十二月も半ば過ぎた頃であった。村上は友人の山崎を自宅の昼飯に招いた。独身者同様の村上は時にこうして十五ばかり年下の山崎と会食をしながら
「これを頂戴いたしました」
といって
「お待たせした。どうも今は結構なものをありがとう」
「実は国許へ帰っている妻から今朝送ってきましたのでちょうどいいから先生に差上げたいと思ってもってまいりました。笹がれいと
「それは御厚意をどうもありがとう」
村上は山崎の友情を言葉でよりも心で深く感謝している様子だった。二人はやがて酒盃を交わしながらお互いの仕事のことや近頃読んだ本のことやその他色々と語り合った。
午後の二時頃になった。玄関のベルが鳴ると女中は吉田敏子の来訪を告げた。敏子は山崎とも知合っているので村上はすぐにそこへ通させた。不幸な結婚をした出戻りではあるがまだ三十になったばかりの美しい敏子はかなり派手な着物をすらりとした身体に着こなして魅力の溢れた挨拶をした。しばらくしてから敏子は主人に
「あ、松葉がれいをどうもありがとうございました」
といった。主人は微笑しながら軽くうなずいた。酒に強くない山崎は
「松葉がれいですって?」
と口をすべらしたが、すぐに
「いや、よしておきましょう」
といって笑った。
山崎は腹の中ではこう思った。せっかく先生に上げようと思ってわざわざ国から取寄せて持ってきたものを気に入ってるこの敏子のところへすぐもうやってしまったと見えるな。かなり不似合な軽薄なことを先生もするのだな。自分が来たときしばらく待たせておいたのもその手配をするためだったのか。山崎はチラっとこんな念におそわれて少し不快を感じたが、万事につけて村上の心もちを
山崎が帰ってから一足後れて敏子も帰っていった。
事実はこうである。二ヶ月ばかり前のことであるが、欧洲航路の事務長をしている従兄からドイツのチーズを
村上はその晩、寐ながらこんなことを考えた。偶然の戯れだな。継起的偶然という奴だな。「かれいの贈物」という同一の事項が偶然に継起的に繰返されたのだ。時間内で継起して、しかも互いに独立して両者の生起になんらの必然的関係がないから偶然なのだ。しかし必然的関係は皆無だとはいえない。一方には山崎と自分、他方には自分と敏子という好意的相関者が二組ある。好意的な相関関係は贈物という具体的な形で物を言う場合がある。今は冬で鰈のしゅんだ。それだから贈物として別々の場合に同じ鰈が選ばれたのだ。偶然ではあるがそこになんらの必然性がないではない。しかし厳密な必然性ではない。相当程度の可能性とでもいうべきだ。
村上はまたこんなことも考えた。山崎の誤解はいかにも無理がない自然な誤解だ。自分が山崎であってもきっとあの通りの誤解をするにきまっている。だが誤解にはちがいない。どういう順序の誤解なのか。なんとか数学の式で出てきそうなものだな。山崎をaとして自分をbとしたらどうなるか。bがaから物を貰ったのだから a∧b としよう。それから敏子をxとすれば b∧x だ。それでどうなるか? それだから a∧x ということになる。これほど簡単なことはない。そうだ。こうも考えられる。
x=b
b=a
b=a
∴ x=a
してみると、形式論理学で媒概念曖昧の虚偽という奴だな。bが癖ものなのだ。敏子に送られた鰈は村上の鰈である。
村上の鰈は山崎の送った鰈である。
それ故に、敏子に送られた鰈は山崎の送った鰈である。
山崎はこんな推論をしたのだ。だが「村上の鰈」といっても「村上の送った鰈」と「村上に送られた鰈」とがある。「村上の送った鰈」は松葉がれいで「村上に送られた鰈」は笹がれいなのだが、事態の偶然性が魔法の輪を描いて松葉がれいと笹がれいとを一つにしてしまったのだ。「村上の鰈」という概念はローマの神様のように首が両面になっている。二つが一つになったのか、一つが二つになったのか。つまり突然に煙が吹き出て「村上の送った鰈」と「村上に送られた鰈」との区別がつかなくなったのだ。「誰かあはれといふ暮の」といった掛詞風の曖昧性が村上の鰈は山崎の送った鰈である。
それ故に、敏子に送られた鰈は山崎の送った鰈である。
翌朝、起きて村上は手帳にこんなことを書きつけた。「どうも実社会のことは x=b, b=a, ∴ x=a というようなパスカルのいわゆる「
山崎にも感想を書いて送ろうかとしたが、それほどのことでもないと考えてやめてしまった。そしてその日から村上は毎朝、毎朝、朝食には山崎より貰った若狭の笹がれいを欠かさずに食べた。主人がよくも飽きないものだと台所で女中たちがささやき合った。