日清日露両戦役をはさんで、軍人の家に生れ育つた私は、「大きくなつたら何になる」といふ問題を、至極簡単に考へてゐた。友達が中学にはひる頃、私は幼年学校にはひり、それから十年間、全く、世の中と没交渉な生活を送つた。自分の気質が、軍人には向かないといふことを、そろそろ気づきはじめる時代には、軍人勅諭の五ヶ条が、頭にしみ込んでゐた。さういふ生活のなかで、私は、仏蘭西語の教科書を通して、おぼろげながら、文学の匂ひを嗅ぎ覚えた。
無論、日本の文壇のことなど、与り知る筈もなく、士官学校を出て久留米連隊附となるまで、紅葉漱石の名をすら聞いたこともなかつた。自由に新聞や雑誌が読める身分になつて、手当り次第に読んだ。
青島戦では留守隊勤務に廻されたが、所謂「凱旋将士」の思ひ上りと、それを包む兵営の空気が、どうしても我慢できず、病気を口実にして職を退いた。それから、直接教へは受けなかつたが、内藤濯氏が幼年学校の教官だつたのでいろいろ将来のことを相談した。帝大の仏文科に籍を置くやうになつたのはそのためである。
その時分、同じ幼年学校の先輩、大杉栄氏を訪ねたかつたのだがどういふわけか、それはそのまゝになつた。