別るる恋
「相手の権勢に酔わされたか! ないしは美貌に魅せられたか! よくも
こう罵ったのは若い武士で、その名を
罵られているのは若い娘で、名は
罵られても萩野は黙っている。口を固く結んでいる。そうして足許を見詰めている。その態度には憎々しいほどの、決心の相が見えている。
「さようか、さようか、物を言わぬ気か、それ程までに某を、もう嫌って居られるのか。薄情もそこまで行き詰めれば、また潔いものがある。で、某も潔くやろう。二人の仲は今日限りに、あかの他人の昔に帰ろう。が、一言云って置く、
捨石から腰を上げた秋安は、萩野を尻眼に睨んだが、そのままスタスタと歩き出した。一切未練は俺にはない||と云ったような歩き方である。とは云え灌木の陰へかくれて、萩野の姿の見えなくなると一緒に、その歩き方は力なげになった。
絶望が心に涌いたからである。
ここは京都の郊外の、
その野路をあてもなく、秋安は西の方へ
季節は
そういう酣の春であった。
この野路の美しさよ。

農家がパラパラと蒔かれていたが、多くは花に包まれていた。白いのは木蓮か梨の花であろう。赤紫に見えるのは、
と、灌木の裾を巡って、
白味を含んだ蒼い空から、銀笛の音色を思わせるような、
万事
が、暗いものが一つあった。他ならぬ秋安の心であった。
「萩野と馴染んで一年になる。その交情は厚かったはずだ。あの女を苦しめた覚えはない。愛して愛して愛し抜いたはずだ。裏切られるような薄情なことを、俺は一度もしたことがない。にもかかわらず裏切られた。女の心というものは、ああも手の平を
考えながら歩いて行く。
「あの花園の森の中で、去年松の花の咲く頃に、はじめて恋を語り合ったが、同じ松の花の咲く季節の、今年の春には同じ森で、
考えながら彷徨って行く。
と、にわかに笑い出した。
「ハッハッハッ、何と云うことだ! 未練もいい加減にするがいい。向こうから俺を捨たのだ。何をクヨクヨ思っているのだ」
しかしやっぱり寂しかった。
で、あてなしに歩いて行く。
しかしそういう寂しい心を、厭でも捨なければならないような、一つの事件が勃発した。
行く手の森陰からけたたましい、若い女の悲鳴が聞こえて、つづいて四五人の男の声が、これもけたたましく聞こえたからである。
で、秋安は走って行った。
廻国風の美しい娘を、五人の若い侍が、今や手籠めにしようとしている。
助けた女は?
それと見てとって秋安が、勃然と怒りを発したのは、まさに当然ということが出来よう。
「方々!」と声をかけながら、武士の間へ割って行ったが、
「お見受けすればいずれも武士、しかも立派なご身分らしい。しかるに何ぞや若い娘を捉えて、乱暴狼藉をなされるとは! 体面にお恥じなさるがよろしい!」
叱咤の声をひびかせた。
凜々しい態度と鋭い声に、気を呑まれたらしい五人の武士は、捉えていた娘を手放すと、一斉に
「これ貴様は何者か! 我々の姿が眼に付かぬか! 銀の元結、金繍の羽織、
云われて秋安は眼を止めて見た。
いかにもそれは聚楽風であった。
すなわち関白
そうしてその事が秋安の心を、一層の憤りに導いた。
「ははあ左様か、ご貴殿方は、関白殿下にお仕えする、聚楽第のお歴々でござるか。ではなおさらのことでござる。乱暴狼藉はおやめなされ! それ関白と申す者は、百官を
ウンとばかりに遣り込めた。
こう云われたら[#「云われたら」は底本では「云はれたら」]一言もなく、引き下るかと思ったところ、事は案外に反対となった。五人刀を抜きつらね、秋安へ切ってかかったのである。
「関白の説明汝に聞こうか!
一人が飜然と飛び込んで来た。
身をひるがえした秋安は、太刀を抜いたが横ッ払った。殺しては後が面倒だ、そう思ったがためであろう、腰の
「ウ||ム」と呻いてぶっ仆れる。
と、懲りずまにもう一人が、刎ねるがように切り込んで来た。
すかさず突き出した秋安の太刀に、ガラガラガラと太刀を搦らまれ、ギョッとして引こうとしたところを、秋安太刀をグッとセメた。ガラガラと地上で音のしたのは、敵が獲物を落としたからである。
「これ!」と叫ぶと秋安は、五人をツラツラと見渡したが、
「不破小四郎と申したな! 誰だ、どいつだ、進み出ろ! この秋安一見したい! 少しく拙者には怨みがある」
ここで一人へ眼をつけたが、
「ははあ貴殿か! 貴殿でござろう!」
そっちへツカツカと歩み寄る。
歩み寄られた若侍は、いかさま不破小四郎でもあろう、一際目立つきらびやかの風で、そうして凄いような美男であった。
が、案外な卑怯者らしい。太刀こそ抜いて構えてはいるが、ヂタ、ヂタ、ヂタと後へ引く。
秋安にとっては怨敵である。萩野を奪われた怨みがある。
「こいつばかりは叩っ切ってやろう!」
で、ツツ||ッと寄り添った。
主人あやうしと見て取ったものか、二人の武士が左右から、挿むようにして切り込んで来た。
と、鏘然たる太刀の音!
つづいて森の木洩陽を縫って、宙に閃めくものがあった。払い上げられた太刀である。
すなわちは北畠秋安が、一人の武士の太刀を払い、そうして直ぐにもう一人の太刀を、宙へ刎ね上げてしまったのである。
と、逃げ出す足音がした。
主人の小四郎を丸く包み、五人の武士が太刀を拾わず、森から外へ逃げ出したのである。
「待て!」と秋安は声をかけたが、苦笑いをすると突立った。
「追い詰めて殺すにも及ぶまい。祟りのほどがうるさいからなあ」
で、抜いた太刀を鞘へ納め、パチンと鍔音を小高く立てたが、改めて娘の様子を見た。
木洩陽を浴びて坐っている、廻国風の娘の顔の、何と美しく気高いことよ!
そうしてこれほどの闘いにも、大して恐れはしなかったと見えて、別に体を顫わせてもいない。
とは云え勿論顔の色は、蒼味を加えてはいるのである。
「ほう」
秋安が声を上げたのは、その美しさと気高さとに、心を驚かせたからである。
恋を失った秋安は、どうやら意外の出来事から、新しい恋を得るようである。
が、それはそれとして、この日が暮れて夜になった時、花園の森の一所へ、一人の女が現われた。
闇の中の声
「秋安様の予言どおりに、
さも後悔に堪えないように、声に出して女は呟いたが、他ならぬ娘の萩野であった。
今宵も忍んで来るがよいと、こういう約束があったので、萩野は恋心をたかぶらせながら、
「野に在る花は野にあるがよい。
こういう露骨の言葉をさえ、萩野は小四郎から貰ったのである。
ことの意外に驚きながらも、どうすることも出来なかった。しかしどうしてそうもにわかに、小四郎の心が変わったのか、萩野には見当が付かなかった。
で、それだけでも聞きだそうと思って、小四郎の袖を抑えた時、
で、そのまま
で、フラフラと家を出て、近くの花園の森へまで、来るともなしに来たのであった。
萩野は松の木へ額をあて、じっと物思いに沈んでいる。
木洩れの月光が森の中へ、薄蒼い縞を投げている。それに照らされた萩野の肩の、寂しそうなことと云うものは!
と、その肩が顫え出した。すすり泣いている証拠である。
「小四郎様と
限りない絶望と悔恨とが、今や萩野をとらえたのである。
「ああこの森で秋安様と、幾度
フラフラと萩野は歩き出した。
「ああここに杉の木がある」
一本の杉の木へ手を触れたが、しずかに幹を撫で廻した。
「この木の幹に背をもたせかけて、はじめて秋安様がこの妾へ、恋心をお打ち明け下されたのは、一年前の今頃であった。あの時妾はまあどんなに、嬉しくも恥しくも思ったことか。『妾は幸福でござります。妾も
一本の桜の老木があった。木洩れの月光に浮き出して、満開の花が綿のように、森の天井を染めている。
その桜の木へ
「この桜の花の下で、行末のことを語り合い、あのお方の熱い唇を、はじめて額へ受けたことがある。
松の巨木が聳えている、幹に月光が斑を置いていた。
その幹へ萩野は寄りかかったが、袂で顔を蔽うようにした。にわかに体が
やがて心を定めたかのように、萩野はゆるゆると立ち上ったが、腰の辺りを探り出した。
と、紐がクルクルと解けた。
仰ぐように顔を上向けて、松の下枝へ眼をやったが、片手を上げて紐を投げた。
松の枝へかかって下った紐を、両手で握って引いたのは、
縊れて死のうとしたのであった。
しかし紐の端へ頤をかけた時に、
「ひとつ御相談にのりましょう。短気はおやめなさりませ。死ぬほどの事情がありましても、生きられる事情にもなりますもので。ひとつ御相談に乗りましょう。私にお
つづいてこういう声がしたが、優しい老人の声であった。
秋安の館
ちょうど同じ晩のことであるが、秋安の屋敷の一間の中で、廻国風の美しい娘と、北畠秋安とが話していた。
秋安の父は
「人間の栄華というようなものは、そうそう長くつづくものではない。よし又長くつづいたところで、大して嬉しいものではない。栄華には栄華の
これが秋元の心持であった。従って伏見桃山の栄華や、聚楽の豪奢に対しても、全くのところ風馬牛であった。
とは云え関白秀次の態度||すなわち兇暴と荒淫との、交響楽じみた態度については、苦々しく思っていた。
「今にあの卿は亡ぼされるであろう」と、人に向かって噂などもした。
そういう秋元の子であった。秋安も閑雅の人物であったが、若いだけに覇気があって、
そういう豪族の居間である。
秋安と美しい廻国風の娘と、語り合っているその部屋には、
「······そういう訳でございまして、
その娘の名はお
それであればこそお紅という娘も、貧しい貧しい廻国風の姿に、身を

素性を聞いたために秋安が、いよいよお紅という娘に対して、いわれぬ愛着と尊敬とを、感じたことは言うまでもない。
で、幾度も頷いたが、
「いずれ
「はい」と云うと娘のお紅は、寂しそうに顔を俯向けたが、
「手頼り無い身にござります。一人ぼっちの身にござります。やはり諸国を巡りまして、神社仏閣を参拝し、この一生を終わります他には、手段はないように存ぜられます。今宵一夜だけお泊め下されて。明日はお許し下さりませ。早々においとまいたしまして······」
「旅へ立たれるお
「そう致しとう存じます」
「が、またもや悪漢どもが、苦しめましたならどうなされます」
途絶えた鼓
これがお紅には気がかりなのであろう。俯向いたままで黙っている。
どうやら夜風でも出たらしい、この
庭には花が咲いているはずだ。風に巻かれて諸々の花が、繚乱と散っていることであろう。
が、この部屋は静かである。
なやましい春の深夜である。
それに似つかわしい美男、美女が、向かい合って黙って坐っている。
花ヲ踏ンデ等シク惜シム少年ノ春
燈火ニ背ムイテ共ニ憐ム深夜ノ月
そういう眺めと云わなければならない。燈火ニ背ムイテ共ニ憐ム深夜ノ月
と、鼓の音がした。秋元の居間から聞こえてくる。つれづれのままに取り出して、秋元が調べているのであろう。曲はまさしく
秋安とお紅とは顔をあげたが、じっとその耳を傾けた。
と、自ずから眼が合った。
「まずお聞きなさりませ」
眼を見合わせた一瞬間に、秋安はお紅の眼の中に、愛情の籠もっていることを、直覚的に看て取った。
「廻国をするということは、この娘の本当の願いではない。たしかにこの俺を愛している」
そういうことも感ぜられた。
で、秋安は勇気づいて、思う所を述べ出した。
「まずお聞きなさりませ」||秋安は云いつづけた。
「手頼り無いお身の上でござりましょう。では
しかしお紅はそう云われても、すぐにその言葉に応じようとはせず、いぜんとして黙って俯向いていた。
と云って秋安のそういう言葉を、決して疑っているのではなく、ましてや秋安の親切な心を、受け入れまいとしているのではなかった。
ただお紅の心としては、秋安の好意が著しいために、かえってそれに圧倒され、そうしてそれに従うことは、その著しい秋安の好意に、つけ込むように感ぜられて、相済まないように思われるのであった。
素性の卑しい人間ならば、相手の好意に取り縋って、すぐにも自分の苦しい境遇を、救って貰おうとするだろう、立派な素性であるがために、かえってお紅は矛盾を感じて、心を苦しめているのであった。
で、しばらくは無言である。
鼓の音ばかりが聞こえてくる。
が、にわかに鼓の音が、糸でも切ったようにフッと切れた。
これはどうしたことなのであろう? 曲は終わってもいないのに。
しかし向かい合って沈黙して、互いに相手の心持を、探り合っている二人には、にわかに切れた鼓の音に、注意の向かうはずはなかった。そうして、いっそう人の足音が、秋元の居間から幽かに聞こえ、そうして襖が一二度開き、そうして足音が家の中から、庭上へ移ったということなぞに、感付かなかったのは当然と云えよう。
骸を前の新生の恋
とは云え忽ち庭上から、
「何者!」という鋭い声が響き、つづいてアッという悲鳴が起こり、それに引きつづいて乱れた足音が、いくつか聞こえてきた時には、秋安とお紅も感付いた。
蒼白い
見れば足許に一人の武士が、姿の様子で大方は
秋安はそっちへ走り寄ったが、
「父上、何事でござりますか?」
抜身を引っ下げて佇んでいたのは、秋安の父秋元であった。
「うむ、秋安か、この有様だ」
それから太刀へ拭いをかけ、鞘へソロリと納めたが、
「実はな、音色が変わったのだ」
「は? 音色? 何でございますか?」
「調べていた鼓の音色なのだ。······それが何となく変わったのだ。······そういうことも無いことはない。おおよその楽器というものは、調べる人の心持によって、音色を変化させると共に、
死骸へ改めて眼をやったが
「その風俗で大概は知れる。困った奴らがやって来たものだ。何の目的かは知らないが。······
花木の間だをくぐるようにして、秋元は静かに歩み去ったが、月光を浴びた
と、その時人の影が、忍びやかに秋安へ近づいて来た。
たしなみの懐刀を握りしめたところの、廻国風の娘であった。
「秋安様」と寄り添うようにした。
「ああここに切られた人が!」
「
秋安は死骸を指さしたが、
「
お紅には言葉が出なかった。俯向いて死骸を見下ろしている。
「都にあってもこの有様でござる。一度地方へ出られようものなら、もっと恐ろしい数々のことが、降りかかって来ることでござりましょう。お紅どのここへお止まりなされ。我々がご保護いたしましょう」
無意識に秋安は手を延ばした。
これもほとんど無意識のように、お紅も片手を上げた。
で、死骸を前にして、二人の手と手とが握られた。
白い木蓮が背景となって、手を取り合った男女の姿が、月下に幸福そうに立っている。
しかしこういう二人の恋が、無事に流れて行こうとは、想像されないことであった。
執念深くて淫蕩で、傍若無人で権勢を持った、聚楽の若い侍に、お紅は狙われているのである。
奪い取られると見做さなければならない。
どのように北畠一家の者が、そのお紅を保護した所で、守り切れないことともなろう。
しかし、お紅にも秋安にも、そういう形勢は解っていた。
「もしものことがあろうものなら、潔よく自害をいたします」
九燿の星の紋所の付いた、懐刀をお紅は秋安に示して、そういうことを云ったりした。
が、ともかくも五日十日と、その後無事に日が流れて、二人の恋は愈々益々、その
不破小四郎の邸
「
「まさかにあの晩に鴨丸めが、切り付けようとは思わなかった」
「性来鴨丸めは
「それに北畠秋元めが、切り返そうとは思わなかった」
「それに第一秋元めは、どうして俺達の忍び込んだことを、感付いたものか合点がいかない」
「随分上手に忍び込んだのだが」
「のっそりと秋元が現われた時には、さすがに俺もギョッとしたよ」
「秋元め随分冴えた腕だの」
「一刀に鴨丸を斃したのだからな」
「仰天して俺達は逃げ出したが、いつまでもマゴマゴしていようものなら、やっぱり秋元に切られたかも知れない」
「切られないまでも捕らえられでもしたら、それこそ本当に目もあてられない」
「何と云ったところで若い娘を、引っ攫おうとしたのだからな」
「いぜん娘は北畠の邸に、身をかくしているということだ」
「外出などもしないそうだ」
「つまりは守られているのだろう」
不破小四郎の邸の一間で、四五人の若い
宵を過ごした初夏の夜で、
小四郎は
その銀燭を左手へ置いて、上座の円座に坐っているのは、邸の主人の小四郎で、前髪も剃らない若衆であったが、不愉快そうに苦り切っている。
「俺はな」と小四郎は云い出した。
「ひどくあの娘が好きなのだ。廻国風の娘がよ。で、どうしても手に入れなければならない。そこでお主達に頼んだのさ。是非あの娘を盗み出してくれとな。ところがお主達はやりそこなった。
「いやこれは素晴らしい妙案」
「さすがは聡明の不破殿だ、よい所へお気が附かれた」
座に集まった一同の武士は、即座に同意をしてしまった。
「しかし」とこの時一人の武士が||栃木三四郎という
「目下伏見から
「いや大丈夫、大丈夫」
こう云いながら手を振ったのは、桃ノ井
「幸蔵主殿は私用とのことで、何も恐れるには及ばない。それに我君と幸蔵主殿とは、幼少の頃からのご懇親で、万事につけて聚楽のお為を、以前からお計らい下されて居られる。悪いようには覚し召すまい」
「いやいや一考する必要がある」
こう意議[#「意議」はママ]をはさんだ武士があった。
「女ながらも幸蔵主殿は、太閤殿下の
「それに」ともう一人が心配そうにした。山崎
「ご宿老の木村
聚楽第の秘密
そもそも幸蔵主とは何者であろうか? 豊臣秀吉の大奥に仕えてそれの切り盛りをしているところの、いうところの老女であった。女ながらもずば抜けた知恵者で、一面権謀術数に富み、一面仁慈寛大であった。加藤清正や福島正則や、
また秀次が孫七郎と
ところで秀次は累進して、そうして秀吉の後を受けて、関白職に経上って、
秀吉の謀将の石田三成や、増田
秀吉との不和は秀次にとっては、何よりも恐ろしいものであった。で、甘心を買おうとした。それを中にいて斡旋したのが他ならぬ老女の幸蔵主であった。
その幸蔵主が忍ぶようにして、伏見の秀吉の居城からこの聚楽へ来たのであった。
そうして何やら幸蔵主は、秀次に旨を含ませたらしい。
どういう旨だか
しかしどうやら秀次にとっては、快くない旨らしい。それには従おうとはしないのであった。
そうして終日不機嫌であった。
で、何となくここ数日、聚楽第の空気は険悪であった。
「ナーニ大丈夫だ大丈夫だ」
不破小四郎は事もないように、さも不雑作にこう云ったが、自信がありそうに一同を見た。
「幸蔵主の姥がやって来て、殿下のご機嫌がよくなくて、終日終夜の乱痴気騒ぎで、上下が昏迷をしているのが、かえって俺には好都合なのさ。どさくさまぎれに申し上げて、殿下のお許しを受けるのさ。よろしい
間違いはないよと云うように、小四郎は額をこするようにしたが、果たして成功するであろうか?
巨人と怪人
その日からちょうど二日経った。
ここは聚楽の奥庭である。おりから深夜で月はあったが、植え込みが茂っているために、月の光が遮られている。
一宇の
そこに腰をかけている武士がある。
思案にあまったというように、胸の辺りへ腕を組んで、じっと足許を見詰めている。
木の間をとおして聚楽第の、宏壮な
「どうしたのだろう、遅いではないか」
縁に腰をかけた大兵の武士は、誰かを待ってでもいると見えて、ふとこう口に出して呟いた。
と、その呟きに呼ばれたかのように、巨大な蘇鉄の根元を巡って、小兵の武士があらわれた。
「木村殿かな?
「おお五右衛門か、待ちかねていたよ」
「約束の時刻よりは早いつもりだ」
云い云い静かに歩み寄って、縁へ腰をかけた常陸介と、押し並ぶように腰かけたのは、
ちょいと五右衛門は
「相変わらず今夜も盛んだの」
「うん」と云ったものの常陸介の声には、憂わしい不安な響きがあった。
「あの有様だから困るのだ」
「そうさ、あれでは困るだろう」
で、沈黙が二人へ来た。
「ところで五右衛門結果はどうだ?」
ややあって常陸介がこう
「うむ、ともかくも一通りは探った」
五右衛門の声には
「ただの私用ではないのだよ」
「俺もそうだろうとは感付いていたが、幸蔵主の態度が不明なのでな」
「あれは秀吉の
「が、我君にも忠実のはずだ」
「しかしそれは私情だよ。大事に処せば私情などは、
「お互いそれには相違ないさ。······で、幸蔵主が我君を連れて伏見の城へ行こうとするのは、やはり太閤の指し金かな?」
「そうだ秀吉の指し金なのだ」
「伏見へ召してどうするのだろうな?」
「まず詰腹でも切らせるだろうよ」
「詰腹。······ふうむ。······そうかも知れない。······」
常陸介にもそういうことは、以前から心にあったものと見えて、そう云われても驚かなかった。しかし苦悶は感じたらしい。俯向いて足許を睨んでいる。五右衛門もしばらくは物を云わない。で、この境地はひそやかであった。
それと反対の趣をなして、明るい華やかな笑い声が、主殿の方から聞こえてきた。
「五右衛門」と常陸介は呼びかけた。
「ひとつ詳しく話してくれ、伏見はどんな様子なのだ」
「詳しく話せと云ったところで、これと云って詳しく話すところもないが。だがマア探っただけを話して見よう。······お前から
『······幸蔵主に胸を[#「胸を」はママ]含ましておいた。大方うまくやるだろう。······そう心にかけないがよい。······実子は俺だって可愛いいからの······』
秀吉が淀君へ云ったのさ。すると淀めが笑い出したっけ。||これだけ聞けば用はない。で城から抜け出したが、その時つくづく思ったものだ。ナニ秀吉の寝首などは、掻こうと思えば掻けるものだとな。······秀吉だと云ったって人間だ、油断もあれば隙もあるとな。······それから俺は念のために、石田
『幸蔵主殿の甘言を以て秀次君をおびき出し、城中で詰腹を切らせましょう』
『いやいや我君のお眼に入れては、血縁のある伯父姪[#「姪」はママ]でござる。いっそ途中の伏見街道で、お腹を召さすがよろしかろう』
これが二人の話なのだ。||これだけ耳にすれば用はない。で俺は直ぐに抜け出したのだが、道々俺は考えたよ。大胆不敵の話だとな。何故というに他でもない。とにかく天下の関白職を、まるで鶏でも絞めるように、無雑作に殺すことに決めているからさ。そうしてにわかに恐ろしくなった。やはり秀吉は偉い奴だ。やろうと思えばどんなことでもやる。とても普通の人間ではない。隙だらけと思っていた伏見の城が、恐ろしいものにも思われて来た。今度忍んだら
黙って聞いていた木村常陸介は、五右衛門の話が終えてからも、いぜんとして沈黙をつづけていた。
で、境地はひそやかである。
それだけに聚楽の主殿における、夜宴の賑かさが気味悪く聞こえる。
と、卒然と常陸介は云った。
「五右衛門もう一度忍んでくれ」
「もう一度伏見城を探れと云うのか?」
「秀吉の寝首を掻いてくれ」
「············」
またも沈黙がやって来た。
二人ながら黙っている。
忍び込んだ武士は?
石川五右衛門は浪人であった。学者でもあるし茶人でもあるし、伊賀流の
で、すぐに浪人をした。それを知った木村
すると五右衛門のことである、常陸介を主人と
大概の人物なら怒ったであろう、ところが常陸介は大人物であった。そのようなことは意にもかけずに、同じように対等の交際をした。これが五右衛門には嬉しかったらしい。知己を得たような気持がした。で、非常に感激をして、この人のためなら死んでもよいと、そんなようにさえ思うようになった。
で、今度も常陸介から、伏見城の様子を探ってくれと、こう頼まれたのに直ぐに応じて、その役目を果たしたのであった。
ところがもう一度伏見城へ忍んで、秀吉の寝首を掻いてくれという。||これには豪快な石川五右衛門も、考え込まざるを得なかった。
で、即答をすることが出来ない。腕を組んだまま黙っている。
が、木村常陸介が、低くはあったが凄愴の口調で、次のようなことを云ったがために、五右衛門は困難な常陸介の頼みを、むしろ勇んで引き受けた。
次のように常陸介は云ったのである。
「お前ばかりを死なせはしないよ。俺もおっつけ死ぬことになろう。······お前の
「わかった」と云うと五右衛門は、縁からユラリと腰を上げた。
「末代までも名が残ろうよ。太閤の寝首を掻いたなら! よしんば失敗をしたところで······」
云いすてると石川五右衛門は、木立を廻って立ち去った。
その足音が消えた時に、木村常陸介も立ち上ったが、思案にくれながら歩き出した。
「どうともして我君秀次公を、危険きわまる伏見の城へ、参第せぬようお諌めしなければならない」
行手に築山が聳えている。
裾を巡って先へ進む。
と、泉水が堪えられていた。
廻って
「はてな」と呟いて佇んだのは、厳しい聚楽第の石垣の上から、武士姿の一つの人影が庭へ飛び下りたがためである。
「これは怪しい、何者であろう?」
常陸は首を傾げたが、
「伏見方の間者ではあるまいか?」
自分が五右衛門を刺客として、伏見城へやったおりからである。
伏見方の間者ではあるまいかと、ふと考えたのは当然といえよう。
「よしよし後をつけてやろう」
で、足音を盗むようにして、常陸介は後をつけた。
曲者は顔を包んでいる。どうやら年は若いらしい。心が
「ああこれは間者ではない。ましていわんや刺客などではない。歩き方や態度で自ずとわかる。これは決して悪者ではない。とは云え聚楽第の武士ではない。おかしいなあ何者だろう」
心掛けの深い常陸介ではあったが、これ以上は知ることは出来なかった。
瞬間四人を討って取る
曲者は先へ進んで行く。常陸介はつけて行く。次第に主殿へ近づいて行く。
と、その主殿の方角から、四五人の武士が話しながら、あべこべにこっちへ歩いて来た。
「不破氏、不破氏、小四郎殿、そう憤慨をなさらないがよろしい。何も主命でござるからな」
一人の声が、なだめるように云った。
「さようさよう何も主命で」
相槌を打つ声が直ぐにした。
「それにさ、あれくらいの女なら、この世間にはいくらでもござる。あの女はあのまま差し上げなされ。そうしてその代わりにご愛妾の一人を、頂戴なさるがよろしかろう」
「その方がいい、その方がいい」
また相槌を打つ声がした。
「たかが廻国にやって来て、京へ止まった田舎娘でござる。そのような女に未練をもたれて、殿下のご機嫌を取り損なったら、これほどつまらないことはない。おあきらめなされ、おあきらめなされ」
「さようさようおあきらめなされ」
四人目の声も相槌を打つ。
が、そういう取りなしに答えて、怨みと憤りに充ちたような、狂気じみた声が聞こえてきた。
「いやいやせっかくのご忠告ではあるが、
不破小四郎を取り囲んで、
ところで彼らの話によれば、気の毒なことにはお紅という娘は、北畠家から奪い取られて、今、聚楽第にいるらしい。では
不破小四郎と四人の武士とは、云いつのりながらなだめながら、次第にこっちへ近寄って来る。
と、一所に木立があって、そこの前までやって来た時に、飜然と飛び出した人影があった。同時に月光を横に裂いて、蒼白く閃めくものがあった。と、すぐに悲鳴が起こって、朽木三四郎がぶっ仆れた。すなわち木立から飛び出して来た、覆面姿の侍が、先に立って歩いて来た朽木三四郎を、抜き打ちに切って斃したのである。
「曲者!」と叫んだのは加島欽哉で、太刀柄へ右手をグッと掛けたが、引き抜くことは出来なかった。三四郎を斃した覆面の武士が、間髪を入れないで閃めかした太刀に、左肩を胸まで割られたからである。
「曲者!」とまたも同音に叫んで、山崎内膳と桃ノ井紋哉とが、左右から同時に切り込んで行った。が、それとても無駄であった。片膝を敷いた覆面の武士が、横へ払った太刀につれて、まず内膳が腰車にかけられ、ノッと立ち上った覆面の武士の、鋭い突きに桃ノ井紋哉が、胸を突かれて斃れたからである。
四人を瞬間に打って取った、覆面の武士の腕の冴えには、形容に絶した凄いものがあった。
と、その武士がツと進んだ。
「小四郎! 不破! 極悪人め! よくもお紅殿を奪ったな! 某こそは北畠秋安! 怨みを晴らしにやって来た。お紅殿を取り返しにやって来た! 観念!」
とばかり切り込んだ。
「出合え! 曲者!」と叫んだが、不破小四郎は見苦しくも、主殿をさして逃げ出した。
「逃げるか! 卑怯! 何で遁そう!」
四人を切った血刀を、頭上に振り冠った秋安は、すぐに小四郎を追っかけた。
と、その眼前へ大兵の武士が、遮るようにして現われたが、威厳のあるドッシリとした沈着の声で、
「北畠殿と仰せられるか、まずお待ちなさるよう。某事は木村常陸介、子細は見届け承わってござる。悪いようには計らいますまい」
こう云うと手を上げて制するようにした。
廊下を渡る雪燈の火
現われた武士は誰あろう、
で、ダラリと刀を下げて、常陸介を見守った。
「さて」と云うと常陸介は、一層物憂しい口調になったが、なだめるように説き出した。
「貴殿のお父上秋元殿は、高朗としたお人柄で、
とここまで云って来て、木村常陸介は叱るようにつづけた。
「聚楽第には
しかしまたもや優しくなり、慰めるような口調となった。
「余計なことは申しますまい。某をお信じなさりませ。某必ずお紅殿を、無垢の
こう云われてみれば秋安には、押して云うべきことはなかった。なるほど主殿へ切り入ったならば、討って取られることであろう。決死の覚悟で来たのではあったが、殺されるのを望んでいるのではない。それにお紅を処女のままで、返してくれるというのである。苦情を云うべき筋はない。しかも言葉を誓ったのは、他ならぬ木村常陸介である。充分に信頼してよかった。
で、ひき上げることにした。
「ご芳志
「大丈夫でござる、お案じなさるな」
「は」と恭しく一礼して、木立をくぐって北畠秋安は、忍びやかに後へ引き返した。
しかし十足とは歩かない中に、一つの恐ろしい事件が起こった。
酒宴をひらいている主殿の樓の、明るい華やかな笑声を縫って、悲痛極まる女の声が、一声けたたましく聞こえたかと思うと、一所の襖が仆されて、女の姿がよろめき出たが、欄干へ体をもたせかけると、そのままグッタリと動かなくなり、つづいて何物かが女の手から、秋安の足許へ投げられた。
秋安は驚いて小腰を屈め、投げられた物を取り上げて見た。
「九燿の紋の付いた懐刀だ! 血にぬれている、血にぬれている! ああお紅殿は自害なされた! 常陸介殿!」
と、飛びかかるようにしたが、
「お紅殿は自害を致しましたぞ!」
「うむ」と云うと木村常陸介は、腕をしっかりと胸へ組んだが、しばらくの間は黙っている。
と、グイと顔を上げたが、樓上の女の死骸を見た。四五人の人影が現われて、欄干に仆れている女の死骸を、屋内へ運んで行こうとしている。
と、木村常陸介は、にわかに頭を巡らしたが、主殿と並んで立っている、一宇の奇形な建物を見た。その建物と主殿とを繋いで、長い廻廊が出来ていたが、その廻廊に青い
「なるほど」と呟いたのは常陸介であった。秋安の方へ顔を向けたが、
「誓った言葉に背きはしませぬ。
そういう言葉には確信らしいものが、さも重々しく籠もってもいた。
酒乱の関白
ちょうどこの頃
「女は死んだか、自害したか、ワッ、ハッ、ハッ、それもよかろう。死にたい奴は死ぬがよい。殺してくれなら殺してもやろう。たかが卑しい女一人だ! 切ろうと
蒼白の顔色、充血した眼、釣り上った眉、歯を剥いた口、これが関白たる貴人であろうか? そんなようにも思われるほどに、すさみにすさんだ容貌である。髪を茶筌に取り上げて、練絹の小袖を纏っている。盃を握った右の手が、ブルブルと恐ろしく顫えている。癇をつのらせている証拠である。
金泥銀泥で塗り立てられた、絢爛を極めた盃盤が、無数に立てられた銀燭に照らされ、蒔絵をクッキリと浮き出している。朱色に塗られた長柄の銚子が、次から次と運ばれて来る。床の間には黄金の香炉があって、催情的の香の煙が、太い紐のように立っている。
「お
またも秀次は喚き出した。
「······何を恐れる! 天下人だぞ! 何を遠慮する、関白だ! 一天四界俺の物だ! 何を怯える、石田、増田に! 巷の
金銀で飾った脇息に倚って、秀次はのべつに喚き立てる。
座に列なっている妻妾や
たった今女が死んだのである。懐刀で自害をしたのである。で、すっかり怯かされている。その上に例の酒乱が出て、秀次の態度が兇暴になった。果たしてどうなることだろう? で、黙っているのである。
狩野永徳の唐獅子の屏風、
と、秀次は眼を据えたが、一人の侍女へ視線を止めた。
「これこれ
「
オドオド顫えながら答えたのは、秀次の愛妾
「千浪というか、よい名だよい名だ。参れ参れここへ参れ!」
愛妾の死
淫蕩とそうして兇暴の光を、その眼の中へ漂わせながら、こう秀次に呼びかけられて、千浪はいよいよ顫え出した。
「はい」と云ったものの近寄ろうとはしない。あべこべに葛葉の
「何も恐れることはない。取って食おうとは云っていない。可愛がってやろうと云っているのだ。参れ! 厭かな? 厭なことはあるまい」
秀次はヒョロヒョロと立ち上ったが、千浪の方へ歩き出した。
と、そういう様子を見て、血相を変えた女がある。他ならぬ愛妾葛葉の方で、かばうように千浪を蔽うたが、
「許しておやり遊ばしませ。まだこの子はほんの
しかし葛葉の顔にあるものは、決して同情や愛憐ではなくて、むしろ自分の寵愛を、
「ナニ処女、ははあそうか」
秀次はカラカラと笑ったが、
「一層よいの、処女に限る。······
秀次はなおもヒョロヒョロと進む。
あれ! というように声を上げて、千浪が立って逃げ出したところを、飛びかかって秀次は小脇に抱いた。
「もがけもがけ、あばれろあばれろ、そのつどお前の軟かい肌が、俺の体へぶつかるばかりだ! 小鳥よ、捕らえた! 可愛い色鳥!」
ズルズルと引き立てて行こうとした。
その秀次の両の足を、しっかりと抱いた者があった。やはり葛葉の方である。
冷やかに秀次は睨んだが、
「嫉妬か!」
「上様!」
「邪魔をするか!」
「はなしておやり遊ばしませ」
「
「上様、お慈悲にござります」
「ふん」といかにも憎々しく、秀次は鼻を鳴らしたが
「
「いっそお手にかけて下さりませ」
「望みか!」と云うと秀次は、ドンと片足を持ち上げたが、ウンとばかりに蹴仆した。
と、悶絶をする声がした、胸を蹴られた葛葉の方は裾を乱して伏し転んだ。
一瞬間のざわめきの起こったのは、座に
「今夜はこれで二人死んだ。おそらくまだまだ殺されるだろう。殺せ殺せ、目茶苦茶に殺せ! 聚楽の栄華も先が知れている」
こう呟いた者があったが、
狂人じみた目付きをして、秀次は大広間を見廻したが、
「目障りになる! 片付けろ! 死骸は厭だ! 井戸へでも沈めろ!」
それから千浪を引きずったが、
「今夜の
で、襖を開けようとした。
と、その襖が向こうから開いて、
「孫七郎様」と云う声が聞こえてきた。優しくて穏かではあったけれど、威厳のある老女の声であった。
つと立ちいでた人物がある。
円頂黒衣鼠色の衣裳、手に珠数をつまぐっている。眉長く鼻秀で、額は広く頤は厳しい。澄んではいるが鋭い眼、頬に無数の皺はあるが、かえって顔を高貴にしている。
これこそ女傑
「相変わらずのお
あたかも子供でもあしらうように、こう秀次に云いかけたが、咎めるような調子はなくて、なだめるような調子があった。そうしてそれが大広間の殺気と、秀次の兇暴の心持とを、平和な甘いものにした。
「幸蔵主の姥か」と鼻白んだように、秀次は千浪の手を放したが、
「
云い云い元の座へ押し坐った。
と、幸蔵主も膝を揃えて、秀次の前へ坐ったが、手を上げると大広間を撫でるようにした。立ち去れという所作なのである。
これで助かったというように、座に並んでいた妻妾達が近習の武士達と立ち上って、一整に姿をかくした後には秀次と幸蔵主ばかりが残された。
能弁の幸蔵主
しばらく幸蔵主は秀次の顔を、まじろぎもせずに見ていたが、いかにもいたわしさに堪えないように、いたわるように話しかけた。
「
と、ここまで云って来て幸蔵主は、繊細微妙な笑い方をしたが、
「お疑いさえ晴れましたら、貴郎様には直ぐにもご帰洛、ここ聚楽第の主として、いぜんとして一ノ人関白職、どのような栄華にでも耽けられます」
この言葉が何よりも秀次の心を、強く烈しく打ったようであった。
「幸蔵主の姥!」とじっとなったが、
「伏見へ参ってお詫びさえしたら、俺は聚楽へ帰られようかな? 現在の位置に居られようかな?」
「妾をお信じなさりませ。孫七郎様の昔から、膝へ掻き上げてご介抱をした、この幸蔵主ではござりませぬか。今はお偉い関白様でも、妾の眼から見ますれば、可愛らしい
「行こう行こう、伏見へ行こう!」
子供のように他愛なく、こう秀次は甘えるように云った。
「俺にもお前は懐かしい。
「ようご決心なされました」
「伏見へ行こう! 明日にも行こう」
秀次は決心をしたのである。
と、幸蔵主の眼の中へ、憐愍の情がチラツイたが、直ぐにさり気なく消してしまった。
二人はしばらく無言であった。
と、聚楽第の一所から、人が斬られでもしたような、悲鳴が一声聞こえてきた。
不意に立ち上った幸蔵主は、スルスルと、欄干の
で、そっちへ眼をやったが、
「今夜はこれで三人斬られた。······それにしても奇形な建物は、何を入れて置く建物なのであろう?」
この部屋は?
奇形な建物の内部の一間で、老婆が
「最初は誰も彼もがんばりますよ。でもこの部屋へ押し入れられて、ものの五日と経たないうちに、大概は往生をしますよ。そうして今度は自分の方から、懇願をするようになりますよ。お側へ行かせて下さいましと。······だからお前様におかせられましても、もうもうそれこそ間違いなく、この部屋をお出し下さいまし、関白様のご寝所へ、お連れなすって下さいまし、男の肌、男の匂い、男の力、男の
六十あまりの老婆である、脂肪肥りに肥っている。胡麻塩の髪の毛、刺のような鼻、おち窪んだ眼、皮肉な口、それが老婆の風采である。
部屋の朦朧とした光に照らされ、妖怪じみて立っている。
その部屋の様の艶妖なことよ! そうして異国じみていることよ!
部屋の一所に浴槽があって、淡黄色の清らかな湯が、滑石の浴槽の縁をあふれて、床へダブダブとこぼれている。その傍らの壁の
············
そういう連想を見る人の心へ、起こさせるように出来ていた。
が、その部屋もバタビヤ織りらしい、これも深紅の垂布によって、入口を蔽われているがために、ハッキリと見ることは出来なかった。
お紅の坐っている部屋のつくりには、これといって特異なものはなかった。
ただ天井から下っている、珊瑚と鋼玉と爐眼石とで、要所要所を鏤められた、朝顔型のアレジヤ龕が、朝顔型に琥珀色の光を、床の上へ一ぱいに投げていた、それの光に照らされて、
尖形のギアマンの水注がある。そうしてその色は紫である。盛られているのは水だろうか?
そういう器類を前にして、坐っているお紅の姿というものは、むごたらしいまでに取り乱していた。髪はほどけて顔へかかり、裾は乱れて
さながら人魚
お紅の心は乱れていた。思い乱れているのである。今日一日の出来事が、夢かのように思われてならない。
||秀次公の使者として、不破小四郎がやって来たこと、
「ここはどういう部屋なのであろう?」
お紅は
いつか老婆は立ち去ったと見えて部屋には誰もいなかった。
「まるで異国へでも来たようだよ」
見る物が驚きの種であった。
「正気づいた時にはこの部屋にいた。変なお婆さんが何か云った。一言も
お紅は空腹を感じて来た。人が気絶から醒めた時には、空腹を感じるものである。
「妾に下された食物なのであろう。では妾は遠慮なく食べよう」
で、お紅は手を延ばして、順々に食物を食べて行った。
「ああ妾は
で、咽喉を
しかしお紅は知らなかった。それらの食物や水の中に、愛慾をそそる××質が||
ただお紅は飲食をしたため、にわかに体が活々となり、元気づいて来たということと、
「体が汗にぬれている。妾は風呂へ入ることにしよう」
で、お紅は立ち上ったが、念のために部屋の中を見廻してみた。
が、誰も見ていない。
で、そろそろと帯を解いて。一枚々々衣装を脱ぐ、花の蕾が萼から花弁と、||一枚々々、一枚々々と||だんだんほぐれて行くようである。
と、雌蕊が現われた。処女の肉体が一糸も纏わず、白く艶々とむき出されたのである。
余りに清浄であるがために、たとえ誰かが見ていたとしても、何らの邪心さえ起こさなかったであろう。そんなにもお紅の裸体の姿は、清らかで美しいものであった。そうしてお紅のその裸身が、
そうしてその頃にはお紅の裸身は、浴槽の中に埋もれていた。例えることが許されるなら、浴槽の中の緑色の湯は、紺碧をなした潮であり、それに埋もれている裸体のお紅は、若い美しい人魚でもあろうか?
まさしく人魚に相違なかった。乳房から上を、潮から乗り出し、肩の上へ黒髪を懸けいている。快く閉ざした眼の瞼の、上気して薄紅く艶めかしいことは! ポッカリと唇を無心にあけて、前歯の一部分を現わしている。それがやはり艶かしい。
と、お紅は立ち上ったが、浴槽を出ると
だがお紅は知らなかった。浴槽の緑の湯の中に、
そうしてさらに知らなかった。管から吹き出している香水の中に、
いつまでもお紅は陶然として、香水の霧に巻かれている。
しかしそれから体を拭って、垂布をくぐって前房へ出て、そうしていぜんとして一糸も纏わず、バタビヤ織りの垂布をひらいて、寝部屋の中へよろめき込み、寝台へ体を横仆えて、桃色の薄布を一枚だけ懸けて、ウトウトと眠りに入った頃から、身内の血潮が騒ぎ立ち、············、············、追っかけ追っかけ上ぼって行くのを、堪えることが出来なかった。
漁色の動物
「ああ
烈しく喘いでいるらしい。胸から胴から下腹部から、延ばされた二本の脚の方へ、
そういうお紅を載せているところの、
お紅の心へ萌したものは、異性恋しさの心持であった。
その異性の対象は、最初は北畠秋安であった。
「
で、若々しい健康らしい、秋安の肉体を描いてみた。
「妾はあのお方と約束をした。行末
次第に心が恍惚として来る。全身が鞣めされ麻痺されて来る。
「ああ妾には誰でもいい」
不健全で好色で惨忍な、秀次の顔が浮かんで来た。
と、秀次に············甦って来た。ちっとも穢わしく思われない。ちっとも厭らしく思われない。今は全く反対であった。············
だがその次に浮かんで来たのは、不破小四郎の姿であった。
「今直ぐ妾へ来て下さるなら、···············!」
美しくはあったが上品ではなかった。||そういう不破小四郎の顔が、お紅には上品に見えさえした。
「ああ妾はあの人にだって············!」
寝台がリズミカルに揺れている。
お紅の全身は汗ばんで来た。呼吸が············。薄衣の下の肉体が············。
で、この寝部屋の寝台の上に、············裸形の女は、決してお紅ではないのであった。単なる漁色的の動物であった。つつましい清浄なお紅という処女は、ほんの少し前に消えたのである。
しかし漁色の動物は、お紅一人ではないのであった。
あの近東の回教国の、密房に則って作ったところの、この奇形な建物の内には、同じような部屋が
みだらな唄声なども聞こえてくる。
だがお紅には聞こえなかった。
掻きむしられるような············が、身心をメラメラと焼き立てる。その············を消し止めようと、お紅は夢中で争っている。
しかし絶対に勝ち難かった。次第々々に負けて来た。とうとうお紅は打ちのめされた。
「妾は············! 最初に来た人へ!」
桃色の薄衣を
「お婆さんお婆さん出して下さい! そうでなかったら連れて来て下さい!」
で、お紅は泣き出した。
で、もし誰か異性の一人が、ここの寝部屋へ入り込んだならば、お紅は············。············を失うであろう。
そうして今やそういう異性が、奇形な建物の出入口の前へ、ひそかに姿を現わした。
他ならぬ不破小四郎であった。
出入口の前に扉がある。内部が厳重にとざされている。その前に立った小四郎は、
「姥はいるか、四塚の姥は!」
こう呼びかけて聞き耳を立てた。
光消えぬ矣簒奪星
と、扉の向こう側から、老婆の声が聞こえてきた。
「四塚の姥はこの
嘲笑っているような声である。
「
「お声で大概
嘲笑っているような声である。
「姥か、お願いだ、扉をあけてくれ」
するといよいよ嘲笑いの声を、四塚の姥は扉の中で立てたが、
「これはこれは何を
「何を、莫迦な、そんなことぐらい、この小四郎が知らないものか。知っていればこそ頼むのだ。是非この扉をあけてくれ。そうしてお紅に逢わせてくれ。······お紅という娘はいるだろうな?」
「ハイハイおいででござりますよ。今頃はねんねでござりましょう。いいご機嫌でな。夢中でな」
「お紅は俺の女なのだよ。それを殿下が横取ったのだよ。いやいや横取ろうとしているのだよ。で、この密房へ入れたのさ。······だがお紅は俺のものだ。渡してくれ、渡してくれ!」
懇願的の声となった。
「あの娘は本当に
更にそれから誘惑するように。
「が、勿論頼むには、頼むだけのことはするつもりだ······殿下から拝領の生絹をやろう、殿下から拝領の羅紗布をやろう、殿下から拝領の紋唐革をやろう。もしお前が欲しいというなら、刺繍した黒
どうやら最後のこの言葉は、四塚の姥をまどわしたらしい。
しばらくの間は黙っていたが、諂うように声をかけた。
「黄金を下さると有仰るので?」
「やるよやるよ、背負いきれないほどやるよ」
「まあまあ左様でござりますか、考えることにいたしましょう。妾はすっかり老い枯ちて居ります。この女部屋の宰領役さえ、わずらわしいものになりました。どうぞ閑静な土地へ参って、安楽なくらしをいたしたいもので。それにはお宝が
すぐにカチカチと音がした。どうやら錠でもあけるらしい。
「有難い有難い礼を云うぞ。そうしたら俺はお紅を連れ出し、遠く他国へ行くことにしよう。そうしてそこで一緒に住む」
やがてギーという音がした。
と、扉が一方へあいて、
「お入りなされ」
「もう
だがその時どうしたのであろうか、四塚の姥は、
「あッ」と云ったが、ビ||ンと扉をとじてしまった。
「小四郎!」
「おッ、ご宿老様!」
「不忠者!」
か||ッと一太刀!
悲鳴が起こって骸が斃れた。
「四塚の姥! 扉をあけろ。······うむ、開けたか、顔を出せ。······お紅という娘が居るはずだ。丁寧にあつかって連れて参れ」
「かしこまりましてござります」
密房の扉があけられている。
砂金色の
血刀を下げて突っ立っているのは、宿老の木村常陸介であった。
足許に死骸が転がっている。一刀で仕止められた小四郎の死骸で、肩から胸まで割られている。
切口から流れた血が溜まって、廊下へ深紅の敷物でも、一枚厚く敷いたようであった。
「聚楽の乱脈はこの有様だ。とうてい長い
懐紙で血刀をゆるゆるとぬぐい、鞘へ納めた木村常陸介は、廻廊の欄干へ体をもたせ、奥庭の木立の頂き越しに、伏見の方の空を見た。
「これは
が、そこまで届かないうちに、消えてなくなってしまったからである。
「可哀そうに五右衛門は捕らえられたらしい」
一年後の花園の森
こうして一年の日が経った。
その間に起こった事件といえば、聚楽第の主人の秀次が、高野山で自害をしたことであろう。
木村常陸介をはじめとして、家臣妻妾が死んだことであろう。
石川五右衛門が四條河原で、釜茄にされたことであろう。
で、春が巡って来た。花園の森には松の花が咲き、桜の花が散り出した。そうして、麦の畑では、
そういう花園の森の中に、三人の男女が坐っていた。
「若い者同志は若い者同志、話をするのが面白かろう。どれどれ俺は見廻って来よう。······奴らあんまり騒ぎ過ぎるて」
森の奥に大勢の仲間がいて、陽気にはしゃいでいると見えて賑かな
で、軟かい草を敷いて、ここの境地へ残ったのは、梶太郎と萩野と二人だけであった。
昼の日が森へ差し込んでいる。その日に照らされた梶太郎の顔は、流浪の人種の若者などとは、どんなことをしても思われないほどに、上品でもあれば純情でもあった。しかし種族は争われないで、情熱的なところがあった。
じっと萩野を見守っている。烈しい恋の感情が、眼にも口にも漂っている。
梶太郎は事実燃えるがようにも、萩野を恋しているのであった。そうして幾度か打ち明けもした。しかし萩野はそれに対して、ハッキリした返事をしなかった。と云って萩野は衷心において、梶太郎を嫌っていないばかりか、仄かながらも愛していた。とは云えそれよりも一層烈しく、萩野は秋安に恋していた。未練を残していたのである。そうして過ぐる日その本心を、とうとう梶太郎の耳へ入れた。どんなに梶太郎の失望したことか! これが普通の香具師の、兇暴な若者であったならば、自暴自棄の感情の下に、萩野に対して暴力を揮うか、ないしは秋安を殺そうとして、付け狙って姦策を巡らしたであろう。しかし梶太郎は、反対であった。自分の恋を抑え付けて、萩野を故郷へ送り届けて、秋安の手へ渡そうとした。ちょうどその頃香具師の群は、丹波の亀山に居たところから、そこを引き払って一年ぶりに、この京の地へ来たのである。
この花園の森の近くに、秋安の邸はあるのだという。そうして日が暮れて夜が来た時、萩野は香具師の群から別れて、秋安の邸へ行くのだという。||では二人での話し合いは、今が最後と見做さなければならない。
どんなに梶太郎の心持が、暗くて寂しくて悲しいか、云い現わすことさえ出来なかった。
しかし萩野の心持も、同じように寂しく悲しかった。一年前の月の夜に、この森で首をくくろうとして、野宿をしていた梶右衛門のために、あぶないところを助けられて
二人はいつ迄も動かない。
ところで萩野の心の中には、さらに別の不安があった。
「秋安様には薄情な
しかるに萩野のそういう不安は、全然別途の趣の下に、以外に解決が付けられることになった。
ああ二組の幸福の夫婦
数人の男女の話し声が、森の一方から聞こえてきたが、次第にこっちへ近寄って来て、間もなく姿を現わした。一人は北畠秋安で引き添うようにして美しい婦人が、||それは他ならぬお紅であったが、侍女を従えて歩いて来た。二人はどう見ても夫婦であった。そうして事実夫婦なのであった。その証拠さえそこにある、侍女が
話しながらゆるゆると歩いて来る。
「今年も松の花が咲くようになった。思い出の多い松の花だ。この森にも思い出が多い。······あれからあの女はどうしたことやら」
感慨にたえないというように、秋安はしめやかに呟いたが、
「どこぞで幸福にくらして居ればよいが」
「萩野様のことでございますか?」
こうお紅は訊き返したが、
「もうどうやら
「今では幸福をいのるばかりだ。······これもお前のお蔭なのだよ」
「まあまあ何故でござりましょう?」
「お前が俺と一緒になって、俺を幸福にしてくれたからだ」
「もう愛しても居りませぬので?」
「愛するものはお前ばかりだ」
「いいえ、そうしてこの秋秀も」
こう云ってお紅は
「可愛い坊や、可愛い坊や······妾は幸福でござりますよ」
「自分で幸福でいる時には、他人の幸福も願うものだよ。······萩野が幸福であるように」
「可愛らしい香具師さんが居りますのね」
こう云ってお紅が足を止めたので、秋安もふと足を止めた。
そうして萩野へ眼をやったが、萩野はその前から、深く俯向いていたがために、秋安には顔が見られなかった。そうして姿は香具師風である。萩野であることが何で
が、お紅は気安そうに、二人の香具師の前まで行った。
「お怒りなすっては困ります。私達は幸福なのでございます。どうぞ
云い云いお紅は簪を抜いたが、萩野の前へそっと出した。
「はい、有難う存じます」
顔を上げた萩野の眼の中に、あふれる涙が光っていた。
「お美しい貴郎様のお志、いつ迄も忘れはいたしませぬ。······幸福におくらし遊ばすよう、おいのり致すでござりましょう」
「貴郎方ご夫婦もお幸福に······」
施しを快く受けられたので、お紅は喜悦を感じたらしい。ちょっと会釈すると身をひるがえして、行き過ぎた秋安の後を追って灌木の裾を向こうへ廻った。
と、じいいっとその後を、萩野は涙の眼で見送ったが、突然梶太郎の膝の上へ、しっかりと、顔を押しあてた。
「ねえ行きましょうよ、遠い他国へ、流浪しましょうよ、二人で一緒に!」
そうして烈しく咽び泣いた。
「············」
茫然とした若者の梶太郎には、何故そうもにわかに萩野の心が、一変したかが
「萩野さん、私はお礼を云うよ。ああ行こう、一緒に行こう。······そうしてお前さんは私のものだ」
「貴郎のものでございますとも! ただ今の若い美しいお方も、祝福をして下さいました。······私達二人を! 夫婦と見做して!」
「私の妻だ!」と抱きかかえた。その梶太郎に抱かれたままで、萩野はうっとりと呟いた。
「あの人達は
「わしは今でも幸福だよ、たった今
「何にも
拭くに由無い満眼の涙! 萩野の眼頭から流れ出たが、頬を伝わって頤まで来た。昔の恋を思い断って、新しい恋に生きようとする、悲しみと喜びの涙なのである。
花園の森は昼の日に明るく、草木と人とを照らしている。その中で桜花が蒸されている。
が、間もなく森の中から、十数人の香具師達が、流浪の人に特有の、軽快な自由な足どりで、笑いさざめきながら現われた。
近江をさして行くらしい。
その先頭に歩いて行くのは、新婿新妻を想わせるところの、梶太郎とそうして萩野であった。
肩と肩とを寄せ合って、つつましやかに歩いて行く。
野には陽炎、小鳥の声々! そうして行手にあるものは、新しい恋と生活とである。