枕もとの障子に
笹の葉のかげがうつりました。
「
太郎や、お月さまが出ましたよ。」
とおばあさんが
云ひました。太郎さんは顔をあげて、おもしろく模様形をした
笹の葉のかげを、しばらく見てゐましたが、
「障子をあけて見ようかね、おばあさん。」
「いゝえ、外は寒いからこのまゝがいゝよ。」
秋の夜は早く更けてこほろぎの声がほそ/″\とひゞいてゐます。太郎さんとおばあさんは、一つ夜具の中に
枕をならべて寝て居るのであります。障子にさす月あかりが、ほんのりと白く二人の顔を浮き出すやうに見せてゐます。やがて太郎さんは、
「おばあさん、何か話をして!」
「まあお待ち、今考へてゐるところだよ。」
とおばあさんは障子の方へ向けてゐた目を太郎さんの顔へ移し、
「今夜はちつと
恐い話をして聞かせようぞ。」
「
恐い話ならなほおもしろいや。」
「よし/\それでは
狐に
化された話をせう。」
「狐に?
誰が化されたの」
「おばあさんが。」
「おばあさんが化された? ほんたうなの?」
「ほんたうとも、まあお聞き。」
それからおばあさんは、つぎのやうな話をなさいました。
それは太郎さんが生れるずつと前、おばあさんがまだ若い
頃のことであります。
「丁度今夜のやうにお月さまのあかるい晩、お湯のかへり道で化されたのだよ。」とおばあさんは云ひました。
お湯といふのは、太郎さんの村には
田圃中から自然に
湧き出る湯があつて、それに粗末な小屋掛けをして村の人たちは入りに行くのでありました。農家のことですから昼のうちは野良仕事がいそがしい。お夕飯をすましてからみな呼びかはして入りに行きます。おばあさん
達女づれは、大てい夜おそく寝がけに行くことにしてゐました。
その晩は近所の
誰彼さそひあはせて五六人づれで出かけました。夜ふけのことでお湯はもうすき/″\してゐました。おばあさん達はゆつくりと
身体をのばして
湯槽にひたりました。
湧き出る湯の量が多いから、町の洗湯のやうに
垢汚れのしてゐることはありません。こぼ/\と
湯尻の落ちる音からして、いかにも新らしい
匂やかなこゝろもちです。
湯殿の天井には
行燈がつるしてありますが、その晩は窓からさしこむ月の光の方があかるい位でした。おばあさん達は世間話などしながら思はず長湯をして、お湯を出た時は大分夜がふけてゐました。空にはお月さまが高く登つてをります。
田圃の稲は色よく熟して、夜露にしつとりと
濡れて、何ともいへぬ静かな深い秋のながめであります。
お湯から村までは十町ばかりの道のりでした。その間、石ころの多い一本道が田と田の間をまがりくねつて続いてをります。道は幅二三尺しかありませんから、一人が先へ立ち、あとへ/\とつづいて行くのでした。おばあさん達は、お湯の中でずゐぶんお
饒舌をしたあとなので、皆黙りこんでこつ/\歩いて行きました。
と、道の中ほどまで来ました時、ゴウ/\とはげしく水の流れる音が行手をさへぎつて聞えました。みな立ちどまりました。こんな所に川はなかつた
筈、どうしたのだらうかといぶかしく思ひました。川の音はすぐそこにひゞいてゐますが目には何も見えません。たゞもう
真暗闇です。
「道をまちがへたやうですね。
提灯を持つて来ればよかつた。」
と一人がやがて口をひらきました。
「でも今夜はお月夜だつたでせう。」
と一人が云ひました。さうです。今し方まで昼のやうにあかるくお月さまが照してゐたのです。みな気味がわるくなりました。お互に手と手をとりあつて、
闇の中を見すかしながら、どうしようかと途方にくれてをりました。川の音は、ます/\はげしくひゞいてゐます。
「かまはない、歩いて見ませう。」
と誰かが云ひました。みな手をつないだまゝ一足々々と前へ進みました。そして一番先に立つた一人が、川のひゞいてゐる上へ一足踏みおろすと一所に、そのひゞきはぴつたり
止んでしまひました。そこには川も何もなくて、
闇の中にほんのりと道すぢが見えて来ました。
ヤレよかつた、と思ふまもなく、こんどはゴロ/\と雷がなり出しました。たちまち盆をくつがへしたやうな雨がザアツと降つて来ました。丁度道ばたに
藁小屋がありましたので、みなその中へ
駈けこみました。雷は鳴りひゞく、
電はピカリ/\とひらめく、大へんな空もやうになりました。今ごろ夕立のする時節ではなし変だと思ひましたが、誰も口に出して云ふ人はありません。女づれのことで、たゞもう恐ろしさにうちふるへてゐました。こんな時むやみと歩かうものなら、
溜桶の中へでもはまり込むのが
落です。口々にお題目など唱へながら小屋の中で時をすごしてゐました。
やがて、しばらくして、この大降りの雨の中を、
傘をさしてスタスタこちらへやつて来る人があります。
「誰か迎へに来てくれたのだ。」
とみな飛びたつやうにして小屋の口へ出て見ました。それは村の
権兵衛さんでした。たくさんの傘を抱きかゝへてをりますので、みな、
「ありがたう/\。」
と云ひながら権兵衛さんの手から一本づつ傘を受けとりました。
その時おばあさんは、みなのうしろの方にゐましたが、ソツと
下駄をぬいで手に持ちました。そして、権兵衛さんから傘を受け取る風をしながら、ふいにその
下駄で、権兵衛さんの肩のあたりを力一ぱい打ちました。すると権兵衛さんは、
「キヤン!」
と一声鳴いて姿が消えてしまひました。みんな驚いておばあさんの顔を
眺めました。おばあさんは、
「まあ外へ出てごらんなさい。」
と云ひました。
雨はすつかり晴れてお月さまが昼のやうに照りとほしてゐます。そして、ふしぎなことには、あれほど雨が降つた
筈なのに道が少しも湿つてをりません。気がついて見ますと、傘だと思つて手に持つてゐたのは短い棒切でした。さてこそ狐の仕業だつたとみな悟りました。
「あなたはどうして権兵衛さんが狐だと気づきましたか。」
と尋ねられて、おばあさんはかう答へました。
「でも権兵衛さんの顔があまりはつきり見えましたから。あの
暗闇の中でね。」
笹の葉の影が障子の
裾の方へ低くなりました。お月さまが高くなつたのです。
「さあ今夜はこれでお眠りよ。」
とおばあさんが云ひました。太郎さんは目をつぶりました。
やがて夜行列車が裏のお山にこだまして通りすぎました。汽車が通るやうになつてから、太郎さんの村では、狐に化された話など全く聞かなくなりました。お湯は今なほ
湧き出てをります。そして昔の板小屋は、今は立派な
煉瓦づくりに変りました。太郎さんの安らかな寝息を聞きながら、おばあさんはなほ
暫らく障子の月かげをながめてをりました。