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黄昏

水野葉舟




 佐々木君が馬車に乗ってしまうのを見送って、二階にあがって来た。けさ遠野から馬車に乗った人たちが、二組三組に分かれてほうぼうの室の炬燵こたつにあたっている。時計を見ると、もう三時少し過ぎた。

 一人ぼつりと二階の自分の室に入ってくると、出たままになっている炬燵の口から、また足を入れた。今日は寒い薄日のさした日だ。からだを少し横にして、天井を見ていたが、親しみがたく、落ちつかぬ。ぼやっとした感じがこのからだを取りかこんでいる。寒さが沁みわたる。もう三月の二十九日。東京ならば桜も咲こうという頃なのだ。

 ここは遠野町と、花巻町との中継ぎの村で宮守というところ。両方から出る馬車が、この村まで来て、客を乗せ換えて引き返して行くところである。

 私はちょうど一と月ばかり前、雪がもっと深い時分にここを通って遠野に行った。今日はその帰途かえりである。


 けさは九時に馬車が遠野を出た。同行つれの佐々木君は馬車に乗ると、かならずからだを悪くすると言うので、十二里に少し遠い花巻まで歩くこととした。その佐々木君も遠野の町はずれで別れて、五里半あると言う道を揺られながら、ここに着いて見ると、花巻からの馬車はまだ来ておらぬと言う。春といっても、短かい日はもう、どことなく傾いている。まだここから花巻までは七里、覚束ない、薄ら寒い心持ちが胸に映える。

 馬車がここに着いて、この中継なかつぎの宿屋の門に立っていると、佐々木君も峠を越してちょうどこの村にはいって来た。で、同じ家の二階に上って向い合って食事をすますと、佐々木君は遅くも九時頃までには花巻に着きたいと言って、つぎの村まで人車くるまに乗ることにした。で、今夜、約束の宿屋で落ち合うと言うことにして、別れて行った。

 私は室の中で一人当てなしに、ぼつりとして花巻からくる馬車を待っていた。

 家を出てから、もうまる一と月になる。旅にもんだ。見知らぬ人の顔ばかり見て、自分とはまったく関係のない人の中に身をおいて来た心安さと、寂しさとにももう飽きた。はじめて見た自然に対する好奇心[#「好奇心」は底本では「好寄心」]はなおさら早く消え去った。私は空虚からのような心でもってぼつりとしているようだ。今はなおさら、そう思われる。そして、一種の捕え難い哀しさが心に薄く雲がかかるようになっている。

 私は何にも思うのが嫌いだ。今日の前途の不安心ということもあるが、それよりも今自分の目にぱっと心が引くような色彩いろがない。なにかそれが欲しい。······と言っても、心には取りとまりがないほどの、かすかな欲望だ。

 と思う中にうとっとした。

「もしもし。」

 私は女の声に起こされた。目を開けると、

「今、馬車が出ますが。」と言って枕元にここの娘が坐っていた。

 私は飛び起きて立った。

「出る?」と言うと、心がやっと落ちついて脱いでおいた外套を手早く取って着た。そして、始終持っている手さげを持つと、

「勘定!」と言って、気が少しき立って来た。

 家の外に出ると、馬車はもう馬をつないで、出るばかりになっていた。


 私の乗るのを待って馬車は動き出した。乗って見ると、車の中には鱒沢で乗った、ぼうずの二人連れが乗っていた。私は垂幕を上げた。まだところどころ雪が解け残っている。

 馬車の中では、花巻からの馬車があまり遅いので、その馬車に逢う所まで行こうと言うので、遠野の馬車を出したのだ。その上、今日は客が非常に多いから、電話でさらに一台呼びよせた、と話している。外は雪で押されていた草が黄色く湿って、それに薄日が当っている。永く水ずいた跡のような土は、なかば乾いてにぶい濁った色を見せている。眠り入った後の、だるそうな周囲まわりのうちに、馬車がただ踊って、音をたてて行く。

 私は、不安心なせわしい心持ちでもって、この景色を見ていた。けさから馬車に揺られて来た疲労つかれが現に浮んで来て、張り合いのない、眠いような心持ちになる。目は無意味に下の道の土の上を見詰めていた。

 道は宮守の村をはなれてから、一里も来た。片側はゆるい山の裾、片側は山を隔ててまるい低い雑木の立った山が見える。そこへくると、道の向うから、ラッパの鳴る音が聞こえた。馭者台の上で、

「来た!」と言った。やがて両方から近づくとこちらから、

「遅かったな。」と声をかけた。花巻の方の馭者は遠野に行く時に乗った覚えのある男だ。

「あア······」と、かなたの馭者は渋い顔をしてそれを受けた。

「一台か?」あとの馬車からは不平らしい声をかけた。

「あとはすぐくる。」とそっけなく言って、その馭者は馬車を止めた。こっちでも、

「では、さきの方から乗り換えるのか?」と言って馬車を止めた。私達は入口の方の人から順々に降りて花巻の方の馬車に乗った。馭者は荷物を交換して、積み込み、馬の方向むきを変えた。私達はこれでやっと安心したと思いながら、あたりを見ていると、あとの方から、

「何だと!」と言う声がした。

「何でもない。五銭が当り前じゃ。」と、ふとった男の声がする。車の中では耳をそばたてた。

「五銭? 一人前七銭宛くれていい、お前達がこねぇから、客が困るっていうんだ。それでわざわざ車を出して来たんじゃないか。」と、のどをからすような声で一人が言う。

「馬鹿こけ。五銭でいやなら一文もやらぬ。」

「何だと?」

「何だと。」

「一体、お前達は······」と、一方がここまで出て来たことを繰り返してののしり立てた。それに向って、花巻から来た馭者はどうしてもその二銭を出さぬと言って罵る。


 ガタリ······と車の中ではあとの方で二人の喧嘩するのに耳を立てて聞いていると、不意に馬車が動き出した。中の者はそれに驚いて見ると、馬は退屈そうに、ごとりごとり歩き出した。うしろに大きい車を引きずっているのもかまわぬと言ったふうで、首を長く伸して道ばたの草を喰いはじめた。それでからだを移すたびに、車はかたりと動く。

 二人の喧嘩はまだ止まぬ。また馬車が動いた拍子に、輪が道のこわれかかったところにはいって車が傾いた。

「ワッ!」と中から叫んで立ち上ろうとしたものがある。

 と同時に、一人が笑い出した。

「危い、危い、一体客をどうするんだ。」と一人が言った。

「困るな。自分達の喧嘩はあとにしろ!」と言って一人が笑った。

 私は黙っていたが、この時に、

「これではうかうかすると今夜花巻に着けるかどうか分らないでしょう? どうです。皆でその二銭だけ奮発してすぐ出して貰っては······」と言って、車の中を見廻わした。すると、誰れも口をつぐんでしまって知らぬ顔をする。私はカッとなった。で、自分一人でその金を払おうかと思ったが、この田舎漢いなかもの卑吝けちな奴達のお先に使われるような気がして止した。


 で、そのまま傍を向いて、窓からそとを見た。すると、今乗って来た馬車の馬が、長い綱の先きが杭に縛りつけてあった杭のまま、それを引きずりながら悠々と東の方に歩いて行く。

 まわりはしんとして、薄曇うすぐもりのした空の下に、水の流れる音も聞こえない。馭者の喧嘩の声はまだ聞こえる。

 どこか、林の方で折ふし木を伐る音がする。冴えた、トン、トンという音が、広いところに響きわたって行く。寂寞とした灰色と黄昏のような色がみなぎっている。車の中ではまた不平を言い出した。実際このいつ出るとも知れぬ馬車を待っている心細さと言ったらない。

 二人の声が低くなった。と思うと、馭者が真赤な顔をして、ブツブツと言いながら来た。

「日が暮れるぞ!」と待ち構えていた一人は言った。馭者は黙って返事もせず、くつわをとると邪慳じゃけんに馬の首を引っ張って位置をなおした。


 ところへ、あとの方から前の一人が駆けて来て、綱を引ずった馬に追い付くと、

「コーレ、シッ」と大きな声で言って叱るのが聞こえた。そして馬を引いて帰って来た。

 私達の方の馭者も台に上った。そしていきなり、馬の尻に思うさま鞭をあてた。

 これから西に向いて行くのだ。日の入る方に向いて······

 一町も行くと、第二の馬車に逢った。


 まもなく、猿ヶ石川の岸にかかった。

 と、後から、

「オーイ、オーイ」と呼ぶ声がする。私達の馭者はふと振り返ったが、急に馬車を止めた。

そして、

「チョッ! 業突張ごうつくばり!」と言いながら、車から下りた。あとにいた客は垂幕たれを上げると、

「馬がたおれた。」と言った。車の中では顔を見合わせた。一様に誰にも不安な感が頭を走った。

「どうするんだ。これでいつ花巻に着けるんだ。」と一人が呟いた。

 私は立って、その入口の人を越して外に出た。地に降りると、まずあたりを見た。山になったので、勾配のやや強い、上り坂の中程で、ずっと遠くの方にある山が相接して立っている。そのあいだは餘程深い谷であるらしい。山には薄い靄が、かかっている。


 馬は二十間ばかり隔てたところに、道の一箇所でひどくぬかるみがする、その泥の中に倒れていた。馬車は大分傾いてわずかに保っている。乗客は降りて道の一方に困って立っていた。

「さっき、ひどく揺れた、あすこだな。」と思いながら、私はそこに歩み寄った。

 馬は泥の中につまずいて倒れていた。瘠せた鼠のような小さい馬だった。

 馭者は二人で、手綱をとって引き起こそうとした。一人の方は息を切らして働いている。私達の乗った方のは、口きたなく罵りながら、それに手伝っていた。

 馬は鼻を開いて苦しそうな息をしながら、いくども泥を蹴って起きようとした。瘠せた骨の見える腹を力なく波打たせては、全身に力を入れるけれど、どうしても起きなおることができない。そして又ぐったりと泥の上に寝てしもう。

 馭者はその脊に靴をあてて、力を入れた。枯れた木を打つような音がする。私はそれを見ながら、このまま、この馬は死ぬだろうと思った。

 いよいよ馬が起きないので馬車の柄ははずされた。そして引き起こされた。

 半身泥まみれになった馬は、腹に波を打たせながら、その泥の中に立った。

「この馬に引かせるのか?」と立って見ていた客の一人が言った。

「仕方がねぇやね。」と、馭者は振り返った。

「この山の中で、どうなるもんで。」と言って馬を泥の中から引き出した。

「歩く! しまいまで歩く!」と言って丈の高い商人風の客は大きい信玄袋しんげんぶくろをさげた。

 私はそこに立っていた同じ車の人と一緒に、引き返して来た。そして馬車に乗った。

 やがて、私達の馬車がそろそろと動き出すと、そのあとから六人の······後の馬車の客がなにかひどく興奮したらしく、元気よく歩いて来た。商人は足駄をはいていた。そのほかには老婆もいた。

「重ね、重ね、今日は、運の悪い日だ。」と車の中で一人が言った。


 やがて川が見えた。瀬の音が低い下の方で聞こえる。

 と、ガラガラと音をさせていま倒れた馬車が駆けて追いついて来た。馭者が馬の口を取っている。今、倒れて死ぬのかと思った馬が、それに引かれて駆けて来た。

「や、乗れるのか?」と、私の車に沿って歩いていた商人は言って立ちどまった。

「さ、この馬は弱っとるのだから、半分ずつ乗って、三人は歩いてやっとくんなさい。」と馭者は言った。

「おれは歩く。」そのなかにいた一人の青年は言って、勇ましく歩き出した。

 で、後を見ると、いつの間にか、その馬車の客はまた大分乗ってしまった。その青年も馬車について駆けていたが、やはりあとから飛び乗っていた。

 半時間もたつと、馬車の中で、その出来事を忘れたように、世間話をはじめ、やがて居眠りをはじめた。


 猿ヶ石川に沿った道は長い。やがて、高い山の中腹からしだいに下って行くと、やがて道が真西に向いた。石を切り開いたところに出てかなたを見ると、今赤く日が落ちようとしている。空気が乾燥しているので、真赤に燃えているような日の光をしている。と、馭者はラッパを吹き立てて駆け出した。あとの馬車も、六人の人を乗せて駆けてきた。やがて小さな村にはいった。


 ここで馬を取り返えると言って、客は皆おろされた。ここは山のあいだから出て平地を望むようなところだ。広い平野が裾野を見るように一目の中に見える。それを見て立っているうちに、日はその平地の先きの方の山に沈んで行った。

 黄昏たそがれは迫って来た。私は今朝から長い道のあいだを思い返していると、遙かな遙かな山の中から出て来たようだ。そして一こくずつにくらくなって行くその平地を見ていると、心に来てなにかものを言うものがあるようだ。

「お前!」と言ってくれるものが······

 私はからだをまわして見た。客の人達は黒く一団になって、薄闇の中に立っている。二つ三つ煙草の火が赤く見える。


「どちらまでおいででした?」と私のところに歩き寄って来て例の僧が言った。

「遠野まで行きました。」と私は答えた。

「何か御用事でも。」

「いいえ、友人に会いに来ました。」

「へえ?」としばらく私の顔をじろじろ見ていたが、

「御職業は?」と無遠慮に聞いた。

「学生です。」と私はすげなく答えた。

 すると、その僧は鼻であしらうような素振りをして、くるっと傍を向いてしまった。私は一歩退いた。そして当てもなく野の方を見た。

 私は人間が嫌いになった。






底本:「遠野へ」葉舟会


   1987(昭和62)年4月25日発行

入力:林 幸雄

校正:今井忠夫

2004年2月19日作成

青空文庫作成ファイル:

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