矢代君の戯曲は以前二つほど読んでゐた。それに今度文学座のアトリエ公演でこの、たしか第三作である「
今度の「
私は日本での最近の戯曲生産を通じて、これほど傍若無人な作品にぶつかつたことはない。なるほど、戦後のフランス劇あたりにお手本がありさうにも思へるが、それにしても、単に、形式的な模倣に終つてゐないところは、さすがに、この作者は、詩人であることを証明してゐる。新しい戯曲の「生命のエッセンス」をなかなか大胆に追ひ求めてゐるところにも、私は注目した。一見唐突で、気まぐれとさへ思はれる人物の対話や行為のなかに、劇詩の要素である韻律の知的でかつ感覚的な操作を、心にくいほどの落ちつきと計画をもつて行つてゐる。
まだしかし、この試みのなかには、不安な手さぐりもあるし、効果の意外な誤算もあるらしい。作者の柔軟で鋭い感受性が、観念の固い框のなかで喘いでゐる部分が目につく。
私の趣味からいへば、もつと当り前な日本語と日本人らしい動作とで、もつとイメージのはつきりした人間を、新しく深く捉へ、多面的に描いたものの方を好む。
標題の「

この作者に私は、大きな期待をもつてゐるだけに、われわれを文句なしに楽しませてくれるやうな、独り善がりでない美しい劇詩を早く見せてくれることを望む。
この作家の力量をわかり易い標準でたとへるなら、さしづめ、有力な芥川賞候補であらう。