はげしい雨風の夜であります。山小屋の
爺は、早く雨戸を立てゝ
藁布団の中へもぐりこみました。
枕もとには、うす暗い置ランプがともつてゐます。時をり戸のすき間から風が吹きこんで来て、ランプの
灯はゆら/\と動きます。爺は寝床の中から細い象のやうな目つきで、危なく消えようとするあかりを
眺めてゐました。
「もう消えてもいゝよ。」
と爺はつぶやきました。けれど、あかりは消えさうに見えてなか/\消えません。
ザワ/\ザワ/\と、山の木立は波が立ちさわぐやうな音をつゞけてゐます。風が強くなつて来ると、その音がゴオーと
一色に集つて、滝でも落ちて来るやうに聞えます。このはげしい雨風の夜に、人里はなれた山の中に、たゞ一人きりでゐる爺の姿は、丁度風にゆらめくランプの
灯のやうにたよりなく見えました。しかし爺の心は、外の物音とは打つて変つて静かにおちついてゐました。もう四十年あまり住みなれたこの山小屋は、爺にとつては、世界のどんな立派な御殿にも勝つて貴い新しいものでありました。
けれども爺は、今夜はなか/\眠れませんでした。目をとぢて雨風の音に聞き入つてゐますと、ゴオーと吹きよせる音は、火吹だるまが怒り出したやうにも聞えますし、また
韋駄天が走つて来るやうにも思はれます。と
忽ち、爺の目には韋駄天の姿があり/\と見えて来るのでした。韋駄天は
毬栗頭で赤金色の顔で、目は恐ろしく
吊りあがつて、手にはピカ/\光る剣を持つてゐました。しかしこれは人を
殺めるものではなく、仏さまの
守護神であることを爺は知つてゐますので、ちつとも
恐いとは思ひませんでした。韋駄天は天のはてからどし/\
駈けてきて、爺の目のまへにぴつたり立ちふさがりました。爺はとぢてゐた目を
一寸ばかり開いて見ました。と、韋駄天の姿は消えてしまつて、
枕もとの置ランプが相変らずゆらゆらとしてゐるのでした。爺の
頬にはやさしい笑みが浮びました。そしてまた両の目をしづかにつぶりました。
ゴオーと雨風の音がはげしくなつて、再び韋駄天の姿が見えて来ました。韋駄天はどし/\
駈けてきて、爺のまへに立ちはだかりました。爺は今度は目をあきませんでした。かまはず韋駄天と向きあつてゐますと、韋駄天とばかり思つてゐましたのが、いつの間にかうつくしい女の姿に変つてゐました。ハテな、とよく見ますと、それは女ではなくて
観音さまでした。爺は目をあきました。観音さまの姿は消えました。そして
枕もとの置ランプが相変らずゆら/\としてゐました。
「もう消えてもいいよ。」
と爺はつぶやきました。しかし、あかりは消えさうに見えてなか/\消えませんでした。
爺はまた目をとぢました。しばらくたつと、ゴオーと雨風の音がはげしくなりましたので、また韋駄天が見えて来るかな、それとも観音さまかな、と思つてゐますと、こんどは、びんづらを結うた可愛らしい男の子があらはれました。男の子は遠くの空からむらさきの雲に乗つてきました。爺のまへへ来ると雲からとびおりて、身がるくそこらを
駈けまはる様子が世間の子どもとは全く変つてゐますので、よく見ますと、男の子の背にはうつくしい羽が生えてゐました。それは
天童でした。爺は安心しました。そしてもう目をあかうとはしませんでした。天童が舞ひあるくたびに、あたゝかいやはらかい羽風が、爺の顔や
髯にさはるのを感じました。
爺がこの山小屋へ住みこんだ時は、まだ二十あまりの若者でした。それが今はもう六十の坂をこえた
白髪のお爺さんになりました。その長い間、爺は
薪を
伐つたり炭焼をしたりして、たゞ山を相手に暮してしまひました。妻も子もなく全くの一人ぼつちでした。人里遠く離れてゐますので、親しく行き来する人もありませんでした。
この爺にとつて、今までにたつた一人仲のよいお友だちがありました。それは
草苅の少年でした。少年は毎日山小屋の近くへ
草苅に来ました。そしてお昼のべんたうは、山小屋の炉で爺と一緒に食べました。爺はじぶんの子か孫のやうにして、この少年を可愛がりました。ところが、不幸なことに、少年は
流行病のために急に亡くなつてしまひました。それは今から五年ほど前のことです。爺は
忽ち年をとつて、腰はまがり
髯は白くなりました。もう
誰もお友だちはありませんでした。爺は観音さまを信仰して、亡くなつた少年
||たつた一人のお友だちが、立派な天童になるやうにと朝に夕にお祈りをしました。そして、やがて自分も死んだ時、天童と一しよに観音さまの
傍へ行きたいと思ひました。
爺は今夜はあり/\と観音さまを拝み、天童の姿をも見ましたので、すつかり安心しました。目がさめた時は、朝日の光が戸の
隙からさしこんで、あらしは
凪ぎてゐました。谷川の音がしづかに耳にきこえました。爺はゆうべ消し忘れた
枕もとの置ランプを見ますと、いつの間にか
灯は消えてゐました。爺は手をのばして、ランプ
壺を揺つて見ました。ランプは油が燃え尽きてしまつたので、あらしのために吹き消されたのではありませんでした。