長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。遥か右のほうに当って、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界を遮り、一望千里の眺めはないが、奇々妙々を極めた
頭を
この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで
海岸通りにたち並んでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くように付けてある。その路のはしには、もう静かな波がうち寄せて来て、ざ、ざあッとそれを洗っていた。||うらうらと晴れ
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この散歩路のほうに向って入口のついた、小粋な構えの小さな家が一軒あったが、折しもその家から若い女がひとり出て来た。ちょっと立ちどまって散歩をしている人たちを眺めていたが、やがて微かな笑みを洩すと、いかにも大儀そうに、海のほうに向けて据えてある空いたベンチのところまで歩いて行った。ほんの二十歩ばかり歩いただけなのに、もう疲れてしまったらしい、喘ぐような息遣いをしながら、そのベンチに腰を下ろした。蒼ざめた顔はこの世のひとの顔とも思われない。そして頻りに咳をした。彼女はそのたびに、自分の精根を涸らしてしまう、込み上げて来るその動揺をおさえようとするためなのであろう。透き通るような白い指をその
彼女は
やがて彼女はまたしてもにっこり笑った。そして呟くように云った。
「ああ! あたしは何て仕合わせなんだろう」
けれども彼女は、遠からず自分が死んでゆく身であることを知らぬではなく、二度と再び春にめぐり遇えると思っているのでもなかった。一年たった来年の今頃ともなれば、自分の前をいま歩いてゆく同じ人たちが、南国のあたたかい空気を慕って、今よりは少しばかり大きくなった子供を連れて、希望にもえ、愛情に酔い、幸福にひたった心を抱いて、再びこの地を訪れるであろう。しかるに自分はどうか。名ばかりながら今は生きながえらえている哀れなこの五体は、柏の
彼女はもうこの世の人ではあるまい。世のなかの営みは、自分以外の人たちには、昨日となんの変ることもなく続くであろう。が、彼女にとってはすべてが終ってしまう。永遠に終りを告げてしまうのだ。自分はもうこの世のどこにも居なくなっているであろう。そう思うと、彼女はまたにっこり笑った。そして、蝕まれた肺のなかに、芳ばしい花園のかおりを胸一ぱい吸い込むのだった。
そうして彼女はその思い出の糸を手繰りながら、じッと物思いに耽るのだった||。
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忘れもしない、彼女がノルマンディーの貴族と結婚させられたのは、四年前のことである。
この縁談には彼女のあずかり知らぬ財産目あての理由があった。本心が云えるものならば、彼女は「あんな人のところへ行くのは厭だ」と云いたかったのであろう。けれども、両親の意に逆らうのもどうかと思う心から、ただ
良人は彼女をノルマンディーにあるその屋敷へ連れて行った。それは、鬱蒼と茂った老樹にぐるりを囲まれた、石造りの
ああ! 彼女にはいま、その頃のことが何もかも思い出されて来るのだった。その土地へ着いた時のこと、生れて初めて住むその家で過した第一日のこと、それにつづく孤独な生活のことなどが、それからそれへと思い出されて来るのだった。
馬車を降りて、その時代のついた古めかしい家を見ると、彼女は笑いながら、思わずこう叫んでしまった。
「まあ、陰気ッたらないのね!」
すると、こんどは良人が笑いだして、こう云った。
「馬鹿なことを云っちゃアいけないよ。住めば都さ。見ていてごらん、お前にもここが好くって好くって、仕様がなくなっちまうから||。だって、この僕が永年ここで暮していて、ついぞ退屈したなんてことが無いんだからね」
その日は暇さえあると二人は接吻ばかりしていた。で、彼女はその一日を格別長いとも思わなかった。二人はその翌日も同じようなことをして暮してしまった。こうして、まる一週間というものは、夢のように過ぎ去った。
それから、彼女は家のなかを片づけ出した。これがたッぷり
夏だったので、彼女はよく野良へ行って、百姓が作物を
やがて、秋が来た。良人は猟をしだした。そして二匹の犬、メドールとミルザとを連れて、朝から家を出て行った。そんな時に、彼女はたったひとりで留守番をしているのだが、良人のアンリイが家にいないことを、別に淋しいとも思わなかった。と云って、彼女は良人を愛していなかったわけではない。充分愛してはいたのであるが、さりとて、良人は自分がそばにいないことをその妻に物足りなく思わせるような男でもなかった。家へ帰って来ると、二匹の犬のほうがかえって彼女の愛情を
良人は彼女に猟のはなしをして聞かせた。それが良人の
「そうですわねえ、まったくですわ。それは好くないことですわ」
彼女はただそう
冬が来た。雨の多い、寒いノルマンディーの冬が来た。空の底がぬけでもしたように、来る日も来る日も、雨が、空に向って
屋敷の左手に大きな
来る日も来る日も、彼女は日の暮れがたになると、その鴉の群を眺めた。そして
やがて彼女は呼鈴を鳴らして、召使にランプを持って来させる。それから
「いやな天気だなぁ!」
そうかと思うと、また、
「いいなあ。火ッてものは実にいいよ」
時にはまた、こんなことを訊くこともあった。
「何か変ったことでもあったかね? どうだい、ご機嫌は?」
良人は幸福で、頑健で、ねッから欲のない男だった。こうして簡易な、健全な、穏やかなその日その日を送っていれば、もうそれでよく、それ以外には望みというものを持っていない。
十二月のこえを聞く頃になると、雪が降って来た。その頃になると、彼女は凍ったように冷たい屋敷の空気がいよいよ辛くなって来た。人間は齢を重ねるにつれてその肉体から温かみが失せてゆくものだが、それと同じように、この古色蒼然たる屋敷も、幾世紀かの年月を
「ねえ、あなた。ここの家はどうしても煖房を据え付けなくッちゃいけませんわね。そうすれば壁も乾くでしょうし、ほんとうに、あたし、朝から晩まで、
良人は、自分の
「ここのうちへ煖房だって! うわッはッは! ここのうちへ煖房だなんて、お前、そいつあ飛んだ茶番だよ! うわッはッは!」
しかし彼女も負けていなかった。
「いいえ、ほんとうです。これじゃ、あたし凍っちまいますわ。あなたは
良人は相かわらず笑いながら、答えて云った。
「馬鹿なことを云っちゃアいけないよ。じきに慣れるよ。それに、このほうが体のためにゃずッと好いんだからね。お前だって、もっと丈夫になれるのさ。こんな片田舎のことだ、巴里ッ児の真似は出来るもんでもない、私たちは
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年が明けて、まだ幾日もたたない頃のことだった。彼女は大きな不幸に見舞われた。乗物の事故のために、両親が不慮の死を遂げたのである。葬儀に列席しなければならなかったので、彼女は巴里へ帰った。それから半歳ばかりと云うものは、死んだ
そうこうするうちに、うらうらと晴れた温かい日が廻って来た。彼女は生き返ったような気がした。こうして、彼女は、秋が来るまで、その日その日を悲しく
再び寒さが訪れる頃になって、彼女は初めて自分の暗い行末をじいッと
前の年よりも一しお厳しい、一しお身に
彼女はまたしても煖房のことを口にするようになった。けれども、良人はそれを自分の妻が月が欲しいと云っているぐらいに聞き流していた。そんな装置を片田舎のパルヴィールに据えつけることは、彼には、魔法の石を見つけだすぐらいに、不可能なことだと思われたのである。
ある日、良人は用事があってルーアンまで行ったので、帰りがけに、小さな
十二月ももう末になってからのことである。こんなことでは到底生きてゆかれぬと思ったので、彼女はある晩、良人に恐る恐る頼んでみた。
「ねえ、あなた。どうでしょうね、春になるまでに二人で巴里へ行って、一週間か二週間、巴里で暮してみないこと?」
良人は肝をつぶして云った。
「巴里へ行く? そりゃアまたどうしてだい? 巴里へ何をしに行こうッてんだい? 駄目だよ、そんなことを云っちゃ||。飛んでもないことだよ。ここにこうしていりゃア、お前、好すぎるくらい
彼女は呟くような声で云った。
「そうでもすれば、すこしは気晴しになると思うんですの」
しかし良人には妻の意が汲みかねた。
「気晴しッて、それアまた何のことだい? 芝居かい、夜会かい。それとも、巴里へ行って
良人のこの言葉とその調子には非難が含まれていることに気がついたので、彼女はそのまま口をつぐんでしまった。彼女は臆病で、内気な女だった。反抗心もなければ、強い意志も持っていなかった。
一月のこえを聞くと、骨をかむような寒さが再び襲って来た。やがて雪が降りだして、大地は真ッ白な雪に
そこへ良人が這入って来た。妻が泣いているのを見ると、良人はびッくりして訊くのだった。
「一体どうしたッて云うんだい、え?」
そう云う良人は、ほんとうに幸福な人間だった。世の中にはさまざまな生活があり、さまざまな
だから彼女には返事が出来なかったのである。なんにも云わずに、ただ泪を一生懸命に拭いた。なんと云えばいいのか、彼女には分らなかった。やっとの思いで、頻りに云い
「あたし||あたしねえ||何だか悲しいんですの||何だか、妙に気が重いんですの||」
しかし、そう云ってしまうと彼女は何だか怖ろしい気がしたので、
「それに||あたし、すこし寒いんですの」
寒いと聞くと、良人はぐッと来た。
「ああ、そうだったのか、||お前にゃ、いつまでたっても煖房のことが忘れられないんだね。だが、よく考えてみるがいい。お前はここへ来てから、いいかい、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
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夜になった。彼女は自分の
「あああ、いつまで経ってもこうなのか。いつまで経っても、死んでしまうまでこうなのか」
そして彼女は自分の良人のことを考えた。
「お前はここへ来てから、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
そんなら、自分が寒くて寒くて死ぬほどの思いをしていることを良人に解ってもらうには、自分は病気になって、咳をしなければいけないのだろうか。そう思うと彼女は急に腹立たしい気になった。弱い内気な人間のはげしい憤りである。
自分は咳をしなければならないのだ。咳をすれば、良人は自分を可哀そうだと思ってくれるに違いない。そうか! そんなら咳をしてやろう。自分が咳をするのを聞いたら、なんぼなんでも、良人は医者を呼んで来ずにはいられまい。そうだ、見ているがいい、いまに思い知らしてやるから||。
彼女は
「あたしは煖房が欲しいのだ。どうあっても据えつけさせてやる。あたしは厭ッてほど咳をしてやろう。そうすれば、
彼女はそこで裸も同然な姿のまま椅子のうえに腰をかけた。こうして彼女は時計が一時を打つのを待ち、更に二時が鳴るのを待った。寒かった。体はぶるぶる顫えた。けれども彼女は風邪を引かなかった。そこで彼女は意を決して最後の手段によることにした。
彼女はこッそり寐間をぬけ出ると、階段を降り、庭の戸を開けた。大地は雪に蔽われて、死んだように
「あの樅の木のところまで行こう」
こう自分で自分に云いながら、彼女は雪に埋もれている芝生をつッ切って行った。息を切り切り、小刻みに歩いてゆくのだったが、素足を雪のなかへ踏み入れるたびに、息がとまるかと思われた。
彼女は、自分の計画を最後までやり遂げたことを確めるつもりなのだろう、一番とッつきの樅の木に手を触れ、それから引ッ返して来た。彼女は二三度あわや雪のうえに倒れてしまうかかと思われた。体は凍り切ってしまって、もう自分の体のような気がしなかった。けれども、彼女はそのまま家へは這入らずに、しばしの間、この凍り切った粉雪のなかに坐っていた。そればかりではない。手に雪を掴むと、これでもかと云わぬばかりに、それを自分の胸に擦りつけるのだった。
それから彼女は部屋に帰って寐た。一時間ばかりたつと、喉のあたりがむずむずして来た。蟻がそのへんをぞろぞろ這っているような気持である。また、別な蟻の群が自分の手足のうえを這い

翌日になると、咳がしきりに出た。彼女は、もう床から起きることが出来なかった。肺炎になってしまったのである。彼女は
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病気ははかばかしく快方に向わなかった。深く侵された両の肺は、どうやら彼女の生命を脅かすようになって来た。
「このままここにこうしておいでになっちゃア、奥さんは
医者はそう云った。で、彼女は南フランスへ転地することになった。カンヌへ来て、彼女は久しぶりで太陽をふり仰いだ。海を眺め、オレンヂの花の香りを胸一ぱい吸った。
やがて春が廻って来た。彼女はまた北国へ帰って行った。
けれども、今はもう彼女は自分の病気が癒ることが
こうして、彼女はいま、遠からずこの世を去ろうとしているのである。自分でもそれは承知していた。けれども彼女はそれを悲しいことだとは思わなかった。かえってそれを喜んでいた。
持って出たまままだ開いてみなかった新聞を
巴里に初雪降る
それを見ると、彼女は、水でも浴びせられたように、ぶるぶるッと身顫いをした。それからにッこり笑った。そして、遠くエストゥレルの
やがて彼女はベンチから起ちあがると、ゆっくりゆっくり自分の家のほうへ帰って行った。時折り咳が出た。彼女はそのたびに立ち停った。余り
家へ帰ると、良人から手紙が来ていた。彼女は相かわらず微かな笑みをうかべながら、その封を切って、それを読みだした。
日ましに快いほうへ向ってくれればと、そればかりを念じている次第だ。お前も早くここへ帰って来たく思っていることだろうが、余り当地を恋しがらないで、くれぐれも養生をしてくれ。二三日前から当地はめッきり寒くなって、厚い氷が張るようになった。雪の降るのももう間近いことだろう。お前とちがってこの季節が好きな自分は、おおかたお前もそう思っていることだろうが、お前をあんなに苦しめた例の煖房には、まだ火を入れないようにしている||」
ここまで読んで来ると、彼女は自分があんなにまで欲しがっていた煖房を、とうとう据えつけてもらうことが出来たことを知って、しみじみと嬉しい気がして、そのまま