
太陽の
面をかすめて行くように思われました。
「まあ、あの
烏」カムパネルラのとなりの、かおると
呼ばれた女の子が
叫びました。
「からすでない。みんなかささぎだ」カムパネルラがまた何気なくしかるように
叫びましたので、ジョバンニはまた思わず
笑い、女の子はきまり
悪そうにしました。まったく
河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに
列になってとまってじっと川の
微光を受けているのでした。
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと
延びてますから」青年はとりなすように
言いました。
向こうの青い森の中の
三角標はすっかり汽車の
正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方から、あの聞きなれた三〇六番の
讃美歌のふしが聞こえてきました。よほどの人数で
合唱しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまたすわりました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。
ジョバンニまでなんだか
鼻が
変になりました。けれどもいつともなく
誰ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラもいっしょにうたいだしたのです。
そして青い
橄欖の森が、見えない天の川の
向こうにさめざめと光りながらだんだんうしろの方へ行ってしまい、そこから
流れて来るあやしい
楽器の音も、もう汽車のひびきや風の音にすりへらされてずうっとかすかになりました。
「あ、
孔雀がいるよ。あ、
孔雀がいるよ」
「あの森
琴の
宿でしょう。あたしきっとあの森の中にむかしの大きなオーケストラの人たちが
集まっていらっしゃると思うわ、まわりには青い
孔雀やなんかたくさんいると思うわ」
「ええ、たくさんいたわ」女の子がこたえました。
ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの
緑いろの
貝ぼたんのように見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその
孔雀がはねをひろげたりとじたりする光の
反射を見ました。
「そうだ、
孔雀の声だってさっき聞こえた」カムパネルラが女の子に
言いました。
「ええ、三十
疋ぐらいはたしかにいたわ」女の子が答えました。
ジョバンニはにわかになんとも
言えずかなしい気がして思わず、
「カムパネルラ、ここからはねおりて
遊んで行こうよ」とこわい顔をして
言おうとしたくらいでした。
ところがそのときジョバンニは川下の遠くの方に
不思議なものを見ました。それはたしかになにか黒いつるつるした
細長いもので、あの見えない天の川の水の上に
飛び出してちょっと
弓のようなかたちに
進んで、また水の中にかくれたようでした。おかしいと思ってまたよく気をつけていましたら、こんどはずっと近くでまたそんなことがあったらしいのでした。そのうちもうあっちでもこっちでも、その黒いつるつるした
変なものが水から
飛び出して、まるく
飛んでまた頭から水へくぐるのがたくさん見えてきました。みんな魚のように川上へのぼるらしいのでした。
「まあ、なんでしょう。たあちゃん。ごらんなさい。まあたくさんだわね。なんでしょうあれ」
睡そうに
眼をこすっていた男の子はびっくりしたように立ちあがりました。
「なんだろう」青年も立ちあがりました。
「まあ、おかしな魚だわ、なんでしょうあれ」
「
海豚です」カムパネルラがそっちを見ながら答えました。
「
海豚だなんてあたしはじめてだわ。けどここ海じゃないんでしょう」
「いるかは海にいるときまっていない」あの
不思議な
低い声がまたどこからかしました。
ほんとうにそのいるかのかたちのおかしいことは、二つのひれをちょうど
両手をさげて
不動の
姿勢をとったようなふうにして水の中から
飛び出して来て、うやうやしく頭を下にして
不動の
姿勢のまままた水の中へくぐって行くのでした。見えない天の川の水もそのときはゆらゆらと青い
焔のように
波をあげるのでした。
「いるかお魚でしょうか」女の子がカムパネルラにはなしかけました。男の子はぐったりつかれたように
席にもたれて
睡っていました。
「いるか、魚じゃありません。くじらと同じようなけだものです」カムパネルラが答えました。
「あなたくじら見たことあって」
「
僕あります。くじら、頭と黒いしっぽだけ見えます。
潮を
吹くとちょうど本にあるようになります」
「くじらなら大きいわねえ」
「くじら大きいです。
子供だっているかぐらいあります」
「そうよ、あたしアラビアンナイトで見たわ」
姉は
細い
銀いろの
指輪をいじりながらおもしろそうにはなししていました。
(カムパネルラ、
僕もう行っちまうぞ。
僕なんか
鯨だって見たことないや)
ジョバンニはまるでたまらないほどいらいらしながら、それでも
堅く、
唇を
噛んでこらえて
窓の外を見ていました。その
窓の外には
海豚のかたちももう見えなくなって川は二つにわかれました。そのまっくらな
島のまん中に高い高いやぐらが一つ組まれて、その上に一人の
寛い
服を
着て赤い
帽子をかぶった男が立っていました。そして
両手に赤と青の
旗をもってそらを見上げて
信号しているのでした。
ジョバンニが見ている間その人はしきりに赤い
旗をふっていましたが、にわかに
赤旗をおろしてうしろにかくすようにし、青い
旗を高く高くあげてまるでオーケストラの
指揮者のようにはげしく
振りました。すると空中にざあっと雨のような音がして、何かまっくらなものが、いくかたまりもいくかたまりも
鉄砲丸のように川の
向こうの方へ
飛んで行くのでした。ジョバンニは思わず
窓からからだを半分出して、そっちを見あげました。
美しい
美しい
桔梗いろのがらんとした空の下を、
実に
何万という小さな鳥どもが、
幾組も
幾組もめいめいせわしくせわしく鳴いて通って行くのでした。
「鳥が
飛んで行くな」ジョバンニが
窓の外で言いました。
「どら」カムパネルラもそらを見ました。
そのときあのやぐらの上のゆるい
服の男はにわかに赤い
旗をあげて
狂気のようにふりうごかしました。するとぴたっと鳥の
群れは通らなくなり、それと同時にぴしゃあんというつぶれたような音が川下の方で
起こって、それからしばらくしいんとしました。と思ったらあの
赤帽の
信号手がまた青い
旗をふって
叫んでいたのです。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥」その声もはっきり聞こえました。
それといっしょにまた
幾万という鳥の
群れがそらをまっすぐにかけたのです。
二人の顔を出しているまん中の
窓からあの女の子が顔を出して
美しい
頬をかがやかせながらそらを
仰ぎました。
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと」女の子はジョバンニにはなしかけましたけれどもジョバンニは
生意気な、いやだいと思いながら、だまって口をむすんでそらを見あげていました。女の子は小さくほっと
息をして、だまって
席へ
戻りました。カムパネルラがきのどくそうに
窓から顔を引っ
込めて地図を見ていました。
「あの人鳥へ教えてるんでしょうか」女の子がそっとカムパネルラにたずねました。
「わたり鳥へ
信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでしょう」
カムパネルラが少しおぼつかなそうに答えました。そして車の中はしいんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ
込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったので、だまってこらえてそのまま立って
口笛を
吹いていました。
(どうして
僕はこんなにかなしいのだろう。
僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの
岸のずうっと
向こうにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。
僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ)
ジョバンニは
熱って
痛いあたまを
両手で
押えるようにして、そっちの方を見ました。
(ああほんとうにどこまでもどこまでも
僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに
談しているし
僕はほんとうにつらいなあ)
ジョバンニの
眼はまた
泪でいっぱいになり、天の川もまるで遠くへ
行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。
そのとき汽車はだんだん川からはなれて
崖の上を通るようになりました。
向こう
岸もまた黒いいろの
崖が川の
岸を
下流に下るにしたがって、だんだん高くなっていくのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました。その
葉はぐるぐるに
縮れ
葉の下にはもう美しい
緑いろの大きな
苞が赤い毛を
吐いて
真珠のような
実もちらっと見えたのでした。それはだんだん数を
増してきて、もういまは
列のように
崖と
線路との間にならび、思わずジョバンニが
窓から顔を引っ
込めて
向こう
側の
窓を見ましたときは、
美しいそらの野原の
地平線のはてまで、その大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに
植えられて、さやさや風にゆらぎ、その
立派なちぢれた
葉のさきからは、まるでひるの間にいっぱい日光を
吸った
金剛石のように
露がいっぱいについて、赤や
緑やきらきら
燃えて光っているのでした。カムパネルラが、
「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに
言いましたけれども、ジョバンニはどうしても
気持ちがなおりませんでしたから、ただぶっきらぼうに野原を見たまま、
「そうだろう」と答えました。
そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルとてんてつ
器の
灯を過ぎ、小さな
停車場にとまりました。
その
正面の青じろい
時計はかっきり
第二時を
示し、風もなくなり汽車もうごかず、しずかなしずかな野原のなかにその
振り
子はカチッカチッと正しく時を
刻んでいくのでした。
そしてまったくその
振り
子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな
旋律が糸のように
流れて来るのでした。
「
新世界交響楽だわ」
向こうの
席の
姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと
言いました。
全くもう車の中ではあの
黒服の
丈高い青年も
誰もみんなやさしい
夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいとこで
僕はどうしてもっと
愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、
僕といっしょに汽車に
乗っていながら、まるであんな女の子とばかり
談しているんだもの。
僕はほんとうにつらい)
ジョバンニはまた手で顔を
半分かくすようにして
向こうの
窓のそとを見つめていました。
すきとおった
硝子のような
笛が鳴って汽車はしずかに動きだし、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの
口笛を
吹きました。
「ええ、ええ、もうこの
辺はひどい高原ですから」
うしろの方で
誰かとしよりらしい人の、いま
眼がさめたというふうではきはき
談している声がしました。
「とうもろこしだって
棒で二尺も
孔をあけておいてそこへ
播かないとはえないんです」
「そうですか。川まではよほどありましょうかねえ」
「ええ、ええ、
河までは二千
尺から六千
尺あります。もうまるでひどい
峡谷になっているんです」
そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか、ジョバンニは思わずそう思いました。
あの
姉は弟を自分の
胸によりかからせて
睡らせながら黒い
瞳をうっとりと遠くへ
投げて何を見るでもなしに考え
込んでいるのでしたし、カムパネルラはまださびしそうにひとり
口笛を
吹き、男の子はまるで
絹で
包んだ
苹果のような顔いろをしてジョバンニの見る方を見ているのでした。
突然とうもろこしがなくなって
巨きな黒い
野原がいっぱいにひらけました。
新世界交響楽はいよいよはっきり
地平線のはてから
湧き、そのまっ黒な
野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の
羽根を頭につけ、たくさんの石を
腕と
胸にかざり、小さな
弓に
矢をつがえていちもくさんに汽車を
追って来るのでした。
「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい」
黒服の青年も
眼をさましました。
ジョバンニもカムパネルラも立ちあがりました。
「走って来るわ、あら、走って来るわ。
追いかけているんでしょう」
「いいえ、汽車を
追ってるんじゃないんですよ。
猟をするか
踊るかしてるんですよ」
青年はいまどこにいるか
忘れたというふうにポケットに手を入れて立ちながら
言いました。
まったくインデアンは
半分は
踊っているようでした。
第一かけるにしても足のふみようがもっと
経済もとれ本気にもなれそうでした。にわかにくっきり白いその
羽根は前の方へ
倒れるようになり、インデアンはぴたっと立ちどまって、すばやく
弓を空にひきました。そこから一
羽の
鶴がふらふらと
落ちて来て、また走り出したインデアンの大きくひろげた
両手に
落ちこみました。インデアンはうれしそうに立ってわらいました。そしてその
鶴をもってこっちを見ている
影も、もうどんどん小さく遠くなり、電しんばしらの
碍子がきらっきらっと
続いて二つばかり光って、またとうもろこしの林になってしまいました。こっち
側の
窓を見ますと汽車はほんとうに高い高い
崖の上を走っていて、その谷の
底には川がやっぱり
幅ひろく明るく
流れていたのです。
「ええ、もうこの
辺から下りです。なんせこんどは一ぺんにあの
水面までおりて行くんですから
容易じゃありません。この
傾斜があるもんですから汽車は
決して
向こうからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう」さっきの
老人らしい声が
言いました。
どんどんどんどん汽車は
降りて行きました。
崖のはじに
鉄道がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなってきました。汽車が小さな
小屋の前を通って、その前にしょんぼりひとりの
子供が立ってこっちを見ているときなどは思わず、ほう、と
叫びました。
どんどんどんどん汽車は走って行きました。
室中のひとたちは
半分うしろの方へ
倒れるようになりながら
腰掛にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ
横手をいままでよほど
激しく
流れて来たらしく、ときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい
河原なでしこの花があちこち
咲いていました。汽車はようやく
落ち
着いたようにゆっくり走っていました。
向こうとこっちの
岸に星のかたちとつるはしを書いた
旗がたっていました。
「あれなんの
旗だろうね」ジョバンニがやっとものを
言いました。
「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。
鉄の
舟がおいてあるねえ」
「ああ」
「
橋を
架けるとこじゃないんでしょうか」女の子が
言いました。
「ああ、あれ
工兵の
旗だねえ。
架橋演習をしてるんだ。けれど
兵隊のかたちが見えないねえ」
その時
向こう
岸ちかくの少し
下流の方で、見えない天の川の水がぎらっと光って、
柱のように高くはねあがり、どおとはげしい音がしました。
「
発破だよ、
発破だよ」カムパネルラはこおどりしました。
その
柱のようになった水は見えなくなり、大きな
鮭や
鱒がきらっきらっと白く
腹を光らせて空中にほうり出されてまるい
輪を
描いてまた水に
落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたいくらい
気持ちが
軽くなって
言いました。
「空の
工兵大隊だ。どうだ、
鱒なんかがまるでこんなになってはねあげられたねえ。
僕こんな
愉快な
旅はしたことない。いいねえ」
「あの
鱒なら近くで見たらこれくらいあるねえ、たくさんさかないるんだな、この水の中に」
「小さなお魚もいるんでしょうか」女の子が
談につり
込まれて
言いました。
「いるんでしょう。大きなのがいるんだから小さいのもいるんでしょう。けれど遠くだから、いま小さいの見えなかったねえ」ジョバンニはもうすっかり
機嫌が
直っておもしろそうにわらって女の子に答えました。
「あれきっと
双子のお星さまのお
宮だよ」男の子がいきなり
窓の外をさして
叫びました。
右手の
低い
丘の上に小さな
水晶ででもこさえたような二つのお
宮がならんで立っていました。
「
双子のお星さまのお
宮ってなんだい」
「あたし前になんべんもお
母さんから聞いたわ。ちゃんと小さな
水晶のお
宮で二つならんでいるからきっとそうだわ」
「はなしてごらん。
双子のお星さまが何をしたっての」
「ぼくも知ってらい。
双子のお星さまが野原へ
遊びにでて、からすと
喧嘩したんだろう」
「そうじゃないわよ。あのね、天の川の
岸にね、おっかさんお話しなすったわ、
······」
「それから
彗星がギーギーフーギーギーフーて
言って来たねえ」
「いやだわ、たあちゃん、そうじゃないわよ。それはべつの方だわ」
「するとあすこにいま
笛を
吹いているんだろうか」
「いま海へ行ってらあ」
「いけないわよ。もう海からあがっていらっしゃったのよ」
「そうそう。ぼく知ってらあ、ぼくおはなししよう」
川の向こう
岸がにわかに赤くなりました。
楊の木や何かもまっ黒にすかし出され、見えない天の川の
波も、ときどきちらちら
針のように赤く光りました。まったく
向こう
岸の野原に大きなまっ赤な火が
燃され、その黒いけむりは高く
桔梗いろのつめたそうな天をも
焦がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおり、リチウムよりもうつくしく
酔ったようになって、その火は
燃えているのでした。
「あれはなんの火だろう。あんな赤く光る火は何を
燃やせばできるんだろう」ジョバンニが
言いました。
「
蠍の火だな」カムパネルラがまた地図と
首っぴきして答えました。
「あら、
蠍の火のことならあたし知ってるわ」
「
蠍の火ってなんだい」ジョバンニがききました。
「
蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも
燃えてるって、あたし何べんもお父さんから
聴いたわ」
「
蠍って、虫だろう」
「ええ、
蠍は虫よ。だけどいい虫だわ」
「
蠍いい虫じゃないよ。
僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。
尾にこんなかぎがあってそれで
螫されると
死ぬって先生が
言ってたよ」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さんこう
言ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの
蠍がいて小さな虫やなんか
殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん
命にげてにげたけど、とうとういたちに
押えられそうになったわ、そのときいきなり前に
井戸があってその中に
落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないで、さそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりはこう
言ってお
祈りしたというの。
ああ、わたしはいままで、いくつのものの
命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん
命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだを、だまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか
神さま。私の心をごらんください。こんなにむなしく
命をすてず、どうかこの
次には、まことのみんなの
幸のために私のからだをおつかいください。って
言ったというの。
そしたらいつか
蠍はじぶんのからだが、まっ赤なうつくしい火になって
燃えて、よるのやみを
照らしているのを見たって。いまでも
燃えてるってお父さんおっしゃったわ。ほんとうにあの火、それだわ」
「そうだ。見たまえ。そこらの
三角標はちょうどさそりの形にならんでいるよ」
ジョバンニはまったくその大きな火の
向こうに三つの
三角標が、ちょうどさそりの
腕のように、こっちに五つの
三角標がさそりの
尾やかぎのようにならんでいるのを見ました。そしてほんとうにそのまっ赤なうつくしいさそりの火は音なくあかるくあかるく
燃えたのです。
その火がだんだんうしろの方になるにつれて、みんなはなんとも
言えずにぎやかな、さまざまの
楽の
音や草花のにおいのようなもの、
口笛や人々のざわざわ
言う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあって、そこにお
祭りでもあるというような気がするのでした。
「ケンタウル
露をふらせ」いきなりいままで
睡っていたジョバンニのとなりの男の子が
向こうの
窓を見ながら
叫んでいました。
ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な
唐檜かもみの木がたって、その中にはたくさんのたくさんの
豆電燈がまるで千の
蛍でも
集まったようについていました。
「ああ、そうだ、今夜ケンタウル
祭だねえ」
「ああ、ここはケンタウルの村だよ」カムパネルラがすぐ
言いました。
(此の間原稿なし)
「ボール投げなら
僕決してはずさない」
男の子が大いばりで
言いました。
「もうじきサウザンクロスです。おりるしたくをしてください」青年がみんなに
言いました。
「
僕、も少し汽車に乗ってるんだよ」男の子が
言いました。
カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立ってしたくをはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
「ここでおりなけぁいけないのです」青年はきちっと口を
結んで男の子を見おろしながら
言いました。
「
厭だい。
僕もう少し汽車へ
乗ってから行くんだい」
ジョバンニがこらえかねて
言いました。
「
僕たちといっしょに
乗って行こう。
僕たちどこまでだって行ける
切符持ってるんだ」
「だけどあたしたち、もうここで
降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから」
女の子がさびしそうに
言いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって
僕の先生が
言ったよ」
「だっておっ
母さんも行ってらっしゃるし、それに
神さまがおっしゃるんだわ」
「そんな
神さまうその
神さまだい」
「あなたの
神さまうその
神さまよ」
「そうじゃないよ」
「あなたの
神さまってどんな
神さまですか」青年は
笑いながら
言いました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった
一人の
神さまです」
「ほんとうの
神さまはもちろんたった
一人です」
「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうのほんとうの
神さまです」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの
神さまの前に、わたくしたちとお会いになることを
祈ります」青年はつつましく
両手を組みました。
女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに
別れが
惜しそうで、その顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて
泣き出そうとしました。
「さあもうしたくはいいんですか。じきサウザンクロスですから」
ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や
橙や、もうあらゆる光でちりばめられた
十字架が、まるで一本の木というふうに川の中から立ってかがやき、その上には青じろい雲がまるい
環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお
祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が
瓜に
飛びついたときのようなよろこびの声や、なんとも言いようない
深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん
十字架は
窓の
正面になり、あの
苹果の
肉のような青じろい
環の雲も、ゆるやかにゆるやかに
繞っているのが見えました。
「ハレルヤ、ハレルヤ」明るくたのしくみんなの声はひびき、みんなはそのそらの遠くから、つめたいそらの遠くから、すきとおったなんとも
言えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや
電燈の
灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになり、とうとう
十字架のちょうどま
向かいに行ってすっかりとまりました。
「さあ、おりるんですよ」青年は男の子の手をひき
姉は
互いにえりや
肩をなおしてやってだんだん
向こうの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら」女の子がふりかえって二人に
言いました。
「さよなら」ジョバンニはまるで
泣き出したいのをこらえておこったようにぶっきらぼうに
言いました。
女の子はいかにもつらそうに
眼を大きくして、も一
度こっちをふりかえって、それからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう
半分以上も
空いてしまいにわかにがらんとして、さびしくなり風がいっぱいに
吹き
込みました。
そして見ているとみんなはつつましく
列を組んで、あの
十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたって、ひとりのこうごうしい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう
硝子の
呼び子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ううちに
銀いろの
霧が川下の方から、すうっと
流れて来て、もうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が
葉をさんさんと光らしてその
霧の中に立ち、
黄金の円光をもった
電気栗鼠が
可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
そのとき、すうっと
霧がはれかかりました。どこかへ行く
街道らしく小さな
電燈の
一列についた通りがありました。それはしばらく
線路に
沿って
進んでいました。そして
二人がそのあかしの前を通って行くときは、その小さな豆いろの火はちょうどあいさつでもするようにぽかっと
消え、
二人が過ぎて行くときまた
点くのでした。
ふりかえって見ると、さっきの
十字架はすっかり小さくなってしまい、ほんとうにもうそのまま
胸にもつるされそうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い
渚にまだひざまずいているのか、それともどこか
方角もわからないその天上へ行ったのか、ぼんやりして見分けられませんでした。
ジョバンニは、ああ、と
深く
息しました。
「カムパネルラ、また
僕たち
二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。
僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの
幸のためならば
僕のからだなんか百ぺん
灼いてもかまわない」
「うん。
僕だってそうだ」カムパネルラの
眼にはきれいな
涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」
ジョバンニが
言いました。
「
僕わからない」カムパネルラがぼんやり
言いました。
「
僕たちしっかりやろうねえ」ジョバンニが
胸いっぱい新しい力が
湧くように、ふうと
息をしながら
言いました。
「あ、あすこ
石炭袋だよ。そらの
孔だよ」カムパネルラが少しそっちを
避けるようにしながら天の川のひととこを
指さしました。
ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな
孔が、どおんとあいているのです。その
底がどれほど
深いか、その
奥に何があるか、いくら
眼をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ
眼がしんしんと
痛むのでした。ジョバンニが
言いました。
「
僕もうあんな大きな
暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも
僕たちいっしょに
進んで行こう」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな
集まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ」
カムパネルラはにわかに
窓の遠くに見えるきれいな野原を
指して
叫びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむっているばかり、どうしてもカムパネルラが
言ったように思われませんでした。
なんとも
言えずさびしい気がして、ぼんやりそっちを見ていましたら、
向こうの
河岸に二本の
電信ばしらが、ちょうど
両方から
腕を組んだように赤い
腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、
僕たちいっしょに行こうねえ」ジョバンニがこう
言いながらふりかえって見ましたら、そのいままでカムパネルラのすわっていた
席に、もうカムパネルラの形は見えず、ただ黒いびろうどばかりひかっていました。
ジョバンニはまるで
鉄砲丸のように立ちあがりました。そして
誰にも聞こえないように
窓の外へからだを
乗り出して、力いっぱいはげしく
胸をうって
叫び、それからもう
咽喉いっぱい
泣きだしました。
もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。そのとき、
「おまえはいったい何を
泣いているの。ちょっとこっちをごらん」いままでたびたび聞こえた、あのやさしいセロのような声が、ジョバンニのうしろから聞こえました。
ジョバンニは、はっと思って
涙をはらってそっちをふり
向きました、さっきまでカムパネルラのすわっていた
席に黒い大きな
帽子をかぶった青白い顔のやせた
大人が、やさしくわらって大きな一
冊の本をもっていました。
「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと
言ったんです」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに
苹果をたべたり汽車に
乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの
幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしょう」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの
切符をしっかりもっておいで。そして一しんに
勉強しなけぁいけない。おまえは
化学をならったろう、水は
酸素と
水素からできているということを知っている。いまはたれだってそれを
疑やしない。
実験してみるとほんとうにそうなんだから。けれども
昔はそれを
水銀と
塩でできていると
言ったり、
水銀と
硫黄でできていると
言ったりいろいろ
議論したのだ。みんながめいめいじぶんの
神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお
互いほかの
神さまを
信ずる人たちのしたことでも
涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか
議論するだろう。そして
勝負がつかないだろう。けれども、もしおまえがほんとうに
勉強して
実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その
実験の
方法さえきまれば、もう
信仰も
化学と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは
地理と
歴史の
辞典だよ。この本のこの
頁はね、
紀元前二千二百年の
地理と
歴史が書いてある。よくごらん、
紀元前二千二百年のことでないよ、
紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた
地理と
歴史というものが書いてある。
だからこの
頁一つが一
冊の
地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは
紀元前二千二百年ころにはたいてい
本当だ。さがすと
証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは
次の
頁だよ。
紀元前一千年。だいぶ、
地理も
歴史も
変わってるだろう。このときにはこうなのだ。
変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって
歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」
そのひとは
指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその
学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる
広い
世界ががらんとひらけ、あらゆる
歴史がそなわり、すっと
消えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの
実験は、このきれぎれの考えのはじめから
終わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの
鎖を
解かなければならない」
そのときまっくらな
地平線の
向こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
「ああマジェランの
星雲だ。さあもうきっと
僕は
僕のために、
僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの
幸福をさがすぞ」
ジョバンニは
唇を
噛んで、そのマジェランの
星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん
幸福なそのひとのために!
「さあ、
切符をしっかり
持っておいで。お前はもう
夢の
鉄道の中でなしにほんとうの
世界の火やはげしい
波の中を
大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその
切符を
決しておまえはなくしてはいけない」
あのセロのような声がしたと思うとジョバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が
吹き自分はまっすぐに草の
丘に立っているのを見、また遠くからあのブルカニロ
博士の足おとのしずかに近づいて来るのをききました。
「ありがとう。私はたいへんいい
実験をした。私はこんなしずかな
場所で遠くから私の考えを人に
伝える
実験をしたいとさっき考えていた。お前の
言った語はみんな私の
手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は
夢の中で
決心したとおりまっすぐに
進んで行くがいい。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ
相談においでなさい」
「
僕きっとまっすぐに
進みます。きっとほんとうの
幸福を
求めます」ジョバンニは
力強く
言いました。
「ああではさよなら。これはさっきの
切符です」
博士は小さく
折った
緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは
天気輪の
柱の
向こうに見えなくなっていました。
ジョバンニはまっすぐに走って
丘をおりました。
そしてポケットがたいへん
重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべてみましたら、あの
緑いろのさっき
夢の中で見たあやしい天の
切符の中に大きな二
枚の
金貨が
包んでありました。
「
博士ありがとう、おっかさん。すぐ
乳をもって行きますよ」
ジョバンニは
叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの
胸に
集まってなんとも
言えずかなしいような新しいような気がするのでした。
琴の星がずうっと西の方へ
移ってそしてまた
夢のように足をのばしていました。
ジョバンニは
眼をひらきました。もとの
丘の草の中につかれてねむっていたのでした。
胸はなんだかおかしく
熱り、
頬にはつめたい
涙がながれていました。
ジョバンニはばねのようにはね
起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの
灯を
綴ってはいましたが、その光はなんだかさっきよりは
熱したというふうでした。
そしてたったいま
夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の
地平線の上ではことにけむったようになって、その右には
蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの
位置はそんなに
変わってもいないようでした。
ジョバンニはいっさんに
丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで
待っているお母さんのことが
胸いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い
松の林の中を通って、それからほの白い
牧場の
柵をまわって、さっきの入口から
暗い
牛舎の前へまた来ました。そこには
誰かがいま帰ったらしく、さっきなかった一つの車が何かの
樽を二つ
載っけて
置いてありました。
「
今晩は」ジョバンニは
叫びました。
「はい」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「なんのご用ですか」
「今日
牛乳がぼくのところへ来なかったのですが」
「あ、
済みませんでした」その人はすぐ
奥へ行って一本の
牛乳瓶をもって来てジョバンニに
渡しながら、また
言いました。
「ほんとうに
済みませんでした。今日はひるすぎ、うっかりしてこうしの
柵をあけておいたもんですから、
大将さっそく
親牛のところへ行って
半分ばかりのんでしまいましてね
······」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます」
「ええ、どうも
済みませんでした」
「いいえ」
ジョバンニはまだ
熱い
乳の
瓶を
両方のてのひらで
包むようにもって
牧場の
柵を出ました。
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になって、その右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを
流しに行った川へかかった大きな
橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつ
集まって
橋の方を見ながら何かひそひそ
談しているのです。それから
橋の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。
ジョバンニはなぜかさあっと
胸が
冷たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ、
「何かあったんですか」と
叫ぶようにききました。
「こどもが水へ
落ちたんですよ」
一人が
言いますと、その人たちは
一斉にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで
夢中で
橋の方へ走りました。
橋の上は人でいっぱいで
河が見えませんでした。白い
服を
着た
巡査も出ていました。
ジョバンニは
橋の
袂から
飛ぶように下の広い
河原へおりました。
その
河原の水ぎわに
沿ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。
向こう
岸の
暗いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう
烏瓜のあかりもない川が、わずかに音をたてて
灰いろにしずかに
流れていたのでした。
河原のいちばん
下流の方へ
洲のようになって出たところに人の
集まりがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに
会いました。マルソがジョバンニに走り
寄って
言いました。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ」
「どうして、いつ」
「ザネリがね、
舟の上から
烏うりのあかりを水の
流れる方へ
押してやろうとしたんだ。そのとき
舟がゆれたもんだから水へ
落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ
飛びこんだんだ。そしてザネリを
舟の方へ
押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ」
「みんなさがしてるんだろう」
「ああ、すぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへ
連れられてった」
ジョバンニはみんなのいるそっちの方へ行きました。そこに学生たちや町の人たちに
囲まれて青じろいとがったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い
服を
着てまっすぐに立って左手に
時計を
持ってじっと見つめていたのです。
みんなもじっと
河を見ていました。
誰も
一言も
物を
言う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして、黒い川の水はちらちら小さな
波をたてて
流れているのが見えるのでした。
下流の方の川はばいっぱい
銀河が
巨きく
写って、まるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニは、そのカムパネルラはもうあの
銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
けれどもみんなはまだ、どこかの
波の間から、
「ぼくずいぶん
泳いだぞ」と言いながらカムパネルラが出て来るか、あるいはカムパネルラがどこかの人の知らない
洲にでも
着いて立っていて
誰かの来るのを
待っているかというような気がしてしかたないらしいのでした。けれどもにわかにカムパネルラのお父さんがきっぱり
言いました。
「もう
駄目です。
落ちてから四十五分たちましたから」
ジョバンニは思わずかけよって
博士の前に立って、ぼくはカムパネルラの行った方を知っています、ぼくはカムパネルラといっしょに歩いていたのです、と
言おうとしましたが、もうのどがつまってなんとも
言えませんでした。すると
博士はジョバンニがあいさつに来たとでも思ったものですか、しばらくしげしげジョバンニを見ていましたが、
「あなたはジョバンニさんでしたね。どうも
今晩はありがとう」とていねいに
言いました。
ジョバンニは何も
言えずにただおじぎをしました。
「あなたのお父さんはもう帰っていますか」
博士は
堅く
時計を
握ったまま、またききました。
「いいえ」ジョバンニはかすかに頭をふりました。
「どうしたのかなあ、ぼくには
一昨日たいへん元気な
便りがあったんだが。
今日あたりもう
着くころなんだが。
船が
遅れたんだな。ジョバンニさん。あした
放課後みなさんとうちへ
遊びに来てくださいね」
そう
言いながら
博士はまた、川下の
銀河のいっぱいにうつった方へじっと
眼を
送りました。
ジョバンニはもういろいろなことで
胸がいっぱいで、なんにも
言えずに
博士の前をはなれて、早くお母さんに
牛乳を
持って行って、お父さんの帰ることを知らせようと思うと、もういちもくさんに
河原を
街の方へ走りました。