その時、太郎さんは七つ、妹の千代子さんは五つでありました。太郎さんはお父さんに背負はれ、千代子さんはお母さんに背負はれてゐました。
春三月とはいへ、峠の道は、まだきつい寒さでした。夜あけ前の四時ごろ、空にはお星さまが、きら/\と氷のやうにかゞやいてゐます。山はどちらを見ても、墨を塗つたやうに真黒で、灯のかげ一つ見えません。お家を出てから、もう一里あまり山の中へ入つて来たのであります。お父さんのさげてゐる
千代子さんは、さつきから、
「さむいなあ/\。」と云つて、泣きじやくりしてゐましたが、その声がいつの間にか、
「いたいなあ/\。」に変りました。太郎さんも千代子さんも、あつい毛の
「お泣きでないよ。」
とお母さんが時々なだめるけれど、千代子さんはいつまでも同じやうに泣きつゞけてゐます。
太郎さんは、お父さんの背にぢつと首をもたれて、泣きたくなるのをこらへてゐました。お家を出る時に太郎さんは、背負はれるのはいやだ、歩いてゆくと云つて剛情をはりましたが、お父さんがどうしてもおゆるしになりませんでした。太郎さんは、今そのことを思ひ出して、やつぱり背負うていたゞいてよかつた、と思ひました。
太郎さんは、毛布の中からのぞくやうにして、片方の高い山を見てゐました。山のすがたは、たゞ真黒で、木やら岩やら見わけもつきませんでしたが、そのいたゞきのところが少しばかり明るく見えます。その明るみがだん/\増してきて、ポツンと金色の点があらはれました。点がだん/\伸びて角の形になりました。
「お月さまだ」と太郎さんは云ひました。
「まあ、今ごろお月さまが出ましたわ。何といふ
「二十三夜さまかも知れないな。もうじきに夜あけだ。」
とこれはお父さんの声。
そして、お父さんとお母さんは、何やかやことばを交はしました。千代子さんは、いつか泣きやんで、やつぱりお月さまを見てゐるのでした。
「のんの様/\。」
と千代子さんは、云ひました。
しばらくの間、みんな黙つてゐました。そのうちにお父さんが、「あゝ千代子は眠つたね。太郎も一眠りしてはどうかな。」と云ひました。太郎さんは、目をつぶりました。すると、どこか遠くの方で、
カラ/\/\、ガラ/\/\。
と氷の割れるやうな音がきこえます。
「あれは何?」
と太郎さんは、目をつぶつたまゝ云ひました。
「川の音だよ。」とお父さんが云ひました。カラ/\/\と、その音が近よつてくるやうに思はれましたが、やがて急に聞えなくなつてしまひました。太郎さんは眠つたのであります。
目をさまして見ると、夜はすつかり明けはなれてゐました。空のお星さまは一つ残らず消えてしまひ、お月さまがたゞ白く形だけのこしてゐました。夜は見えなかつたのに、山のあちこちに、雪がまだらに模様を形づくつてゐて、枯れた木立や、赤さびた杉の木が目につきました。あたりは、しんとして、何のもの音もありません。
太郎さんは、さつき眠る前に聞いた川の音を思ひ出して、
「川はどうしたの!」
と聞きますと、
「あれはもうずつと山のかげになつてしまつたのだよ。」
といふお父さんの返事でした。
「峯はまだ遠いの?」
「もうぢきだよ。あの山のかげ。」
とお父さんが指さす方を見ますと山の鼻がけはしく出張つて、道はそのかげにかくれてゐます。
お父さんの息が、真白く煙草のけむりかなどのやうに見えます。太郎さんは、毛布の中から顔を出しました。すると、太郎さんの息も、真白く鼻のさきにひろがつて見えます。外套や襟巻のまはりには、息が凍りついて、雪でも降つたやうでした。お母さんはお父さんと並んで歩いて居ましたが、その襟もとはやはり真白くなつてゐました。千代子さんは、毛布の中にすつかり顔をかくして眠つてゐます。
「あれもうあんなにお日さまがさしてきました。」
とお母さんが云ひました。見あげると、山の上の雪が、きら/\とかゞやいてゐます。お日さまの光は、見てゐるうちに、あちらの山こちらの山とひろがつて行きます。たうとう道の上までさして来ました。
山の鼻をまはると、道ばたに小さな家が一軒ありました。古びた縁がはに、お日さまの光が一ぱいにさして、雨戸はかたく閉められてあります。それが峠茶屋でした。冬のうちは里におりてしまつて誰も居ないのであります。
「さあ、こゝで一休みだ。」
とお父さんは、外套をぬいで、太郎さんを縁の上におろしました。
「あたいも下りる。」
とお母さんの背なかで、千代子さんの声がしました。
「おや、千代子はもうお目ざめだつたの。」
とお母さんは笑ひながら、千代子さんを縁の上におろしました。
太郎さんと千代子さんは、縁の上にならんで立ちました。今まで登つてきた道が、目の下の谷底に見えかくれして長くつゞいてゐます。
「お家はどつちだね。」
とお母さんが云ひましたが、千代子さんは、首をかしげて分らぬといふ顔つきをしてゐました。太郎さんが、
「あつち。」
と遠い山のかげを指さしました。
「こゝからは道が平だから、太郎はお歩きよ。」
と、お父さんが包みの中から、小さな
「あたいも歩く。」
と千代子さんが云ひました。
「おまへは歩けまいが、まあ履いてごらん。」
とお父さんは、もう一足の草履を出しました。千代子さんは、それをお母さんに履かせていたゞきました。夜あけ前のあのきつい寒さは、すつかり忘れたやうになりました。お父さんもお母さんもニコ/\して楽しさうでありました。
「ずゐぶん寒かつたな。」
「えゝ。千代子が泣いた時には、わたしも泣きたいやうでした。」
こんなことを云ひながら、縁に腰かけて着物の
茶屋の前は、日あたりがよいので、土が乾いて暖かさうに見えます。太郎さんは、元気よく
「何をしてゐるのだらうね。」
とお母さんは、縁をはなれて、千代子さんのそばへ行きましたが、
「まあ、
と、驚き声に云ひました。
「ドレ/\。」
と、お父さんも立つて行きました。太郎さんも、道のむかうがはから駈けて来ました。
枯芝の中にたつた一つの菫が咲いてゐるのです。あたりの山々には、まだ雪が深く残つてゐますし、日かげには霜柱が一ぱいに立つてゐますのに、もう菫の花が咲きました。
「やつぱり春ですね。」
とお母さんが云ひました。そして、親子四人のものは、長い間その一つの菫をながめてゐました············。
太郎さんは、成人してからも、その菫のことをはつきり覚えてゐました。妹の千代子さんに話すと、
「わたしはどうしても思ひ出せなくてざんねんです。」
と云つて、その時の話をして下さいと太郎さんにたのむのでした。そして二人は、今は世にない父上母上を偲びながら、峠越しの話をするのでありました。