愚助は忘れん坊でありました。何を教へましても、
直ぐ忘れてしまふので、お父様は愚助を
馬鹿だと思ひ込んで、お寺の
和尚さまに相談にまゐりました。すると和尚さまは、
「
其の子は御飯を食べますか。」と、ききました。お父様は、
「はいはい、御飯は二人前ぐらゐ平気で食べます。」と、答へました。和尚様は、又、
「其の子は
打てば泣きますか。」と、問ひました。お父様は笑ひながら、
「それは和尚様、なんぼ馬鹿だつて、
打てば泣きますさ。鐘だつてたたけば鳴るぢやありませんか。」と、申しました。そこで和尚様は、
「
宜しい、御飯を食べるのは生きてゐる証拠、
打てば泣くのは、神経のある証拠。
或は大和尚になるかも知れない。ここへ
伴れていらつしやい。
私の弟子にしてあげる。」と、申しました。
お父様は大変喜んで、早速お
家へとんで帰つて、
「愚助、御飯をお食べ。」と、申しました。其の時はまだ午後の一時頃でしたが、愚助は少うしお
腹がすいてゐましたので、早速大きなお
茶碗に山盛り三杯食べました。それを見て、お父様は、
「うん、大丈夫だ。」と、いひましたが、今度は少し怒つたやうな声で、
「愚助、ここへお
出で。」と、申しました。
愚助は不思議に思ひながら、お父さまの
傍へ近よりますと、お父様は、いきなり愚助の
頬つぺたを、ぴしやりと
殴りつけました。
木の皮みたいな、がさがさした手の平で、ひどく殴られたので、愚助はひいひいと泣きました。愚助が泣くのを見て、お父様は、
「うん、大丈夫だ。和尚様のお弟子になれるぞ。」と、申しました。
それからお父様は、
着換だの足袋だの、学校道具だのを
風呂敷に包んで、愚助に
脊負はせて、お寺へつれて行きました。それを見た和尚様は、にこにこ笑ひながら、
「あ、愚助か。よく来た、よく来た。」と、言つて、直ぐお弟子にして下さいました。
愚助はお寺から学校へ通ひました。和尚様は、愚助が帰つて来ると直ぐ今日習つた所を
復習してみました。ところが、一つだつて覚えてゐません。
「どうしたんだい。なんと見事に忘れてしまつたものだなあ。」と、言つて、和尚様は腹をかかへて笑ひました。
愚助は和尚様に
打たれるとばかり思つてゐましたのに、打たれなかつたばかりか、さも
可笑しさうに笑はれたので、自分も何だか可笑しくなりました。
其の晩でした。愚助は
蒲団の中で
眼を閉ぢてゐますと、どこかで、「気をつけ。右向け右、前へおい。」と、いふ号令の声が聞えました。
「おや、あれは先生の声だな。」と、思つて、ぢつと、其のまま眼を閉ぢてゐますと、学校の庭が眼の前にありありと見えて来ました。
庭には生徒が並んでゐます。生徒の中には自分の愚助も並んでゐます。
「おやおや、あそこにゐるのはおれだぞ。」と、言つて愚助はぢつと見てゐますと、受持の先生は生徒をつれて教場へ入りました。
それから先生は算術を教へました。
「あ、あそこでおれが算術を習つてゐる。あ、手をあげた。答は百二十五。おれはなかなかえらいぞ
······今度は読方だ。あ、おれが立つた。うん、すらすらと
行詰らずに読んだ。おれはなかなかえらいぞ
······今度は
綴方だ。あ、出来た。先生が感心してゐる。今度は習字だ。うまいうまい、おれが一番上手だ
······今度は体操だ。あのおれが一番
活溌だ。おれはなにしても一番だぞ
······」
いつの間にか、あたりは、ひつそりして、先生も生徒も愚助のおれも見えませんでした。
愚助はすやすやと眠つてしまひました。そして
翌る朝眼を覚しますと、和尚様は、
「愚助、早く起きて顔を洗つていらつしやい。御飯前に昨日習つたところを、
復習してあげます。」と、言ひました。
愚助は顔を洗つて来て、算術の本と読本とをもつて、和尚様の前に出ました。所が不思議にも、昨日出来なかつた算術が、
今朝はみんな、ずんずんと出来ます。読本をあけますと、昨日一字も読めなかつた所が、
今朝はすらすらと読めます。和尚様も驚きましたが、愚助は
尚更驚きました。
それから御飯を
戴いて、学校へ参りました。帰つて来ますと、和尚様は
復習をして下さいました。愚助は今日習つた事を、一つだつて覚えてゐません。和尚様はまた腹を抱へて笑ひました。愚助も可笑しくなつて笑ひました。
けれども、晩になつて、お蒲団の中に入つてゐますと、先生の声が聞えます。生徒が見えて来ます。そして生徒の中の愚助は、せつせと勉強してゐます。
翌る朝、和尚様が
復習をしますと、愚助はすらすらと、みんな答へができます。
和尚様は考へてゐましたが、
「愚助、おまへの頭は一日
後れの頭だよ。昨日習つた事を今日覚えるんだ。他の子供は昨日習つた事を昨日覚えて、今日は忘れてゐるんだ。所が、おまへは昨日習つた事を今日覚えて、いつまでも忘れないんだ。おまへは決して馬鹿でも何でもない。成長したなち、きつと、えらい人間になるぞ。」と、言ひました。けれども愚助は、
「おれの頭は写真頭らしい。昼間習つた事を、其の晩現像して、翌る朝焼きつけるのではないか知ら。」といふやうな事を考へてゐました。
それから、毎晩毎晩愚助は、お蒲団の中に入るのが楽みになりました。
お寺は軒が傾いて、柱が
朽ちてゐます。和尚様は村の
人達に、お寺を改築するやうにと、何度も何度も、お話いたしましたが、村の人達は、お金のいる事は御免だと言つて、和尚様の言ふ事を聞入れませんでした。そこで、和尚様はお寺の書院の床の間に
懸つてゐる、大きな掛軸を外して、それを京都へ売りに行きました。和尚様は其の掛軸を売つたお金で、お寺を改築しようと思つたらしい。
ところが、和尚様は京都へ行つたまま、待つても待つても帰つて来ません。村の人達は心配して、京都まで和尚様を尋ねに行きましたが、京都は広い広い町ですから、和尚様はどこに居らつしやるか、さつぱりわかりません。
村の
人達は、もう和尚様は、京都の町で電車か自動車かに
轢かれて、死んでしまつたものだと思ひました。
「死んだ和尚様は帰つて来ないだらうが、せめて、あの大きな掛軸だけは取返したいものだ。」
村の人達は、時時そんな事を申しました。けれども其の掛軸は、どこの
誰がもつてゐるか知れないのです。
さうしてゐる所へ、一人の
画家さんが参りました。この画家さんは妙な画家で、何一つ自分で考へ出しては
描けないのです。その代り、
猫を描けとか
虎を描けとか、こちらから命令すれば、実に立派なものを描きます。
村の人達は相談しました。
「あの画家さんに頼んで、和尚様が、どこかへ持つて行つた掛軸を、描いて
貰はうではないか。」
「それはいい。では描いてもらひませう。」
そこで、画家さんに相談しますと、画家さんは、
「承知いたしました。どんな画でしたか、仰しやつて下さい。其の通りに描きます。」と、申しました。
さて、さう言はれてみますと、
此の村中に、其の掛軸の絵を、はつきり覚えてゐる人は一人だつてありません。
「妙な人間が、円いものの向ふに立つてゐたつけ。」
「何人居たつけね。」
「六七人だつたらう。」
「いや、五人だらう。」
誰一人、はつきり覚えてゐません。そこで村の人達は愚助の所へ来て、
「愚助さん、あなたは、あの書院に掛つてゐた大きな掛軸の絵を覚えてゐますか。覚えてゐますなら、画家さんに話してあげて下さい。」と、頼みました。
愚助は眼を閉ぢて考へました。何とか、かんとか、和尚様が詳しく教へてくれた事だけは知つてゐますが、みんな忘れてしまつてゐるのです。けれども愚助は、
「
宜しい、其の画家さんを、ここへよこして下さい。きつと考へ出して、元の通りの絵を描いて貰ひます。」と、申しました。
「愚助さん、大丈夫ですか。」と、村の人達は念を押してききました。すると愚助は、
「大丈夫です。
僕の頭は、一日後れの写真頭ですから。」と、申しました。
画家さんが参りました。そして問ひました。
「愚助さん、どんな絵を描くのですか。」
「
明日の朝まで待つて下さい。今晩見て置きますから。」
愚助は答へました。そして其の晩蒲団の中で、眼を閉ぢて考へ出してみた通り、翌朝画家さんに話しました。
「掛物の真中に、大きな
壺があるんですよ。壺の正面には、こんな風に白い雲の飛んでゐる絵があるんです。」
愚助は
指尖で、雲の
恰好を教へて置いて学校へ行きました。そして一日何にも覚えないで帰つて来ますと、画家さんは大きな紙に、立派な壺の絵を描いてありました。飛んでゐる雲も、愚助の言つた通りの雲です。
「愚助さん、この壺の
側に何があるのですか。」と、画家さんはききました。
「待つて下さい、今晩見て置きます。」と、愚助は申しました。画家さんは、愚助が画手本でも内証で見るのか知らと思ひました。
翌る朝になると、愚助は、
「画家さん、壺の右の端にね、
孔子様が立つてゐるんですよ。
支那の
山東省の
鄒邑といふ所で産れた孔子様、この人は偉い人だよ。
或時にね、カンタイといふ人が、孔子様を憎んで、
斧で
斬殺さうとしたのさ。所が孔子様は、(天、徳を
吾に
為せり、カンタイ
夫れ
吾を
奈何。)と
仰しやつて、泰然自若として
坐つていらしたんだ。するとカンタイは孔子様を殺しどころか色を変へて逃げたのださうな。それからずつと後に、ワウモウといふ人があつたのだよ。或時に
黄巾の賊といふ馬賊が攻めて来た。するとワウモウは孔子様の真似をして、(天、徳を吾に為せり、黄巾の賊夫れ吾を奈何。)と言つたが、其の言葉の終らないうちに、ワウモウの首は、すぽりと前に落ちてゐたさうだ。」と、立て続けに申しました。
「では壺の向ふに、孔子様とカンタイと、ワウモウと黄巾の賊を描くのですか。」と、画家さんはききました。
「いいえ、孔子様だけ。孔子様が右の手をこんな風に握つて、小指をこんなに
撥ねてゐます。」と、言つて、学校へ行きました。そして何にも覚えずに帰つて来てみますと、本当に賢さうな孔子様の絵が出来てゐました。
翌る朝、画家さんは尋ねました。
「孔子様の
傍に何を描くのですか。」
すると愚助は答へました。
「孔子様の隣りに、
老子様を描くのです。老子さまは、おつ
母さんのお
腹に、七十年居たのださうな。だから産れた時、もう髪が
真白で、歯が抜けてゐたのだつて。」
「
誰だつて産れた時は、歯が無いんですよ。」
画家さんは笑ひました。
「何でもいいから、其の老子様を描くのです。老子様は孔子様も感心したほど、偉い人ですよ。」
愚助は学校へ行きました。そして教はつた事をみんな忘れて帰つて来ますと、立派な老子様の絵が出来てゐました。やつぱり右の手を握つて、小指だけ撥ねてゐました。
翌る朝、愚助は申しました。
「今日はね、老子様の傍へ、
悉達太子を描くんですよ。悉達太子といふのは、
中天竺マカダ国、
浄飯王のお子様で、カビラ城にゐなすつたのだが、
或時城の外を通る老人を見て、人間はなぜあんなに、年をとつて、病気になつて、そして死ぬのかといふ事を考へたのです。(生れて老人になつて病気になつて死ぬ)どうしても其のわけが
解らない、人間が
老人にもならず、病人にもならず、死なない方法はないかと考へたが、わからないので、たうとう太子様はお城をぬけ出して、
雪山といふ所へ行つて、アララ、カララといふ仙人について、何年も何年も修行した末、やつと、わけが解つたのです。」
「どんなに解つたのですか。」
画家さんは眼を円くしてききました。自分も年をとらないで、病気をしないで、千年も万年も生きてゐようと思つたのでせう。
「生れなかつたら
······生れなかつたらいいんですよ。」
「生れなかつたら。」
「生れなかつたら、年もとらず、病気にもかからない。死にもしない。」
「何だい、そんな事
······」
「だつて、それだけの事が、人間にはなかなか、わからないんだよ。それが本当に解つたので、悉達太子様は、今にお
釈迦様と
云つて尊敬されるのです。」
「ええ、それがお釈迦様ですか。」
「うん、さうだよ。其のお釈迦様が、かうして小指をはねてゐらつしやるんだよ。」
愚助はそれだけ言ひ置いて学校へ行きました。今日は先生から
呶鳴られた上、
鞭で頭をひつぱたかれて、細長い
瘤をこしらへて帰つて来ました。
絵は立派に出来てゐました。
翌る朝、
愚助が学校へ行く前に、また
画家さんに話しました。
「今日はね、お釈迦様の隣りに、イエス・キリスト様を
描くんです。此の人もお釈迦様と同じやうに、ダビデ大王といふ偉い王様の子孫でしたが、ユダヤ国の王様にならないで、貧乏人や病人のお友達になつて、親切を尽したので、何にも悪い事をしないのに、悪い人に
嫉まれて殺されたのです。其のイエス・キリスト様が右の手を高くあげて、壺の中を
覗いてゐる絵をお描きなさい。終り。」
画家はびつくりしました。
「それで終りですか。」
「さうです。それで此の掛軸は元の通りに出来るのです。」
画家は、これでおしまひだといふので、一所懸命にキリスト様の絵を描きました。
五日間で、立派な絵が出来上りました。そこで村の人達は町から表具屋を傭つてきて、それを掛物にしました。
二十日目に出来上つた、掛軸は、高さ三メエトル、幅二メエトルでした。書院の床の間に掛けますと、実に立派なものでした。
村の人達は、此の掛軸の説明を愚助に願ひますと、愚助は、
「宜しい、明日の朝までに見て置くから、明日の朝、お寺の鐘が鳴つたら、村の人達は、男も女も子供も、一人残らず集つていらつしやい。」と、申しました。
村の人達は、愚助が、此の掛軸の説明をした書物を見るのだと思ひました。しかし愚助は、蒲団の中で眼を閉ぢて、和尚に教へられた説明を考へて見たのでした。
鐘が鳴りました。村中の人は、一人のこらず集つて来て、本堂の縁側まで、ぎつしり一杯に坐りました。
愚助は石油箱を持つて来て、其の上に登りました。そして
先づ孔子と老子と釈迦とキリストの履歴を詳しく話しました。
それは和尚に教はつた通り、一言も間違はないで話したのです。
村の人達はみんな驚きました。
それから愚助は、一段と声を張り上げて、
「皆さん、この絵は、四
聖吸醋之図と申しまして、四人の聖人が、お
醋を
嘗めてゐるのです。」と、言つた時、多勢は一度にどつと笑ひました。
「お待ちなさい。笑ひ話ではありません。右の端の孔子様は、此の壺の中のお醋を嘗めてみて、これは酸つぱいと申しました。すると其の隣りの老子様は、酸つぱいものを酸つぱいといふのは夫れは常識である。しかし
能く
味つて見ると、此のお醋は少しく
淡い。水つぽい味がすると申しました。それを聞いたお釈迦様は、醋を酸つぱいといふのは道理だ。酸つぱいが少し淡いと云ふのも最もだ。しかし、よくよく味つてごらん、此のお醋には甘い所があると申しました。そこで最後にキリスト様は、醋は酸つぱいものだ。それに此の醋は淡い。水つぽい。のみならず少し甘い。これは腐敗しかけてゐるのだ。これは
打ちまけて、新しく
醸り直すがよい。と、申しました。諸君、
抑も此の四聖の言葉は
······」
愚助は二時間あまり詳しく説明しました。さあ、それを聴いた村の人達は、大変感心しまして、
俄かに愚助を「愚助大和尚」と
崇め奉つて、こんな大和尚様を、こんな古寺に置くのは恐れ多いと云つて、早速お寺の改築に取かかりました。
三年
経つて、お寺が立派に改築出来ました時、和尚様は、ひよつこり帰つて来ました。
和尚様は持つて出た大きな掛物を、やつぱり肩げてゐました。
それは何処へ持つて行つても、大き過ぎると言つて買つてくれる人がなかつたからです。
和尚様は、お寺が立派になつたわけと、愚助が大和尚様と
崇められてゐるわけとを聞いて、腹を抱へて笑ひました。
愚助は和尚様が帰つて来たので、又た元の小僧さんになつて、小学校へ通ひました。そして毎日忘れて、毎晩思ひ出して、はつきり覚えるのでした。
村の人達は、また愚助が、馬鹿だか賢いのだか、解らなくなりました。