仇な女と少年武士
「可愛い坊ちゃんね」
「何を申す無礼な」
「綺麗な前髪ですこと」
「うるさい」
「お
「幾歳でもよい」
「十四、それとも十五かしら」
「うるさいと申すに」
「お寺小姓? それとも歌舞伎の若衆?」
「斬るぞ!」
「ホ、ホ、ホ、斬るぞ、うるさい、無礼、なんて、大変威張るのね、いっそ可愛いいわ。······そうねえ、そんなように厳めしい言葉づかいするところをみると、やっぱりお
女は、二十五六でもあろうか、妖艶であった。水色の半襟の上に浮いている頤など、あの「
少年武士は、年増女にからかわれても、仕方ないような、少し柔弱な美貌の持主で、ほんとうに、お寺小姓ではないかと思われるような、そんなところを持っていた。口がわけても愛くるしく、少し膨れぼったい唇の左右が締まっていて、両頬に靨が出来ていた。それで、いくら、無礼だの、斬るぞだのと叱咤したところで、靨が深くなるばかりで、少しも恐くないのであった。玩具のような可愛らしい両刀を帯び、柄へ時々手をかけてみせたりするのであるが、やはり恐くないのであった。旅をして来たのであろう、脚絆や袴の裾に、
「坊ちゃん」と女は云った。
「あそこに見えるお蔵、何だか知っていて?」
眼の下の谷に部落があり、三四十軒の家が立っていた。農業と
上から見下ろすからでもあろうが、どの家もみんな、
少年武士は、その蔵へ眼をやったが、
「何だか知っているかとは何じゃ、蔵は蔵じゃ」
「
「鸚鵡蔵? ふうん、鸚鵡蔵とは何じゃ?」
「お蔵の前へ行って、何々さーんと呼ぶんですの。するとお蔵が、何々さーんと答えてくれるでしょうよ」
「蔵が答える?」
「ええ、だから鸚鵡蔵······」
「馬鹿申せ」
「それでもようござんす、馬鹿申せッて、呼ぶんですの。するとお蔵が、馬鹿申せと答えてくれるでしょうよ。······
「納谷様?」と少年武士は驚いたように、
「では、あれが、納谷殿のお屋敷か?」
「そうよ。でもどうしたのさ、親しそうに納谷殿なんて?」
「拙者、納谷殿屋敷へ参る者じゃ」
「まア、坊ちゃんが。······では、坊ちゃんは?」
「納谷の
「まあ」
「
「まあ、それでは、奥様の弟?」
「うむ」
「お
「
「まあまあ、そうでしたかねえ」と云うと女は立ち上った。
首を洗う姉
それから、草の上へ、さもさも
「では菊弥様、
「斬るぞ!」
キラリと白い光が、新酒のように
「
「このお部屋に奥様はお居ででございます」と云いすてて、婢が立ち去った時、菊弥は、古びた襖の前に立っていた。
菊弥は妙に躊躇されて、早速には襖があけられなかった。姉とはいっても、
(どんな人だろう?)という懸念が先立って、懐しいという感情は起こらなかった。
(いつ迄立っていても仕方がない)
こう思って菊弥は襖を開けた。
しばらく部屋の中を見廻していた菊弥は、「あッ」と叫ぶとベッタリ襖を背にして坐ってしまった。
この部屋は、宏大な納谷家の主家の、ずっと奥にあり、四方を他の部屋で包まれており、それに襖が閉めきってあるためか、昼だというのに、
その光の輪の中に、黒漆ぬりの
女は、菊弥が入って来て、「あッ」と叫んで、ベッタリ坐っても、しばらくは顔を上げずに、額へパッと髪をかけたまま、馬盥に俯向き、左の手で生首の
菊弥は、全身をワナワナと顫わせ、見まい見まいとしても、生首へ、わけても、女の洗っている生首へ眼を引かれ、物も云えず、坐っていた。
やがて女は顔を上げ、つくづくと菊弥を眺めたが、
「菊弥かえ」と云った。
「は、はい、菊弥でございます。······あ、あなた様は?」
「お前の姉だよ」
「お、お篠お姉様?」
「あい」
「お、お姉様! それは? その首は?」
「
「か、代首? 代首とは?」
「味方の大将が、敵に首を掻かれ、胴ばかりになった時、胴へ首を継いで葬るのが、戦国時代のこの土地の習慣だったそうな。······その首を代首といって、前もってこしらえて置いたものだそうだよ」
「まあ、では、その首は、本当の首ではないのでございますか?」
「本当の首ではないとも。木でこしらえ、
「でも、お姉様、どうしてそんな首形が、いくつもいくつも、お家に?」
不幸な良人の話
「納谷家は、遠い昔から、この土地の武将として続いて来た、由緒のある家なのだよ。だから代首がたくさんあるのだよ」
「では、その代首の方々は?」
「ええ、みんな納谷家の武将方だったんだよ。でも、これらの方々は、幸い首も掻かれず、ご病死なされたので、それで代首ばかりが残ったのだよ」
「でも、どうして代首を、お洗いなさるのでございますか?」
「納谷家の行事なのだよ。年に一度、お蔵から、そう、鸚鵡蔵から、代首を取り出して、綺麗に洗ってあげるというのがねえ。······代首にもしろ、首を残しておなくなりになった方々の冥福をお祈りするためでもあり、残されたお首を、粗末に扱わぬためでもあり······」
「でも、どうしてお姉様が?」
「いいえ、これまでは、妾ではなくて、納谷家の当主||妾の
「おお、そのお
「いいえ、それがねえ」とお篠は顔を伏せた。
「遠い旅へお出かけなされたのだよ」
「旅へ? まあ、お義兄様が?」
「あい、
またお篠は顔を伏せた。話し話し代首を洗っていた手も止まった。肩にかかっていた垂髪が顫えている。泣いているのではあるまいか。
「お姉様、お姉様」と菊弥もにわかに悲しくなり、
「どうして旅へなど、お義兄様が

「恐ろしいご病気におかかりなされたからだよ」
「恐ろしいご病気に?」
「あい、血のために」
「血のために? 血のためとは?」
「濁った血のためにねえ」
「············」
「納谷家は、いまも云ったように、古い古い名家なのだよ。それで代々、
云い云いお篠は、代首の
「お姉様! 恐うございます恐うございます!」
「いいえ」と云った時には、もう首は
襖の間に立った男
「菊弥や」とやがてお篠は云った。
「とうとうお母様もお
「はい」と菊弥は眼をしばたたいた。
「先々月おなくなりなさいましてございます」
「妾はお
「はい、お姉様、そうなのでございます。······お母様が臨終に仰せられました。『お父様は三年前に逝去り、その後ずっと、お篠からの貢ぎで、人並に
「よくおいでだった。そういう
「お姉様、ありがとうございます。万事よろしくお願い申します」
菊弥は、はじめてホッとした。
彼は、この部屋へ入って来るや、代首にしろ、
犬ともつかず、何の獣の啼声とも知れない啼声が、

部屋の中は、寒い迄に静かであった。首を洗うお篠の手に弾かれて、盥の中の水が、幽かに音を立てている。音はといえばそればかりであった。
「お前もほんとうに可哀そうだったねえ」としみじみとした声でお篠は云った。
「お父様やお母様の
「はいお姉様、ありがとう存じます」
「おや」と不意にお篠は左右を見廻した。
「首がない! 妾の首が!」
「お姉様」と菊弥は驚き、
「いいえ首は······お姉様の首は······ちゃんとお姉様の肩の上に······」
「首がない! 妾の首がない! 男ばかりの首の中に、たった一つだけある女の代首! それが妾に似ているところから、旦那様が、お篠、これはお前の首じゃと云われ、日頃いっそう大切にお扱い下された首! その首がないのじゃ!」
なお左右を見廻したが、
「お蔵へ残して来た覚えはなし······何としたことだろう?」
じっと眼を据えた。
「奥様」とこの時、菊弥の
菊弥は振り返って見た。彼がこの部屋へ入って来た時、引き開け、そのまま閉じるのを忘れていた襖の間に、
「お仕事は、まだお済みではございませんかな」
「チェ」とお篠は舌打ちをした。
「まだ済まぬよ。······向こうへ行っておいで。······お前などの来るところではないよ」
「へい。ちょっとお話を······」
「また! いやらしい話かえ! ······くどい」
「いいえ······よく聞いていただきまして······」
「お黙り!」
飯食い地蔵
翌日菊弥は庭へ出て陽を浴びていた。
寛文四年五月中旬のさわやかな
(いいなあ)と菊弥は思った。
(これからわしはずっとここで
こんなことを思った。
と、この時、
「嘉十郎や、そんなもの、どこへ持って行くのだえ?」と菊弥は、嘉十郎が自分の前へ来た時声をかけた。
少年の好奇心からでもあったが、下婢ならともかく大番頭ともある嘉十郎が、そんな物を持って、昼日中物々しく、庭など通って行くので、何とも不思議に堪えられなかったからでもあった。
嘉十郎は足を止めたが、
「へい、これは菊弥お坊ちゃまで。······これでございますか、これは『飯食い地蔵様』へお供えする昼のお
「飯食い地蔵? 飯食い地蔵って何だい?」
「お坊ちゃまは、江戸から参られたばかりで、何もご存知ないでしょうが、飯食い地蔵と申しますのは、大昔から、この納谷家に祭られておる地蔵様のことでございましてな、お蔵の裏手······」
「お蔵って、鸚鵡蔵のことかい」
「ご存知で。これはこれは。へい、さようでございます、その鸚鵡蔵の、裏の竹藪の中に、安置されてあるのでございますがな、朝、昼、晩と、三度々々お斎を供えなければなりませんので。それが納谷家に伝わる、長い間の
「地蔵様がお斎を食べるのかい?」
「さようでございます」
「嘘お云いな」
「あッハッハッハッ。······いずれは野良犬か、狐か狸か、
「飯食い地蔵。······見たいな」
「およしなさいまし。あの方角へは、まずまずおいでにならない方がよろしゅうございます」
「お姉様も、
「さようでございますとも、魔がさしますで」
行過ぎる嘉十郎のうしろ姿を見送りながら、菊弥は、鸚鵡蔵の
(あの女何者だろう?)
(鸚鵡蔵だけは是非見たいものだ)
鸚鵡蔵
その夜のことであった。菊弥は、鸚鵡蔵の前に立っていた。
月のある夜だったので、巾の広い、身長の高い||普通の蔵の倍もありそうな鸚鵡蔵は、何かこう「蔵のお化」かのように、朦朧と照っている月光の中に、その
菊弥は、扉の前にしばらく佇んでいたが(声をかけてみようかな?)と思った。でも、姉の眼や家人の眼を盗んで、こっそり見に来たことを思い出し、止めた。知れたら大変だと思ったからである。
(手ぐらい拍ってもいいだろう)
そこで彼は手を拍った。少年の鳴らす可愛らしい拍手の音が、二つ三つ、静かな夜の空気の中を渡った。と、すぐに全く同じ音が、蔵の面から返って来た。
(あ、ほんとうに、お蔵が返辞をしたよ。まったく鸚鵡蔵だ)
日光の薬師堂の天井に、狩野
が、要するにそれは、天井の構造から来ていることで、幽かな音に対しても
菊弥は鸚鵡蔵が鸚鵡蔵の証拠を見せてくれたので、すっかり満足したが、すぐに、少年の好奇心から、昼間嘉十郎の話した「飯食い地蔵」のことを思い出した。
(どんな地蔵かしら、見たいものだ。嘉十郎の持って行った飯をほんとうに食べたかしら?)
そこで菊弥は、蔵を巡って、その裏手の方へ歩いて行った。蔵の裏手は、蓬々と草の茂った荒地で、遥か離れたところに、孟宗竹の林が立ってい、無数の巨大な帚でも並べたようなその竹林は、梢だけを月光に薄明るく色づけ、
(あそこに地蔵様の祠があるんだな)
そこで菊弥はその方へ足を向けた。と、その時、蔵の右手から人の足音が聞こえてきた。
(しまった)と菊弥は思った。
(手を拍ったのを聞き付けて、誰か調べに来たのだ)
目つかっては大変と、菊弥は左手の方へ逃げかけた。するとその方からも人の足音が聞こえてきた。
(どうしよう)
(あそこへ一時身をかくして······)
そこで菊弥は藪の陰へ走り込み、ピッタリと壁の面へ身を寄せた。
「あッ」
菊弥の身は蔵の中へ吸い込まれた。
壁の一所が切り抜かれてい、菊弥が身を寄せた時、切り抜かれた部分の壁が内側へ仆れ、連れて、菊弥の体が蔵の中へ転がり込んだのであった。
「あッ」
再度声をあげたのは、蔵の闇の中から手が延びて来て、菊弥の胸倉を掴んだからであった。
「何奴!」と叫ぼうとした口を、別の手が抑えた。
菊弥の体の上に馬乗りになった重い体の主は、切り抜かれた壁の口から、幽かに差し込んで来た外光に照らした顔を、菊弥の顔の上へ近づけた。
「あッ」と声は出なかったが、菊弥は、抑えられている口の中で叫んだ。その顔が、お綱の顔だったからである。峠で、昨日、自分をとらえて
「うふ!」とお綱は、薄い、大形の唇から、前歯をほころばせて笑ったが、強い腕の力で、菊弥をズルズルと蔵の奥へ引き摺って行き、依然として馬乗りになったまま、今は、外光さえ届いて来ない闇の中で、囁くように云った。
「菊弥! ナーニ、本名を云やアお菊か菊女だろう! 手前、女だからなア! うふ、いかに男に姿やつしていようと、この綱五郎の眼から見りゃア||そういう俺らア男さ! ナニ『醒ヶ井のお綱』だって! 箆棒めえ、そいつア
人か幽鬼か
「ところで俺ら約束したっけなア、もう一度きっとお目にかかるって! さあお目にかかった。どうするか見やがれ! ······女に姿やつしてよ、中仙道から奥州街道、東海道まで土蔵を破らせりゃア、その昔の熊坂長範よりゃア凄いといわれた綱五郎、聞きゃア草深え川路の山奥に納谷という旧家があって、鸚鵡蔵という
グーッと綱五郎は抑え込んだ。
(無念!)と菊弥は、抑え付けられた下から刎返そう刎返そうと

(烈士、別木荘左衛門の一味、
抑えられている口からは声が出ない! 足で床を蹴り、手を突張り、刎返そう刎返そうと
そう、菊弥は娘なのであった。父は梶内蔵丞と云い、承応元年九月、徳川の天下を覆そうとした烈士、別木荘左衛門の同志であった。事あらわれて、一味徒党ことごとく捕えられた中に、内蔵丞一人だけは遁れ終わせ、姓名を
だんだん
(
そういう声も口からは出ない。
と、この時蔵の中が、仄かな光に照らされて来た。光は、次第に強くなって来た。蔵の奥に、二階へ通っている階段があり、その階段から光は下りて来た。段の一つ一つが、上の方から明るくなって来た。と、白布で包んだ人の足が、段の一つにあらわれた。つづいて、もう一方の足が、その次の段を踏んだ。これも白布につつまれている。
黒羽二重の着物を着、手も足も白布で包み、口にお篠の生首を銜え、片手に手燭を持った男が、燠のように赤い眼、ふくれ上った唇、額に瘤を持ち、頤に
「わッ」という怯えた声が響いた時には、綱五郎は躍り上っていた。刹那、
恐怖から恐怖! ······賊に襲われる恐怖からは危うく助けられたが、
手燭はまだ燃えていた。代首を利用し、その中へ、先祖より伝わる、幾万両とも知れない大判を隠し入れ、首を洗うに
答えない鸚鵡蔵
悲劇は、蔵の中ばかりにあるのではなかった。大竹藪の中、飯食い地蔵の祠の前にもあった。
いわば後家のようになったお篠を手に入れ、二つには納谷家の大
「かりにも主人の妾へ、理不尽な! 無礼な! ······
大竹藪は、この不都合な光景を他人に見せまいとするかのように、葉を茂らせ、幹を寄り合わせ、厚く囲っていた。
「······飯食い地蔵に捧げるといって、世間の眼を眩ませ、こっそり私が持って行く食物を食べ、蔵の中で、生甲斐もなく生きている、あの化物のような旦那様より、まだまだわたしの方がどんなにか人間らしいじゃアありませんか。そう嫌わずに、わたしの云うとおりに。······あんまり強情お張りなさると、わたしは世間へ、納谷家の主人雄之進様が、長旅へ出たとは偽り、実は業病になり、蔵の中に隠れ住んでおりますと云いふらしますぞ。するとどうなります、数百年伝わった旧家も、一ぺんに血筋の悪い家ということになって、世間から爪はじきされるじゃアございませんか」
こういう光景を見ているものは、ささやかな家根の下、三方板囲いされた中に、赤い涎れ懸けをかけ、杖を持った、等身大の石地蔵、飯食い地蔵尊ばかりであり、それを照らしているものは、その地蔵尊にささげられてある、お燈明の光ばかりであった。
「痛! 畜生! 指を噛んだな!」と突然嘉十郎は咆哮した。
「ええこうなりゃア、いっそ気を失わせておいて!」と大きな手を、お篠の咽喉へかけた。
「わッ」
瞬間、嘉十郎はお篠を放し、両手を宙へ延ばした。咽喉に匕首が突立っている。
「う、う、う、う!」
のめって、地蔵尊へ縋りついた。飯食い地蔵は仆れ、根元から首を折ったが、胴体では、嘉十郎を地へ抑え付けていた。
お篠はベタベタと地べたへ坐った。
(助かった! 助かった!)
その時、祠の陰から、お篠の代首を、今は口には銜えず、
「雄之進殿オーッ」
それと見てとったお篠は、縋り付こうとした。
しかし、納谷雄之進は、自分の悪疾を、愛する妻へ移すまいとしてか、そろりと外して、じっとお篠を見下ろした。盲いかけている眼から流れる涙! 血涙であった!
「旦那様アーッ」
なおお篠は、雄之進の足へ縋り付こうとした。
しかしもうその時には、||蔵の中に隠れ住むことにさえ
「妾もご一緒に! 雄之進殿オーッ」とお篠は後を追った。竹の根につまずいて転んだ。起き上って後を追った。またつまずいて仆れた。起き上って後を追った。いつか竹藪の外へ出た。茫々と蒼い月光ばかりが、眼路の限りに漲ってい、すぐ眼の前に、鸚鵡蔵が、白と黒との裾模様を着て立っていたが、雄之進の姿は見えなかった。絶望と悲哀とでお篠は地へ仆れた。そこで又愛し憐れみ尊敬している
「雄之進殿オーッ」
声は鸚鵡蔵へ届いた。
鸚鵡蔵は、「雄之進殿オーッ」と
しかしどこからともなく、哀切な、優しい声が、
「お篠オーッ」と呼び返すのが聞こえた。
「あ、あ、あ!」とお篠は喘いだ。
「ご病気でお声さえ出なくなった旦那様が、妾の名を、妾の名を、お篠オーッと······」
嬉しさ! 恋しさ! お篠は又も声限りに呼んだ。
「雄之進殿オーッ」
「お篠オーッ」
手燭の燈も消えた暗い蔵の中では、菊弥が恐怖で足も立たず、床を這い廻っていた。と、戸外から聞き覚えのある姉の声で、人を呼んでいるのが聞こえた。菊弥は嬉しさに声限り、
「お篠お姉様アーッ」と呼んだ。
壁を切り抜かれて、鸚鵡蔵の機能を失った蔵は、お篠の呼び声に答えはしなかったが、そう呼んだ菊弥の声を、切り抜かれた穴から
「お篠オーッ」としか聞こえなかった。
しかしお篠には、その声が、蔵の中で菊弥が呼んでいる声などとは思われなかった。良人が呼び返す声だと思った。
幾度も幾度も呼んで、そのつど答える
「雄之進殿オーッ」
「お篠オーッ」
竹藪の中では、首を折って、飯食い地蔵の名に背くようになった石の地蔵尊が、嘉十郎の死骸を、なおその胴体で抑えていた。
その後の納谷家には、明るい生活がつづいた。先ず菊弥は女として育てられることになり、鸚鵡蔵と飯食い地蔵とは、その名に背くようになったところから、二つながら取り
雄之進は永久納谷家へは帰らなかったそうな。しかし伝うるところによれば、この人の病気は、
そうしてお篠は、死ぬ迄、「いいえ、あの時、妾の名を、『お篠オーッ』と呼んで下されたのは、蔵の中の菊弥ではなくて、良人、雄之進様でございますとも」と云い張ったということである。