一
三日三晩のあいだ、謎のような死の手に身をゆだねていたラザルスが、墓から這い出して自分の
この男が本当に再生した事がわかった時、非常に喜んで彼を取り巻いた連中は、引っ切りなしに接吻してもまだ足りないので、それ食事だ飲み物だ、それ着物だと、何から何までの世話をやいて、自分たちの燃えるような喜びを満足させた。そのお祭り騒ぎのうちに彼は花聟さまのように立派に着飾らせられ、みんなの間に祭り上げられて食事を始めると、一同は感きわまって泣き出した。それから主人公たちは近所の人々を呼び集めて、この奇蹟的な死からよみがえった彼を見せて、もう一度それらの人々とその喜びを
そういう人達に取っては、ラザルスの顔や態度に新しく現われた変化は、みな重病と最近に体験した種々の感動の跡だと思われていた。ところが、死に依るところの肉体の破壊作用が単に奇蹟的に停止されたというだけのことで、その作用の跡は今も明白に残っていて、その顔や

こういうような肉体の変化と共に、ラザルスの性格にも変化が起こって来たのであるが、そこまではまだ誰も気が付かなかった。墓に埋められる前までのラザルスは快活で、
顔や性格の変化に人々が注目し始めたのは後の事で、かれが燦爛たる黄金や貝類が光っている花聟の盛装を身につけて、友達や親戚の人たちに取り囲まれながら饗宴の席に着いていた時には、まだ誰もそんなことに気が付かなかった。歓喜の声の波は、あるいはさざなみのごとくに、あるいは怒濤のごとくに彼を取り巻き、墓の冷気で冷やかになっている彼の顔の上には温かい愛の眼がそそがれ、一人の友達はその熱情を籠めた手のひらで彼のむらさき色の大きな手を撫でていた。
やがて鼓や笛や、六絃琴や、竪琴で音楽が始まると、マリーとマルタの家はまるで蜂や、蟋蟀や、小鳥の鳴き声で掩われてしまったように賑やかになった。
二
客の一人がふとした粗相でラザルスの顔のベールをはずした途端に、あっと声を立てて、今まで彼に感じていた敬虔な魅力から醒めると、事実がすべての赤裸な
「むこうで起こった事を、なぜあなたは私たちにお話しなさらないのです。」
この質問に一座の人々はびっくりして、俄かに
「あなたは私たちには話したくないのですね。あの世というところは恐ろしいでしょうね。」
こう言ってしまってから、その客は初めて自分にかえった。もしそうでなく、こういう前に我にかえっていたら、その客はこらえ切れない恐怖に息が止まりそうになった瞬間に、こんな質問を発する筈はなかったであろう。不安の念と待ち遠しさを感じながら、一同はラザルスの言葉を待っていたが、彼は依然として俯向いたままで、深い冷たい沈黙をつづけていた。そうして、一同は今更ながらラザルスの顔の不気味な紫色の斑点や、見苦しい水脹れに注目した。ラザルスは食卓ということを忘れてしまったように、その上に彼の紫の瑠璃色の
一同は、待ち構えている彼の返事がそこからでも出てくるように、じーっとラザルスの拳に見入っていた。音楽師たちはそのまま音楽をつづけてはいたが、一座の静寂はかれらの心にまでも喰い入って来て、掻き散らされた
「あなたは言いたくないのですか。」
その客は自分のおしゃべりを抑え切れずに、また同じ言葉を繰り返して言ったが、ラザルスの沈黙は依然として続いていた。不気味な紫の瑠璃色の拳も依然として動かなかった。やがて彼は微かに動き出したので、一同は救われたようにほっとした。彼は眼をあげて、疲労と恐怖とに満ちたどんよりとした眼でじっと部屋じゅうを見廻しながら、一同を見た。||死からよみがえったラザルスが||
以上は、彼が墓から出て来てから三日目のことであった。もっともそれまでにも、絶えず人を害するような彼の眼の力を感じた人たちもたくさんあったが、しかもまだ彼の眼の力によって永遠に打ち砕かれた人や、あるいはその眼のうちに「死」と同じように「生」に対する神秘的の反抗力を見いだした者はなく、彼の黒いひとみの奥底にじーっと動かずに横たわっている恐怖の原因を説明することも出来なかった。そうして、この三日の間、ラザルスはいかにも穏かな、質朴な顔をして、何事も隠そうなどという考えは毛頭なかったようであったが、その代りに又、何ひとつ言おうというような意思もなかった。彼はまるで人間界とは没交渉な、ほかの生物かと思われるほどに冷やかな顔をしていた。
多くの迂闊な人たちは往来で彼に近づいても気が付かなかった。そうして、眼も
話はまた前に戻って、かの客はまだ
「そんなにあなたは、あの世で見て来たことを私に話したくないのですか。」
しかしもうその客の声には熱がなく、ラザルスの眼に現われていた恐ろしいほどの灰色の疲れは、彼の顔全体を
音楽師は金を貰ったので再び楽器を手に取ると、悲喜こもごも至るというべき音楽が始まった。音楽師らは俗謡を試みたのであるが、耳を傾けていたお客たちは皆なんとなく恐ろしい気がした。しかもかれらはなぜ音楽師に絃の調子を上げさせたり、頬をはち切れそうにして笛を吹かせたりして、無暗に賑やかな音楽を奏させなければならないのか、なぜそうさせたほうが好いのか、自分たちにもわからなかった。
「なんというくだらない音楽だ。」と、ある者が口を開いたので、音楽師たちはむっとして帰ってしまった。それに続いてお客たちも次々に帰って行った。その頃はもう夜になっていた。
静かな闇に出て、初めてほっと息をつくと、忽ちかれらの眼の前に盛装した墓衣を着て、
三
今では友達も親戚もみなラザルスから離れてしまったので、誰ひとりとして彼の面倒を見てやる者もなく、彼の家はこの聖都を取り囲んでいる曠原のように荒れ果てて来た。彼の寝床は敷かれたままで、消えた火をつける者とても無くなってしまった。彼の姉妹、マリーもマルタも彼を見捨てて去ったからである。
マルタは自分のいないあかつきには、兄を養い、兄を憫れむ者も無いことを思うと、兄を捨てて去るに忍びなかったので、その後も長い間、兄のために或いは泣き、或いは祈っていたのであるが、ある夜、烈しい風がこの荒野を吹きまくって、屋根の上に掩いかかっているサイプレスの木がひらひらと鳴っている時、彼女は音せぬように着物を着がえて、ひそかに我が家をぬけ出してしまった。ラザルスは突風のために入口の扉が音を立てて開いたのに気が付いたが、起ち上がって出て見ようともせず、自分を棄てて行った妹を捜そうともしなかった。サイプレスの木は夜もすがら彼の頭の上でひゅうひゅうと唸り、扉は冷たい闇のなかで悲しげに煽っていた。
ラザルスは癩病患者のように人々から忌み嫌われたばかりではなく、実際癩病患者が自分たちの歩いていることを人々に警告するために頸に
自分のからだをなおざりにし始めてから、ラザルスは殆んど餓死せんばかりになっていたが、近所の者は漠然たる一種の恐怖のために彼に食物を運んでやらなかったので、子供たちが代って彼のところへ食物を運んでやっていた。子供らはラザルスを怖がりもしなければ、また往々にして憐れな人たちに仕向けるような悪いたずらをして
昼のあいだ、太陽が情け容赦もなくすべての生物を焼き殺すので、
世間の人がまだ彼に言葉をかけていた頃、彼は一度こんな風に訊ねられた事があった。
「ラザルス君、気の毒だな。そんなことをしてお
彼は答えた。
「むむ、そうだ。」
ラザルスに言葉をかけた人たちの心では、あの三日間の死の
爛々たる太陽が沈みかけると、ラザルスは荒野の方へ出かけて、まるで一生懸命になって太陽に達しようとでもしているように、夕日にむかって一直線に歩いて行った。彼は常に太陽にむかって真っ直ぐに歩いてゆくのである。そこで、夜になって荒野で何をするのであろうと、そのあとからそっと付いて来た人たちの心には、大きな落陽の真っ赤な夕映を背景にした、大男の黒い影法師がこびり付いて来る上に、暗い夜がだんだんに恐怖と共に迫って来るので、恐ろしさの余りに初めの意気組などはどこへやらで、
しかし遥かに遠いところに住んでいて、噂を聞くだけで本人を見たことのない人たちは、怖い物見たさの向う見ずの好奇心に駆られて、日光を浴びて坐っているラザルスの所へわざわざ尋ねて来て話しかけるのもあった。そういう時には、ラザルスの顔はいくらか柔和になって、割合いに物凄くなくなって来るのである。こうした第一印象を受けた人には、この聖都の人々はなんという馬鹿ばかり揃っているのであろうと軽蔑するが、さて少しばかり話をして家路につくと、すぐに聖都の人たちはかれらを見付けてこう言うのである。
「見ろよ。あすこへ行く連中は、ラザルスにお眼を止められたくらいだから、おれ達よりも
かれらは気の毒そうに首を振りながら、腕をあげて、帰る人々に挨拶した。
ラザルスの家へは、大胆不敵の勇士が物凄い武器を持ったり、苦労を知らない青年たちが笑ったり歌を唄ったりして来た。
なおラザルスと話してみたいと思っていた人たちは、こう言って自己の感想を説明していた。
「すべて手に触れ、眼に見える物体は漸次に空虚な、軽い、透明なものに化するもので、謂わば夜の闇に光る影のようなものである。この全宇宙を支持する偉大なる暗黒は、太陽や、月や、星によって駆逐さるることなく、一つの永遠の墓衣のように地球を包み、一人の母のごとくに地球を抱き締めているのである。
その暗黒がすべての物体、鉄や石の中までも沁み込むと、すべての物体の分子は互いの連絡がゆるんで来て、遂には離れ離れになる。そうして又、その暗黒が更に分子の奥底へ沁み込むと、今度は原子が分離して行く。なんとなれば、この宇宙を取り巻いているところの偉大なる空間は、眼に見えるものによって満たされるものでもなく、また太陽や、月や、星に依っても満たされるものでもない。それは何物にも束縛されずに、あらゆるところに沁み込んで、物体から分子を、分子から原子を分裂させて行くのである。
この空間に於いては、空虚なる樹木は倒れはしまいかという
なんとなれば、時は虚無であって、すべての物体には始めと同時に終りが接しているのである。建設はなお行なわれているけれども、それと同時に建設者はそれを槌で打ち砕いて行き、次から次へと廃墟となって、再び元の空虚となる。今なお人間は生まれて来るが、それと同時に絶えず葬式の蝋燭は人間の頭上にかがやき、虚無に還元して、その人間と葬式の蝋燭の代りに空間が存在する。
空間と暗黒によって掩い包まれている人間は、永遠の恐怖に面して、絶望に顫えおののいているのである。」
しかしラザルスと言葉を交すことを好まない人たちは、更にいろいろのことを言った。そうして、みな無言のうちに死んでいるのであった。
四
この時代に、ローマにアウレリウスという名高い彫刻家がいた。かれは粘土や大理石や青銅に、神や人間の像を彫刻し、人々はそれらの彫刻を不滅の美として
「わたしは未だ曾て月の薄い光りを捉えることも出来ず、又は日の光りを思うがままに捉え得なかった。私の大理石には、魂がなく、わたしの美しい青銅には生命がなかった。」と、彼は口癖のように言っていた。そうして、月の晩にはサイプレスの黒い影を踏みながら、彼は自分の白い肉衣を月光にひらめかして見ていたので、道で出逢った彼の親しい人たちは心安立てに笑いながら言った。
「アウレリウスさん。月の光りを集めていなさいますね。なぜ
彼も笑いながら自分の両眼を指さして答えた。
「それ、ここに籠がありますよ。この中へ月光と日光とを入れておくのです。」
実際彼のいう通り、それらの光りは彼の眼のうちで輝いていた。しかし古い貴族出の彼は良い妻や子とともに、物質上にはなに不自由なく暮らしていたが、どうしてもその月光や日光を大理石の上に再現させることが出来ないので、自分の刻んだ作品に絶望を感じながら、
ラザルスの噂がこの彫刻家の耳にはいった時、彼は妻や友達と相談した上で、死から奇蹟的によみがえった彼に逢うためにユダヤへの長い旅についた。アウレリウスは近頃どことなく疲れ切っているので、この旅行が自分の
この世に於いて、人生は美し。
あの世に於いて、死は謎なり。
彼はこう思っていたのである。人間にとって、人生を楽しむと、すべての生きとし生けるものの美に法悦するほど好いことはない。そこで、彼は自分の独自の人生観の真理をラザルスに説得して、その魂をもよみがえらせることに自信ある希望を持っていた。この希望はあながち至難の事ではなさそうであった。すなわちこの解釈し難い異様な噂は、ラザルスについて本当のことを物語っているのではなく、ただ漠然と、ある恐怖に対する警告をなしているに過ぎなかったからであった。あの世に於いて、死は謎なり。
ラザルスはあたかも荒野に沈みかかっている太陽を追おうとして、石の上から起ち上がった時、一人の立派なローマ人がひとりの武装した奴隷に護られながら彼に近づいて来て、朗かな声で呼びかけた。
「ラザルスよ。」
美しい着物や宝石を身に付けたラザルスは、その荘厳な夕日を浴びた深刻な顔をあげた。真っ赤な夕日の光りがローマ人の素顔や頭をも銅の人像のように照り輝かしているのに、ラザルスも気が付いた。すると、彼は素直に再び元の場所にかえって、その弱々しい両眼を伏せた。
「なるほど、お前さんは
今までに誰ひとりとして、ラザルスを宿のあるじと頼もうとした者はなかった。
「わたしには寝床がありません。」と、ラザルスは言った。
「私はこれでも武士の端くれであったから、坐っていても眠られます。ただ私たちは火さえあれば結構です。」と、ローマ人は答えた。
「わたしの
「それでは、暗やみのなかで、友達のように語り明かしましょう。酒のひと壜ぐらいはお持ちでしょうから。」
「わたしには酒もありません。」
ローマ人は笑った。
「なるほど、やっと私にも判りました。なぜお前さんがそんなに暗い顔をして自分の再生を厭うかということが······。酒がないからでしょう。では、まあ仕方がないから、酒なしで語り明かそうではありませんか。話というものはファレルニアンの葡萄酒よりも、よほど人を酔わせると言いますから。」
合図をして、奴隷を遠ざけて、彼はラザルスと二人ぎりになった。そこで再びこのローマの彫刻家は談話を始めたのであったが、太陽が沈んで行くにつれて、彼の言葉にも生気を失って来たらしく、だんだんに力なく、空虚になって、疲労と
「さあ、わたしはお前さんのお客であるから、お前さんはお客に親切にしてくれるでしょうね。客を款待するということは、たとい三日間あの世に行っていた人たちでも当然の義務ですよ。噂によると、三日も墓の中で死んでいたそうですね。墓の中は冷たいに相違ない。そこでその以来、火も酒もなしで暮らすなどという悪い習慣が付いたのですね、私としては大いに火を愛しますね||なにしろ急に暗くなって来ましたからな。お前さんの眉毛と額の線はなかなか面白い線ですね。まるで地震で埋没した不思議な宮殿の廃墟のようですね。しかしなぜお前さんはそんな醜い奇妙な着物を着ているのです。そうそう、私はこの国の花聟たちを見た事があります。その人たちはそんな着物を着ていましたが、別に恐ろしいとも、滑稽とも思いませんでしたが······。お前さんは花聟さんですか。」と、ローマの彫刻家は言った。
太陽は既に消えて、怪物のような黒い影が東の方から走って来た。その影は、あたかも巨人の素足が砂の上を走り出したようでもあった。寒い風の波は背中へまでも吹き込んで来た。
「この暗がりの中だと、さっきよりももっと頑丈な男のように、お前さんは大きく見えますね。お前さんは暗やみを食べて生きているのですか、ラザルスさん。私はほんの小さな火でも得られるなら、もうどんな小さな火でもいいと思いますが······。私はなんとなく寒さを感じて来たのですが、お前さんは毎晩、こんな野蛮な寒い思いをなさるのですか。もしもこんなに暗くなかったら、お前さんが私を眺めているということが判るのですが······。そう、どうも私を見ているような気がしますがね。なぜ私を見つめているのです。しかしお前さんは笑っていますね。」
夜が来て、深い闇が空気を埋めた。
「あしたになって太陽がまた昇ったら、どんなに好いでしょうな。私は、まあ友達などの言うところに依りますと、お前さんも知っている筈の、名の売れた彫刻家です。わたしは創作をします。そうです、まだ実行にまでは行きませんが、私には太陽が要るのです。そうして、その日光を得られれば、私には冷たい大理石に生命をあたえ、響きある青銅を輝く温かい火で
「お出でなさい。あなたは私のお客です。」と、ラザルスは言った。
二人は帰路についた。そうして、長い夜は地球を掩い包んだ。
朝になって、もう太陽が高く昇っているのに、主人のアウレリウスが帰って来ないので、奴隷は主人を捜しに行った。彼は主人とラザルスをそれからそれへと尋ねあるいて、最後に
「旦那さま、あなたはどうなすってしまったのです、旦那さま。」
その日に、アウレリウスはローマへ帰るべく出発した。道中も彼は深い考えに沈み、ほとんど物も言わずに、往来の人とか、船とか、すべての事物から、何物をか頭のなかに
家に帰り着くと、彼の友達らはアウレリウスの様子が変わっているのに驚いた。しかし彼はその友達らを鎮めながら意味ありげに言った。
「わたしは遂にそれを発見したよ。」
彼はほこりだらけの旅装束のままで、すぐに仕事に没頭した。大理石はアウレリウスの冴えた槌の音をそのままに反響した。彼は長い間、誰をも仕事場へ入れずに、一心不乱に仕事に努めていたが、ある朝彼はいよいよ仕事が出来上がったから、友達の批評家らを呼び集めるようにと家人に言い付けた。彼は真っ紅な
「これがわたしの作品だ。」と、彼は深い物思いに耽りながら言った。
それを見守っていた批評家らの顔は深い悲痛な影に掩われて来た。その作品は、どことなく異様な、今までに見慣れていた線は一つもなく、しかも何か新らしい、変わった観念の暗示をあたえていた。細い曲がった一本の小枝、と言うよりはむしろ小枝に似たある不格好な細長い物体の上に、一人の||まるで形式を無視した、
「この見事な蝶はなんのためなんだね、アウレリウス。」と、誰かが躊躇しながら言った。
「おれは知らない。」と、アウレリウスは答えた。
結局、アウレリウスから本心を聞かされないので、彼を一番愛していた友達の一人が断乎として言った。
「これは醜悪だよ、君。壊してしまわなければいかん。槌を貸したまえ。」
その友達は槌でふた撃ち、この怪奇なる盲人を微塵に砕いてしまって、生きているような蝶だけをそのままに残して置いた。
以来、アウレリウスは創作を絶って、大理石にも、青銅にも、また永遠の美の宿っていた彼の霊妙なる作品にも、まったく見向きもしなくなった。彼の友達らは彼に以前のような仕事に対する熱情を喚起させようというので、彼を連れ出して、他の巨匠の作品を見せたりしたが、依然として無関心なるアウレリウスは
「だが、それはみな嘘だ。」
太陽のかがやいている日には、彼は自分の壮大な見事な庭園へ出て、日影のない場所を見つけて、太陽のほうへ顔を向けた。赤や白の蝶が舞いめぐって、酒機嫌の
五
神聖なるローマ大帝アウガスタス自身がラザルスを召されることになった。皇帝の使臣たちは、婚礼の儀式へ臨むような荘厳な花聟の衣裳をラザルスに着せた。そうして、彼は自分の一生涯をおそらく知らないであろうと思われる花嫁の聟としてこの衣裳を着ていた。それはあたかも古い腐った棺桶に
彼の乗船は非常に豪奢に装飾されていたにも拘らず、かつて地中海の瑠璃色の波に映った船のうちでは最も悼ましい船であった。他の客も大勢乗合わせていたが、寂寞として墓のごとく、傲然とそり返っている船首を叩く波の音は絶望にむせび泣いているようであった。ラザルスは他の人々から離れて、太陽にその顔を向けながら、さざなみの呟きを静かに傾聴していた。水夫や使臣たちは遥か向うで、ぼんやりとした影のように一団をなしていた。もしも
ラザルスはまったく無頓着に、永遠の都のローマに上陸した。人間の富や、荘厳無比の宮殿を持つローマは、あたかも巨人によって建設されたようなものであったが、ラザルスに取ってはそのまばゆさも、美しさも、洗練された人生の音楽も、結局荒野の風の谺か、沙漠の流砂の響きとしか聞こえなかった。戦車は走り、永劫の都の建設者や協力者の群れは傲然として
その中には又、自分たちの胆力を試してみようという勇気のある人たちもあらわれて来た。そういう時には、ラザルスはいつも素直に無礼なかれらの招きに応じた。皇帝アウガスタスは国事に追われて、彼を召すのがだんだんに延びていたので、ラザルスは七日のあいだ、他の人々のところへ招かれて行った。
ラザルスが一人の享楽主義者の邸へ招かれたとき、主人公は大いに笑いながら彼を迎えた。
「さあ、一杯やれ、ラザルス君。お前が酒を飲むところを御覧になったら、皇帝も笑わずにはいられまいて。」と、主人は大きい声で言った。
半裸体の酔いどれの女たちはどっと笑って、ラザルスの紫色の手に薔薇の花びらを振りかけた。しかもこの享楽主義者がラザルスの眼をながめたとき、彼の歓楽は永劫に終りをつげてしまった。彼は一滴の酒も口にしないのに、その余生をまったく酔いどれのように送った。そうして、酒がもたらすところの楽しい妄想の代りに、彼は恐ろしい悪夢に絶えずおそわれ、昼夜を分かたずその悪夢の毒気を吸いながら、かの狂暴残忍なローマの先人たちよりも更に物凄い死を遂げた。
ラザルスは又、ある青年と彼の愛人のところへ呼ばれて行った。かれらはたがいに恋の美酒に酔っていたので、その青年はいかにも得意そうに、恋人を固く抱擁しながら、穏かに同情するような口ぶりで言った。
「僕たちを見たまえ、ラザルス君。そうして、僕たちが悦びを一緒に喜んでくれたまえ。この世の中に恋より力強いものがあろうか。」
ラザルスは黙って二人を見た。その以来、この二人の恋人同士は互いに愛し合っていながらも、かれらの心はおのずから楽しまず、さながら荒れ果てた墓地に根をおろしているサイプレスの木が、寥寂たる夕暮れにその頂きを徒らに天へとどかせようとしているかのように、その後半生を陰鬱のうちに送ることとなった。不思議な人生の力に駆られて互いに抱擁し合っても、その
ラザルスは更に又、ある高慢なる賢人の邸へ招かれた。
「わたしはお前が顕わすような恐怖ならば、みな知っている。お前はこのわたしを恐れさせるような事が出来るかな。」と、その賢人は言った。
しかもその賢人は、恐怖の知識というものは恐怖そのものではなく、死の幻影は死そのものではない事をすぐに知った。また賢こさと愚かさとは無限の前には同一である事、何となればそれらの区別はただ人間が勝手に決めたのであって、無限には賢こさも愚かさもないことを識った。したがって、有智と無智、真理と虚説、高貴と卑賤とのあいだの犯すべからざる境界線は消え失せて、ただ無形の思想が空間にただよっているばかりとなってしまった。そこで、その賢人は
「わたしには判らない。私には考える力がない。」
こうして、この奇蹟的によみがえった男を、ひと目見ただけで、人生の意義と悦楽とはすべて一朝にして滅びてしまうのである。そこで、この男を皇帝に謁見させることは危険であるから、いっそ彼を亡き者にして窃かに埋めて、皇帝にはその行くえ不明になったと申し上げた方がよかろうという意見が提出された。それがために首斬り刀はすでに
そこで、ラザルスを亡き者にすることが出来ないまでも、せめては彼の顔から受ける恐ろしい印象を和らげる事ぐらいは出来るであろうという意見で、腕のある画家や、理髪師や、芸術家らを招いて、徹夜の大急ぎでラザルスの髭を刈って巻くやら、絵具でその顔や手の死びと色の斑点を塗り隠すやら、種々の細工が施された。今までの顔に深いみぞを刻んでいた苦悩の皺は、人々に嫌悪の情を起こさせるというので、それもみな塗りつぶされて、そのあとは温良な笑いと快活さとを巧妙な彩筆をもって描くことにした。
ラザルスは例の無関心で、大勢のなすがままに任せていたので、たちまちにして如何にも好く似合った頑丈な、孫の大勢ありそうな
六
ラザルスは宮殿の崇高なるにも、心を動かされなかった。彼に取っては荒野に近い崩れ家も、善美を尽くした石造の宮殿もまったく同様であったので、相変わらず無関心に進み入った。彼の足の下では堅い大理石の床も荒野の砂にひとしく、彼の眼には華美な宮廷服を身にまとった傲慢な人々も、すべて空虚な空気に過ぎなかった。ラザルスがそばを通ると、誰もその顔を正視する者もなかったが、その重い足音がまったく聞こえなくなると、かれらは宮殿の奥深くへだんだんに消えてゆくやや前かがみの老偉丈夫のうしろ姿を穿索するように見送った。死そのもののような彼が過ぎ去ってしまえば、もうこの以上に恐ろしいものはなかった。今までは死せる者のみが死を知り、生ける者のみが人生を知っていて、両者のあいだには何の連絡もないものと考えられていたのであるが、ここに生きながらに死を知っている、謎のような恐るべき人物が現われて来たということは、人々に取って実に呪うべき新知識であった。
「彼はわれわれの神聖なるアウガスタス大帝の命を取るであろう。」と、かれらは心のうちで思った。そうして、奥殿深く進んでゆくラザルスのうしろ姿に呪いの声を浴びせかけた。
皇帝はあらかじめラザルスの人物を知っていたので、そのように謁見の準備を整えておいた。しかも皇帝は勇敢な人物で、自己の優越なる力を意識していたので、死から奇蹟的によみがえった男と生死を争う場合に、臣下の助勢などを求めるのをいさぎよしとしなかった。皇帝はラザルスと二人ぎりで会見した。
「お前の眼をわしの上に向けるな、ラザルス。」と、皇帝はまず命令した。「お前の顔はメドュサの顔のようで、お前に見詰められた者は誰でも石に化すると聞いていたので、わしは石になる前に、まずお前に逢い、お前と話してみたいのだ。」
彼は内心恐れていないでもなかったが、いかにも皇帝らしい口ぶりでこう言い足した。それからラザルスに近寄って、熱心に彼の顔や奇妙な礼服などを調べてみた。彼は鋭い眼力を持っていたにも拘らず、ラザルスの変装に騙されてしまった。
「ほう、お前は別に物凄いような顔をしていないではないか。好いお爺さんだ。もしも恐怖というものがこんなに愉快な、むしろ尊敬すべき風采を具えているならば、われわれに取っては却って悪い事だとも言える。さて、話そうではないか。」
アウガスタスは座に着くと、言葉よりも眼をもってラザルスにむかいながら問答を始めた。
「なぜお前はここへはいって来た時に、わしに挨拶をしなかったのだ。」
「わたしはその必要がないと思いましたからです。」と、ラザルスは平気で答えた。
「お前はクリスト教徒か。」
「いいえ。」
アウガスタスはさこそと言ったようにうなずいた。
「よし、よし。わしもクリスト教徒は嫌いだ。かれらは人生の樹に実がまだいっぱいに
ラザルスは眼に見えるほどの努力をして、ようように答えた。
「わたしは死んだのです。」
「それはわしも聞き及んでいる。しかし現在のお前は如何なる人物であるのか。」
ラザルスは黙っていたが、遂にうるさそうな冷淡な調子で、「私は死んだのです。」と、繰り返し言った。
皇帝は最初から思っていたことを言葉にあらわして、はっきりと力強く言った。
「まあ聞け、外国のお客さん。わしの領土は現世の領土であり、わしの人民は生きた人間ばかりで死んだ人間などは一人もいない。したがって、お前はわしの領土では余計な者だ。わしはお前が如何なる者であり、又このローマをいかに考えているかを知らない。しかしお前が嘘を言っているのならば、わしはお前のその嘘を憎む。又、もし本当のことを語っているのならば、わしはお前のその真実をも憎む。わしの胸には
アウガスタスはあたかも祈祷でもするように両腕を差し出して、更におごそかに叫んだ。
「幸いあれ。おお、神聖にして且つ偉大なる人生よ。」
ラザルスは沈黙を続けていると、皇帝はますます高潮して来る厳粛の感に堪えないように、なおも言葉をつづけた。
「死の
アウガスタスも最初は、友達が自分を見ているのかと思った程に、ラザルスの眼は実に柔かで、温良で、たましいを
「ああ、苦しい。しかしわしを見詰めていろ、ラザルス。見詰めていろ。」と、神聖なるアウガスタスは蒼ざめながら言った。
ラザルスのその眼は、あたかも永遠にあかずの重い扉が徐々にあいて来て、その隙き間から少しずつ永劫の恐怖を吐き出しているようでもあった。二つの影のように、果てしもない空間と底知れぬ暗黒とが現われて、太陽を消し、足もとから大地を奪って、頭の上からは天空を消してしまった。これほどに冷え切って、心を痛くさせるものが又とあるであろうか。
「もっと見ろ。もっと見ろ、ラザルス。」と、皇帝はよろめきながら命じた。
時が静かにとどまって、すべてのものが恐ろしくも終りに近づいて来た。皇帝の座は真っ逆さまになったと思う間もなく崩れ落ちて、アウガスタスの姿は玉座と共に消え失せた。||音もなくローマは破壊されて、その跡には新しい都が建設され、それもまた空間に呑み込まれてしまった。まぼろしの巨人のように、都市も、国家も、国々もみな倒れて、空虚なる闇のうちに消えると、無限の黒い胃嚢が平気でそれらを呑み込んでしまった。
「止めてくれ。」と、皇帝は命令した。
彼の声にはすでに感情を失った響きがあり、その両手も力なく垂れ、突撃的なる暗黒と向う見ずに戦っているうちに、その赫々たる両眼は何物も見えなくなったのである。
「ラザルス。お前はわしの命を奪った。」と、皇帝は気力のない声で言った。
この失望の言葉が彼自身を救った。皇帝は自分が庇護しなければならない人民のことを思い浮かべると、気力を失いかけた心臓に鋭い痛みをおぼえて、それがためにやや意識を取り戻した。
「人民らも死を宣告されている。」と、彼はおぼろげに考えた。無限の暗黒の恐ろしい影||それを思うと恐怖がますます彼に押し掛かって来た。
「沸き立っている生き血を持ち、悲哀と共に偉大なる歓喜を知る心を持つ、破れ易い船のような人民||」と、皇帝は心のうちで叫んだ時、心細さが彼の胸を貫いた。
かくの如く、生と死との両極のあいだにあって反省し、動揺しているうちに、皇帝は次第に生命を回復して来ると、苦痛と歓喜との人生のうちに、空虚なる暗黒と無限の恐怖を防ぐだけの力のある楯のあることに気が付いた。
「ラザルス。お前はわしを殺さなかったな。しかしわしはお前を殺してやろう。去れ。」と、皇帝は断乎として言った。
その夕方、神聖なる皇帝アウガスタスは、いつもになく愉快に食事を取った。しかも時々に手を突っ張ったままで、火の如くに輝いている眼がどんよりと陰って来た。それは彼の足もとに恐怖の波の動くのを感じたからであった。打ち負かされたが、しかも破滅することなく、永遠に時の来たるのを待っている「恐怖」は、皇帝の一生を通じて一つの黒い影||すなわち死のごとくに彼のそばに立っていて、昼間は人生の喜怒哀楽に打ち負かされて姿を見せなかったが、夜になると常に現われた。
次の日、絞首役人は熱鉄でラザルスの両眼をえぐり取って、彼を故国へ追い帰した。神聖なる皇帝アウガスタスも、さすがにラザルスを死刑に処することは出来なかったのである。
ラザルスは故郷の荒野に帰ると、荒野はこころよい風の肌触わりと、輝く太陽の熱とをもって彼を迎えた。彼は昔のままに石の上に坐ると、その粗野な髭むじゃな顔を仰向けた。二つの
熱鉄によって眼から追い出されたので、彼の呪われたる死の知識は頭蓋骨の奥底にひそんで、そこを隠れ家とした。そうして、あたかもその隠れ家から飛び出して来るように、呪われたる死の知識は無数の、無形の眼を人間に投げかけた。誰ひとりとして敢てラザルスを正視するものはなかった。
夕日がいっそう大きく紅くなって、西の地平線へだんだんに沈みかけると、盲目のラザルスはその後を追ってゆく途中、頑丈ではあったが又いかにも弱々しそうに、いつも石につまずいて倒れた。真っ赤な夕日に映ずる彼の黒いからだと、まっすぐに開いた彼の両手とは、さながら巨大なる十字架のように見えた。
ある日、いつものように夕日を追って行ったままで、ラザルスは遂に帰って来なかった。こうして謎のように死から奇蹟的によみがえった彼が再生の生涯も、終りを告げたのであった。