1
天保元年正月五日、場所は浅草、日は
「浅草名物鬼小僧の手品、さあさあ遠慮なく見て行ってくれ。口を開いて見るは大馬鹿者、ゲラゲラ笑うはなお間抜け、渋面つくるは厭な奴、ちんと穏しく見る人にはこっちから褒美を出してやる。······まず初めは小手調べ、結んでも結べない手拭いの術、おおお立会誰でもいい、一本手拭いを貸してくんな」
「おいよ」と一人の職人が、腰の手拭いをポンと投げた。
「いやこいつア有難え、こう気前よく貸して貰うと、芸を
「たった今借りたこの手拭い、種もなければ仕掛もねえ。さあこいつをこう結ぶ」
云いながらヤンワリ結んだが、
「おおお立会誰でもいい、片っ方の端を引っ張ってくんな」
「よし来た」と云って飛び出して来たのは、この界隈の地廻りらしい。
「それ引っ張るぜ、どうだどうだ」
グイと引いたのが自ずと解けて、手拭いには結び玉が出来なかった。
「小手調べはこれで済んだ。お次は本芸の水術だ。······ここに大きな
こう云いながら鬼小僧は、
「嘘も仕掛けもねえ真清水だ。観音様の手洗い水よ。さてこの中へ砂糖を入れる」
「さあ誰でもいいちょっと来な。この砂糖を嘗めてくんな」
「ああ
一人の丁稚が飛び出して来た。ペロリと嘗めたがニヤニヤ笑い、
「やあ本当だ、
「べらぼうめエ、あたりめエよ。
パッと砂糖を投げ込んだ。と盃洗の水面から、一団の火焔が燃え立った。
ドッと囃す見物の声、小銭がパラパラと投げられた。
盃洗の水をザンブリと
「さあ今度は何にしよう? うんそうだ鳥芸がいい。まず鳥籠から出すことにしよう」
キッと空を見上げたが、頭上には
「おお太夫さん下りておいで。お客様方がお待ちかねだ」
こう云って招くような手附をした。
と、公孫樹の
「あっ」と驚いたのは見物ではなくて、太夫の鬼小僧自身であった。
「どうしたんだい、驚いたなあ」
「小僧、取れるなら取ってみろ!」
嘲るような声がした。
2
鬼小僧はギョッと驚いて、声のした方へ眼をやった。
「小僧」と老人は教えるように云った。
「手品などとは勿体無い。それは『
老人はスッと背を延ばした。
「重巌に我
老人は飄然と立ち去った。つづいてバラバラと見物が散り、間もなく暮色が逼って来た。
腕を組んだ鬼小僧、考え込まざるを得なかった。
「驚いたなあ」と嘆息した。
「ズバリと見抜いて
「どうしたのだよ、え、鬼公! 変に
「さあ一緒に帰ろうよ」
「うん、お杉坊か、さあ帰ろう」
こうは云ったが鬼小僧は、身動き一つしなかった。
お杉は驚いてじっと見た。黒襟の衣装に赤前垂、麻形の帯を結んでいた。驚くばかりのその美貌、錦絵から抜け出した
笠森お仙、
同じ浅草の人気者同士、鬼小僧とお杉とは
「お杉坊」と鬼小僧は物憂そうに、
「今日は一人で帰ってくんな。俺ら偉いことにぶつかってな、考えなけりゃアならないんだよ」
「
「え、それじゃアお前もか? アッハハハ大丈夫だ。
「お
「や、こいつア驚いたなあ。実は俺らもそうなのだ。術を見破られてしまったんだからな。気恥しくって出られやしねえ」
「じゃア一緒には帰られないの」
お杉は寂しそうな様子をした。肩を縮め首を垂れ、車坂の方へ帰って行った。
「いやに寂しい様子だなア」
ふと鬼小僧はこう思ったが、もうその次の瞬間には、自分の問題へ立ち返っていた。
日が暮れて月が出た。寒月蒼い境内には、黙然と考えている鬼小僧以外、人の姿は見られなかった。
と、鬼小僧は突然云った。
「
3
「解った! 箆棒! 何のことだ!」
こう叫んだ鬼小僧は、尻をからげて走り出した。
浅草から品川まで、彼は一息に走って行った。浜御殿を筆頭に、大名屋敷下屋敷、ベッタリその辺りに並んでいた。
「よし」と云うと飛び下りた。そこで地面へ這い這いになり、改めて奥庭を窺った。ある所は深山の姿、又ある所は深林の
「おかしいなあ?」と
「これ小僧」と呼ぶ声がした。
「感心々々よく参った。ここだここだ、こっちへ来い」
茶室の中から聞こえてきた。
鬼小僧は度胆を抜かれたが、それでも
「はてな?」と小首を傾げた時、正面の壁が左右へあいた。
「ここだここだ」と云う声がした。
「これじゃアまるで化物屋敷だ」
またも度胆を抜かれたが、そこは大胆の鬼小僧、かまわず中に入って行った。地下へ下りる階段があった。それを下へ下りた。畳数にして五十畳、広い部屋が作られてあった。しかも日本流の部屋ではない。
ここに至って鬼小僧は、完全に度胆を抜かれてしまった。で、ベタベタと床の上に坐った。その床には青と黄との、浮模様
「雲州の庭、よく
老人はこう云うと微笑した。手には洋書を持っていた。
「へえ、随分考えました。······雲州様なら松江侯、すなわち松平
鬼小僧は正直にこう云った。
「ところで俺を何者と思う?」
「さあそいつだ、見当が付かねえ」
「あれを見ろ」と云いながら老人は壁へ指を指した。洋風の壁へかかっているのは、純日本風の
「
「知っている段じゃアございません。だが紙鳶堂先生なら、安永八年五十七歳で、牢死されたはずでございますが?」
「うん、表て向きはそうなっている。が、俺は生きている。雲州公に隠まわれてな。つまり俺の『形学』を、大変惜しんで下されたのだ。俺は本年百十歳だ」
「それじゃア本当にご老人には、平賀先生でございますか?」
「紙鳶堂平賀源内だ」
「へえ」とばかりに鬼小僧は床へ額をすり付けてしまった。
4
その翌日から浅草は、二つの名物を失った。一つはお杉、一つは鬼小僧······どこへ行ったとも
鬼小僧はともかくも、お杉はどこへ行ったんだろう?
八千石の大旗本、大久保
大久保主計は
「これは
で、早速家来をやり、養母お粂を説得させた。一生安楽に暮らせる程の、莫大な金をやろうという、大久保主計の申し出を、お粂が断わるはずがない。一も二もなく承知した。
お杉にとっては夢のようで、何が何だか解らなかった。水茶屋の養女から旗本の養女、それも八千石の旗本であった。二万三万の小大名より、内輪はどんなに裕福だかしれない。そこの養女になったのであった。お附の女中が二人もあり、遊芸から行儀作法、みんな別々の師匠が来て、恐れ謹んで教授した。衣類といえば
「
これが彼女の本心であった。二月三月経つ中に、彼女は見違える程気高くなった。
地上のあらゆる生物の中、人間ほど境遇に順応し、生活を変え得るものはない。で、お杉もこの頃では、全く旗本のお嬢様として、暮らして行くことが出来るようになった。
そうして初恋にさえ捉えられた。
主計の奥方の弟にあたる、旗本の次男
今こそ旗本のお嬢様ではあるが、元は盛り場の茶屋女、男の肌こそ知らなかったが、お杉は決して
美貌は江戸で第一番、気品は旗本のお嬢様、それで心は茶屋女、これがお杉の本態であった。そういう女が初恋を得て、男へ通って行くのであった。どんな男の鉄石心でも、とろけざるを得ないだろう。一方三之丞は情熱家、家庭の風儀が厳しかったので、悪所へ通ったことがない。どっちかと云えば剣道自慢、無骨者の方へ近かった。とは云え旗本の若殿だけに、風貌態度は打ち上り、殊には生来の美男であった。女の心を引き付けるに足りた。
この恋成就しないはずがない。
しかし初恋というものは、漸進的のものである。心の中では燃えていても、形へ現わすには
ある日主計と奥方とは、ひそひそ部屋で囁いていた。
5
「
こう云ったのは奥方であった。
「うむ、お杉と三之丞か」
主計はむずかしい顔をしたが、
「何とかせずばなるまいな」
「どうぞ貴郎から三之丞へ。······
「うむ、そうだな、そうしよう」
翌日三之丞が遊びに来た。
「三之丞殿、ちょっとこちらへ」
主計は奥の間へ呼び入れた。
「さて
婉曲に諷したものである。
「はっ」と云ったが三之丞には、よくその意味が
その夜奥方はお杉へ云った。
「
こうしてお杉と三之丞とは、その間を隔てられた。隔てられて募らない恋だったら、恋の仲間へは入らない。おりから季節は五月であった。蛍でさえも生れ出でて、情火を燃やす時であった。蛙でさえも水田に鳴き、
二人は恋を募らせた。
お杉はすっかり憂鬱になった。そうして心が
三之丞は次第に兇暴になった。
恐ろしいことが起こらなければよいが!
それは夕立の雨後の月が、傾きかけている深夜であった。新吉原の土手八丁、そこを二人の若い男女が、手を引き合って走っていた。
と、行手から編笠姿、
「待て!」と侍は忍び音に呼んだ。
「ひえッ」と云うと男女の者は、
「どうぞお見遁し下さいまし」
こう云ったのは男であった。見れば女は手を合わせていた。
じっと見下ろした侍は、
「これ、
こう云いながらジリリと寄った。陰森たる声であった。一味の殺気が籠もっていた。
「は、はい、深い事情があって」
男の声は
「うむ、そうか、駈落か。······楽しいだろうな。嬉しいだろう」
それは狂気染みた声であった。
「············」
二人ながら返辞が出来なかった。
「そうか、駈落か」とまた云った。
「うらやましいな。······駈落か、······よし、行くがいい、早く行け······」
「はい、はい、有難う存じます」
男女は泥濘へ額をつけた。刀の鞘走る音がした。蒼白い光が一閃した。
「むっ」という男の息詰った悲鳴、続いて重い鈍い物が、泥濘へ落ちる音がした。男の首が落ちたのであった。
「ひ||ッ」と女の悲声がした。もうその時は斬られていた。男女の死骸は打ち重なり、その手は宙で泳いでいた。と、女の左手と男の右手とが搦み合った。月が上から照らしていた。血が泥濘へ銀色に流れ、それがピカピカ目に光った。
茫然と侍は佇んだ。二つの死骸を見下ろした。女の衣装で刀を拭い、ゆるくサラサラと鞘へ納めた。
「
「お杉様!」と咽ぶように云った。
それから後へ引っ返した。
6
江戸へ「
さて一方お杉の身の上には、来べきことが来ることになった。将軍
で、お杉は奉仕した。しかし心では初恋の人を、前にも増して恋い慕った。逢うことも話すことも出来ないと思えば、その恋しさは増すばかりであった。
将軍家斉は風流人、情界の機微に精通した、サッパリとした人物であった。お杉に三之丞がなかったなら、恋さないでは居られなかったろう。
後宮の佳麗三千人、これは支那流の形容詞、しかし家斉将軍には事実五十人の愛妾があった。いずれもソツのない美人揃い、眼を驚かすに足るものがあったが、しかしお杉に比べては、その美しさが及ばなかった。で、家斉は溺愛した。しかるに日を経るにしたがって、家斉はお杉の心の中に、秘密のあることに感付くようになった。相手を愛するということは、相手を占有することであった。愛は完全を
ある日お杉は
「人を殺したその後で、その辻斬りの侍は、さも恋しさに堪えないように『お杉様!』と呼ぶそうでございます」
「お杉様と呼ぶ? お杉様と?」
お杉は思わず
彼女には辻斬りの侍の、何者であるかが直覚された。
「三之丞様に相違ない」
彼女は固くこう思った。恋する女の敏感が、そういう事を感じさせたのであった。お杉様と呼ばれる若い女は、この世に無数にあるだろう。お杉様と呼ぶ侍も、この世に無数にあるだろう。しかしお杉はその「お杉様」が、自分であることを固く信じた。そうしてそう呼ぶ侍が、三之丞であることを固く信じた。
「気の毒なお方。······三之丞様。······そうまで兇暴になられたのか。······妾には
7
浅草の夜は更けていた。馬道二丁目の辻から出て、吾妻橋の方へ行く者があった。子供かと思えば大人に見え、大人かと思えば子供に見える、変に気味の悪い人間であった。
と一人の侍が、吾妻橋の方からやって来た。深編笠を冠っていた。憂いありそうに俯向いていた。まさに二人は擦れ違おうとした。
「待て」と侍は声を掛けた。
「何でえ」と小男は足を止めた。
「連れはないか? 女の連れは?」
「いらざるお世話だ、こん畜生」
小男は勇敢に毒吐いた。
「片眼で
「何、鬼小僧? それは何だ?」
「うん、昔は手品師さ。だが今じゃア
深編笠の侍は、それには返辞をしなかった。彼は
「これをくれる持って行け。なるほどお前の
「馬鹿にするない! 乞食じゃアねえ」
鬼小僧はすっかり怒ってしまった。
「だが、おかしな侍だなあ。どう考えてもおかしな野郎だ。ははあ失恋で気がふれたな。······せっかくの好意だが受けられねえ」
「そう云わず取ってくれ。俺はそういう人間なのだ。女連れと見ると斬りたくなる。若い男が一人通ると、俺は金をやりたくなる」
これを聞くと鬼小僧は、後ろへピョンと飛び退いた。
「それじゃア手前は『
云い捨て懐中へ手を入れると一尺ほどの
「眼が眩んだか、いい気味だ! エレキで作った無煙の火、アッハハハ驚いたか! 古風に云やア
光の後の二倍の闇、闇に紛れて逃げたものか、鬼小僧の姿は見えなかった。
8
深編笠の侍は、
「ここだここだ!」と呼ぶ声がした。一軒の家の屋根の上に、鬼小僧は立って笑っていた。
「やいやい侍
また懐中から何か出した。
「おおおお侍気を附けろよ! ただの水鉄砲たア鉄砲が
闇に一条の白蛇を描き、シューッと水が
危険と知ったか侍は、サッと軒下に身を隠した。
「あっ、畜生、こいつア
鬼小僧はヒラリと飛び下りた。
途端に侍が走り出た。
「小僧!」と掛けた血走った声、ザックリ肩先へ切り込んだ。
「どっこい!」という声と共に、辛く身を
「へ、へ、へ、へ、どんなものだ。その煙りを嗅いだが最後、手前の鼻はもげっちまうぜ。気息を抑える発臭剤! 可哀そうだなあ、
だが侍は死らなかった。煙りを
「わッ、
吾妻橋の方へ逃げかけた時、天運尽きたか鬼小僧は、石に
「小僧、今度は遁さぬぞ!」
切り下ろそうとした途端、にわかに侍はよろめいた。
「お杉様!」とうめくように云った。
やにわに飛び起きた鬼小僧、侍の様子を窺ったが、
「え、何だって? お杉さんだって? 俺もお杉さんを探しているんだ。赤前垂のお杉さんをな。······お前さんそいつを知ってるのか? 俺にとっちゃアお友達、同じ浅草にいたものだ」
「お杉様!」と侍はまた云った。
「
侍はベタベタと地に坐った。
驚いたのは鬼小僧で、
「細い細い糸のような声! 私を呼んでおいでなさる。三之丞様! 三之丞様と!」
「お前さん三之丞って云うのかい。······そうしてどこのお杉さんだね?」
鬼小僧は顔を突き出した。
9
いかにもこの時お杉の
かつえ蔵は柳営の極秘であった。
そこは恐ろしい地獄であった。地獄も地獄餓鬼地獄であった。
不義を犯した大奥の
その恐ろしい地獄の蔵へ、どうしてお杉は入れられたのだろう?
自分から進んで入ったのであった。
お杉は
「まだ大奥へ参らない前から、
これは実に家斉にとって、恐ろしい程の苦痛であった。愛する女に恋人がある。そうして今も思い詰めている。自分からかつえ蔵へ入りたいと云う。······一体どうしたものだろう?
「しかし大奥へ入ってから、密夫をこしらえたというのではない。決して不義とは云われない。思い切ってくれ、その男を。······かつえ蔵へは入れることは出来ない」
将軍の威厳も振り棄てて、こう家斉は頼むように云った。
「思い詰めておるのでございます。昔も、今も、
これがお杉の返辞であった。
もうこうなっては仕方がなかった。かつえ蔵へ入れなければならなかった。
江戸城の奥庭林の中に、一宇の蔵が立っていた。黒塗りの壁に鉄の扉、餓鬼地獄のかつえ蔵であった。
ある夜ギイーとその戸が開いた。誰か蔵へ入れられたらしい。他ならぬお杉の局であった。と、ドーンと戸が閉じた。蔵の中は暗かった。
お杉は円座へ端座した。
恋人
「三之丞様」と心の中で云った。
「どうぞご安心下さいまし。お杉は
蔵の外では夜が明けた。しかし蔵の中は夜であった。蔵の外では日が暮れた。蔵の中には変化がない。こうして時が経って行った。
お杉の心は朦朧となった。
ほとんど
その時突然お杉が云った。
「妾には
お杉は脇息にもたれたまま、さも美しく闇の中で死んだ。
それは力石三之丞が、鬼小僧と邂逅した同じ夜の、同じ時刻のことであった。
10
一方
三之丞は地の上へ坐っていた。
鬼小僧は上から覗き込んでいた。
と、突然三之丞が云った。
「小僧、俺は腹を切る。情けがあったら介錯しろ」
抜身をキリキリと袖で捲いた。
「おっと待ってくれお侍さん。一体どうしたというんですえ? 腹を切るにも及ぶめえ」
鬼小僧は
「辻斬りしたのが悪かったと、懺悔なさるお
「懺悔と?」
侍は頬で笑った。
「懺悔するような俺ではない。俺は一心を貫くのだ! お杉様が今死んだ。その美しい
グイと肌をくつろげた。左の脇腹へプッツリと、刀の先を突込んだ。キリキリキリと引き廻した。
「介錯」と血刀を前へ置いた。
気勢に誘われた鬼小僧、刀を握って飛び上った。
「苦しませるも気の毒だ。それじゃア介錯してやろう。ヤッ」と云った声の下に、侍の首は地に落ちた。
「さあこれからどうしたものだ。せめて首だけでも葬ってやりてえ。······それにしても一体この侍、どういう身分の者だろう。何だか悪人たア思われねえ。······お杉様と云ったなア誰の事だろう? まさか浅草の赤前垂、お杉ッ子じゃアあるめえが。······まあそんなこたアどうでもいい。さてこれからどうしたものだ」
鬼小僧はちょっと途方に暮れた。
夜をかけて急ぐ旅人でもあろう吾妻橋の方から人が来た。
「うかうかしちゃアいられねえ。下手人と見られねえものでもねえ。よし」と云うと鬼小僧は、侍の片袖を引き千切り、首を包むと胸に抱き、ドンドン町の方へ走っていた。
数日経ったある日のこと、東海道の松並木を、スタスタ歩いて行く旅人があった。他でもない鬼小僧で、首の包みを持っていた。
「葬り損なって持って来たが、生首の土産とは有難くねえ。そうそうこの辺りで葬ってやろう。うん、ここは興津だな。海が見えていい景色だ。松の根方へ埋めてやろう。······おっと
で、鬼小僧は歩いて行った。
爾来十数年が経過した。
その頃肥前長崎に、平賀
彼の書斎の床間に、
だが彼は時々云った。
「赤前垂のお杉さん、古い昔のお友達、あの人は今でも