死者の書
戊寅、天子東狃二于沢中一。逢二寒疾一。天子舎二于沢中一。盛姫告レ病。天子憐レ之。□沢曰二寒氏一。盛姫求レ飲。天子命レ人取レ漿而給。是曰二壺※[#「車+端のつくり」、8-2]一。天子西至二于重壁之台一。盛姫告二病一。□天子哀レ之。是曰二哀次一。天子乃殯三盛姫二于轂丘之廟一。□壬寅、天子命レ哭。(略)······癸卯、大哭。殤祀而載。甲辰、天子南、葬二盛姫於楽池之南一。天子乃命二盛姫□之喪一。視二皇后之葬法一。亦不拝後于諸候。(略)······甲申、天子北、升二大北之
一。而降休二于両栢之下一。天子永念傷心、乃二思淑人盛姫一。於レ是流涕。七萃之士※[#「くさかんむり/要」、8-7]予上二諫天子一曰、自レ古有レ死有レ生、豈独淑人。天子不レ楽出二於永思一。永思有レ益、莫レ忘二其新一。天子哀レ之。乃又流涕。是日輟。己未。乙酉。天子西絶二※[#「金+研のつくり」、8-9]
一。乃遂西南。戊子、至二于塩一己丑。天子南登二于薄山※[#「穴かんむり/眞」、8-10]※[#「車+令」、8-10]之
一。乃宿二于虞一。庚申、天子南征。吉日辛卯、天子入二于南※[#「酋+おおざと」、8-10]一。



穆天子伝
一
鄭門にはひると、俄かに松風が吹きあてるやうに響いた。
一町も先に、堂伽藍が固まつて見える。||そこまで、ずつと砂地である。白い地面に、広い葉が青いまゝでちらばつて居るのは、朴の葉だ。
まともに、寺を圧してつき立つてゐるのが、
こんな事を、女の身で知つて居る訳はない。だが俊敏な此旅びとの胸には、其に似たほのかな綜合が出来あがつて居たに違ひない。暫らくの間、懐しさうに薄緑の山色を仰いで居る。其から赤色の激しく光る建て物へ、目を移して行つた。
此寺の落慶供養のあつたのは、つい四五日
山

数年前の春の初め、野焼きの火が燃えのぼつて来て、唯一宇あつた堂が、忽痕もなくなつた。其でも、寺があつたとも思ひ出さぬほど、微かな昔であつた。
以前もの知らぬ里の女などが、其堂の名に不審を持つた。当麻の村にありながら、山田寺と言つたからである。山の背の河内の国
飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を夢に見られて、おん子を遣され、堂を修理し、僧坊が建てさせられて居た。追追、境内になる土地の縄張りの進んでゐる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。都からお使ひが見えて、其ほど因縁の深い土地だから、墓はそのまゝ其村に築くがよいとのことであつた。其お墓のあるのが、あの麻呂子山だと言ふ。其縁を引いて、其郷の山には、後にも貴人をお埋め申すやうな事が起つた。
だが、此は唯、此里の語りの姥の口に、さう伝へられてゐると言ふに過ぎないことであつた。
旅の若い
日は五月、空は
女は、日を受けてひたすら輝く伽藍の廻りを残りなく歩いた。
寺の南境は、麻呂子山の裾から、東へ出てゐる長い崎が劃つて居た。其中腹と、東の鼻とに、西塔、東塔が立つて居る。丘陵の道をうねり乍ら登つた旅びとは、東塔の下に出た。
其でも薄霧のかゝつたやうに、雨の後の水気の立つて居た大和の野は、すつかり澄みきつた。
若昼のきら/\しい景色になつて居る。左手の目の下に集中して見える丘陵は、
もう此上は見えぬと知れて居ても、ひとりでに爪先立てゝ伸び上る気持が出て来る。
香具山の南の裾に輝く
この国の女に生れて、一足も
家を出る時、瞬間心を掠めた||父が案じるだらうと言ふ考へも、もう気にはかゝらなくなつて居る。乳母があわて求めるだらうと言ふ心が起つて来ても、却てほのかなこみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。
山はづつしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。こゝに居て、何の物思ひがあらう。この貴い娘は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて首をあげて行つた。
二上山。この山を仰ぐ時の言ひ知らぬ胸騒ぎ。藤原飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すつかり違つた懐しさ。旅の郎女は、脇目も触らず、山を仰いでゐる。さうして静かな思ひが、満悦に充ちて来るのを覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だが謂はゞ||平野の里に感じた喜びは、過去
塔はまだ厳重にやらひを組んで人の立ち入りを
さうして、しみ/″\と山に見入つて居る。山と自分とに
郎女の家は、奈良東城の右京二条第七坊にある。祖父武智麻呂の亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年になる。父は
さうした濶達なやまとごゝろを赴くまゝに伸して居る間に、
その父君も、今は筑紫に居る。家族の半以上は、太宰帥のはな/″\しい生活の装ひとして連れて行つてしまつた。奈良の家は、とりわけ寂しくなつて居る。
宮廷から賜つて居る

寂かな屋敷には物音も聞えて来る時すら多かつた。この家の女部屋は、日あたりに疎い北の屋の西側に小さな

さうして其
武智麻呂時代から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣はして来てゐる。此頃になつて、仲麻呂の威勢が高まつて来たので、何となく其古い通称は人の口から薄れて、其に替る称へが行はれ出したのである。二京七坊をすつかり占めた大屋敷を、
太宰府からは、この頃久しく音づれがなかつた。其でも、半年目に都へ戻つて来た家の子は、一車に積み余るほどな家づとを、家の貴公子たち殊に、姫にと言つて持ち還つて来た。
山国の狭い平野に、一代々々都遷しがあつた長い歴史の後、こゝ数十年やつと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか/\整ふまでにはなつて居なかつた。
官庁や、大寺が、によつきり立つてゐる外は、貴族の屋敷が、処々むやみに面積を拡げて、板屋や瓦屋が、

横佩家の
この山の都よりも、太宰府は開けてゐた。大陸の新しい文物は、皆一度は、この
学問や芸術の味ひを知り初めた志の深い人たちは、だから大唐までは行けずとも、せめて太宰府だけへはと、筑紫下りを念願にして居る位である。
姫は、蔀戸近くに、時としては机を立てゝ写経をしてゐることもあつた。夜も、侍女たちを寝静らしてから、
百部は、夙くに写し果した。今は千部手写の発願をして居る。冬は春になり、夏山と繁つた春日山も、既に
今朝も、何処からか、鴛鴦の
五百部を越えた頃から、姫の身は目立つてやつれて来た。ほんの纔かの眠りを
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを嫌ふやうになつた。さうして、昼すら何か夢見るやうな、うつとりとした目つきをして、蔀戸ごしに西の空を見入つて居ることが、皆の注意にのぼる様になつた。
実際九百部を過ぎてから、進みは一向、はかどらなくなつた。二十部、三十部、五十部、心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがひなさを悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分担することが出来ように、と思ふからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に拡つたのも、其頃である。屋敷中の人々は、身近く
でも、姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の姫は気むづかしく、
千部手写の望みは、さうした大願から立てられたものだらうと言ふ者もあつた。そして誰も、其を否む者はなかつた。
南家の姫の美しい膚は益透きとほり、潤んだ目は、愈大きく黒々と見えた。さうして、時々声に出して
去年の春分の日の事であつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は此屋敷からは、稍
姫の心は、其時から愈澄んだ。併し、極めて寂しくなり
ゆくりない日が、半年の後に再来て、姫の心を
雲がきれ、光りのしづまつた山の端は、細く金の外輪を靡かして居た。其時峰の間に、あり/\と浮き出た髪、頭、肩、胸||。
姫は又、あの俤を見ることを得たのである。南家の郎女の幸福な噂が、春風に乗つて来たのは、次の春である。姫は別様の心躍りを、一月も前から感じて居た。さうして日を
苑の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも音が立つて来た。
姫は立つても
茫然として、姫はすわつて居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加つて来た風の響きも、もう姫は聞かなかつた。
二
南家の郎女が
姫は何処をどう歩いたか、覚えがない。唯、家を出て西へ/\と辿つて来た。降り暮るあらしが、姫の衣を濡した。姫は誰にも教はらないで、裾を
片破れ月が出て来た。其が却てあるいてゐる道の辺の凄さを照し出した。其でも、星明りで辿つて居るよりは、よるべを生じて、足が先へ/\と出た。月が中天へ来ない前に、もう東の空がひいはり白んで来た。
夜のほの/″\明けに、姫は目を疑ふばかりの現実に出くはした。
横佩家の侍女たちは、何時も夜の起きぬけに、一等最初に目撃した物事で、日のよしあしを占うて居るやうだつた。さうした女らのふるまひに、特別に気を牽かれなかつた郎女だけれど、よく其人々が、「今日の朝日がよかつたから」「何と言ふ情ない朝日だ」などゝ、そは/\と興奮したり、むやみに塞ぎこんだりして居るのを見聞きしてゐた。
郎女は、生れてはじめて「朝日よく」と謂つた語を内容深く成じたことである。目の前に、赤々と
山裾の勾配に建てられた堂、塔、伽藍は、更に奥に、
寺と言ふ物が、奈良の内外にも幾つとあつて、横佩
之に似た驚きの経験を、曾て一度したことがあつた。姫は今其を思ひ起して居る。簡素と豪奢との違ひこそあれ、歓喜に撲たれた心地は印象深く残つてゐる。
今の 太上天皇様がまだ宮廷の御あるじで居させられた頃、
「南家には、惜しい子が、娘となつて生れたことよ」と仰せられたと言ふ畏れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間にくり返された。
其後十二年、南家の娘は二十になつてゐる。幼いからの
姫は大門の閾を越えながら、
こゝからは、北の平野は見えない。見えたところで、郎女は奈良の家を考へ浮べることもしなかつたであらう。まして、家人たちが、神隠しに遭つた姫を探しあぐねて居ようなどゝは、思ひもよらなかつたのである。唯うつとりと、塔の下から仰ぎ見る二上山の山肌に、
此時分になつて、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝の勤めをすまして、うと/\して居た僧たちも、爽やかな朝の眼を

そこに御座るのは、どなたやな
岡の蔭から、恐る/\頭をさし出して問うた一人の姫は唯、山を見てゐる。山の底にある俤を観じ入つてゐるのである。
又暫らくして、四五人の跫音が、べた/\と岡へ上つて来た。今度は娘奴は姿を表さなかつた。年のいつたのや、若い僧が、ばら/\と走つて、塔の結界の外まで来た。
こゝまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人は、とつとゝ岡を降ることだ。
姫はやつと気がついた。さうして、人とあらそはぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、結界の垣の傍まで来た。見れば、奈良の方さうなが、どうしてそんな処に入らつしやる。
どうして、之な処までお出でだ。
お伴すら連れないで。
口々に問うた。男たちは咎める口とは別に、心ではめい/\、貴い女性をいたはる気持ちになつて居た。どうして、之な処までお出でだ。
お伴すら連れないで。
二上山に逢ひに······。そして今、山の頭をつく/\見て居た······。
此頃の貴族の家庭の語と、凡下の人の語とはすつかり変つて居た。だから言ひ方も、感じ方も、其に語其ものすらも、郎女の語が、そつくり寺の所化などには、通じやうがなかつた。でも其でよかつたのである。其でなくて、語の内容が其まゝ受けとられようものなら、南家の姫は、即座に気のふれた女と思はれてしまつたであらう。
それで、御館 はどこやな。
みたち······。
おうちは······。
おうち······。
おやかたはと言ふのだよ。
をゝ。私の家。右京藤原南家······。
俄然として、群集の上にざはめきが起つた。四五人だつたのに、後から/\登つて来た僧たちが加つて、二十人以上にもなつて居る。其が、口々に喋り出したのである。みたち······。
おうちは······。
おうち······。
おやかたはと言ふのだよ。
をゝ。私の家。右京藤原南家······。
ようべの嵐に、まだ残りがあつたと見えて、日の明るく照つて居る此小昼に、又風がざはつき出した。此の岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての屋根々々にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。小桜の花が咲き出したのである。
此時分になつて、奈良の家では、誰となく、こんな事を考へはじめた。此は、きつと里方の女たちがよくする春の野遊びに出られたのだ。何時からとも知らぬ習はしである。田舎人たちは、春秋の日夜平分する頂上の日には、一日、日の影を逐うて歩く風が行はれて居た。どこまでも/\野の限り、山も越え、海の渚まで日を送つて行つた女すら、段々あつた。さうして夜はくた/\になつて家路を戻る。此為来りを何時となく女たちの咄すのを聞いて、姫が女の
ところが、其日も昼さがりになり、段々夕かげが催して来る時刻が来た。昨日は駄目になつた日の入りの景色が、今日は其にも劣るまいと思はれる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなつて来た。
三
万蔵法院の北の山陰に、昔から小さな庵室があつた。昔からと言ふのは、貴人がすべて、さう信じて居たのである。荒廃すれば繕ひ/\して、人は住まぬ宿に、孔雀明王像が据ゑてあつた。
夜はもう更けて居た。谷川の
廬の中は、暗かつた。炉を焚くことの少い此地方では、
孔雀明王の姿が、あるか無いかの程に、ちろめく光りである。
姫は寝ることを忘れたやうに坐つて居た。万蔵法院の上座の僧綱たちの考へでは、まづ奈良へ使ひを出さねばならない。横佩家の人々の心を思うたのである。次には、女人結界を犯して門堂塔深く這入つた処は、姫自身に
其と共に、姫の身、は此庵室に暫らく留め置かるゝことになつた。たとえ、都からの迎へが来ても、結界を越えた贖ひだけは、こゝに居てさせようと言ふのである。
床は低いけれども、かいてあるにはあつた。其替り、天井は無上に高くて、而も萱のそゝけた屋根は、破風から、むき出しに空の星が見えた。風が唸つて過ぎたかと思ふと、其高い隙から、どつと吹き込んで来た。ばら/\落ちかゝるのは、煤がこぼれるのだらう。明王の前の灯が
その光りで照し出されたのは、あさましく荒んだ座敷だけではなかつた。荒板の床の上に、
壁と言ふよりは、

貴族の家の郎女は、一日もの言はずとも、寂しいとも思はぬ習慣がついて居た。其で、山陰の一つ家に居ても、溜め息一つ洩すのではなかつた。さつき此処へ送りこまれた時、一人の姥のついて来たことは知つて居た。だが、あまり長く音も立たなかつたので、人の居ることは忘れて居た。今ふつと明るくなつた御燈の色で、その姥の姿から顔まで一目で見た。何やら覚えのある人の気がする。さすがに、姫も人懐しかつた。ようべ家を出てから、
お姫さま。
あなたは、御存じあるまい。でも此姥 は、生れなさらぬ前からのことも知つて居りまする。聴いて見る気がおありかえ。
一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく喋り出した。姫は、この姥の都に見知りのある気がした訣を悟つた。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじやうなあれとおなじ表情をして居る。其も尤であつた。志斐ノ姥が
藤原のお家が、今は四筋に分れて居りまする。だが、大織冠さまの代どころではありは致しませぬ。淡海公の時も、まだ一流れのお家で御座りました。併し其頃、やはり藤原は中臣と二つの筋に岐れました。中臣の氏人で、藤原の里に栄えられたのが、藤原と家名を申された初めで御座つた。
藤原のお流れは、公家 摂
の家柄、中臣の筋は、神事にお仕へする、かう言ふ風にはつきりと分ちがついてまゐりました。ぢやが、今は今昔は昔で御座ります。藤原の遠つ祖 中臣の氏の神、天押雲根 と申されるお方の事は、お聞き及びかえ。奈良の宮に御座ります 日の御子さま、其前は藤原の宮の 日のみ子さま、其又前は飛鳥の宮の 日のみ子さま、大和の国中 に宮遷し宮奠 め遊した代々の 日のみ子さま、長く久しいみ代々々に仕へた中臣の家の神わざ、お姫様、お聞き及びかえ。
遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ。中臣藤原の遠つ祖 あめのおしくもね。遠い昔の 日のみ子さまのお食 しの飯 とみ酒を作る御料の水を、大和国中 残る隈なく捜し蒐めました。
その頃、国原の水は、水渋臭く、土濁りして、 日のみ子さまのおめしには叶ひません。天 の神様、高天 の大御祖 教へ給へと祈るにも、国中 は国低し。山々も尚天に遠し。大和の国とり囲む青垣山では、この二上、山空行く雲の通 ひ路 と昇り立つて、祈りました。その時、高天の大御祖のお示しで、中臣の祖 おしくもね、天の水の湧 き口 を、此二上山に八 ところまで見届けて、其後久しく 日のみ子さまのおめしの湯水は、中臣自身此山へ汲みに参りました。お聞き及びかえ。
藤原のお流れは、

遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ。中臣藤原の遠つ
その頃、国原の水は、水渋臭く、土濁りして、 日のみ子さまのおめしには叶ひません。
外には、瀬音が荒れて聞えてゐる。中臣の遠祖が、
併しやがて、ふり向いて、仄暗くさし寄つて来てゐる姥の姿を見た時、言ひ難い畏しさと、せつかれるやうな忙しさを一つに感じたのである。其に、志斐ノ姥が本式に物語をする時の表性が、此老女の顔に現れてゐる。今、
四
ひさかたの 天二上 に、
吾が登り 見れば、
飛ぶ鳥の明日香
ふる里の神南備山 隠 り
家どころ多 に見え、
豊 にし 屋庭 は見ゆ。
弥 彼方 に 見ゆる家群
藤原の朝臣 が宿。
遠々に わが見るものを、
たか/″\に 我が待つものを、
処女子 は 出で行 ぬものか。
よき言 を 聞かさぬものか。
青馬の耳面刀自 。
刀自もかも、女弟 もがも、
その子の はらからの子の
処女子の 一人
一人だに わが郷偶 に来 よ。
久方の 天二上
二上の陽面 に、
生ひをゝり繁 み咲く
馬酔木 の にほへる子を
我が 取り兼ねて、
馬酔木の あしずりしづる
吾 はもよ 偲 ぶ。藤原処女
歌ひ了へた姥は、大息をついて、ぐつたりした。其から暫らく、山のそよぎ、川瀬の響きばかりが耳についた。吾が登り 見れば、
飛ぶ鳥の
ふる里の
家どころ
藤原の
遠々に わが見るものを、
たか/″\に 我が待つものを、
よき
青馬の
刀自もかも、
その子の はらからの子の
処女子の 一人
一人だに わが
久方の 天二上
二上の
生ひをゝり
我が 取り兼ねて、
馬酔木の あしずりしづる
姥は居ずまひを改めて、厳かな声音で、言ひ出した。
今のお歌の旧 つ辞 を申しあげませう。此はお聞き知りにならぬ昔語りで御座る。だが、姫様にも深い図 りのあることえ。心を静めてお聴きにならねばなりませぬ。
飛鳥の都に、 日のみ子様に近く侍つた高い御身分の方がいらせられました。近江の大津の宮の内に成人なされて、唐土の学問にも詣 り深くおありになりました。此国で、詩 をはじめて作られたのは、大友皇子様か、其ともお方かと申し伝へて居るほどで御座ります。
近江の都は離れ、飛鳥の都が再栄えました頃、どうしたお心得違ひか、 日のみ子さまに弓を引くやうな企みをなされると言ふ噂が立ちました。
高天原広野姫尊 様が、お怒りをお発しになりまして、とう/\池上の堤に引き出してお討たせになりました。
其お方がお死にの際 に、深く/\思ひこまれた一人のお人が御座りまする。耳面刀自 と申す大織冠のお娘御の事で御座ります。前から深くお思ひになつて居たと云ふでもありません。唯、此郎女も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の方が、愈池上 の草の上で、お死になされると言ふことを聞いて、一目見てなごり惜しみがしたくてこらへられなくなりました。藤原から池上まで、おひろひでお出でになりました。小高い紫の一むらある中から、御様子を窺うて帰らうとなさいました。其時ちらりと、かのお人の最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に残る執心となつたので御座りまする。
飛鳥の都に、 日のみ子様に近く侍つた高い御身分の方がいらせられました。近江の大津の宮の内に成人なされて、唐土の学問にも
近江の都は離れ、飛鳥の都が再栄えました頃、どうしたお心得違ひか、 日のみ子さまに弓を引くやうな企みをなされると言ふ噂が立ちました。
其お方がお死にの
もゝつたふ 磐余 ノ池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
この思ひがけない心残りを、お詠みになつた歌だと、私ども当麻 の語部では、伝へて居ります。その耳面刀自と申すのは、淡海公の妹君、姫様方の祖父 君南家 太政 大臣には、叔母様にお当りになつてゞ御座りまする。人間の執念と言ふものは怖いものとは思ひになりませんか。
其亡き骸は、大和の国を守らせよと言ふ御諚で、此山の上、河内から来る当麻路 の脇にお埋けになりました。其が何 と此世の悪心も何もかも忘れ果てゝ清々 しい心になりながら、唯そればかり一念となつて、残つて居ると申します。藤原四流の中で、一番美しい郎女が、今におき耳面刀自と、其幽界 の目には見えるらしいので御座りまする。女盛りをまだ婿どりなさらぬさうなあなた様が、其力におびかれてお出でになるのでなうて何で御座りませう。
当麻路に墓を造りました当時、石を搬ぶ若い衆にのり移つた霊が、あの長歌を謳うたのだと伝へて居ります。はい。
其亡き骸は、大和の国を守らせよと言ふ御諚で、此山の上、河内から来る
当麻路に墓を造りました当時、石を搬ぶ若い衆にのり移つた霊が、あの長歌を謳うたのだと伝へて居ります。はい。
大貴族の郎女は、人の語を疑ふことは教へられて居なかつた。そこへ、信じなければならぬものとせられて居た語部の物語である。詞の端々までも、真実なものと感じて聴いて居た。
さう言ふ昔びとの
春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上にまざ/″\と見たお姿。此
日のみ子さまの御側に居るお人の中には、あの様な人もおいでなさるものだらうか。我が家の父や、
尊い女性は、下賤な人と、口をきかぬのが、当時の掟である。何よりも、其語は、下ざまには通じないものと考へられてゐる。其でも此古物語をする姥には、貴族の語もわかるであらう。郎女は、恥ぢ乍ら問ひかけた。
そこの人。ものを聞きませう。此身の語が、聞とれたら、答へしておくれ。
その飛鳥の宮の 日のみ子さまに仕へたと言ふお人は、昔の罪びとらしいに、其が亦どうした訳で、姫の前に立ち現れて神々 しく見えるのだらう。
此だけの語が、言ひ淀み/\して言はれてゐる間に、姥は郎女の内に動く心を、凡は気どつて居た。暗いみその飛鳥の宮の 日のみ子さまに仕へたと言ふお人は、昔の罪びとらしいに、其が亦どうした訳で、姫の前に立ち現れて
其は申すまでもないこと。お聞きわけられませ。神代の昔、天若日子 と申したは、天の神々に矢を引いた罪ある者に御座ります、其すら、其後 、人の世になつても、氏貴い家々の娘御 の閨 の戸までも忍びよると申しまする。世に言ふ「天若 みこ」と言ふのが、其で御座ります。天若みこ、物語にも、うき世語 りにも申します。お聞き及びかえ。
姥は暫らく口を閉ぢた。さうして言ひ出した声は、年に似ずはなやいだものであつた。「もゝつたふ」の歌を残しなされた飛鳥の宮の執心 びとも、つまりはやはり、天若みこの一人で御座りまする。
お心つけなされませ。物語も早これまで。
其まゝ石のやうに、老女はぢつとして居る。冷えた夜も幾らかお心つけなされませ。物語も早これまで。
万蔵法院は、村からは遠く山によつて立つて居た。暁早い鶏の声も聞えない。もう塒を離れるらしい朝鳥が、近い
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死者の書(正篇)
一
した した した 耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと、睫が離れて来た。
膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、
さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて、見廻す瞳にまづ
時が経た||。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであつた。けれども又、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつら/\思つてゐた考へが、現実に繋つて、あり/\と目に沁みついてゐる。
あゝ耳面刀自 。
耳面刀自。おれはまだお前を。······思うてゐる。おれは、きのふこゝに来たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは決してないのだ。おれは、もつと/\長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ続けて居たぞ。耳面刀自 。こゝに来る前から······こゝに寝ても、······其から、覚めた今まで、一続きに、一つ事を考へつめて居るのだ。
古い習慣から||祖先以来さうしたやうに、此世に在る間さう暮して居た。||である。彼の人は、のくつと起き直らうとした。だが、筋々が耳面刀自の記憶。たゞ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に
耳面刀自。おれが見たのは、唯一目||唯一度だ。だが、おまへのことを聞きわたつた年月は久しかつた。おれによつて来い。耳面刀自。
記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。おれは、このおれは、何処に居るのだ。······それから、こゝは何処なのだ。
其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすつかりおれは忘れた。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声 を聞いたのだつけ。さうだ。訳語田 の家を引き出されて、磐余 の池に上つた。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい、あの萱原、そこの矮叢 から首がつき出て居た。皆が大きな喚 び声を、挙げて居たつけな。あの声は残らず、おれをいとしがつて居る、半泣きの喚 き声だつた。
其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だつた。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の声だつた。今思ふと、待てよ。其は何だか、一目惚れの女の哭き声だつた気がする。||をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は急に締めあげられるやうな刹那を通つた気がした。俄かに楽な広い世間に出たやうな感じだつた。さうして、ほんの暫らく、ふつとさう考へたきりで、空も見ない。土も見ない。花や木の色も消え去つた||おれ自分すら、おれだか、はつきり訣らぬものになつてしまつたのだ。
あゝ其時から、おれ自身、このおれを忘れてしまつたのだ。
足の其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だつた。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の声だつた。今思ふと、待てよ。其は何だか、一目惚れの女の哭き声だつた気がする。||をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は急に締めあげられるやうな刹那を通つた気がした。俄かに楽な広い世間に出たやうな感じだつた。さうして、ほんの暫らく、ふつとさう考へたきりで、空も見ない。土も見ない。花や木の色も消え去つた||おれ自分すら、おれだか、はつきり訣らぬものになつてしまつたのだ。
あゝ其時から、おれ自身、このおれを忘れてしまつたのだ。

をゝさうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女 ||おれの姉御 。あの人がおれを呼び活けに来てゐる。
姉御。こゝだ。でも、おまへさまは、尊い御 神に仕へてゐる人だ。おれのからだに触 つてはならない。そこに居るんだ。ぢつとそこに蹈み止 つて居るものだ。||あゝおれは死んでゐる。
死んだ。殺されたのだ。忘れて居た。さうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開けては。塚の通ひ路の扉をこじるのはおよし。······よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も来ては居なかつたのだな。あゝよかつた。おれのからだが、天日 に暴 されて、見る/\腐るとこだつた。だが、をかしいぞ。あれは昔だ。あのこじあける音がしたのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言つて居たのも今 の事||ではなかつたのだ。昔だ。おれのこゝへ来て間もないことだつた。
おれは其時知つた。十月だつたから鴨が鳴いて居たのだ。其鴨のやうに首を捻ぢちぎられて、何もわからぬものになつたことも、かうつと、姉御が墓の戸で哭き喚 いて、歌をうたひあげられたつけ。「厳石 の上 に生ふる馬酔木 を」と言はれたので、春が闌 けて、夏に入りかけた頃だと知つた。おれの骸 は、もう半分融け出した頃だつた。それから、「たをらめど······見すべき君がありと言はなくに」さう言はれたので、はつきりもう死んだ人間になつたと感じたのだ。······其で、手で、今してる様にさはつて見たら、其時驚いたことに、おれのからだは著こんだ著物の下で、ぺしやんこになつて居るのだつた。
姉御。こゝだ。でも、おまへさまは、尊い
死んだ。殺されたのだ。忘れて居た。さうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開けては。塚の通ひ路の扉をこじるのはおよし。······よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も来ては居なかつたのだな。あゝよかつた。おれのからだが、
おれは其時知つた。十月だつたから鴨が鳴いて居たのだ。其鴨のやうに首を捻ぢちぎられて、何もわからぬものになつたことも、かうつと、姉御が墓の戸で哭き
うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山を愛兄弟 と思はむ。
よい姉御だつた。併し、其歌の後で、又おれは何もわからなくなつてしまつた。
其から、どれほどたつたのかなあ。どうもよつぽど、長い間だつた気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居寝りの夢を醒された感じだつた。其に比べると、今度は、深い睡りの
手にとるやうだ。目に見るやうだ。心を鎮めて······鎮めて。でないと、この考へが復散らかつて行つてしまふ。おれの昔があり/\と訣つて来た。だが待てよ。······さうして一体、こゝに居るおれはだれなのだ。だれの子なのだ。だれの
大変だ。おのれの著物は、もうすつかり朽つて居る。おのれのはかまは埃になつて、飛んで行つた。どうしろと言ふのだ。此おれは、著物もなしに寝て居たのだ。
筋ばしるやうに、彼の人のからだに、血の馳け廻るに似たものが過ぎた。肱を支へて、上半身が、闇の中に起き上つた。をゝ寒い。おれをどうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かつたと言ふのなら、あやまります。著物を下さい。著物を。此では地べたに凍りついてしまひます。
彼の人には、声であつた。だが、声でないものとして、消えてしまつた。声でない語が、何時までも続く。くれろ。おつかさま。著物がなくなつた。すつ裸で出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに寝床の上を這ひずり廻つてゐるのが、誰にも訳らないのか。こんなに手足をばた/\やつてゐるおれの見える奴が居んのか。
その唸き声のとほり、彼の人の骸は、まるで駄々をこねる赤子のやうに、足もあがゞに身あがきをば、くり返して居る。明りのさゝなかつた墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど物のたゝずまひを幾分朧ろに見わけることが出来るやうになつて来た。其はどこからか、月光とも思へる薄あかりがさし入つて来たのである。どうしよう。どうしよう。おれは。||大刀までこんなに、錆びてしまつた······。
二
月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りのあたるものが少かつた。山を照らし、谷を輝かして、剰る光りは、又空に跳ね返つて、残る隅々までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、沢山の峰があつた。黒ずんで見える峰々が入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隠れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て来た霞の
寂かな夜である。やがて鶏鳴近い山の姿は、一様に露に濡れたやうに、しつとりとして静まつて居る。谷にちら/\する雪のやうな輝きは、目の下の山田谷に多い小桜|彼岸桜|の遅れ咲きである。
一本の路が、真直に通つてゐる。二上山の

こう こう こう
こう こう こう······こう こう こう だが、確かに人声である。鳥の夜声とは思はれぬ
当麻路をこちらへ降つて来るらしい影が、見え出した。二つ 三つ 五つ······八つ九つ、九人の姿である。急な降りを一気に、この河内路へ馳けおりて来る。
九人と言ふよりは、九柱の神であつた。白い著物、白い
こう こう こう
誰の口からともなく、皆一時に叫びが出た。山々のこだまは驚いて、一様に忙しく声を合せた。だが山は、忽ち一時の騒擾から、元の
こう こう お出でなされ。藤原南家郎女の御魂 。こう こう。
こんな奥山に迷うて居る時ではない。早くもとの身に戻れ。こう こう。
お身が魂 を、今、山だつね尋ねて、尋ねあてたおれたちぞよ。こう こう こう。
九つの杖びとは、心から神になつて居る。彼らは杖を地に置き、鬘を解いた。鬘は此時、唯真白な白布に過ぎなかつた。其を長さの限り振り捌いて、一様に塚に向けて振つた。こんな奥山に迷うて居る時ではない。早くもとの身に戻れ。こう こう。
お身が
こう こう こう。
かう言ふ動作をくり返して居る間に、自然な感情の鬱屈と、休息を欲するからだの疲れとが、九体の神の心を、人間に返した。彼らは、見る間に白い布を頭に捲きこんで鬘とし、杖を手にとつて立つた。をい。無言 の勤 めも此までぢや。
をゝ。
八つの声が答へて、彼等は訓練せられた所作のやうに、忽一度に草の上にをゝ。
これで大和も、河内との境ぢやで、もう魂ごひの行 もすんだ。今時分は、郎女さまのからだは、廬 の中で魂をとり返してぴち/\して居られるぞ。
こゝは、何処だいの。
知らぬかいよ。大和にとつては大和の国。河内にとつては河内の国の大関 。二上の当麻路 の関 。
別の長老めいた者が、説明をこゝは、何処だいの。
知らぬかいよ。大和にとつては大和の国。河内にとつては河内の国の
四五十年あとまでは、唯関と言ふばかりで、何のしるしなかつた。其があの、近江の滋賀に馴染み深かつた、其よ。大和では磯城 の訳語田 の御館 に居られたお方。池上の堤で命召されたあの骸を、罪人に殯 するは、災の元と、天若日子の昔語に任せて、其まゝ此処にお搬び申して、お埋けになつたのが、此塚よ。
以前の声が、まう一層皺がれた響きで、話をひきとつた。其時の仰せには、罪人よ。吾子 よ。吾子の為了 なんだ荒 び心で、吾子よりももつと深い猛び心を持つた者の、大和に来向ふのを、待ち押へ、塞へ防いで居ろと仰せられた。
ほんに、あの頃は、まだおれたちも壮盛 りぢやつた。今からでは、もう五十年になるげな。
今一人が、相談でもしかける様な口ぶりを挿んだ。ほんに、あの頃は、まだおれたちも
さいや。あの時も、墓作りに雇はれた。その後も、当麻路の修復に召し出された。此お墓の事は、よく知つて居る。ほんの苗木ぢやつた栢 が、此ほどの森になつたものな。畏かつたぞよ。
此墓の魂 が、河内安宿部 から石担 ちに来て居た男に憑いた時はなう。
九人は、完全に現し世の庶民の心になり還つて居た。山の上は、昔語りするには、あまり寂しいことを忘れて居たのである。時の更け過ぎた事も、彼等の心には、現実にひし/\と感じられ出したのだらう。此墓の
もう此でよいのだ。戻らうや。
よかろ/\。
皆は、鬘をほどき、杖を棄てた白衣の修道者と言ふだけのよかろ/\。
だがの。皆も知つてようが、このお塚は由緒深 い、気のおける処ゆゑ、まう一度魂ごひをしておくまいか。
こう こう こう
をゝ······。
異様な声を出すものだと、初めは誰も、自分らの中の一人を疑ひ、其でも変に、おぢけづいた心を持ちかけてゐた。も一度、をゝ······。
こう こう こう
其時、塚穴の深い奥から、冰りきつた、而も活き出したばかりの様な声が、明らかに和したのである。をゝ······。
九人の心は、ばら/″\の九人の心であつた。からだも亦ちり/″\に、山田谷へ、竹内谷へ、大阪越へ、又当麻路へ、峰にちぎれた白い雲のやうに、消えてしまつた。唯畳まつた山と谷とに響いて、一つの声ばかりがしてゐる。
をゝ······。
三
おれは活 きた。
闇い空間は、明りのやうなものを漂してゐた。併し其は、蒼黒い靄の如くたなびくものであつた。巌ばかりであつた。壁も纔かにさす薄光りも、黒い巌石が皆吸ひとつたやうに、
思ひ出したぞ。おれが誰だつたか、訣つたぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦。即其が、おれだつたのだ。
歓びの激情を迎へるやうに、おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦。即其が、おれだつたのだ。
唯、岩屋の中に
おれの名は、誰も伝へるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しくおれ自身にすら忘れられて居た。可愛 しいおれの名は、さうだ。語り伝へる子があつた筈だ。語り伝へさせる筈の語部 が出来て居ただらうに。||なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しく/\と胸を刺すやうだ。
||子代 も、名代 もないおれにせられてしまつたのだ。さうだ。其に違ひない。この物足らない、大きな穴のあいた気持ちは、其でするのだ。おれは、此世に居なかつたと同前の人間になつて、現し身の人間どもには忘れ了 されて居るのだ。憐みのないおつかさま。おまへさまは、おれの妻の、おれに殉死 にするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子 は、罪びとの子として、何処かへ連れて行かれ、山野のけだものの餌食 になつたのだらう。可愛さうな妻よ。哀なむすこよ。
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が伝らない、劫初から末代まで、此世に出ては消える天 の下 の青人草 と同じく、おれは、此世に影も形も残さない人間になるのは、いやだ。どうあつても、不承知だ。
情ないおつかさま。おまへさまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうお出でゞない此世かも知れない。
くそ||外 の世界が知りたい。世の中の様子が見たい。
だが、おれの耳は聞える。其なのに目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなつて居る。闇の中にばかり瞑 つて居たおれの目よ。も一度くわつと
いて、現し世のありのまゝをうつしてくれ、······土竜 の目でも、おれに貸しをれ。
声は再寂かになつて行つた。独り言する其声は、彼の人の耳にばかり聞えて居るであらう。||
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が伝らない、劫初から末代まで、此世に出ては消える
情ないおつかさま。おまへさまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうお出でゞない此世かも知れない。
くそ||
だが、おれの耳は聞える。其なのに目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなつて居る。闇の中にばかり

暁が来たのである。里々の男は、今、女の家の
山風は頻りに吹きおろす。枝・木の葉の相軋めく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひつそとしたけしきに還る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈を持つたやうに、朧ろになつて来た。
まだ反省のとり戻されないむくろには、心になるものがあつて、心はなかつた。
耳面刀自の名は、唯記憶よりも更に深い印象であつたに違ひはない。自分すら忘れきつた彼の人の出来あがらない心に、骨に沁み、干からびた髄の
四
万法蔵院の
南家の郎女は、一
何処からか吹きこんだ朝山
たゞ一刻も前、這入りの戸を動した物音があつた。一度 二度 三度 数度、こと/\と音を立てた。枢がまるでおしちぎられでもするかと思ふほど、音に力のこもつて来た時、ちようど鶏が鳴いた。其きり、ぴつたり、戸にあたる者もなくなつた。
四 |その二|
奈良の都には、まだ時をり、
度々の
其に一つは、宮廷の御在所が、御一代々々々に替つて居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帯の内にあつた。其で凡そ、都遷りのなかつた形になつたので、後から/\地割りが出来て、相応な都城の姿は備へて行つて居た。其数朝の間に、旧族の屋敷は段々、家構へが整うて行つた。
葛城に元のまゝの家を持つて居て、都と共に一代ぎりの屋敷を構へて居た
蘇我臣一家の権威を振うた島ノ大殿家の亡びた時分から石城の構へは禁められ出した。
この国のはじまり、天から伝へられたと言ふ、宮廷に伝る神の
其飛鳥都すら、
もう此頃になると、太政官符に、更に
古い
最早くそこに心づいた姫の祖父淡海公などは、古き神秘を誇つて来た家職を末代まで伝へる為に、別に家を立てゝ中臣の名を保たうとした。さうして自分、子供たち、孫たちと、いちはやく
ことし四十を二つ三つ越えたばかりの
世間の氏々の上は大方もう、
こんな溜め息を洩しながら、大伴氏の旧い習はしを守つて、どこまでも、宮廷守護の為の武道伝襲に努める外はない家持だつたのである。
越中守として踏み歩いた
今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の
まだ
多聞天は、紫微内相藤原
さう言へばあの方が
其では、広目天の方はと言ふと、
さあ 其がの
と誰に言はせても、言ひ渋るやうな、ちよつと困つた顔をして見せる。実は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保証は出来ないがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に似てるがやと言ふぞな。······けど、他人 に言はせると、||あれはもう十七年にもなるかいや||筑紫で伐たれなさつた前太宰少弐 |藤原広嗣|の殿 に生写 しぢやとも言ふがいよ。
わしにも、どちらとも言へんがの。どうでも、見たことあるお人に似て居さつせることは似て居るげなが······。
何しろ此二つのわしにも、どちらとも言へんがの。どうでも、見たことあるお人に似て居さつせることは似て居るげなが······。
若しや、天下に大乱でも起らなければえゝが。
こんな囁きは、何時までも続きさうに、時と共に倦まずに語られた。起したくても起せる身分でもないぢやて······。
四 |その三|
資人の一人が、とつとと追ひついて来たと思ふと、主人の鞍に胸をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすがうた知り人の口から聞いたばかりの噂である。
それで、何かの······。娘御の行くへは知れたと言ふのか。
はい······。いゝえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
間抜けめ。話はもつと上手に聴くものだ。
柔らかく叱つた。そこへ、はい······。いゝえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
間抜けめ。話はもつと上手に聴くものだ。
ふん。汝 は聞き出したね。南家 の嬢子 はどうなつた。
出鼻を油かけられた当麻までをとゝひの夜の中に行つて居たこと。寺からは昨日午後、横佩家へ知らせが届いたこと。其外には、何も聞きこむ間がなかつた。
家持の聯想は、環のやうに繋つて、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであつた。
南家で持つて居た藤原の
その
だが併し、あの郎女は、藤原南家で一番神さびたたちを持つて生まれたと謂はれた娘御である。今枚岡の御神に仕へて居る
ほのかな感傷が、家持の心を浄めて過ぎた。おれは、どうもあきらめがよ過ぎる。十代の若さで、母は死に、父は疾んで居る太宰府へ降つて、早くから、海の
あきらめと言ふ事を知らなかつた人ばかりではないか。······昔物語に語られる神でも、人でも、傑れたと伝へられるだけの方々は······。それに、おれはどうしてかうだ。
家持の心は併し、こんなに悔恨と同じ心持ちに沈んで居るに繋らず、段々気にかゝるものが薄らぎ出して来てゐる。
ほう、これは京極 まで来た。
朱雀大路も、こゝまで来ると、縦横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの区画にも/\、家は建つて居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍茎を張り初めたのとがまじりあつて、屋敷地から喰み出し道の上にまで延びて居る。こんな家が······。
驚いたことは、そんな雑草原の中に、唯一つ大きな構への家が、建ちかゝつて居る。遅い朝を、もう余程、今日の為事に這入つたらしい木の道の者たちが、骨組みばかりの家の中で立ちはたらいて居るのが見える。家の建たぬ前に、既に屋敷廻りの
おれには、だがこの築土垣を択 ることが出来ない。
家持のこんなにも、変つて居たのかねえ。
ある······旧 草に、新 草まじり、生 ひば、生ふるかに||だな。
近頃見出した
さうだ。「おもしろき野 をば勿 焼きそ······」だ。此でよいのだ。
けげんな顔をふりさうは思はぬか。立ち朽りになつた家の間に、どし/\新しい屋敷が建つて行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが其でもどちらかと謂へば、減るよりも殖えて行つてる。此辺は以前今頃は、蛙の沢山に鳴く田の原が続いてたもんだ。
仰るとほりで御座ります。春は蛙、夏は稲虫、秋は蝗まろ。此辺はとても歩けたところでは御座りませんでした。
今一人が言ふ。仰るとほりで御座ります。春は蛙、夏は稲虫、秋は蝗まろ。此辺はとても歩けたところでは御座りませんでした。
建つ家も/\、この立派さはどうで御座りませう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣 を築 きまはしまして。何となく、以前とはすつかり変つた処に参つた気が致します。
馬上の主人も、今まで其ばかり考へて居た所であつた。だが彼の心は、瞬間明るくなつて、去年六月、三形王のお屋敷でのうつり行く時見る毎に、心疼く 昔の人し思ほゆるかも
目をあげると、東の方春日のあきらめがさせるのどけさなのだと、すぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむしは痕を潜めて、唯、まるで今歩いてゐるのが、
おれは若くもなし、第一、海東の
をい。おまへたち。大伴の家も、築土垣を引き廻さうかな。
とんでもない仰せで御座ります。
二人の声がおなじ感情で迸り出た。とんでもない仰せで御座ります。
年の増した方の一人が、切実な胸を告白するやうに言つた。
私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言ふお名は、御門・御垣と関係深い称へだと承つて居ります。大伴家から、門垣を今様にする事になつて御覧なさりませ。御一族の末々まで、あなた様をお呪ひ申し上げることでせう。其どころでは御座りません。第一、ほかの氏々が、大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい||人の世になつて初まつた家々の氏人までが、御一族を蔑 に致すことになりませう。
こんな事を言はして置くと、折角澄みかゝつた心も、又曇つて来さうな気がする。家持は忙てゝ、資人の口をうるさいぞ。誰に言ふ語だと思うて、言うて居るのだ。よさないか。雑談 だ。雑談を真に受ける奴があるものか。
馬はやつぱり、しつとしつと、歩いて居た。築土垣、築土垣又、築土垣。こんなに、何時の間に、家構へが替つて居たのだらう。家持は、なんだか、築土垣、築土垣。もう彼の心は動かなくなつた。唯、よいとする気持ちと、いけないと思はうとする意思との間に、気分だけがあちらへ寄り、こちらへ依りしてゐるだけであつた。
何時の間にか、
これは/\。まだ少しは残つてゐるぞ。
珍しい発見をしたやうに、彼は馬から身を家持は、門と門との間に、細かい柵をし囲らし、目隠しに
荒れては居るが、こゝは横佩墻内 だ。
さう言つて、暫らく息を詰めるやうにして、石垣の荒い面を見入つて居た。さうに御座ります。此石城 からしてついた名の横佩墻内だと申して、せめて一ところだけはと、強ひてとり毀たないとか申します。何分、帥 の殿 のお都入りまでは、何としても此儘で置くので御座りませう。さやうに、人が申します。はい。
何時の間にか、三条七坊まで来てしまつたのである。おれは、こんな処へ来ようと言ふ考へはなかつたのに······。だが「やつぱり、おれにまだ/\若い色好みの心が失せないで居るぞ」何だか自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが起つて来た。
其にしても、静か過ぎるぢやないか。
さやうで。で御座りますが、郎女のお行くへも知れ、乳母 もそちらへ行つたとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りませう。
詮索ずきさうな顔をした若い方が、口を出す。さやうで。で御座りますが、郎女のお行くへも知れ、
いえ。第一、こんな場合は騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪い霊 が、うよ/\とつめかけて来るもので御座ります。この御館 も、古いおところだけに、心得のある長老 の、一人や、二人は筑紫へ下らずに残つて居るので御座りませう。
さうか。では戻らう。
さうか。では戻らう。
五
をとめの
かき昇る段になれば、何の
さう言ふ村々では、実例として恐しい証拠を挙げた。先年|天平六年|厳命が降つて、何事も命令のはか/″\しく行はれないのは、
こんな畏しい事も、あつて過ぎた夢だ。がまだ、まざ/″\と、人の心には焼きついて離れない。
其は其として、昔から家の娘を守つた村々は、段々えたいの知れぬ村の風に
手近いところで言つても、大伴にせよ。藤原にせよ。さう謂ふ妻どひの式はなくて、数十代、宮廷をめぐつて仕へて来た村々のあるじの家筋だつた。
でも何時か、さうした氏々の間にも、妻迎への式には、
八千矛の神のみことは、とほ/″\し高志 の国に美 し女 をありと聞かして、賢 し女 をありと聞こして······
から謡ひ起す南家の
だが郎女は、そんな事があらうとも気がつかなかつた。
上つ方の姫御前が、才 をお習ひ遊ばすと言ふことが御座りませうか。それは、近来もつと下 ざまのをなごの致すことゝ承ります。父君がどう仰らうとも、父御 様のお語は御一代。お家の習はしは神さまの御意趣 と思ひつかはされませ。
氏の掟の前には、其老女たちすら、郎女の天稟には舌を捲き出して居た。
もう自身たちが教へることはない。
かう思ひ出したのは、数年も前からである。内に居る何を仰せられまする。以前から、何一つお教へなど申したことは御座りません。目下 の者が、目上のお方さまに、お教へ申すと言ふやうな考へは、神様がお聞き届けになりません。教へる者は目上、教 はる者は目下と、此が神の代からの掟で御座りまする。
志斐唯、知つた事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。さう思うて、姥たちは覚えただけの事は、姫御様のみ魂 を揺 る様にして、歌ひもし、語りもして参りました。教へたなど仰つては、私めらが罰を蒙らねばなりません。
こんなことをくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの持つ才能に対する単純な自覚が起つて来た。此は一層、郎女の望むまゝに、まことに其為には、ゆくりない事が幾重にも重つて起つた。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだつたと見えて、二巻の
横佩右大臣と謂はれた頃から、父は此二部を、自分の魂のやうに大事にして居た。ちよつと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の
郎女は父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し予期したやうな昂奮は認められなかつた。唯一
其からは、此二つの
父藤原豊成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに当る日に志を
郎女の手に、此巻が渡つた時、姫は端近く
筑紫は、どちらに当るかえ
と尋ねて、示す方角へ、活き/\した顔を向けた。其目からは、珠数の指から腕、腕から胸、胸から又心へ、泌み/\と深く、魂を育てる智慧の這入つて行くのを覚えたのである。
大日本
をゝ、あれだけの習はしを覚えて此世に生きながらへて行かねばならぬ自身だつた。
父に感謝し、次には尊い大叔母君、其から見ぬ世の曾祖母の尊に、何とお礼申してよいか量り知れないものが、心にたぐり上げて来た。だがまづ、父よりも誰よりも、御礼申すべきはみ仏である。この
(つゞく)
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死者の書(終篇)
六
ほゝき ほゝきい ほゝほきい。
きのふよりも、澄んだよい日になつた。春にしては、驚くばかり濃い日光が、地上にかつきりと、木草の影を落して居た。ほか/\した日よりなのに、其を見てゐると、どこか薄ら寒く感じるほどである。時々に過ぎる雲の翳りもなく、晴れきつた空だ。高原を拓いて、家の刀自たちが、物語る口癖を、さつきから思ひ出して居た。出雲ノ宿禰の分れの家の
ほゝき ほゝきい
何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの声ではなかつた。「をゝ此身は」と思つた時に、自分の顔に触れた袖は、袖ではないものであつた。枯れほゝき ほゝきい ほゝほきい
と鳴いてゐるのだと、幼い耳に郎女は、
ほゝき
ほゝき ほゝきい
自身の咽喉から出た声だと思つた。だがやはり、廬の外で鳴くのである。郎女の心に、動き初めた
ほゝき ほゝきい
嬉しさうな物語する刀自たちの話でなく、
奈良の家の女部屋は、裏方五つ
郎女は、女たちの凝つてゐる手芸を見て居る日もあつた。ぽつり/\切れてしまふ
この
刀自たちは、初めはそんな
こりや、おもしろい。絹の絲と績 み麻 との間を行くやうな妙な絲の。此で、切れさへしなければなう。
かうして若人たちは、茎を折つては、巧みに糸を引き切らぬやうに、長く/\抽き出す。又其粘り気の少いさくいものを、まるで絹糸を縒り合せるやうに手際よく絲にする間も、ちつとでも口やめる事なく、うき世語りなどをして居た。此は勿論、貴族の家庭では出来ない掟になつて居た。なつて居ても、
鶯の鳴く声は、あれで法華経 々々々 と言ふのぢやさうな。
ほゝ、どうして、え。
天竺のみ仏は、をなごは助からぬものぢやと説かれ/\して来たがえ、其果てに、女 でも救ふ道を開かれた。其を説いたのが、法華経ぢやと言ふげな。
||こんなこと、をなごの身で言ふと、さかしがりよと思はうけれど、でも世間ではさう言ふもの。||
ぢやで、法華経々々々と経の名を唱へるだけで、この世からあの世界への苦しみが助かるといの。
ほんにその、天竺のをなごの化 り変つたのがあの鳥で、み経の名を呼ばはるのかえ。
郎女は、此を小耳に挿んで後、何時までも其印象が消えて行かなかつた。ほゝ、どうして、え。
天竺のみ仏は、をなごは助からぬものぢやと説かれ/\して来たがえ、其果てに、
||こんなこと、をなごの身で言ふと、さかしがりよと思はうけれど、でも世間ではさう言ふもの。||
ぢやで、法華経々々々と経の名を唱へるだけで、この世からあの世界への苦しみが助かるといの。
ほんにその、天竺のをなごの
その頃は、
ふつと、こんな気がした。
ほゝき鳥は、先の世で、法華経手写の願を立てながら、え果たさいで、死にでもした、いとしい女子 がなつたのではなからうか。
今若し自身も、千部に満たずにしまふやうなことがあつたら、魂 は何になるやら。やつぱり鳥にでも生れて、切 なく鳴き続けることであらう。
つひしか、ものを考へた事もないあて人の郎女であつた。磨かれない智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに過ぎて行つた幾百年、幾万の貴い今若し自身も、千部に満たずにしまふやうなことがあつたら、
をれよ。鶯よ。あな姦 や。人に物思ひをつけくさる。
荒々しい声と一しよに、立つて表戸と
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃き過ぎたのを、

また
寺の
これが、古 山田寺だと申します。
勿体ぶつた、しわがれ声の一人が言つた。そんな事は、どうでも||。まづ郎女さまを||。
噛みつくやうにあせつて居る同時に、表戸は引き剥がされ、其に隣つた幾つかの
づうと這入つて来た
伴に立つて来た家人の一人が、大きな木の
七
怒りの滝のやうになつた額田部ノ子古は、奈良に還つて、公に訴へると言ひ出した。大和ノ国にも断つて、寺の奴原を逐ひ退けて貰ふとまで、いきまいた。紫微内相を
郎女は貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢し、結界まで破られたからは、直にお還りになるやうには計はれない。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、
其は、寺方に理分が御座りまする。お随ひなされねばならぬ
と言ひ出した。其を聞くと、身狭の乳母は、激しく田舎語部の老女を叱つた。男たちに、畳を持ちあげ、柱に縋る古婆を掴み出させた。さうした威高さは、さすがに自ら備つてゐた。何事も、この身などの考へではきめられぬ。帥 の殿 に承らうにと、国遠し。まづ姑らく、郎女様のお心による外はないものと思ひまする。
其より外には、方もつかない。奈良の御館の人々と言つても、多くは此二人の意見を聞いてする人々である。よい思案を考へつきさうなものも居ない。太宰府へは直様使を立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考へに任せようと言ふことになつた。郎女様。如何お考へ遊ばしまする。おして奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤、寺方でも侯人 や奴隷 の人数を揃へて妨げませう。併し、御館 のお勢ひには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考を承らずには、何とも計らはれませぬ。御思案お洩し遊ばされ。
謂はゞ難題である。あて人の娘御に、此返答の出来よう筈はない。姫の咎は、姫が贖 ふ。此寺、此二上山の下に居て、身の償 ひ、心の償ひしたと姫が得心するまでは、還るものとは思 やるな。
郎女の声、詞を聞かぬ日はない寺方の言ひ分に譲るなど言ふ問題は、小さい事であつた。此爽やかな育ての君の判断力と、惑ひなき詞に感じてしまつた。たゞ、涙。かうまで
ともあれ此上は、太宰府へ。
かう言つた自分の語に気つけられたやうに、子古は思ひ出した。今日か明日、新羅問罪のうち合せの為、難波を離れて、筑前へ下る官使の一行があつたのである。此中に居る知り人に、今度の事の顛末の報告から、其決断を乞ふ次第を書き綴つて、托しようと思ひついた。北へ廻つて、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶ふ処は馬で行かうと決心した。
万法蔵院に唯一つ飼つて居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。子古は、今日の日暮れまでには、難波まで行つて還つて来ると、威勢のよい語を、歯の隙いた口に叫びながら、郎女の
子古の発つた後は、又のどかな春の日に戻つて、
日の光りは霞みもせず、陽炎も立たず、唯おどんで見えた。昨日眺めた野も、斜になつた日を受けて、物の影が細長く靡いて居た。青垣の様にとり捲く山々も、愈遠く裾を曳くやうに見える。
早い菫|げんげ|が、もうちらほら咲いてゐる。遠く見ると、その紫の色が一続きに見えて、薄い雲がおりて居るやうに思はれる。足もとに一本、おなじ花の咲いてゐるのを見つけた郎女は、膝を叢について、ぢつと眺め入つた。
これはえ||
すみれと申すとのことで御座ります。
かう言ふ風に、物を知らせるのが、あて人に仕へる人たちの為来りになつて居た。すみれと申すとのことで御座ります。
夕風が冷 ついて参ります。内へ||。
乳母が言つた。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。一番近く谷を隔て、端山の林や
今日は、あまりに静かな
まうし。まう外に居る時では御座りません。
八
「朝目よく」うるはしい
一つ/\変つた事に逢ふ度に、姫は「何も知らぬ身であつた」と心の底で声を上げた。さうして、その事毎に挨拶をしてはやり過したい気が一ぱいであつた。今日も其続きを、くはしく見た。なごり惜しく過ぎ行く
宵闇の深くならぬ間に、
たとへば、俤に見たお人には逢はなくとも、その俤を見た山の麓に来て、かう安らかに身を横へて居る。
燈台の明りは、郎女の額の上に、高く朧ろに見える光りの輪を作つて居た。月のやうに円くて、幾つも上へ/\と
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今はじめて谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、此頃やつと、遅い月が出たことであらう。
物の音。||つた/\と来て、ふうと
つた つた つた
又ひたとこの狭い廬の中を、何時まで歩く、足音だらう。
つた
郎女は刹那、思ひ出して牀の中で身を固くした。次にわぢ/\と||青馬の 耳面刀自 。
刀自もがも。女弟 もがも。
その子の はらからの子の
処女子の 一人
一人だに わが配偶 に来よ。
まことに畏しかつたことを覚えない郎女にしては、初めてまざ/″\と圧へられるやうなその子の はらからの子の
処女子の 一人
一人だに わが
ついと、凍る様な冷気||。
郎女は目を瞑つた。だが||瞬間

あな たふと 阿弥陀仏。なも阿弥陀仏。
何の反省もなく、唇を洩れた詞。この時、姫の心は急に寛ぎを感じた。さつと||汗。全身に流れる冷いものを覚えた。なも あみだぶつ
白い骨、譬へば玉の様に並んだ骨の指、其が何時までも目に残つて居た。
悲しいとも懐しいとも知れぬ心に、深く郎女は沈んで行つた。山の端に立つた俤びとは、白々とした掌をあげて、姫をさし招いたと覚えた。だが今、近々と見る、其手は、海の渚の白玉のやうに、寂しく目にはうつる。
長い渚を歩いて居る。郎女の髪は左から右から吹く風に、あちらへ靡き、こちらへ乱れする。浪はま足もとに寄せて居る。渚と思うたのは、海の
砂を踏む踏むと思うて居る中に、ふと其が白々とした照る玉だと気がつく。姫は身を
姫は||やつと白玉を取り持つた。大きな輝く玉。さう思うた刹那、郎女の身は大浪にうち仆される。浪に漂ふ身······衣もなく
ずん/\とさがつて行く。
あゝ夢だつた。当麻まで来た夜道の記憶はまざ/″\と残つて居るが、こんな苦しさは覚えなかつた。だがやつぱり、をとゝひの道の続きを辿つて居るのではなからうかと言ふ気がする。
水の面からさし入る月の光り、と思うた時に、ずん/\海面に浮き出て行く。さうして、悉く痕形もない夢だつた。唯、姫の仰ぎ寝る
なも、阿弥陀仏、
再、口に出た。光りの暈は、今は愈明りを増して、輪と輪との境の隈々しい処までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝つて、明るい光明の中に、胸、肩、頭、髪、はつきりと形を姫は、起き直つた。だが、天井の光りの輪は、元のまゝに、仄かに事もなく揺れて居た。
九
言はしておくがよい。奴隷 たちはとやかくと、口さがないのが、其為事よ。此身とお身とは、おなじ貴人 ぢや。おのづから話も合はうと言ふもの。此身が段々なり上 ると、うま人までが、おのづとやつこ心になり居つて、卑屈になる。
家持は、此が多聞天かと、心に問ひかけて居た。だがどうもさうは思はれぬ。同じ、かたどつて作るなら、とつい想像が浮んで来た。八年前、越中国から帰つた当座の世の中の豊かな騒ぎが思ひ出された。あれからすぐ、大仏かうして対ひあつて居る仲麻呂の顔なり、姿なりが、其まゝあの
お身も少し咄したら、えゝではないか。官位 はかうぶり。昔ながらの氏は氏||。なあ、さう思ふだろう。紫微中台と兵部省と位づけするのは、うき世の事よ。家 に居れば、やはり神代以来 の氏の上 づきあひをしようよ||。
新しい唐の制度の模倣ばかりして、お身は、宋玉や、登徒子の書いた物を大分持つて居ると言ふが、太宰府へ行つた時に手に入れたのぢやな。あんな若い年で、わせだつたんだなう。お身は||。お身の家では古麻呂 、身の氏に近い者では奈良麻呂、あれらは漢魏はおろか今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、咄にはならぬて。
兵郡大輔は、やつと話のつきほを捉へた。お身さまの話ぢやが、わしは賦の類には飽きました。どうも、あれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい詩や歌の出て来る元になつて居る||さうつく/″\思ひますので。ところで近頃は方 を換へて、張文成を拾ひ読みすることにしました。あの方が、なんぼか||。
大きに、其は、身も賛成ぢや。ぢやが、お身がこの年になつても、まだ二十 代の若い心や瑞々しい顔を持つて居るのは宋玉のおかげぢやぞや。まだなか/\隠れては歩き居ると人の噂ぢやが、嘘ぢやない。身が保証する。おれなどは張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気が尽きてしまうた心持ちがする。||ぢやが全く、文成はえゝなう。漢土 びとぢやとは言へ、心はまるでやまとのものと一つと思ふが、お身は諾 ふかね。
文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は読んで居て、知らぬ事ばかり教へられるやうで、時々ふつと思ひ返すと、こんな思はざつた考へも、身は持つことになつた||そんな空恐しい気さへすることがあります。お身さまにも、そんな経験 が、おありでせう。
大ありおほ有り、毎日々々、其ぢや。しまひにどうなるのぢや。こんなに智慧づいてはと思はれてならぬことが||ぢやが、女子 だけにはまづ当分、女部屋のほの暗い中で、こんな智慧づかぬのどかな心で居さしたいものぢや。第一其が、男の為ぢや。
家持は、此了解に富んだ貴人の語に、何でも言つてよい、青年のやうな気が湧いて来た。大きに、其は、身も賛成ぢや。ぢやが、お身がこの年になつても、まだ
文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は読んで居て、知らぬ事ばかり教へられるやうで、時々ふつと思ひ返すと、こんな思はざつた考へも、身は持つことになつた||そんな空恐しい気さへすることがあります。お身さまにも、そんな
大ありおほ有り、毎日々々、其ぢや。しまひにどうなるのぢや。こんなに智慧づいてはと思はれてならぬことが||ぢやが、
さやう/\。智慧を持ち初めては女部屋には、ぢつとして居ませぬな。第一横佩墻内 の||
いけないことを言つたと思つた。同時に此身の女姪 の姫が神隠しにあうた話か。お身は、あの謎見たいないきさつを、さう解 るかね。ふん。いやおもしろい。女姪の姫も定めて喜ぶぢやらう。実は、これまで内々小あたりにあたつて見たと言ふ口かね、お身も。
大きに。
今度は軽い心持ちが、大胆に仲麻呂の話を受けとめた。大きに。
お身さまが経験 ずみぢやで、其で郎女の才高 さと、男択 びすることが訣りますな||。
此は、額 ざまに切りつけられた||。免せ/\と言ふところぢやが||、あれはの、生れだちから違ふものな。藤原の氏姫ぢやからの。枚岡 の斎 き姫にあがる宿世 を持つて生まれた者ゆゑ、人間の男は、弾く、弾く、弾きとばす。近よるまいぞよ、はゝはゝゝ。
内相は、笑ひをぴたりと止めて、家持の顔を見ながら、きまじめな表情になつた。此は、
ぢやがどうも、お聴き及びのことゝ思ふが、家出の前まで、阿弥陀経の千部写経をして居たと言ふし、楽毅論から、兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習したらしいし、まだ/\孝経なども、習うたと見えるし、なか/\の女博士 での。楚辞や小説にうき身をやつす身や、お身は近よれぬはなう。||どうして其だけの女子 が、神隠しなどに逢はうかい。
第一、場処が当麻で見つかつたと言ひますからの||。
併し其は、藤原に全く縁のない処でもない。天ノ二上の寿詞 もある処だが······。斎 き姫 もいや、人の妻と呼ばれるのもいや||で、尼になる気を起したのでないかと思ひ当ると、もう不安で不安でなう。のどかな気持ちばかりでも居られぬは||。
仲麻呂の眉は集つて来て、皺一つよらない美しい、この中老の第一、場処が当麻で見つかつたと言ひますからの||。
併し其は、藤原に全く縁のない処でもない。天ノ二上の
何しろ、嫋女 は、国の宝ぢやでなう。出来ることなら、人の物にはせず、神の物にしたいところよ。||ところが、人間の高望 みは、さうばかりも辛抱しては居りはせぬがい||。何せ、むざ/″\尼寺へやる訣にいかぬ。
でもねえ。一人出家すれば、と云ふ詞が、この頃頻りに説かれるで······。
九族が天に生じて、何になるといふのぢや。実は何百人かゝつても作り出せるものではない。どだい兄公殿 が、少し仏凝 りが過ぎるでなう||。自然内 うらまで、そんな気風がしみこむやうになつたかも知れぬぞ。時に、お身のみ館の郎女も、そんな育てはしてあるまいな。其では久須麻呂が泣きを見るからねえ。
人の悪いからかひ笑みを浮べて、話を無理にでも脇に釣り出さうとするのは、考へるのも切ないことが察せられる。でもねえ。一人出家すれば、と云ふ詞が、この頃頻りに説かれるで······。
九族が天に生じて、何になるといふのぢや。実は何百人かゝつても作り出せるものではない。どだい
兄公は氏上に、身は氏助 と言ふ訣でゐるが、肝腎斎き姫で枚岡に居させられる叔母御は、もうよい年ぢや。去年春日祭りに上られた姿を見て、神 さびたものよと思うたよ。今 一代此方から進ぜないなら、斎き姫になる娘の多い北家の方が、すぐに取つて替つて氏上に据るは。
兵部大輔にとつても、此だけはかう考へて来た家持の心の動揺を思ひもしない風で、
こんな話は、よその氏ノ上に言ふべきことではないが、兄公殿 があゝして、此先何年、太宰府に居るやら知れぬし、氏の祭りは、枚岡・春日と二処に二度づゝ、其外週 り年には、時々鹿島・香取の吾妻路のはてにある本社の祭りまで、此方で勤めねばならぬ。実際よそほかの氏ノ上よりも、此方 の氏ノ助ははたらいてゐるのだが、だから、自分で、氏ノ上の気持ちになつたりする。||もう一層なつてしまふか。お身はどう思ふ。答へる訣にも行くまい。氏ノ上に押し直らうとしたところで、今の身の考へ一つを抂げさせるものはない。上様方に於かせられて、お叱りのお語を下しおかれない限りは······。
京中で、此恵美屋敷ほど庭を庭を立派にしたうま人たちの末々の事が、兵部大輔の胸に来た。瞬間憂鬱な気持ちがかゝつて来て、前にゐる紫微内相の顔を見るのが気の毒な様に思はれた。
案じるなよ。庭が行き届き過ぎて居ると思うてるのだらう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館は、どの家でも引き継がずに荒してはあるが、あの立派さは、それあの山部の何とか言つた地下 の召 し人 の歌よみが、「昔見し池の堤は年深み······」と言つた位だが、其後は、これ此様に四流にも岐れて栄えてゐる。もつとあるよ||。何、庭などによるものではない。
長い廊を数人の
日ずかしです。お召しあがり下さいませう。
改つて、簡単な饗応の挨拶をした。まらうどに、早く酒を献じなさいと言つてゐる間に、美しいをゝ、それだけ受けて頂けばよい。舞ひぶりを一つ見て貰ひなさい。
家持は、何を考へても、先を越す敏感な主人に対して、唯虚心で居るより外はなかつた。うねめは、大伴の氏上へもまだ下さらないのだつたね。藤原では御存知でもあらうが、先例が早くからあつて、淡海公が近江ノ宮から頂戴した故事で、頂く習慣になつて居ります。
時々こんな畏まつたもの言ひもまじへた。兵部大輔は、自身の語づかひにも、初中終気扱ひをせねばならなかつた。氏上もな、身が執 心で、兄公殿を太宰府へ追ひまくつて、後に据らうとするのだと言ふ奴があるといの||。やつぱり「奴はやつこどち」だなあ。さう思ふよ。時に女姪 の姫だが||。
さすがの聡明第一の紫微内相も、酒の量が少かつた。其が今日は幾分行けたと見えて、話が循環して来た。家持は、一度はぐらかされた横佩墻 内の郎女は、どうなるのでせう。宮・社・寺、どちらに行つても、神さびた一生。あつたら惜しいものだな。
気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は||もう、人間の手へは戻らないかも知れんぞ。
末は独り言になつて居た。さうして、急に考へ込んで行つた。池へ落した水音は、気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は||もう、人間の手へは戻らないかも知れんぞ。
早く、躑躅の照る時分になつてくれないかなあ。一年中で、この庭の一等よい時が待ちどほしい。
紫微内相藤原仲麻呂の声は、若々しい欲望の外、何の響きをもまじへて居なかつた。十
つた つた つた
郎女は、夜が更けると、をとゝひよりは昨日、昨日よりは今日といふ風に、其跫音が間遠になつて行き、此頃はふつに音せぬやうになつた。その氷の山に対うて居るやうな骨の疼く戦慄の快感、其が失せて行くのを虞れるやうに、姫は夜毎、鶏のうたひ出すまでは殆ど祈る心で待ち続けて居た。
絶望のまゝ、幾晩も仰ぎ寝たきりで目は昼よりも
現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に春を起き臥すことかと侘びる者が殖えて行つた。廬堂の近くに、板屋を掘り立てゝ、かう長びくと思はなかつたし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は妻子に会ふことばかりを考へた。親に養はれる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思ふ心が切々として来るのである。女たちは、かうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習はしに馴れて、何かと為事を考へてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もつと廬に接して建てられて居た。
やはり、郎女の
乳母は、一口に言ひ消した。姫様、当麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計らはずに、私にした
その節、山の
ある日は、山へ/\と里の娘ばかりが上つて行くのを見た。凡数十人の若い女が、何処で宿つたのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髪にかざして降りて来た。
どや/\と廬の前を通る時、皆頭をさげて行つた。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ来た。当麻の田居も、今は苗代時である。やがては、田植ゑをする。其時は見に出やしやれ。こんな身でも、其時はずんと女子ぶりが上るぞなと笑ふ者もあつた。
こゝの田居の中で、植ゑ初めの田は、腰折れ田と言ふ都までも聞えた物語のある田ぢやげな。
若人たちは、又例の其で思ひ合せられるのは、此頃ちよく/\、子から丑の間に、里から見えるこのあたりの尾の上に光り物がしたり、時ならぬ
こんな話を残して行つて里の娘たちは、苗代田の畔に、めい/\のかざしの躑躅花を挿して帰つて、其ももう寝ついたであらう。夜はひた更けに更けて行く。
昼の恐れのなごりに寝苦しがつて居た女たちも、おびえ疲れに寝入つてしまつた。頭上の崖で、寝鳥の鳴き声がした。郎女は、まどろんだとも思はない目を、ふつと開いた。続いて今一響き、びしとしたのは、鳥などを翼ぐるめひき裂いたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、物も絶えたやうに、虚しい空間になつた。
郎女の
郎女は、自身の声に目が覚めた。夢から続いて口は尚夢のやうに、語を遂うて居た。
おいとほしい。お寒からうに。
十一
山の躑躅の色は様々である。色の一つのものだけが一時に咲き出して、一時に
もう此頃になると、山は厭はしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隠されてしまふ。
草の花が、どつと怒濤の寄せるやうに咲き出して、山全体が花原見たやうになつて行く。里の麦は刈り急がれ、田の原は一様に青みわたつて、もうこんなに伸びたかと驚くほどになる。家の庭苑にも、立ち替り咲き替つて、植ゑ木、草花が何処まで盛り続けるかと思はれる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返つたやうな時が来る。池には葦が伸び蒲が
前年から今年にかけて、海の彼方の新羅の暴状が、目立つて棄て置かれないものに見えて来た。太宰府からは、軍船を新造して新羅征伐の設けをせよと言ふ命の降りるのを、都へ度々請うておこして居た。此忙しい時に、偶然流人太宰員外帥として、其処に居た横佩家の豊成は、思ひがけない日々を送らねばならなかつた。
都の姫の事は、子古の状で知つたし、又、京・西海道を往来する頻繁な使に文をことづてる事は易かつたけれども、どう処置してよいか、途方に昏れた。ちよつと見は何でもない事の様で、実は重大な家の大事である。其だけに彼の心の優柔は、益募るばかりであつた。
寺々の知音に寄せて、当麻寺へ、よい様に命じてくれる様にと書いてもやつた。又横佩墻内の家の
次の消息には、何かと具体的な仰せつけがあるだらうと待つて居る間に、日が立ち月が過ぎて行くばかりである。其間にも姫の失はれたと見える魂が、お身に戻るかと、其だけで山村に人々は止つて居た。物思ひに屈託ばかりしても居ない若人たちは、もう池のほとりにおり立つて、伸びた蓮の茎を切り集め出した。其を見て居た寺の
あて人の家自身が、農村の
刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よく其家の
だから、刀自たちは固より若人らも、つくねんと女部屋の薄暗がりに明し暮して居るのではなかつた。其々に自分の出た村方の手芸を覚えて居て、其を仕へる君の為にと、出精してはたらいた。
裳の褶を作るのにない
家庭の主婦が手まはりの人を促したてゝ、自身も精励してするやうな為事は、あて人の家では、刀自等の受け持ちであつた。若人たちも、田畠に出ないと言ふばかりで、家の中での為事は、
外出には、下人たちの見ぬ様に、笠を深々とかづき、其下には、更に薄帛を垂らして出かけた。
ほう||。
何が笑ふべきものか、何が憎むに値するものか、一切知らぬ
この身も、田居とやらにおり立ちたい||。
めつさうな。
刀自は、驚いて姫の詞を堰き止めた。めつさうな。
女たちは、板屋に戻つても長く、健やかな喜びを、皆して語つて居た。
全く
田居へおりたちたい||。
を反覆した。めつさうな。
きまつて、誇張した表現で答へることも、此と同時に、この小社会で行はれ出した。何から何まで縛りつけるやうな其日からもう、若人たちの絲縒りは初まつた。夜はまつ暗の中で寝る女たちには、稀に男の声を聞くことのある奈良の垣内住ひが恋しかつた。朝は又、何もかも忘れたやうになつて
なる程、此は脆 過ぎまする。
刀自は、若人を呼び集めて、もつと、きれぬ絲を作り出さねば、物はない。
と言つた。女たちの中の一人が、それでは、刀自に、何ぞよい思案が||。
さればの||。
昔を守ることばかりはいかついが、新しいことの考へは唯、さればの||。
ゆくりない声が、郎女の口から洩れた。
この身の考へることが、出来ることか試して見や。
うま人を軽侮することを神への忌みとして居た昔人である。だが、かすかな夏引きの麻生 の麻を績 むやうに。そしてもつと日ざらしよく、細くこまやかに||。
郎女は、目に見えぬもののさとしを、心の上で綴つて行くやうに、語を吐いた。板屋の前には、俄かに蓮の茎が乾し並べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち
その勤しみを、郎女は時には、端近く来て見て居た。咎めようとしても思ひつめたやうな目して見入つて居る姫を見ると、刀自は口を開くことが出来なくなつた。
日晒しの茎を
果ては、刀自も言ひ出した。
私も、績 みませう。
績みに績み、又績みに績んだ。もう今日は、みな月に入る日ぢやの||。
唯、郎女は又秋分の日の近づいて来て居ることを、心にと言ふよりは、身の内にそく/\と感じ初めて居たのである。蓮は、池のも、田居のも、極度に
十二
彼岸中日 秋分の夕。朝曇り後晴れて、海のやうに深碧に凪いだ空に、昼過ぎて白い雲が頻りにちぎれ/\に飛んだ。其が
大山颪。木の葉も、枝も、顔に吹き飛ばされる物は、皆活きて青かつた。板屋は吹きあげられさうに、きしみ揺めいた。
若人たちは、悉く郎女の廬に上つて、刀自を中に心を一つにして、ひしと寄つた。たゞ互の顔が見えるばかりの緊張した気持ちの間に、刻々に移つて行く風。
西から
家の中は、もう暗くなつた。だがまだ見える庭先の明りは、黄にかつきりと物の一つ/\を鮮やかに見せて居た。
郎女様が||。
誰かの声である。皆頭の毛が上へのぼる程、ぎよつとした。其が何だと言はれないでも、すべての心が一度に了解して居た。言ひ難い恐怖にかみづつた女たちには、声を出す一人も居なかつた。身狭ノ乳母は、今の今まで、姫の側に寄つて、後から姫を抱へて居たのである。皆の人のけはひで、覚め難い夢から覚めたやうに目を見ひらくと、あゝ、何時の間にか、姫は嫗の
それ皆の衆||。反閇 ぞ。それ、もつと声高 に||。 あつし、あつし、あつし。
若人たちも、一人々々の心は疾くに飛んで行つてしまつて居た。唯一つの声で、あつし、あつし
あつし、あつし、あつし
狭い廬の中を蹈んで廻つた。脇目からはあつし、あつし、あつし
郎女様は、こちらに御座りますか。
万法蔵院のなに||。
皆の口が一つであつた。郎女様かと思はれるあて人が||、み寺の門 に立つて居さつせるで、知らせに馳けつけました。
今度は、なに。み寺の門に。
婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を早足に練り出した。あつし あつし あつし
声は遠くからも聞えた。大風をつき抜く様な万法蔵院は実に
姫は山田の道場から仰ぐ空の狭さを悲しんでゐる間に、何時かこゝまで来て居たのである。浄域を穢した物忌みにこもつてゐる身と言ふことを忘れさせないものが、心の隅にあつたのであらう。門の閾から伸び上るやうにして、山の
暫らくおだやんで居た嵐が、又山に廻つたらしい。だが寺は物音もない。
さうして暫らくは、外に動くもののない明るさ。山の空は、唯白々として照り出されて居る。
肌、肩、脇、胸、豊満な姿が、山の
今すこし著 くみ姿示したまへ。
郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となつて靉き、次第々々に降る様に見えた。明るいのは山の
しづかに/\雲はおりて来る。万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡、悉く、金に、朱に、青に、昼より
庭の砂の上にすれ/″\に、雲は揺曳して、そこにあり/\と半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂ひやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉ぢられた目は、此時姫を認めたやうに
郎女は尊さに、目の
あて人を讃へる語と思ひこんだあの語が、又心から迸り出た。
あなたふと、阿弥陀仏 なも阿弥陀仏
瞬間に明りが薄れて行つて、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほの/″\と暗くなり、段々に高く/\上つて行く。姫が目送する間もない程であつた。忽、二上山の山の端に溶け入るやうに消えて、まつくらな空ばかりがたなびいた。
あつし あつし
足を蹈み、十三
当麻の邑は此頃、一本の草、
当麻真人家の氏神
廬堂の中は、前よりは更に狭くなつて居た。郎女が奈良の御館からとり寄せた
乳母は、人に見せた事のない憂はしげな顔を、此頃よくしてゐる。
何しろ、
話相手にもしなかつた若い者たちにすら、こんな事を言ふ様になつた。
かう絲が無駄になつては||。今の間にどし/\績 んで置かいでは||。
刀自の語で、若人たちは又、広々とした野や田の面が見られると、胸の寛ぎを覚えた。さうして、女たちの苅つた蓮積み車が、廬に戻つて来ると、何よりも先に、田居への
郎女様の亡くなられたお従兄 も、嘸お嬉しいであらう。
恵美の御館 の叔父君の世界のやうになつて行くのぢや。
兄御を、帥の殿に落しておいて、愈其後釜の右大臣におなりるのぢやげな。
あて人に仕へて居ても、女はうつかりすると、人の評判に時を移す。恵美の
兄御を、帥の殿に落しておいて、愈其後釜の右大臣におなりるのぢやげな。
やめい/\。お耳ざはりぢや。
しまひは、乳母が叱りに出た。だが昼の中多く出た虻は潜んでしまつたが、蚊は中秋になると、益あばれ出して来る。日中の昂奮で皆は正体もなく寝た。身狭までが、姫の起き明す燈の明りを避けて、隅の物蔭に深い鼾を立てはじめた。
郎女は、
だが此頃の姫の心は満ち足らうて居た。あれほど夜々見て居た
此機を織りあげて、あの御人の素肌の御身を掩うてあげたい。
其ばかり考へて居る。あて人は、世の中になし遂げられないと言ふことを知らないのであつた。ちやう ちやう はた はた
はた はた ちやう
筬を流れるやうに手もとにくり寄せられる絲が、動かなくなつた。引いてもはた はた ちやう
郎女は溜め息をついた。乳母に問うても知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動すことはえすまい。
どうしたら、よいのだらう。
姫は、はじめて顔へあゝ、何時になつたら、衣 をお貸し申すことが出来よう。
もう、外の叢で鳴き出した蟋蟀の声を、瞬間思ひ出して居た。どれ、およこし遊ばせ。かう直せば動かぬことも御座るまいて||。
どうやら聞いた気がする、その声が機の外にした。あて人の姫は、何処から来た人とも疑はなかつた。唯、さうした好意ある人を予想して居た時なので、
では、見てたもれ。
言ひ放つて、機をおりた。女は尼であつた。髪を切つて尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたこともあつたが、剃髪した尼を見たことのない姫であつた。
はた、はた ちやう ちやう
元の通りの音が整つて出て来た。草の絲は、かう言ふ風には織るものでは御座りませぬ。もつと寄つて御覧じ||。これかう||おわかりかえ。
当麻語部ノ姥の声である。だが、そんなことは、郎女には問題ではなかつた。おわかりなさるかえ。これかう||。
姫の心はこだまの如く織つてごらうじませ。
姫が、高機に代つて入ると、尼は機蔭に身を倚せて立つた。はた はた ゆら ゆら
音までが変つて澄み上つた。
たか行くや
この
截りはたりちやう/\、早く織らねば、やがて岩牀の凍る冷い秋がまゐりますがよ||。
はた はた ゆら ゆら ゆら はたゝ
美しい織物が筬の目から迸る。はた はた ゆら ゆら
思ひつめてまどろんでゐた中に、郎女の智慧が、一つの閾を越えたのである。十四
望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた
この月の光りを受けた美しさ。

のやうで、韓織 のやうで、||やつぱり此より外にはない、清らかな上帛 ぢや。
刀自も、遠くなつた眼をすがめながら、譬へやうのない美しさと、づつしりとした手あたりを、若い者のやうに楽しんでは、撫でまはして居た。
二度目の機は、初めの日数の
長月の空には、三日の月のほのめき出したのさへ寒く眺められる。この夜寒に、俤人の白い肩を思ふだけでも堪へられなかつた。
裁ち縫ふわざは、あて人の子のする事ではなかつた。唯、
女たちも、唯姫の手わざを見て居るばかりであつた。其も何を縫ふものとも考へ当らかないで、囁きに日を暮して居た。
其上、日に増し、外は冷えて来る。早く奈良の御館に帰る日の来ることを願ふばかりになつた。
郎女は、暖い昼、薄暗い廬の中でうつとりとしてゐた。その時、
何を思案遊ばす。壁代 の様に縦横に裁ちついで、其まゝ身に纏ふやうになさる外は御座らぬ。それ、こゝに紐をつけて肩の上でくりあはせれば、昼は衣になりませう。紐を解いて敷いて、折り返して被 れば、やがて夜の衾 にもなりまする。天竺の行人 たちの著る袈裟 と言ふのが、其で御座りまする。早くお縫ひなされ。
だが、気がつくと、やはり昼の夢を見て居たのだ。裁ちきつた布を綴り合せて縫ひ初めると、二日もたゝぬ間に、大きな一面の綴りの錦が出来あがつた。郎女様は、月ごろかゝつて、唯の壁代をお縫ひなされた。
あつたら惜しい。
はりの抜けた若人たちが声を落して言うて居る時、姫は悲しみ乍ら、次の営みを考へて居た。あつたら惜しい。
此では、あまりに寒々としてゐる。殯 の庭の棺にかけるひしきもの|喪氈|、とやら言ふものと見た目は替るまい。
十五
世の人の心はもう、賢しくなり過ぎて居た。ひとり語りの物語などに、信をうちこんで聴く者はなくなつてゐる。聞く人のない森の中などで、よくつぶ/″\と物言ふ者があると思うて近づくと、其は語部の家の者だつたなど言ふ話が、どの村でも、笑ひ咄のやうに言はれるやうな世の中だ。
当麻語部ノ嫗なども、都の

さう言ふ聴きてを見当てた刹那に持つた執心は深かつた。その後、自身の家の中でも、又
今年八月、当麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされた時こそ、再
秋深くなるにつれて、衰への目立つて来た嫗は、知る限りの物語りを、喋りつゞけて死なうと言ふ腹をきめた。さうして郎女の耳に近い処を、ところをと、覚めてさまよふやうになつた。
郎女は、奈良の家に送られたことのある大唐の
翌くる日、彩色の届けられた時、姫の声ははなやいで、
女たちの噂した袈裟で謂へば、五十条の袈裟とも言ふべき、
姫は、緑青を盛つて、層々うち重る楼閣伽藍の屋根を表した。数多い柱や廊の立ち続く姿が、
郎女は唯、
刀自若人たちは、一刻二刻時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞を、唯見呆けて居るばかりであつた。
郎女が、筆を措いて、にこやかな
姫の俤びとの衣に描いた