劇作家としてのクウルトリイヌは、既にその仕事ををはつてゐるやうに思はれる。しかしながら今日までに彼がなし遂げた業績は、仏蘭西戯曲史上重要な頁を占めるべきものであらう。
一千八百六十年六月二十五日、仏国中部の古都ツウルに生れ、モオの高等学校で普通学を修めた。父親は、名をジュウル、姓をムアノオと称してゐたのであるから、彼も亦ジョルジユ・ムアノオといふ本名があるに違ひない。彼が青年時代を如何に過したかは、今私の手許にある文献だけではわからないが、朧げな記憶に従へば、彼は書斎よりもカッフェーを愛したらしい、但しそのカッフェーは、彼をして様々な近代人のタイプを研究させる事に役立つたといはれてゐる。
一千八百九十一年六月、自由劇場でその処女作「リドワル」が上演せられ、同じく九十三年四月、傑作「ブウブウロシュ」が空前の成功裡に最後の幕を閉ぢて以来、クウルトリイヌの名は突如として巴里劇壇の注意を惹いた。それにも拘らず、当時の頑冥な批評家(多分サルセエだと思ふ。何故なら此の「批評壇の明星」は、当時屡々斯くの如き態度をもつて新進作家を遇してゐる)は彼の戯曲を評して「脚本になつてゐない脚本」と嘲り、又「些かも芝居のコツを心得てゐない
実際彼の作品は、多くは「劇的スケッチ」とも称すべきもので、所謂作劇術の定石を無視した「人生の断片」であり、何よりも先づ「生きた人間」を描くことによつてのみ、舞台の「動き」を与へようとする自由劇場式戯曲である。そして、それはまた同時に、仏国近代劇の著しい転向を物語るものである。
ラシイヌによつて始められた心理解剖劇の伝統が、ポルト・リシュに至つて近代的色彩を与へられたとすれば、モリエールが開拓した伝統の一面、ヂナミスム(動性)を基調とする諷刺喜劇の流れは、クウルトリイヌによつて、近代的ファルスの典型を示した。
彼は、モリエールの如く、性格的「
彼は、仏蘭西人特有のあらゆる感情のニュアンス、巴里生活のあらゆる機微な問題と、そのゴオル人らしい
彼の数多い作品中には、相当「一夜漬け」があるにはあるが、此処に掲げた二篇のみ、前掲、「ブウブウロシュ」「真面目な花客」「殴られる心配」等は傑作の部に属すべきであらう。
彼は、その旧友や後輩たちが、続々アカデミイ入りをするのを平気で眺めてゐる。そして、彼にも、亦、その花々しい経歴を背負つて、立候補すべきを勧めるものがあると、彼は笑つて、「競争者がなければ······」と答へてゐるさうである。