一
九月の中ごろ、ひどく雨が降った或る晩のこと。||学校を出た間もなくこれから新聞社にでも入る運動をしようと思ってる時に少し思うことがあって、私は親の家から出て、
自分の室にはいって、
「ああ、そうそう、下の荻原さんが貴方にお目にかかりたいって。」と言う。
「荻原ってどんな人だ?······おれに何の用があるだろう。」
「何の用ですか? この間からそう言ってらしたから。今夜なんぞ丁度いいわ。いらっしゃいって、そう言って来ましょうね。······それは変んな言葉つきよ。私なんぞには何言ってらっしゃる[#「らっしゃる」は底本では「らっしやる」]んだか、半分ぐらいしかわからないの。」
たてつづけにしゃべって、獨りで呑み込んだ顔をして下に降りて行った。
ちょっと不思議な気もしたが、そのまま待っていると、やがて、入口の唐紙を開けて、鴨居に首がつかえそうな大きな男がぬうっと入って来た。木綿の紋付の羽織を着て、田舎風のしまの着物の胸をきちんと合わせた、頭を長くのばしてぴったりと分けた、色の赤黒い、にきびのある、その顔を見ると、私は腹の中でああこの人が荻原かと思った。この人なら、大抵毎朝、洗面場で会って知っている。学生の連中はもう大抵出て行った頃、まぶしそうな眼付きをして、のっそりと顔を洗いに出てくる人だ。
荻原はきまりの悪るそうな笑を含ませて入口に近いところに坐ろうとするから、
「まあ、もっとこっちに。」
と坐蒲団をすすめると、
「え、え。」
と二つばかり頭を下げて、その儘ぐずぐずしている。そこへお八重が入って来て、
「荻原さん、もっと奥にいらっしゃいよ。」
と言うと、やっと、私の前にいざり寄った。
私は何の用かと待ちかまえていたが、相手が何にも言い出そうとせぬから、
「何か御用ですか?」
とこちらから切り出した。すると、一寸あわててどもりながら、
「いいえ、別に用ではないのです。」
と言う。成程アクセントの強い、聞き取りにくい言葉だ。
私はちょっと拍子ぬけがして、相手の顔をまじまじ見ていた。幅が広くまるい、輪廓のぼんやりした顔に、細い眠っているような目をしている。口も小さい。色が黒く、皮膚が荒い。何か重いものでも始終脊負わされて押し付けられて、育って来た人のようだ。
私は手持ち無沙汰なのをまぎらすために、
「お国はどちらです。」
と聞いた。すると、荻原は、
「え?···国ですか、国は花巻の方です。」
と言ったが、私には充分に聞き取れなかった。
「どちらですって?」
「花巻。」
「え?」
「花巻。」少し声が鼻にかかる。
「え?」
まだ聞き取れないので、聞きなおすと、きまりの悪るそうな顔をして口をつぐんでしまったが、しばらくすると、
「盛岡の方です。」
「あ、そうですか、では寒い方? そうですね。」
「え、そうです。」
それで話がとぎれたが、話しをしていると、こっちが苦しくって仕様がない程、言葉が引っかかる。するとその度に、唇を曲げて、からだ全体に力を入れるようにする。それで自然、話がぼつりぽつりととだえ勝ちになる。
私はまだこの男が何の用事を言い出すかと思って、その方を心では待っている。で、話がとぎれると、もう言い出すかと思って相手の顔を見る。しかし別にそんな
「失礼ですが、君は学校はどちらです?」私は風采[#「風采」は底本では「風釆」]から推して大方、日本大学の法律科とでも言うかと思っていると、
「学校ですか? 学校は早稲田の文科です。」
と言う。
「あ、そうですか、いつ御卒業です?」
「来年の春です。」
「じゃ、もうおいそがしいですね。」
「え、え。」
話は又ぽつりと絶えてしまう。二人ともまじまじしている。私は、とうとう手持ち無沙汰に困まってしまって、何かなしに手を
「おい、何か持って来ないか。」私は腹の中で笑いたかったが、ちょっと場合が変なので、強いてそれを押さえ付けてこう言うと、
「へえ?」
いつになく、お八重は見当のつかぬ顔をする。
「何かを、持って来るんだよ、何だそんな
「だって、あなた達の方がおかしいわ、にらみっくらしてるじゃありませんか。」女は
「まあいいから、早く持って来い!」と言って、私は荻原の方を向きなおると、
「僕は九州で育ったもんですからね。寒い国のことはちっとも知りませんが、お国の方になると、景色なんぞも、ずっと変ってましょうね。」と言う。
「え、変っています。私の国じゃ、もう今頃からは、からっと晴れた空なんぞはめったに見られません。」
「へえ、じゃ陰鬱ですね。」私は、ちょっと眉に皺をよせる。
「陰鬱です。」
不思議!······話がここになると荻原の眠っているような眼が、光って来る。
そこへお八重が、菓子を持ってきたが、二人のあいだにそれを置くと、不思議そうな顔をして、ちょっと私達の顔を見て、このおしゃべりが、いつになく何にも言わずに出て行った。
「さ、いかがです。これでも
私はまだその用が気になっているので、こう言うと、荻原は少しあわてて、きまりの悪そうに顔を赤くした。そして何にも言わない。······また手持ち無沙汰になりそうだから、私もあわてて、
「それで、何ですか、林や森の感じなども、変ってるでしょうね。」と話をまたその方に持って行く。すると荻原は遠慮した顔をしながらも、気が乗って来て、
「
「私なんぞは、胡桃の林なんて見た事もありませんよ。······それはそうと変な事を聞くようですがね、お国の方では迷信がひどくはありませんか。お
「盛んです。そんな話ばかりですよ。」 私が菓子を一つ
「やっぱり、陰鬱なせいかしら。」
「どうですか。国ではまだ
「魔法?······何です、それは。」
「何ですかね、蛇だとか、いろいろな毒虫を見ると、何か
「不思議ですね、それをするのは女だけですか?」
「ええ女だけです。それも、その家の系統があるのです。」
「若い女でもやるんですか?」
「やっぱり
荻原は初めのおどおどしていた風がすっかり消えてしまった。ひとりで興に乗って来て話しつづける。その顔を見ると平常、底の底に押しこまれていた感情が一時にぱっと、上に出て来て、それに花を咲かせたようだ。
「私の家は、花巻から五里くらいもずっと山の奥ですが、A山と、B山と、C山と、三つの大きい山が周囲を取りまわしている広野です。国で一番いい時はやはり田植えごろですが。······その頃になると、私の家から、すこし隔ってB野というところに、
「閑古花って何です? 彼岸花のことですか、あの赤い花の咲く。」
「いいえ、それ熊谷草、敦盛草って言いましょう、あれです。」
「ほう、そうですか、それで?」私はもうすっかり話につり込まれてしまった。
「その頃、山の麓に行っていると、夜は寝られないほど、騒がしいですよ。いろんな鳥が一時に鳴き出すもので······それに私の国では昼間鳴く鳥は少ないのですから。
「そのB野に、朝早く行くと、それはずっと夏になってですが、あさどりって言うのがあります。山の神様のお使いだとか言って、それを殺すと
荻原はもうすっかり興に乗ってしまって止めどなくひとりで話しつづける。
「その山にも面白い話があるのです。その三つの山っていうのは大昔三人の
夜があけて、三人は起きて見ると、箭は姉のところにあったので、末の妹はひどく泣いたのですが、仕方なしにC山に、中のがB山に別れて行ってしまったのだと言っています。
それでそのA山は一番高い凄い山ですがね、今でも恐ろしい話がたくさんあるのです。私の国では夏の末ごろにそこに
荻原の目に、陰鬱な火のような表情があらわれた。心が燃えて、烈しく慄えるようすが見える。その話もごつごつしていながら、そのうちに自ずから抑揚の調子が出て来て、人を魅する力がこもっている。彼は感情の高まった声をして、
「その山では、私の家によく来る隣村の猟師がこんな目に逢ったこともありますよ。
あ痛あッ! という声が一声聞えたそうです。それが家にいる老母の声だったので、留守に何か悪いことがなければいいがと思って。夜が明けるとすぐ大急ぎをして帰って来て見ると、家では
「それからまだこんな話もあります。」と言うので、荻原は思い出しては、追っかけ追っかけ自分でも夢中になって話しつづける。
それで思わず夜が更けてしまった。私もつり込まれて聞いていたが、ふっと気がつくと、下ではもう寝静まっている。雨はまだやまないと見えて、ざあざあ、まっすぐに烈しい音をさせて降っている。
私が不意に、外の音を聞くような顔をすると、荻原は話しかけた話をぱったり止してしまって、不思議そうに、
「何ですか?」
と聞く。
「いいえ、何でもないが、雨の音がひどいですね。」
と言うと、これもにわかに気がついたように外の音を聞く。すると、急に襟元が寒いような風をして、ちらとおびえた顔付きをすると、
「私だって変なものを見たことがあります。」
とおぼえず口走ったが、あとから、妙に疑り深い目をして、私を覗うように見る。······そのくせ、私が気の付かない顔をすると、また興に乗って来て、その話をしゃべってしまった。しかもその人にとって、大した秘密の籠っている話でもなかった。
二
その晩、とうとう話しくたびれて、荻原が二階を降りたのは、かれこれ朝の二時ごろであったろう。別に用らしい話は少しもなかったところを見ると、このような性質の人で、話相手が欲しかったのかもしれない。私は寝床の中に入ってからも、不思議な感情を持っている男だと思った。
次の朝起きると、はたして、私と同じくらいまで寝ていたと見えて、洗面場でぱったり出くわした。荻原は私の顔を見ると、にやりとしたが、私が、
「や、昨晩は。」
と言うと、何かきまりが悪そうな、眼付きをして、
「どうも、ひどく遅くまで話しまして······」
と、やっとの思いで言ったように顔をそらしてしまった。それを、朝飯を一緒に食おうと言うので無理に二階に引っぱって来ると、くることは来たが、昨晩の興に乗った調子がなくなると、又もとの通りで、日向に出たのがまぶしいように、薄暗い曇った顔をしてぽつりと坐って、黙っている。
私が話しかけても、はかばかしく返事もしない。ごく人の好い人だとは思うが、何を考えているのだか、すっかり、その心持ちがわからない男だ。
私もひどく急がしくなかった頃なので、暇さえあれば、荻原と一緒にめしを食って、荻原の
一緒にめしを食っていても、荻原から話しかけることはめったにない。これでどうして、一面識もない私に逢おうなどと思ったろうと思われるほどだ[#「だ」は底本では「た」]。
私は、新聞社の口が定らないので、しばらくのうちと思って、学校の先生が主幹している、或る経済雑誌の外国新聞の翻訳を受持つことになったが(私は早稲田の経済科の卒業生だ。)ふだんは家にいて、それをやっている。と、荻原は大抵わきに来て黙って坐ってレヴュー・オブ・レヴューの文学欄なんぞを、ひっくり返えして見ている。そのうちに、私も少し倦んでくると、
「面白いことでも書いてあるかい?」
ときくと、
「さあ······」
と言って、その雑誌をつき出す。もうしまいには言葉なんぞも、すっかりぞんざいに成っていたが、それはどちらかと言うと、私の方だけで、荻原の方はまだそう手軽には行かないのだ。そうして、何となく話をしていると、ときどきは珍らしく荻原の文学論が出る。
荻原のは明らかにそれを指すものはないが、生存と言うことに向って、強い恐れを持っている、一種の霊魂教の信者だ。そして
気の毒なことに、とは思うが、或いはその嗜好から、特に選んだのか、荻原のいる室は西向きで、昼間でも薄っ暗い。その室には小さな書棚が、右の方の壁のところに置いてあって、それにくっ附けて、赤や紫で、しつっこい、ごちゃごちゃした模様の
歩く時には、肩を上げて、まるで高竿がひょいひょい行くようだ。からだに柔かみがないせいか。しかし顔を見ると血が重くおどんでいるようで、深みもある。何かちょっと判断のつかぬものが隠れているようでもある。
しかし彼は、淋しい人である。
いつも淋しい顔をして、ぽつねんと一方を見つめて、坐っているか、さもなくば、朝も昼もなく、布団をひっかぶって、ぐうぐうねている。そして、夕方になると、急に目をさまして、ぶらりとどこかに出かけて行く。あまりいつもいつも眠っているから、ゆり起こして、
「いくらねたらいいんだ?」
と聞くと、さもねむそうな眼をあげて、余計なことをするっていう顔付きをしながら、
「ああねむい!」
と言って大きな吐息をつく。そして一向学校にも行く様子がないから、なぜかと聞くと、学校の方は今年は一年遊ぶのだといって平気な顔をしている。
ある時に、用があってその室に行って見ると、もう日が落ちてしまったのに、室の中はまっくらだから、いないのかと思って開けた唐紙を閉めようとすると、机のわきに黒いものが、うごめくと、突然、
「私はここに、いたんですよ。」
と声をかけた。
「じゃ
と言いながら入って行くと、暗の中に目がきらっと輝いたようで、荻原は太い
ランプがパッと着くと、荻原は今まで、柱に倚りかかっていたらしく、その顔には名状しがたいような、哀愁を含ませている。見ると涙ぐんでいるではないか。
「どうかしたのかい?」
「ああ、国のことを思ってるうちに、すっかり夜になってしまった。」と
と思うと、左の手に何か持って、それを隠そうとする。
「何だい! それは。」私はいち早く見つけて、つき込むと、仕方なさそうに、出して見せる。尺八だ。
「君はそれを吹くのかい。」
「吹くと言うほどじゃないけれど、国にいる時分に少し習ったから······」
「じゃ、それを吹いて故郷を思っていたと言うわけだね。」少し茶かしてかかると、荻原はからだの奥から沁み出すような声をして、
「いや、私はたまらなくなるから吹くのです。しかし吹くとなおたまらなくなってしまう。
「そんなことをこの薄暗い室の中で思っているとなおひどくなるから、外に出て見よう。そして気でもまぎらし給え。」
と言うと、荻原はむっつりして、やはり沈んでいたが、私が促すのでいきおいのなさそうに立ち上ってそれから
曇って、雲が低く、空は真暗だ。町の中をときどき、砂を巻き上げて、風が吹いて通る。しかし、その位なことで賑やかな神楽坂の通りは、
両側の店の燈火はまだまだ、淋しいなどという心持ちは少しもない。
近所の寄席では、楽隊が上調子な
「おい!」
と声を掛けたが、荻原は返事もしないで、やはり突っ立っている。
それを見ると、私はひどく感に打たれた。丈の高い、茫とした、この賑やかな、はしゃいだ調子とは、まるで心臓の鼓動が調和しない男が、悲しそうな顔、むしゃくしゃした顔をして傍観している。
傍観者! 不調和!||この言葉だけでも悲しむべき運命の暗示がある。
三
その年の十二月半ばころ、私はやっと道が開けてA新聞の記者に採用された。それでいろいろな便宜上、もう一つは、もうドライな下宿生活には、心底、おぞげをふるって、いやになったので、麹町の方に小さな一軒を借りることにして、引き移った。
すると、荻原は始終私の家へ入り浸りに来ていた。ところが或る晩、新聞社から帰って見ると、相変らず、留守の婆やをつかまえて、話し込んでいるから、
「今日も相変らずだね。」
と言うと、
「や、急がしいのですか。」
と言って臆病らしい目付きをする。
「いそがしいさ、君も働かなくっちゃいけないよ。」私は何気なく言ったのだが、荻原は何かひどく、気に触わったと見えて、急に帰ってしまった。
それからぱったり来なくなった。こっちも仕事に
「君か。」私は驚かされたので、中腹で鋭く言うと、荻原は肩で息をしていて、ろくに口も聞けないようすだ。
「まあ、入りたまえ。」
と明るいところにつれてくると、顔色がひどく青ざめて、目が神経的に鋭くなっている。息づかいがせわしい。
「どうした?」私は二度目に驚いてこう言った。
荻原は黙っていたが、しだいにうなだれてしまう。と思うと、急にうしろを向いて、そこの唐紙が少し開いているのを、あわてて閉めに立った。······素振りがただならぬので、私は、
「どうしたのだ?······そんな真似をして。」
と、しかるように言うと、荻原はほっと吐息をして、
「今、妙なことに出っくわしてね。」
と言うかと思うと、にわかに眼を据えて、恐ろしそうに身慄いをする。
「うむ。」私はその気合いにのまれて声をひそめると、
「幻覚ってものは君、二人一緒でも見られるものかね。」
「分らないな。君が見たって言うのかい。」
荻原は、私の言葉を聞いているかいないか、うなされるように、口の中でくどくどと、
「人の怨み、そんなことはないだろうが、やっぱり何かな······」とつぶやいていたが、にわかに声を
「幻覚です。私は今夜幻覚を見たのです。」
と言って、淋しそうな、神経的な、笑い方をするから、
「どこで?」
と聞くと、
「どこって、何んでもないんですがね。」といやに知らん顔をする。
その素振りがいかにも白々しいので、私はむっとした。すると、荻原は急に「実はこうなんですがね。」と、苦しそうな顔をしながら、弱々しく話し出す。
「今夜少し話があって、知り合いの女の人と、小石川のP神社のところに行ったのです。あすこは君、古い木が繁って真暗でしょう。」彼はふっと語を切ると、ほっと吐息をついて、
「
「そこで見たのかい?」
「ええ。」とうなずいて、
「すぐ頭の上の枝のところで、ぱっと光り物がしたと思うと、二人とも一緒に、同じ人の顔を見たのです。」
言ってしまってがっかりした顔をする。
「それで今夜はここに泊めて下さい。」
と哀願するように言う。
「それは泊めるとも!···泊めるからね、まあ心持ちを落ち付けたまえ。」と慰めると、彼は心の疲れた顔をして、
「小石川からここまでくるうちに、今にも殺されるかと幾度思ったか。」
と独り言を言う。······上唇がふるえていて、しばらくはからだの筋肉が、悉く固くなってしまったように、節々に力こぶを入れていたが、それがここにたどり着いた安心と、
私もそれよりほかに何にも、追窮しなかった。
四
それからは、荻原の素振りが少し変って、妙にうたぐり深く、私の心をさぐろうとする。私が何か彼の秘密の鍵をにぎっていはしないかと言うような心持ちがするらしい。
ところが、江戸川の桜が満開になった頃だった。私ははからずも、荻原が恐れていた、彼のその秘密の鍵を握ってしまった。
小石川の荻原の下宿で夜を更かして、帰ってくるのを、荻原が送ると言うので、江戸川までくると、夜更けて、花の陰に店を出している、大道易者がいたのを、冷やかす気で、見て貰うと、易者は何と思ったのか、荻原の顔を見て、
「あなたには女難がある」と言った。すると荻原はぐっと胸をつかれたと見えて、殆んど
「ほんとですか、それはほんとですか。」
と哀願するように言う。私は驚いて、ぐいぐい引き立てて来たが、荻原はもう気がくたくたになっていて、泣き出しそうな声で、私をつかまえて、すっかり自分のことを話してしまった。
荻原は意外にも絶えず女に関係していた。少し前に見た、幻覚もそのため。······荻原は私を送ると言って私の家にくるまで、いくつも相手のちがっている、その恋の物語をした。そしてその晩は泊って行った。
そのうちに彼はふと、自分の室にいると、まざまざ知らぬ男の顔を見ると言って、それにひどくなやまされていたが、急に激しい心臓病にかかって、国に帰ってしまった。
国に帰ってからは、ただ煩悶々々と、当てのわからない、苦痛を訴えた手紙を繁々とよこしている。