1
(水戸の武士早川弥五郎が、清国
友よ、今日は「鴉片を喫む美少年」の事について消息しよう。
鴉片戦争も
いや英国のやり口の方が、遥かにもっとよくないのだ。
何しろ今度の戦争の原因が、清国の国禁を英国商人が破り、広東で数万函の鴉片を輸入し||しかも堂々たる密輸入をしたのを、硬骨蛮勇の
が、まあそんなことはどうでもよいとして「鴉片を喫む美少年」の話をしよう。
僕といえども鴉片を喫むのだ。他に楽しみがないのだからね。日本を離れて八年になる。△△三年×月□□日、釣りに品川沖へ出て行って、意外のしけにぶつかって、舟が流れて外海へ出、一日漂流したところを、外国通いの外国船に救われ、その船が上海へ寄港した時、その船から下ろされて、そのまま今日に及んだんだからね。今の境遇では日本の国へ、いつ帰れるとも
しかし一日として日本のことを、思わない日はないのだよ。勿論妻も子供もないから、君侯のことや朋輩のことや||わけても君、吉田惣蔵君のことを、何事につけても思い出すのだがね。
楊柳の花! 楊柳の花!
友よ、友よ、楊柳の花のよさは、何と云ったらよいだろう!
詩人李白が
その夜僕は上海城内の、行きつけの鴉片窟「金花酔楼」へ、一人でこっそり入って行った。
その家は
しかしその家の門口をくぐり、ちょっと店員に眼くばせをして、裏木戸から中庭へ出ようものなら、もう鴉片窟の
闇黒の中に石の階段が、斜めに空に延びていて、その外れに廊下があり、廊下の片側全体が、喫煙室と酒場と娯楽室、そういうものになっていて、酒場からは酔っ払った男女の声が、罵るように聞こえてき、娯楽室からは胡弓の音や、笛の音などが聞こえて来るのさ。
僕は度々来て慣れているので、すぐに石の階段を上り、酒場の入口を素通りし、娯楽室の楽器の音を聞き流し、喫煙室へ入って行った。
度々来て鴉片を
2
僕は入口で金を払い、中へ入って一つの寝台へ上った。そうしてすぐ横
寝台は二人寝になっているのだ。寝台の三方は板壁で、一方だけが開いていて、そこには
隣りの部屋も、その隣りの部屋も、その隣りの部屋もそうなっているのさ。
どの部屋も客で一杯らしかった。
何という奇怪なことなんだろう!
政府が鴉片を輸入させまいとして||すなわち支那の人間に、鴉片を喫煙させまいとして、ほとんど一国の運命を賭して、世界の強大国
そんなにも鴉片は美味なものなのか? 勿論! しかしそれについては、僕は何事も云うまいと思う。僕が故国へ帰って行かない理由の、その半分はこの国に居れば、鴉片を喫うことが出来るけれど、日本へ帰ったら喫うことが出来ない。||と云うことにあるということだけを、書き記すだけに止めて置こう。
やっと鴉片を煉り終えて、煙斗へ詰めてしまった時、一人の少年が垂布をかかげて、僕の部屋へ入って来た。
僕の部屋と云ったところでこの部屋へは、誰であろうともう一人だけは、自由に入ることが出来るのさ。
で、その少年はこんな場合の、習慣としている挨拶の、
「
こういう意味の挨拶をして、同じ寝台の向こう側に寝、ゆっくりと鴉片を煉り出したものだ。
僕はすっかり驚いてしまった。
と云うのはその少年の顔と四肢とが、||つまり容貌と、
友よ、全くこの国には、人間界の生き物というより、天界の神童と云ったような、美にして気高い少年が、往々にしてあるのだよ。
勿論同じように素晴らしい天界の天女と云ったような、美にして気高い少女もあるがね。
僕は無駄な形容なんか、この際使おうとは思わない。
僕はただこう云おう。||
「僕は同性恋愛者ではない。しかし実のところその時ばかりは、その少年を見た時ばかりは、忽然としてかなり烈しい、同性恋愛者になってしまった程、その少年は美しく、そうして魅惑的で肉感的だった」と。
その少年がそれだったのだ。この物語の主人公だったのだ。
名は? さよう、
(云う迄もなく後から聞いたんだがね)
宋思芳は鴉片を煉り出した。
ところがどうだろう、その煉り方だが、問題にもならず下手なのさ。
君には当然解るまいと思うが、鴉片の煉り方はむずかしく、上手に煉ると飴のようになるが、下手に煉るとバサバサして、それこそ苔のようになってしまって、鴉片の性質を失ってしまい、そうして煙斗へ詰めることが出来ず、従って喫うことが出来ないのだ。
少年の煉り方がそうだったのさ。で、幾度煉り直しても、苔のようになってしまったのさ。
僕は思わず吹き出してしまった。
僕はまだ鴉片を喫っていなかった。喫うのを忘れてその少年の美と、その美しい少年の、不器用極まる鴉片の煉り方とに、先刻から見入って居ったのさ。
「僕、煉ってあげましょうか」
とうとう僕はこう云った。
「有難う、どうぞお願いします」
そう云った少年の声の美しさ、そう云った少年の声の優しさ、又もや僕は
僕はそれからその少年のために、鴉片を煉りながら話しかけた。
3
「これ迄喫ったことはないのですか?」
「鴉片を喫うのは今日がはじめてです」
「なるほどそれでは煉れないはずだ。······がそれなら鴉片なんか喫わない方がいいのですがね」
「こんな大戦争を起こす程にも、みんな喫いたがる鴉片なのですから、私も喫いたいと思いましてね」
「そう、誰もがそう云ったような、誘惑を感じて喫いはじめ、喫ってその味を知ったが最後、みすみす廃人となるのを承知で、死ぬまで喫うのが鴉片ですよ。······全く御国の人達と来ては、鴉片中毒患者ばかりです」
「御国の人? 御国の人ですって? ······では
(しまった!)と僕は思ったよ。
とうとう化けの皮を現わしてしまった。
友よ! 僕はね、八年もの間、この支那の国に住んでいるので、言葉も風俗も何も彼も、すっかり支那人になりきることが出来、誰にも滅多に疑われなかったのに、自分からこの日は底を割ってしまい「お国の人」なんて云ってしまったのさ。
これには自分ながら愛想を尽かしたが、たとい身分を
「実は僕は日本人なのです」
こう云ってから漂流したことや、ずっとそのまま支那にとどまり、支那人生活をしていることなどを、すっかりあけすけに話したものさ。
「日本の武士?」と宋思芳は、ひどく好奇心に煽られたように云い、それからそれといろいろのことを||日本の武士は任侠的で、人に頼まれるとどんなことでも、引き受けるというが本当かとか、日本の武士は剣道に達していて、強いというが本当かとか、そんなことを質問した。
で、僕はみんな本当だと、そう云って宋思芳に答えてやった。
宋思芳はひどく考え込んだが、
「英国のやり口をどう思いますか?」と訊いた。
「勿論正当のやり口ではないね」
こう僕は答えてやった。
「グレーという英国人をご存じですか?」
「司令官ゴフの甥にあたる、参謀長のグレーのことなら、戦争以来耳にしています」
「大変もない怪物でしてね、あの男一人を殺しさえしたら、こう迄も清国は負けないのですよ。大胆で勇敢で智謀があって、まだ壮年で好色淫蕩で、女惚れさえするのです。でもエリオットとは仲が悪いのです」
そう宋思芳少年は云った。
「エリオットはどっちのエリオットなのです?」
そう僕は訊いて見た。
「水師提督の方のエリオットです」
水師提督エリオットは、この上海の英国領事の、もう一人のエリオットの親戚なのだが、鴉片戦争が始まるや否や、印度及び喜望峰の兵、一万五千人を引率し、軍艦二十六隻をひきい、大砲百四十門を携え、
グレーというのは英軍切っての、謂うところの花形で、毀誉褒貶いろいろあるが、人物であることは疑いなく、この男の参謀戦略によって、英軍は連戦連勝し、清国は連戦連敗しているのさ。
僕達二人は鴉片を喫わず、永いことそんなような話をした。
その翌夜も翌々夜も、僕達二人は同じ鴉片窟で逢った。
宋思芳はだんだん鴉片を煉るに慣れ、追々鴉片の醍醐の味に、
僕はしばしば宋思芳に向かって、どういう素性の人間なのか、どこにどんな家に住んでいるのか、家族にどういう人達があるかと、そんなことを訊いて見たが、彼はいつもうまく逃げて、話をしようとはしなかった。
ところが次第に変な調子になった。
と言うのは宋思芳が僕に対して、思慕の情愛を示し出したのさ。
女が男を恋するような情を。
僕は同性恋愛者ではない。が、宋思芳が前に云った通りの、世にも珍しい美少年だったので、そういう彼のそういう情愛が、僕には不自然に感ぜられなかった。
4
さて、それから一月ほど経った。にわかに宋思芳少年が、鴉片窟へ姿を見せなくなった。すると僕は恋しい女と、不意に別れたそれのような、寂寥と悲哀と嫉妬さえも、強く心に燃えるようになった。
(いつか俺もあの女を||女のようなあの美少年を、恋していたものと思われる。)
そう僕はつくづく感じた。
そういう心を慰めるため、僕は旅へ出ることにした。
(揚子江でも溯ってみよう!)
で僕は出発した。もう楊花は散り尽くしてしまい、梨の花が河の岸あたりに、少し黄味を帯びた白い色に、||それも日本の梨の花のような、あんな淡薄な色でなく、あんな薄手の姿でなく、モクモクと盛り上り団々と群れて、咲いているのを散見しながら、岸に添って僕達の船は上った。
今にも鎮江が陥落しそうだとか、北京の清帝が蒙塵するらしいとか、戦争の噂は船中にあっても聞こえ、その噂はいつも支那側にとって、面白くないものだった。
船は
で、気持のよい旅館を探そう、こう思って町の方へ足を向けた。その時洋犬と支那美人とを連れた、中年の英国の将校が、僕を背後から追い越した。
「あ」と僕は思わず声を立てた。
と云うのは支那美人が宋思芳と、非常に顔が似ていたからであった。
すると支那美人も僕の顔を見たが、思い
しかしその儘歩み去ってしまった。
友よ、こんな際、その支那美人の後を、僕がどこまでもつけて行ったところで、不都合だとは云わないだろうね。
僕はその後をつけて行ったのだよ。
と、その一行は町の入口の、かなり立派な屋敷へ入った。
屋敷の門際に英国の兵士が、銃を担いで立っていたので、僕はその一人に訊いてみた。
「今行った将校は
「参謀長グレー閣下」
「ご一緒のご婦人は奥様ですか?」
「奥様ではない、愛人だよ」
英国兵などは気散じなもので、微笑しながらそう教えてくれた。
僕はその夜町の中央の、××亭という旅館へ泊まったが、どうにも眠ることが出来なかった。
そこで町を
もう明け方に近い頃で、月が町の家並の彼方、平野の涯へ落ちかかっていた。
と、不意に道の角を廻り、この辺りに珍しい二頭立の、立派な馬車が現われたが、その上に海軍の将校服をつけた、半白の髪をした英国人と、支那少年とが同乗していた。
僕は以前上海の地で、英国の水師提督エリオットを、一二度見かけたことがあって、容貌風采を知っていたので、馬車中の老将校がエリオットであることを、僕は早くも見て取ることが出来た。
娼公、俳優とでも云いたいような、艶かしい装いをした支那少年は? エリオットと同乗していた支那少年は? 友よそれこそ宋思芳だったのだ!
その証拠にはその少年は、僕を見かけると微笑して、軽く
では先刻の支那美人は! グレーと同伴していた支那美人は?
僕は上海へ帰って来た。
鎮江は容易に陥落しなかった。
いろいろの噂が伝わった。鎮江は揚子江の咽喉で、地勢は雄勝で且つ奇絶、
さて僕だが上海へ帰るや、例によって例の如く、鴉片窟や私娼窟へ入り浸って、その日その日をくらしたものさ。
そこで君は不思議に思うだろうね、僕という人間が生活基礎を、どういうものに置いていて、そんな耽溺的生活に、毎日耽ることが出来るのかと?
5
それについてはいずれ語ろう。
そう、いずれ語るとしよう。が、今はそんなことより、その後僕が遭遇した、世にも奇怪な出来事について、消息する方がいいようだ。
友よ、それから一カ月経った。
その時僕の家の玄関に、厠で使う紙の面に、
「明後日迎いに参る
こういう意味の文字が書かれてあり、心臓に
これには説明がいるようだから、一つ説明することにする。
上海には上流の女ばかりによって、形成されている秘密倶楽部がある。
「
その目的とするところは、性の享楽ということなのだ。
で、これと目星をつけた、美男の住んでいる家の玄関へ、今云ったような張り紙をし、それから
男は絶対に拒絶することが出来ない。もし拒絶しようものなら、その男一人ばかりでなく、その男の一家一族までが、ひどい惨害に遭うのだからね。
この国における女の勢力! それは到底日本の比でなく、全く恐ろしい程なのだ。今日ばかりではなく事実この国の||支那の、ずっと昔からの、習慣であるということが出来る。則天武后だの
しかしそれにしても僕のようなものへ、白羽の矢を立てて召そうとは、
と云って何も僕という人間が、醜男だったからと云うのではない。自画自賛で恐縮だが、僕という人間は君も知っている通り、かなりの好男子であるはずだからね。
僕の云うのはそう云う意味からではなく「僕のような生活を生活している者に、そんな招待をするなんて、何て冒険的な女達だろう」||つまりこういう意味なのだ。
僕のような生活を生活している者? のような生活とはどんな生活なのか? おそらく君は知りたいだろうね。よろしい云おう、その
とにかくこうして当日となり、その日が暮れて夜となり、その夜が更けて深夜となった。桂華徳街の百○参号、そこが僕の家なのだが、果たしてその処へ一挺の
僕は新しい
(淫婦どもめ、思い知るがいい!)
こういう心持を持ちながら、轎に乗ったというものさ。
さて轎は道を走った。その道筋を細描写しても、君には面白くあるまいと思う。で、一切はぶくことにする。
轎は目的の館へ着いた。
そこが「加華荘舎」の在場所なのさ。僕は一室に通された。
ここで僕はこの館の
階段があると思ってくれたまえ。そうだ一筋の階段が。その階段を上り切った所に、一つの小広い部屋があり、その部屋から無数に細い廊下が、四方に通っているのだよ。そうしてその廊下の行き止まりに、一つずつ小さな婦人部屋があり、そこに会員達がいるのだそうだ。又、階段を下り切った所に、同じく小広い部屋があり、その部屋から今度は一筋の廊下が、一方の方へ通じて居り、その行き止まりに風呂場がある。そうしてその風呂場の一方の壁に、秘密の
で、召されたミメヨキ男は、先ず風呂に入れられて、すっかり体を洗われて、一つの寝室へ寝かされるのだ。と、互いに籤引きをして、真先に当選した会員の女が、これも最初風呂へ入り、体を洗いお化粧をし、それから男の寝ている部屋へ、導かれて侵入する。
もうその後は書く必要はあるまい。
さて、すっかり陶酔してしまうと、又女は風呂へ入り、綺麗に汗と
友よ、そういう加華荘舎へ、僕は招待にあずかったのだ。そうして今云った手順を経て、一つの寝室へ通された。その寝室には寝台があり、寝台には鴉片の装置があり、酒を飲むようにもなっていた。ほのかな
(来やがれ、淫婦ども?)と思っていた。
とうとう女はやって来た。
外から部屋の錠を外し、内へ入ると錠をかい、平然として近寄って来た。彼女等はすっかり慣れているのだ。男が女を弄ぶことに、すっかり慣れているように、彼女等は男を弄ぶことに、これまたすっかり慣れているのだ。
僕はかづいていた
「あ」と僕は思わず云った。
その女が彼女だったからだ。江陰の郊外でグレーと一緒に、散策していた支那美人||宋思芳と似ている支那美人だったからだ。
僕は鎧通を手から放した。
そうして寝台の一方を開けた。彼女が寄り添って寝られるように。
で彼女は僕の
そうして二人は陶酔してしまった。
満足して彼女が立ち去る時、彼女は僕へ囁いた。
「他の女へ貴郎をお渡しするのは、私大変厭なんですけれど、少なくももう一人の女へだけは、貴郎をお貸ししなければならないのです」と。
僕はそれから風呂へ入れられ、別の寝室へ案内された。
扉をあけて中へ入った途端、しかし意外の光景を見た。まぎれもない宋思芳少年が、一人の外人に咽喉を抑えられ、寝台の上へ捻じ
「タ、助けて!」と息も絶え絶えに、その宋思芳が僕へ云った。
で、僕はほとんど夢中で、その外人へ飛びかかり、持っていた鎧通で一えぐりした。外人||それはグレーだったが、もろくもそのまま死んでしまった。
友よ、グレーの血に染まった、醜悪な死骸を寝台の側へ置いて、僕と宋思芳とが寝台の上で、再度の陶酔に耽ったことを||再度というのは宋思芳と、先刻の支那美人とが文字通り、同一人だからそういうのだが||友よ、咎めてくれたもうな。こんなことは
今日も例の鴉片窟「金華酔楼」で恋人同士として、僕は彼女||彼と云ってもいい。彼女は今日も男装であり、男装の方が似合うのだから。||その宋思芳と逢って来た。鴉片を喫って恍惚として、無我の境地で抱擁し合う、この極度の快感は、日本にいる誰も知らないだろうよ。
だが彼は||いやいや彼女は······そうだやっぱり僕としては、彼女と云った方がいいようだ。で、彼女は、何者なのか? 事実彼女はその昔は、良家の娘だったということだ。が、今はこの国における、二つの大きな秘密結社||殺人、人買い、掠奪、密輸入、あらゆる悪行をやりながら、不断の貧民の味方として、かつ貧民の防禦団体として、根本においては祖国愛主義の、
そうして僕は青幇会員で、この会員であるがために、生活することが出来ているのだよ。
今日彼女は僕に云ったっけ。||
「
「それにしてもどうしてグレーって男が、あんな所へやって来たんだい?」
「妾からやっぱり、呼んだからよ。例の厠の紙を使って。
「じゃア僕を
「それもあったわ、でももう一つ、妾あんたが好きだったからよ」
||それなら
友よ、これでお
しかもそれが生活でもあるのさ。
さようなら、さよなら。