私たちが文学座をはじめてから、なるほどもう十五年たつわけであるが、それだけの成長をしたかどうか、このへんで厳しい自己批判を加えてもよさそうである。
なるほど、個人的には、いくたりか、俳優らしい俳優もできてきた。産婆役の私がろくろく年をとつたことからみれば、劇団としての幅も重みもついたように思われる。しかし、仕事の量に比して、質の方は、全体にさほど高まつたとは言えないように思う。原因はいろいろある。一番大きな原因は、やはり戦争であろう。少くとも、芸術活動にとつて、武力が物を言う時代ほど不幸なものはない。
その代り、敗戦という経験は、後に来るものゝ如何に拘わらず、精神的には、必ずわれわれに貴重なものとして残ることを信じる。
文学座は、現在はなお、ジクザクの道を辿りつゝあるようにみえるかも知れないが、新鮮な芽はまさに伸びようとしている。
今年は、戯曲界にぞくぞく変種が現われそうな気配が感じられるし、そういうものゝなかから“ほんもの”を拾い出し、一定のレパアトリイを多彩ならしめる工夫をしなければならぬ。
そして一方、新劇としての古典の確立によつて、文学座の伝統を過去から未来へつなぐ努力が試みられることを期待する。
飛躍は常に堅固な足場を必要とするからである。