夜が明けると共に
有野村へ迎えられて幸内が、その今までの経過をすっかり物語りさえすれば、万事は解釈されるのでした。神尾主膳の残忍さ加減と、その屋敷にいる
幸内は口が
幸内の看病には、ほとんど誰も寄せつけないでお銀様ひとりがそれに当っておりました。駒井家から
お銀様はこんなふうに、ただに駒井家に対して冷淡であるのみならず、その冷淡の底には深い恨みを
その上、そんなよけいな故障を言い立てた能登守自身はどうであろう、あのお君を可愛がって、うつつを抜かしているではないか。お君という女は言わば旅の
「ねえ、幸内や、早く
その晩、お銀様の居間へ
いつもの場合においては、お銀様が泣き声を出す時には、父の伊太夫の方で折れるのが例でありましたけれど、その晩はそうではありませんでした。
「お前のような不孝者はない、幸内をくれてやるから、それをつれてどこへでも行け、あとは三郎がおれば困ることはない」
父の伊太夫はこう言って
「ようございますとも、ようございますとも」
お銀様の泣き声は
「わたしは
お銀様は
「お銀、お前は何を言うのだ、自分の
「ええ、ええ、どう致しまして、わたしがお父様を言い負かそうなんぞと、そんなことがありますものですか、わたしはどこへでも行ってしまいますから」
「お銀」
伊太夫はいよいよ苦り切って、
「お前には、物が言えない、気を落着けてよくお聞きなさい、お前がそうして幸内の傍へ附ききりでいることが、世間へ聞えていいことだか悪いことだか、大抵わかりそうなものではないか。第一、家の者にまでわしがきまりが悪い。それから、あの神尾の縁談のことだといって、まだ話が切れたわけではなし、そんなことのさわりにもなるから、幸内を別宅の方へやって養生させたいと言うのは順当な話ではないか、無理のない話ではないか。それをお前が聞きわけないで、こうして幸内と一つ部屋のようなところへ寝泊りして、ほかの者には誰にも手出しをさせないというのは、あんまり我儘が過ぎるではないか。ね、よく考えてごらん」
ここに至って、やはり伊太夫は折れているのであります。
「幸内をわたしが看病しては悪いのでございますか、それでは誰に看病させたらよいでしょう、わたしでなければ本気になって幸内を見てやる者はないではございませんか、ほかの者はみんな幸内を
「そんなことがあるものか」
「いいえ、そうでございます、この家では本心から、わたしの力になってくれる者は幸内のほかにはありませんから、わたしが幸内を大切にしなければ、大切にする者はないのでございます」
「ばかな!」
「ええ、わたしは馬鹿でございます。お父様、わたしをこんなに馬鹿にしたのは誰でございましょう、
お銀様は
「お銀、お前はまたそれを言うのか」
伊太夫は情けない面をして、泣き伏したわが娘の姿を見ていました。
「お父様、もうこれから二度と申し上げるようなことはございますまいから、どうか今晩は申し上げるだけのことを申し上げさせて下さいまし。
「これ、何を言うのだ」
「お父様、それは
「あああ、困ったことだ、お前の
伊太夫はなんとも言えない悲しそうな歎息であるのに、お銀様は、父の歎息に同情することがあまりに少ないのであります。
「お父様のおっしゃる通り、わたしの僻み根性は骨まで沁み込んでしまいました、モウどうしても取ってしまうことはできないのでございます。わたしももとからこんな僻み根性の子ではありませんでした、婆やなんかが時々噂をしているのを聞きますと、わたしの子供の時は、それはそれは可愛い子であったと申します、可愛い子で、情け深くて、どんな人でもわたしを好かない者はなかったそうでございます。それが今はこんなになってしまいました、わたしの姿がこんなになってしまうと一緒に、わたしの心も片輪になってしまいました。お父様、わたしの姿は、もう昔のような可愛い子供にはなれないのでございますね、それでも、こんな姿をしていながらも、わたしがこうして生きていられるのは誰のおかげでございましょう、幸内のおかげでございます。わたしがこの
「な、なにを言うのだ、お銀、そ、そういうことがお前、お前として」
伊太夫も、さすがにせきこんで
「わたしの面はその時から、誰かのために殺されてしまいました。けれども幸内のために
伊太夫はついに全くその娘をもてあましてしまいました。ただに全くもてあましたのみならず、そのあまりに
「お前がそれほど幸内が大事なら、幸内をつれて勝手にどこへなりと行きなさい、父はもうお前のすることについては何も言わぬ、お前もこれから父の世話にならぬ覚悟でいなさい」
と言い捨てて、座を蹴立てるようにして立去りました。
お銀様は父の立去る後ろ影を、
「ええ、ようございますとも、出て参りますとも、幸内をつれてどこへでも、わたしは行ってしまいます、お父様のお世話にはなりませぬ、死んでも藤原の家の者のお世話にはなりませぬ」
お銀様は
「幸内や」
お銀様は、幸内の寝ている枕許へ
「いま聞いた通り、わたしはここの家にはいないから、お前、少しのあいだ待っていておくれ、わたしはお前をつれて行くところを探して来るから待っておいで、今夜のうちにもお前をつれて出て行ってしまいたいから、わたしはこれから心当りを聞きに出かけます、お父様にああ言われてみれば、わたしはもう一刻もこの家にはいられない、お前もいられまい、誰がなんと言っても、わたしはお前を連れて出て行ってしまいます」
お銀様は、やはり歯噛みをしながらこう言って幸内の
「いいかえ、わたしはこれから甲府へ行って、お前を引取るような家を探して直ぐにまた迎えに来るから、それまで一人で待っておいで。ナニ、お父様がかまってくれなくても、二年や三年お前と一緒に暮らして行くだけのお金は、わたしが持っているから心配することはない」
お銀様の手足が
「まあ、ずいぶんお前
お銀様は、畳の上へこぼした小判の包みが手に
外は昨晩のように深い
お銀様が父と言い争っている時分から、この家の縁先の
伊太夫が怒って足音荒く立退いてしまった時分に、そろそろと縁先へ忍び寄って戸の隙間から、お銀様の挙動を
お銀様が今、戸をあけて外へ出ようとした時に、この怪しい人影は、また前のところへ立退いて蹲まっていました。お銀様がどこともなく闇の中へ消えてしまった時分に、またその怪しの人影はそろそろ網代垣の下から身を延ばして、以前の通り縁先へ忍び寄り、それから雨戸へ手をかけました。お銀様のいま立てきったばかりの戸の裏には鍵をしてありません。それですから別段に音も立てずに一尺ばかり開くことができると、直ぐに中へ入ってしまいました。
なんの苦もなく障子を開いて座敷へ入った姿を見れば、
主膳はソロソロと
「ウーン」
とうなり出したのを、主膳はその頭の上から
それで静かになってしまうと、主膳はまた行燈の方へ向き直りましたが、幸内は蒲団を被せられてしまっているから、どうなったのかサッパリわかりません。ただ前よりは一層おとなしくなってしまったようであります。行燈の方へ向き直った主膳は、思わず小さな声で、
「あっ」
と言って自分の両の手先を見ました。その手先へ
「ああ鼻血か」
主膳は、仰向いて、その手を加減しながら自分の
神尾主膳は、そのあまりに仰山な鼻血の出様に、自分ながら怖くなったようでありました。鼻血を抑えながら、あたりを始末して以前の戸口からこの座敷を
お銀様がこの夜中に家を脱け出したのは、あまりと言えば無謀です。けれどもそれが無謀だか有謀だかわかるくらいならば、家を脱け出すようなことはしますまい。ともかくも、こうしてお銀様は無事に屋敷を脱け出し、有野村を離れて甲府をさして闇の中をヒタ歩きに歩きました。その途中、無事であったことは幸いです。
しかし、それを離れて後ろから
ようやく甲府の町へ入ろうとする時分に辻番がありました。荒川を渡って元の陣屋跡のところに、このごろ臨時に辻番が設けられました。
「これこれ、どこへ行かっしゃる」
辻番の中で六尺棒を持った屈強な足軽が、通りかかるお銀様を呼び留めました。
「はい」
と言ってお銀様はたちどまりました。
「待たっしゃい」
辻番は、お銀様の頭巾の上から足の爪先まで見据えていましたが、
「見れば
「有野村から参りました」
「有野村は何の
「はい······藤原の伊太夫の家から······召使の君と申しまする」
「有野村の藤原家の召使? それが一人でこの夜分」
「主人の
「はて、そうしてどこへ行かっしゃるのじゃ」
「それは······御城内の神尾主膳様のお屋敷まで」
お銀様は、ここで二つのこしらえごとを言ってしまいました。自分がお君の名を
「神尾主膳殿へ?」
と言って辻番は、ややけねんを持つように、お銀様を見廻していたが、
「よろしい、通らっしゃい。しかし、このごろは市中が物騒でござることをそなたはまだ知らぬと見えるな。物騒というのはほかではない、よく人が斬られる、辻斬が
「有難うございます」
辻番に通らっしゃいと言われたから、お銀様はそこを通り過ぎてしまうと、飯田新町の通りであります。
いま、辻番から言われたこともお銀様は、もう忘れてしまいました。甲府のこのごろの物騒なことも有野村あたりまで聞えていないのではなかったけれど、お銀様の耳へはそれがまだ入っていませんでした。さて、甲府の町へ入るには入ったけれど、どこへ行こうという
役割の市五郎を訪ねることに心をきめたお銀様が、案内を知った甲府の町の道筋をお城の方へと歩いて行くと、子供の泣き声が聞えました。
その子供の泣き声がいかにも物悲しそうに聞えて来ました。弱い
お銀様は、どこからともなくその物悲しい子供の泣き声を聞いた時にはじめて、もう夜も大分ふけていることに気がつきました。気がついて立ったところのすぐ眼の前に、こんもりと
甲斐の国、甲府の土地は、
「どうしたものじゃ、この水をどこへか落して、人間たちを住まわしてやりたいものではないか」
と御相談になると、そのうちの一人の神様が、
「それは結構なお思いつきでござる、なんとかひとつ拙者が工夫してみましょう」
と言って、
「エイ」
と言って蹴飛ばすと、その山の端の一角が蹴破られてしまいました。それを見るより、もう一人の神様が立ち上って、
「よしよし、あとは拙者が引受けてなんとかしよう」
と言って、いま蹴破られた山の端へ穴をあけて、そこへ一条の水路を開いたから、見ているうちに漫々たる大湖水の水が富士川へ流れて落ちました。
それを遠くの方で見ていた不動様が、
「
と言って、川の瀬をよく
この二仏二神のおかげで、甲府の土地が出来たのだというのが古来の伝説であります。最初に言い出した地蔵様は甲府の東光寺にある
なんだか知らないけれども、その泣き声が自分のあとを慕うて来るもののようでありました。自分を慕うて幼な子があとを追っかけて来るもののように、お銀様には思われてなりません。
お銀様はその子供の泣き声が気になって仕方がありません。
穴切明神を後ろにして武家屋敷の方へ向って行きますと、そこで絶え入るような子供の泣き声が足許から聞えるのでありました。
「おや、
お銀様は、まさに近い所の路傍の闇に子供が一人、
「かわいそうに棄児······」
お銀様はその子供の傍へ駈け寄りました。棄児としてもこれはあまり慈悲のない棄児でありました。籠へ入れてあるでもなければ、
「おお、こんなことをしておけば
お銀様は直ぐにその子を抱き上げました。
「お乳が無くて悪かったね、いい坊やだから泣いてはいけません」
ようやくかたことを言えるくらいの男の子。お銀様はその子を固く抱いて頬ずりをしました。
その時に、お銀様の鼻に触れたのは
「人が倒れている」
お銀様はまさしくそこに倒れている人を見ました。その人が尋常に倒れているものでないことを直ぐに感づきました。怪我で倒れたのでもなし、病気で倒れたのでもないことに気がつきました。
「ああ、どうしよう、人が斬られている、殺されている!」
天地が
けれども胸に抱いた子は、いよいよ固く抱いておりました。
幼な子を抱いて闇の中に立っていたお銀様の肩を、後ろから軽く叩いたものがあります。
「もし」
お銀様は
「どなた」
お銀様の歯の根が合いませんでした。そこに
「驚き召さるな、拙者は通りかかりの者······してそなたは?」
存外、
「わたくしも通りかかりの······」
お銀様は
「この場の有様は、こりゃ·········」
武士もまた、さすがにこの場の
「そこに誰か斬られているのでござりまする、そうしてこの子供がここに投げ出されておりました」
「また
「どう致しましょう」
この時、武士はさのみ
「もしや、そなたは有野村の藤原家の御息女ではござらぬか」
と聞かれてお銀様は狼狽しました。
「左様におっしゃる、あなた様は?」
「拙者は神尾主膳でござる」
「神尾主膳様?」
「伊太夫殿の御息女に違いないか」
「はい」
お銀様は神尾主膳の名を聞いて一時に恥かしくなりました。主膳はお銀様の父の
「お銀どの······どうしてまたこの夜更けに、こんなところにお一人で······いや、それを承っていることも面倒じゃ、これはこのごろ
「はい、わたくしは」
「ともかくも、拙者が屋敷まで見えられるように」
「有難う存じまする」
「見廻りの者が来ないうちに」
「それでもこの子が······」
「さあ、その子は······」
二人がその子の始末に当惑している時に、火の番の拍子木が聞えました。
破牢のあったというその当夜から、ひとり胸を痛めているのはお松であります。
その破牢者のうちに宇津木兵馬があったということは、今や隠れもなき事実であります。けれどもその
してみれば、兵馬さんはこの甲府の市中のいずれかに隠れている。どこに隠れているだろう。果して隠れ
「お松ちゃん、お松ちゃん」
窓の戸をトントンと叩いて、わが名を忍びやかに呼ぶ者のあるのは覚えのある声で、お松にとっては必ずしも寝耳に水ではありません。
「はい」
窓の戸を開きますと、そこから首を出したのは七兵衛でありました。
「おじ様」
「お松、ちょっと耳を貸してくれ」
七兵衛の来るのは、いつもあわただしいものであります。いつなんどき来て、いつなんどき帰るのだかわかりませんでした。こうして夜中に合図をして不意に
「兵馬さんはいるよ。うむ、うむ、この甲府の中に、それはな、思いがけないところへ逃げ込んでいるから、まあ今のところ無事だ。今のところは無事だけれども、その大将がこれからどうするつもりかそれは知れない、いったん隠して置いて養生をさせて、それから改めて突き出すつもりなんだか、それとも隠し
七兵衛がお松の耳に口を当ててささやくと、
「まあ、兵馬さんがこの甲府の町の中にいらっしゃる? それはどこでございます、おじさん」
「それはちっと思いがけねえところなんだ。俺はな、そこから兵馬さんを盗み出して、無事なところへお逃がし申したいと思ってるんだが、そこの家には犬がいて······意気地のねえような話だが、犬がいるために俺はその邸へ近寄れねえのだ」
「おじさん、それはどこなんでございますよ、おじさんが行けなければ、わたしがなんとか工夫してみますから」
「それはお前、二の
「あの御支配の殿様の?」
「そうだ、たしかに兵馬さんは、あのお邸に隠れている、そりゃ役人たちにもまだ目が届かねえ、外からそれを見届けたのは俺ひとりだ」
「まあ、あの御支配の駒井能登守様のお邸に兵馬さんが······」
お松は
暗いところから入って来たのは意外にも、主人の神尾主膳でありました。
「お松、まだ寝ないのか」
「はい、まだ」
お松は窓の戸を締めきらないうちに、主人から言葉をかけられてドギマギして、
「今、誰か来ていたようだが」
お松はハッとしました。
「いいえ、誰も」
この返事も大へん
駒井能登守の名はお松もよく知っています。名を知っているのみならず、郡内の道中で、親しくお近づきになっています。けれどもその人は甲州勤番の支配である。破牢の兵馬を
ただ一つ
そのうちに、忘れていたのは、さきほど七兵衛が窓から投げ込んで行った品物であります。油紙に包んで
お松はそれを提げてみて、思わず微笑しないわけにはゆきませんでした。その竹筒の一端に「十八文」という
それでお松はすっかり合点がゆきました。「十八文」が一切を了解させてくれたのみならず、いろいろに胸を痛めたり心を苦しめたりしていたお松を、腹を抱えさせるほどに笑わせました。
あの先生はおかしい先生であると思って、お松は思出し笑いをしながらも、その親切を嬉しく思いました。これは兵馬さんのための薬である。兵馬さんが病気であるために、おじさんが道庵先生に調合してもらって、ワザワザ持参したものと思って見れば、有難くて、その竹筒を
してみれば、これを兵馬さんの
「もろこし我朝に、もろもろの医者達の出し申さるる薬礼の礼にもあらず······ただ病気全快の節は十八文と申して、滞りなく支払するぞと思ひきりて掛るほかには別の仔細候はず。」
こんなことがお松が寝ついた時分からサラサラと雪が降りはじめました。
翌朝になって見ると、峡中の二十五万石が雪で埋もれてしまいました。過ぐる夜の
白いものの極は
この朝、駒井能登守の門内からこの雪を
人数は僅か四人||そのうち三人は笠を被って
能登守を真中にして二人が左右を挟んで行けば、誰が見てもその用人であり家来衆であることの異議はないのであります。ただこの大雪に能登守の身分として馬駕籠の助けを
そのお伴は鉄砲を
その伴は宇治山田の米友でありました。前に立った三人ともに合羽を着ていましたけれど、米友だけは
さて、勢いよく門の外へ飛び出した三人は、
「米友」
能登守が振返って呼ぶと、
「何だ」
米友は
「冷たくはないか」
能登守も南条も五十嵐も、歩みながら振返って、米友の素足を見ました。
「はッはッはッ」
米友は
前に言う通り天地はみんな雪であります。往来の人の
その同じ朝、神尾主膳は朝寝をしておりました。この人の朝寝は今に始まったことではないけれども、この朝は特別によく寝ていました。それは昨夜の
「よし、早速ここへ通せ」
起き上らないうちからこう言ったところを見ても、いよいよ大事の注進を
まもなく、主膳の寝間へ通されたものは役割の市五郎でした。
「神尾の殿様、逃げました、逃げました、いよいよ逃げ出しましたよ」
「どっちへ逃げた」
「代官町から荒川の筋、たしかに身延街道でございましょう。野郎共を三人ばかり、後を追っかけさせておきましたから、
「よし、
「委細、承知致しました、それでは御免」
市五郎はそこそこに辞して出かけました。それから後の神尾主膳の挙動は気忙しいもので、
「おお、おのおの方、大儀大儀、市五郎からお聞きでもござろう、近ごろ珍らしい鷹狩、
「神尾殿の仰せの通り、近頃の雪見、それゆえ取る物も取り敢えず馳せつけて参った」
「さあ、同勢揃うたら、一刻も早く」
「かけ鳥の落ちて行く先は身延街道」
なるほど鷹狩には違いなかろうが、鷹狩にしては、あんまり
神尾主膳だけは残って、彼等の出て行く後ろ影を見送っていましたが、
「酒だ、前祝いの雪見酒」
神尾主膳はそれから酒を飲みはじめたが、雪見の酒よりか、何か心祝いの酒のように見えました。飲んでいるうちに、ようやくいい心持になって、
「おい、雪見だ、雪見だ、せっかくの雪をこんなところで飲んでいては面白くない、これから
と命令し、
「さあ、これから躑躅ヶ崎へ出かける。歩いて行くとも。いざさらば雪見に転ぶところまでも古いが、この雪見に歩かないで何とする。
主膳は立ち上って、
「刀······」
と言って、よろよろとした足許を踏み締めると、女中が常の
「これではない、あちらのを出せ」
床の間の
「うむ、それだ」
梨子地の鞘の長い刀を大事に取下ろして主人へ捧げると、主膳はそれを受取って、
「これが
言わでものことを女中に向ってまで口走るのは、酒がようやく廻ったからであります。
伯耆の安綱||してみればこの刀はこれ、有野村の藤原家の伝来の宝、それを幸内の手から捲き上げて、今はこうして
神尾主膳は酒の勢いで、この雪の中を
そこへ
この躑躅ヶ崎の古屋敷というのは、武田の時分には甲坂弾正と穴山梅雪との屋敷址であったということです。昔は鶴ヶ崎と言い、今は躑躅ヶ崎という山の尾根が左手の方にズッと突き出ています。それと向って家は東南に向いていました。この家はなかなか大きなもので、ずっと前に勤番の支配であった旗本がこしらえて、その後は長く空家同様になっていたのを神尾主膳が、何かの縁で
いま、主膳が坐っている二階の一間は、雪見には
「あの男はよく寝ている、あまりよく寝ている故、起すのも気の毒じゃ、眼が
主膳はこう言って、三ツ組の朱塗の盃をこわして、一人で飲み始めました。一人で飲みながらの雪見です。雪見といっても、眼の下の広い庭の中に池があって、その池の傍に巨大なる松の木が枝を拡げています。この松を「馬場の松」と人が呼んでいましたのは、おそらく同じ武田の時代に馬場美濃守の屋敷がその辺にあったから、それで誰言うとなく馬場の松という名がついたのでありましょう。この馬場の松に積る雪だけでも、一人で見るには惜しいほどの面白いものがあります。しかし、主膳はそれほどに風流人ではありません。馬場の松の雪を見んがために、ワザワザここへ飲み直しに来たものとも思われません。
主膳が一人でグイグイ飲んでいると、時々下男が
「あの男は、まだ眼が覚めないか、起しに行ってやろうかな、しかし
主膳があの男というのは、ここの屋敷に
主膳はこんな
「うむ、うむ、この刀、この刀」
と言って主膳は、やや遠く離して置いてあった例の梨子地の鞘の長い刀の
「この刀を
その途端になんと思ったのか、神尾主膳の眼中が
「お銀、お銀、お銀どの」
声高く、そうして物狂わしく呼びつづけました。
神尾主膳が続けざまにお銀様の名を呼んだ時は、もう酒乱の境まで行っていました。その時は思慮も計画も消滅して、これから燃え出そうとするのは、猛烈なる残忍性のみであります。
「お銀どの、お銀どの」
二階の梯子段の上まで行って下を見ながら、またお銀様の名を呼びました。けれどもお銀様の返事はありません。
「お銀どの、お銀どの」
例の刀を持ちながら広い梯子段を、
「はい」
この時、はじめて廊下をばたばたと駈けるようにして来たのはお銀様であります。どこにいたのか、お銀様は神尾の呼んだ声をいま聞きつけて、廊下を急ぎ足で駈けて来ましたけれど、
「ああ、お銀どの、今、そなたを呼びに行こうとしていたところじゃ。さあ、これへお上りなされ、誰もおらぬ、遠慮なくお上りなされ。お上りなされと申すに」
その言いぶりが穏かでないことよりも、その酔っていることがお銀様を驚かせましたけれども、神尾はお銀様の驚いたことも、またお銀様をこんなことで驚かせては不利益だということも、一向見境いがないほどになっていました。
「ちと、そなたに見せたいものがある、そなたでなければ見ても詰らぬもの、見せても詰らぬものじゃ。さあ、遠慮することはない、こちらへおいであれ」
主膳は手を伸ばしてお銀様の手をとろうとしました。お銀様はさすがに遠慮するのを、神尾は無理に右の手で、お銀様の手を取りました。左の手には例の梨子地の鞘の長い刀を持っていました。
「そんなにしていただいては、恐れ多いことでございます」
お銀様が遠慮をするのを、主膳は
引き上げられて行くうちに、
お銀様はこの時まで、まだ神尾について何事も知りません。知っていることは、その
前の晩には思わぬところでその人に逢って、この屋敷へ送られて来ました。主膳があの際に何の必要であの辺を通り合せたかということに疑念がないではなかったけれど、自分を
その人が、今ここへ来て見ると、酔っていて||しかもその酔いぶりは爛酔であります。爛酔を通り越して狂酔の
お銀様は、ついに二階の一間まで、主膳のために手を引かれて来てしまいました。
そこは主膳が今まで飲んでいたところらしく、
「お銀どの、なんと見事な雪ではないか、この松の雪を御覧候え、これは馬場の松といって自慢の松の樹じゃ」
主膳も座に着きました。しょうことなしにお銀様はその向うにモジモジとして坐っています。
「結構な松の樹でござりまする」
お銀様は
松を見ているお銀様の横顔を、神尾主膳は例の
「お銀どの」
「はい」
「いい松であろう、木ぶりと申し枝ぶりと申し、あのくらいの松はほかにはたんとあるまい、あれは馬場の松······武田の名将馬場美濃守が植えたと申す馬場の松」
「ほんとに見事な松でございます」
「そなたの家は甲州で並ぶもののない
「わたくしどもの庭にも、このような見事な松はござりませぬ」
「左様であろう、この神尾は貧乏だけれど、そなたの家にも無い物を持っている」
と言って、神尾は二三度
「まだまだ、神尾の家には、そなたの家には無くて、神尾の家だけにある宝が一つある、それを見せて進ぜようか」
と言いながら主膳は、またしても例の梨子地の鞘の刀を引寄せて、
「この刀なんぞもその一つじゃ、よく見て置かっしゃれ、鞘はこの通り梨子地······
主膳はその刀を取って鞘のまま、お銀様の眼の前に突きつけました。
「結構なお
お銀様は、怖れとそれから迷惑とで、刀はよくも見ないで挨拶だけをしました。
「いや、これしきの物、そなたの眼から結構と言われては恥かしい。そなたの家の倉や土蔵には、このくらいの刀や
主膳は自慢で見せたものを嘲りはじめました。お銀様は自分の賞め方が気に触ったのかと思いました。
「いいえ、どう致しまして、このような結構なお差料が私共の家なんぞに······」
「無いであろう。そりゃ無いはずじゃ、このくらい結構な差料は、そなたの家はおろか、甲州一国を尋ねても······いやいや、日本六十余州を尋ねても、二本三本とは手に入るまい。それを神尾が持っている、それ故そなたに見せて進ぜたいと申すのじゃ」
「わたくしどもなぞには、拝見してもわかりませぬ」
「見るのはおいやか、せっかく拙者が親切に、秘蔵の名物を見せてあげようとするのに、そなたはそれを見るのがおいやか」
「そういうわけではござりませぬ」
「しからば見て置かっしゃい、ようく見て置かっしゃい」
主膳はお銀様の目の前でその刀をスラリと抜き放ちました。
「あれ!」
お銀様が驚いて飛び上ろうとするのを、主膳は
「さあ、刀の自慢というのは拵えの自慢ではない、拵えは悪くとも中身がよければ、それが
神尾主膳はお銀様に刀を見せるのではなく、お銀様を
「わたくしどもなどに、どう致しまして、お刀の拝見などが······」
「左様ではござらぬ、篤と御覧下されい」
「どうぞ御免あそばしまして」
「刀が怖いのでござるか」
「どうぞお引き下さいませ」
お銀様は鷹に押えられた雀のように、ワナワナと
「まことに刀の見様を御存じないのか」
「一向に存じませぬ」
「しからば、刀の見様を拙者が御伝授申し上げようか」
「後程にお伺い致しまする」
「後程?······それでは拙者が困る、御遠慮なくこの場で御覧下されい。よろしいか、長さは二尺四寸、ちと長過ぎる故、
「どうぞ御免あそばしませ、わたくしどもにはわかりませぬ」
「見事な
「わたくしは、もう怖くてなりませぬ」
「斬ると言ったら怖くもあろうけれど、見る分には怖いことはござらぬ」
「それに致しましても······」
「ただこうして
「もう充分、拝見致しました」
「まだまだ。潤いがあって、どことなしに強いところがあって、その上に一段と高尚で、それからこの古雅な
「どうぞ御免あそばしませ」
「お銀どの、そなたはこの刀にお見覚えはござらぬか」
「ええ」
「この刀······」
「ええ、このお刀に、わたくしが、どう致しまして」
「それ故に
「それに致しましても、どうしてわたくしが、このお刀を存じておりましょう」
「もしそなたが知らぬならば、そなたの家の幸内という者が知っている、その刀がこれなのじゃ」
「ええ?」
「これは
「ええ! これが伯耆の安綱?」
「打ち返してよく御覧なされい」
ここに至ってお銀様は、
右の手では、やはりお銀様の前へ伯耆の安綱の刀を突き出して、左の手では朱塗の大盃を取り上げました。刀を見ているお銀様と、盃の中に
「この刀は、これは、わたくしの家に伝わる伯耆の安綱の刀?」
お銀様はこう言った時に、
「その通り」
神尾主膳は舌打ちをして、大盃の中の酒をグッと傾けます。
「どうしてこれがあなた様のお手に······」
「ははは、これを拙者の手に入れるまでには大抵な骨折りではない、今も言う通り、幸内の手からわが物になった」
「幸内が······」
「幸内から譲り受けた」
「それは何かの間違いでございましょう」
「さあ、それが何の間違いでもないのじゃ。お銀どの、そなたは何も知らぬ、それ故、よく言ってお聞かせ申す。そもそもこの伯耆の安綱という刀は、有野村の藤原家に伝わる名刀じゃ、いつぞや拙者の宅で
「それは間違いでございます、幸内には、わたくしが父に
「それもその通り、尋常では幸内が拙者に譲る気づかいもなし、拙者もまた、
「エ、エ!」
「ははは、驚いたか」
神尾主膳はふたたび大盃の酒を傾けて
お銀様はこの時、下唇をうんと喰い締めました。そうして見る見るうちにその面が土色になって、
「幸内が、どうして幸内が、この刀をあなた様に差上げました」
「早く言えば奪い取ったのじゃ」
「エ、エ!」
「幸内に酒を飲ましたのじゃ、その酒は毒の酒じゃ、それを飲ますと酔いつぶれた上に声が
主膳は三たび大盃を上げて、
「あ、あ」
とお銀様は面を
「うむ、それからまた、幸内めを種に使って一狂言を組もうと思うて、縄でからげてこの屋敷へ隠して置いたが、手ぬかりでツイ逃げられた」
「あああ、知らなかった、知らなかった。そんならこの刀を奪い取るために、幸内に毒を飲ませてあんなにしたのは、神尾様、お前様の
「それそれ」
「鬼か、
「まあ、お聞きやれ、そればかりではないわい」
「幸内の
お銀様は神尾主膳に
酔ってこそいたれ、神尾主膳もまた刀を差す身でありました。お銀様が武者振りついたとて、それでどうにもなるものではありません。
お銀様を片手で膝の下へ組敷いた神尾主膳は、落着いたもので、
「
「エ、エ、エ!」
「はははは、その帰りにも、そなたに
「それでは、あの晩に、あれからああして」
「はははは」
主膳の酒乱が頂点にのぼった時でありました。よしこれほど
お銀様の口から、唇を噛み切った血がにじむのに
「さあ、これから幸内が身代りに、お銀どの、そなたが狂言の玉じゃ、幸内に飲ませたと同じ酒をそなたにいま飲ませてやるのじゃ、幸内が飲んだように、そなたもその酒を飲むのじゃ」
「助けて下さい||誰か、来て下さいまし!」
お銀様は、ついに大声で救いを求めました。
「それそれ、それだから酒を飲ませるのじゃ、その酒を飲むと、痛くても
神尾主膳は、刀を傍へさしおいて、片手ではお銀様の口を押え、片手では、三ツ組の朱塗の盃のいちばん小さいのへ酒を注いで、その上へ小瓶の中から何物かを落して、無理にお銀様の口を割って飲ませようとします。お銀様は、
「アッ、いや||誰か、誰か、来て||苦しッ」
「あ痛ッ」
神尾主膳が痛ッと言って、お銀様に飲ませようとした小盃を畳の上へ取落して、飛び上るように手の甲を抑えたのは、今、必死になったお銀様のために、そこをしたたかに食い破られたのであります。
「わたしは死ねない、まだここでは死ねない、幸内、幸内、誰か、誰か、誰か来て······」
お銀様は飛び起きて梯子段を転げ落ちました。
「おのれ、逃がしては」
神尾主膳は、さしおいた伯耆の安綱の刀を持って
梯子を転げ落ちたお銀様は、転げ落ちたのも知らず、直ぐに起き返ったことも知らず、どこをどう逃げてよいかも知らず、ただ白刃を提げて追いかける悪魔に追い迫られて、廊下を曲って突当りの部屋の障子を押し開いて逃げ込みました。
お銀様が逃げ込んだその部屋には
その炬燵には横になって、人が一人、うたた寝をしておりました。それに気のついた時に神尾主膳はもう、白刃を提げてこの部屋の入口のところまで来ていました。
「ああ、あなたは善い人か悪い人か知らない、わたしを助けて下さい、わたしはここでは死ねません」
お銀様はその横にうたた寝をしていた人の首に、しっかとしがみつきました。
机竜之助はこの時眼が
「助けて下さい、神尾主膳は鬼でございます、わたしは殺されてもかまいませんけれど、神尾主膳の手にかかって殺されるのはいやでございます、あなた様は善いお方だか悪いお方だか知れないけれども、わたしを助けて下さい、助けられなければ、あなたのお手で殺して下さい、わたしは神尾主膳に殺されるよりは、知らない人に殺された方がよろしうございます」
この言葉も息も、共に炎を吐くような熱さでありました。
「神尾殿、
竜之助はここで起き直ろうとしました。しかしお銀様の腕は竜之助の身体から離れることはありません。竜之助はそれを振り放そうとした時に、お銀様の乱れた髪の軟らかい束が、竜之助の
「はははは」
神尾主膳は敷居の外に立って高らかに笑いました。その手には、やはり伯耆の安綱を提げていましたけれど、その足は廊下に立って、その面はこっちを向いたままで一歩も中へは入って来ませんでした。
「助けて下さい」
お銀様は、竜之助の蔭に隠れました。蔭に隠れたけれども、しっかりと竜之助に抱きついているのでありました。もしも神尾に斬られるならばこの人と一緒に······お銀様は、どうしても自分一人だけ神尾に斬られるのでは、死んでも死にきれないと、ただそれだけが一念でありましょう。
「どうするつもりじゃ」
それは竜之助の声でありました。例によって冷たい声でありました。どうするつもりじゃ、と言ったのは、それは刀を提げて立っている神尾主膳に尋ねたのか、それとも自分にかじりついているお銀様の挙動をたしなめたのか、どちらかわからない言いぶりでありました。聞き様によっては、どちらにも聞き取れる言いぶりでありました。
「ははははは」
酒乱の神尾主膳は、またも声高らかに笑って、
「
「悪い癖だ」
竜之助はそれより起き上ろうともしませんでした。神尾主膳もまた一歩もこの部屋の中へは足を入れないで、突っ立ったなりでニヤニヤと笑っていましたが、
「はははは」
高笑いして、足許もしどろもどろに廊下を引返して行くのであります。
その足音を聞いていた机竜之助が、
「あの男は、あれは酒乱じゃ」
と言いました。
「有難う存じまする、有難う存じまする、あなた様のおかげで危ないところを······」
お銀様は、ただ無意識にお礼を繰返すことのみを知っておりました。
「お前様は?」
「はい、わたくしは······」
と言ってお銀様は、竜之助の
それを見まいがために、この人は、わざと眼を塞いでいるのではないかと思われました。
お銀様は、あわてて自分の身を
お銀様も、さすがに若い女であります。この怖れと、怒りと、驚きとの中にあって、なお自分の姿と
それから、髪の毛を撫で上げました。着物の
それを見て見ぬふりをしているこの人は、神尾主膳とは違って奥床しいところのある人だと思わせられる心持になりました。
前へ廻って、しとやかに両手を突きました。
「どうぞ、わたくしをお逃がし下さいまし、お願いでございまする」
その声はしおらしいものでありました。起き直ったけれども、やはり炬燵にあたっていた机竜之助は、その声を聞いてもまだ眼を開くことをしません。
「どうぞ、このままわたくしをお逃がし下さいませ」
お銀様は折返して、机竜之助の前に助命の願いをしました。けれども竜之助は、やはり眼を開くことをしないし、また一言の返事をも与えないのでありました。それでもお銀様の言葉には、ようく耳を傾けているには違いありません。
「ああ、わたくしは一刻もこの家にこうしてはおられぬのでござりまする、神尾主膳は悪人でござりまする、こうしておれば、わたくしは幸内と同じように殺されてしまうのでござりまする、あなた様はどういうお方か存じませぬが、どうかこのままお逃がし下さいまし、一生のお願いでござりまする」
お銀様は竜之助に歎願のあまり、伏し拝むのでありました。けれども竜之助は、眼を開いてその可憐な姿を見ようともしなければ、口を開いて、逃げろとも助けるとも言いませんでした。ただお銀様の一語一語を聞いているうちに、その
「それでは、わたくしはこのまま御免を蒙りまする、いずれまた人を御挨拶に
お銀様は
「お待ちなさい」
と言いました。
「はい」
お銀様は立ち止まりました。
「これからどこへおいでなさろうというのです」
「はい、有野村まで」
「有野村へ?······外は
「雪が降りましょうとも雨が降りましょうとも、わたくしは帰らずにはおられませぬ」
「外は雪である上に、
「そんな物はどうでもよろしうござりまする、わたくしは逃げなければなりませぬ、帰らなければなりませぬ」
「駕籠も乗物もないのに、外へ出れば人通りもあるまい、道で
「たとえ凍えて死にましても、わたくしは······」
「そりゃ無分別」
「ああ、思慮も分別も、わたくしにはわかりませぬ、こうしておられませぬ、こうしてはおられませぬわいな」
「待てと申すに」
竜之助の声は、寒水が
その構えは、動かば斬らんという構えでありました。その
「ああ、ああ、あなた様も、やっぱり悪い人、神尾主膳の同類でござんしたか。ああ、わたくしはどうしたらようございましょう」
主膳に
この時、門外が
それは、乗物を持って神尾主膳を本邸から迎えに来たものでありました。酔い伏していた主膳は、その迎えを受けるや
机竜之助は、また
「幸内というのは、ありゃ、お前様の兄弟か」
「いいえ、雇人でござりまする」
竜之助は転寝をしながら静かに尋ねると、お銀様は忍び音に泣き伏しながら
「雇人······」
竜之助はこう言って、しばらく言葉を休んでいました。
「幸内がかわいそうでございます、幸内がかわいそうでございます」
お銀様は、また泣きました。
「いったい、神尾はあれをどうしようというのだ」
「神尾様は幸内を殺してしまいました、あの人が
「神尾のやりそうなことだ」
と言って竜之助は、
「あなた様は神尾様のお友達でございますか、御親類のお方でございますか、神尾様のような悪いお方ではございますまい、幸内を
「ははは、わしは神尾の友達でもないし、もとより
「エエ! それではあなた様もやっぱり神尾のために」
「よんどころなくこうしている」
「お宅はどちらでございます」
「ちと遠い」
「御遠方でございますか」
「武蔵の国」
「そんならば、あの、こちらの大菩薩峠を越ゆれば、そこが武蔵の国でございます」
「ああ、そうだ」
竜之助は荒っぽく返事をしました。お銀様は黙ってしまいました。
「なるほど、大菩薩峠を一つ越せば武州へ入るのじゃわい、道のりにしてはいくらもないけれど、おれには帰れぬ、帰ってくれと言う者もないけれど。ああ、子供が一人いる、親の無い子供が泣いている」
竜之助は
消えないのはお銀様の眼の前に、前の晩、穴切明神のあたりで泣いていた男の子、親は何者かのために斬られて
お銀様は机竜之助の傍に引きつけられていました。
日が暮れるまでそこで泣いていました。日が暮れるとその屋敷の小使が食事を運んで、いつもの通りその次の間まで持って来て置きました。
竜之助は夕飯を食べましたけれども、お銀様は食べませんでした。
夕飯を食べてしまった後の竜之助は、障子をあけてカラカラと格子戸を立てました。外の雨戸のほかに、この座敷には
なんのことはない、それは座敷牢と同じことです。
そこで竜之助は、また炬燵へ入ってしまいました。
お銀様は泣いておりました。こうして夜は次第に
夜中にお銀様は物におびやかされて、
「あれ、幸内が」
と言って飛び上りました。
やはり
「幸内が······」
お銀様は再び竜之助に、すがりつきました。お銀様は何か
机竜之助もまた何者をか見ました。何者かに襲われました。お銀様を抱えて隠そうとしました。
竜之助を襲い
前に幸内を入れて置いた長持の中から、茶碗ほどの大きさな綺麗な二ツの蝶が出ました。何も見えないはずの竜之助の眼に、その蝶だけはハッキリと見えました。
蝶は雌蝶と雄蝶との二つでありました。しかもその雄蝶は黒く雌蝶は青いのまで、竜之助の眼には
お銀様を片手に抱えた竜之助は、その蝶の
非常に恐ろしい
「ああ、幸内がかわいそう······」
とお銀様が
「ああ、幸内がここへ来た」
お銀様は、雌蝶とも雄蝶とも言わない。竜之助は幸内の姿を見ているのではありません。
この二つの蝶は夜もすがら、この座敷牢の中を狂って狂い廻りました。竜之助はこの蝶のために一夜を眠ることができませんでした。お銀様はこの蝶ならぬ幸内の
夜が明けた時にお銀様は、そう言いました。
「ああ、あなたはお眼が見えない、お眼が見えないから、わたしは嬉しい」
竜之助とお銀様との縁は悪縁であるか、善縁であるか、ただし悪魔の戯れであるかは、わかりません。
けれども、甲府のあたりの町の人にはこれが幸いでありました。その当座、机竜之助は辻斬に出ることをやめました。甲府の人は一時の物騒な夜中の警戒から解放されることになりました。
お銀様は、竜之助と共に暫らくこの座敷牢の中に暮らすことを満足しました。竜之助は、このお銀様によって甲府の土地を立退くの約束を与えられました。
神尾主膳が
出て行った時には都合四人であったのが、帰った時は二人きりです。その二人とは、当の能登守と、それから
「米友」
能登守が米友を顧みて呼ぶと、
「何だ」
米友は上眼使いに能登守の
「大儀であったな」
「ナーニ」
米友は眼を
出て行った時でさえ、家来の者も気がつかなかったくらいだから、帰った時には、なお気がつく者がありませんでした。
主人を送り込んだ米友は、その鉄砲を担いだままで、ジロリと主人の入って行った後を見送っていました。
「お帰りあそばせ」
と言って迎えたのは女の声であります。女の声、しかもお君の声であります。その声を聞くと米友は眼をクルクルと光らせて、大戸の中を
「よく降る雪だ」
「この大雪に、どちらまでおいであそばしました」
「竜王の鼻へ雪見に行って来たのじゃ」
「ほんとに殿様はお
というお君の声は、晴れやかな声でありました。
「ははは、これも病だから仕方がない」
能登守も大へんに御機嫌がよろしい。
「また御家来衆に叱られましょう、お
「それ故、こっそりとこの裏口から帰って来た。しかし誰に叱られても、この大雪ではじっとしておられぬわい······留守中、あの病人にも変ることはなかったか」
「よくお休みでございます、気分もおよろしいようで」
「それは何より。さあ、これがお前への
「まあ、これをお打ちあそばしたのでございますか」
「そうじゃ、荒川沿いの
「かわいそうに」
「これはしたり、そなた
「殺生は嫌いでございますけれど、殿様のお土産ならば大好きでございます」
「はは、たあいないものじゃ」
「あの、お風呂がよく
「それは有難い、ではこのまま風呂場へ」
「御案内を致しまする」
米友は、大戸の入口から洩れて来るこれらの
そこで話がたえたけれども、この会話の間にも、お君の口からも能登守の口からも、米友という名前は一言も呼ばれませんでした。遺憾ながら「友さんも帰りましたか」という言葉が、お君の口から出ないでしまいました。それで二人は風呂場へ行ってしまったようでした。米友は大戸の入口から、まだ中を
それから米友は、軒下を歩いて自分の部屋へ帰ろうとする時に、
「誰だい、そこの節穴からこの屋敷の中を覗いているのは誰だい」
と言って、また立ち止まって塀を睨みました。
「また折助のやつらだろう、誰に断わってそこからこっちを覗くんだ、やい、鉄砲を
おどかすつもりであろうけれども、米友は
米友が推察の通り、この塀の外から中を
折助は雪の中を、こけつまろびつ逃げて、とうとう八日市の酒場まで逃げて来ました。それは
彼等三人がこの八日市の酒場へ逃げ込むと、そこには土間の
前にも言う通り、折助の社会は人間並みの社会ではないのであります。人間並みの人の恥ずることがこの社会では
けれどもまた、
今、駒井能登守の屋敷を覗いて、米友に叱り飛ばされた折助も、おそらくは誰かに利用されて、隙見に来たものでありましょうが、この酒場へ逃げ込むと大急ぎで
ここでは前からガヤガヤと折助連中が馬鹿話をしておりましたから、新たに逃げ込んだ三人の話し声も、それに
それはそうとして、米友は彼等を叱り飛ばして、また鉄砲を担いで自分の部屋としてあてがわれたところへ来て、鉄砲を卸して大事に立てかけて、それから
足を拭いている時も、米友の
「ムク」
米友は足を拭きかけた雑巾の手を休めて、ムク犬をながめました。
「雪が降ると
ムクは米友の前に膝を折って両手を突くようにして、米友の面をながめました。
「今、飯を食わせてやるから待っていろ」
米友は足を拭き終って、上へあがりました。
「ムクや、手前は良い犬だ、どこを尋ねても手前のような良い犬はねえけれど、やっぱり犬は犬だ、外を守ることはできても、内を守ることができねえんだな」
と言いながらムクの面を見ていた時に、ふと気がつけば、その首に糸が巻いてあって、糸の下には
「おや」
と米友はその
「誰だろう、誰がこんなことをしたんだろうな」
と言って米友は不審の眉を寄せながら、ムクの首からその糸を外して結び状を取り上げました。
ともかくも、ムクを捉まえてこんな手紙のやりとりをしようという者は、米友の考えではお君のほかには思い当らないのであります。けれどもそのお君ならばなにも、わざわざこんなことをして自分のところへ手紙をよこさねばならぬ必要はないはずであります。お君のほかの人で、こんな使をこの犬に頼む者があろうとは、米友には思い当らないし、ムク犬もまたほかの人に、こんな用を頼まれるような犬ではないはずであります。
米友は、いよいよ不審の
『米友さん裏の潜 り戸 をあけて下さい』
と書いてあるのでありました。「わからねえ」
米友は、その文面を見ながら、いよいよ困惑の色を
「いよいよ、わからねえ」
米友の知っている唯一のお君は手紙の書けない女であります。このごろ、
「誰かの
と疑ってみても、このムク犬が、こんな悪戯のなかだちにたつようなムク犬でないことによって、打消されてしまうのであります。
「ムク、ともかくもまあ案内してみろやい」
米友は下駄を突っかけました。ムク犬はその先に立ちました。
これより前の晩に、ムク犬はこれと同じようにして、米友とお君とを引合せました。今はまた別の何者かを、米友に引合せようとするらしいのであります。
けれども、その
米友はこのごろ、お君の部屋へ行くことをいやがります。その前を通ることさえ
米友の面にはみるみる不快の色が満ち渡って、壁にかけてあった鍵をひったくるように手に取りました。
紅や白粉や軟らかい着物を脱ぎ捨てられたのを見た米友は、その場を見ると物凄い眼つきで
米友が裏の潜り戸をあけて見たけれど、そこには誰も立っていませんでした。
米友は往来を見廻したけれども、雪が降っているばかりで、誰もいないし、通る人もほとんど稀れであります。
こいつは、やっぱり
その人の傍へ飛んで行ったムクは、ちょうどそれを迎えに行ったようなものです。
誰だろうと思って米友は、その傘の中を早く見たいものだと思いました。
「米友さん」
と言って、すぐ眼の前へ来てから、傘を取るのと言葉をかけるのと一緒であった。その人の
「やあ、お前はお嬢さんだ」
と米友が言いました。
お嬢さん、と米友が言うのは、それはお松のことでありました。お松とその伯母さんという人を米友は、江戸から笹子峠の下まで送って来た縁があります。
「米友さん、久しぶりでしたわね」
とお松が言いました。
「ほんとに久しぶりだな。お前さん、どうして
「さっき、ちょっと見かけたから、それで」
「では、ムクの首へ手紙をつけたのもお前さんだね」
「そうよ」
「そんなことをしなくても、表から尋ねて下さればいいに」
「それがそうゆかないわけがあるから、それであんなことをしたの。米友さん、お前に
「うむ、そうさなあ」
と言って米友は、少しく考えていましたが、
「
「では米友さん、
「そりゃ構わねえ、俺らの部屋でよければ、お寄んなさるがいい。ううん、誰にも見られやしねえ。見られたところで、なにも痛いことも
「おかしな米友さんだこと、それは痛くも痒くもないけれど、少し都合があって誰にも見られたくないのだから、そのつもりで」
「いいとも、早く中へ入っちまいな、ここを閉めるから」
お松はそのまま
「米友さん、わたしはどうしようかと思ったけれど、お前さんが、蓑を着て鉄砲を担いで裏門を入って行く姿を見たものだから、こんな仕合せなことはないと思って、どうかしてお前さんが、もう一ぺん出て来るのを待っていようと、さっきからこの通りを二度も三度も歩いているうちに、この犬がお屋敷から出て来たものだから、ほんとにいい
米友は、お松を
「米友さん」
改まってお松は、米友の名を呼びます。
「何だ」
米友は眼を
「わたしが、お前さんに聞きたいことと、それから頼みたいことというのは、あの、お前さん、ここのお屋敷にお客様がおありでしょうね」
「お客様?」
「え、え」
「そりゃ、これだけのお屋敷だからお客様もあるだろうさ」
「いいえ、そのお客様というのはね、人に知れては悪いお客様なのよ」
「はははは」
米友は
「人に知れて悪いお客様なら、
「それでも、わたしにはよく知れているのよ」
「知れてるなら、俺らに聞かなくってもいいじゃねえか」
「米友さん、お前さんは相変らず理窟を言うからいけません」
「だって」
「そのお客様はお前······牢から出た人なのよ」
お松が
「エ、エ?」
米友が、やや
「そのお客様が······」
「知らねえ、
米友は首を左右に振りました。
「知らないたってお前、わたしにはよくわかっているのだから、隠しても仕方がないのよ、牢から出たお客様が三人ほど、たしかにこのお屋敷に隠れているはず」
「エ、エ?」
米友はお松の
「米友さん、これはわたしのほかには誰も知っている人はないのだから、心配しないように。そうしてその三人の中で、いちばん若い方に、これを差上げていただきたいの」
「何だ、それは」
「お薬」
「薬がどうしたんだ」
「どうか、これをお前さんの手から、その若いお方に差上げて下さい、頼みます」
「う||む」
と言った米友は、腕を
「それからね、米友さん、いつでもいいからそのお方に、わたしを一度会わせて下さいな、そっと、誰にも知れないように、わたしのところへ
「う||む」
「
「う||む」
「米友さん、お前さんは、うんうんと言っているけれど、承知してくれたのかえ、承知してくれないのかえ」
「う||む」
「後生だから」
「お嬢さん、俺らはほんとに知らねえんだ、このお屋敷に、どんなお客様が来ているか知らねえのだけれど······お前さんにそう言われてみると、ちっとばかり心当りがねえでもねえんだよ。よし、頼まれてやろう」
「有難う、拝みます」
「その若い人の名前は何と言うんだい」
「それは······あの、宇津木兵馬というの」
「宇津木兵馬」
米友は口の中でその名を繰返して、お松の手渡しする竹筒入りの薬を受取りました。お松は喜びと感謝とで、米友を拝みたいくらいにしているのに
お松は米友にくれぐれもこのことを頼んでおいて、またこっそりと傘をさして、前の
あまりそのことが、あわただしいので、お松は暫らく立って様子を聞いておりました。
「失敗失敗」
口々にこんなことを言いおります。
「どうした、おのおの方」
酔っているらしい主人の神尾が声。
「ものの見事に出し投げを食った、今までかかって雀一羽も
「こいつが、こいつが」
神尾主膳は、縁板を踏み鳴らしているようです。それから大勢の
宇津木兵馬は、駒井能登守の二階の一室に横たわって、病に
兵馬の病気は肝臓が痛むのであります。それに多年の修行と辛苦と、獄中の冷えやなにかが一時に打って出たものと見えます。
ここへ来てからほんの僅かの間であったけれども、手当がよかったせいか、元気のつくことが
駒井能登守とは何者、南条、五十嵐の両人は何者||ということを兵馬は天井を見ながら思い浮べておりました。
能登守の語るところによれば、南条の本姓は
また五十嵐は、東北の浪士であるということです。二人は相携えて上方からこの甲州へ入り込んで来たということです。
能登守が笑って言うには、「あの連中は、ありゃ甲州の天嶮を探りに来たのじゃ、甲州の天嶮を利用して大事を成そうという計画で来たものじゃ。いくら今の世の中が乱れたからとて、あの二人の力で甲州を取ろうというのはちと無理じゃ、けれどもその志だけは相変らず威勢がよい。いったい、今時の浪人たちは、ああして日本中を引掻き廻すつもりでいるところが可愛い、徳川の旗本に、せめてあのくらいの意気込みの者が二三人あれば······」能登守は兵馬に向って、こんなことを言って聞かせました。
彼等は甲州の天嶮と地理を探って、何か大事を為すつもりであったものらしい。それが現われて、捉まってこの牢へ入れられたものらしい。牢を破ってここへ逃げ込んだことは、
能登守は、もう無事に南条と五十嵐の二人をこの邸から逃がしてしまった、この上は御身一人である、ここにいる以上は安心して養生するがよいと親切に言ってくれました。ともかくも、南条と言い、五十嵐と言い、それに自分と言い、金箔附きの破牢人であることに相違ない。その金箔附きの破牢人である自分たちを、公儀の重き役人である能登守が、逃がしたり隠して置いたりすることは、かなり
砲術にかけてはこの能登守は、非常に深い研究をしているとのことを聞きました。それとは別に能登守は、医術に相当の素養があることも兵馬にはすぐにわかりました。
肝臓が痛むということも、兵馬が言わない先から能登守は見てくれました。これが肺へかかると一大事だということ、しかし今はその
それやこれやと、人の面影を思い浮べているうちに、またうとうとと眠くなって、そのまま快き眠りに落ちて行きました。
ややあって宇津木兵馬は、何物かの物音によって夢を破られ、眼を開いた時、障子を締めて廊下を渡って行く人の足音を聞きました。多分、食物か薬を、例のお君が持って来てくれたものだろうと思って、枕許を見ました。
枕許には、竹の筒が置いてあります。その竹の筒には
今までこんなものを持って来たことはないのに、何もことわりなしに、ちょこなんと、これだけを置き放しにして行ってしまったことが、兵馬にはなんだか、おかしく思われるのでありました。
そう思って考えてみると、今、これを置き放しにして行ってしまった人の足音が、どうも、いつも来てくれるお君の足どりではないと思い返されました。といって能登守の足音とも思われません。お君でなし、能登守でなしとすれば、そのほかにここへ入って来る人はないはずである。自分のここにいることさえも知った人はないはずである。と思うにつけて、兵馬には今のおかしさが、多少の不安に感ぜられてきました。
兵馬は手を伸べてその竹筒を取りました。手に取って一通り見ると、それは最初にお松をして破顔せしめたと同じ記号によって、病中の兵馬をも微笑させました。その一端には「十八文」と焼印がしてあるからです。
「十八文」の因縁は、兵馬もまた微笑することができるけれども、それについてもお松ほどに、たちどころに納得がゆかないのは、これがどうしてここへ来るようになったか、それともう一つは、何者がここへ持って来たかということであります。
その不安を解決するには恰好なこの

道庵先生の「もろこし我朝に······」は兵馬も苦笑いして、そっと
兵馬には、いちいちそれが了解されました。お松の心持が充分にわかって、有難いとも思い、嬉しいとも思いましたが、ただ
「友さんの手によって」とあるけれども、その友さんの何者であるかを兵馬は知ることができません。したがって、その友さんなる者に頼むこともできません。そのうち、お君が見舞にでも来た時に聞いてみようと思いました。
ともかくも、これに対する返事を
昨日までの雪は晴れて、外は大へんに明るい。窓の下の庭では雪を掃いている物音が、手にとるように聞えます。
やがて兵馬は、お松のために返事の手紙を書いてしまって、疲れを休めていると、また窓の下で雪掃きをしているらしい人の声です。その声を聞くともなしに聞いていると、
「
雪を掃除している人が口小言を言っているらしい。
「道はヌカるし、固めておけばジクジク流れ出すし、泥と一緒に
雪を目の
二階から障子を細目にあけて見ると、なるほど一人の男がしきりに、ブツブツ言いながら雪を
兵馬が見ると、それは米友であったから意外に感じないわけにはゆきません。伊勢の古市の町と、
「ははあ、友さんというのはこれだな」
米友の友を呼んでお松が、そう言うたものに違いないと兵馬は早くも
そのうちに雪を掃除していた米友が、手を休めて二階を見上げて、
「雪というやつは可愛くねえやつだ、雪なんぞは降ってくれなくても困らねえや、
と、おかしなことを口走りました。雪なんぞは降らなくてもいい、竹筒っぽうでも降ればいいというのは、あまり聞き慣れない
「降りやがった、降りやがった」
という声が聞えました。兵馬はその声を聞いて安心して、なお障子の隙から見ていると、米友は自分が投げた竹筒を拾って、これも手早く懐中へ忍ばせてしまって、
年が明けて、松が取れると、甲府城の内外が
これは、年が改まって心機が一転したからではありません。
どういう訳か知らないが、この頃、甲府の城へ御老中が巡視においでになるという
多分、
御本丸から始めて天守台、櫓々、
駒井能登守もまた、このたびの老中の巡視ということを何の意味だか、よく知りません。けれども能登守は、あの人が幕府の今の御老中で第一流の人であるのみならず、その学問||ことに能登守と同じく海外の事情や砲術にかけてなかなかの新知識の人であることを了解していました。能登守を甲府へ廻したのは、或いはこの明山侯の意志ではなかったかとさえ言われています。
明山侯と能登守との意気相通ずるということは、神尾主膳等の一派、及び先任の支配太田筑前守を囲む一派のためには心持のよくないことであります。彼等は明山侯の来るのを機会として、
そうでないまでも、それについてなんらかの対抗策を講じておかなければならないと思いました。まんいち能登守が勢力を得る時は、我々が勢力を失う時だと
それがために、駒井能登守の立場は非常に危険なものになりました。登城しても、役所へ行っても、お茶一つ飲むことも能登守は用心をしました。夜はほとんど外出しませんでした。明山侯の来る前に、能登守を毒殺してしまおうという計画があるとの風説がありました。また夜分、忍びの者を入れて暗殺させようとしているとの風説もありました。また、能登守の内事や私行をいちいち探らせているとの忠告もありました。
年が改まって、そうして変りのあったのは、これらのことのみに限りません。
駒井能登守に仕えていたお君の身の上に、重大な変化が起りました。前には
お君は、我から喜んで美しい眉を落してしまいました||
お君のためには、新たなる部屋と、念の
お君の血色にもまた著しい変化がありました。笑えば人を魅するような
お君はこれがために費用を惜しみませんでした。能登守もまた、お君のために豊富な支給を与えて悔ゆることがないのでありました。江戸の水、
お君にとっての仕事は、もはや、それよりほかに何事もありません。その仕事は、出来上れば出来上るほどに、お君の形体と心とを変化させずにはおきません。
笑うにも単純な笑いではありません。その笑いの末には
能登守というものは、みるみるこのお君のあらゆる誘惑のうちに溶けてゆきました。お君の誘惑はいわば自然の誘惑でありました。能登守を誘惑しつつ自分もまたその誘惑の中に溶けてゆくのでありました。お君には殿様を誘惑する心はありません。おのれの色香を飾って為めにする計画もありません。それは新しい春になって、山国の雪の中にも梅が咲き、
外においての能登守が、あんなに煙がられたり邪推されたりしているのに、内においてのこの殿様はたあいないもので、ほとんど終日お君の傍を離れぬことがありました。お君はその誘惑のあらん限りを尽して、能登守を放そうとはしませんでした。
世に食物を
この際において、お君の心の中のいずこにも、宇治山田の米友を考えている余裕はありません。
お君||ではない、お君の
お君の方は今、その花やかな打掛の姿で、片手には
廊下の庭から梅の枝ぶりの面白いのが、
「ホホホ、もう梅が咲いている」
お君の方はたちどまって、手近な、その一枝を無雑作に折って、香いを鼻に押し当て、
「おお好い香り、ああ好い香い」
心のうちにときめく香りに、お君は自分ながら堪えられないように、
「殿様に差上げましょう、この香りの高い梅の花を」
お君はそれを銚子の間に
「おや」
それはほろ酔いの人としては、あまりに仰山なよろめき方であります。打掛の裾が、廊下の床に出ている釘かなんぞにひっかかったものだろうと思って、片手に打掛を
「おや」
振返ってみるとその打掛の裾は、廊下の下にいる何者かの手によって押えられているのでありました。
「君ちゃん」
「まあ、誰かと思ったら米友さん」
お君の打掛の裾を廊下の下から押えたのは、背の低い米友でありました。
「米友さん、
「なにも悪戯をしやしねえ」
「だって、そんなところで押えていては」
「用があるからだ」
「何の用なの」
「君ちゃん、いまお前は、ここの梅の枝を一枝折ったね、その枝を
「これかい、この梅の枝を友さん、お前が欲しいのかい」
「うむ」
「そうして、どうするの」
「どうしたっていいじゃねえか、欲しいから欲しいんだ」
「欲しければお前、こんな花なんか、わたしに
「そんなことを言わずに、それを俺らにおくれ」
「これはいけないよ」
「どうして」
「これは殿様に上げるんだから」
「殿様に?」
と言って米友は強い目つきでお君を見ました。
「これは、わたしから殿様へ差上げる花なんだから、友さん、お前ほしいなら別に好きなのを取ったらいいだろう、ほら、まだ、あっちにもこっちにもいくらも咲いているじゃないか」
お君はチラホラと咲いている梅の木の花や
「
「おや、友さん、怒ったの」
「ばかにしてやがら」
米友は、そのままぷいと廊下の縁の下を
駒井能登守が役所へ出かけたそのあとで、お君は部屋へ行ってホッと息をついて、
障子の外には日当りがよくて、ここにも梅の咲きかかった枝ぶりが、面白く障子にうつっています。
お君は
「お
「はい」
次の間で女中が返事をすると、まもなくギヤマンの美しい
「わたしは眠いから少し休みたい、お前、床を
「
「それから、あの犬に何かやっておくれかい」
「いいえ、まだ」
「忘れないように」
「畏まりました」
女中が出て行った後で、お君は水を一口飲んでギヤマンを火鉢の傍へ置き、それから鏡台に向い、髪の毛を大事に撫で上げました。
「ムクかい、待っておいでよ」
お君はこうして鏡台に向っていながらも、ツイその日当りのよい縁先へ、ムク犬が来たということには気がつきました。
気がついたけれども、障子をあけて犬を見てやろうとはしないで、やはり鏡に向って髪の毛をいじりながら、そう言って言葉をかけただけであります。人の愛情は二つにも三つにもわけるわけにはゆかないのか知らん。能登守に思われてからのお君は、犬に冷淡になりました。冷淡になったのではないだろうけれども、以前のように打てば響くほどに世話が届きませんでした。ムク犬のためにする毎日の食事も、以前は自分から手を下さなければ満足ができなかったのに、このごろでは女中任せになっていました。女中がツイ忘れることもあるらしく、それがためにかどうか、このごろのムク犬は、お君の傍にあるよりは米友の方へ行っていることが多いようであります。
今、ムクはお君のいるところの縁先へ来ていることは、その物音でも呼吸でもお君にわかるのであります。こんな時には必ずムクにしかるべき意志があって来るのだから、前のお君ならば何事を
「ワン!」
堪り兼ねたと見えてムク犬は、外で一声吠えました。吠えられてみるとお君は、どうしても障子をあけなければなりません。そこにはムク犬が
お君の面を見上げたムク犬の眼の色は、早く私についておいで下さいという眼色でありました。
それは
お君はムクに導かれて、廊下伝いに歩いて行きました。
これはこの前の晩の時のように、闇でもなければ
お君が、とうとうムク犬に導かれて、廊下伝いに来たところは米友の部屋でありました。そこへなにげなくお君が入って、
「おや、友さん」
と言いました。見れば米友はあちら向きになって、いま旅の仕度をして
旅の仕度といっても米友のは、前に着ていた
「どこへ行くの、米友さん」
お君は米友の近いところへ立寄りながら尋ねました。
米友は返事をしませんでした。
「殿様の御用なの?」
米友はなお返事をしません。返事をしないで草鞋の紐を結んでいます。
「どうしたの、米友さん」
お君は後ろから米友の肩に手をかけました。
「どうしたっていいやい」
米友が肩を
「お前、何か腹を立っているの」
米友はなお返事をしないで、ようやく草鞋の紐を結んでしまい、ずっと立って傍に置いた例の棒を取って、ふいと出かけようとする有様が尋常でないから、お君はあわてて、
「何かお前、腹の立つことがあるの、気に触ったことがあるの。そうしてお前はここのお屋敷を出て行ってしまうつもりなの」
「うむ、今日限り俺らはここをお
「そりゃまた、どうしたわけなの。お前はどうも気が短いから、何かまた殿様の御機嫌を
「馬鹿野郎、殿様とやらの御機嫌を損ねたから、それで出るんじゃねえや、俺らの好きで勝手におんでるんだ」
「そんなことを言ったってお前、そうお前のように
「お前が困ろうと困るめえと俺らの知ったことじゃねえ」
「何か、キットお前、気に触ったことがあるんだよ、あるならあるようにわたしに話しておくれ、他人でないわたしに」
「一から十まで
「何がそんなに癪に触るの」
「なんでもかでもみんな癪に触るんだ、その
「お前はどうかしているね」
「俺らの方から見りゃあ、どうかしていると言う奴がどうかしてえらあ、ちゃんちゃらおかしいや」
「まあ、米友さん、それじゃ話ができないから、ともかく、まあここへお坐り。お前がどうしてもこのお屋敷を出なくてはならないようなわけがあるならば、わたしも無理に留めはしないから、そう短気を起さずに、そのわけを話して下さい、ね」
「出て行きたくなったから出て行くんだ、わけもなにもありゃしねえや、一から十まで癪に触ってたまらねえからここの家にいられねえんだ」
「何がそんなにお前の癪にさわるのだか、お前のように、そうぽんぽん言われては、ほんとに困ってしまう」
「その
「あ、わかった······」
お君は米友を押えながら、何かに気のついたような声で、
「わかった、お前は、わたしが出世したから、それで
「ナ、ナニ!」
米友は
「きっと、そうだよ、わたしが出世したから、お前はそれで······」
「やいやい、もう一ぺんその言葉を言ってみろ」
米友はお君の
「そうだよ、きっと、そうに違いない、わたしが出世してこんな着物を着るようになったから、お前は世話がやけて······」
「うむ、よく言った」
米友はお君の面を目玉の飛び出すほど鋭く睨んで、
「どうしたんだろう、ナゼそんなに怖い面をしているの、わたしにはわけがわからない」
米友に睨められたお君は、睨んだ米友の心も、睨まれた自分の身のことも、全くわけがわからないのでありました。もう一ぺん言ってみろといえば、何の気もなしにそれを繰返すほどにわけがわからないのであります。
「馬鹿! 出世じゃねえんだ、
「おや、友さん、何をお言いだ」
「お前は、人の慰み物になっているのを、それを出世と心得てるんだ」
「エ、エ、何、何、友さん、そりゃなんという口の利き方だえ、いくらわたしの前だからといって、そりゃ、あんまりな言い分ではないか、二度言ってごらん、わたしは承知しないから」
「二度でも三度でも言うよ、お前は殿様という人から、うまい物を食わせてもらい、いい着物を着せてもらって、その代りに慰み物になっているんだ、それをお前は出世だと心得ているんだ」
「あ、
「何が口惜しいんだ、その通りだろうじゃねえか」
「わたしは殿様が好きだから、それで殿様を大事にします、殿様はわたしが好きだから、それでわたしを大事にします、それをお前は慰み物だなんぞと······あんまり口惜しい、殿様はそんなお方ではない、わたしを慰み物にしようなんぞと、そんなお方ではない、わたしは殿様が好きだから」
「好きだから? 好きだからどうしたんだい、好きだから慰み物になったのかい」
「友さん、よく言ってくれたね、よく言っておくれだ、お前からそこまで言われれば、もうたくさん」
お君はこう言って口惜しがって、ついに泣き出してしまいました。
「どっこいしょ」
と言って米友は、竹皮笠を土間から取り上げて
「やいムク州、永々お世話さまになったが、
ムク犬は悄然として、二人の間の土間にさいぜんから身を横たえていました。
「十七姫御が旅に立つヨ、それを殿御が聞きつけてヨ、留まれ留まれと袖を引くヨ」
米友は久しぶりで得意の鼻唄をうたいました。この鼻唄は
米友が出て行ってしまったあとで、お君は堪えられない心の
ムクはと見れば、そこにはいません。おそらく米友を送るべくそのあとを慕って行ったものと思われます。
その時に、この米友の部屋の後ろへそっと忍んで来た人がありました。台所口から、
「こんにちは」
と細い声でおとなうのは、やはり女の声でありました。
しばらくすると、
「こんにちは」
二度目も同じ声でありました。
「米友さん」
三度目に米友の名を呼びました。
「御免下さい」
台所口の腰高障子をそっとあけて、忍び足で家の中へ入り、中の障子へ手をかけて、
「米友さん」
と言いながら、障子をあけたのはお松でありましたが、米友を呼んで入って見ると、それは米友ではなくて、立派な身なりをした奥向きの婦人が、柱に
「どうも相済みませぬ、あの、米友さんはお留守でございますか」
泣いている婦人は、その時、涙を隠してこちらを向きました。
「まあ、お前さんは······」
「あなたはお君さん」
「ずいぶん、これはお珍らしい」
「まあ、なんというお久しぶりな」
と言って二人ともに面を見合せたなりで、暫らく
お松とお君との別れは、
神尾主膳の家と、駒井能登守の屋敷とは、その間がそんなに遠くはないのに、
米友の口から聞けば聞かれるのであったろうけれど、米友はこのことをお松に語りませんでした。お松は外へ出る機会が多少あっても、その後のお君は屋敷より外へ、ほとんど一歩も踏み出したことはありませんでした。それ故、二人はここで偶然に会うまで、その健在をすらも忘れておりました。
今見れば、お松は品のよい御殿女中の作りです。これはお松としてそうありそうな身の上であるけれども、お君がこうして奥向きの立派な身なりをしていようとは、お松には思い設けぬことでありました。お君は、久しぶりで会った人に、涙を見せまいとして元気を作りました。お松は、人の留守へ入って来たきまりの悪いのを言いわけするように、
「わたしはここにいる若い衆さんに、お頼み申してあることがあります故、つい無作法にこうやって参りました、それをここであなたにお目にかかろうとは思いませんでした、どうして、いつごろからこちら様においでなさいますの」
お松は昔の
「これにはいろいろと長いお話がありますから、後でゆっくり申し上げましょう。そして、お松さん、お前さんは今どちらにおいであそばすの」
お君の方からこう言って尋ねました。
「わたしは、こちらの勤番のお組頭の神尾主膳の邸の中におりまする」
「あの神尾様の······そうでございましたか、少しも存じませんでした」
「わたしもお君さんが、わたしのいるところからいくらも遠くないこの能登守様のお屋敷においでなさろうとは、夢にも存じませんでした。お見受け申せば、昔と違ってたいそう御出世をなされた御様子」
「はい、お恥かしうございます」
お松から出世と言われてみると、お君はなんとなしに恥かしい心持になりました。お松はそう言って、気のつかないように
自分はまだ娘であるけれどもこの人は、もう
「お松さん、ここではお話が致し
お君はお松を自分の部屋へ案内しようとしました。
「はい、あの······ここにおいでなさる米友さんというお方は?」
「あの人は、今、あの、どこかへ······お使に行きましたから」
「左様でございますか。わたしはあの人にぜひ会わねばならない用事がありますの」
「そのうち帰って参りましょう、お手間は取らせませぬから、どうぞわたしのところまで」
お松はお君の部屋へ導かれて、そこで
この物語によって見ると、お松はお君の今の身の上の大略を想像することができました。お松もまた甲州へ来る道中の間で、駒井能登守の人柄を知っているのでありましたから、その人に可愛がられるお君の今の身の上は幸福でなければならないと思いました。
けれどもお松は、そんなことのみを話したり聞いたりするために尋ねて来たのではなかった、大事の人に会わんがために来たのでありました。晴れて会われない人に、そっと会うべく忍んで来たのでありました。そっと会えるように米友が手引をしてくれるはずになっていたから、それで米友を訪ねて来たのですが、その米友がいないで、偶然にも会うことのできたその人はお君||かえってこれは一層自分の願いのために都合がよいと思いました。この屋敷においてはずっと地位の低い米友を頼むよりは、主人の
果してお君は、お松が思っている通りに、よい手引をしてくれる人でありました。お松が思ったより以上に快く承知をして、そのことならば誰に頼むよりも、わたしにという意気込みで返事をしてくれました。且つ、今は幸いに主人もいないから、これから直ぐに、わたしがそのお方の休んでおいでなさるところへ御案内をしましょう、ということでありました。お松が飛び立つほど嬉しく思ったのも無理はありません。
お松のようにおちついた
「兵馬さん」
この声に兵馬は夢を破られました。軽い眠りの床から覚めて見ると、そこに立っている女の姿。
「お松どの」
兵馬もさすがに、驚きと喜びとを隠すことができないらしい。
「御気分は?」
「もう大丈夫」
兵馬は生々とした声でありました。
「ああ、わたしは心配致しました」
「どうもいろいろと有難う」
「お手紙を確かにいただきました」
「昨日はまた薬を有難う」
「あの友さんという人が、ちょうどこちらのお屋敷に雇われていたものですから。何かにつけて仕合せでございました」
「あれは、わしも知っている人······それからまたお君どのも」
「はい、お君さんにも、わたしは会うことができました、そのお君さんの手引でこうして上りました」
「して、主人の許しを得て?」
「いいえ、こちらの殿様はただいまお留守なのでございます」
「とにかくも、この屋敷へ落着いたことは当座の仕合せ、この上は一日も早く全快して、ひとまず甲府の土地を立退かねばなりませぬ」
「早く御全快なすって下さいまし。兵馬様、わたしはこんなものを持って参りました」
と言いながらお松は、持って来た風呂敷包を解くと、
「お気に召しますか、どうでございますか」
と言って、その胴着のしつけの糸かなにかを取りますと、
「それほど寒いとも思わぬが、せっかくのお志だから」
兵馬は
「兵馬様、これから毎日お訪ねしてもよろしうございますか」
「悪いことはないが、人に
「誰にも知られないように用心して参りまする」
「それでも、この家の主人に知られぬわけにはゆくまい」
「こちらのお殿様は、お君さんを可愛がっておいでなさいますから······」
お松は面を
あとを慕って送って来るムク犬を無理に追い返した米友は、甲州の本街道はまた関所や渡し場があって面倒だから、いっそ裏街道を突っ走ってしまおうと、甲府を飛び出して
石和で腹をこしらえた米友は、
「もし、そこへ行くのは友さんじゃないか」
袖切坂の下で、やはり女の声でこう呼びかけられたから米友は驚きました。
「エ、エ!」
眼を円くして見ると、
「ほら、どうだ、友さんだろう」
と女はなれなれしく言って傍へ来るから、米友はいよいよ変に思いました。
もう
はて、こんな人に呼びかけられる覚えはないと米友は思いました。
「誰だい」
「まあ、お待ちよ」
と言って女が傍へ寄って来た時に、はじめて米友は、
「あ、親方」
と言って舌を捲きました。これは女軽業の親方のお
もともと、黒ん坊にされたのは承知のことであって、道庵先生に見破られたために、その化けの皮を
もし前世で米友が蛙であるならば、お角が蛇であったかも知れません。どうも
「あ、親方」
と言って米友が舌を捲くと、お角の方は今日は意外に
「どうしたの、今時分、こんなところをうろついて······」
「これから江戸へ帰ろうと思うんだ」
「これから江戸へ、お前が一人で?」
「うん」
「そうして、どこから来たの、今夜はどこへ泊るつもりなの」
「甲府から来たんだ、今夜はどこへ泊ろうか、まだわからねえんだ」
「そんなら、わたしのところへお泊り」
「親方、お前のところというのは?」
「いいからわたしに
米友は
「お前、甲府へ何しに来たの」
「
「そうして今まで何をしていたの」
「今まで奉公をしたりなんかしていたんだ」
「どこに奉公していたの」
「旗本の屋敷やなんかにいたんだ」
「そしてお暇を貰って帰るのかい」
「そうじゃねえんだ」
「どうしたの」
「俺らの方でおんでたんだ」
「そんなことだろうと思った、お前のことだから」
「
「お前のように気が短くては、どこへ行ったって長く勤まるものか」
「そうばかりもきまっていねえんだがな」
「きまっていないことがあるものか、どこへ行ったってきっと追ん出されてしまうよ」
「俺らばかり悪いんじゃねえや」
「そりゃお前は正直者さ、あんまり正直過ぎるから、それでおんでるようなことになるのさ」
「その代り、こんど江戸へ出たら辛抱するよ」
「それからお前、いつぞやお前はお君のところを尋ねに両国まで来たことがあったね」
「うん」
「それだろう、お前は人を送って来たというのは附けたりで、ほんとはあの子を尋ねにこちらへ来たのだろう」
「そういうわけでもねえんだ」
「しらを切っちゃいけないよ、そういうわけでないことがあるものか、お前をこちらへよこした人の寸法や、お前がこちらへ来るようになった心持は、大概わたしの方に当りがついているんだから」
米友はそこで黙ってしまいました。どこまで行っても受身で、根っから気焔が上らないで、
袖切坂のあたりは淋しいところで、ことに右手はお
「おや」
と言って、どうしたハズミか、先に立って行ったお角が坂の中途で
「危ねえ、危ねえ」
米友はそれを抱き起すと、
「ああ、悪いところで転んでしまった」
見ればお角の下駄の鼻緒が切れてしまっています。それをお角は口惜しそうに手に取ると、はずみをつけてポンと
「口惜しい、うっかりしていたもんだから、袖切坂で転んでしまった」
キリキリと歯を噛んで口惜しがりました。お角の腹の立て方は、わずかに転んだための
「怪我をしたのかね、かまいたちにでもやられたのかね」
米友は多少、それを
「そんなことじゃない、袖切坂で、わたしは転んでしまったのだよ、ちぇッ」
お角の言いぶりは
「袖切坂がどうしたって」
「ここがその袖切坂なんだろうじゃないか、ところもあろうに、あんまりばかばかしい」
「そりゃ
「怪我もちっとばかりしているようだよ、
と言ってお角は、紙を取り出して左の足の
「やあ血が!」
米友も、その血に驚かされると、お角は、
「怪我なんぞは知れたことだけれど、袖切坂で転んだのが、わたしは腹が立つ」
お角は、よくよくここで転んだのが癪で
袖切坂を登ってしまうと行手に大菩薩峠の山が見えます、いわゆる
素足で坂を登りきったお角は||坂といっても袖切坂はホンのダラダラ坂で、たいした坂でないことは前に申す通りです。そこで、お角は米友を顧みて、
「友さん」
と米友の名を呼びました。
「よく覚えておきなさい、この坂の名は袖切坂というのだから」
そういう言葉さえ余憤を含んでいるのが妙です。
「袖切坂······」
米友は、お角に聞かされた通り、袖切坂の名を口の中で唱えましたけれど、それは米友にとってなんらの興味ある名前でもなければ、特に記憶しておかねばならない名前とも思われません。
「ナゼ袖切坂というのだか、お前は知らないだろう」
「知らない」
「知らないはずよ、わたしだって、ここへ来て初めて土地の人から、その
お角は坂を見返って動こうともしません。米友もまたぜひなくお角の
「この坂で転んだ人は、誰でも、その片袖を切ってここの
お角は、こう言って身を震わして
「人間だから、根が生えているわけではねえ、転んだところでどうもこれ仕方がねえ」
米友はこう言いました。
「あんまりばかばかしいから、わたしは片袖なんぞを切りゃしない。この坂へ来ては子供だって転んだもののあるという話を聞かないのに、いい年をしたわたしが······坂の真中でひっくり返って、おまけにこの通り御念入りに
「友さん、わたしがここで転んだということを、誰にも言っちゃいけないよ」
「うむ」
「言うと承知しないよ」
「うむ」
「けれどもお前はきっと言うよ、お前の口からこのことがばれるにきまっているよ。もしそういうことがあった時は、わたしはお前をただは置かない······ただは置かないと言っても、わたしよりお前の方が強いんだから······してみると、わたしはいつかお前の手にかかって殺される時があるんだろう、どうもそう思われてならない」
「何、何を言ってるんだ」
「転んだところを見た人と見られた人が、もし間違っても男と女であった時は、どっちかその片一方が片一方の命を取るんですとさ」
「ええ!」
米友はなんともつかず眼を円くしました。
ほどなく米友の連れて来られたところは、塩山の温泉場からいくらも隔たらない二階建の小綺麗な家でありました。
「この人に足を取って上げて、それから御飯を上げておくれ」
お角は女中に言いつけました。
米友は御飯を食べてしまうと二階へ案内されました。二階へ案内されて見ると、そこがまた気取った作りでありました。すべてにおいて米友は、この家の様子と、あのお角という女主人を怪しまぬわけにはゆきません。
それよりも先に、両国橋で女軽業の一座を率いていた親方が、どうしてこんなところの
「いったい、ここの旦那というのは何を商売にしているんだい」
「
米友はなるほどと思いました。郡内にも甲府にも絹商人ではかなり大きいのがあるから、何かの縁でそれに見込まれてあの親方が囲われたな、と米友はそんな風に感づいて、多少
米友が寝込んだのはそれから長い後ではなかったけれども、その夜中に格子をあける者がありました。
米友はまた、さすがに武術に達している人であります、熟睡している時であっても、僅かの物音に眼を
「うむ、そうか、そんならいいけれど、
それが男の声です。
そこで米友は、ははあ、やって来たな、旦那の
そのうちに瀬戸物のカチ合う音や、
二人は飲みながら話をしています。その話し声が高くなったり低くなったりしていますけれども、聞いているうちに、米友がまたまたわからなくなったのは、男の方の言葉づかいが決して商人の言葉づかいではないことであります。
いくら土地の商人にしたところで、いま下で話している人の口調は、
絹商人というけれども、何をしているんだか知れたものじゃないと、米友はいいかげんにたかを
「おや、妙なことをお言いだね」
突然と下から聞えたのは、お角の声であります。
「だからどうしようと言うんだ」
それは男の声。
「どうもしやしない、これからその神尾主膳とやらのお邸へ、わたしが出向いて行って、ちゃあんと談判して来るからいい」
「そいつは面白い」
「面白かろうさ。そうしてそのついでに、百という男は、がんりきと二つ名前の男で、切り落された片一方の手には甲州入墨······」
「何を言ってやがるんだ」
下の男と女は、いさかいになったのを、米友は聞き
しかし、高い声はそれだけで止んで、男女ともに急に押黙ってしまいました。
その翌朝、あのがんりきの何とやらいう小悪党に会わなければならないのだなと思いながら、米友は下へ降りて見ると、お角と女中のほかには誰もいませんでした。
女中の世話で朝飯を食べてしまっても、昨夜の男は姿を見せませんでした。お角もなにくわぬ
そうして米友は、そこを出かけて東へ向って行くと例の袖切坂です。そこへ来ると、いやでも眼に触れるのが、坂の上に立てられてある「袖切坂」の石の道標でありました。
「ここだな」
と思って米友はその石を見ると、袖切坂の文字には昨夜見た通りの朱をさしてありましたが、その文字の下に猿の
下駄が片一方、しかもそれは男物ではない、
想像を加えるまでもなく、その下駄はお角の下駄であります。
それを誰がいつ拾い出したのか、今朝はもうここに、ちゃんとこうして供えられてある||だから米友は眼を円くしないわけにはゆきません。
迷信や因縁事で米友を
前後と左右を見廻して、その下駄を
やむことを得ず米友は、その下駄を手許へ引取って、片手でぶらさげて、その場を立去るよりほかには
右の足の
その後ムク犬は、駒井と神尾と両家の間を往来するようになりました。お君のムク犬を可愛がることは昔に変らないが、その可愛がり方はまた昔のようではありません。自分で手ずから食物を与えることはありません。またムクと一緒にいる機会よりも能登守に近づく機会が多いので、自然にムク犬に対するお君の情が薄くなるように見えました。しかし、お君はムク犬を粗末にするわけではなく、ムク犬もまた主人を
お君とムク犬との関係がそんなになってゆく間に、お松とムク犬とがようやく親密になってゆくことが、目に見えるようであります。
それだからムク犬は、或る時は駒井家の庭の一隅に眠り、或る時は神尾の家へ行って遊んで来るのであります。神尾の家といってもそれは本邸の方ではなく、別家のお松の部屋の縁先であります。お松はこの犬を可愛がりました。
神尾家の本邸のうちは、このごろ見ると、またも昔のような乱脈になりかけていることがお松の眼にはよくわかります。貧乏であった神尾主膳がこの春来、めっきり金廻りがよくなったらしい景気が見えました。けれどもその金廻りがよくなったというのは、
このごろ神尾家へは、雑多な人が入り込みます。
主膳の悪いのに引替えて、いつもこの場を
一座の者が一本腕のがんりきのために、或いは殺され、或いは斬られて、手を負わぬものは一人もない
それを見ていた神尾主膳は、
「百蔵、もう一丁融通してくれ、頼む」
と言い出すと、
「殿様、
「左様なことを言わずにもう一丁融通致せ、
「駄目でございますよ、新手を入れ替えたところで、返り討ちにきまっておいでなさいますから、今宵のところはこの辺でお思い切りが肝腎でございますよ」
「どうしても融通ができぬか」
「冗談じゃございません、このうえ融通して上げたんじゃ、勝負事の
「けれども貴様、それじゃ勝ち過ぎる」
がんりきが縦横無尽に場を荒すのを神尾主膳も
「がんりき、それでは
「よろしうございます、相当の抵当を下さるのに、それでも融通をして上げないと、左様な頑固なことは申しません。そうしてその抵当とおっしゃいますのは」
「この品だ」
神尾主膳は、青地錦の袋に入れた
神尾主膳は秘蔵の刀を当座の抵当に与えて、それで、がんりきからいくらかの金を融通してもらいました。けれども不幸にしてその金もたちどころに、がんりきに取られてしまいました。案の如く見事な返り討ちです。片手で自分の膝の前に
「ナニ、今日はわっしどもの目が出る日なんでございます、殿様方の御運の悪い日なんでございます、殿様方がお弱いというわけでもございませんし、わっしどもがばかに強いというわけなんでもございません、勝負事は時の運なんでございますから、これでまた、わっしどもが裸になって、殿様方がお笑いになる日もあるんでございますから、わっしどもは決して愚痴は申しません」
場金を掻き集めて
「それからこの一品、どうやら、わっしどもには不似合いな品でございますが、せっかく殿様から
「がんりき、ちょっと待ってくれ」
神尾主膳が言葉をかけました。
「何か御用でございますか」
「その刀は置いて行ってもらいたい」
「よろしうございますとも、抵当にお預かり致したものでございますから······」
「知っての通り、今、その方に支払うべき持合せがない、明日までには都合致すが、その一振は家の宝じゃ、そちに抵当に遣わすと言ったのも一時の座興、手放せぬ品じゃ、置いて行ってもらいたい」
「これは恐れ入りました、その手で、いままで殿様にはずいぶん御奉公を致しておりまする、今晩もまた一時の座興なんぞとおっしゃられてしまっては、友達の野郎に対しても、がんりきの
片手で青地錦に入れた一振を取っておしいただき、
「皆様、御免下さりませ」
お辞儀をして、さっさと立ってしまいました。
神尾主膳はじめ一座の者は、
がんりきの百は神尾の屋敷を出た時に、青地錦の袋に入れた刀を背負っていました。
上弦の月が中空にかかっているのを後ろにして、スタスタと歩き出すと、
「もし百さん」
と言って塀の蔭から出たのは、女の姿であります。
「誰だい」
「わたしだよ」
「お角か」
「あい」
「何しにそんなところへ来てるんだ」
「お前さんが来るのを待っていたのだよ」
「家に待ってりゃあいいじゃないか」
「そうしていられないから出て来たんじゃないか」
傍へ寄って来たのは、女軽業の親方のお角であります。
「どうしたのだ」
「どうしたのじゃない、お前、またこのお邸へ入り込んだね」
「入っちゃ悪いか」
「悪いとも······だけれど、今はそんなことを言っていられる場合じゃない、手が入ったよお前。手が入ったから、あすこにはいられない、あすこへ帰ることもできない」
「そうか」
「これからどうするつもり」
「どうしようたって、どうかしなくちゃあ仕方がねえ、やっぱり逃げるんだな」
「どこへ逃げるの、わたしだって着のみ着のままで、ここまで抜けて来たのだから」
「だから、俺は俺で勝手に逃げるから、お前はお前で勝手に逃げろ」
「そんなことを言ったって······」
「まあ、こっちへ来ねえ」
がんりきは、お角を塀の蔭へ連れて来て、
「幸い、今夜はこっちの目と出て、これこの通りだ。山分けにして半分はお前にくれてやるから、こいつを持ってどこへでも行きねえ」
「そうしてお前は?」
「俺は俺で、臨機応変とやらかす」
「そんなことを言わないで、一緒に連れて逃げておくれ」
「そいつはいけねえ、おたげえのために悪い」
「お為ごかしを言っておいて、お前はこのお邸のお部屋様のところへでも
「馬鹿、そんなことを言ってられる場合じゃあるめえ」
「それを思うと、わたしは
「何を言ってるんだ」
「もしお前がそんなことをしようものなら、わたしはわたしで
「そんなことがあるものか」
「そうにきまっている、そんならちょうど面白いや、あの女から
「持って行きねえ」
「もう無いのかい」
「それっきりだ」
「その背中に
「こりゃ脇差だ、これも欲しけりゃくれてやろうか」
「そんな物は要らない」
「さあ、それだけくれてやったら文句はあるめえ、早く行っちまえ、こうしているのが危ねえ」
「それでも······」
「まだ何か不足があるのかい」
この時、二人の方へ人が近づいて来ます。がんりきとお角は離れ離れに、塀の側と
「何をしやがるんだい」
やにわにがんりきに組みついて来たものがあります。
それと見たお角は、前後の思慮もなくその場へ飛びかかりました。
「貴様は||」
覆面の侍の後ろから飛びかかったお角は、直ちに突き倒されてしまいました。
「神尾の廻し者だろう、大方、そう来るだろうと思っていた」
がんりきは片手を後ろへ廻して、侍の
「それをやってたまるものか」
片腕のがんりきは両手の利く侍よりも喧嘩が上手でありました。侍の腰がきまらないところを一押し押して振り飛ばすと、覆面の侍は前へのめってしまいました。
「ざまあ見やがれ」
いつしかその後ろから、また一人の覆面の侍が出て来て、
「どっこい」
と組みつきました。
「まだいやがる」
がんりきはそれと組打ちをはじめる。その
「いけない」
と言って、ほぼ一緒に起き返ったお角が、その侍の手に持った刀へ
「この女、
「泥棒、泥棒」
お角はこう言って大声を立てようとした、その口を侍が押える。お角は必死になったけれど男の力には
「この野郎」
喧嘩にかけて敏捷ながんりきは、足を
「お角、だまっていねえ、泥棒泥棒なんて言っちゃあいけねえ」
と言いながら、持って逃げようとする袋入りの刀を、また引ったくろうとする。前に投げ倒されたのがまた起き直る。蹴倒されたお角がじっとしてはいない。
この
お角は何だかわからないけれども、がんりきの危急と見て格闘の仲間入りをしました。女だてらに負けてはいないで、武者振りついていました。
「あッ」
という声でお角は慄え上りました。
「百さん、どうおしだえ」
お角は我を忘れてがんりきを呼ぶ途端に、一人の覆面のために烈しく地上へ投げ出され、その拍子に路傍の石で
それからどのくらい経ったのか知れないが、お角は介抱される人があって呼び
しかし、同じ覆面の侍でも今度の侍は、前の覆面の侍とは確かに相違していることがわかります。人品も相違しているし、
「お女中、気を確かにお持ちなさい、お怪我はないか」
と背を撫でているのは、その
「はい、有難う存じまする、別に怪我はござりませぬ」
お角はすぐにお礼と返事とをしました。
「何しろ危ねえことでございます、血がこんなに流れているから、わっしどもはまた、お前様がここに殺されていなさるとばかり思った」
気味悪そうに提灯を突き出して
「血が流れていて人が殺されていないから不思議。お女中、そなたはいずれの、何という者」
「いいえ、あの······」
「包まず申すがよい」
「あの、わたくしは······」
お角は問い
「これには何ぞ仔細があるらしい、ともかく屋敷へ同道致すがよかろう」
と言ったのは、人品骨柄のよい覆面の武家でありました。その声を聞くと
「いいえ、わたくしはここで失礼を致します、もうあの、大丈夫でございますから」
と言って、やみくもに袖を振切って駈け出してしまいます。
一行の人はその挙動を
その屋敷というのは駒井能登守の屋敷であって、覆面の品のよい武家は主人の能登守でありました。
このことについて、その翌日、何か風聞が起るだろうと思ったら、更に起りませんでした。あの附近を通った者が、血の
甲府の市中にもこのごろは辻斬の噂が暫く絶え、御老中が見えるという噂も、どうやら立消えになったようであります。それで甲府の内外の人気もどうやら気抜けがしたようであったところに、はしなく士民の間に火を
八幡の流鏑馬は古来の吉例でありました。それは上代から毎年八月十五日を期して行われたのでありましたが、久しく
この発企は、駒井能登守から出たものと言ってもよろしいのであります。能登守の家の重役が八幡の古例を調べ出して、ふとこのことを能登守に話すと、能登守はそれは面白い、その古例を復興してみたいものだと言いました。それを上席の勤番支配太田筑前守に話してみると、筑前守も喜んで同意を表しました。それに並み居る人々も、単に上役に対する
すでにその辺から
二月初卯の日、八幡社前において三日間の
初めの二日は古例によって、甲州一国の選ばれたる人と馬||あとの一日は甲府勤番の士分の者。それに附随して
能登守の家来たちは、八幡社前の広い場所に縄張りをしました。大工が入り、人足が入り、馬場を設けたり
能登守自身もまた馬に乗っては、この工事の景気を時々巡視に行きました。これはもとより能登守一人の催しではないけれども、最初に言い出した人であるのと、地位の関係から、ほとんど能登守が全部の
能登守の
殊に主人の駒井能登守が砲術の名手として聞えた人であるだけに、その家中から、ロクでもない人間を出してしまっては、それこそ取返しのつかない名折れであると思って、重役や側用人たちは、もうそのことで心配していました。
それがために例の重役や側用人らが苦心を重ねているうちに、どうしても聞き捨てにならぬことが出来たと見えて、重役が主人の
「このたびの流鏑馬のお人定めは、誰をお指図でござりましょうや······就きまして我々共、容易ならぬ心配を致しおりまする。と申すのは、かの神尾主膳殿の許に、信州浪人とやら申す至って弓矢の上手が昨今滞在の由にござりまする、それは必ずやこのたびの流鏑馬を当て込んで、例の意地を立て、わが手に功名を納めんとの下心と相見えまする。あの神尾主膳殿は何の宿意あってか、いちいち当家に
家来たちは心からこのことを憂いているのであり、また憂うることに道理もあるのでありましたが、能登守はそれを知ってか知らずにか、
「そりゃそのほうたちが思い過ごし、このたびの催しは、寸功を争うためにあらずして、国の兵馬を強くせんがため······しかし、其方たちの申すことも疎略には思わぬ、追ってよき人を見立てて沙汰を致そう」
「仰せながら、もはや余日もいくらもごりませぬ、一日も早く御沙汰を下し置かれませぬと。本人の稽古と準備のために······」
「その辺も心得ている、それ故、家中一同にその用心を怠らず、いつ沙汰をしても驚かぬようにしているが肝腎」
能登守自身も必ずや、このことを考えていないはずはない。事は
この時分、神尾主膳の屋敷では、このごろ召抱えた信州浪人の小森というのが、主人の御馳走を受けながら、しきりに用人たちを相手に気焔を吐いていました。小森の年配は四十ぐらい、名は小森だが実は大きな男でありました。
「拙者の流儀は、信濃の国の住人
と言って得意げに語るところを見れば、騎射に相当の覚えのあるものであることに疑いないらしい。
「このねらい方というやつが······人によってはこれを
小森は柱に立てかけてあった塗弓を手に取りながら、ねらい方のしかたばなしをはじめました。
「
と言いながら小森は、中黒の矢を一筋とって弓に
「しかし、これは遠いところを射る時のねらい方で、もし五十間より内ならば、その節にはみな弓の左よりねらうようにせねばならぬ。
「平地にて射る時、馬上にて射る時にも、その心得にいろいろの差別がござりましょうな」
と座中から問うものがありました。
「いかにも」
と小森は
「騎射というても、もとより
こう言って
主膳はこの人を招くことにおいて非常な苦心をしました。人を
宇津木兵馬はその時分、もうすっかり身体が
今は日に増し元気も血色もよくなってゆくのに、兵馬はひとりその部屋で机に向って読書に
その時に、二階へ上って来る人の足音を聞きました。それが二人の足音であった時には、お君がお松の手引をして来るのであるし、それが一人の足音である時は、能登守が見舞に見えるのが例でありました。今は一つの足音であったから、能登守にきまっていると、兵馬は襟を正して待っていると、
「兵馬どの」
果してそれは能登守でありました。
「これはこれは」
と言って兵馬は、
「退屈でござろうな」
「こうして読書を致しておりますれば、さのみ退屈にも感じませぬ」
「毎朝一度ずつは、庭へ出て散歩をなさるがよかろう。いずれ近いうちには、自由の身にして上げたい、もう暫くこのままで辛抱されるように」
「有難きことに存じまする、なにぶんのお指図をお待ち申し上げまする」
「時に宇津木どの、ちと保養をしてみる気はないか」
「保養と仰せあるは?」
「気晴しに、面白い遊戯をしてみる心持はないか」
「それは、永々の
「別に拙者の相手を所望するのではない、どうじゃ兵馬どの、馬に乗ってみては」
「それは一段と結構なことに存じまする、承りてさえ心が
「馬に乗ることのほかに、さだめて御身は弓をひくことも得意でござろうな」
「弓?······それもいささかは心得ておりますれど、ホンの
「ともかくも、馬に乗りて弓をひくことの保養をして御覧あれ、明日とも言わず、ただいまより庭へ出でて、馬を調べ、弓矢を
「それは願うてもなき仕合せ。しからば仰せに従いて、これより直ちに」
「
兵馬は喜んで、能登守のあとに従いました。
その日から宇津木兵馬は、能登守の邸内の馬場で馬を責めました。馬は有野村の藤原家からすぐって来た栗毛の
そうしているうちに、二月
八幡の社前で流鏑馬が行われるのみならず、竜王の河原では花火が打ち上げられました。町々の辻では太鼓の会がありました。それで甲州一円の人が甲府の市中へ流れ込みました。最初の二日は、名は流鏑馬であるけれども実は競馬であります。
馬場の一面には、八幡宮の鳩と
南の方の真中に両支配の
一般の見物は東の口から潮のようになだれ込みました。これらの者のためには地面へ
市街からの道々へは露店が軒を並べてしまいます。
少し風がある分のことで、天気は申し分がないから、朝のうちに広場は人で埋まってしまいました。
やがて合図の花火が揚った時分に、桟敷が黒くなりはじめました。先任の支配太田筑前守は、
組頭や、奉行や、目附、同心、小人の士分の者も続々と桟敷へ詰めかけて来ました。その前から沙汰をして、近国の士分の者も同じくその桟敷に招かれたのが少なからず見えるようです。
それよりも人の目を引いたのは、これら士分の者の奥方や女房たちが、
桟敷の上には、同じく鳩と
そのうちに、競馬のはじまる時刻が近づいて、国内から
「御支配様」
という声のする東の口を見れば、そこから黒く
「好い男だなあ!」
と見物の者が感歎しました。それは
「好い男だなあ!」
とどよめいたことほど、能登守の男ぶりは
「まあ、御支配様」
と言って
こうして能登守は、先任の太田筑前守がいる桟敷の前まで来て馬から下りて、筑前守とおたがいの
能登守の後ろには小姓が附いていないで、若党の一学が
能登守が着座しても、まだ競馬の始まるまでには時間があります。その間は、見物が見物を見ることによって興味がつながれてゆきました。
見物はそれぞれ勝手に上下の人の噂をし合います。
けれどもその噂の中心が、どうしても能登守に落ちて行くのは争うことはできません。
「ああ、
と思わず大きな声で歎息して笑われたものもありましたけれど、笑ったものもまた同じような思いで能登守の姿をながめていました。
雛壇の連中は、さすがに口に出してそれを言うものはなかったけれども、その眼が一人として能登守の後ろ姿を追わないものはありません。
さきには人気の焦点であったこの赤い雛壇が、能登守の姿を現わしたことによって、その人気を奪われてしまいました。場内の人気の焦点から暫く閑却されたのみならず、当の自分たちまでが、能登守の人気に引きずられてゆきました。
大入場では、あれはどなた様の奥方である、あれは誰様のお嬢様、あのお嬢様より
「それでいったい、あの駒井能登守様の奥方様はどこにおいでなさるのだ」
という問題が出て、一方は能登守の桟敷へ、それから一方はまた、一時閑却していた雛壇の方へ向いて、
「あの美しい殿様の奥方というお方の
という物色にかかりましたけれど、不幸にしてそれは誰にも見当がつきませんでした。そこでまた議論が沸騰します。
あの殿様にはまだ奥方が無いのだという説が起りました。いいや、あのくらいの身分になって奥方が無いはずはないという説も出ました。それでは見たことがあるかという
けれども、そのいずれにしてもみんな想像説に過ぎません。弥次と喜多とが拾わぬ先の金争いをするようなことになってゆくことがおかしくあります。
ああいう美しい殿様の奥方はさぞ美しかろう、
よけいなお世話ではないか||大入場では、先からこのよけいなお世話で沸騰していましたけれど、もともと影を追っての沸騰ですから、議論の結着しようがありません。
結局、三日のうちには、必ずその奥方が一度は姿を見せるであろうから、その時に鉄札か金札かを見届けようということで議論が定まりかけた時分に、裏庭で一発の花火が揚りました。それを合図に
例の雛壇のうちには、この日は、どちらかと言えば奥方連の方が多いのでありました。その奥方連も、若い奥方連がこの日は多く見えていました。その若い美しい奥方連の中に、太田筑前守の奥方ばかり四十を越した年配の、
両支配の次の桟敷には、神尾主膳がその同役や組下の連中と共に、ほとんど水入らずで一つの桟敷を占領していました。
ここでは主膳が大将気取りで、座中には酒肴を置いて、主膳は真中に、いま
そのうちに、人がどよめいたから、主膳はなにげなく番組の刷物を眼からはなして馬場の方を見ると、今、駒井能登守が前を通り過ぎたところです。
能登守の男ぶりが、場内の人気となって騒がれている時でありました。それを見ると神尾主膳は、何ともなしにグッと
神尾主膳にとっては、駒井能登守というものの総てが癪に触るのであります。その第一が、自分の上席にあるということであります。能登守をいただいて、少なくとも自分がその次席にあるということが、主膳にとっては堪えられない残念でありました。事毎に能登守に楯を突こうというのも、そもそもそこから出ているのでありました。
その後は、見るもの聞くもの、すること為すことが、能登守とさえ言えば腹が立つ種であります。ことに、こんな晴れの場所において、能登守に主人面に振舞われることは、自らの存在を
主膳は自分が主人役になって酒肴を開かせました。一座はいずれも酒盃を手にしたが、やはり見物をながめては、いろいろの品評がはじまります。
ここに集まった人は、おおよそ何人ぐらいあるだろうという答案を
けれどもまた一方において、対岸の桟敷の婦人連を遠目に見て、大入場の連中とほとんど選ぶところのないような品評を試むる者が多くありました。また桟敷以外にいる町民や農家の子女たちを物色して、かえって野の花に目のさめる者がいるなんぞと、興がるものもありました。上役の手前もあり、身分の
あとからあとからと蟻の
これらのあらゆる種類の見物のうちに、まだ一つ閑却することのできない種類の
手の
一口に折助と言ってしまうけれども、団結した折助の勢力には
そのなかには、貸本の筆耕をして
江戸で芝居という芝居を見つくしたと自慢するのもありました。
そのほか、折助のうちには、なかなかの批評家もおりました、皮肉屋もおりました。今日のような時には、その連中はじっとしていられないのであります。またそれをじっとしておらせようなものならば、彼等は折助式の反抗と復讐をすることに、抜け目のあるものではありません。
それ故に、何かの催しのある時には、この折助に渡りをつけることを忘れてはなりません。今日の
酒樽と煮しめとをたくさんに仕込んで、八日市の酒場を繰出したこれらの折助の一隊何十人は、ほどなく馬場へ繰込んで、この桟敷下へ陣取りました。ここで彼等のうちの批評家と皮肉屋は何か見つけて、腹をえぐるような、胸の透くような文句を浴びせかけてやろうと待ちかねています。
折助がこの席に着いた時分は、駒井能登守はもう着座していた後のことであって、折助は、桟敷下の
ところが、はじめて気がついたように、赤い雛壇のところで眼を据えてしまいました。何か言おうとして
このほかに、まだ一つ大目に見なければならないものがありました。それは名物の
けれども、これは慣例に従って大目に見て、それぞれの親分なる者の権力を黙認しておきさえすれば、取締りにそんなに骨の折れることではありません。
この連中は別に流鏑馬を見たいわけではなし、また見物を見に来るのでもなく盆の上の勝負を争いに来るのだから一見してこの社会の者ということが知れるのであります。
ところがここに、なんとも見当のつかない二人の者がこの日、東山梨の方のどこかの山の中から出て、裏山伝いをドシドシ歩いて甲府の方へ出て行くのは、やはり流鏑馬をめあてに行くものと見なければなりません。
人に見えないところを歩いて行く間の二人の足は、驚くべき
二人とも笠を被って長い
「大へんな景気だな」
と言って立ちどまったところは
「大当りだ」
と言って若い方が笠の紐を結び直しました。そうすると年配の方は、松の根方の石へ腰をかけて煙草を
若い方は別に煙草も喫みたがらず、腰もかけたがらずに、しきりに馬場の景気、桟敷の幔幕、真黒く波を打つ人出、八幡宮の
年配の方は七兵衛であって、若い方はがんりきの百蔵であります。どこにどうしていたのか、この二人は流鏑馬を当て込んで、また
ただこの機会に何かしてみたいという
だから、二人がこうして小高いところから、
二人が仕残した仕事といったところで、七兵衛は兵馬の消息を知りたいこと、それとお松とを取り出して安全の地に置きたいこと、その上で本望を遂げさせてやりたいこと、それら多少の善意を持った物好きがあるのだろうけれど、がんりきときては、何をいたずらをやり出すのだか知れたものではありません。
二人がこの小高いところから下りて、人混みの中へ紛れ込んだのは、それから幾らも経たない後のことであります。
その日の競馬はそんなような景気でありました。その翌日の競馬はそれに
両日共に日は暮れるまで勝負が争われ、勝った者は馬も乗り手も揚々として村方へ帰り、負けた者は後日を期した意気込みを失いません。かくて第三日となりました。今日は最終の日で、そうして晴れの流鏑馬のある日でありました。それが士分の者によって行われようという日であります。
この日になって、雛壇の
「あれだ、あれだ、あれがソレあれだよ」
この二日の日において、支配の太田筑前守の老女を初め、重立った人の奥方や女房や女中たちの面も大抵わかったし、その品評もほぼ定まったけれども、今日そこの桟敷に姿を現わした美しい人は、その例外でありました。前二日には全く姿を見せなかった人であるのみならず、その桟敷も一間を占めて、太田筑前守の夫人にもおさおさ劣らぬほどの格式で見物に来たものですから、疑問が大きくなりました。
「あれがそれ、駒井能登守様の奥方よ。どうだ、おれの言った通り
例の見物席にこんなことを言い出すものがありました。
「なるほど」
それらの見物の眼は、
そう言われて見れば、それに違いないと思うもののみであります。奥方とはいうけれども、そこに
これは大入場の観客の問題となったのみならず、士分の者や、町民の
太田筑前守は、席を占めていたけれど、駒井能登守はまだ見えません。
神尾主膳は、それよりも先に例の一味の者を語らって、例の桟敷に詰めていましたが、やはり評判につれて、向い合ったこの桟敷に現われた美しい女房の姿を、目につけないわけにはゆきませんでした。
「なるほど」
主膳の左右にいる者の小声で
「そうか」
神尾主膳は遠くから、皮肉のような
「あれが······」
と言って主膳は、その目を細くして、わざとらしい不審の色を浮ばせました。
そのわざとらしい不審の色が、
「はははは」
と、そんなに高くはなかったけれど、
そのうちに太田筑前守の老夫人が、また前の日のように多くの女中を連れて、婦人席の第一の桟敷へ来ました。
第一の桟敷、第二の桟敷というけれども、それは長い一棟で、金屏風を以て仕切られてあるのみです。
老夫人の一座が、そこへ席を占めて後に、その召しつれた人々によって
それらの婦人たちが、
第二の桟敷に来て噂の種となっている美しい姿は、それは、お君の
お君の方はこの日、老若四人の婦人たちを連れて||というよりはその婦人たちにせがまれて、この席へ見物に見えたものであります。
お君はここへ見物に出ることをいやがりました。人中へ出るのが嫌いだと言って断わろうとしたのを、殿様が御主人役で晴れの催しであるこの
それでぜひなく、お君の方はこうして桟敷の人となりました。桟敷の人となってみると、勢い評判の人とならずにはおりません。どうも多くの人の見る眼と、囁く口が、自分の方にばかり向いているように思われて、お君は、ここへ来てから度を失うようにオドオドしていました。
連れて来られた女中たちは、そんなことは知らずに大喜びで、馬場や、見物客や、
「御免あそばしませ」
第一番の桟敷から、女中の取締りでもしているような女房が一人、案内を乞う声によって、狼狽したのはお君の
「どなた様」
お君の方の老女は迎えに出ました。
「筑前守内より使に上りました」
「筑前守様のお内から?」
それでお君の
「これは、まことに粗末な品でござりますれど、能登守様のお
使に来た女中が捧げているのは、
「それはそれは」
お君の方の一座は、恐縮したり当惑したりしてしまいました。
この際、こんなことをされては有難迷惑の至りで、もしそれをせねばならぬ礼式があるならば、こちらから先にするのが至当でありましょう。それを向うから持って来られてみると、好意を受けないわけにはゆかないし、またその好意なるものが、形式
「こちらから御挨拶に出ねばなりませぬところを、
老女は
とにかく、こうして贈り物を受けてみると、その返しに苦心しないわけにはゆきません。こんな苦心はお君にとっても、女中たちにとってもいやな苦心であります。
仕方がなしに、使をワザワザ邸まで飛ばせて、筑前守の奥方から贈られたのと同じようなものを調えて、それを老女に持たせてやりました。
老女が帰って来ると、隣席ではヒソヒソと囁き合って、やがてドッと笑う声がしました。それがかなり意地悪いことにお君の方の胸に響きます。
それが済むと、やがて隣席から二度目の交渉がありました。前の女中がやって来ての口上には、おたがいにこうして窮屈に見物をするよりは、いっそ、この隔ての屏風を取払って、仲よくお附合いをしながら見物しようではないかとの交渉でありました。
こちらの老女は、これを聞いてまた当惑して、主人のお君の方の
「せっかくではござりますれど、手前共はみんな
という意味で、老女は程よくその交渉を断わりました。
筑前守の奥方の方でもそれを押してとは言わないで、左様ならばと言ってひきさがりました。お君は、かさねがさねそれが不安でたまりません。隣席のすることはどうしても意地が悪い||もしその中に自分の
こんなことなら来ない方がよかったのにと思いました。しかし来てみれば、いまさら帰るわけにはゆきません。自分が帰ると言い出せば、せっかく興に乗った連れの女中たちを失望させなければならないことを思えば、お君は、じっと針の
「お君様」
と名を呼んで訪れた者がありましたから、お君は頭を上げて見ると、それはお松でありましたから、
「お松様」
お君はここでお松を得たことを、百万の味方を得たほどに喜びました。
「お君様、ここで拝見させていただいてよろしうございますか」
「よいどころではございませぬ、さあさあこちらへ」
お松はお君のいるところへ訪ねて、一緒に見物をさせてもらいに来たのは、お君の
お君の方について来た女中たちもまた、喜んでこのお客を
お松もまた、ほかに席があったのだろうけれども、わざわざここをたずねて見物を同じにさせてもらいたいほど、ここへ来るのを喜んでいました。
お君と並ぶようにして席を取って、馬場の人出を見渡したお松は、桟敷の方に目を注いでいるうちに何かに驚かされて、ただならぬ色を現わし、
「お君様、この
ちょうどその時に、相図の花火が揚りました。今日はこれから、今までに見られなかった
花火の相図と共に、
御簾を下ろそうとしたお松も思わずその手を控えて立ちながら、多くの人と共に馬場の東の方をながめます。
十六人の
「お松様、そうしてお置きあそばせ、御簾が無い方がよろしいではございませんか」
女中たちは、なまじい御簾を下ろされて、せっかくの
「では、このままにして置きましょう」
と言って、御簾を卸すことをやめたけれども、心配は自分のことでなくて、お君の身の上にあるようでした。だから改めて坐り直す時に、わざと身を以てお君の前へ坐って隠すようにしながら、
「お君様、あれに、わたくしどもの主人が」
と言って、そっと前の桟敷を指して示しました。
「どのお方」
とお君がなにげなく、お松に指さされた方を見て、
「あ!」
と
その時に、ちょうど十六人の射手はこの桟敷の下を通りかかりました。お松は、お君が
「第一番は、筑前守様の御家来で正木様。あのお方がそれでございましょう」
と番組と人とをお松は見比べながら、
「第二番は能登守様の御家来で小川様······」
と言って、番組と人とをまた引合せながら、
「お君様、あなたの殿様からおいでなされたお方は、まだ若いお方でございますね」
お松の蔭に隠れるようにしていたお君は、小さい声で、
「主人のお小姓でございます」
と言っている時に、その人は桟敷の下へ来て
「お君様」
「はい」
「あなた様のお家のお方は、薄化粧をしておいでになりました」
「ごらんになりまして?」
「確かに······」
「その通りでありまする」
お君とお松とは頷き合いました。その時にお松の心が
古式に
「早や
というと、十六人が同時に、
「承りて候」
と言って一斉にその場をさがって、おのおの引かせた馬に
その時に、四十八人の的持はてわけをして北の方の的場へ
第二番は||宇津木兵馬でありました。ここでは仮りの名を小川静馬と言い、綾藺笠を
第三番は小森蓮蔵||これもまた
こうして見れば、なんらの波瀾もありません。駒井家から出た者も、神尾から出した者も、一様に功を
それから第四番以下は、第三番までとは段の違った射手でありました。三枚とも的を砕くのは甚だ稀れで、大抵は三本の矢のうち一本は
この十六番の射手が
「あれは駒井能登守様のお
兵馬はなるべく人に
神尾主膳は過ぎ行く十六騎の射手を見送っていましたが、小森はそこへ来ると得意げに挨拶する。
主膳はそれに会釈しながら、その次に来る宇津木兵馬の
流鏑馬が済むと、他の射手は、まだ仮屋にいる間に宇津木兵馬だけは引離れてしまいました。兵馬は流鏑馬の時の
兵馬が行くとそのあとを、二人の同心がつけて行きました。
流鏑馬が終って花火が盛んにあがりました。そろそろ帰りに向いた群集と、これから繰り出して来る連中とで、人出は容易に減退の色を見せません。
「お帰りだお帰りだ、奥様方のお帰りだ」
という声で、人波の
前の
兵馬もまた、この人波の揺返しの中へ捲き込まれて、押されて行くよりほかはありません。押され押されて行くうちに、ついその女中たちの行列と押並んで歩かねばならないようになりました。この際、
「喧嘩だ!」
この声はよくない声であります。この場合にこんなよくない声の聞えるのは不祥なことであったけれども、この行列の練って帰らんとする行手で、
「喧嘩だ、喧嘩だ」
続けざまに聞えたので、スワと聞く人は顔の色を変えました。
「そーれ、喧嘩だ」
甲州の人間は、人気の荒いことを以て有名であります。今日の催しとても、単に流鏑馬の神事だけを以てこの景気を打留めにするのは物足りないと思っているところへ、
「喧嘩!」
この声は、無茶な群衆心理をこしらえ上げるのに充分な声でありました。
女乗物の行列の前後左右から
しかし、この女乗物の行列には多分の附添もいるし、沿道の警戒も行届いているから、それに
「喧嘩だ、喧嘩だ」
前の方の騒ぎが大きくなるにつれて、後ろの方の弥次の声も大きくなりました。しかし、そのいずれも、この身分のある女房たちに危害を加えようとして起った叫喚でないことは確かであります。
今、とある小屋掛けの中から
裸一貫といっても、腹には新しい
その小屋掛けから跳り出した時には、左の片手に短刀を
「どうでもしてみやがれ」
短刀を振り廻した左の手首にも血がついているし、面の
「野郎、ふざけやがって······」
小屋掛けから一団の壮漢が、そのあとを追って飛び出しました。
それらの者を見ると、いずれも博徒であります。
喧嘩! というのはこれであった。つまり博徒の喧嘩なのであった。
この
「無礼者、控えろ」
お供先の足軽や侍が駈けつけました。
「どうでもしてみやがれ」
短刀を
「控えろ!」
棒を持ったのが、追っかけて来る博徒を
「野郎、ふざけやがって······」
「無礼者、控えろ」
ここでお供先の足軽や侍は、博徒連を取押えるために、彼等を相手に格闘せねばならなくなりました。
「喧嘩だ、喧嘩だ」
と群衆は、いよいよ沸き立たないわけにはゆきません。
短刀を左の手で揮った裸の男は、右の手が無いにも拘らず、その
女乗物を囲んでいる女中たちは泣き出しそうです。
宇津木兵馬のあとを追うていた二人の同心は、この騒ぎでも兵馬を見捨てて、その騒ぎの方へ出向くことを
「左様、それでは」
一人が一人の耳に口をつけて
この時は、すべての催しが済んで花火が盛んに揚りました。崩れ立った人の足、帰りに向く人も、出かけて来た人も、そこで食い留められ、吸い寄せられて、押す、踏む、倒れる、泣く、叫ぶ、喧嘩ならぬところに喧嘩以上の動揺の起ることは
喧嘩の起りはたった一人の
ここで青地錦の袋へ入れた刀を口に
百蔵一人がエライわけではないけれど、百蔵一人のために大混乱を引起して、その大混乱が
「野郎、逃がすな」
それと見た博徒や
それで下の騒ぎが上へうつったのと、役人たちの取鎮めとが効を奏して、下の方の動揺は鎮まりましたけれども、下の動揺が上へ登った時に、かえってことを一層の
それは今までこのことの騒ぎが、いったい何に原因するのだかわからずに騒いでいた連中が、仰いで見れば、ともかくもその
がんりきは
「野郎、逃がすな」
と
この時分に、短刀を投げ捨ててしまっていたがんりきは、それでも青地錦だけは口に
小屋から小屋を飛んで歩いたがんりきは、いつのまにか馬場の桟敷の屋根へ飛び移っていました。
「それ、野郎が桟敷の屋根へ飛んだ」
蛙のような
彼等は一旦、小屋の尽きたところで飛び下りて、
「エッサ、エッサ」
桟敷の柱と屋根とは、みるみる裸虫で鈴なりになってしまいました。
桟敷の屋根の上をツーと走ったがんりきの百蔵は、正面の
この望外の見物をどうして見残して帰れるものか。流鏑馬の競技があまり上品に取り行われて、期待したほどの興味を
沈んだ日暮とはいうものの、
これから屋敷へ帰ろうとした神尾主膳もまた、この騒ぎを見物しないわけにはゆきません。主膳はその一類の者と共に馬場の下から、桟敷の上の舞台面を見上げているうちに、何に気がついたか、
「小森殿、小森殿」
と呼びました。
エッサエッサという裸虫は両方から取詰めて、がんりきの百蔵は、正面をきって彼等を待ち受けるよりほかは身動きのならぬ立場に至ってしまいました。右の方は八幡宮の屋根までは距離が遠いし、前は馬場、後ろは控えの小屋、どちらへ向いても人が充満しきっています。
「野郎」
「何をしやがる」
とがんりきは左の拳を固めて、眼と鼻の間を突くと、裸虫が仰向けに桟敷の上から突き落されました。
「この野郎」
つづいて飛びかかる裸虫、
「
がんりきは平手でピシャリと
「野郎」
第三の裸虫。
「ふざけやがるな」
第四の裸虫。
「この野郎」
第五の裸虫。
「野郎、野郎」
第六の裸虫とそれ以下の裸虫。
屋根の上の裸虫は、おたがいにとって勝手でもあり不勝手でもありました。
ことに、片腕の無いがんりきの百は、片腕が無いだけ、それだけ捉まえどころが少ないわけであります。がんりきの立場から言えば、取組ませては万事休するのですから、その敏捷な身体のこなしと、自由自在な一本の腕を以て、敵に組ませないうちに突き落してしまうに限るのであって、がんりきはよくその策戦に成功しました。
青地錦に包んだ長い物だけは、抜く暇がなかったか抜かない方が勝手であったのか、がんりきの百は、その紐を口に
寄せて来た裸虫も、がんりきを取って押える目的と、一つにはその青地錦を
もどかしがってこの屋根の上の組んずほぐれつの活劇を見ていた神尾主膳の許へ、小森蓮蔵が弓矢を携えてやって来ました。
小森は流鏑馬の時の姿ではなく、羽織は着ないで袴だけつけて、やはり
小森を迎えに行った侍がそのあとから、二十四差した
「小森殿、早う」
と神尾主膳が招きました。
「何事でござる」
「小森殿、大儀ながら、あの悪者を仕留めてもらいたい」
神尾に言われて、屋根の上の騒ぎを見ていた小森の眼には、やや迷惑の色がかかりました。
「いったい、あれは何事でござる」
「あの中での悪者は、あれあの袋に包んだ太刀を持っているその片腕の無い奴がそれじゃ、察するにあの太刀を奪い取って逃げようとするのを、大勢に追いつめられて、逃げ場を失ったものと見ゆる。しかし、片腕ながら、大勢を相手にひるまぬところは
「
小森は念を押しました。
「確と左様、あの悪者を射て落せば事は落着する、万一、このままで同類が加勢すると容易ならぬ騒動になる」
「しからば仰せに従い、あれを一矢
「それは念には及び申さぬ、なまじ
「しからば、仰せの通りに仕る」
「命があってはかえって後日の面倒、ものの見事に
「しからば」
小森蓮蔵は片肌を脱いで、
「卑怯だ、卑怯だ」
という声がこの時、周囲の群集の中の誰からともなく起って、
「まだどっちがどうなんだかわからねえんだ、それを無暗に遠矢にかけるのは卑怯だ、もうちっとばかり待てやい、これからの立廻りが面白いんだ」
やはり誰ともなく叫ぶ声であります。それには頓着なく小森蓮蔵は、弓をキリキリと満月のように引き絞って覘いをつけた的は、屋根の上のがんりきの百であります。
小森は弓を満月の如く引き絞りましたけれども、組んずほぐれつの間に、がんりきだけへ矢先を向けることがむずかしい。ほかのやつらへは怪我をさせないで、がんりき一人を射て落そうとするために、覘いに時間を要するらしい。
その間に、見物はようやく不穏の色を以て、小森の
「なにも、ああやって、飛道具を用いるまでのことはなかろうじゃねえか、悪い者なら行って
「よせやい、よせよせ、弓なんぞよしやがれ」
と遠くから罵るものもありました。
「
という者もありました。
見物は、もとより、屋根の上の騒ぎが何に原因して起り、ドチラが善いのか悪いのかわかってはいないけれども、それを遠矢にかけようという大人げない武士たちのやり方には、満足することができないのであります。そこで人気は険悪になって
神尾主膳らは、いっかな屈せず、凄い目をして、ややもすれば暴動をしそうな、左右の群集を睨めていました。ともかくもその威勢で群集は
正面の馬見所の大屋根の上では、がんりきが一人舞台で、大勢を相手に立廻っていることは前の通りであります。組ませないで突くという策戦がよく成功して、大勢の命知らずを
これはと驚く小森の手に、持った弓の
「無礼者」
小森は弦の切れた弓を抛り出して、刀を抜打ちにすると、
「
抜打ちにした小森の
それよりも早いのは、いま桟敷の下へ潜ったかと思うと、もうその裏から同じ男の姿が桟敷の屋根の上に現われたことでありました。
「あれよあれよ」
といううちに、その男は平地を飛ぶように桟敷の屋根の上を飛んで、正面大屋根の
弦を切って投げつけた
小森は歯噛みをしたけれど、見物は一度にドッと
「
と怒鳴った時は、小森の矢が幔幕へ当ってダラリと落ちた時でありました。彼等はその大人げない侍が、
「態あ見やがれ!」
と喝采したのであります。そこに別の人が潜り込んでいて、花鋏でいま張り切った
彼等が認めることのできなかったのは無理もないことで、すぐその傍にいた神尾主膳をはじめ数多かりし侍たちまでが、小森の飛んでもない失策が何によったかを知ることができないで、
さすがに小森だけはそれを知って、直ちに弓を捨てて刀を抜きましたけれど、花鋏を受け留めただけで、当の敵にはサッパリ手答えがありません。
その時は、もう
「この鋏で、これこの通り。憎い奴だ」
小森は落ちた花鋏を拾い上げて、神尾に示し、人混みの中に紛れ込んでいた奴が、不意にこれで張り切った
「実に言語道断の
屋根の上の旅人体の男を小森は空しく指して、無念の
それで侍たちは
「それそれ、面白いぞ、手んぼうの方へ加勢が出た」
その加勢は幸いに
しかし、二人になってみると、もう大向うを喜ばせるような
「それ飛んだ飛んだ、屋根から飛び下りたぞ」
という声が桟敷の裏の方から起りました。なるほど、表から見て屋根のうしろへ隠れたと見た時は、二人は相ついで高いところから僅かの地面へ軽く飛び下りてしまっています。
「そうれ、逃がすな」
裸虫どもは続いて飛び下りる、取巻いていた群集は道を開く。
「こうなりゃこっちのものだ、芋虫ども、ならば手柄に
群集がパッと散って開いてくれた道を、笠に合羽の旅人体と、裸体に脚絆のがんりきとが
二人は街道、人家、畑の中を区別なく北を指して駈けて行く。それを追蒐ける裸虫も弥次馬も、要するに二人の逃げて行く逃げっぷりに比べると、芋虫のようなものです。
その夕べ、能登守の邸から、能登守の
けれども、この乗物はお役宅へも行かず、御城内へも入らず、お代官のお陣屋へでもおいでになるのかと思えばそうでもありません。長禅寺まで来てこの一行が止まったから、さては何か不意の御用があって、このお寺へ御参詣のことと思われました。長禅寺は甲州では
方丈と暫らく対談があったらしく、やがて乗物とお供とがここから帰って行く時分に、その裏山の
さては、能登守の乗物で来たのは本人の能登守ではなくて、この宇津木兵馬であったろうと思われる。
長禅寺の裏山の林の中を潜って、とある木蔭に腰をかけた兵馬は、そこで息を
甲府へ来てから兵馬はいろいろの目に遭いました。僅かの行違いから、永久に日の目を見ることができないことになるところでした。ともかくもこうして
これから兵馬の落ちて行こうとする
甲府で世話になったいろいろの人に
けれども、これは永久に甲府を去るの
兵馬はその目的で、松の林の中の闇に紛れて、道なき山道を進んで行きました。
前の日に七兵衛やがんりきが通って来たと同じ道、そこで馬場を見下ろした要害山の後ろから、
その提灯の通るところは、西山梨から東山梨へ出る間道であります。大方、こっちの方から今日の
ほどなく自分の隠れている眼の前へ来た提灯は、初めに兵馬が見つけた時も、ただ提灯だけで人声がしませんでしたけれど、いま眼の前を通り過ぎる時も、やはり話の声がしないで甚だ静かなものであります。
淋しい山路を
いよいよ前へ来た時に、木蔭から
ははあ、これはお祭の帰りではない、婚礼かとも思いました。婚礼にしては、あんまり
前に
八幡村で小泉といえば、わが
お浜は死んでしまったけれども、その母なる人も、兄なる人も、兄の嫁なる人も、その夫婦の間に出来た子供までも兵馬は知っているのであります。
裏街道を越えてその家まで遊びに来た昔の記憶も残れば、ことに嫂のお浜が、自分の来ることを喜んで、手ずから柿の実などを折ってくれた優しいことの思い出も、忘れようとして忘れられません。あまりの懐かしさに兵馬は、あと
けれども、今の兵馬の身ではそれも遠慮をしなければなりません。ぜひなく兵馬はいろいろの空想に駆られながら、その駕籠の後ろを追うて同じ方向へと進んで行きました。
駕籠も提灯も相変らず物を言いません。何か話でも起ったならば、その駕籠の中なる人が、おおよそ見当がつくのであろうにと思いました。
こうして暫らく山路を進んで行くうちに、
「その駕籠、待たっしゃい」
という声で、山路の静寂が破られました。「待たっしゃい」という声は、少なくとも士分にゆかりのある者でなければ、掛けられない声でありましたから、さては向うから進んで来た侍の何者かによって、その駕籠の棒鼻が押えられたものだろうと兵馬は、またそこに止まってなりゆきを見ていました。
「八幡村の小泉家から、今日の流鏑馬を御見物の客人二人、ぜひにお泊め申そうとしたのを、どうあっても今夜中に帰らねばならぬ用向きがござるそうな、それ故に夜分を
「いやもう御遠慮なく。今日の騒ぎと言い、近頃はどうも世間が落着かない故に、我々も毎晩こうしてこの山路を宵のうち一度ずつお役目に廻るのでござる。左様ならばお大切に」
双方でこんなことを言い合って、疑念も
兵馬は木蔭からそれをもやり過ごすと、それからの山路はまた静かなものになってしまいました。提灯も駕籠も附添のものも、何も言いません。
山路のつれづれに駕籠の中にいる人は、何とかお
五里の山路がこうして尽きて、駕籠は八幡村へ入りました。
二挺の駕籠はその屋敷へ入って行きました。その屋敷こそ、兵馬には忘るることのできない
兵馬はそれを
恵林寺へ行く宇津木兵馬と前後して、八幡村の小泉家へ入った駕籠の後ろのは机竜之助でありました。その前のはお銀様でありました。それを兵馬がそれとは知らずに送って来たことも、計らぬ
二人をここへ送ってよこしたのは神尾主膳の計らいであります。机竜之助は主膳の手では殺せない人でありました。また殺す必要もない人であります。お銀様は主膳の手でどうかしなければならない女であります。生かしておいては自分の身の危ない女であります。しかしながら、神尾主膳は、机竜之助を殺す必要のない如く、お銀様を亡き者として自分の罪悪を隠さねばならぬ必要がなくなりました。なんとならば、それはお銀様が机竜之助を愛しはじめたからであります。机竜之助はまた、お銀様の愛情にようやく満ち足りることができたらしいからであります。
お銀様の竜之助を愛することは火のようでありました。火に油を加えたような愛し方でありました。眼の見えない机竜之助は、お銀様を単に女として見ることができました。女性の表面の第一の誇りであるべき容貌は、お銀様において残る方なく
お銀様にはもはや、幸内の亡くなったということが問題ではない。神尾の毒計を
この