一
ロシアのウラディミイルといふ町に、イワン・アシオノフといふ商人がゐました。
そのイワンが
「今日立つのはおよしになつたらどうでせう。
「ふゝん、もうけた金を使つてでも来るかと気になるのかな。」とイワンは笑ひました。
「そんなことならいゝんですけれど、
「はゝゝそれはけつこうな前兆だよ。まあ/\見てお
イワンはかう言ひ/\馬車を走らせて出ていきました。そしてニズニイまでの道のりの半分まで来ますと、リアザンの町から来た、或
イワンはいつも夜は早く寝るのが習慣でした。それであくる朝も、涼しい間に歩かうと思つて、まだ夜のあけないうちに馬車つかひをおこして、馬を引き出させました。宿屋の
そこから二十五マイルばかり来ますと、イワンは道ばたの宿屋へ馬車をとめて、馬にかひばをつけさせました。イワンはお茶の用意をたのんで、それが出来るまで戸口にすわつて、ギターをとり出してならしてゐました。すると、そこへ、三頭だての馬車が、リン/\と鈴を鳴らしながらとぶやうにかけて来て、ぴたりとイワンの目の前にとまりました。すると中から一人の巡査が兵たいを二人つれて下りて来て、いきなりイワンに向つて、おまいの名前は何といふか、どこから来たかと聞きます。イワンは、これ/\かう/\ですと答へて、
「今お茶が来ます。一しよにお飲み下さい。」と言ひますと、巡査は、そんなことには耳をもかさないで、おまいはゆうべどこへ泊つた、一人で泊つたか、それとも、だれかつれのものと一しよだつたか、今朝そのつれのものゝ顔を見たか、一たいどうして夜のあけないうちに立つて来たのだと、うるさく聞きしらべます。イワンは、何だつてそんなことを一々聞きほじるのだらうと、ふしんに思ひながら、すべてをありのまゝに話しました。
「何だか
「ちよつとおまいの荷物を検査する。おい君たち、こつちへ来て下さい。」と、巡査は二人の兵たいをよんで、イワンの荷物をときはじめました。巡査は、イワンの持ものを一々さがしてゐるうちにふと、手さげ袋の中からナイフをとり出して、
「おい、このナイフはだれのものだ。」と、イワンに向つてどなりました。イワンは首をかしげながらそれを見ますと、刃にべつとり血がついてゐます。
「どうしてこのナイフに血がついてゐるのだ。」と巡査はたゝみかけてどなりました。イワンはびつくりしたあまり、返答をしようと思つても急には言葉が出ず、
「し、しりません。」と、どもりながら答へました。
「今朝見ると、おまいのつれの商人はのどを切られて死んでゐた。おまいがその犯人だらう。あの建物は中から錠がかゝつてゐた。そして、おまいと二人きりしかゐなかつたのぢやないか。そのあげくにおまいの袋の中から血のついたこのナイフが出た。おまいのその顔、そのきよ動だけ見ても事実はたしかだ。言へ。どういふふうにして殺したのか、いくら金を盗みとつたか、きつぱりと言へ。」
イワンは、それは
巡査は兵たいに言ひつけて、イワンへ綱をかけさせました。イワンは両足をしばりつけられて、巡査の馬車の中になげこまれると、手で十字を切つて、泣き出しました。
イワンは所持金と馬車につんでゐた商品をことごとく没収された上、そこから一ばん近くの町へはこばれて、
警察官はウラディミイルの町へ出かけて、イワンの人柄や、ふだんのおこなひなぞをとりしらべました。町の人たちは、イワンは、ずつと前にはよく酒も飲み、なまけもしてゐたが、近来はあまり酒も飲まない、根が正直ないゝ人間だと弁護しました。しかし裁判の結果、イワンは、あの、リアザンの商人を殺して二万ルーブルの金をとつた、実さいの犯人ときめられてしまひました。
二
イワンのおかみさんは、その宣告を聞いてびつくりしました。子ども二人はみんなまだ小さく、下の子なぞはお乳をはなれないくらゐです。おかみさんは、その二人の子どもをつれて、イワンが入れられてゐる
いつて見ると、イワンは囚人の服をきせられ、くさりでしばられて、盗人たちや、いろんな罪人たちと一しよに投げこまれてゐます。おかみさんは、イワンのそのありさまを見ると、その場へたふれて、目をまはしてしまひました。おかみさんは、人々にかいほうされて、やうやく正気にかへりました。そして、泣き/\子どもを引きよせて、一しよにイワンのそばへすわりました。そして
「おや、まあ、さういふわけなのですか。······一たいどうしたらあなたのあかりが立つのでせう。」とおかみさんは涙をふき/\言ひました。
「かうなれば、最後に皇帝へ書面を出して、罪のないものに罰を加へて下さらないやうにおねがひするまでだ。」とイワンが答へました。
「
「だから一ばんはじめ
「あゝ、おまへまでも
さうしてるところへ一人の兵たいが来て、おかみさんや子どもたちに立てと命じました。イワンは家族たちに、最後の「さやうなら」を言ひました。
イワンは一人になると、今のさつき、おかみさんの言つたことを一々考へかへして見ました。
「あの女までが
イワンはかう決心して、この上皇帝へ嘆願書を出すのも思ひとまり、すべての望みもなげうつてしまひました。そしてたゞ神さまへお祈りを上げました。
イワンは
イワンはそこで二十六年の間服役しました。今はイワンの髪の毛も、すつかりまつ白になり、ひげも長くのびて、まばらに、そして灰色になつてしまひました。腰もこゞんで、歩くのも、のそり/\としか歩けなくなりました。心もすつかりしをれつくして口をきくこともまれですし、笑ふことなぞは一どだつてありません。たゞ、とき/″\だまつてお祈りを上げてゐるだけです。
イワンは、こゝへ来てから、
監獄の役人たちは、温順なイワンをあはれがつてゐました。一しよにはいつてゐる囚人の全部はイワンを尊敬して、みんなで「おぢいさま」とよび「聖徒」とよんでゐました。みんなは役人にたいして何か願ひ出たいことがあると、きまつてイワンから言つてもらひ、おたがひの間にあらそひがおきると、すぐにイワンのところへ来て、とりさばいてもらひました。
イワンの
三
ところが、
新来の一人に、六十になるといふ、白ひげをみじかくかつた、背のたかい、がんぢような年よりがゐました。そのぢいさんが、みんなに向つて、じぶんが収監されたいきさつを話し出しました。
「実にばかげきつた話だよ。」とぢいさんは言ひ出しました。
「おれは、そりについてゐた馬を一ぴきはづして来たんだ。すると、たちまちつかまつて、窃盗罪に問はれたわけだ。おれは言つたよ。何もぬすんだわけぢやない、早くうちへかへらうと思つて借りたんだ。そのしようこには、
「おまいはどこから来たんだい?」と
「おれかい? おれはウラディミイルのものだ。おれんとこのかゝあも、やはりあの町の生れだ。おれはマカールといふ名まへなんだが、世間ぢやセミョニッチとも言つてゐた。」と、ぢいさんは答へました。
イワンはウラディミイルと聞くと、うなだれてゐた頭を上げて、
「ではおまいさんは、あの町のイワンといふ商人のことをしつてゐますか。あの一家のものはまだ生きてゐますかしら。」と、それとなく、じぶんの家内や子どもの安否を聞きさぐらうとしました。
「あゝ、イワンの家か。しつてるとも。あの
しかしイワンは、じぶんのいたましい不幸をうちあけて話す元気もありませんでした。イワンは聞かれてもたゞため息をして、
「わしは悪いことをしたので、もう二十六年もこゝにかうしてゐるのだよ。」と答へました。
「悪いことつて何をしたんだい。」とマカールは、かさねて聞きました。
「いや、かういふ目に合ふのがほんとうだらうよ。」とイワンは言ひました。すると、仲間の一人がイワンに代つて話しました。だれか悪いやつがゐて、或商人を殺して、血のついたナイフをこの人の荷物の中へ入れこんだのだ、そのために、罪もないこの人が犯人にされてしまつたのだと言ひますと、マカールは、
「はゝァん。」と、びつくりしたやうにイワンの顔を見つめながら、ぽんとひざをたゝいて、
「へゝえ、さうかなァ。ふうん。めうなこともあるものだね。だがおまいもひどくおぢいさんになつたな。」と、マカールは一人でかう言ひました。
はたのものたちが、マカールにどうしてそんなにびつくりしたやうに言ふのかと聞きますと、マカールは何にも答へずに、
「や、ともかく、この人にあふつていふのがふしぎなのさ。」と言ひました。
イワンは、それではこのぢいさんは、あの商人を殺した犯人をしつてゐるのかもしれないなと思ひながら、
「ぢやァおまいさんはあの殺人事件のことをしつてるんだね。それとも、まへにどこかでわしを見かけたことでもあるのかい。」と聞きました。
「はッは、あの事件をしらないでどうするんだ。世間中のうはさに
「しかし、おまいさんは、あの事件のほんとうの犯人を知つてるんだらう?」とイワンはつッこみました。するとマカールは笑つて、
「それやおまい、ほんとうの犯人も何も、げんざい、血のついたナイフが荷物の中から出て来た以上は、その人間が殺したんだらうぢやないか。かりに、ほかのやつが、人の荷物の中へ入れこんだものとしても、その本人がつかまらなけやァだめぢやないか。だが考へて見てもわかることだ、人が頭の下においてゐる荷物の中へ、どうしてほかのやつがナイフなんぞをおしこめられるかい。そんなことをすれば、眠つてる当人はすぐに目をさますぢやないか。」
イワンはその言ひぐさを聞いて、ふゝん、あの商人を殺したのはこいつだなとかんづきました。
イワンはだまつて立ち上つて、あつちへいつてしまひました。
四
その晩イワンは何ともたとへやうもないほど悲しい、いやな気もちにおさへられて、眠らうとしても寝つかれません。これまでわすれようとしてゐた、いろ/\のことが、一晩中入りかはり目のまへに浮んで来ました。あのニズニイの市へ出かけるときに、門口へおくつて出た、そのときのおかみさんのすがたも目についてはなれません。おかみさんの目の色、笑ひ声、話し声までが、まざまざと目のまへに見えます。それから二人の子どもたちの顔もまざ/\と浮んで来ました。二人とも、あのときのまゝの小さな子で、一人はぐわいとうを着て立つてをり、一人は母親の胸の上にだかれてゐます。それからつゞいて、年もわかく、ゆかいにくらしてゐたじぶんのことも思ひかへされました。あのとき捕縛されるぢきまへに、あの村の宿屋の戸口に
イワンは、いら/\するほどかなしく苦しくて、いつそのこと、もう、ひと思ひに自殺してしまはうかとまで思ひつめました。
「あゝ、これもみんなあの悪いやつのおかげだ。」とイワンは心の中で言ひました。イワンはさう思ふと、もえ上るやうに腹立たしくなつて来ました。
「あいつを殺してやらうか。さかさに、こつちが殺されたつてかまはない、どうかして、ふくしうしてやらなければ虫がをさまらない。」
イワンは、かう思ひつゞけた後、とう/\夜があけるまで祈りつゞけにお祈りを上げました。しかしそれでも胸一ぱいのくやしみは取れませんでした。
昼の間は、イワンはわざとマカールのそばへは近づかず、マカールの方を見ることさへしませんでした。
こんなにして二週間といふものが過ぎました。イワンはその間、夜もちつとも眠れないし、のちには身のおき方もないくらゐにもだえなやみました。
「おい、おれは、この壁の下へ穴をほつてるんだよ。毎晩、
「わしはにげ出す気はないよ。また、おまいもおれを殺す必要はない。おまいはもう、とくのむかしにわしを殺してしまつたぢやないか。わしがその穴のことをしやべるか、しやべらないか、それは神さまのおさしづ一つだ。」
イワンはかう言つて、マカールの手をふりはなしてにげました。
そのあくる日、囚人たちが仕事につれ出されるときに、つき番の兵隊たちは、だれかゞ、部屋の中から長靴をつき出して、土をあけるところをひよいと見つけました。兵隊たちは、おや、と言ひ言ひはいつていつて、部屋中をすつかりしらべてまはりました。すると或
だれがやつたのかと、典獄は、みんなを一々せめしらべましたが、だれもかれも
典獄は困つたあげく、イワンに向つて聞きました。
「お
マカールはそのときも何くはぬ顔をしてゐましたが、イワンが何と答へるかとその顔をじいつと見てゐました。イワンはくちびると両手をふるはせてゐるきりで、しばらくの間一ことも言葉を出すことが出来ませんでした。イワンは心の中で思ひました。
「わしを生き殺しにしたあいつだ。あいつをかばつてやる必要はさらにない。あいつも
「おい、おぢいさん、どうだ。ほんとうのところを言へよ。あの穴をほつたのはだれだ。」
イワンはじろりとマカールの顔を見て答へました。
「それは
典獄はそんなばかな話があるものかと言つて、しつッこく問ひつめましたが、イワンは、どうしてもうちあけませんでした。それでとう/\犯人もわからずじまひになつてしまひました。
五
その晩イワンがやうやく眠りかけようとしますと、だれだか、こつそりしのんで来て、イワンの寝だいだなにそつと腰をかけました。やみの中をすかして見ますとマカールです。
「おい、何しに来た。この上わしに何を要求しようといふのだ。」とイワンは、むつとして言ひました。
「いけ。いかないと守衛をよぶぞ。」
かう言ひますと、マカールは、イワンのからだの上へこゞまるやうにして、
「おい、どうぞゆるしてくれよ。」と小さな声で言ひました。
「おまいに何を許すのだ。」
「おれはほんとうに悪ものだ。あの商人を殺して、ナイフをおまいの袋の中へ入れこんだのは、このおれだよ。あのとき、おれはおまいをも殺さうとしたのだ。ところが外で物音がし出したので、ナイフをおまいの袋の中へつッこんで窓からにげ出したんだよ。」
イワンは頭をぐわんとなぐられでもしたやうに、ぼうとなつて言葉も出ませんでした。するとマカールはたなからすべり下りて、床板の下に両ひざをつきながら、
「このとほりあやまる。どうぞ許してくれ。神さまのためだと思つて、おれの罪を許してくれ。おれは、あの商人を殺したことを名乗つて出るつもりだよ。さうすればおまいも許されて故郷へかへれる。そのかはりどうか、これまでおまいを苦しめたことだけは許してくれ。おいイワン、ほんとうに許しておくれ。」
「ふゝん、口だけであやまるのはぞうさもないことだ。だけれど、まあ考へて見ろ。わしはおまいのおかげで、今日まで二十六年の間苦しい目を見て来たんだよ。今になつてかへると言つてどこへかへるのだ。わしのにようぼはもう死んでしまつた。小さいときに分れた子ども二人は、もうわしの顔もおぼえてはゐない。わしはかへらうつたつて、かへるところはないよ。」
イワンは、やつと気をおちつけてかう言ひました。マカールは、そのまゝひざをついたきり、いつまでも立ち上らうともしません。しまひには、とう/\床板へ頭をすりつけて、
「まつたくすまないことをした。許してくれ。おれは
マカールはかう言ひ/\、とう/\しやくり上げて泣き出しました。イワンは、マカールの泣く声を聞くと、じぶんもひとりでに、しく/\と泣けて来ました。
「マカールよ、もう神さまも許して下さるよ。神さまのまへへ出れば、わしだつて、おまいより何十倍罪がひどいかもわからない。」
イワンはかう言ふと同時に、これまでながい間おもたかつた心が、急にはれ/″\して来たやうな気がしました。
その晩からイワンは、もう故郷へかへりたいといら/\する心もちもとれてしまひました。もう牢屋から出たいとも思ひません。たゞどうかして早く死にたいと思ふだけでした。
イワンは、マカールに、自首なぞをするにおよばないとかたくとめておいたのですが、マカールは聞かないで、とう/\自白してしまひました。しかし、ロシアの裁判所から、イワンを放免するといふ指令が来たときには、イワンはもう死んで、この世の中にはゐませんでした。