君達の中には、
ところで、この本に書かれてある良寛さんは、偉かつたらうか。
なる程、大人達は良寛さんを偉かつたといつてゐる。そして良寛さんのいろいろな話が、今でも良寛さんの住んでゐた
だが君達は、この本を読んでゆくうちに、不思議な気がするだらう。こんな坊さんの
さういつて、途中でこの本をおつぽり出してしまつてはいけない。もう少し我慢して先へ読んでいき給へ。
さうだ、ひよつとすると君達の方が、すばやくほんたうの良寛さんの偉さを、見ぬいてしまふかも知れない。大人達が気がつかないでゐることを、君達の方が先に解つてしまふかも知れない。何しろ、君達子供の眼は、ちつとも濁つてゐない、よく澄んでゐるから。
私はこの本のお
もう一つ、良寛さんの話をする前に、ことわつておきたいことがある。それは、良寛さんのいろいろな言ひ伝へが、沢山残つてゐると私はいつたが、それらは、どうしたことか、皆良寛さんが年をとられてからの事ばかりなのだ。老人になつた良寛さんの話ばかりが残つてゐて、良寛さんが子供だつた時分は、どんな風だつたかといふ話は、まるで残つてゐない。ひよつとすると何処かの家のお倉の中にでも、良寛さんの少年時代のことを、書いた本がしまつてあるかも知れないが、今のところまだそんな本を知つてゐる人はないのだ。だから、少年時代の良寛さんのことは、よく解らないのである。
しかし君達は、良寛さんの少年時代のことも聞きたいだらう。そこで私は、それを聞かせてあげることにした。良寛さんの子供時代は多分こんな風だつたらう、こんなことがあつたらうと想像して、その話を君達にしてあげよう。
では、良寛さんの少年時代から、話をはじめることにする。
紀元二千六百一年四月二十九日
新美南吉
手毬
かすみたつながき春日をこどもらと
てまりつきつつ今日もくらしつ
鉢の子
春の野にすみれつみつつ鉢の子を
わすれてぞこしあはれ鉢のこ
良寛
[#改ページ]その出雲崎の町に、数十代前から続いて来てゐる、由緒の正しい一軒の家があつた。土地の人達は
今から百七八十年も前に、橘屋に男の子が生れた。家の人々は喜んで、
栄蔵はお
そのうち、或日遊びから帰つて来ると、弟が生れてゐるといふので栄蔵はびつくりする。弟には
そしてそれからは、大勢の弟や妹が、ぼつくりぼつくり生れて来るので、栄蔵はもう、一々どんな日に誰が生れたかといふことなど、覚えてはゐられない。
まだ七つばかりの栄蔵は、春も近い暖い日、近所のお寺へ遊びにいつてゐた。
子供達は十人ばかり、お
十人ばかりの子供達のなかには、まだこの間、佐渡ヶ島から越して来たばかりの、色の黒いぬけめのない
「ぢや、
「
と答えた。
「金山つて、掘るといくらでも小判がざくざく出て来るの?」
「さうさ、ざくざく出て来るのさ。でも小判ぢやないよ。金の塊だよ。そいつを
「ふうん。」
みんなは感心して
栄蔵も熱心にきいてゐた。栄蔵はほんたうは、佐渡ヶ島から来た角ちやんに、佐渡ヶ島の
「佐渡に相川つて町があるでせう。」
さういつてききたかつた。その言葉が、のどの所まで来てゐたが、そこでいざとなるととまつてしまふのである。といふのは、いつも栄蔵はみんなと話をしなかつた。何か話をしかけると、みんなは栄蔵の言葉に笑ひ出すのであつた。その言葉が、女みたいだとか、のろくさしてゐるとかいつて。そしてどうかすると、みんなはあちらへ走り去つてゆきながら、こんな
名主のうちの
昼あんどん。
名主のうちの
馬鹿 むすこ。
昼あんどん。
名主のうちの
昼あんどんといふのは、人を
「そいぢや、角ちやん
と一人の子が佐渡から来た子にきいた。
「ううん。」と角ちやんはちよつと詰つたが、すぐかういひぬけた。「父ちやんは
「ふうん。」
みんなは、また唾を
すると突然、
「小判つてどんなもん?」
と年の少い子が無邪気に
「馬鹿だなあ、きまつてるぢやないか。小判つて······。」
とその子の兄さんがいひ始めたが、ほんたうは自分も知らなかつたので顔をあかくした。
すると他のものもみんな、自分達が今までに一度もほんたうの小判を見たことのないのを思ひ出した。かうなると、こんな話はもう面白くない。
佐渡から来た角ちやんが、みんなの心をそらさないやうに、
「佐渡ぢやね、こんな唄をうたふんだよ。」
といつた。
「どんなの?」
とみんなは、また眼を輝かせて角ちやんの黒い顔を
すると角ちやんは、
佐渡は
四十五里
波の道。
雨風吹いても
宿がない。
雨風吹いても
宿がない·········。
四十五里
波の道。
雨風吹いても
宿がない。
雨風吹いても
宿がない·········。
どこかでいつか聞いたことがあるとみんなは思つた。なあんだ、越後にだつてあるぢやないか、お
その中でも、一番その唄をいいなあと思つたのは、少し離れたところに、かがんでゐる栄蔵であつた。栄蔵はすつかりその唄に心をつかまれてしまつたので、もうそれから先、みんなの話には耳をかさなかつた。口の中で、いくどもいくども今きいた佐渡ヶ島の唄を、くりかへしてゐた。
お母さんも小さかつた時分、この唄を謡つたのかも知れない。ひよつとすると、今でも覚えていらつしやるかも知れない。家へ帰つたらきいて見よう||さう思つて、栄蔵は小声でその唄を練習して見た。
声に出すと、なかなかうまくうたへない。これぢやちつとも哀しくも美しくも聞えない。そこでまた栄蔵はうたつて見る。
佐渡は
四十五里
波の道。
雨風吹いても
宿がない。
雨風吹いても
宿がない·········。
四十五里
波の道。
雨風吹いても
宿がない。
雨風吹いても
宿がない·········。
「わあつ。」
と一同がそれをきいて
案の定、
「あいつ、女みたいな声でうたつてたよ。」
と一人が一同に報告した。
「あいつ、女みたいな
とまた一人がいつた。
栄蔵はくやしくて泣けさうになつて来た。
「ほら、見てごらん、もう泣くよ。ほら涙が出て来たよ。見られると
「意気地なしだなあ。ほんとに女みたいだなあ。」
「女なもんかい。男だい。」
と栄蔵が顔をあげてみんなを
「そんな眼で睨んだつて
「女なもんかい。男だいッ。」
「そんなら男のすること何でもするか。」
「するよッ。」
「よゥし。」
といつてその子は
「そんなら、
といつた。
鐘を撞くと、舟にのつてゐるれふしや
「撞かんぢやか。」
といつた。
「よし、撞けッ、撞けッ。」
栄蔵は鐘楼にのぼつた。腕白な者が四人ばかり、つきそふやうにあとからのぼつた。
栄蔵はもうそれでいいことだと思つて綱をはなした。すると腕白者の一人が、
「何だ、一つきりか、一つきりぢやお話にならんや。」
といつた。
栄蔵はやけつぱちで、
「まんだ撞くよッ。」
とまた綱を握つて二つ目をついた。するとまた腕白者が「何だそれつきりか。」とひやかすので、また栄蔵はついた。
同じことを繰返し繰返し、七つか八つ撞いたとき、庫裏の方から坊さんが、
「この
と
子供達はかういふことには
息ぎれがして、顔色が一層
栄蔵のお
「あんたんとこの栄蔵ちやんが、鐘をおもちやに撞いて困りますで、叱つてやつて下さい。」
と門口でいつて、それなりさつさと行つてしまつたのである。
あとに残された栄蔵は、
お家の人達はあつけにとられてしまつた。あんまり
「そんなとこに突つ立つてゐないで、兎も角、家ん中へおはいり。」
と何はさておき、お祖母さんがいつた。
栄蔵はいはれるままに、黒く澄んだ眼をうつむき加減にしてはいつて来た。そしてこんどは、土間の真ん中に突つ立つと、長い
「そいぢや、今さつき鳴つた鐘は、お前がついたのか。」
とお祖父さんが、今日は厳しい顔できいた。長い間名主をしてゐたお祖父さんは、
栄蔵が、お祖父さんの問にうなづくと、お祖母さんが、
「随分よう響いたぢやないかえ。栄坊にほんな力があるなら、何も弱虫ぢやないよ。心配することなんかありやしないよ。」
と
「あんたは黙つてゐなさい。」
とお祖父さんは、お祖母さんをたしなめた。今は喜んでゐる場合ではない。
それから、お祖父さんは例の口調で、
栄蔵の答は一向要領をえなかつた。時々こくりとうなづくばかりで、あとは
それで結局、お祖父さん達には、次のことがわかつたのである。||お寺の鐘をついたのは、
さてそこで、これは打ち
この橘屋では、何十年もの間、子供をこらしめるといふやうなことは無かつた。お祖父さんには子供が一人もなくて、栄蔵の父も母も、よそから
そこでお祖父さんは、
心では栄蔵を
「蔵の
とお祖母さんにいひつけた。
重い戸がごろごろと閉められて、外でぴしつと錠前のかかる音がすると、栄蔵はこの暗い蔵の中で一人ぽつちになつた。
かそかに聞えて来る波の音のほか、外からは何の物音も伝はつて来ない。ぢき近くの家にゐる
なるほど寂しい。このままいつまでも、ここにゐなきやならないとしたら、どんなだらう。お祖父さんはきつと、間もなく開けに来てくれるだらうけれど、もしかみんなが栄蔵のことを忘れてしまつて、出してくれなかつたら、どういふことにならう。
栄蔵は、泣き出してしまはうかしらん、と思つて、ふつと息を吸ひこんだが、その時急に或事を憶ひ出したので、泣出すのをやめた。それは、いつかお父さんについて蔵にはいつたとき、二階の窓際に本箱があつて、中には本がぎつしり詰つてゐたのを、見たことであつた。
幸ひ、眼が闇に
二階に来ると、そこはぱつと明かるい。海に面した方の、鉄格子のはまつた小さい窓があいてゐたからである。窓の近くでは一層波の音が近く聞える。
栄蔵は本箱のふたを
栄蔵はまだ
そこで栄蔵は、本を一冊づつ手にとつて、始めから
栄蔵はもう、自分が罰をうけて蔵に入れられたことも忘れて、本に夢中になつてしまつた。
蔵の外のお祖父さんは、しばらく耳を澄ましてきいてゐたが、少しも泣き声らしいものが中から聞えて来ない。
こんな筈はない。いくら蔵の戸が厚いからといつて、お祖父さんが子供だつたときしたやうに、大声で
||ではわしも、とうとう耳が遠くなりはじめたのか、と思つて、お祖父さんは、片耳を戸に押しあててきいた。
中はしいんとしてゐる。
お祖父さんは心配しだした。ひよつとすると、
お祖父さんは、
果して返事がない。
お祖父さんは、ますます慌て出した。てつきり栄蔵が、気絶してしまつたと思つたのである。きつとその辺の
「栄坊ッ。」
中へはいつていつて呼んだ。
すると二階でごとごといふ音が、お祖父さんの耳に聞えて来た。
栄蔵は、お祖父さんの声を聞くと、びくつとした。急いで本を押しこむと、ふたをしようとしたが、
そこへお祖父さんがあがつて来た。
「栄坊、何だ、こんなとこにゐたのか。」
「············。」
「何をしてゐるのぢや。」
「············。」
栄蔵は悪いことをしてゐる最中を、見つけられたと思つてうつむいた。
お祖父さんは、まだはまらない本箱のふたの、うしろからのぞいてゐる本と、栄蔵の顔を
「お前は本を見とつたのか。」
栄蔵はもう仕方がないと思つて、こつくりと
するとお祖父さんは、やさしい声になつて、
「さうか。栄坊は本が好きだつたのか。そんならこれから、お前に学問をさせて本を読ませてやるぞ。ここにある本は、みんなお前のものになるのだ。」
といつた。
お祖父さんは、小さい栄蔵のうちに、学問を好む一つの魂の芽生えを見たのである。お祖父さんにはそれが嬉しかつた。||代々橘屋は学問を愛して来た。この子もまたそれを受けついで愛してゆく。かうして橘屋の将来は、いつまでも
お祖父さんが、本を
「泣くことなどあるか。」
とお祖父さんが、本箱のふたをしめてくれながらいふと、一層泣けるのであつた。
お母さんもお祖母さんも、仕事など手につかず、おろおろして、栄蔵が出て来るのを待つてゐた。
お祖父さんはお母さんに、
「お
といつて、涙でよごれた顔の栄蔵を渡した。
栄蔵は別の部屋へつれてゆかれて、お母さんに顔を拭いて貰つた。
「こはかつたでせう?」
とお母さんは、ついでに長い耳まで拭いてやりながら訊ねた。
「ううん。」
と栄蔵は頭をふつた。そして、急にうれしいことを憶ひ出したやうに、につこり笑つていつた。
「お母さん、この唄知つてる?」
それから、角ちやんに聞いた佐渡の唄を、少しも間違へず、すらすらとうたつて、お母さんにきかしてあげた。
佐渡は
四十五里
波の道。
雨風吹いても
宿がない。
雨風吹いても
宿がない······。
四十五里
波の道。
雨風吹いても
宿がない。
雨風吹いても
宿がない······。
遅い
と或日の
栄蔵は
そのうち、
さういふ人
栄蔵は、いい着物にきせかへて
酒屋では、
松さんの歩調について、肩の上の四斗樽は、たつぷん、ちやつぽんと深い音を立てた。「や、たつぷん、ちやつぽん。」と松さんは、
すると奇妙なものが、庭の
栄蔵は近寄つて見た。それは犬のやうな険悪な目ではなく、
栄蔵は、不思議な
我に帰つて、栄蔵は、近所でかまどの下に火を
「そりや
鹿の仔。
鹿の仔。
何といふ
栄蔵は、再び鹿の仔に近づいていつた。
「
栄蔵はさういつて、近くの子供を呼びにいつた。そしてその次の家でも、また同じやうなことをいふのであつた。
「
金ちやんも勝ちやんも、うすのろの
「ほうら、ね。」
栄蔵は家の角をまはつたところで、もういふのであつた。
||なァんだ、ただの鹿の仔ぢやないか、と金ちやんと勝ちやんは、つまらなく思つた。そして
しかし、ここまで来ると、もう帰る気はしなかつた。かまどの上の大きいお鍋が、ぐつぐつ歌つてゐて、うまさうな
それに、まんざら鹿の仔にたいしても興味がないわけではなかつた。棒切で突つついて見たら、どんな悲鳴をあげるだらうか。
しばらく四人は、鹿の仔のまはりに立つて
しかし
「これ、何
と、金ちやんが先づいつた。そして
鹿の仔は、松葉の匂ひを
すると金ちやんは怒つて、ぴしやりと松葉を鹿の仔の顔に投げつけた。鹿の仔は驚いて、向かふへ逃げようとしたが、首の縄が柿の木につないであるので逃げられなかつた。
栄蔵は、何といふひどいことをするのか、と思つて金ちやんを
うすのろの豊ちやんは、金ちやんよりもつといけなかつた。鹿の仔が逃げようとして逃げられないのを見ると、豊ちやんは喜んで「わァい。」と叫んだ。それから「わァい、わァい。」と続けざまに
豊ちやんは、栄蔵より三つか四つ
「ほい、さうかな。」
と松さんは大げさにいつて、
豊ちやんは、
その松さんが、まもなく栄蔵をもつと喜ばせてくれた。松さんはかういつたのである。
「栄坊ちやんが、そんなに鹿の仔が好きなら、持たせてあげよかね。」
そして縄を柿の木から解いて、その端を栄蔵の手に握らせてくれた。
栄蔵はおづおづ縄の端を持つてゐた。鹿の仔が安心しきつたやうに、逃げようともしないのがむしやうに嬉しかつた。
「鹿は栄坊ちやんが好きだと見えるな。さういへば、栄坊ちやんもどつか鹿に似てますな。」
と松さんはお世辞をいつた。お世辞でも栄蔵はそれが嬉しかつた。
「そいぢや、海の方へいきませう。栄坊ちやん、
どういふわけで海の方へゆくのか、栄蔵は知らなかつた。ただ鹿の仔が従順について来るのが可愛らしかつたので、ふりかへりふりかへり、石に
松さんが隠して持つて来た
だが次の瞬間には、足元の白く乾いた砂の上に、
金ちやん達は、
「おうォ。」
と感嘆の声をもらした。
「よつこらしよつと。」
仔鹿は、かぐろくうるんだ眼を、無心にぱつちりあいてゐた。ざざァと寄せて来て、またざざァと帰つてゆく、ゆるやかな波の音を、耳すまして聞いてゐるやうに見えた。
栄蔵は、自分の眼の下のところが、ひきつるやうな気がした。手足がわなわなと
突然、みんなの
「栄坊ちやん、
と松さんが呼んだ。
しかし栄蔵は、向かふの方でお母さんが呼んででもゐるかのやうに、ふり向きもせず走つていつた。しかも、お母さんも
「海つぱたの砂の上に寝ころがつて、おお※[#小書き片仮名ン、286-上-6]おお※[#小書き片仮名ン、286-上-6]と泣いとりました。
さういつてれふしは、お礼に出された一ぱいのお酒と仔鹿の肉を頂くと帰つていつた。
栄蔵は、お母さんに抱かれるやうにして、お客さん達のゐない部屋につれてゆかれた。
まるで魂をぬかれた人間のやうに、栄蔵はうつろな眼をしてゐた。二、三ときまへ着せかへて貰つたよい着物は、潮と汗でぐつしより
お母さんは驚きと悲しみでおろおろした。
「栄坊ちやん、お前はどうしたの。」
栄蔵は、うつろな眼でお母さんの眼をじつと見てゐて、どこかがひどく痛むやうに、顔をゆがめるばかりだつた。
ほんたうに栄蔵の心は痛んでゐた。栄蔵はしみじみ悲しかつた。何といふことがこの世にはあるのだらう。何といふ
やがてお
うとうと眠りかけたお母さんは、しくしく鼻をすする音に、また眼をさまされた。
「栄坊、お前は泣いてゐるのね。」
「············。」
浪の音がするばかりで、世間はしんと寝しづまつてゐるのに、まだ栄蔵はしくしく泣いてゐる。
お母さんは、
栄蔵は眼をこすりながら、体を起してふとんの上に
「お母さんにいつてごらん。お母さんなら何でもいふもんですよ。」
栄蔵は眼をしばたたいて、いはうかいふまいか迷つてゐた。
そして、
「母ちやん、鹿の仔を殺したんです。」
と一声いふと、ふとんの上に木のやうに倒れ、ふとんを
お母さんは、長い間行燈の光の下で波うつてゐる栄蔵の肩を見つめてゐたが、やがて栄蔵の体をかき起した。
そして栄蔵の、涙に疲れた眼の、奥の奥の深い色を見たとき、栄蔵のほんたうの悲しみが、お母さんにわかつた。
お母さんには、もういふ言葉がなかつた。自分も泣きながら、やさしく栄蔵の背をさすつてゐるだけだつた。
「よし、それぢや今日は、一つお話をきかせてやらう。」
と、年とつたお坊さんがいつた。広い境内を掃くのを、栄蔵や金ちやんが手伝つてあげると、このお坊さんは喜んで、いつも
なあんだ、つまらない、といふ顔を金ちやんがした。栄蔵もどちらかといへば、お饅頭の方がよかつた。
しかし、話なんか聞きたくありませんといふと、いかにもお饅頭がほしさに、お掃除の手伝ひをしたやうに思はれて
秋の
そこでお坊さんは話しはじめた。
その話はかうだ。
昔、ひとりの旅人が旅をしてゐた。
その人はひとりぼつちで旅をしてゐた。
雨が降つても風が吹いても旅をしてゐた。
ひるまは歩いてゆき、夜は
まるで空を流れる雲のやうに、あてどもなく旅をしていつた。
お
彼は
子供達は彼を見ると石を投げようとした。しかし、彼の眼の色が鋭かつたので、ふりあげた腕をおろした。
渡し守は、彼が渡し舟に乗るのを
彼はくたびれると草をしいて休んだ。
彼はさうして、はてしもなく旅をしていつた。
何故その人はそんな旅をしてゐたのだらう。それはかうだ。その人には以前兄さんがあつた。兄さんは笛の名人だつたので殿様に愛されてゐた。しかしそこへ、別の笛の名人が現れた。そして別の笛の名人の方が、ずつと上手に笛を吹いた。そこで殿様の愛は別の笛の名人の上に移つてしまつた。兄さんは大層その笛の名人を恨んだ。或月の美しい晩、兄さんはその笛の名人を待ち伏せて殺さうとした。二人は刀をぬきあつて闘つた。しかし反対に、兄さんの方が殺されてしまつた。そして別の笛の名人は、何処かへ行方をくらました。武士の家のしきたりでは、兄さんが殺されると、弟が兄さんの
しかし、仇敵はどこに何をしてゐるのか
或年の秋の或日、その武士は尋ね尋ねて遂に
そこで武士は大路に面した家に宿をとつた。そして二階の窓から通を
ちやうど今日のやうな、秋の陽ざしの静かな日で、武士の見下してゐる都大路には、往き来の人の間に、黄色い
ふと武士は、くびが
米粒の小さいやうなもので、こまかいこまかい足が生えてゐて、陽のさす方へうぢうぢと
武士はすぐ
しみじみと虱を見てゐると、過去つた旅の十年間が
武士はこんな風に考へてゐても仕方がなかつたので、掌の虱を始末することにした。
小づかを抜いて、柱の一角を小さくゑぐり、穴をあけた。そして中へ虱を入れると、削りとつた
ここまで話すと、お坊さんは息をつぐためにちよつと休んだ。金ちやんは話を熱心にきかなかつた。話などは退屈なものときめてゐた。話は早く終れば終る程よいと思つてゐた。そこでお坊さんがちよつと休むと、もうその話は終つたものと早合点して「あはあ。」と、つまらない話をきいた少年がよくいふ言葉を発してしまつた。
しかし、栄蔵は深くその話にひきこまれた。それはいつもお坊さんがきかしてくれる閻魔さんや地獄の話とは違ふ。この話の中には何かひきつけるものがある。栄蔵はもつと話の先がききたかつた。そして、この話がずつと長くて、なかなか終らねばよいと思つた。話の好きな少年は話が早く終ることを好まない。話が終つてしまつても、それから先はどうなつたかききたがるほどである。そして大人がきかしてくれないときは、自分で想像していろいろ考へて見るほどである。
さてお坊さんは、話を続けた。
その武士は京都にしばらくとどまつて仇敵を探したけれども、仇敵はやはり見つからなかつた。
そこでまた田舎へいつた。
一年の間、田舎の村々をへめぐつた。
そして一年の後、武士は再び京都にやつて来た。今度京都にやつて来たのは、大体、仇敵が京都にゐるといふ見当がついたからであつた。或
京都では、武士はまた去年の家に宿をとつた。去年のやうに二階のてすりに
沢山の人が静かに往きかつてゐた。こんどこそ、これらの人々の中に、めざす仇敵がゐるのだと武士は思つた。仇敵をうてば、もう乞食のやうな生活をやめるのだと思つた。何といふ長い
ふと武士は去年の虱を憶ひ出した。あの虱はもう死んでしまつたらうか。
武士は柱を眺めた。すると去年、虱を閉ぢこめておいた箇所が見つかつた。あの時から一度も穴のふたは、とられなかつたやうに見える。
武士はふたをこじり出して見ると、中に去年の虱は、小さい体が一層小さくなつて死んでゐた。
一年間も何も
温い陽ざしにあてて、よく見てゐると、虱のこまかい足がかすかに動いた。虱のしなびた小さい体の中に、まだ
そこで武士は面白くなり、腕をまくつて、柔らかなところに虱をのせて見た。
虱は
「私は一年間お前を苦しめたのだから、しばらく我慢して吸はせてやらう。満足するまで吸ふがよいぞ。」
さう虱にいひきかせながら、武士は痒さをじつと
やがて虱の白い体が、血の色にあからんで来た。虱は充分吸つたのである。
そこで武士は、虱をぷつと吹きとばした。虱は何処かへかくれてしまつた。
その夜武士は、旅の疲れの深い
掻いても掻いても痒さは
掻いたあとは、赤くみみずのやうに
異様な物音に驚いた宿の主人が、二階に上つて見た時には、体中の腫れた武士が、体をひつかきむしりながらうめきながら、ころげまはつてゐた。
「これはまァどうしたのですか。」
と宿の主人は
「医者を呼べッ。」
と病人はうめいた。
すぐ医者はやつて来た。医者は薬を練つて病人の体中にべたべたと塗つた。そして病人がまた掻くことを防ぐため、両手を縛つておいた。
七日間武士は、医者の治療を受けて全快した。それはよい医者であつた。この医者がゐなかつたら、武士は痒さに自分の体をひつかき破つて、遂には命を落としてゐたらう。武士は深く医者に感謝した。
その薬は
武士は家もなかつたし、京都には
そこで医者に逐一わけを話した。自分は十年前に死を遂げた兄さんの仇敵を尋ねてゐる。その仇敵もここ数日のうちに探し出して討ちとる目安がついた。さうすれば
「さういふわけですから、しばらく治療代を貸しておいて頂きたい。」
と武士は医者に頼んだ。
医者は黙つてきいてゐたが、
「私は苦しんでゐる人を救つてあげるのが商売です。昔から医は仁術と申します。もしあなたが、ほんたうに貧乏でお金がないのなら、薬は無料で進呈してもよろしい。しかし、あなたは今仇敵を討つと
といつた。
武士は黙つて
医者は自分のいふことをきいて
まんまと医者を
「虱でさへも仇敵を討つために、やせさらぼうて生きてゐた。魂のない、
さうはいふものの、心の善良な医者を騙したことは、
一月程すぎたが、相手は見つからなかつた。武士はそろそろ失望しかけた。旅商人のいつたことは嘘だつたのか知れない。
と或日の夕方、武士は、都の外の寂しい野原で道に迷つてしまつた。人に
風のない夕方で、どこかに水の音がしてゐた。
日が暮れはてて
すると、どこからか笛の音が流れて来た。
笛の音のする方へ武士は歩いていつた。
笛の音は細く美しく澄んでゐて、武士はきいてゐると心が洗はれるやうな気がした。この世には様々の汚いものや見苦しいものや、病気その他の苦しみがあるけれども、それにも
武士はすぐに、自分の仇敵が笛の名人であることを思ひ出した。そして、まさしく今無心に笛を吹いてゐる男こそ、その仇敵であることが解つた。
これが十年間、自分の探し求めてゐた仇敵なのか。武士は不思議だつた。昨日まで、見つけ出したら、有無をいはせず斬りつけてやらうと、歯がみして思つてゐたあの
しかし、討たねばならない。武士たるものの義務である。武士は、刀をすぐぬけるやうに準備した。
道に迷つて来た者の風をして、武士は庭へはいつていつた。
「どなたですか。」
と相手は笛を吹きやめてきいた。
「道に迷つて困りはてました。都へ帰る者です。疲れましたから、少し休ませて頂きたい。」
と武士はいつた。
「さあ、どうぞ。」
と笛吹はいつて、少し退いて場所をあけた。
武士はそこに腰をおろして、
「たいそう御堪能と拝しました。」
と相手の笛の
「いいえ、未熟者です。」
と相手は
二人はしばらく黙つてゐた。
すると笛吹は眼を細くして外の方を見ながら、
「あそこに、ぼうと白いものがあるのは何でせう。」
ときいた。
武士はそつちを見た。家の前から、向かふへ高くなつて行つてる道が、月の光で白んでゐるのであつた。
「眼がお悪いのですか。」
と武士は驚いて
「はい、もう長い間わづらつてゐます。いろいろ医者のてあても受けましたが、悪くなるばかりです。ほんたうの
笛吹がうつむき加減にしてゐる顔を見ながら、武士は
「
と武士はきいた。
「ございません。私の方からお
私の兄を殺したことをいつてゐるのだ、と武士は思つた。
「あなたも笛の音をお好きのやうに見受けました。下手ではございますが、も少しお聞かせしませう。今吹いてゐた曲を終へるまで。」
とやがて笛吹は話をかへていつた。
それから笛はまた、この世やこの世にすむ人々の美しいことをうたひ始めた。
斬るなら今だ、今が一番よい時だと思つて、武士は刀をぎゆつと握りしめた。
笛吹は無心に吹きつづけてゐた。月の光がよく
何度も斬りつけようとあせつたが、武士は刀をどうしても抜けなかつた。
武士は自分のあさましさに気づいた。虱は
その上、自分にはほんたうにその人を斬る
武士は薬代をただにしてくれるとき医者がいつた言葉を憶ひ出した。||私はあなたを救つてあげました。あなたもあなたの仇敵を救つてあげなさい······。
さうだ、私はこの人を斬るのを止さう、と武士は
月の光の落ちてゐる白い細道をのぼつてゆきながら、武士は笛の音をきいた。笛の音はなほも人の世の美しさをうたひ、人の世では皆が愛し合はねばならぬことをうたつてゐた。自分はよいことをしたと武士は思つた。するとひとりでに泣けて来た。
その時から、武士は生活の
これからどうして生きてゆかうかと、しばらく武士は迷つたが、彼のやうな身よりも家もない人が、よく辿る道にしたがつて、僧侶になつた。ちやうどその時分、都の近くの或橋が流され、人々が難渋してゐることを知つて、彼は橋をかける費用をあつめるため、人々の喜捨を請ひ歩いた。
仇敵を探し出すため、さすらつたやうに、彼は人々の難儀を救ふ費用をあつめるため、あちらこちらさまよつたのである。
年とつたお坊さんの話はこれで終つた。
栄蔵は話に深くひきこまれてゐたので、終つてもしばらくは夢見るやうな眼で、お坊さんの前に立つてゐた。
栄蔵の眼には、まだ青い月夜が見えてをり、その耳には、人の世の美しさをうたふ横笛の音が聞えてゐた。
仇敵を討つ
お寺の門から外に出ると、空には日暮の
すると、つれの金ちやんが、
「面白かつたね。そいでも、饅頭の方がいいよ。」
といつた。
栄蔵は黙つてゐた。栄蔵には饅頭を十貰ふより、あの話の方がよかつたと思へた。
栄蔵には妙な癖が一つあつた。お父さんに
それはちよつとした、変な癖だ。しかしどんな癖にもよく考へて見ると、たいてい何か
栄蔵は
栄蔵は自分で、こんな癖はよくないことを承知してゐるのだが、しよつちゆうお友達から
或日お父さんが、何かちよつとしたことで栄蔵をたしなめた時にも、この悪い癖が出てしまつた。栄蔵は黙つて突つ立つて、上目使ひにお父さんの顔を見てゐた。
お父さんはいつもは、いい人だけれど、どうかして浮かぬ顔でもしてゐられる時は、大層怒りつぽくなるので、その日も気短かにかういつて
「何だ。親に向かつてそんな眼をする
栄蔵は眼を伏せた。何か思ひごとのある時のお父さんから、
家を出て来ても、
ちよつとの間、
ふと、さつきお父さんが「親を睨むと鰈になる。」といつた言葉を
しかしそのうちに、あれはほんたうなことかも知れないと思へて来た。といふのは、栄蔵のお父さんは、今まで嘘を栄蔵にいつたことが無かつたからだ。
||きつとほんたうなのだ。して見るとこれは大変なことである。今にも栄蔵の体が、魚屋やれふしがよく売りに来る、あの平たい鰈になつてしまふかも知れない。いや、もうなつてゐるのではあるまいか。栄蔵は
栄蔵は、そこで海岸の方へ足を向けた。
海は
栄蔵は岩のある所を選んだ。岩が寄りあつて、澄んだ美しい水が、そのすそをひたしてゐた。ここまで来ると、もう鰈になつても安心だと栄蔵は思つた。鰈になつたら、すぐこの明かるい美しい水に、とびこめばよいのである。誰かきたら、つつと岩かげに隠れてしまへば、捕まへられる心配もない。
ところで、自分が鰈になつたなら、それからどういふことになるだらう、と栄蔵は考へて見た。鰈といつても、きつと小さな鰈だらう。ちやうど栄蔵の
栄蔵はお父さんが、後悔されることを思ふと、いつそ鰈になつて、鰐ざめに喰はれて見たいやうな気もした。
栄蔵の胸の中には、奇妙な気持が一ぱいにつまつてゐた。そして、今に鰈になるかなるかと待つてゐた。
しかし、人間の子が鰈の子になるのは、なかなか
もうきつとお母さんが「おや、栄坊が見えませんが、どうしたんでせう。」と
ところが栄蔵の家で起つたことは、大体栄蔵のその空想の通りだつた。で、松さんは海岸へやつて来た。
空と海の茜が消えて、岩の蔭はもう暗かつた。松さんはそこに、誰かが小さくなつて、ふるへてゐるのを見た。
「や、栄坊さん。」
といつて松さんは、しばらく二の句が出て来なかつた。やがていつものやうに
「いやですよ、こんなとこにひとりで隠れん坊なんかしてゐちや。」
といつた。
栄蔵は松さんを見ると嬉しかつた。しかし、まだ鰈のことを思つてゐたのでかうきいた。
「
松さんはぷつと噴き出した。
「栄坊さんは
そして二人は家へ向かつた。
お父さんとお母さんは、しばらく栄蔵の顔を愛情のこもつた
このちよつとした出来事は、栄蔵の心に長く残つてゐた。栄蔵はのちのちまで、海べの岩蔭に、家の者が探しに来るのを、待つてゐたときの心持をよく覚えてゐた。
そして或日ふつとまたその事を憶ひ出して、つくづく自分の心を、あさましく思つたのは、栄蔵がもう青年になりかけた頃であつた。その時栄蔵は、自分の心の中は、悪いものがはいつてゐることを
||なるほど自分は、お父さんが仰有つた言葉を真に受けて、鰈になるかも知れないと思つた。鰈になつては大変だと考へて、海べへ行つたのである。しかし、海べの岩蔭に隠れて、日が暮れるまでじつとしてゐたのは、自分を叱つたお父さんに、心配させようといふ下心ではなかつたか。さうなのだ。何といふひねくれたいけない心だらう。叱られた時、
||私の心の中には、いけないものがある、取除かねばならない、いけないものがある、と栄蔵は思つたのであつた。
栄蔵の上を歳月が流れる。栄蔵は十になり十一になる。そして、やがて十四の春がやつて来る。
小さい者が大きくなるとき、年とつた者はこの世から
今では栄蔵は
そこで栄蔵は、少し離れた
塾には二十人程の生徒があつまつて、先生の
先生は生徒の方に向かつて、袴の
栄蔵は
また栄蔵は、日本の昔の物語や物の歌などを読む。それらは筆のあとの柔かく温かな文字で書かれてあつて、声に出して読むと、ちやうどその字体のやうに、素直であたたかであはれ深い言葉である。様々な話がその中には語られてある。妻や子をなくした男の話、夫をなくした妻やその子供の話、遠くの島へ流された父を、はるばると
成績のよい子なら、誰でもするやうに、栄蔵は家でもよく本を読んだ。今では栄蔵も小さい子供ではないので、弟や妹の守をしたり、お使にやらされたり、そのほかいろいろ仕事があつたけれど、少しの暇を見つけては勉強した。
いつか罰で蔵の中へ閉ぢこめられたとき、二階の箱の中に見つけたあの本||お祖父さんや、お父さんの読んだ
雪が降る日にも栄蔵は勉強した。四月、桜が咲いて庭が明かるい時にも読んだ。
栄蔵は学科がよく出来た。だから先生に愛された。しかし、ここでも栄蔵は仲間はづれにされた。そして、ここにはもう一人、仲間はづれになる子がゐた。それは
ところで、いつの間にか栄蔵は、その惣兵衛ちやんと友達になつた。
「お父さんが
と或日、塾から帰るとき、惣兵衛ちやんが栄蔵にいつた。
栄蔵は紙鳶など見たくもなかつたので、
「ふうん。」
と気乗りのしない返事をした。
「ね、来なよ、来なよ。」
と、お友達のない惣兵衛ちやんは、一生懸命にせがんだ。
そこで栄蔵は、紙鳶は見たくなかつたけれど、きつぱり
その日が来ると天気はよかつた。遠くの山脈には、まだ雪がかむさつてゐたが、
「尼ヶ瀬の惣ちやんの家へ行つて来ます。」
といつて栄蔵は家を出た。
少しゆくと栄蔵は、紙鳶の大好きな子のことを思ひ出した。ぢき近くの、
「さうだ、新太郎ちやんをつれてつてやらう。きつと喜ぶから。」
さう思ひつくと、急に栄蔵は心が弾んで来て、
新太郎ちやんは、赤ん坊の妹を
「新太郎ちやん、尼ヶ瀬へ行かないか。長岡から買つて来た大きな紙鳶を、見せてくれるさうだよ。」
長岡から買つて来た紙鳶といふ言葉は、新太郎ちやんの眼に活気を入れた。長岡は
「その紙鳶、何枚張りだ※[#小書き片仮名ン、302-下-16]。」
何枚張りといふのは、紙鳶の大きさを
「
「うん。」
紙鳶ときいては、新太郎ちやんは、じつとしてゐられない。
すぐ二人は出発した。栄蔵は袴をつけてゐたが、新太郎ちやんは、いつものとほりの
行く
尼ヶ瀬にはいると間もなく道の片側に、二階造りの大きい商家があつた。入口の障子には、太い文字で「呉服太物」と書いてあつた。それが訪ねて来た惣兵衛ちやんの家であつた。
「ここだ」
と栄蔵がいつた。
すると今まで元気だつた新太郎ちやんの顔から、すつと元気がひいていつて、情ないやうな
新太郎ちやんは、ここの家なら知つてゐたのである。新太郎ちやんのお父さんは、子供のときからここに奉公してゐた。そして
それで、栄蔵が入口の障子をあけて中へはいつた時も、新太郎ちやんは、人に見られることを
「あのう、惣兵衛さんはおいでませんか。」
と栄蔵は店の人にいつた。
やがて惣兵衛ちやんが出て来て、
「そこののれんをくぐつて奥へ来なよ。」
といつた。
栄蔵はまた入口のところへ
「新ちやん、新ちやん。」
と呼んだ。
新ちやんは向かふの家の軒下から、さつきのままの弱々しい微笑で答へた。そして呼んでもなかなか来なかつた。
おしまひに店の人が入口へ来て、新太郎ちやんを見て、
「何だい、新坊ぢやないか。おめェも来たのか。そいぢやはいるがいい。」
といふまで、新太郎ちやんは叱られた野良犬のやうな様子をしてゐた。
そこで新太郎ちやんは、おづおづしながらはいつて来た。バツの悪い顔付をして、体が小さくなつたやうに見えた。栄蔵が
二人は土間を通つて、のれんをくぐつて、奥の方に来た。
栄蔵はそこで、惣ちやんの家のお母さんや、お祖母さんに
上にあがつた栄蔵は、惣兵衛ちやんにそつと耳打して、
「新ちやんもあげてやりなよ。」
といつた。
惣兵衛ちやんが、お母さんにさういふと、お母さんとお祖母さんは、土間の向かふのはじつこに
「ありや、家にゐた
とお母さんがいつた。
「え? 嘉助の? うんあの嘉助んとこの餓鬼かい。」
と眼鏡をかけたお祖母さんが、まだ新太郎ちやんから眼をはなさずにいつた。お祖母さんは、新太郎ちやんの垢で汚れて白くなつた足を見てゐた。栄蔵は、ひどいことをいふ人達だと思つた。
そんな風で、とうとう新太郎ちやんは上にあげて貰へなかつた。でもそれはあまり不都合でもなかつた。
紙鳶はなるほど立派なものであつた。障子の三分の一位のます紙鳶で、指で
「ほうォ。」
と新太郎ちやんまで、つい自分の野良犬の地位を忘れて
「これ、
と惣兵衛ちやんが得意になつて、うしろに着いてゐる
惣兵衛ちやんは得意になつて、値段までいつた。それは栄蔵がお正月やお祭のときに、お小使に頂くお
紙鳶の好きな新太郎ちやんは、出来ることなら手を触れさせて貰ひたかつた。骨の工合や、紙の張り加減など、さはつて見なければよく解からぬからである。しかしそれをいひ出す前に、自分のみすぼらしい服装や、背中に負つてゐる赤ん坊のお
ところで、間もなく新太郎ちやんにとつてうまい風向きになつた。その紙鳶をあげて見るため、畠の方へ出掛けることに、話がきまつたのである。
「外へ行つて紙鳶あげて来るよッ。」
と惣兵衛ちやんがお母さんにいつた。
お母さんはびつくりして、
「何をいふんだい。あんな紙鳶が子供にあがるもんかい。あれは家ん中に置いといて見てゐる紙鳶だよ。」
といつた。
しかし惣兵衛ちやんは、きかなかつた。
「あげるよォッ。」
お祖母さんが眼鏡越しに、栄蔵と、土間の方へまはつて来た新太郎ちやんを、じろりと見て、
「惣坊、お前は餓鬼達に
といつた。ひどいことをいふ
どうしても惣兵衛ちやんがいふことをきかないと、
「外へゆくと寒いから、もつと着物を着ておゆき。」
さういつて、惣兵衛ちやんを奥へつれていつた。やがて、惣兵衛ちやんは、綿入羽織や、ちやんちやんこをきせられ、ほつぽこ
畠へゆくまでは、惣兵衛ちやんの紙鳶だから、惣兵衛ちやんが持つていつた。しかし惣兵衛ちやんは、着物だけでもう充分重かつた。それに紙鳶は大きく扱ひにくかつた。更にその上、畠まで来ると風があつて、よほどしつかり持つてゐないと、大事な紙鳶を奪はれさうになるのである。だから
いよいよ紙鳶をあげるだんになると、持主の惣兵衛ちやんは、まるでもう役に立たなかつた。疲れてゐる上に、紙鳶をあげる
栄蔵にも出来なかつた。
「新太郎ちやんがやるといいよ。」
と栄蔵はいつた。
新太郎ちやんは、
紙鳶を持つた新太郎ちやんの顔には、その瞬間、生気がさつと流れた。まるで魚が再び水の中へ、入れて貰つたやうな工合だ。新太郎ちやんは、先づ紙鳶のしつぽのあんばいを調べた。それから
専門家である新太郎ちやんの手でも、この紙鳶は、なかなかうまく上らなかつた。なにしろ、これは子供の
新太郎ちやんは、紙鳶の方を惣兵衛ちやんに持つて貰ひ、自分は緒を持つて、何度もやり直したのち、遂に紙鳶を空にうかばせた。少しあがると大層調子がよかつた。春の風をうけて、ぐんぐんのぼつていつた。
空にあがると、卵のやうな眼を剥き出した役者も、なかなか立派に見える。役者は少しづつ頭をふりながら、向かふに浮いてゐる雲を
新太郎ちやんは、どんどん
新太郎ちやんは調子に乗りすぎたのである。風といふものは、地上より空の上の方が、強いといふこと位知つてゐたのである。そんなら彼はこんなに、
あつといふ間に起つた出来事なので、栄蔵にしろ惣兵衛ちやんにしろ、どうしやうもなかつた。二人は
新太郎ちやんは、
「知らんぜや、知らんぜや。」
と惣兵衛ちやんは、新太郎ちやんがまだ帰つて来ないのに、
新太郎ちやんが帰つて来るまで、長い間二人は、一足も動かずに立つてゐた。新太郎ちやんが息を切らして、ベソをかきながら
「知らんぜや、知らんぜや。」
新太郎ちやんは、ベソをかきながら立つてゐるだけで、
「かへせ、かへせ。」
と惣兵衛ちやんがいつた。それは無理な話だと栄蔵は思つたが、何もいふことは出来なかつた。新太郎ちやんは相変らず黙つて立つてゐるだけであつた。
「かへせ。かへさんとてめえの
新太郎ちやんの顔が、ゆがんで涙がぼろぼろとこぼれた。可哀さうだなあと栄蔵は思つた。
役者に逃げてゆかれた三人が、すごすごと畠の道を帰ることになつた。途中まで来ると新太郎ちやんが、さんざん泣いたあとのきつぱりした声で、
「俺、かへすで、お父ちやんにいはんでくれよね。」
といつた。
あんな高価な紙鳶を手に入れるどういふ
銭といふものは、大人が
乞食でさへ子供には出来ない。それだのに新太郎ちやんは、あの高い紙鳶をちやんと買つて返すといつた。しかもお家のお父さん、お母さんに内証で。一体どうしてするつもりなのだらう。||栄蔵には不思議だつた。
しかし或日、
あれからしばらくたつた
すると引潮の中に、
何をしてゐるのだらう。
「新太郎ちやァん。」
と栄蔵は口に手をあてて呼んだ。
新太郎ちやんは、顔をあげてこちらを見た。栄蔵をみとめると、にこつと笑つたが、忙しいときに誰でもするやうに、すぐその
何か捕つてゐるのだらう。
邪魔をしないつもりで、栄蔵が黙つて船にもたれて休んでゐると、間もなく新太郎ちやんが、陸へあがつて来た。棒と思つたのは、
「何を捕つた?」
と栄蔵がきいた。
新太郎ちやんは、にこにこしながら、そばによつて来て、腰につけてゐる小さい
「これどうする?」
新太郎ちやんは、にこにこしてゐて返事をしない。そして、ついて来なよといふやうな顔付をして歩き出した。栄蔵はついていつた。
一軒の船宿のところへ来ると、新太郎ちやんは、ここだよといふやうに、栄蔵の方へにこにこと笑つておいて、勝手口からはいつていつた。そして間もなく出て来ると、垢にまみれた
これで解つた。さうだつたのかと栄蔵は思つた。
それで、もう、どれだけ貯金出来たのだらう。新太郎ちやんはまた目顔で、栄蔵を家へつれていつた。
栄蔵は、背戸口の井戸のところで待たされてゐた。新太郎ちやんは、中へはいつてゆき、やがて出て来ると、あたりに人のゐないのを確めて、
栄蔵は知つてゐた。あのます紙鳶を買ふには、この十倍ものお
その日から栄蔵の頭の中には、新太郎ちやんのぜにさしの姿ばかりが、はいつてゐた。新太郎ちやんの顔を見るたびに、ぜにさしを見せて貰つた。一つか二つくらゐづつ、その度に銭はふえてゐた。
そんな或日、栄蔵は家のために米を
すむとお母さんは、
「ぢや、お駄賃をあげよう。」
と栄蔵の大好物の
栄蔵は手にうけとつたが、ちよつと考へてお母さんに返した。
お母さんは、いつもと栄蔵の様子が違ふので奇妙に思つた。
「お母さん、あのう······。」
といひ出して、栄蔵はためらつた。
「何ですか。」
「これは弟達にやつて下さい。」
「あの子達には、もうあげたから、いいのですよ。これはあんたの分です。」
「お母さん、わたしは、お
さういつて栄蔵は
お母さんは驚いた。栄蔵がお銭をくれなどといつたのは始めてだからだ。お母さんは栄蔵の顔をまじまじと見た。
「本でも買ふのですか。」
「いいえ。」
「それぢや、何にするのです。」
栄蔵はしばらく黙つてゐた。
お母さんの眼には、急に栄蔵が大人になつたやうに見えた。
やがて栄蔵は、
「くれないなら、いいんです。」
とちよつと反抗するやうにいつた。
「あげないことはありません。でも何に
「いひたくないのです。」
お母さんは、またしばらく息子の顔をまじまじと見てゐた。この子を疑ふことは出来ない、と胸の中でいつた。
「どれほど入用?」
「
お母さんは、あちらへ行つて、間もなく帰つて来た。そして栄蔵の手に、お鳥目を十ばかりのせた。
「これで間に合ひますか。」
「こんなに乞食にやるんですか。」
お母さんは笑つて、
「でもこのお
栄蔵は両手の中へ、こほろぎでも入れたやうに銭を持つて、ちよつと会釈して家を出ていつた。お
栄蔵には、まだ一つ心配があつた。勝気な新太郎ちやんが、そのお銭の寄贈を拒んだ上、ぷんぷん怒りはしないかといふことだつた。
「新太郎ちやん、あれどうなつた?」
と栄蔵は、新太郎ちやんの顔を見るときいた。あれといふのは、ぜにさしのことである。
新太郎ちやんは、家の中へはいつていつて、大事なものを持つて来た。栄蔵は受けとつて端つこから、かぞへ始めた。新太郎ちやんも、その
栄蔵は頭をあげて、
「ちよつと、あつち向いてなよ。」
「どして?」
「いいから、ちよつとあつち向いてなよ。あの
新太郎ちやんは、向かふを向いたが、背中の赤ん坊は、お
「だいぶん、ふえたね。」
と栄蔵は空とぼけていつた。
新太郎ちやんは、こつちに向きなほつた。そしてぜにさしを受けとると、
「
といつた。そして眼をパシパシとやつてうつむいた。
「かにしてね。」
と栄蔵はあやまつた。
新太郎ちやんは、何もいふことが出来なかつた。勝気な田舎の貧しい少年は、
新太郎ちやんは、黙つて背戸口から家の中へ姿を隠してしまつた。
栄蔵はそれでよかつた。
新太郎ちやんの努力の、実を結ぶときが遂にやつて来た。新太郎ちやんが栄蔵に応援されながら、苦心に苦心を重ねて、こつそり貯めて来たお鳥目は、ぜにさしにいつぱいになつた。
「今からね、長岡へ行つて紙鳶を買つて来るんだ。」
と新太郎ちやんは、背中の赤ん坊をゆすりあげていつた。その顔は輝いてゐた。
「一人?」
と栄蔵はびつくりしてきいた。
「前に父ちやんについて行つたことがあるから、道、知つとるよ。」
さう新太郎ちやんは、平気らしく答へた。
しかし栄蔵は、新太郎ちやんは心細いに違ひないと思つた。真昼、白く光つて続く長い長い道。川を越えたり、丘をまはつたりしてゆく知らない道。それに、知らない村の子供達は、きつとかういつて石を投げつけたりするのだ。「やあい、
出来ることなら栄蔵は、ついて行つてやりたかつた。しかしお家の用事で、それが出来なかつた。
「道、間違へちや
と栄蔵はいつた。
「うん。」
といつて新太郎ちやんは、すたすたと歩いていつた。そして行つてしまつた。
夕方になつて、栄蔵がお燈明の油を買ひに行つたとき、暗くなりかけた道を向かふから、新太郎ちやんが足をひきずりながら帰つて来た。新太郎ちやんは、やつぱりやり遂げた。大きい紙鳶を、
「よかつたね。」
と栄蔵がいふと、新太郎ちやんは笑はうとしたが、あまり
自分のたやすく送つた半日といふ時間を、新太郎ちやんは、どんなに心と体を労してすごしたか、思ふと栄蔵の胸はいたんだ。
次の日栄蔵は、塾で惣兵衛ちやんに予告した。
「明日、遊びに行つてもいいね。」
「うん、栄坊ちやんなら、いつ来てもいいつて母さんは、いつてゐたよ。」
「ほかの者が行つちやいけない?」
「ううん。母さんは子供が
「新ちやんも行くよ。」
「新ちやん?」
「ほら、あの新太郎ちやん。」
「新太郎ちやん?」
この調子では、惣兵衛ちやんはもう、紙鳶のことを忘れてしまつてゐるかもしれない。忘れてしまはれては大変である。それでは新太郎ちやんの努力が水の
「ほら、いつか紙鳶を一緒にあげた······。」
「紙鳶を?」
案の定、忘れてしまつてゐる。
「お前の家の裏の畑で、紙鳶を一緒にあげたらう。お前の
惣兵衛ちやんは、しばらく眼の玉をぎよろぎよろさせてゐたが、
「うん、そんなことがあつたね。うん、さうさう、家にゐた嘉助の餓鬼ね。」
惣兵衛ちやんの家では、お祖母さんでも誰でも、
「あんなもん、来ん方がいいな。」
と惣兵衛ちやんがいつた。
「一緒に行きたいさうだから、いいぢやないか。」
「どして?」
「どしてつてことないけど······。」
その
そして
「惣兵衛ちやんが見ると、びつくりするよ。」
と栄蔵がいふと、新太郎ちやんは、
「うん。」
と
「ほんとに、こんな、同じのがあつてよかつたね。」
「一軒の家にはなかつたけど、もう一軒の家できいたら、あつた。」
「あれで買へた?」
「夏だもんだで、紙鳶なんか買ふもんが無いから、負けてくれた。」
「新太郎ちやん、こんないい紙鳶、自分のにしたいだらう?」
「ううん。」
と首を横にふつた。
心の
今日の新太郎ちやんは、気が張つてゐたので、惣兵衛ちやんの家の前で、野良犬のやうな
惣兵衛ちやんは、土蔵の
「それ、ミツちやんの弓?」
と栄蔵がきいた。ミツちやんは、惣兵衛ちやんの弟の名である。
「ううん。」
と惣兵衛ちやんは首を横にふつた。ミツちやんは、兄さんのお友達が、いいことをいつてくれたので、嬉しさうな顔をした。さつきからその弓がほしくてしやうがなかつたからだ。しかし兄さんの惣兵衛ちやんは、ミツちやんがちよつとでも弓に手を触れると、
しばらく栄蔵達は、惣兵衛ちやんの仕事を見てゐたが、いつまでたつても
「あのね、惣ちやん。」
といつた。
惣兵衛ちやんは顔もあげずに、
「うん。」
と答へた。
「新太郎ちやんが、いつか逃がした紙鳶ね、あれを買つて持つて来たよ。」
栄蔵と新太郎ちやんは、これをきいたらさすがの惣兵衛ちやんも、びつくりして顔をあげるだらう、と思つた。が、案に相違して、惣兵衛ちやんは竹を下手くそに削つてゐるばかりだつた。そして、
「ンぢや、そこに置いといて。」
とつまらないもののやうにいつた。
栄蔵はすかしを
新太郎ちやんも、栄蔵と同じ感を抱かされたらしく、情ないやうな
惣兵衛ちやんは矢を削つてしまふと、
||よしッ、と栄蔵は、期待で胸がをどつた。惣兵衛ちやんは驚いたに違ひない。そして新太郎ちやんに訳をきき、その努力に感謝感激し、自分の心ない言葉を、あやまるに違ひない。
しかし栄蔵の期待は、またはづれた。惣兵衛ちやんは、まるで紙鳶には興味がないといふやうに、ぷいと横を向いてしまつたからである。
その時、家の中からお祖母さんが、惣兵衛ちやんを呼んだ。惣兵衛ちやんは、はいつていつた。
「栄坊ちやん、おいでよ。」
と惣兵衛ちやんが家の中から呼んだ。きつと何か
「新太郎ちやんもおいでよ。」
と栄蔵はいつた。
新太郎ちやんは、ぐづぐづしたが、
「いいから、おいでよ。」
と無理にひつぱつていつた。
お祖母さんは、貧乏人の餓鬼までついて来たので憎らしいといふ顔付をしたが、仕方がないので、新太郎ちやんにも、
西瓜はおいしかつた。が、そのあとで、三人が庭に出て来ると、大変なことが待つてゐた。ミツちやんが兄さんのゐない間に、とうとう欲望を抑へきれなくなり、兄さんの弓を持つてしまつたのである。そして一層いけないことに、大事な紙鳶を的の代りに使つてしまつたのである。
一本の矢は、役者の右の眼をつぶして突つ立つてゐた。
「ミツの馬鹿つ。」
と惣兵衛ちやんが怒鳴つた。
やつぱり惣兵衛ちやんには、あの紙鳶を買ふために、どんなに新太郎ちやんが、苦労をしたか解つてゐたのだ、と栄蔵は瞬間に思つた。
しかしそれも、栄蔵の早合点だつた。惣兵衛ちやんは、ミツちやんのところへ飛んでゆくと、弓をミツちやんの手からひつたくり、ついでにミツちやんの頭を三つ
ミツちやんは
すると惣兵衛ちやんは、弓の工合を更によく調べて見るために、矢の一本をとつて弓につがへた。
栄蔵は眼のくらむ思ひがした。新太郎ちやんは「あつ。」と声をあげた。惣兵衛ちやんが紙鳶を
「バサッ。」
矢は的にあたつた。そして役者の胸のあたりを大きく破つてしまつた。
||これは何といふことだらう。
なるほど新太郎ちやんが、かへしたからには、もう惣兵衛ちやんの紙鳶には違ひない。
||だが、これは何といふことだらう。
栄蔵と新太郎ちやんは、もう何もいへなくて、黙つてゐた。
こんな家に長くゐるわけはもうなかつた。二人はろくすつぽ
栄蔵は、心にぽつかり穴があいてしまつたやうで、何も考へられなかたつた。二人はお互に視線を避けあつて、道のりの大部分を黙つて歩いた。紙鳶のことなど、もう思つて見るのも嫌だつた。
道ばたに石が立つてゐた。そこから栄蔵と新太郎ちやんは別れるのである。そこまで来ると、新太郎ちやんが、はじめて口をきつた。
「栄坊ちやん、俺、あしたからね、父ちやんについて山の方へ
栄蔵が見ると、新太郎ちやんは、寂しさうに
「どうして?」
とせきこんで
「俺、もう子供ぢやないもん、商売に行くだよ。」
「············。」
栄蔵は、二つばかり眼をしばたたいて、新太郎ちやんと別れた。
日暮の土にうつる、自分の細長い影を見つめて、栄蔵は歩いていつた。すると不意に何かが、胸の底から強い力でわきあがつて来た。
||こんなことがあるものか。新太郎ちやんが、あんなに苦労をして買つて返した紙鳶を、見てゐる前で破つてしまふなんて。これには何かいけないものがある。返したのだからもはや新太郎ちやんに文句はない
かうして考へて見ると、こんな種類の不合理や不正が、世の中には実にたくさんあるやうに栄蔵には思はれた。子供達の間ばかりでなく、大人達の世界にも。
||一体何だらう、それは。
||どうして惣兵衛ちやんは、もつと新太郎ちやんの気持を
||どうして力のある人々は、力のない人々のことを思つてやらないのだらう。どうしてお金のある人々は、貧しい人々の気持を察してやらないのだらう。······
或日の
「どなたかのう。」
と和尚さんはきいた。
「
「うん、出雲崎の? して御用は何ですかのう。」
「これといふ用事もありません。」
「用事がない? それでは遊びに来られたか。」
「いいえ。」
「面白いことを申される御仁ぢや。用事でもなければ遊びでもない······。出雲崎と申すは何といふ家かのう。」
「
「おお、橘屋か。それではあなたは若主人の······。」
「はい、こんど
「おおさうか、知つてをる知つてをる。しばらく見なんだうちに大きく、立派になられたのう。わしは見それてしまつた。まあ上られるがよい。」
栄蔵は和尚さんについて庫裏の炉ばたへ行つた。
「客間へ御案内するのがほんたうぢやらうが、客間は寒いで、このらんごくなところへ案内しましたわい。さあ楽に
和尚さんは小僧に枯枝や
「ひどく浮かぬ顔をしてをられるが、何ぞしたのか。」
「わたしはもう無茶苦茶です。」
「何が。」
「何が何だか、ちつとも
「お前さんは一体何のことをいつてゐますのぢや。」
「わたしは胸が一ぱいです。一ぱいで無茶苦茶なのです。」
「
「一人で、誰もゐないとこで
「まあ、お茶でも召されよ。さう
和尚さんは自分でいれたお茶を、音立ててすすつた。風が出たのか、裏の林に音がしてゐる。
「和尚さん。」
「何かい。さう改つて。」
「············。」
「どうかしたかのう。」
「私は大変なものを見て来たんです。人間が人間を処刑するのを。」
「ほう?」
「わたしは刑場からやつて来たのです、今日一人の罪人が刑に処せられました。」
「おおさうか。そんなことをきいてゐた。さつき門の前を大勢通つていつたが、見物の衆だつたんぢやのう。うむ、
「罪人が私の町の者でした。私は名主として立合に出なければならなかつたのです。」
「さうか、出雲崎の者ぢやつたのか。」
「わたしはあの者を小さい時から知つてゐます。いかにも悪い人間でした。悪い人間でしたけれども、人間が人間の力であの者を処刑してしまつていいのでせうか。可哀さうです。あんまりです。」
「さうぢや。が、いろいろなことが、世の中にはある。いいこともあれば悪いことも。」
「いくらいいことがあつても、一方にこんなひどいことがあつては、我慢出来ません。」
「お前さんのやうな人には、世の中の悪いことだけが大きく強く見えるのぢやらう。わしもさうぢやつた、わしの若かつた頃も。
「わたしは、どうしたらいいのでせう。」
「まあ、お茶をのみなさい。わしが今その者のために
二人は立つて本堂へいつた。
和尚さんは太いためらかな声で、経を読みはじめた。
栄蔵は眼をつむつて口の中でいつた。||みんなが、あなたにあんな
和尚さんは力のこもつた太い声でお経を読みつづけた。和尚さんはわけの解らないお経の言葉でもつて、悲しみ
和尚さんの声は風の音に負けなかつた。風がどんなに堂のあたりでわめいても、和尚さんの声はびくともせず、続いた。
だんだん風の音は遠ざかつていつた。子守歌に快くゆすぶられて、
||静かなところに帰つてゆきなさい。やすらかに帰つてゆきなさい、と栄蔵は祈つた。そして栄蔵の心もいくぶん鎮まつた。
お経がすんで、二人はまた庫裏の炉ばたに
「お願ひがあるのですが、きいて頂けませうか。」
と栄蔵は
「何かのう。」
「わたしも僧にしてください。ここに置いて下さい。」
「ほほう。」
と和尚さんは眼を円くした。
「お前さんは今日はあまり
「一時の感動ではありません。わたしは前から僧になりたいと思つてゐました。」
「それは又どうして?」
「わたしのやうな愚か者には、名主の職は満足に出来ないのです。わたしはこの職についてゐることが苦痛でたまりません。」
「みんなから
「かういふことがありました。代官さまと出雲崎のれふしどもが、或事で
「うん、ちよいとわしも耳にはさんでゐた。この春時分の事ぢやつたのう。」
「はい。わたしが父から、名主職を受けついで間もない頃でした。名主は代官さまとれふしの間に立つて、争をなだめる役でした。わたしは先づれふしどもを家へ呼んで、その言ひ分をすつかりききました。れふし共は、代官さまがどういふ仕方で自分たちを苦しめるか、いちいち事こまかに申したのです。」
「うん、それで?」
「そこで、こんどは代官さまのところへ、わたしはいきました。そしてれふしどものいつたことを、一から十まで少しも言葉を飾らず、代官さまに伝へました。」
「いやはや。うむ、それから?」
「代官さまは、かんかんになつて怒りました。そしてれふしどものいけない点を、ひどい言葉でなじつたのです。わたしはれふしどものところへ帰ると、代官さまの
「それではれふしどもも怒つたぢやらう。」
「さうです。代官など生意気だ、あの屋敷を焼払つてしまふ、などと申しますので、わたしは手を合はせんばかりにして、
「そりや
「わたしは代官さまへ呼びつけられ、さんざん叱られました。きさまのやうな
「うん。」
「わたしはあの際、
「嘘がのう。うむ、わしもさうぢやつた。わしも嘘がいへなんだ。」
「それから考へて見ると、世の中には本当に嘘やへつらひが
「さうばかりでもあるまいけどのう。」
和尚さんは、この一生懸命に
「それから、かういふこともありました。つい二月ばかり前、
「うん、うん。」
「佐渡奉行さまは、柄の長い大きい
「うん、困つたのう。」
「いいえ、わたしは困らなかつたのです。長すぎるならその柄をいいだけ切れと命じました。柄だから切つても
「なるほど、それも一案ぢや。しかし、佐渡奉行は喜ばなかつたぢやらう。」
「仰せの通りです。ひどく怒られました。名主職をきさまの家から取りあげさせるとまでいつて怒られました。しかし、わたしには
「そんな
「しかし、その時わたしは自分の
「どの考が。」
「奉行さまといふものが、下々をいたはつてゐるといふ考です。さうではなかつたのです。自分の駕籠の方が大事だつたのです。」
「さうかも知れない。」
「いいえ、きつとさうなのです。そしてよく考へて見ますと、日本中の奉行さまといふ奉行さまが、多かれ少なかれ、みなさうに違ひありません。上に立つものは、下に立つものをいたはつてはゐないのです。」
「一概にさうはいへまいのう。」
「いいえ、さうなんです。」
栄蔵は声をあららげていつた。和尚さんは黙つてしまつた。何か気まづい静けさが続いた。和尚さんは
「それでお前さんは、世の中が、いやになつたといふんぢやのう。」
「さうです。」
「世の中には嘘や不正ばかりだ、それだから坊主になつて世の中を捨てたいといふのぢやのう。」
「さうなのです。」
「一つ、わしは
栄蔵ははつとして、和尚さんの眼を見つめた。和尚さんは眼をそらして、また柴の中から松毬を探し出し、炉の火に投げた。どこかで寒い
突然、栄蔵の見開かれた眼から、ぽろりと涙が落ちた。
「わたしが悪うございました。」
と栄蔵は声をうち
「わたしは思ひあがつてゐました。わたしの心の中にも
「うん、それが解つたかい。」
「よく解りました。」
「解つたら、何も坊主になることはあるまい。」
と和尚さんは
「いいえ、坊さんになる心には変りありません。」
「どうしてかのう。」
「自分の心の中のいけないものを、はつきりさせて、そのいけないものを一生懸命に取除くのです。ちやうど畑から雑草をぬくやうに。」
「うむ、それで。」
「さうして自分の心がよく
和尚さんは黙つてうなづいてゐた。それから燃えてゐる枝を持つていつて、
「お前さんのいふことは、よく解りましたわい。しかし、そいつはなかなかむつかしい。わしもさういふつもりで坊主になつた。人々を教化して世の中を一層よくするつもりでのう。しかし、今お前さんのいふことをききながら、自分はどれだけのことをしたかと思つて寂しくなりましたわい。······いや、お前さんのいふことはよく解つた。」
「では、ここに置いて頂けませうか。」
と栄蔵は眼を輝かせた。
「うん、置いてあげてもよい。しかし、お前さんは古い家柄の
「しかし結局は、その方が家のためにもよいのです。わたしは名主としては、少しも間にあひません。弟があとを継げば、きつとうまくやつてくれるのです。」
「弟はいくつかのう。」
「十三です。」
「お前さんは?」
「十八です。」
和尚さんは、しばらく考へてゐたが、急にはつはつはと笑ひ出した。
「
栄蔵もつられて微笑んだ。
「お父さんは許してくれると思ひます。お父さんには、わたしの心持はよく解つてゐるのです。お父さん御自身が以前からよく、自分も
「さうか。そんなら差支へもあるまい。」
「では許して頂けますか。
「さう一途にいふもんでない。若いもんは、これだから困るのう。まあ一応今日は家へ帰つて、両親にとくと話して、その上で来られるがよい。」
「いいえ、今からすぐして下さい。思ひ立つたが吉日といひます。今日今からここでしないと、しそこねる
「気の早いことぢや。わしは逃げもかくれもせぬ。明日も明後日もここにゐるから、両親の
「それではごめんッ。」
「な、なにをなさるのぢや、刀などぬいて。」
「和尚さんがぐづぐづ
和尚さんは噴き出した。
「いやはや、これはどうも。」
そして栄蔵はその日、坊さんになつた。
剃りたての青い頭で、まだ着なれぬ
ちやうど家の前で、これから手習にでもゆくらしい、弟の左衛門にすれちがつたが、弟は知らない人だと思つて気にとめず、どんどんゆきすぎようとするので、栄蔵は
「おい、こら左衛門ッ。」
と呼んだ。
「何だィ、誰だィ。」
といつて弟はふりむいた。
弟はしばらく栄蔵の顔を見てゐたが、やがて兄さんと解つたらしく、きゆつと顔をゆがめた。笑はうとするのと一緒に悲しくなるとき、人はさういふ表情をするものである。それから弟の顔は
「驚いたらう。」
と栄蔵はいつた。
弟は返事をしないで、栄蔵の
「お母さん、兄ちやんが帰つて来たァ。」
と泣き声で喚いてるのが聞えた。
小さい弟や妹も、栄蔵の変り果てた姿を見ると、奥へ逃げかくれたり、わあつと泣き出したりした。
お父さんと、お母さんは、しばらく物がいへなかつた。お母さんは持つてゐた
「栄蔵ぢやないか。」
とお父さんは、上り
「お父さんお母さん、許して下さい。わたしは、もう橘屋の長男栄蔵ではございません。わたしは、尼ヶ瀬の光照寺で小僧になりました。今日からわたしは
「良寛?」
とお父さんは
「良寛です。不孝者をどうぞお許し下さい。でもわたしには、かうするより
さういつて、小僧の良寛さんは持つて来た風呂敷包を畳の上に置いた。
ひとときすぎて、一切を両親に許して
夕暮になると良寛さんは、心が落着かなかつた。鐘を
誰かが来やしないか||弟の左衛門か、それとも懐しいお母さんが来てくれはしないかと、知らずに期待してゐるからであつた。
修業のために親も兄弟も捨てて来たものが、こんなことでは
そんな日暮には、いつも温かにおつとりした良寛さんの心が、
「おい良寛。」
と或日の夕方、兄弟子がいつた。
また門のところへ行きたくなつてゐた良寛さんは、顔をあげた。
「ちよつと
頭を剃れといふのである。良寛さんは
「まだそんなに伸びてはゐませんよ。このあひだ剃つたばかりですから。」
「文句をいはずに剃れ。」
「こんなに暗くなつてからしなくてもお、いいでせう。明日になつてからすれば。」
「文句をいふなつたら。軒端に出ればまだ明かるいよ。」
良寛さんは、しぶしぶ立つて、
「痛いよ、もつとうまく剃らんか。」
と兄弟子は頭を剃られながら、ぶつぶついつた。
「でも、あなたの頭がいけないのです。真中がへこんでゐるので、剃りにくくてしやうがないのです。」
と良寛さんも黙つてはゐない。
「そんなことがあるもんか。」
「本当です。合はせ鏡をしてよくごらんなさい。剃りにくい頭です。因業頭です。」
「
「今晩またどこかへ出掛けるんですか。」
「うん、ちよつと。」
「
「そんなことがあるもんか。」
「いいえ、毎晩です。私はよく知つてゐます。
「子供には関係のないとこだ。」
「わたしは子供ぢやありません。」
「へえ。いくつだい、一体お
「二十二です。」
「そんなになるのかい。ふ※[#小書き片仮名ン、327-上-2]、しかしまるで子供だな。育ちがいいからな。お坊ちやんお坊ちやんで育つて来たんだからな。」
「馬鹿にしないで下さい。わたしは、あなたがいくところ位知つてゐますよ。」
「どこだい。あてて見ろよ。」
「昨夜あなたが帰つて来て、私の横で寝たとき、わたしは眠つてるふりをしてゐましたが、ほんたうは眼をあけてゐました。」
「うん、それで?」
「酒の
「うん、図星だ。坊ちやんのやうに見えても、これでなかなか話せるね。なんならお前も今夜つれてつてやらうか。」
「わたしは、そんな
「さうかい。偉くなる坊主は違ふなあ。」
「············。」
「偉くなる坊主はァ。」
「あなたはそんなことを、冗談でいふんでせうが、実はわたしはほんたうに偉くなりたいのです。」
「え、ほんたうに? お
兄弟子はクスリと笑つて、
「そりあ偉くなるさ。今に
「あなたは皮肉のつもりで
「皮肉ぢやないよ。本気でいつてゐるよ。」
「本当にわたしは偉くなりたいのです。」
「だからさ、お前は偉くなるよ。」
「いいえ、なれないのです。」
「え? でもなるつていつたぢやないか。」
「いいえ、なりたいのですが、なれません。」
「どうして?」
「わたしはあなたを生臭坊主だと思つてをります。」
「そんなに
「いいえ、あなたは生臭坊主です。しかし、わたしもあなたと同じことです。
「そりやさうだらう。家が近いから。」
「その家の近いのがいけないのです。わたしにはよく
「そいぢや、どつか遠くへゆけばいいぢやないか、
「ええさうなんです。唐天竺ほどではなくても、せめて
「備中玉島? 備中玉島なら、この間ここの寺へ泊つてゆかれた、ほら、何とかいふ坊さん······。」
「
「うん、さうさう国仙和尚。あれが玉島から来たといつたぢやないか。」
「さうです、玉島の
「ひどいことをいふな。生臭坊主でも偉くなれないことはないぜ。世間にやいくらでも生臭坊主で、和尚になつてるのがあるからな。」
「わたしが偉くなりたいといふのは、あなたの考へてゐるのとは違ふのです。」
「どう?」
「わたしは名や位はいらないのです。乞食みたいなくらしでもいいのです。ただ誠の道に達することが出来れば。」
「なるほどね、結構だね。わたしにはさういふむつかしいのはよく解らないよ。や、ごくらうさん。ああ、さつぱりした。」
良寛さんは剃刀を
「おい、良寛。」
「まだ何か用ですか。」
「あの、
悪いお米は粉にひいて、だんごにして
「いやです、今夜はあなたの番ですよ。」
「ほら、それがいかん。それでは誠の道に達することは出来んな。」
「············。」
兄弟子は冗談でいつたのだが、良寛さんは真面目な面持ちでうつむいた。
「え、挽いときます。」
「うん、それでよいそれでよい。時にお前は銭を少し貸してくれないか。
「いやですよ。そんな
「又、いかん。それぢや誠の道が逃げるな。」
その時、遠くから誰かが呼んだ。二人は黙つて耳をそばだてた。するとこんどは、はつきり「兄ちやァん。」といふ声が聞えた。左衛門だ。
「おい、弟が来たぜ。」
「············。」
「門の外だぜ。ちよつといつて見て来いよ。」
「············。」
良寛さんは
兄弟子は良寛さんがいつてしまふと、急いで
そして
「何だ、もう別れて来たのか。」
と兄弟子がてれていつた。
「そんな
「いいんだよ。みんな出しちまうわけぢやないから。ほんの二十文ばかりだから。」
「しかし、お賽銭をそんなことに使つたらばちがあたります。わたしが欲しいだけあげるからいいぢやありませんか。」
「さうかい、済まないな。」
兄弟子は畳の上の銭を、また箱の中に
二人は庫裏の方に帰つた。良寛さんは自分のお金を出して来た。
「こんなに
と、貰つた金を見て兄弟子がいつた。
「ええ」
「ぢや、こんど返すよ。」
「返してくれなくてもいいんです。」
「さうかい、そりやどうも。」
兄弟子は、しばらくきまり悪さうに立つてゐた。そしてお
「それで弟はどうしたのかい?」
ときいた。
「知りません。」
「知らない?
「逢ひませんでした。」
「お前、でも門の方へいつたぢやないか。」
「門をしめて、
何か固い決意の浮かんでゐる良寛さんの顔を、兄弟子は
「お
「わたしは偉くなりたいのです。執着をたつのです。一人で、一ぺんうんと苦しむのです。」
「············。」
「備中へいくことにきめました。今、門の閂をさしながら肚をきめました。和尚さんが旅から帰られたらお許を得て、すぐ出かけます。」
兄弟子は、いつもおつとりしてゐる良寛さんの、
それから十日程のち、二十二歳の良寛さんは、ただ一人の長い旅にのぼつた。
お母さんと弟妹たちは、町はづれまで良寛さんを送つて来た。お母さんは、良寛さんを一人で他国へやるのが不安でならなかつた。お母さんの眼には二十二歳の良寛さんが、まだ子供のやうに見えた。
しかし良寛さんは、
「もう、ここからお帰り下さい。」
ときつぱりいつた。道ばたに大きな
そして良寛さんの一人の旅が始つた。
良寛さんの手には、別れるときお母さんが、そつと握らせて下さつたお金の包と、小さい妹の一人が折りとつてくれた
しかし、いつまでも悲しんでゐてはならないと良寛さんは思つた。道ばたの石地蔵さんの前に、妹のくれた花をさして、そのときから、
まだ道のほとりには、ぺんぺん草の小さな三角の実が見られ、うすぐもりの空には、季節おくれの
これから江戸へ出て、それから京都にのぼり、そして目的地の備中の国、玉島へいく、
一人でいく遙かな道には、一人で歩む長い将来には、きつと様々な苦しみがあるだらう。しかし良寛さんには
良寛さんは毎日歩いていつた。道の上にぽつんと一つの影を落して。
林の中では
幼かつたとき話にきいた、あの
誠の道を、いたるところの名高い坊さん達に問ひたづね、又ひとりで石の上や小川のへりに
見るもの、聞くもの、すべて良寛さんの眼や耳に新しかつた。大きい古い樹の前にびつくりして立ちどまつたり、道に落ちてる小さい円い水色の石ころを、こつそり拾つたりした。
旅はさまざまのことを教へてくれた。これまで本の中で読んだことは、みんなほんたうであつた。しかしまた、それらの多くのことは
この世には実に
苦しんでゐる人々を見るとき、良寛さんの心は悲しみでみたされた。しかし、希望が、すぐ
江戸に来たとき、江戸の家々や寺々はにぎはつてゐた。幕府の勢力の盛なためであると良寛さんは思つた。京都に来たとき、京都の大きい町は静かだつた。皇室のあらせられる京都が、
正しいものが息をひそめ、さうでないものが力を張つてゐる姿が、ここにも見られると良寛さんは考へた。
正しいものは、姿を現さねばならない。間違つたものは影を消さねばならない。
||これは良寛さんのしなければならぬ仕事が、ほんたうに大きく、限りないといふことにほかならなかつた。
長い旅に良寛さんは
かういふ風にして、良寛さんは備中玉島の円通寺についた。
良寛さんが、これから二十年あまり送ることになつた備中の国、玉島は、
同じ港町でも、
ぼたぼた。雪降るなや、
浜のかかが泣くとや。
浜のかかが泣くとや。
それにひき
雪は殿様 、
雨は草履持 。
雨は
この温い自然の
良寛さんは、
良寛さんは、同輩達より早く起きて座禅しに行つた。同輩よりもつと度々、
しかし、そのやうな真理は、なかなか掴めるものではなかつた。どこにその真理はあるのか、もう玉島に来てから三年も四年もたつたのに、まだ
或日、良寛さんは国仙和尚から、米を
国仙和尚は、しばらくきねの音をきいてゐたが、やがて、
「
と深い静かな声で呼んだ。
「はい。」
良寛さんは足をとめて答へた。
「ここへおりて来い。」
「はい。」
良寛さんは台唐臼を下りて、国仙和尚の前に行つた。
「良、おぬしは、心の中に不満を持つてをるのう。」
良寛さんは胸をつかれるやうに感じたが、
「そんなことはありません。」
と、さりげなく答へた。
「いや、隠しても
「どうして、そんなことを
「
良寛さんは国仙和尚の眼をのがれて、うつむいてしまつた。
「わしのいふ通りだらう。」
「はい。」
「
「はい。」
国仙和尚はそれだけいふと、ついと立つて奥へ行かうとした。良寛さんは
「師ッ。」
と呼びとめた。
「何ぢや。」
「仰せの通りです。私の心には不満がございます。なるべく面にあらはさぬやうにしてをりますが、いつも不満がございます。」
「············。」
「私はいつまでも、こんなことをしてゐてよいのかと思ひます。いたづらに
「············。」
「わたしは、世の中の人がいろいろ苦しんでゐる、その苦しみには、二種類あると思ひます。一つは体の苦しみです。病気や貧乏の苦しみです。もう一つは、心の苦しみです。親を失つて
「············。」
「しかし、その真理がいくら探し求めても、わたしには悟れないのです。師は行を積むことが悟に到る道だと仰有いました。わたしはその行を人一倍積んで来たつもりです。山へ
「············。」
「だからわたしには、
良寛さんは、国仙和尚がもう何かいつてくれるかと思つて、ここでしばらく和尚の顔を見てゐたが、和尚は黙つてゐた。
「どこに真理があるか、私はそれを知りたいのです。」
「わしは知らん。」
と始めて国仙和尚が口を開いた。
「わたしが愚か者だから、さう仰有るのでせう。教へても解らないから、駄目だとお思ひですか。そんなら、さうとはつきりいつて下さい。駄目なものならば、わたしは
「諦めろ。」
「そんなに簡単に諦められません。わたしのどこが馬鹿なのです。それを教へて下さい。いけないところはなほします。」
「うるさい
「すみません。」
良寛さんは黙つてうつむいた。
「良。」
「はい。」
「おぬしが、それほど悟りたいなら、
それから国仙和尚は、仙桂和尚のゐる寺を教へてくれた。それは、ここから余り遠くなかつた。
良寛さんの心は動いた。仙桂和尚のところへ行けば、何か教へられることがあるかも知れない、と思つた。
「それでは、今からすぐ行つても、ようございますか。」
「うん、行つて来い。よくその真理をきいて来い。」
そして良寛さんが出てゆかうとすると、
「それからな、今晩あたり月がいいから、一ぱい飲みに来るやうに、和尚に伝へろ。いい酒を
といつた。
良寛さんが山門を出て来ると、そこには三、四人の女の子がゐた。良寛さんを見ると中の一人が、
「あつ、いいとこへ良寛さんがおいでだ。」
といつた。
良寛さんは暇なとき、よくこの子達とおはじきをしたり、
「良寛さん、お願ひ。」
と、頭を
「何だい。」
「悪太郎があそこへ毬をあげてしまつたから、取つておくれな。」
見ると、松の大木の
「あんな高いところだもん、とれるもんか。」
と、良寛さんは気が
「でも良寛さん、男だもの、のぼつてつて取つておくれな。」
「今忙しいから駄目だ。」
さういつて良寛さんは、さつさと通りすぎてしまつた。
女の子達は、いつもと良寛さんの様子が違ふので、変に思つて、ぽかんと見送つてゐた。
良寛さんは、あんな冷淡なことを女の子達にいつて、いけなかつたな、と心の中で悔いながらも、真理を早くきくため道を急いでいつた。
のどかな春の丘には、明かるい幸福があふれてゐた。牛は海の方を見てときどき鳴いてゐた。海には白帆が、その上には
寺の前の畑で、百姓みたいな顔の坊さんが、
「今日は、和尚はをられますか。」
と軽くきいた。
「ああ、
といつて、また菜をとつてゐる。
「円通寺から来た者ですが、ちよつと和尚さんにお目にかかりたいのです。」
「さうかい、何の用かい。」
「用は和尚さんにぢかに申しあげたいのですが。」
「さうかい。わしが和尚ぢやが。」
「え、あなたが。」
良寛さんはびつくりした。
「うん、わしが。」
「仙桂和尚さんで?」
「うん、仙桂だよ。」
「さやうですか。」
良寛さんは改めてお辞儀して、お見それしましたと
「なあに、構ふもんか。和尚だつて雲水だつて同じだ。同じ坊主だ。時に用事は何だい。」
良寛さんは、今まで張りつめて来た気が、一ぺんで緩んでしまつた。何も
そこで、
「大変よく菜が出来ましたね。」
と、畑を見まはしていつた。
「うん、まあ、ぼつぼつさね。何ならちつとあげようか。持つていつておしたしにでもさつしやい。」
「そいぢや、少し頂きませう。」
「うん、ほしいだけひきぬきなせえ。
良寛さんは畑へはいつていつて、そこにあつた
「こんなに
「ああ、さういふわけでもねェ、ほしい者にくれてやるだ。」
仙桂和尚はさういつて、せつせと菜の
「
「さうですね。いつ時分帰つて見えますか。」
「さうよなァ、晩にや帰つて来るがな。いや解らん。酒でも飲まされると、途中で寝ちまふことがあるで。」
まだ日は高いので、晩まで待たされるのは大変だと、良寛さんは思つた。
「そんなに待つちやゐられません。」
「そいぢや、お前さんもついて来るか。」
良寛さんは、いつの間にかのどかになつてしまつてゐた。もう、何のために円通寺からここへやつて来たかも、忘れてしまつた。
「ええ、お
仙桂和尚はふごの中に菜を入れて、
町へはいると一軒々々、
「今日は菜はいらんかのう。」
と仙桂和尚はきいた。そして欲しいといふ家へは一束づつやつた。菜を貰つた家ではお礼に、
「お前も飲まんかい。」
と仙桂和尚にいはれると、良寛さんは、いつもなら
「ぢや一ぱい
と
町で一人の美しい盛装の坊さんに行きあつた。法事の帰りか何かで、大きい扇子をパシパシいはせながら、威張つて歩いてゐた。かういふ坊さんに限つて、中味が浅く薄くて、俗人とちつとも変らぬ根性を持つてゐることを、良寛さんはよく知つてゐた。しかし仙桂和尚は、そのお坊さんの前で、まるで百姓のやうに、ははあと深くお辞儀した。坊さんは仙桂和尚の方にながしめをくれて、通りすぎていつた。
「あれは
と良寛さんは
「知らんて。いづれ、その辺の坊さんだらう。」
と仙桂和尚は、けろりとしてゐた。良寛さんはますます呆れた。
「よその宗派のわけのわからぬやうな坊主に、あんなにていねいにお辞儀するのですか。」
「うん。」
と仙桂和尚は笑つていつた。「自分で偉い気でゐるのだから、お辞儀しておけばいいのだ。」
何といふこだはりのない人だらう、と良寛さんは思つた。
帰りに麦畑の間を歩いてゐるとき、折角訪ねて来て、何もきかずに帰るのも変だと思つて、良寛さんは、
「あのう、国仙和尚があなたはよく知つてをるから、きいてこいと
といふと、
「何だい、学問のことか。学問はわしは知らん。わしが知つとるのは、菜をつくることだけだ。」
といつた。
「それでも国仙和尚は、あなたにきけば疑は晴れると仰有いました。」
「わしは何も知らん。お経も読まんし、参禅もせんし、根つからの怠け坊主ぢやで。」
ほんたうにこの和尚は、お経の文句一つも知つてゐないやうに思はれた。円通寺へ来ても、参禅を一ぺんもしないことは、よく良寛さんは知つてゐた。それがこの和尚のことだと、少しも不思議ではなかつた。
来るときとは正反対の、温いみちたりた気持で、良寛さんは帰途についた。片手にはお土産の菜の束をぶらさげて。
「慌てたつて駄目なんだ。」
と大きな声で良寛さんは、ひとりごとをいつた。
目の前の麦の中から、
「なるやうにしかならないのだ。」
と良寛さんは雲雀を眼で追ひながら、又ひとりごとをいつた。
雲雀は太陽の前を通るとき見えなくなつてしまつた。声だけ聞えた。
「落着いて、こつこつ与へられたことを、やつてをればいいのだ。」
良寛さんは、さういつてくさづみをとび越えた。
今までにない安らかさが、良寛さんの胸にはたたえられてゐた。
師、国仙和尚が、仙桂和尚のところへゆけばわかるといつたわけが、どうやら良寛さんにうなづけた。
山門の前には、まだ女の子達がゐた。もう毬のことはあきらめて、石段の上でおはじきをしてゐた。
「毬とつてやらうか。」
と良寛さんは女の子達にいつた。
良寛さんは、あまり木のぼりは、うまくなかつたので、なかなか骨が折れた。枝をゆすつて毬を落して下りて来たときには、衣は破れてゐた。足には擦りむき傷が出来てゐた。
「良寛さん、済みません。」
と女の子たちは良寛さんを、いたはつていつた。
「いいよ、いいよ、またあとから遊ばう。」
さういつて良寛さんは、にこにこしながら山門をはいつていつた。
丘の大麦は暑い頃になつて熟れる。
まだその頃も、空の
雲雀にくらべると子供達はかしこい。子供達が麦畑から黒穂をぬいて、麦笛の平和な音を流してゆくのは、麦畑の緑のうちばかりだ。麦がまぶしい黄色になる頃には、子供達はもう吹かない。
麦は熟れると、百姓達は大変忙しくなる。早く麦を刈りとつて、そのあと田植をしなきやならない。田植が遅れると、お米がたくさんとれないのだ。
朝早くから百姓達は、麦を刈るだけの力のあるものは、みんなひきつれて、野に出ていつてしまふ。あとに家に残るのは、眼の見えない
こんなときを
何しろ、お婆さんは眼にやにが一ぱい詰つてゐるので、
それで昨日も一昨日もその前も、百姓達は夕方くたびれて家へ帰つて見ると、不在中に泥棒が訪ねて来たことを知つた。茶釜がなくなつてゐたり、
誰だつて泥棒は
すると、とうとう
ああいふ風で村に、はいつてゆくのは、まことにふてぶてしい
「おォい、弥助ェ、今の奴、見たかよォ。」
と勘又さんは、向かふの麦畑にゐる弥助さんに呼びかけた。
「おォ、見たぞォ。」
と弥助さんが答へた。
「とつつかめに行かうかよォ。」
勘又さんは
「でも、ありやァ、坊さんぢやねえかァ。」
弥助さんは、
「坊主だつて泥棒をしねェとは限るめェ。
「ほうだかなァ。」
そこで弥助さんも、
二人は二人きりでは心細かつたので、
良寛さんは朝から寂しくて、やりきれなかつた。ちやうど秋の末、葉をすつかり払ひ落されて丘の上に、うそ寒い風に吹かれて立つてゐる一本の木のやうに、自分の心が何のよるべもなく、ぽつんとこの世界に取残されてゐるやうな感じであつた。涙も出て来ないほどの、しんからの寂しさであつた。
この頃は、こんなことが度々、良寛さんにはあつた。去年お母さんが、なくなつたことが、やはりもとになつてゐるらしい。あとを弔ひに
何しろ良寛さんは、もうほんたうに一人ぼつちだ。お母さんが生きてる間は、なあに誰も
ほんたうに一人ぼつちだと思ふとき、人は何といふ寂しいことだらう。寂しいからとて泣く気も起きない。泣いたつて誰もどうしてくれるわけでもない。又人が慰めてくれたつて、それでなほつてしまふやうな、浅い寂しさではないのだ。
しかし、良寛さんは思つた。昔の偉かつた坊さん達は、きつとかういふ一人ぼつちの寂しさに耐へていつて、とうとうその寂しさを、寂しさとも思はないやうになつたのだらう。
そこで良寛さんも、どこまでも、今日は自分を一人ぼつちにしてやらうと決心して、
足にまかせて良寛さんは歩いていつた。もつと寂しくなれ、もつと一人ぼつちになれ、と心の中でいひながら。
自分の心ばかり見つめてゐると、人は眼を開いてゐながら、自分が何処を歩いてるのか知らないでゐることが多い。ふと
どうやら自分は少々疲れたらしい。足が重い。そこで良寛さんは、
胸のところに何か固いものが触る。何だらうと思つて手をやつて見ると、寺を出るとき
百姓達はみんな麦刈に出てしまつて、あたりには誰も人はゐない。これなら大丈夫と思つて、良寛さんは一人で手毬をつきはじめた。
玉島へ来てから、よく子守の少女達と手毬をついたり、おはじきをはじいたりして遊ぶので、良寛さんは、もう大分女の子の遊戯が上手になつてゐた。良寛さんのすんなりした手と、乾いた地べたの間を、色の糸でかがつた美しい手毬はよい調子で
すると良寛さんの口には、自然に女の子達がうたふ
御ォ手にまァめが
九つゥの
おォやの
もう少しで一貫貸すところであつた。突然手毬が、ぽォんと向かふへとんで行つた。誰かの足が
「こいつだ。」
「縛つちまへッ。」
とすぐ頭の上で声がした。そして良寛さんは、何の苦もなく、縛りあげられてしまつた。
「図太い
この人達は、自分を泥棒と間違へてゐるのだ、と良寛さんは思つた。しかし「わしは泥棒ではない。」と弁解する気が起きて来ないのであつた。もつと一人ぼつちになれ、一人ぼつちがどうなるか見てゐてやれと、良寛さんは思つた。
百姓達から
「申しあげますだ。この間からの昼とんびをとつ
と勘又さんが、まだ家の中へはいらないうちに、井戸のこちらから大声でいつた。
「何、昼とんびッ。」
「庭へひつ据ゑておけ。今すぐ調べに出る。」
と外に向かつて命じ、すぐ
昼とんびといふから、
「何だ、
と役人は、
「坊主だつて油断ならねえですだ。
と勘又さんがいつた。
それから審問が始つた。ところがそれは、始つたばかりで、いつまでたつても進んでゆかなかつた。役人は調べの帳面を開いたままで、何も書くことが無かつた。といふのは、坊さんが一切合財、ものをいはなかつたからである。
百姓達も業を煮やしてゐた。勘又さんは、泥棒が置きわすれていつた。煙草入を突きつけて、
「これに見覚えがあらうがッ。お主の物だらうッ。いくら地蔵さまみてェに澄ましてをつたとて、つまりはお主は、煙草吸ひの昼とんびに
といつた。そしてそれでも坊さんが返事をしないと、「てッ、ふてぶてしい煙草吸ひの昼とんびだッ。」といひながら、煙草入で坊さんの鼻を
||もつと一人ぼつちになれ、どうともなれ、と良寛さんは、心の中でいひ続けてゐた。
とうとう良寛さんは、村はづれの松林の中へつれて来られた。みんなはそこへ、この「昼とんびに違ひない坊主」を、生き埋めにしてしまふといふのであつた。
「そげなことをして、ええだかよ。」
と、来る道で何度も弥助さんが、びくびくしながらいつた。
「ええも悪いもあるめェ。こいつは人に迷惑かけただ。人の物を無断で盗んだだ。」
と勘又さんは、口をとがらせてわめいた。
「
と弥助さんはいつた。
「今更、何をいふだ。お
「ンでも勘又さ、お前はさう怒ることあるめェが。古草履一足盗られたきりぢやねェか。そして上等の煙草入を置いてつて
「何をいふか、この
「争ふな。」
と役人はいつた。「わしがこの盗人を生き埋めにせよと命ずるのだ。」
役人は、いくら声を
「ここを掘れ。」
と役人は命じた。
「ごめんなせェ。俺あちよつくら家いつて来るだ。」
と弥助さんは向かふへいきかけた。みんなは心細くなつてゐたので、
「な、何しに?」
ととがめた。
「あのゥ、鶏に
「いかん。」
と役人はとめた。「お前らは全部立会人だ。一足も動いてはならん。」
弥助さんは泣き顔をして、またみんなのところに
「もうええだらう。」
といつて、胸の深さまで掘つた勘又さんが、穴から出て来た。
「罪人を突き落せ。」
と役人は命じた。
そこでちよつと動揺が起つた。みんながしりごみしたのである。
||一人ぼつちだ、一人ぼつちだ、一人ぼつちもこれでおしまひだ、と良寛さんは、静かに思つてゐた。
その時、誰かが林の中へ走りこんで来た。
「坊さんを生き埋めにするといふことをきいて、飛んで来ましただ。」
と吉三郎さんはいつた。「まァ、待ちなせェ。埋めるのはいつでも埋められるだ。」
それから、しばらく吉三郎さんは、良寛さんの眼をじつと見てゐた。良寛さんもその齢とつた百姓の眼を見てゐると、それは大層やさしい温い心を奥に
「この方が昼とんび? どうも信じられぬ。」
と吉三郎さんは呟いた。
||これは物の解つた、静かな心の持主だ、と良寛さんは思つた。
「ひよつとしたらお前さんは、玉島の円通寺にゐなさる坊さんぢやないか。何でも
良寛さんは、ふつと
「さうです。私です。ちつとも偉くはありませんけれども。」
「やつぱりさうだつた。」
それから吉三郎さんは、みんなや役人に、良寛さんの心の清純なことを説明した。みんなも良寛さんのことならきいて知つてゐた。
「知らずに悪いことをしましただ。」
とみんなはあやまつた。
「辻堂のとこで手毬をついてゐられたで、こりやどうも
と一人はいつた。
「俺あ、お
と勘又さんもあやまつた。
「なあに、なあに。」
と良寛さんはいつた。
帰る途で吉三郎さんが、
「それにしても良寛さんは、生き埋めにされるといふのに、どうして一言もいひわけを
ときいた。
良寛さんは答へていつた。
「何もかも因縁だと思つてあきらめてをりました。こんなめにあふのは、いつか私が何処かで悪いことをしたのだらう、その報いなのだらうと思つてゐたのです。」
「ぢや、わしらを
と勘又さんはいつた。
百姓達の多くの眼に涙が浮かんで来た。||こげな人もあるだ、こげな心のいい人も、とみんなは思つたのだつた。
さつきの辻堂の傍を通りかかつたとき、良寛さんは、きよろきよろと、あたりを
「お銭でも落しましただかね。」
と百姓達はきいた。
「何の、何の。」
さういひながらも良寛さんは、そちこち探してゐた。
そして向かふの
しかしみんなは、それが何であるかを見てしまつた。そしてお互に顔を見合つた。
「何といふ心の純真な人なのだらう。まるで子供のやうに。」
みんなの眼は、さう語り合つてゐた。
「坊さん、疲れてゐなさるだね。」
と良寛さんは、うしろから声をかけられた。
「ああ。」
と返事しながらふりかへつた良寛さんは、慌てて道をあけた。一台の
「坊さん、
と、牛の頭のわきを歩いて来た牛飼は、またいつた。
「何処までといふことはない。ゆけるところまでいくのですわい。」
と良寛さんはいつた。
百姓は
「よかつたら、車にのりなされや。
といつた。
「さうかな。それは
良寛さんは、牛車のうしろへまはつて、上にのつた。
車の台の上では、道のでこぼこで車が上下するにつれて、三、四粒の穀物が踊つてゐた。それを見ながら良寛さんは、牛飼の親切を
車は、秋の
良寛さんは前の方を見てゐて、奇妙に思つた。といふのは、親切な牛飼は、牛の
||
太陽が真南に来た。松林の向かふの村から、
「ここで弁当を
と牛飼はいつた。
ちやうど、道ばたに松の大木が立つてゐた。牛の手綱は松の根本につながれた。
牛飼達は自分が弁当を
子供は車の上の袋から、からこと、こまかく刻んだ
桶を鼻の下へ持つて来て
それだけの仕事が済んでしまふと、牛飼は
「坊さん、あんたは何を召しあがりますな。」
と牛飼は、松の根方に腰をおろして、弁当を開きながらいつた。
「わしはまだ腹は
と良寛さんはいつた。しかしほんたうは空腹であつた。ただ弁当を持つてゐなかつたのである。
「そんなことはありますめェ。
「お前さんはよく察しのきく仁ぢや。」
男は笑ひながら、
「そいぢや、わしがのを半分喰べさつしやい。えらう黒い飯で、お口に合ひますめェけれど。」
「何の、何の、わしは黒いのが大好物での。
良寛さんは、そんな冗談をいひながら、弁当箱の
「坊さん、お前さんはいくつぢやね。」
「三十三ですぢや。」
「ほほう、三十三。ぢや、わしと同い年ぢやね。」
良寛さんは改めて男を見た。その男は、がつしりしてゐて首が太かつたので、良寛さんは四十位だらうと、思つてゐたのであつた。この男が自分と同じ三十三······。
同い年ときくと、人は急に相手と自分の身の上を、
「この子供衆はお前さんの何ぢやね。」
「この餓鬼はわしの長男ですがな。」
と牛飼は、ぞんざいな呼び方をしていつた。しかし、子供を見る眼は柔かい愛情にみちてゐた。
「まだこの下が三人ありますだ。一番小さいのは、まだ庭を
「お前さんは、また自分の子だちふのに、どうして、もつと
「ははァ。」
と牛飼は笑つていつた。
「なるほど坊さんは、坊さんみたいなことを
それから牛飼は、もう二、三日前から、子供に牛を取りあつかふことを、教へこんでゐるといふこと、日頃見て知つてゐるから、なかなか覚えがよいといふことを、嬉しさうにいつた。子供もにこにこしながらきいてゐた。
||さうだつたのか、大人になる息子に、牛飼の仕事を教へてゐたのか、と良寛さんは今までの疑問が解けた。
「坊さんのお国は、どこですかい。」
牛飼は話をかへてきいた。
「
「ふむ、備中に。何でまたこんな九州くんだりへ、来なすつただね。」
良寛さんは黙つた。その答は、いひにくかつた。しかし、ごくりと飯をのみこんでからいつた。
「わしは
「へェ、清へ。どうしてまた清へなど渡りたいのですね。」
この問にも、良寛さんは答へにくかつた。しかし良寛さんは、ほんたうのことをいつた。
「清へ渡つて、学問をして、偉い坊主になるつもりでしたぢや。」
「ふむ、偉い坊さんにね。」
「わしみたいな
「可笑しいにも何にも、わしは偉い人がどんなもんか、よく知りませんだ。偉い人になつたことが一ぺんもないからね。」
「わしは、世の中の苦しんでゐる人達を救ひたい念願を、長い間持つてゐましたぢや。そこで、世間で一番
「何ですかい、それは。」
「こればかりは、お前さんにも打明けられない。」
それは、その頃、天下を握つてゐた、
「さういふわけで、病人どもを救ふ考は、残念ながら、しばらく
牛は、ときどき飼葉桶から顔をあげ、鼻の
「清へ渡るのは、
と牛飼はいつた。
「御法度ですぢや。御法度ぢやから、わしは内証で渡らうと思ひました。ちやうど今日
「坊さん、あんたは諦めのよい人ですね。
「なるほど、なるほど。そいでお前さんは、その望を遂げましたかな。」
「ああ、ま、自分でいふのも
「なるほど、なるほど。」
「この牛を、わしは自分で買ひましただ。田地も去年
牛飼の面には、みちたりたものの喜びが
弁当が済むとまた良寛さんは、空車にのせて貰つた。ごとんごとんと車は歩き出した。
午後になると、綿くづのやうな小さい雲が、いくつか空に現れ、それが太陽の面をかすめるたびに、白い路はかげつた。
良寛さんはごとんごとんと揺すぶりあげられながら、牛飼と、手綱を持つた子供と、少しづつ首をふりながら、ゆつくり歩いてゐる牛を見てゐた。
良寛さんは思つた。||わしと同い年のこの牛飼は、望んでをつた田と牛を買ひ、望んでをつた子供を一人前に育てた。それに
||良寛、お前は何のために父母を棄てたのだ、何のために
||よしッ、もう一ぺん長崎へゆかう、もう一ぺん船のりに頼んで見よう。是が非でも、つれていつてくれと、
「わしは、もう、おろして貰ふぢや。」
と良寛さんは、いつておりた。
「どうなさるぢやね。」
牛飼は
「わしは、もう一ぺん長崎へ
「さうですかね。」
牛飼は、良寛さんの胸の中に、どんな決意があるか知らなかつた。何か忘れ物でもしたんだらう位に思つたので、とめもしなかつた。
良寛さんは、弁当のお礼をいふと、牛飼達に別れた。そして半ば走るやうにして、今来た道をひきかへした。
秋は陽の落ちるのが早い。良寛さんが、長崎の街と湾を見おろす丘の上まで、
良寛さんは、街の方へおりてゆかうとした。しかし、その足はとまつてしまつた。
良寛さんの眼は、
その船には見覚えがあつた。朝、良寛さんが、乗せていつてくれと頼んだ、清の貿易船であつた。
折角、もう一度頼まうと思つて、ここまで息もつかずに
「おーい、待て。」と叫んで見たかつた。しかし、それが何にならう。たとひ良寛さんの声が、船のり共の耳に届いたとしても、どうして彼等が船を返すわけがあらう。
良寛さんは草をむしつた。そしてそれを
||わしの最後の希望が······。
||わしの一切を
船はだんだん小さくなつていつた。それは逃げていつて、再び帰つて来ない希望の姿のやうに、良寛さんの眼にはうつつた。
「それでは、あんまりだ、あんまりだ。」
と良寛さんは口の中でいつた。いひやうもなく口惜しかつた。涙がついついと
船が見えなくなると、空の夕映も消えた。青やかな夕闇ばかりの世界になつた。良寛さんはいつまでも
どれだけの時間がそのまま過ぎたか、ふと良寛さんは耳をそばだてた。何かが聞えて来るのである。
それは丘の下の夕もやの中から、
その小さい物音は、小さい
しばらく聴いてゐて、良寛さんは、やうやくそれが、異人達の住んでゐる出島の寺から、鳴り出す
やがてそれは鳴りやんだ。鳴りやんだとき良寛さんは、心の中に今までとは別の希望が、小さく頭をもたげて来るのを感じた。まるで今聞いた鐘の音の一つが、良寛さんの心にとまつて、そこに芽を吹いたかのやうだつた。
||わしは馬鹿だつた。わしは分不相応なことを
||牛飼は分相応の望を抱いてゐた。そしてそれをなし遂げた。わしもわしに出来る望をもたう。そしてそいつを、やり遂げよう。それが出来たら、更に次の望を持つことにしよう。
良寛さんは
長崎から清へ渡ることに、失敗した良寛さんは、また
師の
或日、国仙和尚は、良寛さんのことを詩にうたつて良寛さんに見せた。それには、「良寛は馬鹿者のやうに見えてゐて、なかなか心が
数年の歳月が、また円通寺で過ぎた。良寛さんは四十四歳になつた。
とある日、思ひまうけぬことが訪れて来た。それは京都からの飛脚が持つて来た。
飛脚は良寛さんの手に、一通の手紙を渡して去つた。お父さんの
良寛さんは、最初から読んでいつた。水のやうに静かな態度で、しまひまで読んでしまつた。読んでしまふと、しばらく開かれた手紙を、
良寛さんは、大して持物とてはなかつた。身のまはりのものを、すつかりまとめると、小さい
「また雲水に出掛けるのかい。」
と、国仙和尚は、良寛さんの手の風呂敷包を見ていつた。
「はい。」
と良寛さんは答へた。
「こんどは
「いいえ。今度は
「ほほう。それぢや、また長くかかるのう。ま、ゆつくりいつて来るがよい。来年の冬頃までに帰つて来い。わしも、まだ達者でゐるつもりぢや。」
「いいえ、今度はもう帰つて来ないつもりです。」
「何、帰つて来ない? ではもう
「どこに落着くやらわかりませんが、もうこちらへは参らないつもりです。」
「さうか、それもよからう、が、どうしてまた急に思ひたつたんかのう。」
「父が死にました。京都の父の知人から今手紙が届いたのです。」
良寛さんは手紙を国仙和尚に見せた。国仙和尚は開いて読んだ。
||お父上がこの地でなくなられました、あなたにといひ置かれたものが、私の
「それではゆくがよい。また縁があつたら
と国仙和尚は手紙を捲いていつた。
「長らく
良寛さんは、少い言葉に深い心をこめて礼をのべ、
海は今日も
||海も丘もさやうなら、と良寛さんは心の中でいつた。||明かるい陽光よ、子供達よ、草の道よ、さやうなら。
ちやうど、一つの果物と同じやうに、良寛さんの心を柔かに、ゆたかに、温かに熟さしめた、この明かるい備中の国の自然に、かうして、良寛さんは別れをつげた。
「あなたが良寛と
と京都から手紙をくれた人は、良寛さんを見ると
その人は、いかにも俳句を唯一のたのしみにしてゐる人らしく、静かなさつぱりした小さい家に住んでゐた。
良寛さんは手短かに、手紙を送つて
「ほんたうに以南さんはお気の毒でした。これが以南さんのかたみです。」
さういつて出して来てくれたものを見ると、一枚の長い紙(
||朝霧に一段ひくし合歓 の花
||夜のしも身のなるはてやつたよりも
しかし良寛さんは、父のかたみが、この二枚の俳句だけかと思ふと、あつけなく思はれた。||夜のしも身のなるはてやつたよりも
「何か、着物でも残してくれなかつたでせうか。」
ときいた。
「いいえ、それだけです。」
とその人はいひにくさうに答へた。そしてしばらくして思ひ切つた様子で、
「みんな申しあげませう。実は以南さんは、
「えッ。」
あまり意外な言葉に良寛さんは、びつくりした。しばらく言葉が出なかつた。そして僅かな時間のすぎる間に、一切のことが良寛さんにわかつた。しかし、それを良寛さんは口に出さなかつた。いふを
相手はいろいろ良寛さんを慰めた。
「以南さんは、ほんたうに一風変つた方でした。」
そんなことをいつたりした。
「何でも京都へ出ていらつしやつたのも、ちやんと家でさういつていらつしやつたのではなかつたさうです。私達の俳句の先生に、
この人は、父をただの変人だと考へてゐる、と良寛さんは思つた。||父は表面さう見えても、心の中ではただの変人ではなかつたのだ。父には一つの
良寛さんは早く自分一人になつて、気持をととのへたかつたので、ぢきその人の家を辞した。
父、以南の胸の奥底には、はげしい勤皇の志がいつも燃えてゐた。良寛さんは以前からそれを知つてゐた。
良寛さんは小さかつたとき、父からよくきかされたお話を
||昔、
以南さんは良寛さんに、よく覚えておけといふやうに、力をこめて何度もこの話をきかせてくれた。
賢い良寛さんはよく覚えた。
||父が俳句にことよせて、京都にのぼつたのも、その志を遂げる
||しかし、その機会は見つかつたらうか? いやいや、見つかつたなら、川に身を投げて死ぬわけがどうしてあらう。
||幕府の大きな力の前に、父は自分一人の力が、どんなに弱いものかを知つて絶望したのだ。絶望の余り死んでしまつたのだ。······
良寛さんは出来るなら、お父さんの志をつぎたかつた。しかし、今はまだそのためには早すぎることを、良寛さんは知つてゐた。
||わたしのやうな能なしが、いくら、もがいたとてどうならう。いたづらに、もがけば父と同じ破滅を招くばかりだ。
||よい時期が来るまで待たねばならない。よい時期が来るまで。
そして良寛さんは、京都を立去り、故郷に向かつた。
良寛さんは、
二十年前、若かつた日の良寛さんが歩いた同じ道を、今は逆の方向に歩いてゐるのである。
方向が逆であるばかりではない、すべてが二十年前とは逆になつてゐるやうに、良寛さんには思はれた。
あの時は、まだよく世間を知らなかつた。大きな
||
「何もわしはしなかつた。世の人のためになるやうなことは。」
と
||何もしなかつたどころか、父上母上に不孝をした。父上母上は、わしが「学問をして、きつと偉くなります。」と申しあげたとき、こんなつまらない雲水坊主で、一生を終るとは思はれなかつたらう。母上は、わしが今にきつと偉い
||いや、ほんたうに、わしは能なしぢや。こんな能なしは人の世の
良寛さんは、
突然バタバタと
良寛さんは追はうともせず、いつまでもじつと眺めてゐた。
年とつた良寛さんは、
五合庵といふ名は、どうしたわけだらう。その頃から百年余りも前、
その庵に住むことになつた、良寛さんの生活も、ひどく質素なものであつた。良寛さんは五合庵のことを、自分で詩にうたつてゐるからよく
五合庵は寂しい。
つるした石の楽器のやうに頼りない。
外は杉ばかり、
壁にかかつてゐるものは詩ばかり。
お釜 の中には塵 が積つて、
かまどに煙の立たぬ日が多い。
だが東の村には友達がゐる、
月夜になると訪ねて来る。
つるした石の楽器のやうに頼りない。
外は杉ばかり、
壁にかかつてゐるものは詩ばかり。
お
かまどに煙の立たぬ日が多い。
だが東の村には友達がゐる、
月夜になると訪ねて来る。
そして、そこで良寛さんはどんなに、こつそり住んだか。良寛さんの歌を見ればわかる。
山かげの石間 をつたふこけ水の
かすかにわれはすみわたるかも
かすかにわれはすみわたるかも
||静かな山のかげの、
しかし良寛さんは、ただひつそり生きてゐただけではない。静かな生活の中で、いつも勉強をおこたらなかつた。修養も忘れなかつた。
朝、眼がさめると良寛さんは、庵の裏の小さい泉へいつて、口を
それから良寛さんは、海と佐渡ヶ島の見えるところまで歩をはこんだ。木々の間から海が銀色に光つて見える。そしてその上には、なつかしい緑の佐渡が。
「お母さん、お早うございます。」
さういふ心持で良寛さんは、佐渡の方に頭を下げた。良寛さんはこの頃では、お母さんがそこで生れて、少女の頃を送つたといふ佐渡ヶ島は、お母さんその人を見るやうに、懐しく思はれてならなかつたのである。
それから良寛さんは、少し方向をかへて西南に向いた。そして、ていねいに頭をさげた。いくつかの山河と、いくへかの雲の奥に、皇居があらせられるのである。そしてまた京都は、勤皇の志を遂げることが出来ず、憤慨して死んだ父の、最後の場所でもあつた。
太陽も、もうかなりのぼつたらしかつた。
良寛さんは庵に
お金がほしい御馳走 がほしいと
思はないので心は満足だ。
あれがほしいこれがほしいと
思へばきりがなく、しまひには苦しくなる。
粗末なたべものでも
お腹 はくちくなる。
粗末な衣でも私は
これでよいのだ。
寂しければ山にはいつて
鹿 と遊ばう。
また村に下つて
子供達と一緒に唄 を歌はう。
ときどき泉の水で
耳を洗ふのだ。
すると松風の音は
一層すがすがしい。
思はないので心は満足だ。
あれがほしいこれがほしいと
思へばきりがなく、しまひには苦しくなる。
粗末なたべものでも
お
粗末な衣でも私は
これでよいのだ。
寂しければ山にはいつて
また村に下つて
子供達と一緒に
ときどき泉の水で
耳を洗ふのだ。
すると松風の音は
一層すがすがしい。
かういふ意味の詩が、御飯の炊けるまでに良寛さんの頭の中で、ちやんと出来あがつてゐるのである。
御飯は炊けたが熟ませるため、しばらくそのまま置かねばならない。良寛さんは何といふことなく庭に出ていつた。
あちこち
良寛さんは、この筍を見てゐると、いつか川のふちで見た
可笑しかつたので一人で笑ひながら、良寛さんは庵にはいつた。もう御飯がうまく熟んでゐるころだ。
蓋をとるとふわつと白い湯気が顔を
「詩はまづく出来たが、飯はうまく出来た。」
一人でそんな冗談をいひながら、良寛さんはささやかな朝飯をしたためた。
朝御飯をすますと、
一通り紙の上に書いてしまふ。なかなかよく出来たと
「飯はうまいが、詩はまづい。」
とむだ口をききながら、良寛さんは詩に一生懸命になつてしまつた。もう庭先に来て鳴いてゐる
すると良寛さんは、さつきから自分の心の
||何か気にかかる。一体何だらう、それは。
良寛さんは、筆を投げ出して首をかしげた。
||そいつが詩を作らうとするわしを邪魔するのだ。はやく、そいつの始末をつけてしまはなきや、こりやとても、詩は立派なものにならない。
「あッ、さうだ。」
いろいろ考へてゐて突然わかつたので、良寛さんは大きな声をあげた。
||筍のことである。縁の下から生えて、頭がつかへてしまつた筍。······
「だうりで、わしは何となく頭を抑へられるやうな気がした。さうだ、こりや、ほつとけない。」
良寛さんは、すぐ外に飛び出すと、同じ山の少し上の方にある
「すまないが、
寺男を見ると、良寛さんはいつた。
「何なさるだね。」
と寺男は、鋸を出して来て渡しながらきいた。
「何さ、縁の下に筍が生えよつての。」
「筍。筍なら
「何の、何の、これで結構。」
鋸を借りた良寛さんは、また走るやうにして五合庵に帰つて来た。
間もなく、
「良寛さん、筍はうまくいきましたかな。」
「ああ、うまくいきました。」
と良寛さんの声が庵の中からした。
寺男は縁側を見てびつくりした。切られたのは筍ではなくて、縁側であつた。筍の頭の触るところが、四角に切りぬかれてあつた。
「いやはや、どうも。」
寺男はあきれて立つてゐた。
「それなら筍も、せいせいしただらうの。わしも頭が軽くなつた。そいつの頭が縁側につかへてゐるうちは、どうも
「なるほどね。」
「まあ、これでええ。おかげで詩もうまく出来あがつた。」
||良寛さんは変つたお人だ。いや変つたお人だ。縁側より筍を、大事にしておいでる。
さう思ひながら、寺男は坂道を下りていつた。
寺男の驚きは、それだけでは済まなかつた。半月ほどたつて、また五合庵にやつて来た寺男は、前より一層びつくりした。
筍は伸びて軒端に届き、そこにもう一つ穴をあけて貰ひ、
||いや、良寛さんは驚いたお人だ。何とも、あきれたお人だ。
寺男はさう思ひながら、国上寺の方へのぼつていつたのである。
次の日、良寛さんが若竹を見ながら、竹の詩を作つてゐると、坂の下から馬の
||いづれ国上寺へいく人だらうが、馬で来るのは珍しい。武家かな。
さう思つてゐると、音はだんだん近づいてきて、国上寺の方へのぼつてゆかずに、五合庵の庭へはいつて来た。
「ああ、
良寛さんのすぐ次の弟である。小さかつたときは
「兄さん、その竹は一体何ですか。」
由之さんも、縁側の竹には驚いて、馬を庭の木につなぎながらきいた。
「なあに、こいつは間違つて、縁の下へ芽を出しよつたのさ。切つて
「そんな
「うん、竹ぢやが、竹でもええぢやないか。」
「馬鹿馬鹿しくて、あいた口がふさがりませんよ。縁や軒端にまで穴なんかあけて。たかが一本の竹なんかのために。」
由之さんは縁先へきて腰をかけた。
「たかが一本の竹といふが、わしには、竹も
「本気になつてきいてゐられませんよ、そんな話は。とんだ酔狂です。」
由之さんは、もう竹の話は興味がないといふやうに、庵の中をきよろきよろと見まはした。そしていつた。
「兄さん、
「うん。」
「まるでさつぱりしてゐますね。」
「うん、さつぱりしてゐる。」
「不自由はありませんか。」
「別に不自由はない。」
「これで
「この通り出来てゐる。」
「さうですか。」
由之さんは感心して、中を一層よく見るために、上にあがつて歩いてまはつた。歩いてまはるといつても、五足か六足歩けばもう一まはりすんでしまふ。大変小さな庵なのである。
「兄さん、ほんたうに不自由はありませんか。欲しいものがあつたら、何でも遠慮なくさういつて下さい。すぐ届けさせますから。」
「うん、
「いやよく解りました。兄さんが御自分で満足していらつしやるなら結構です。」
それから三十分ばかり、由之さんは世間話をしてゐたが、
「ぢや、また来ます。兄さんも、陽気がいいときですから、ときどき出雲崎まで出掛けておいで下さい。」
といつて立去つた。
||由之は一体何をしに来たのか。
その由之さんも馬の背にゆられて、国上山をおりながら思つた。
||わしは一体何をしに来たのか。
由之さんは、この頃面白くない日が続いてゐた。町民たちが彼と息子の馬之助を
そこで由之さんは、家にゐても、気がくしやくしやするので、ひとつ兄の良寛さんに一切を打ちあけて、ここをうまく切開いてゆく方法はないか、
||しかし、筍をのばしてやるために縁側や、軒端に穴をあけるやうな兄さんに、相談したつて何になるもんか、まだそこにつないである牛に、相談した方がいい位だ。
この考に
平野に出ると由之さんは、馬をしばらく走らせた。やがて馬の速さをゆるめながら、
||待てよ、と思つた。
||兄さんのやうな生活、あれが人間のほんたうの生活なのかも知れない。
よく考へて見ると、由之さんの今の苦しみも、慾が深すぎるところから始つてゐた。町民達から
||こいつは確に、私のやり方が間違つてゐた。やつぱり兄さんは、私に教へてくれた。さうだ、やつぱり兄さんは偉い。
由之さんは顔を明かるくして、あたりを眺めた。急に世の中が、美しくなつたやうに見えた。
お米が無しになると、良寛さんは、山をおりて
托鉢には、どんないでたちで出掛けたか。良寛さんも、この頃では齢をとつて、忘れつぽくなつたので、忘れないやうに、持物を
こんな風に書きつけてあつても、これらの物をみんな身につけて、出掛けはしなかつた。天気のよい日、近いところを
良寛さんは近くの村々を、今日は西、明日は東といふ風に、托鉢して歩いた。そして到るところで、村の子供達と
子供達は、良寛さんを見ると歓迎するのであつたが、そのしかたが、村々によつて同じではなかつた。或村の子供達は口が汚くて、「やァ、坊主が来たァ、乞食坊主がァ。」といつて、はやしたてた。でも心は汚れてはゐなかつたので、
良寛さんが、ときどき訪れてゆく、
そこの子供達は、良寛さんを見るや、いちはやく、
「良寛さん、一貫。」
と叫ぶ。
すると良寛さんは、びつくりしたやうな
今度は子供達は、
「良寛さん、二貫。」
と叫ぶ。
すると良寛さんは、前より一層ひどくうしろへ、そつくりかへるのである。
かうして子供達は、だんだん貫数を増してゆく。それにつれて良寛さんは、ちやうど背中の荷物の目方が、一貫目づつ増えてゆくかのやうに、だんだん深く、そつくりかへる。そして子供達は最後にかういふ。
「良寛さん、十貫。」
良寛さんは、もうこれ以上深くは出来ないといふところまで、そつくりかへる。つまり、地べたに仰向けに倒れてしまふのである。それから子供達と一緒に、良寛さんの好きな手毬やおはじきが始るといふあんばいだ。
今日も良寛さんは、地蔵堂町へやつて来た。ところで、子供達がよく遊んでゐる
「ほい、こいつはしまつた。今日はここへ来るのぢやなかつた。」
といふのは、良寛さんは今日、新調のお衣を着てゐたのである。前の衣はもう十年ばかりも着て、ぼろぼろになつてしまつたので、良寛さんと懇意な
「悪いことに、雨あがりと来てゐる。」
良寛さんは地面を見た。どこもかも少しぬかつてゐた。
「ここへひつくりかへつちや、衣はだいなしにならうて。」
しかし良寛さんは、今更ひきかへすことも出来なかつた。といふのは、もう一つ新調のものが、良寛さんの
昨日良寛さんは暇だつたので、
「昨日は新しいお衣を
といふ意味のことが書いてあつた。衣のすそを何かにひつかけて、破つたのかも知れない、と思つた造酒右衛門さんは、注文のものを下男に持たせてやりながら、
「
といつた。下男は五合庵へのぼつていつた。良寛さんは、下男から針と糸を受けとると、
「や、ごくらうさん。もうよろしいから、帰りなさい。」
といつた。下男は、もぞもぞしながら、
「それでも良寛さん、主人は私に、針仕事をして来いと
と答へた。
「いやいや。お前さんはもう用がないから、あつちへ行きなされ。」
と良寛さんは、そつけなくいつた。下男は、いくら頼んでも良寛さんが仕事をさせてくれないので、さうですか、と腰をあげて土間から出ていつた。しかし、このまま帰つては主人に叱られると思つたので、良寛さんが一体何をするか、見届けてから帰ることにした。彼は一たん
良寛さんは、紙をまるめたものを
「お前さんは人の悪い御仁ぢや。わしはこんなところを見られて
といつた。
「良寛さん、一体何をお造りなさる? まさか手毬ぢやないでせうね。」
良寛さんは、ますます顔を赫くして、
「その手毬ですわい。」
と、
こんな工合にして、出来あがつた手毬だつた。そして良寛さんは、その毬の形や、色糸でかがつた花模様のあんばいが、自分でほれぼれするほど、よく出来たつもりなので、早く子供達と一緒になつて、その新調の美しい手毬を、ついて見たくてたまらないのであつた。
||さうだ、今日はひつくりかへるのはよさう。今日は地べたがぬかつてゐるから、子供達がいくらいつても、ひつくりかへるのはよさう。さう
しかし、辻堂の縁の上で遊んでゐた五、六人の女の子が、いつものやうに、
「良寛さん、一貫。」
と叫ぶと、さつきの決心がにぶるのであつた。それも、ゆつくりにぶるのではなく、一度にどつと、にぶつてしまつた。そこで良寛さんは、いつものやうに、うしろにそつくりかへつた。
「良寛さん、二貫。」
||ええ、仕方がない、と良寛さんは更に深くそつくりかへる。
「良寛さん、三貫。」
やれこら、どつこいしよ、と良寛さんは仰向く。
だんだん貫数は増えてゆく。
「良寛さん、十貫。」
||やれこらせいの、どつこいしよ。良寛さんは、うしろに尻もちをついた。そして新しいお衣はうしろ側が
||やれやれ、子供といふ
それから、良寛さんの待ちのぞんでゐた手毬つきが始つた。良寛さんは、初めのうち新調の手毬を出さなかつた。みんなをびつくりさせるために、しばらくのうちは、女の子達のもつてゐた古い手毬をついてゐて、新しい毬は
じやんけんをして、良寛さんが一番初めにつき出した。縁板の上で手毬は、ぽんぽんとよい音をたてた。||なあに、今にわしの毬を見せてやるから驚くな、と心の中でいひながら、良寛さんは一人でこつそり笑つてゐた。
良寛さんがつきそこなつて顔をあげたとき、どこかで
「今時分、鶯が鳴いてるのは、どうしたわけかい。もう秋だといふのに。」
と良寛さんはいつた。
「さうぢやない、良寛さん、キクやんが鶯笛を吹いとるだ。ほらあの
良寛さんがそつちを見ると、土塀の蔭へ女の子の顔がちらつとかくれた。それからまたそつと半分ほど顔を出して、こつちをじつと見てゐる。
「さあ、今度はあたいがつく番。良寛さんがうたふ番。」
良寛さんはそこで、毬つき歌をうたひ初める。
むかふ通るは
伊勢 の道者か
熊野 道者か
肩に掛けたるかァたびら
··················。
肩に掛けたるかァたびら
··················。
良寛さんの鼻先では、女の子が一心に、こきざみに、手毬をついてゐる。
するとまた鶯笛が鳴つた。
「どうして、あの子は一人で、鶯笛なんか吹いてゐるのかい。ここへ来て一緒に遊ばないのかい。」
と良寛さんは、毬をついてた女の子が、つきそこなつてやめたとききいた。
「でもキクやん、おつ
「おつ母さんがなくても、ええぢやないか。一緒に遊べば。」
女の子達は、ちよつと顔を見合はせた。
「だつてキクやん、毬がないだもの。」
と一人の子がいつた。
「さ、今度はあたいがつく番。」
と三番目の子がいつた。また手毬が始つた。良寛さんは、もう塀の角ばかり見てゐた。そこに半分出たり隠れたりする、人なつこい、
またその子は鶯笛を吹いた。
「ホー、ホケッキョ。」
||春でもないのに、お前はどうして鶯笛なんか吹くのか、と良寛さんは心の中でその子を
ここで手毬をついてゐる子達は、あの、母さんのない子を
良寛さんは、塀の蔭の二つの眼に向かつて、手招きした。二つの黒い眼は、しばらくまたたきながら、良寛さんを見てゐるだけだつた。良寛さんは何べんも招いた。すると、信じたものか疑つたものか迷つてゐるやうに、鶯笛の女の子は、少しづつ姿を現し、良寛さんの方へ近づいて来た。
鶯笛の女の子は、良寛さんの
「お前の鶯笛はいい音がするね。ンでも今時分鶯笛を吹くのは
さういつて、良寛さんが
鶯笛の女の子は、手毬を見てのどをこくりと鳴らした。欲しいのだ。しかし良寛さんの本当の心が疑はしいといふやうに、顔をふり仰いだ。
「さァ、遠慮なくおとり。」
その子は、良寛さんの大きな眼にたたへられた、やさしい慈愛の色を見た。そこで手毬をそつと取ると、良寛さんの
さつきから、毬つきをやめて見てゐた女の子達には、良寛さんのしたのが正しいことであると、すぐわかつた。自分達は間違つてゐた、人はかういふ風にして、いたはり合はねばならないのだ、と心の奥ではつきりわかつた。
「わしに鳴らせるかな。」
といつて良寛さんが、下手に鶯笛を吹くと、みんなはわつと笑つた。毬を貰つた子も、はじめて笑つたのである。
或年の秋の頃、亀田先生は北国を旅してゐて、
長岡の町の一番にぎやかな通を、歩いてゐると、亀田先生は、今までにあまり見たことのない、立派な文字を見つけた。そこで自然に足がとまつてしまつた。
それは道ばたの一軒の大きな商家が、
「
何といふ美しい文字だらう。見れば見るほど好きになる、温い、優しい、そしてりんとしたところのある文字だ。心の美しい、立派な人でなければ書けない文字だ。
||誰だらう、こんなすばらしい字を書いたのは。
亀田先生は、貼紙のそばに行つて、長い間
「わたしは、江戸の亀田鵬斎といふものですが······。」
と亀田先生がいいかけると、主人らしい人が、
「へッ、あなたがあの御有名な亀田鵬斎先生! さうですか。さあどうぞ奥へおあがり下さい。いえ、御名前はもう以前からうかがつてをります。」
といつた。
||こんなところでも、わたしの名を知つてゐてくれるのだな、と亀田先生は
「実は、お店の障子に貼つてありました文字を見て、お邪魔にあがつたのですが、あれは一体どなたがお書きになりました。」
と奥へ通されると、亀田先生はきいた。
「あれは、
「良寛······。良寛禅師なら、私もちよつときいてをります。なるほど良寛禅師の御筆ですか。さうですか。」
と亀田先生は深く感心してゐた。
「わたしどもには、心得がなくてよくわかりませんが、そんなに立派な字でございませうか、先生。」
「立派なものです。わたしは方々旅して来ましたが、こんないい文字を
「さうですか。」
「いや、良寛禅師の書を、あんな風におもていさらしておくのは、
「でも、あれは、うちのかんばんですから。」
「何なら、わたしが代りに書いて上げます。わたしの字位が、ちやうどかんばんにするには
「さうでせうか。」
亀田先生は、そこで、良寛さんの書いたのをしまはせて、代りに自分で、その通りに書いたのである。
さて上州屋を出た亀田先生は、急に良寛さんを訪ねて見たくなつた。今まで、良寛といふ人は大変よい字を書き、かなりよい歌もよむときいてゐたけれど、どうせ越後みたいな、片田舎に住んでゐる坊主のことだから、大したこともあるまいと、たかをくくつてゐた。それが、上州屋の障子に貼つてあつた文字を見て、一度に尊敬の念が、起つて来たのである。
||これは、自分などとは
亀田先生は馬をやとつて、国上山にいつた。そこの
馬をおりて亀田先生は、両側に竹や木の生ひしげつてゐる、細い山道をのぼつていつた。あたりは静かで、その道をおりて来るものは誰もなかつた。道には
||こんな静かな山の中に、住んでゐられるから、あんな味はひの深い、よい字が書けるのだ、と亀田先生は思つた。
道のわきに小さい
「ちよつとお
ときいた。
「良寛のゐるのはここですが。さうしてこのわしが
と、顔の長い見すぼらしい坊さんが、つくねんと部屋の真中に
亀田先生はびつくりした。もつと立派な住まひにゐると思つてゐたのである。||自分の書く文字でもかなりよい値段で売れる。良寛禅師は、あれほどすばらしい字を書かれるのだから、
亀田先生が、自分の名を告げると、
「ほう、あなたが亀田先生。よく来られたのう。」
といつて良寛さんは、始めて立つて来た。
「旅でお疲れぢやろ、まあ足を洗つておあがりなされ。この水でお洗ひなされ。」
さういひながら良寛さんが、背戸から
「これはあの、摺鉢ではございませぬか。」
と
「ああ摺鉢ぢや。」
「摺鉢と申して、あの
「味噌摺鉢ぢや。」
「いや、あきれました。それではこれで足を洗うことは出来ません。」
「いや、相済まぬ。わしのところは貧乏でのう、
良寛さんは、ほんたうに済まないやうに、あやまつたのである。
亀田先生は、泉の水で足の埃を洗ひ落しながら思つた。||良寛禅師のやうなよい書を書く人が、摺鉢で足を洗はねばならないやうな貧しい
それから二人の間に書の話が始つた。二人とも字を書くことが好きなので、話は尽きなかつた。二人は実際に筆をとつて、一枚の紙に思ひ思ひのことを書いたりした。話の途中で亀田先生は、
「あなたは、字を書いた短冊や半切をお売りにならないのですか。」
ときくと良寛さんは、
「さういふことは、しようと思つたこともありませんのう。わしは、みなさんから物を恵んで頂いて、不自由なく暮してゐますから、わしの方でも、欲しい人には、字を書いてさしあげますぢや。もつとも、自分の気分の悪いときは、書けませんがの。」
と答へた。
また亀田先生が、
「一つ、江戸へ出て来られてはいかがですか。それだけの手を持つてゐられれば、弟子の百人や二百人は、すぐにあつまりませう。ぱつと有名になりませう。」
と誘ふと、良寛さんは、
「いや、わしは、ぱつと有名になりたくありませんのぢや。わしは、何一つ世のためになるやうなことは出来なかつた、ほんとの能無しぢやから、この山の中に、こつそり暮させて頂けるさへ、有難いことと思つてをりますぢや。」
と答へるのであつた。さういはれると亀田先生は、もう何もいふことがなかつた。
二人は書が好きなばかりでなく、酒も好きだつたので、夜になると良寛さんが買ひにゆくことになつた。
「ぢや、麓の村まで、ひとはしり行つて来るでの、あんたは
さういつて良寛さんは、徳利をぶらさげて出ていつた。
風のない静かな夜だ。庵の
頭の上で
||どうしたんだらう。いくら麓の村といつても、もう帰つて来ていい頃だ。
とうとう待切れなくなつて、亀田先生は庵を出て、麓の方へ迎へに出かけた。ちよつとおりたところに、少しの広場があつて、そこから下の
誰かが、そこの松の木の根元に、腰をおろして、
「良寛禅師ぢやありませんか。」
と、亀田先生は声をかけた。
「ああ。わしぢや。見られい、いい月ぢや。いい月ぢやのう。」
と、良寛さんは、月から眼を離さなかつた。
「いい月ですね。月もいいですが、酒は手にはいりましたか。」
と亀田先生がいふと、良寛さんはとむねをつかれたやうに、はつとして、そばにおいてあつた徳利を
||いや、どうも、と残つた亀田先生は苦笑しながら思つた。||天下の亀田鵬斎が、待たされて忘れられたのは、これが最初だ。良寛禅師にかかつちやかなはない。
しかし亀田先生は、それで、ますます良寛さんが好きになり、尊敬もしたのである。
上州屋に亀田先生が書いてやつた広告は、どうなつたらう。
その後、或日また、一人の通行人が、上州屋の「酢、醤油、上州屋」に眼をとめた。
その人はかういつて、上州屋にはいつて来た。
「障子の表に
それは
巻先生は、亀田先生が良寛さんの字に対して、いつたのと同じやうなことをいつた。
「亀田先生の書を道にさらしておくといふ法がありますか。わしが代りに書いて進ぜるから、しまつて置きなさい。」
そこで亀田先生の「酢、醤油、上州屋」は、しまはれて、巻先生の「酢、醤油、上州屋」がかかげられた。
しかし巻先生の「酢、醤油、上州屋」も、あまり長く通行人に見て貰ふことは出来なかつた。
やがて
これで見ると、一番初めに広告を書いた良寛さんが、どんなにすぐれた書家であつたかが
たとへば人が、
「あそこの家ぢや、足の裏にあざのある赤ん坊が生れたさうだ。おめでたいことぢやないかね。今にいい
と話してゐるのをきくと、武助さんは、すぐに反対して見たくなるのである。自分でも、いはない方がよいことは
「何が、おめでたいことがあるもんかい。足の裏にあざがあるやうなものは、
といつてしまふ。
実際のところ、足の裏にあざのある赤ん坊が生れたからといつて、そこの家の運がよくなるか、悪くなるか解るものではない。しかし、それは
ところで或日、武助さんはまたこの悪い癖を出してしまつた。
三人の村人達が、武助さんの船にのつたのである。そして三人は、
「良寛さんは立派なお人だ。ほんたうに立派な人といふものは、偉さうなことはいはない。何にもお説教をしない。黙つてゐる。それでゐて他人を感化するのですね。」
「良寛さんといふのは、そんな人ですか。何でも、もとは
「さうです。そして良寛さんは、ちつとも威張らない。良寛さんが、或家へやつて来るとしますね。すると良寛さんは、下男のやうに、そこの家の庭を掃いたり、赤ん坊の守をしたり、時には
「それぢやまるで、春の
と、きく方の人は空を仰いでいつた。強くない柔かな春の陽光は、川の上に、川の向かふの
||そんな話は
「ほんたうに春の陽の光のやうな方ですな。そばにゐると、温かくたのしくなつて来るんです。それが証拠に、良寛さんが道ばたに
||そんな話は
そこには顔色の黒い年とつた坊さんが、寒さうに体を丸くして、
「やつ、良寛さん。」
と、今まで良寛さんの話をしてゐた人が、船をおりながら、いつた。
「ああ、今日は、
「今、船の中で、あなたのお
「天気がよいので、ぶらりぶらりと
「船で渡るなら、早くのるがええだ。」
と船頭の武助さんは、
「ぢや、ごめん。いづれまた近いうちに。」
といつて良寛さんは、船にのつた。
武助さんは、
||何だい、こんな
良寛さんは、船がひどく揺れ出したので、びつくりして船べりにつかまつた。
「この船はよく揺れるだのう。」
「うん、よう揺れるだ。小せえ船はよう揺れるだ。」
武助さんはふと悪いことを考へた。良寛さんを川の中へ揺り落して、怒らせてやらうといふことだ。||きつと、かんかんになつて怒るだらう。怒るやうなものなら、普通の人間ぢやないか。
船は川の真中あたりへ来た。武助さんは良寛さんを安心させるために、船を揺りやめた。良寛さんは船べりから手を離して、また水の面を眺めた。
「ありや、
良寛さんは眼を細くして、すれちがつてゆく、一つの小さい白いものを見てゐた。それからまたいつた。
「川も春になると、
急にぐらりと船が揺れた。良寛さんは、どぶんと水の中に落ちて、「かう水が溢れてゐるのは、気持のいいもの」ではないことが解つた。水が深くて足が底に届かないので、良寛さんは沈むまいとして手足をばたばたやつた。
||坊さんといふものは、泳ぎのまづいもんに違ェねェ、としばらく武助さんは眺めてゐた。が、良寛さんが
||さァて、これから、この坊さんと
しかし喧嘩は起らなかつた。
「済まなかつたのォ、ようわしを救つて下さつた。お前さんが棹をさしだしてくれなんだら、わしは溺れ死んでしまふところぢやつた。済まなかつたのォ、済まなかつたのォ。」と良寛さんはお礼をいつた。そして続けざまに三つ
「何の、何の。」
と武助さんは横柄に答へた。
「ほんとにお前さんは、わしの命の恩人ぢや。
「何の、何の。誰でも死ぬのは好かねェだ。」
喧嘩になると思つてゐた武助さんは、
船が岸に着くと、良寛さんは改めて武助さんにお礼をいつて、寒さにがつがつ
「へッ、何でェ、あの坊主は。」
と
村はづれの、
「あッ、びつくりした。何でまた、そんな牛みたいに、のつそりはいつて来るだね。」
と、勝手場で夕御飯の支度をしてゐた、お
武助さんは黙つて上にあがると、大黒柱の方に頭をむけて、ごろんと寝ころんだ。前の田圃で、蛙が遠慮勝に鳴いてゐる。ぐるぐる、ぐるぐるといつては、長い間黙つてゐる。武助さんは、ぼんやりそれを聞いてゐる。
「さあ、支度が出来ましたで。」
お内儀さんが台所から呼んだ。武助さんは立つていつて、
「お前さんの大好物の、
とお内儀さんは、武助さんが黙つて
「うん。」
と武助さんは、重く返事をした。
そして二杯御飯を頂くと、もういらない、といふのである。
「どうかしただね。加減でも悪いのか※[#小書き片仮名ン、381-上-12]。」
とお内儀さんは、いつもなら七杯位、ぺろりと喰べる武助さんの顔を、つくづく見ながらきいた。
「うん。」
と武助さんはまた重く答へた。
「腹が痛いのか※[#小書き片仮名ン、381-上-17]。」
「腹ぢやねェ。」
「それぢや、頭がやめるのか※[#小書き片仮名ン、381-上-19]。」
「さうでもねえやうだ。」
「そいぢや、胸が抑へられるやうな気持がするのか※[#小書き片仮名ン、381-下-1]。」
「さうでもねェ。」
「そいぢや、一体
「何処だか、よく解らねェ。」
しかし、確かに何処かが悪かつた。何処が悪かつたのだらう。武助さんの中の何が痛んでゐたのだらう。それは武助さんの良心だつたのだ。武助さんの胸の奥にかくれてゐる、良心だつたのだ。
「あんなおとなしい坊さんを、
と良心が胸の奥でいつてゐた。
夕御飯がすむと、武助さんは、もう寝る、といつて床にはいつた。
||眠つてしまへ、明日の朝になれば忘れるだらう、気持もさつぱりするだらう。さう武助さんは思つた。
しかし武助さんは眠れなかつた。しつかり眼を閉ぢてゐても、
突然、武助さんは、起きて出て
「今頃から何処へ行きなさるだね。」
とお内儀さんは、縫つてゐたものを
「
「えッ国上山。どうしてまた急に、そんな遠くへ出掛けるのか※[#小書き片仮名ン、382-上-4]。」
武助さんは簡単に、今日の昼、良寛さんを船から揺り落したことを話した。そして良寛さんが怒ると思ひの外、かへつて武助さんにお礼をいつたことを話した。
「
お内儀さんも、武助さんの行為が間違つてゐたことを認めた。
「お前さんは、何でも他人のいふことに反対して見るんですよ。ほんとに悪い癖ですよ。」
しかし、
「いや、今から行つて来るだ。もう気が
さういつて武助さんは、外の明かるい月夜へ出ていつた。
村は静かで、
武助さんは一人で船にのつて、立ててあつた棹をぬいた。舟は川の真中へ進んで来た。
「こりや、冷いだらう。」
とひとりごとをいつて、しばらく水の面を見てゐたが、やがて、どぶうん、と武助さんは跳びこんだ。
水面の月の光が乱されて、やがてだんだんしづまつて、しばらくは鏡のやうな水面に、誰ものつてゐない小舟だけが浮かんでゐた。がそのうちに、武助さんがぽかりと
舟にあがると武助さんは、ぶるつと胴ぶるひして着物をしぼつて、
「これで、ちつとばかり気持が楽になつただ。だが、あの坊さんは不意をくらつたのだし、泳ぎを知らなかつたんだから、もつと苦しかつたに違ひない。済まねェ、済まねェ。」
と
良寛さんは、戸を叩く音で眼がさめた。まだ
「こんばんはァ、こんばんはァ。」
と外で誰かが呼んでゐた。
「誰ぢやな今時分に。
「さうぢやねェだ。昼間の船頭ですだ。ここをあけて下せェ。」
「ほほォ、泥棒さんかと思つたら船頭さんか。」
良寛さんは戸をあけ、船頭を中に入れてやつた。すると船頭は、良寛さんの足元にばたつと平伏したので、良寛さんはびつくりした。
「済みませんでしただ。お坊さん。済みませんでしただ。この通りですだ。何とぞ御勘弁なすつて頂きてェ。」
船頭は額を地べたにすりつけた。
良寛さんは慌てて、
「お前さんは一体、どうなすつたぢや。赤鬼が桃太郎に降参したやうな、そんな
武助さんは、舟をわざと揺すつて、良寛さんを川に落したといふことを話した。良寛さんが怒りもせず、
「うんうん、さうだつたのか。いやいや、お前さんは感心な御仁ぢや。まああがらつしやい。炉に火をくべるから着物をあぶつて、今夜はわしのところで泊つてゆかつしやい。」
良寛さんは船頭を上にあげて、炉に
「そんなにして来んでもよかつたぢや。わしは、お前さんに救つて
「お坊さん、あんたは、ほんたうに心のええ人です。あの人達がいつとつたことは、みんなほんたうだ。同じ人間に生れても、わしは、あんたに
「いやいや、そんなことはない。人間には誰にでも、よい心と悪い心と二つづつありますだ。なるほどお前さんが、他人のいふことに、何でも逆つて見たくなるといふのは、悪い心だが、今夜お前さんが、気が咎めて眠れなかつたのは、それはよい心ぢや。お前さんは本心はええ人ぢや。うはつつらが少しばかり悪いだけぢや。わしら人間はのう、悪い心を抑へて、ええ心をのばしてゆけばよい。わしはさう思ふ。」
武助さんは、うなづきながらきいてゐた。
||ほんたうに、このお坊さんの
良寛さんは、年とるにつれて、人々から尊敬されるやうになつた。みんなは良寛さんを偉いお方だと思つた。
べつだん良寛さんは、人が驚くやうな大きな仕事をしたわけではなかつた。良寛さんの偉さはじみで、目立たなかつた。ちやうど眼に見えないほど細い糸で、しみじみと降る春雨のやうに。春雨は土を黒くうるほし、草や木を芽ぶかせてやる。良寛さんの人がらも、その
世間で偉いといはれてゐる人々の中には、なるほど固い意志の力を持つて大きな仕事をしとげはするが、人間らしさを持たないといふ人もないのではない。しかし良寛さんはそんな人とは違つてゐた。良寛さんは、飽くまで人間らしさを失はなかつた。
或日良寛さんは、野中の一本道を歩いてゐた。ひさしぶりで懇意にしてゐる家へ訪ねていつたのに、
空に一つの白くふくらんだ雲が流れてゐた。野には良寛さん、ただ一人の姿が見えた。
良寛さんは、ぼんやりして歩いてゐた。すると、頭に不意と一つのことがうかんで来た。
「お
それを
良寛さんは
「なァんだ、ちつとも嬉しくない。」
とひとりごとをいつた。実際、少しも嬉しくはなかつた。
||もう一ぺんやつて見よう。
今度はもう少し遠くへ投げた。鳥目は石ころにあたつて、ちやりんとひつくりかへつた。良寛さんはまたそれを拾ひあげた。
「なァんだ、ちつとも嬉しくないぢやないか。」
||これはやり方がまづいのかも知れない、もう一ぺんやつて見よう。
今度はもつと遠くへ投げた。同時に自分の眼をつむつた。ちやりんと音がした。それからそうつと眼をひらいて見た。
「おや。」
鳥目は
良寛さんは、鳥目の落ちたあたりへ走つていつた。そして探しまはつた。
鳥目はなかなか見つからなかつた。
「こいつはしまつた。」
良寛さんは頭をかきながら、草の中を探しまはつた。
そのうちに、とうとう鳥目は見つかつた。小さい紫の花をつけてゐる
「なァんだ、菫めが隠してをつたのか。」
さういひながら、良寛さんは、鳥目をまたもとの鉢の子の中に収めた。
これで実験は済んだ。そしてその結果、人々が「道で銭を拾ふと嬉しい。」といふことは、確にほんたうであると、良寛さんに
「いや、全くだ。全くほんたうだ。」
||それにしても、わしは
それから鉢を
だんだん菫の紫の花が、良寛さんの手の中で増えていつた。
「まだ、ここにもある。ほい、まだあそこにもある。」
きりがなかつた。良寛さんは菫摘みに夢中になつて、時のたつのを忘れてゐた。
やがて、両手に余る位、花がたまつたとき、腰が痛くなつた良寛さんは、立ちあがつて、いつの間にか、空が日暮の
「ほい、もう日暮ぢや。どうやら風も冷くなつた。こりや急がにやなるまい。」
良寛さんは、前かがみになつて、野道を
間もなく一つの村にはいつた。村には静けさのうちに、何となく日暮の物音と、慌しいけはひがこもつてゐた。良寛さんが沿つてゆく
良寛さんは、子供を探してゐた。子供に菫をわけてやりたかつたのだ。
「坊、菫の花あげようか。」
と良寛さんはいつてさしだした。
子供は良寛さんをよく知つてゐた。いつもよく遊ぶ心の優しい坊さんである。しかし今は日暮であつた。子供は家が恋しかつた。お
「菫なんかいらん。」
子供は、さういつて過去つた。
良寛さんは、また別の子供を探した。すると間もなく、赤ん坊を負んだ子守娘が向かふからやつて来た。赤ん坊が泣くので、自分も泣きたいやうな顔で、子守歌をうたひながら来た。
「菫をあげようか。」
と良寛さんはいつて、また菫をさしだした。
昼間なら子守娘は、良寛さんと
「良寛さん、いりません。」
泣き声でいつて、子守娘は過ぎていつた。
良寛さんは、それから三、四人の子にゆきあつた。ゆきあふたびに、菫をあげようといつた。そして、どの子からも、いらないといはれた。
良寛さんは、もう
||それにしても、何故、わしはこんなことをしたのだらう。こんなに菫を摘んで、一人一人子供にあげようといつて······。良寛さんは、もう
良寛さんは、とぼとぼと五合庵の方へ歩いていつた。足が大層重かつた。
||子供達は、日暮になると、みんな勇んで家へ帰つてゆく。しかし、わしは自分の家へ帰るといふのに、ちつとも楽しくはない。わしの家には、誰もわしを待つてゐるものがないからだ。
さう思ひながら、寂しい山道をのぼつていつた。
柴の折戸をぎいつとあけて、良寛さんは五合庵の中にはいつた。中は暗くなつてゐた。そして、ことりとも音がしなかつた。
||やれやて、暗くなつても誰もあかりをつけない。これがわしの住まひか。わしはこんなところに住んでゐたのか。
良寛さんは、
間もなく、外に
「良寛さん。」
「おお、どなたかのう。」
良寛さんは人声をきくと、急に元気が出て、立ちあがつた。
はいつて来たのは、顔見知りの百姓であつた。
「これ、良寛さんの
「おお、わしのぢや。」
良寛さんは、
「やつぱり、さうですか。どうも見覚えのある鉢だと思ひましたら、やつぱりさうでしたか。」
「
良寛さんは、百姓をむりやり、上にあがらせた。そして行燈に火を入れ、お茶を沸かした。
「まだ、夕飯前ですから、ゆつくりは出来ませんが。」
「ま、ま、さういはんで。
良寛さんは、しきりに百姓をひきとめたがつた。
百姓は五合庵の中を見まはして、
「良寛さんは、こんなとこで、毎日毎晩、暮してをらつしやつて、よくも寂しくねェもんですな。」
といつた。
「ああ、それさ。わしも今外から帰つて来て、つくづく自分でもさう思つてゐたところさ。こんなところによく一人でゐたもんだとのう。」
「
「うん、わしも旦那からきいてゐた。」
「ぜひ、木村の旦那のところへ、いかつしやるがええ。」
「うん、有難う。」
お茶をのむと百姓は帰つていつた。
百姓がゐた間、心がたのしかつた良寛さんは、一人になるとまたしづんで来た。
||何故、こんなんだらう。
今は、はつきり解つた。良寛さんは人が恋しいのだ。一人でゐるのは寂しいのだ。
||若かつた日、わしは寂しさに耐へる修業をした。どんな寂しさでも平気でゐられるやうに努力した。そしてあの時分は、それも出来た。しかし、年をとつたのか、わしはまた寂しさが我慢出来なくなつて来た。
良寛さんは
空には、まだ少し明かるさが残つてゐた。その明かるみの下を
||わしら人間も、あの鳥共と同じだ、と良寛さんは思つた。||わしら人間も、一人ぼつちでは、生きてゐられないのだ。みんなが一緒になつて、お互に助け合つて生きてゆくのだ。
何といふことなしに、良寛さんは涙がこぼれた。そして、涙でうるんだ眼を下に向けると、平野の上の家々の小さいあかりが、あちこちかたまり合つて見えた。
||わしは、あそこへゆかう。島崎村の、わしを迎へてくれるといふ家へたよつてゆかう。一羽遅れた小鳥のやうに、わしは人々のところへ追ひすがつてゆかう。
良寛さんの眼からとめどなく涙が
私の話したかつたことは、これで大体終つた。
さて君達は、私がこの本のはじめで出しておいた、宿題を
「良寛さんのどこが偉いか。」
君達に良寛さんの偉さが
たとひ、良寛さんの偉さは解らないにしても、この話を読んで君達は、良寛さんが好きにならなかつたらうか。それでも私は満足に思ふ。
もし君達が、良寛さんを偉くも思へないし、好きにもなれないといふなら、私は大層残念だ。
しかし、それは良寛さんがいけないのではなくて、私の話し方がいけないのである。だから、君達はこの本だけで、良寛さんをつまらなく思つてしまつてはいけない。良寛さんのことを書いた書物は、まだ
では私は、これで私の話を終へることにしよう。